SHIMMAさま作  ドッグ・エンジェル


−1−

 湿気が充満していた。
 ぬるま湯のように熱を含んだ梅雨の雨が、廃工場の屋内の地面を伝わって生温い感触を伝
播してくる。天井近くに申し訳程度の明かりとりとして設置された窓から差し込む光も、どんより
とした天候によって気勢をそがれているので、室内は薄暗く霞がかかったように視界を奪う。
 雑然と積まれた木箱群がそんな薄暗い中にも陰険な影の部分を生じさせていた。その影の
中に、うずくまるように顔を伏せた美しい人影があった。
 長いストレートヘアーが顔に被さるようにして垂れている。わずかにブラウンがかったその髪
色は、後から染めたものではなさそうだった。適度な胸の膨らみと、触れただけで音をたてそう
に締まったウェストから女だということがわかる。その女は腰を地面につけ、長くスマートな足を
前で重ねて斜めに折り曲げる格好で投げ出していた。純白のスーツのスカートがその太股で
僅かな乱れを生じさせている。両手は彼女の頭上にあった。真っ直ぐに頭上に持ち上げた両
手首が交差し、そこに冷たい鎖が巻き付いている。鎖は彼女の両手首から天井のクレーンに
まで伸びていた。
 女は気を失っているのか、身動きひとつしない。だがその顔に覆い被さった長い髪から洩れ
聞こえる呼吸は、決して乱れていなかった。
 両手を吊られて座り込んでいるその女の前に、もうひとつの影が立った。その影もまた女の
ものであった。
 柔らかなウェーブがゴージャスに膨らませているその髪は、前に座り込む女のものとは違
い、金色に染め上げられている。世の男どもが涎を垂らしそうなほど豊満な胸を細くくびれたウ
ェストが支えている。その胸の谷間を際立たせるような露出度の高いボディコンのコスチュー
ムは、金色のエナメルのような輝きを放っていた。ミニスカートから伸びる足はスラリと長い。足
だけではなく、身長自体が180cmは優にあろうか。踵の高いブーツが、女を更に威圧的な長身
に見せている。
 薄闇の中で女は、眼前でうずくまる自らの獲物を見下ろし、満足そうにニヤリと笑った。その
瞬間、もし見ている者がいるとするなら、背筋に氷柱が立つほどの凄まじい邪悪の輝きが、女
の顔に走った。これほど美しい邪悪を見ることは難しい。そう思わせる闇の美貌。
「気がついているのだろう?顔をお上げよ」邪悪な笑みを宿した女は、言葉を口から滲ませる
ように発した。
 その言葉に促されるように、眼前に座り込む女の顔が、ゆっくりと持ち上がった。顔に被さっ
て垂れていたストレートヘアーが掻き分けられるようにして、その女の顔が現れる。
 神々しいまでの美しさであった。
 邪悪な美貌を放つ目の前の女もまた美しい。しかし、両手を吊られて座り込んでいるストレー
トヘアーのこの女の美貌は、それとはあきらかに質が違っていた。捕獲者としての女の美しさ
を闇のものとするなら、捕獲された獲物としての女は鮮やかな光を放ち続けている。
「バカな女だね。あたしがおまえの尾行に気づいてないとでも思ったの?」闇の美貌を放つ女
は蔑むような目を邪悪の色に染めて、そう言った。それから自分の捕虜となった女の名前を呼
ぶ。「光霊(みたま)さぎり・・・・」と。
 さぎり、と呼ばれた女が鋭い視線を眼前に立つ邪悪な女に注いだ。そして彼女もまた目の前
の邪悪な影の名を告げた。
「邪木(じゃき)幽禍里(ゆかり)・・・・」その神々しさを秘める美しい顔に、わずかばかりの悔しさが
滲んでいるように見えた。
「ふん」と幽禍里は唇を歪ませた。勝ち誇った表情の中に憎しみが混じる。「もう少しで三種の
妖器のうちのひとつ、死界の魔臥玉(まがたま)が手に入るのさ。おまえごときに邪魔はさせな
い」
「あなたの邪悪な野望のために、幾人の人の心を地獄に陥れれば気が済むというの?」さぎり
は強い視線で幽禍里を睨みつけた。
「百人さ・・・・」幽禍里はあっさりと答えた。「百人を落とせばあたしの前に魔臥玉が現れる。絶
対にやり遂げて見せるさ」
「あなたのような小物にゲドンの復活は無理よ。諦めて闇の底に帰りなさい」さぎりは長身の幽
禍里を下から睨み上げるようにしてそう言った。優しさを滲ませた美しさの中に、驚くほどの強
い意志を感じさせた。
「小物だって?」幽禍里の顔に怒りが燃え上がる。だが、それはすぐ影を潜め、その表情が嘲
りを含んだものに変化する。「あははははっ!」と高らかに笑った。
「その小物にあっさりと捕まった癖に偉そうに言うんじゃないよ。汚いドッグ・エンジェル
が・・・・!」
 ドッグ・エンジェル・・・・それは、幽禍里の種族がさぎりたちに使う蔑称である。幽禍里たちは
憎しみを込めてこの言葉を使う。
「おまえのパワーは封じてある」と幽禍里は勝ち誇った顔でさぎりに憎しみを込めた言葉を放ち
続ける。「悪魔に捕らえられた天使が、どれほど無力か、思い知るがいいさ」
 幽禍里は右手を顔の前で握った。すると、その握り締めた手の中に、空間から湧いて出たか
のように、くねくねと蠢く蛇のような物体が姿を現した。黒光りするしなやかな鞭であった。
 一瞬、さぎりの顔に不安が過った。自らが置かれた境遇に思いを馳せたとき、これから生じ
る運命が予感されたのだろうか。
「おや、少しは怖いようだね」さぎりの表情の変化に目ざとく気づき、幽禍里が邪悪な笑みを逆
三角形の唇に乗せた。「泣き叫んでもいいんだよ」
 さぎりは唇を噛んで顔を伏せる。恐怖を見せまいとする健気な意思が見え隠れしていた。
「おまえにもわかっているんだろ?この鞭が妖気を含んでいることが・・・・」幽禍里は爬虫類の
ような尖った舌で自分の唇の回りを舐めながら囁くように言った。「この鞭がおまえの肉体を打
ち据えるとき、同時におまえの精神の奥深くにも打撃が到達する・・・・それをおまえはようく知っ
ているんだよねえ」
 囚われの女の顔が曇った。背筋に冷たいものが走ったのであろうか、一瞬さぎりの身体がビ
クリと震えて止まった。
「美しいねえ」それを見て幽禍里は満足げに唾を呑み込んだ。「捕らえられ迫り来る恐怖に脅
える姿は美しい。さあ、もっとあたしを楽しませておくれ」
 さぎりの顔が伏せった。観念したのであろうか、目を閉じ唇を噛み締めている。
 幽禍里は鞭を丸め、そんなさぎりの顎に押し当てながら、ゆっくりと顔を持ち上げた。
「しっかりあたしの方を向いててくれなきゃ、面白みがないじゃないのさ」
 そう言った邪悪な顔に、不意に怪訝なものが湧いた。敗北感に塗れた筈の獲物の視線に、
未だ根強い輝きを見たからであった。
 それは敗北者の目ではなかった。悔しそうに唇を噛みながらも、未だ挑戦的な光を宿す戦士
の目だ。
「なるほど・・・・」幽禍里は納得したように頷いた。「あんたは負けず嫌いらしいね。その強気な
表情が、苦痛と恐怖で歪んでいく過程をゆっくりと鑑賞させてもらえるというわけだ。楽しみが
増えたよ」
 嘲笑混じりの期待感を込めた幽禍里の言葉を跳ね返すように、さぎりの目が輝いた。その視
線に込められた闘志が、彼女の類稀れな美貌を際立たせる。
 幽禍里は腰を引いた。右足を一歩下げ、それを軸にして左足をわずかに宙に浮かせる。そ
して右手に持った黒い鞭を大きく振り上げた。
 湿った空気がどよめくように揺れた。鋭い刃に切り裂かれたように、空間が軋み、火花を散ら
せる。魔界の鞭に秘められた邪悪な意思が現実界に実体化したものであろうか?
 鞭は、空間を切り裂いた一瞬後、鎖に囚われたさぎりの腕の下、脇腹から背中を伝い、胸の
膨らみの真下まで蛇のように巻きついて衝撃を与えた。
「きゃああっ!」囚われの美女から悲鳴が迸る。
 さぎりは激しく身悶えしながら、悲鳴に乗せた苦痛をスプリンクラーのように撒き散らした。衝
撃が肉体に及ぼす痛みもさることながら、肉体に覆われた精神の奥深くまで突き刺さるものを
同時に体感したからである。
 両手を上に吊り上げられたまま、純白の美女は顔を大きく仰け反らせた。長いストレートヘア
ーが波打つように揺れ、舞い上がったあと背中に垂れた。腰をつけた地面すれすれにまで到
達する。
 一瞬の苦痛の表情の後、美女の視線は再び鋭くなった。自分を鞭打つ魔界の美女に向かっ
て睨み上げるような眼光を注ぐ。
 囚われの美女の挑戦的な意思を打ち砕くかのように、金色に輝くボディコンの美女は再び右
手を振り上げる。黒い鞭はしなやかな動きでさぎりの身体から外れ、もう一度湿り気を含んだ
空気を裂きながら唸り声を上げた。
 さっきよりも激しい衝撃が、さぎりの腰から腹部を襲った。美女の口から劈くような悲鳴が迸
る。美しい長髪が再び揺れて舞う。
 休む間もなく次の痛撃が襲いかかった。今度は挑戦的な鋭い視線を見せる暇もなく、さぎり
は悲鳴を振り絞った。そしてそれは更に続いた。
 肉体的な痛みだけではない。精神の奥底を切り裂く邪念が、さぎりの魂を苛んでいた。それ
は、かつて地球上に存在したいくつもの悪意によって形成された邪念である。非業の死を遂げ
た人間がその無念さから闇の存在に自らの魂を捧げることによって生まれた悪意、激しい憎し
みによって生まれた邪念、自らの成功を望む心の隙につけこんだ闇の魂・・・・太古の昔から存
在したそれらの憎悪、嫉妬、怨念が、この鞭の一撃一撃に込められており、さぎりの純白な魂
を打ち据えているのだ。
 それらの邪念が魂を切り裂く痛みは、言葉に表せないほどの苦痛をもたらす。これは邪念の
鞭・・・・幽禍里ら闇に生きるものたちはそう呼んでいる。
 さぎりは激しく喘いでいた。鞭が身体の至るところを打ち据え、魂を貪るように抉る。搾り出す
悲鳴は、時に激しく、時にくぐもったうめきとなって交互に繰り返された。腰を地につけたままで
美しいプロポーションが悶え撓る様は、激しい苦痛と裏腹に、華麗な舞を舞うようにすら見え
た。
 そして闇の底に轟かすかのように、邪悪な魔女の哄笑が高らかに響き渡った。

−2−

 これより数日前、さぎりは自分の雇い主である男に呼び出され、その事務所にいた。その
男、影丸陣は、既に政界を引退した男であるが、その隠然たる勢力をもって未だこの国に影
響を及ぼし続けており、事実上この国を動かしていると言っても過言ではない。90歳近い筈だ
が、まだ初老と言ってもよいほどの若さを保っていた。もっともこの男にとって現実世界での年
齢など、何を測る尺度にもならないのであるが・・・・
 表面上、さぎりは影丸の秘書ということになっていた。そのほうが都合がいいからであるが、
実際にも秘書としての役割を果たし、給料を貰っている。さぎりにとっては耐えがたい屈辱を噛
み締めながらではあったが。
 この現実世界から飛躍した世界の中で、実はさぎりと影丸はそれぞれ敵と味方の陣営に分
かれていなければならない筈であった。ところが、奇妙な因果関係から共に同一の目的に向
かって共闘しなければならない運命を甘受しているのである。
 遥かな過去において、ふたつの勢力が激しく争ったという事実がある。その事実は様々に婉
曲されて世界のあらゆる場所に、伝説もしくは神話として伝えられている。それは光と闇、及び
それを具現化するそれぞれの勢力の激闘の記憶が伝えられたものなのだ。
 その争いは決着がつかないまま、それぞれの勢力は人類の進化の過程にその行方を委ね
た。人類の歴史は、この両勢力による小競り合いの歴史でもあるのだ。こうした小競り合いの
果て、時が満ちて戦いに終止符が打たれるという。それが光と闇の最終戦争、ハルマゲドンと
呼ばれるものであった。
 影丸は、闇の陣営に属する悪魔の一族であった。彼のみではない。世界の指導者と呼ばれ
るものたちは概ね悪魔の一族である。彼らは平和を求める素振りを見せながらも、世界を破
滅に追いやるシナリオを着々と書き連ねているのである。
 一方、光霊さぎりは光の陣営に属する天使である。悪魔の跳梁に立ち向かい、世界を破滅
から救うことを使命とするパワフルな戦士なのだ。
 そのさぎりが、何故影丸と行動をともにしているのか・・・・それはハルマゲドンのあり方に関わ
っていた。
ハルマゲドンが近づいているという認識は、悪魔の側にも天使の側にもあった。小競り合いの
時期は過ぎ、両者が雌雄を決するときが遠からず訪れる。そしてハルマゲドンは巨大な混乱と
ともに生じる・・・・と伝えられていた。世界の強国と言われる国の指導者が、核兵器を所持した
がる理由もここにあった。核兵器が使用されることによる巨大な混乱がハルマゲドンの起爆剤
になるのではないか、という推測が、一時期、悪魔陣営の幹部たちの間で主流であったのだ。
だが、彼らにはジレンマがあった。核兵器を使用することによって必ずハルマゲドンが惹起さ
れるのならよいが、そうとは限らないのである。世界を震撼させるような大混乱は、場合によっ
ては大量の天使の覚醒を促すかもしれないのであった。
現在、覚醒した天使の数は少ない。さぎりですら、自分以外の天使と出あったことがない。それ
ほど、目覚めた天使は希少なのだ。ハルマゲドンを惹き起こすために生じさせた大混乱が、そ
れを成し遂げずに敵である天使の大量復活という事態を招いてしまっては元も子もない。悪魔
の陣営はそのジレンマに悩んでいた。
そんな悪魔陣営ではあるが、悩んでいるものばかりではなかった。今、天使の数が極端に少な
い現状の中でハルマゲドンが生じれば、まず間違いなく悪魔陣営の勝利は動かない。一気に
大混乱を生じさせ、ハルマゲドンを起こそうとするムーブメントがあった。悪魔陣営の中で「過
激派」と呼ばれる連中であった。苦渋のすえ、悪魔陣営の幹部たちは、この過激派を取り締ま
る道を選んだ。軽はずみな行動が自分たちに好ましくない事態を招くのを恐れてのことであ
る。
一方さぎりにとっても、悪魔陣営の過激派が残虐な破壊活動を繰り返すのを看過するわけに
はいかなかった。例えそれによって大量の天使が覚醒し、自らの陣営が有利になるとしても、
光の陣営に属する魂が、暴虐行為を許しておける筈がなかった。こうして悪魔と天使の奇妙な
共闘が始まったのだ。
過激派を殲滅しようとする悪魔陣営の幹部と行動をともにすることにより、彼らの行動に対す
る情報が得られる。その情報をもとに、天使が過激派と戦うのだ。世界の各地で、このような
捻れた共同戦線が展開されているという。アジアや中近東にある過激派そのものによって牛
耳られた国家は別として・・・・。
ドッグ・エンジェル・・・・敵のボスに尻尾をふる犬の天使・・・・過激派たちは憎悪と軽蔑を込め
て、さぎりのような存在をこう呼んだ。そして最近ではさぎり自身も自虐的な意味合いを込めて
自らをそう名乗ることも多いのであった。
「さぎりくん」影丸はにこやかに笑っていた。悪魔陣営といえど国の頂点に立つ力量のある存在
ともなると、その邪悪な魂は殆ど表面に出さない。「ひとつ、また動いて貰いたい」
 さぎりは鋭い視線を影丸に跳ね返した。世界に生じる混乱を未然に防ぐためとはいえ、悪魔
の幹部のエージェントとして行動することに対する抵抗は、いつまでたっても消えないのだっ
た。
「表の世界では・・・・」と、さぎりは影丸に伝えるというよりも自分に言い聞かせるために、今まで
幾度も発したことのある言葉を、確認するように繰り返した。「あなたは私の雇用主。けれど、
この仕事でのあなたと私の立場はイーブンよ。あなたは情報を私に与え、私が動くかどうか
は、私自身が決める。忘れないでちょうだい」
「そう尖んがらないことだな」影丸は口元に笑いを含みながらそう言った。どんなに隠していて
も、悪魔本来の尊大で狡猾な魂は表面に出ることを望んでいる。「どうせ、君は動かざるを得
ないんだ」
 さぎりは影丸に対する憎しみを胸の奥に仕舞い込んだ。相手の言うことのほうが正しかった。
今まで彼がもたらした情報で彼女が動かなかった例はない。
 それにしても・・・・と、さぎりは思う。この男は最初に比べて段々と横柄になってきている。私
を、天使であるこの私をエージェントとして使うことが、彼の自尊心をくすぐっているのかも知れ
ない。
 そして影丸は、今回の過激派の動きについて語り始めた。
 ここ数ヶ月、レイプや誘拐、殺人など、都内で凶悪な事件が連続して起こっている。それらの
犯人に共通しているのは、もともとは平凡で善良な男が突如変貌して事件を起こした、というこ
とであった。影丸は、この事件を過激派の仕業だと言明した。そして告げられたのが、邪木幽
禍里の名前だった。
 幽禍里は、新宿のキャバクラ嬢をしていた。店のナンバーワンで、毎晩の指名の数は多いと
きで50本に及ぶと言う。同伴、アフター、店外デートなども数をこなし、幾人もの男を夢中にさせ
ていた。都内で連続発生している凶悪事件の犯人は、すべてこの幽禍里の客だと言うのだ。
「幽禍里は、間違いなく悪魔だ」影丸は冷徹な顔でそう言った。「それも淫魔と呼ばれる魔物
で、触れ合う男の魂を姦淫地獄の底に叩き込む存在だ。彼女が男を狂わせてその魂を奪い、
凶悪な事件を起こさせているのだ」
「それは、あなたたちの生業でしょ?」さぎりは嫌悪感を込めて影丸を睨んだ。「あなたが自分
を棚に上げて蔑むことじゃないわ。その行為が過激派の行動に繋がるって理由は、一体何?」
「彼女はゲドンの復活を目論んでいる」と、影丸は、さぎりを真っ直ぐ見据えながら言った。
「ゲドン?」さぎりは初めて聞く名前に怪訝な色を表情に浮かべた。
「ゲドンとは、我々悪魔陣営の限られた存在にだけ伝えられる伝説の妖獣だ。誰も見たものは
いないが、宇宙に存在するあらゆる妖物のうちで最強と言われている。我々魔族にすら手なず
けることが困難で、種族を律するために封印されたと言われている魔獣だ。ここ最近、ハルマ
ゲドンの起爆剤となるのは、ゲドンの復活だ、という説が我々の間で有力となっているのだ」
「核兵器より信憑性があるのかしら?でも、どうして邪木幽禍里がゲドンの復活を目論んでい
るってわかるの?男の魂を地獄に落としているだけで・・・・」さぎりが不審な顔で影丸を眺める。
「伝説では・・・・」と政界の長老にしてこの国の悪魔軍団のボスは話を続ける。「ゲドン復活には
三種の妖器と呼ばれるものが必要になる。炎熱界の魔剣、腐乱界の魔鏡、そして死界の魔臥
玉。いずれも魔族自身によって封印されたこれらのものを手に入れるためにはいくつかの方
法がある。その方法のひとつが、人間の魂を地獄に落とすことなのだ。百人の人間の魂を落と
せば、死界の魔臥玉がその魔族の前に姿を現すという・・・・伝説はそう伝えている」
 邪木幽禍里は、ハルマゲドンを惹き起こすために妖獣ゲドンを復活させようと企んでいる。そ
してそのために必要な三種の妖器のひとつ、死界の魔臥玉を手に入れるために、キャバクラ
嬢として男の魂を陥れているのだ、という。
「気の長い話ね。魔臥玉が現れたとしても、あと二つの妖器が必要だし、それでゲドンが復活し
たとしても、ハルマゲドンが起こるとは限らない。とんでもない遠い道を歩んでいるんじゃないの
かしら、彼女は?」
「だとしても、我々は彼女の行動を放置しておくわけにはいかない。なぜなら、魔臥玉そのもの
だけでも、異常な混乱を世界に撒き散らす恐れがあるからだ」影丸は真剣な表情であった。
「おかしなものね」自嘲を孕みながら、さぎりが顔を顰めた。「本来、邪悪と混乱に世界を巻き
込むことを目的とするはずのあなた方が、まるで平和主義者のような言葉を吐くのね」
「皮肉な話だが仕方がない」と影丸はあっさりと認めた。「だが、そのお陰で、世界は平和に保
たれている。君と私たちは憎みあいながらも協力して、共通の脅威である魔族の跳ね返りたち
を駆逐しているのだ。我々は混乱を望まないのだよ。少なくとも今の時点ではね」
「わかったわ」さぎりは頷いた。天使が悪魔のエージェントとして動く不自然さを、いくら悩んでい
ても仕方がない。ここは割り切って現実を受け止め、状況を受け入れよう。当面、邪木幽禍里
の野望を食い止めること以外に、取るべき道はないのだから。
「それと、気をつけておいてほしいのだが」と、影丸がすぐにでも行動を開始しそうなさぎりを呼
び止めた。「幽禍里が魔臥玉を狙っているのと同時に、魔剣と魔鏡もまた現出させようとする
存在がいるのかもしれない。もしそうであれば、彼女は単独犯ではなく、彼女を指揮している奴
がいる可能性もある。そこらにも気をつけておいてくれ」
「承知しているわ」さぎりは気を取り直してそう言った。「仲間がいるかどうか確認してから幽禍
里を始末する。まかしといて」
 扉を開いて出て行った美しい天使を、魔族の長老は無表情に見送っていた。

−3−

 じめじめとした生温かい梅雨の雨が、いつ止むとも知れぬしつこさを感じさせながら、廃工場
の明かり取りの窓を濡らしている。そして工場の中では、それよりももっと邪悪で激しい黒い鞭
の雨が、純白の天使の身体に降り注いでいた。鞭の雨は外の雨よりも更に激しく滝のように叩
きつけるうえに、魂を苛む陰湿さにおいても数段上回る。
 その嵐のような鞭の雨が、ようやく休息の時を迎えた。さぎりの純白のスーツは、鞭の衝撃を
受けてところどころが黒ずみ、あるいは擦り切れてしまっている。顔はがっくりと前に垂れ、長
い髪が顔を隠すように覆っていて、無数の蚯蚓腫れが赤い線を描く白いうなじが髪の間から見
え隠れしていた。
 囚われの天使は、気を失っているのか身動きひとつしない。両手を高々と吊られた姿勢で、
湿気を含んだ地面に膝を曲げて座り込んだまま顔を伏せている。それに向かって、魔族の女
がゆっくりと近づいていく。
 幽禍里の口元に、逆三角形の笑みが浮かんだ。細く尖った蛇の舌が、チロチロと自分の唇
を舐める。そして手も足も出ない獲物に向かって、嘲りと悦楽を含んだ視線を注いだ。
 幽禍里の手がさぎりの頭に伸びた。前に垂れて顔を覆うストレートヘアーを掴み、上に向かっ
て持ち上げるようにして顔をあげさせたる。頬に数箇所の傷跡を残した天使の顔が現れた。
「おや?」と魔族の女はその眼を見て嬉しそうな顔をした。「まだ屈服していないようだねえ」
 さぎりの視線は、鋭く幽禍里を刺し貫いていた。敗北者の目ではない。
「私は戦う天使。あなたに屈したりはしないわ」さぎりは、小声ながらもはっきりとした口調でそう
言った。
「まあ、どこまで持つか、楽しみだね」幽禍里は髪の毛を掴んだ手でさぎりの頭を振り回しなが
ら、嘲るように言葉を吐き出した。
「臆病者の魔族に操られる汚いドッグ・エンジェルの癖に・・・・」髪を握る手に激しさが増し、言
葉には憎しみが混じり始めた。そしてもう片方の手が強い力で囚われの天使の顎を握る。「お
まえをあたしの足元に跪かせてみせる。あたしの崇高な野望を、ドッグ・エンジェルごときに邪
魔されてたまるか」
 両手が天使の顔から離れた。と思うと、その手が湿った空気を切り、掌が頬に叩きつけられ
た。さぎりの口は小さい悲鳴を搾り出す。少々の痛みは感じるが、邪念の鞭に耐え切った後で
は、往復ビンタごときは蚊に刺されたようなものだ。無論幽禍里もまた、それほどの打撃を与
えたとは思ってもいまい。ただ憎しみをぶつける表現でしかなかったろう。
 「戦う天使だ、と言ったね」さぎりを殴りつけたことで少し怒りを治めたのか、幽禍里は再び嘲
りの表情を色濃くしながら、目の前の天使に語りかける。「尾行に気づかれてあっさりとあたし
に捕まった癖に偉そうなこと言うんじゃないよ。あんたが戦うことは、もう永遠にないのさ。なぜ
なら、あたしはおまえの手首を縛っている鎖を、絶対に緩めることがないからさ」
 囚われの天使は、悔しそうに唇を噛み締めながら、自分の手首を縛った冷たい鎖をちらりと
見上げた後、その視線を魔族の女に移した。手首は彼女の弱点なのだ。戦う天使のパワー
は、光のエネルギーとして彼女の両手を介して体内に注入される。だが、手首をきつく締めら
れると、血流をせき止められるように、エネルギーが吸収されなくなるのだった。その唯一の弱
点を、幽禍里は知っていたのだ。
 だが、どうして彼女はそれを知っているのだろうか?さぎりは不審げな顔をした。天使の弱
点、すなわち体外から吸収する光エネルギーを遮断する方法は、それぞれの天使の個体によ
って異なる筈だ。今まで出会ったことのない、さぎりという個体の弱点を、なぜこの魔族の女は
知っているのか?
「あなた・・・・」と、さぎりは幽禍里を見上げた。「もしかして誰かの指示で動いているのじゃない
の?」
 目の前の女は、魔族としてそれほど格が高そうには思えない。事前にさぎりと戦うことを予想
して弱点を調べ上げていたとは到底思えなかった。だとすれば考えられることはひとつ、彼女
を操っている魔族の存在である。影丸から得た情報では、ここ最近過激派と呼ばれる魔族た
ちは融合を繰り返していると言われる。ハルマゲドンをめぐるテロ活動も、組織化への道を辿
りつつあるのだ。
「何をくだらないことを言ってるのさ。あたしは誰ともつるんだりしないよ」幽禍里はすぐにそう否
定した。
「そうかしら?」さぎりは鋭い視線を相手に注ぎ込む。「魔臥玉だけでゲドンの復活は果たせな
い。魔剣と魔鏡は別の魔族が担当して作業を分担して手に入れようとしているのではないのか
しら?」
「それ以上くだらない質問をすると・・・・」と犬歯を剥き出した幽禍里が、再びさぎりの髪の毛を
掴み上げた。「即座におまえを呪い殺してやる」
「あなたに出来るかしら?」手も足も出ない囚われの天使から、なぜか余裕を含んだ挑戦的な
言葉が返ってきた。「あなたに出来るのは、何の力もない人間の魂を地獄に誘うことぐらい。天
使を呪えるものならやって見せてご覧なさい」
「言ったな!」怒声が割れ鐘のように響いた。地獄から響く声とはこういうものを指すのだろう
か。「あたしを怒らせたことを後悔しても遅いよ。おまえが相手にしているのは、鬼面の幽禍里
と呼ばれた魔族の大物だ、ということを忘れるんじゃないよ!」
「あら、聞いたことがないわ」さぎりは髪を握られた幽禍里の手の下で、くすりと笑った。
「見せてやる!」幽禍里の怒りの形相が激しくなった。目の両端が吊りあがり、顔色が真っ赤に
燃え上がる。そして邪悪ながらも整っていた顔が、徐々に変貌しはじめた。
 吊りあがった目が、三日月のかたちに変化する。頬がこけたように細く狭まり、口から剥きだ
された歯のすべてが鋭く尖っていた。そして金色の髪が逆立ち燃えるように揺れた。
「あら、赤鬼・・・・」と、さぎりは微笑みかけていた。恐れは見えない。「鬼面の幽禍里ってそうい
うこと?」
 鬼女に姿を変えた幽禍里は、ぐわっと裂けるように吠えた。その身体の周辺の空気が黒く澱
んで見える。邪悪なオーラを放っているのだ。爪が10cmほども伸びた両手で、さぎりの両脇
を掴み上げた。
 天使の顔色が変わった。両脇の柔らかい肉に、鬼女の爪が打ち込まれ、その傷口から漆黒
のオーラが体内に取り込まれる。
「苦しいだろう?」鬼女の顔になった幽禍里が口元を揺らした。笑いを浮かべているらしい。「光
のエネルギーを取り込むことが出来ないかわりに、邪悪な気をたっぷりと吸い込ませてあげる
よ」
 さぎりの顔が歪んだ。背筋がゾクゾクと振動をはじめる。邪悪の気が、血管を通じて体内の
至るところを駆け巡っているのだ。悪寒が全身を覆い、吐き気が押し寄せてくる。天使の純白
な魂が、邪悪の気に拒否反応を示しているのがわかる。そして遂にさぎりは切り裂くような悲鳴
をあげた。
 それを見て幽禍里は高らかに笑った。笑いながら宣言する。
「邪悪の気は、やがておまえの魂を食い尽くし、精神を支配する。おまえが天使でいられるの
も、あと少しの間なのだよ」
 さぎりは歯を食いしばり、激痛と悪寒に耐えた。苦悶の表情が左右に揺れ動く。身体を切り
刻まれる痛みが、精神の中で渦巻いていた。押し殺したうめき声が、時折甲高い悲鳴となって
舞い上がり、そしてまたうめき声に変化して地を漂う。
「鬼面の幽禍里さまの力、思い知ったか?薄汚いドッグ・エンジェルめ!」唾を吐き捨てるよう
に言葉を叩きつける。「そのまま地獄の悪意に身を委ね、邪悪な堕天使に変貌してしまうがい
いさ」
 ううう・・・・という苦悶のうめきが、上半身を折り曲げた白い天使から洩れる。涎を垂らさんば
かりの愉悦の表情で、それを見下ろす幽禍里の鬼女の顔。苦悶する身体がバネのように跳ね
上がる。そしてモーターが回るように震え、嗚咽を繰り返していた。流れるような汗が土を濡ら
し、乱れた髪が激しく揺れる。
 凄惨な地獄絵と化した廃倉庫に生温かい幽鬼の風が舞う。
 その風が不意に止まった。何ものかに遮られたかのように、妖気を含んだ風が消えた。それ
ばかりではない、鬼面の幽禍里を包んでいた漆黒のオーラもまた、急激に薄まりやがて消えて
いく。
「な・・・・何ぃっ?」幽禍里は元の顔に戻り、不可解な思いを驚愕の叫びに乗せた。「そ、そん
な・・・・馬鹿な!」
 さっきまでの苦悶が嘘のように、純白の天使の爽やかな笑顔がそこにあった。痛手を受けた
気配は微塵もない。幽禍里は何が何だかわからないという顔で、さぎりを見つめた。
「どう?いい演技だった?」天使が微笑む。
「貴様・・・・どうして?」
「これが鬼面の幽禍里の実力なの?魔族なら誰でも出来る邪気の注入だわ。そんなもの、とっ
くに私は、免疫を形成してるわ」両手を頭上に拘束されたままであったが、さぎりの顔には余裕
と自信が満ちていた。
「お、おのれ!」幽禍里が怒りを溜め込んだ形相で、右手を振り上げた。その手には再び邪念
の鞭が握られている。「おまえがパワーを封じられて囚われている事実には変わりない。こうな
ったら、邪念の鞭で打ちのめして、苦しみの果てに殺してやる!」
 黒鞭が撓り、風が巻き起こる。そして今再び邪念にうちひしがれ、苦悶の叫びをあげながら
身をくねらせ続ける純白の天使の姿がそこにあった。
「苦しめ!もっと苦しめ。清らかで美しいものは呪われる。すべての醜悪なものたちに栄光あ
れ!」
「あっ!あああっ!」
 さぎりの身体が捻れながら悲鳴を搾り出した。それは無残な姿でありながら、なぜか恐ろしい
ほどの美しさを秘めた舞のようにすら見える。心清きものにさえ嗜虐に対する悦楽の扉を開か
せる魔境の舞踊・・・・。
 永劫の昔から鞭打たれ続けているかのような苦しみが、さぎりの精神を苛み続け、やがてそ
の意識が遠のく。頭を垂れた純白の天使の顔を、幽禍里はもう一度髪を掴んで持ち上げた。
「起きろ」静かな声でそう命じる。「今度こそおまえの魂を地獄に誘い込んであげるわ」
 幽禍里は天使の前に座り込むようにして、その両脇から背中に、自分の腕を回しこみ、抱き
かかえるようにして身体を密着させた。
 魔族の女の顔が近づき、さぎりの首筋に熱い息が吹きかけられた。ゾクリとするような悪寒
が全身を覆う。
「な・・・・何をするの?」若干裏返ったような声で天使は叫んだ。
「おまえの魂を堕としてやる」囁くように邪悪の声がした。「あたしの魔力で、天使の魂を地獄に
堕とせば、魔臥玉の出現が早まるかもしれない。さあ、地獄の快感を味わわせてあげるわ」
 首筋に蛭のような舌が肌を吸い込みながらゆっくりと這った。一方で背中に回された腕が指
先を撓らせながら、蛇のように這いまわる。スーツの上から乳房が掴まれ、押し上げるように
揉まれた。
「あ、あああっ!やめて・・・・!」天使の叫び声は黄色く変化していた。
「どうだい?気持ちいいだろ?人間の男なんかメじゃないぐらい、あたしは巧いんだよ」
 僅か一瞬身体を愛撫されただけで、快感が全身を貫くのか?さぎりの表情に、苦悶とは相反
するものが浮かんでは消えた。
「どう?感じるだろ?」邪悪な逆三角形の笑みを口元に固定したまま、幽禍里はさぎりの耳に
囁いた。「快楽に身を委ね、闇に精神を預けたとき、地獄の業火はおまえにとって心地よいも
のとなる。人が苦しみ叫ぶ声はおまえの魂を癒す妙なる音となるのだよ」
「あ、あああ・・・・!」天使のうめき声の中で悦楽が苦悶を上回り始めていた。
 邪悪な指先が、髪の毛を掻き分けて後頭部を這った。一方では乳房が時に激しく時にゆっく
りと撫でられ揉まれている。そして視線が邪悪な輝きを放つ顔が、さぎりの口元に近づく。
「いい顔だよ」幽禍里が唇の回りを舐めた。「ほら、地獄はもうすぐそこさ」
「あ・・・・、あんっ」完全に裏返った声で、天使は泣いた。その声と顔を確認し、魔女は満足そう
にさぎりの唇に貪りついた。
「ん・・・・ぐぐうう・・・・」天使が、落ち込むように身体を魔女に預ける。その精神もまた魔女の腕
に抱かれているのであろうか・・・・?
「わ、私は・・・・何処へ行くの?」さぎりが地獄のキスから解放された後、か細い声で幽禍里に
聞いた。
「地獄さ。いいところだよ」と魔女は歯を剥きだして笑いながら答える。
「そ・・・・そこには誰がいるの?」と天使は更に問う。「あなた?それとも別のモノ?」
「あたし一人だよ。おまえは永遠にあたしのもの・・・・おまえとあたしだけの楽しい場所なのさ」
幽禍里は邪眼を光らせていた。「あたしに命令する奴なんかいないからねえ」
「そうなん・・・・?」とさぎりの低い声がした。
「うん?」幽禍里がその声に不審を抱いて天使の顔を見つめた。地獄の底に堕ちる寸前の悦
楽の声とは、あきらかに違っていた。しかもイントネーションが変わっている。
 さぎりの顔は清廉な輝きを取り戻していた。邪悪に対する限りない挑戦の意思を秘めた、戦
う天使の輝きが。
「やっぱり、あんたは単独犯やったんか。そんならもう容赦せえへんで」
 その声とともに、なぜか言葉を関西弁に変えたさぎりの身体は、純白のオーラを放って光り
輝く。それに弾かれるようにして、幽禍里は数メートル背後に飛び下がった。
「き・・・・貴様!」
 そして薄暗くジメジメした廃倉庫を切り裂くようにして、真っ白い稲妻が舞い降りた。

−4−

 落雷が倉庫の屋根を打ち破ったかのように、純白の稲妻が一直線に刺し貫いた。それは美
しい天使の頭上に、槍のように降り注いだ。
眩いばかりの光の柱が、純白の美しい肢体を包み、滝のようなシャワーを浴びせる。
 驚愕の面持ちでそれを眺める魔族の凶悪な邪顔は、恐怖を交えながらわなわなと震えてい
た。
「ま・・・・まさか!パワーは封じてあった筈なのに・・・・?」ようやくそう言葉を搾り出す。
 やがて光のシャワーはその激しさを薄めだし、その白く輝く光柱の中に、ひとつの美しい影を
生む。その影は、美しいが勇ましい、ひとりの戦士として姿を現した。
 純白のセパレーツの鎧を纏うさぎりの姿がそこにあった。手には目を覆うような白光を放つ
大振りの剣を携え、長い髪を光の風になびかせて立っていた。
「そ・・・・それが、ドッグ・エンジェルの真の姿なのか?」震える口で幽禍里が言葉を吐き出し
た。「本物の天使は、これほどの威圧感を与える戦士の姿をしていたのか?」
 戦う天使の背中でなにかが蠢いた。それはセパレーツの鎧の上半身から生える白い翼の羽
ばたきであった。
「残念やったなあ。邪気の注入が効かへんかったとき、あんたはまず、ウチのパワーがほんま
に封じられてるんかどうか疑うべきやったんや」さぎりは爽やかな笑顔を見せながら、手に携え
た光の剣の切っ先を幽禍里に向けた。「ついでに言うとくけどな、邪念の鞭も効いたふりしとっ
ただけや。あんなもんはほんまの邪念の鞭やあらへん。ただの玩具や」
「わざと捕まったのか?何のために・・・・」幽禍里は歯を噛み締めてギリギリと軋ませた。
「あんたに仲間がいてるかどうか確かめるためや。せやけど最後まで仲間の名を吐かへんさ
かい、単独犯やと断定したんや」さぎりはそれに少しだけ付け加えた。「あ、覚えときや、ウチは
本気(マジ)になると関西弁になるんや。聞き苦しいやろけど、勘弁してな」さぎりは悪戯っぽく笑
った。美しく整った顔に、少女のようなあどけなさが一瞬漂う。
「ほんまの魔族が操る邪念いうのはな、あんたのような小物が吹き込むような上っ面のもんと
違うんや。もっと、この星の過去から永劫の時を経て継承されてきてる、とてつもなく奥深い邪
悪の思念のことを言うんや。それを駆使できる大物の悪魔やなかったら、ウチのパワーを封印
したり精神を苦しめたりは出来へんのや。あんたの操る邪念をいくら吹き込んでも、そんな鎖
や鞭では、そんじょそこらのもんと変わらへん。そんなん屁みたいなもんや」
「ええいっ!やかましいっ!」魔女の形相が変わった。とてつもなく凶悪な怒りが表情の中で渦
巻く。「あたしも本気になってやる!本気で即座におまえをぶっ殺す!」
 その言葉とともに、漆黒の闇が襲った。闇は竜巻のように押し寄せ、倉庫内のすべてのガラ
クタを巻き込んで舞い上がる。
 一瞬後、そこには別の空間が広がっていた。深い闇が何処までも続く漆黒の空間・・・・果てし
なく広がる宇宙空間にも似たその場所は、しかし星の瞬きひとつないまったくの暗黒空間だっ
た。そこに、ふたりの美女が浮かぶようにして互いに向きあっている。光はないが、お互いの
姿だけはそれ自身が光を放っているかのようによく見える。
 純白のセパレーツの鎧に身を固め、背中に翼をはためかせる戦う天使。そしてそれに向き
あうのは、さきほどまでの金ナメのボディコンを脱ぎ捨て漆黒のレオタードで全身を覆う邪悪の
美女。光と闇を具現化したふたつの存在が、まさに嵐の前一瞬の静寂を保って対峙している
のだ。
「ふうん」すっとぼけたような関西弁のイントネーションでさぎりが首を回して周りを見渡した。
「不可思議次元空間(ストレンジディメンジョンエリア)・・・・。こんなもん、作れるほどの力があっ
たんか、あんたにも?」
「あたりまえだよ!」幽禍里が尖った犬歯を剥きだして笑った。「今までは手加減したけど、今
度からはそうはいかない。このSD(ストレンジディメンジョン)エリアの中では、あんたよりあたし
の力のほうが勝るんだ。覚悟しな!」
「ええやろ。試してみようやないか?」美しき戦う天使が、その闘志を曝け出す。空間に浮かぶ
ようにしながらも、腰を落として架空の地に足をしっかりと踏みしめた。白光を放つ剣の切っ先
を、思い描いた地に這わせ、幽禍里の隙を伺うようにして前屈みで構える。
 一方で邪眼をギラギラと輝かせ、幽禍里は両手を広げる。その両手の掌の中間に、忌まわし
い小動物の群れが滲むように湧き出した。
蛇のようにくねる身体を持ちながらも、蝿のように羽を震わせ、猛獣のような赤い口と尖った牙
を持つ、体長20センチほどの魔獣の群れ。
「かかれ!」魔女の号令とともに忌まわしい姿の魔獣群が、その羽を震わせながら、さぎりに向
かって空間を走った。巣を壊された蜂が襲いかかるように。
 しかし、さぎりは動かない。目を閉じ、じっとその羽ばたく音を聞いている。そして、魔獣どもが
彼女を喰らい尽くさんと覆い被さるように身体に触れたその瞬間、足元で輝く光の剣が跳ね上
がった。純白の戦う天使の周囲に光の渦が舞い上がり、剣が華麗に乱舞する。そしてそれら
忌まわしき獣たちが光の一撃に触れて消滅していく。
 数限りないほどの獣たちがひとつ残らず消滅すると、戦う天使の背中にある白い翼が大きく
揺れた。舞うようにしてさぎりの身体が浮かび上がる。
 しかし、白い鎧の戦士が向かう先から、漆黒の魔女の姿は消えていた。不可思議な次元の
空間SDエリアをすべて見渡しても、幽禍里の姿を見つけることは出来なかった。
 「逃げたんか?」白い戦士が油断なく目を配る。「そんなあっさり逃げるわけ、ないわなあ」
 そう呟いたさぎりの身体を、闇の突風が貫いた。
「失敗(しも)た!」高速で走る大型トラックにぶち当てられたような凄まじい衝撃で飛ばされなが
ら、さぎりは舌打ちしていた。
 空間の様相が変わっていた。さぎりを取り巻く空間そのものが質感を持ち、彼女の身体に纏
わりついた。まるで水中にいるような感触だ。その質感が重さを増す。天使の動きが鈍りはじ
める。空間そのものに捕らえられたように、さぎりは動けなくなってしまっていた。
「不可思議空間の一部を、何かに変えるつもりやな?」そう叫んださぎりの表情に焦りが見え
た。今度は演技ではなさそうだった。
 何処からか魔女の哄笑が鳴り響いた。そして勝ち誇った言葉がそれに続く。「さあ、あたしの
本当の力を見せてやろう。思い知るがいい」
 さぎりは自分の両腕が横に引っ張られるのを感じた。光の剣がもぎ取られる。身体が垂直に
引き伸ばされ空間に固定される。
「な、なんや、これは?」叫びを放つ彼女の背中と、引き伸ばされた両腕を、それぞれ支えるよ
うにして巨大な十字架が空間に現れた。戦う天使は闇の空間で磔刑に処せられているのであ
った。
 掌がズキズキと痛んだ。足首もまた同じ痛みを訴えている。さぎりは恐る恐る自分の掌のほ
うに顔を向けた。
「こん畜生!」思わず怒りの叫びを上げる。その掌には、太い釘が打ち込まれていたからだ。
おそらく両足首にも同じ処置がされているのであろうが、そちらは見る気が起こらなかった。
「あはははっ」と甲高い笑いが響く。「すべての天使の憧れの的、イエス様と同じ気分にさせて
あげたんだ。感謝しなさい」
「ゴルゴダの丘を作ったんか?」さぎりが唇を噛みながら周囲を見た。そこからは既に闇が消
えうせ、広大な荒地が広がっていた。荒地にうずくまるような小高い丘の頂上で、彼女は十字
架に晒されている。それも両手の掌と両足首に打ち込まれた黒く太い釘だけで、十字架に固
定されているのだった。
「うっ・・・・」と天使はうめいた。身体の重みが掌にかかり、釘を打たれた部分が裂けるような激
痛を生んだのだ。
「どうだい?このSDエリアでは、手も足も出ないだろう?観念して死んでいくがいい」魔女の哄
笑は鳴り止むことがなかった。「ついでだ。もうひとつお見舞いしてやろう」
 その言葉とともに、空間がぐにゃりとその表情を変えた。まるで釘の傷みで額に汗を滲ませ
る十字架上の天使をあざ笑うように。
 次の瞬間、十字架は荒地の小高い丘に立っているのではなかった。荒れ狂う天候の真っ只
中に、拘束したさぎりを伴ってテレポートしたかのようだ。雨混じりの強い風が、囚われた天使
の頬に叩きつけていた。長いストレートヘアーが、ぐっしょりと濡れたまま風に舞っている。
「あっ!」十字架に捕らわれた天使は、両脇に聳え立つものを見て驚きの声をあげる。彼女を
拘束した十字架の数倍の高さで、巨大な水の壁が両側にあった。
「こ・・・・ここは、もしや?」
「そうだ。ここはモーゼが作った海の道さ」幽禍里の声が嵐の中を漂った。「モーゼ一行がカナ
ンの地を目指し、エジプト軍に追われて海に逃げ込んだとき、海が割れて道が出来たという。
おまえはその海の道にいるのさ。これほど聖なる場所に案内されて、さぞ満足だろうねえ」
「何の冗談なん?」天空を見つめて、さぎりが言葉を吐き出す。「聖書のパロディでも気取って
るつもりなん?」
「エジプト軍が海の道に入ったとき、海はその道を閉じたと言う。こんな風にねえ」
 その声とともに、両側の水の壁が揺れ、崖が崩れるようにして崩壊をはじめた。
「きゃああああっ」天使は思わず悲鳴を放った。両側の水が怒涛のように彼女と彼女を磔にし
た十字架を飲み込み始めたからだ。
 雪崩のように襲いかかる洪水に翻弄され、轟音に掻き消される悲鳴を放ち続けながら、さぎ
りは水流の中で十字架とともに乱高下していた。掌と足首を襲う痛みなど、もはやたいしたこと
ではなかった。水の嵐がもたらす圧迫感は彼女の呼吸を奪うと同時に、全身に凄まじい激痛を
生じさせていた。
「死ね!ここで、おまえは死ぬんだ!」荒れ狂う水中を、魔女の高笑いが貫く。
 そのとき、水流に翻弄されていた天使の口から、意外なほど冷静な言葉が吐き出された。
「わかったで。あんたの職業(プロフェッション)が・・・・」

−5−

「あんた・・・・販売業者(ディーラー)やな?」水流に揉まれながらも、さぎりははっきりとした口調
でそう言った。「それも格オチの古物商(ジャンキー)や」
 戦う天使がその言葉を発するとともに、荒れ狂う水流は渦のような威力を失い、ジメジメと降
りしきるただの雨に変わっていた。両手足を拘束した十字架も消えうせ、掌と足首に打ち込ま
れた釘も傷跡を残していない。純白の鎧に身を包んだ天使は、再び光り輝く剣を片手に、漆黒
の魔女と対峙していた。全身はぐっしょりと濡れているが、海の道が崩壊して襲いかかった水
流のせいではない。倉庫の外・・・・降りしきる梅雨の雨の中にさぎりは立っているのだ。
 彼女は目の前の幽禍里越しに、あるものを指差した。それは廃倉庫の隣にある教会の屋
根。三角形の屋根上に、白い十字架が立っていた。
「十字架は、あれや」魔女を真っ直ぐに見据えながら、微笑を浮かべていた。「そして海の壁は
この雨・・・・それを素材にせんかったら、古道具(ジャンク)を持ち出すことが出来へんかったと
いうわけや、違うか?」
 幽禍里は、それに答えず、憎らしげな顔で天使を睨んでいる。販売業者(ディーラー)という指
摘も、古物商(ジャンキー)というのも、どうやら図星であったようだ。
 魔族は、その能力の種類により区分され、それを職業(プロフェッション)という言葉で表現さ
れる。職業は大きく「製造元(メーカー)」と「販売業者(ディーラー)」とに区分される。自ら怪異な
超常現象を生み出す能力のあるものをメーカーと呼び、他の魔族が作り出した現象を操作す
るものをディーラーという。通常ディーラーはメーカーと組み、優れた怪異現象を優れた能力で
操作する。しかし、良いメーカーに恵まれないディーラーは、過去のメーカーが提供している怪
異現象を扱うことで自らの力不足を補う。これを古物商(ジャンキー)と呼ぶのだ。
「ゴルゴダの丘もモーゼの海も、太古の魔族がメーカーとして作りあげた現象や。あんたはそ
れをジャンク品の中から引っ張り出してきただけや。しかも単独では持ち出せずに、教会の十
字架と雨を素材として利用した。そうするしか出来ない格オチのジャンキーやからや」
 幽禍里はその言葉を聞きながら顔を歪ませていた。その顔が真っ赤に変化する。犬歯が牙
となって伸び、カッと開いた赤い口が耳の側まで割れた。金色の髪の毛が逆立ち燃え上がっ
た。
「あんたの職業さえわかればこっちのもんや。十字架も海もパチもんやさかいな。いつでも破れ
たわ」
「ぐわああっ!」獣の吠え声とともに、鬼女の身体が大きくジャンプして、純白の天使に向かっ
て弾ける。「死ねえええっ!」
 さぎりは、余裕のある態度でそれをあっさりと交わし、純白に輝く剣を両手で掲げたまま、垂
直に跳び上がる。
「そうやろな。こうなったらあんたには、肉弾戦しか残ってえへんもんな」
 雷鳴が轟いた。梅雨空が割れて天空から真っ白い稲妻が鬼女を直撃する。その雷光と一体
化した光の剣が、幽禍里の頭に向かって一直線に闇を分断した。
「これで、終わりや!」天使の叫びが響く。
 けたたましい無念の叫びを雨の中にばら撒きながら、鬼面の幽禍里の両断された妖しげな
身体が崩れ落ちた。
 そして白く美しい天使の身体が、激しい戦いの後とは思えない優雅な身のこなしで、魔女の
残骸を見下ろすようにして立つ。
「ま、魔臥玉が・・・・あたしの・・・・野望が消える・・・・」空を掴むように右手を差し出した幽禍里
が、うめくように言った。
「まだ、言ってる・・・・」純白の美女が可笑しそうにくすりと笑った。関西弁のイントネーションは
いつの間にか影を潜めていた。
「覚えていろ・・・・あたしは、必ず蘇る・・・・。蘇っておまえの魂を貪ってやる・・・・」
「懲りない人ね」さぎりは微笑を浮かべながらそれに答えた。「ま、仕方ないわね。その執念が
あなたたちの生業なんだから」
 幾度も蘇り、この世に禍をもたらすのが魔族の生業である。永劫の昔から、天使はこういっ
た悪魔と戦い続けてきたのであった。
「あたしが死んでも、三種の妖器は必ず魔族の手に入る・・・・」幽禍里は苦悶の中からも言葉を
紡ぎ出していた。「おまえは歯車のひとつを壊しただけだ」
「やっぱり仲間がいたのね?」さぎりは舌打ちしながら瀕死の幽禍里に近づいた。「最後の土
産として、あなたを操っている魔族が誰なのか、言いなさい」
「おまえなど・・・・おまえのような薄汚いドッグ・エンジェルなど・・・・」悔し紛れに凄惨な笑いを浮
かべていた。「あのお方にかかれば、おまえなど・・・・」
 その瞬間、さぎりは小さな叫びをあげて両手を前に組んだ防御の姿勢を作って背後に飛ん
だ。その後を追うように、鬼面の魔女が爆発し、妖気を含んだ爆風が舞い上がった。
 魔女の身体は分子の段階にまで砕かれ、空間の塵となって爆風で飛ばされてしまった。おそ
らく魂までも粉砕されてしまったことだろう。
「残念ね。もう蘇ることは不可能みたいね」さぎりはそれを見ながら埃を払うように手を動かし
て、宙に舞う妖気の欠片を振り払っていた。「喋りすぎというわけね」
 純白の鎧に身を包んだ天使は、幽禍里の身体と精神を粉砕した相手を追うことを諦めた。お
そらく遠く離れた場所から遠隔操作をしたのだろう。それでも未熟な悪魔なら精神波動の欠片
を残しているかもしれず、それを追うことによって行方を突き止めることが出来るのだが、どう
やらこの相手はそれほど単純ではなさそうだった。
「久々に大物に巡り合えるのかも知れないわね」戦う天使はそう呟いた後、口を一文字に結ん
だ。神々しい輝きがオーラとなって彼女を包み込んだ。それは強い闘志の現れを具現化して光
り輝いていた。
 ドッグ・エンジェルの本質は戦うことに喜びを覚える戦士の魂・・・・伝説に描かれた優しく穏や
かな天使の姿は仮のものだ。
「妖堂(ようどう)骸紀(がいき)・・・・」勇ましい戦士の口から、その言葉が洩れた。それは断末魔
の邪木幽禍里が空間に向けて放った思念の中から読み取った名前であった。おそらく幽禍里
を操っていた過激派の魔族の首魁の名であろう。
 さぎりはびっしょりと濡れた髪を拭おうともせず、雨が降りしきる天空をしっかりと見つめた。
追い詰めるべき敵がそこにいるかのように、胸中に燃え上がる闘志を眼光とともに吐き出して
いた。
 雨がその勢いを弱めはじめている。少し早めに梅雨が明けるのかも知れなかった。幽禍里
を両断した光の剣に共鳴した天空の雷鳴が、梅雨明けを早めたと思われる。天使や悪魔が活
発な動きを見せるとき、異常気象が生じることも経験則として知られている。そして、これから
はより凄まじい異常気象がこの国を、世界を覆い続けていくことになるのかも知れなかった。
 なぜなら、ドッグ・エンジェルと呼ばれる光霊さぎりの戦いは、今ようやく幕を上げたばかりで
あったのだから。
(了)



トップへ
トップへ
戻る
戻る