それは、思いもかけない要望だった。
少なくとも銀の守護天使たちのリーダーであり、御庭番宗次期首領であり、聖愛学院生徒会
長の少女にとっては。
「カラオケ?」
「そうです、カラオケ♪ だって、まだ一回もみんなで行ったことないじゃないですかァ」
にっこりと白い歯をのぞかせて茶髪の少女が応える。
「それはそうだけど……」
「わたし、聖愛じゃないから、あまり普段から会うってことないし。たまには普通にみんなと遊び
たいなーって」
「本当にそれがいいの?」
「それがいいんです! 里美さんがカラオケ嫌いなら、歌わなくてもいいですから。あ、でもみん
な忙しいし、無理ならそれは仕方ないですけどォ…」
遠慮がちに瞳を伏せる桃子。その寂しげな様子にはさすがに里美も心を動かされる。
「わかったわ。じゃあ、みんなに桃子の誕生日祝いパーティーはカラオケ付きだって知らせてお
くから」
ぱっと頬を上気させた桃子の表情は、どんなファッション雑誌のモデルよりも輝いて見えた。
その笑顔の前に、里美は滅多に行くことがないカラオケに行くことを受け入れたのだった。
3月3日。街路樹の芽吹きに春の気配を感じる街を、花盛りの美少女たち5人が歩いてい
た。
子ども連れの家族でも気軽に遊びに行けるアミューズメントスポットは、ゲーム、プリクラ、そ
してカラオケルームが併設されていて、放課後の高校生にもよく利用されている。
退屈なアルバイトの時間が早く終わることを願っていた店員たちは、突如カウンターに現れた
美少女グループに息を呑んだ。
(ちょ、あれナニ??)
(アイドル? モデル?)
(雑誌かなんか?)
ひそひそと囁き交わす声は店員たちだけではなく、ロビーに居合わせた客からも聞こえてく
る。
グループの中から1人、ショートカットがよく似合う猫顔の少女がカウンターに進み出て、財布
から会員証を取り出す。その見慣れた行為にやっと店員は我に返った。
「い、いらっしゃいませ。5名様でいらっしゃいますね。お時間は…?」
「フリーコースでお願いしまっす♪ あ、機種はハイパーサウンド2がいいなっ。あと、禁煙のパ
ーティールームで!」
「か、かしこまりましたっ。では、こちらからご案内します」
少女はニッと笑って仲間たちを振り返る。重ね着したTシャツとデニムのミニスカートのコーデ
ィネートが少女の活発さをさらに際だてている。
「ラッキー、待ち時間なく入れるよ!」
七菜江のピースサインにためらいなく笑顔を返したのは桃子だけだった。
5人で入ってもゆとりがあるパーティールームは、その名の通り他の部屋よりも装飾が多い。
ポップな色調の内装と明るめの照明が、カラオケルームにありがちな暗さをみじんも感じさせ ない。
七菜江と桃子はさっそく2人で歌本を開き、こういう場に不慣れな里美とユリは興味深げに部
屋を見回す。夕子はと言えば、大きなリモコンやカラオケの通信機器のボタンを押して、その 機能と操作を確かめている。
「あ、そうだ。何か飲み物ないと」
七菜江が開いたメニューには色とりどりのドリンクが載っている。もちろん高校生である彼女
たちが見るのはソフトドリンクの一欄だ。4つの頭がテーブルの上に大きく広げられたメニュー をのぞき込み、あれやこれやと指さす。
入り口の脇に立った夕子が、フロント連絡用内線の受話器に手をかける。
「決まったら言って」
「ジンジャーエール!」
「ピンクグレープフルーツジュース」
「わたしは烏龍茶」
「……オレンジジュースお願いします」
さらにフライドポテトやチョコレートなど口々にオーダーが上がってくる。天才と呼ばれる赤毛
の少女はメモもとらずにそれらをすべて正確に伝えた。
「じゃあ、トップバッターいっきまーす!」
元気いっぱいに七菜江がマイクを握る。拍手の中流れてきたイントロは、七菜江のキャラそ
のままに明るい。
「お・も・いーではー、いーっつぅもキ・レ・イだけっどー!」
ポンポンと小気味よいリズム感。高めの音域は力まかせに歌いきってしまう。
「ごまかせない性格、まんま出てるよね」
夕子の感想に里美も苦笑してうなずく。歌う時でもペース配分は苦手らしい。
だが、いかにも楽しそうに手振り付きで歌う姿は見ている周りも楽しませてくれる。七菜江が
よくカラオケに誘われるのも無理はない。
一曲歌い終わる頃にはうっすらと額に汗がにじんでいた。手のひらをぱたぱたと仰ぎながら
七菜江は着席し、桃子にマイクを渡す。
「はぁ、ちょっと暖房効き過ぎじゃない?」
「七菜江を基準にしないでよ」
「むか。夕子ぉ、今日はケンカ無しでって言わなかったっけ?」
「当たり前のこと言っただけでしょ」
まあまあと里美が割って入る。
「ほら、お待ちかねが来たわよ」
ノックの後ドアが開き、トレイに5つのドリンクを乗せた男性店員が緊張の面持ちで入室して
きた。
「お、お待たせいたしましたっ。ジンジャーエールのお客様…?」
「はいはーい! 待ってました♪」
ショートカットの少女が手渡しでジンジャーエールの入ったグラスを受け取る。アイドル顔負け
の少女と一瞬指先が触れ、男性店員の心拍数を跳ね上げる。
「お次は…」
見渡すと他の子もみんなカワイイ。だが高まる鼓動は赤毛のツインテールの少女にあっさり
と沈められた。
「いいよ、こっちでやるから。置いてって」
甘い声だが表情が容赦なくこの場に自分がいることを拒否している。店員は飲み物とスナッ
クをテーブルに置き、撤退せざるを得なかった。もう2度とこれだけレベルの高い美少女グル ープと同じ空気を吸うことなどないだろうと思いつつ。
桃子が一曲目に選んだのは、ラブラブな2人の恋を歌う甘いガールズポップ。並んだ恋人同
士の2人をさくらんぼに例えた歌詞がかわいらしく、女子高生のカラオケ定番曲になっている。
誕生日会の主賓である桃子は、ローズピンクのニットアンサンブルにコサージュをつけ、クリ
ーム色の花柄スカートを合わせている。ここに来るまでにも「愛されコーデの達人!」としてファ ッション雑誌にスナップ掲載を頼まれ、丁重にお断りしてきた。
普段以上にメイクにも手をかけてみた桃子がライトに照らされてマイクを持つと、どこから見
ても一般人には見えない。
そして、艶やかな唇からこぼれ出すメロディも、そこらの新人アイドルよりよっぽど音程がしっ
かりしていた。藤村女学園の生徒としてはそれほど遊ばない方の桃子だが、それでも七菜江と 同じくらいの頻度ではカラオケにも参加している。それに普段から『たけのこ園』では、よく子ど もたちといっしょに歌も歌うのだ。歌い慣れ、という点では5人の中でも1番かもしれない。
もしこの場に男子高校生がいたら、ときめかずにはいられないだろう。これほどキレイな子に
「もういっかい♪」なんて笑顔を向けられてしまったら。
桃子が歌い終わると、次の予約曲が表示された。最近映画にも出演している女性ヴォーカリ
ストのバラードだ。ユリに歌本を押しつけていた七菜江が意表をつかれて振り返ると、夕子が 表情ひとつ変えないままでマイクを握っていた。
「え、夕子歌うのっ?!」
意外さについ目を丸くして大声で聞いてしまった。
「別に、歌ぐらい歌うって」
悪いかと言わんばかりの唇に、七菜江は急いで拍手を送る。今日はケンカしない日なのだか
ら。
渋めの赤いオフショルダーのトップスと、ブラックデニムパンツを着こなす夕子は、いつもより
少し大人びて見える。
選曲は「さくら」つながりか。ゆったりとしたピアノのイントロに続いて、舌足らずな少女の声が
乗る。
……
…………
(………え?)
(………えぇぇ?!)
しっとりとした歌声だけが流れる。
夕子を除く4人の少女たちは、まず耳を疑い、次に戸惑い、お互いの顔を見合わせた。
音程も、テンポも、全く伴奏と合っていない。少し、ではない。全く違う曲を聴いているかのよう
にすら思えるが、だとしたら前衛的すぎる。しかも、当の夕子は周りの動揺をよそに平然と歌い 続けている。
((((夕子(さん)って……音痴だったんだ…))))
少女たちは呆然と同じことを同じタイミングでつぶやいた。もちろん、胸の中で。
最後のフレーズを歌いきった後の静寂。我に返った里美がまず拍手を叩き、再び時間が流
れ出したのだった。
歌いたくない人は歌わなくて良い。というのが前提で企画承認されたカラオケだったので、そ
の後しばらくは3人が交替でマイクを回す展開となった。
七菜江は飛び跳ねながら歌うようなガールズポップや男性グループの曲、桃子はレコード大
賞常連の女性歌手の曲や人気ドラマの主題歌、時には2人でデュエットもした。
そして夕子は、これがまたR&Bや洋楽などクールで難易度の高い曲を選んでいた。ここまで
来ると次に夕子が何を入れるのか興味が湧くのだから、クセになってしまったのかもしれない。
夕子がトイレに立った時、残された少女たちはしばしお互いの驚きを口にした。正義の聖少
女と呼ばれる彼女らとしては珍しいことだが、それぐらいのインパクトはあったのだ。
「ユーリちゃんっ、歌おうよっ♪」
何巡目かの歌本が回ってきたところで、七菜江はユリの前に歌本を広げた。内気なお下げ
髪の少女は肩をすくませてかすかに首を振る。アイボリー色のニットパーカーにタータンチェッ クのミニスカートは、いっそう幼く見えて中学生に間違われかねない。もしユリ1人であれば、店 から入室拒否をされることだろう。
いたいけな、という言葉がぴったりと当てはまるユリの抵抗は、いかんせん七菜江の強引さ
には敵わない。
「この曲、知ってるよね? いっしょになら歌ってもいいよねっ?」
結局、マイクを渡されてしまい、ユリと七菜江のツインボーカルが始まる。
「すっきな人が、わかぁってくれった♪」(ピース!)
「感動的なで・き・ご・ととー、なりましたっ♪」(ザッツ・オール・ライト!)
「…って、歌ってるのあたしだけじゃん!」
曲の途中で中断。合いの手を入れてくれていたのは桃子であって、隣のユリは口こそ動かし
ていたが、その声はくの一の里美にもサイボーグ少女の夕子にも聞こえなかった。
年下のユリは大きな黒い瞳をうるませて、頬を紅く染めている。その様子にはさすがに七菜
江も可哀相になった。
「……すみません。あの、あまり知らなくって」
「ううん、無理させてごめんね?」
「……知っている曲なら、あの……ちゃんと歌いますから。自分で選びます……」
そう言って歌本を自分で開いた。
「じゃあ、これを…」
そう言って入力したのは、誰もが知っている歌謡曲。これが流行っていたのは少女たちが生
まれる前の時代である。だが、今度は少女らしい声がしっかりと聞こえてきた。
(それにしても)
と夕子は首をひねる。
(そんなに恥ずかしかったなら、何故にここで『桃色吐息』を選ぶかなぁ、西条ユリ15歳)
ロリータフェイスとアニメ声で艶歌。かなり危うい雰囲気が漂う取り合わせではあった。
ユリの歌が終わると予約曲がゼロを表示していた。退室の予定時刻まではまだちょっとだけ
早い。流れから自然と里美に視線が集まった。やや無言の間。桃子が責任を感じて歌本をめ くり始めると、里美が優しく手を止めさせた。
「そうね、せっかく桃子の誕生日なのだし、私も歌おうかな」
黒いタートルネックの上に羽織ったショールを巻き直し、初めて令嬢の指が分厚い歌本のペ
ージをめくる。やがて「ハ」行の曲目の中から一点を指差した。桃子はにっこりと笑い、そのナ ンバーをリモコンから送信する。
ゆるやかなイントロの中でライトに照らされた里美は、クラシックの女性歌手のような気品を
感じさせた。裾に刺しゅうが入った巻きスカートの色も黒、複雑な編み模様が美しい藤色のショ ールが色味となっている。ファッションに比較的詳しい桃子の推測では、ショールだけで2ヵ月 分のアルバイト代が必要となりそうだった。そういうアイテムをさり気なく着こなしてしまえるの が、真のお嬢様らしい。
拍手に幾分照れながら里美が歌い始める。それは、日系台湾人女性シンガーのバラード。
どことなく懐かしいメロディが人気で、新しいカラオケの定番曲となっている。耳馴染みの良い 曲なので、流行歌にそれほど詳しくない里美にもフルコーラスが歌える。
(わ…あ……)
(さっすが、里美さん)
(やっぱり音楽の修行もしてんのかな)
それぞれの表情に感嘆の色が浮かんでいる。本家の歌い方はややビブラートをかけている
が、里美の声はどこまでも真っ直ぐに伸びる。まさに透明な歌声と呼ぶにふさわしい声だった。 叙情的な歌詞に、少し哀愁を帯びた声質がぴったり合っていて、聴いていると切ない記憶がよ みがえってきそうだ。
……君と好きな人が 百年続きますように……
6つの手から大きな拍手が起きる。そして……着席した里美は隣の少女の異変に驚いた。
「ナナちゃん、どうしたのっ?!」
うつむいていた七菜江が顔を上げると、その顔は涙でグシャグシャに濡れていた。そのまま
がっしと首筋に抱きつき号泣する。沈着冷静な里美も慌てる勢いだ。
「えっぐ、ダメですよおぅ、うっく、そんな、ひっぐ、そんなのダメですぅっ!」
「ちょっと、ナナちゃん?! 落ち着いて、ね?」
とりあえず背中をポンポンしてみるが、そんなことでは治まりそうにない。
「七菜江さん、どうしたんですか?」
「ナナ、大丈夫?」
ユリと桃子も肩や背中をさするが、七菜江は子どもに返ったように全力で泣き続ける。
(あ…この匂い。……まさか?)
衝撃から立ち直った里美は、あるはずのないアルコール臭をかぎ分けた。だが、七菜江が飲
んでいたのはジンジャーエールだけのはず。
いや、思い出した。あの時、夕子が席を外した時、七菜江は間違えて夕子のグラスを手に取
り、少し飲んでしまったのだった。
「夕子、そのグラス、こっちにくれるかしら?」
赤毛のツインテールが一瞬固まる。不承不承差し出されたグラスに鼻を寄せると、確かにア
ルコールの気配がした。
「なんてこと…」
桃子は絶句する里美から事情を察した。入り口脇に下げられていた伝票を確認すると、そこ
には「モスコミュール \450」と記載されていた。
「まさか、七菜江が飲んじゃうなんて思わなかったもの」
唇をとがらせて反抗した夕子だが、もちろん由緒ある聖愛学院生徒会長の前には通用せ
ず、きっちりと小言を聞くはめになったのだった。
カラオケルームを出た時には、すっかり日も暮れていた。しんと冷えた夜気が頬に心地良
い。
5人の少女達は明るいエントランスの前で別れの言葉を交わした。同居している里美と七菜江
を除いて、それぞれの帰路は別になる。
「桃子、今日はこんなことになっちゃって、ごめんなさいね」
里美は寝息を立てている七菜江を背負ったまま小さく頭を下げた。だが、振り返った桃子の
顔は明るい。
「とんでもない! すっごく楽しかったです。今までの誕生日の中で一番楽しかった♪」
「そう。じゃあ、良かったのかな」
「わがまま聞いてくれて、本当にありがとうございました」
身軽な桃子のおじぎの方が大きくなる。
「……でも、里美さん」
「うん?」
「……ナナは、ほら、直球で全力勝負したいコだから。それで、もし負けちゃってもその方がい
いって思ってるから」
「……」
「きっと不戦勝なんて、絶対に後々まで後悔すると思うんですよ。だから…!」
「桃子…」
ほっそりとした指が桃子の手を包む。その微笑みに桃子は言葉を続けることが出来なかっ
た。
「うん、そうよね」
きゅ、と指に力がこもると、温かさがじんわりと沁みた。
「いえ、あの、出過ぎたこと言っちゃって」
「ううん、ありがとう、桃子」
少し離れたところから夕子が呼んでいる。途中のバス停までユリと3人で行く約束なのだ。
「じゃ、ナナのことよろしくお願いします。おやすみなさい!」
「おやすみなさい。気をつけて」
里美は手を振って3人の後ろ姿を見送った。少し待てば安藤の車が迎えに来る。
「うみゅ…さとみ…さん、…も、好きな…んだか…ら、ダメですぅ…むに」
夢の中にいる七菜江は、時折なにかをつぶやいている。里美はくすくすと笑って、七菜江の
上からかけたショールを直す。お気に入りのショールは少女の涙と鼻水と涎で散々なことにな ってしまった。それでも、今はもう少しだけこのままでいさせて欲しい。柔らかな身体の重みとぬ くもりを背に感じながら、里美は春の星空を見上げるのだった。
(※未成年の飲酒は法律により固く禁じられています)
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