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「第三話 新戦士推参 〜破壊の螺旋〜 」
序
ふたりのファントムガール、五十嵐里美と藤木七菜江が、彼女たちの学園の教師であり、天
才生物学者である片倉響子の化身・シヴァに惨敗を喫してから、10日ほどが経っていた。
いくら宇宙生命体『エデン』によって、常人離れした回復力を得た彼女たちといえど、その傷
は完治までにはほど遠い。
外科医の立場からいえば、怪我の具合が酷いのは、里美の方だった。なにしろ、宿敵メフェ
レスの悪刃に腹を貫かれてしまったのだから。変身が解け、防衛庁直轄の特別医療病棟に運 ばれた少女を手術した医師は、なぜ、このか細く儚げな女子高生が生きているのか、己の経 験を否定しかけたほどだ。
だが、身体中のあらゆる箇所を破壊された七菜江の事態も深刻だった。特に、少女らしい、
青い果実を連想させる性器に、放水のように延々と注入された黄色の毒は、最大限の努力に よって除去されたが、完全に払拭するまでにはいかなかった。細胞レベルに浸透した毒を排除 するには、日本の最高技術を駆使してもしばらくの時間が必要だった。
七菜江の診断報告を聞いた里美は、安堵する気持ちの方が大きかった。
少々の時間があれば、身体は治ることがわかったからだ。その時間にしても、里美が覚悟し
ていたものと比べたら、遥かに短時間である。
里美が心配なのは、寧ろ、身体についてではなかった。
心について、だ。
出来るなら、記憶から消し去りたい悪夢が、憂いを潜めた瞳の奥底に、あぶくとなって浮んで
くる。
里美の眼前で繰り広げられた、水色の蜘蛛女による青い戦士の処刑のパノラマ。それは熾
烈を極めた。それが正義と悪との闘いとは思えぬほど、一方的な虐戮。心も身体も、七菜江は ビリビリに引き裂かれて、捨てられた。シヴァに全てを奪われたうえで。
身体の傷はいつかは治る。でも、心は―――
『エデン』との融合で、正のエネルギーは増幅しているとはいえ、その程度の心の強化では、
あの魔女の蹂躙の前では、何の役にも立ってはいないだろう。
“ナナちゃんは・・・普通の、17歳の女子高生なのよ。私とは・・・・・・違う”
御庭番衆の頭領の血を引く家柄に生まれ、この国を守るために生きていく使命を帯びた私と
は違うのだ。ナナちゃんは本当なら、幸せに生きていっていい人間だったのに・・・・・・ただ、類 稀な運動神経を持っていたばかりに、あんな酷い目に遭ってしまったのだ。私がこの、血と闘 いの道に誘ったために・・・・・・
意識の戻った七菜江は、里美が辛いほどに気丈だった。
平気そうな顔をしているけど、そんなわけはない。
あれほどの仕打ちを受けて、思春期の女のコが・・・いや、男であろうと、誰であろうと、平気
でいられるわけはないのだ。
恐らく、七菜江の本音は、悲痛に張り裂けそうでいっぱいのはずだった。ただ、里美の前だ
から、そんな素振りは微塵も見せない。七菜江という少女は、そういう少女だ。
「安藤・・・・・・・・」
五十嵐家の2階の応接間。20畳はある、赤いカーペットの上には、ライトブルーのパジャマ
に萌黄色のショールを羽織った、この家の主人と、黒衣に長身を包んだ執事のふたりだけが いた。どんな格好をしても気品さを損なわない少女は、リハビリを兼ねて、少しでも身体を動か すように心掛けたおかげで、前日からベッドを離れることが出来るようになっていた。もうひとり の明朗闊達を絵に描いたような少女は、いまだ身体を起こすことも叶わない日々が続いてい る。
里美は金細工が細かく施された窓枠に触れ、強化ガラスの向こうに広がる景色を見ていた。
初夏の太陽が、広大な庭の緑に反射して眩しい。風が薫る心地がして、美しい少女の瞳は、ス ッと遠くを見るようなものになる。
「はい、お嬢様」
五十嵐家の執事兼里美の教育係である、初老の紳士が、直立不動の姿勢で応える。彼の
瞳は常に、深慮遠謀に縁取られている。
「私は・・・・・・ナナちゃんが辞めるというなら、引き留めないわ」
ふたりが話していたのは、トラウマを負った七菜江が、果たして本当に今後もファントムガー
ルとして闘えるのか? ということだった。正確にいうと、闘わせてもいいのか? を話し合って いたのだ。七菜江が持つ、正義の心とズバ抜けた運動能力に惹かれて、ファントムガールに 選んだのだが、七菜江には本来、闘う義務などない。寧ろ、今まで十二分にやってくれたと評 価したいほどだった。
七菜江がファントムガールを辞めたいと思っているのなら、快く送り出してやろう。
それが里美がだした結論だった。
「お嬢様のお考えに、この老いぼれが口を挟むことはございません。ただ・・・恐らく藤木様
は、辞めるとは言わないような気がします」
「・・・いいえ。多分、本心では・・・辞めたくて仕方ないと思ってる。あのコは、そういうところで
我慢しちゃうコなの」
「そうでしょうか」
「だから、本音を言うまで、じっくり話すわ。そうしてあげないと、あのコは背負った重みに潰さ
れてしまうでしょう。ナナちゃんを助けるために、今日はきちんと話し合うわ」
しかし、今、七菜江を、いや、ファントムガール・ナナを失うことは、あなたにとってどれだけの
喪失か、わかってらっしゃるのですか?
脳裏に渦巻くことばを、黒のスーツに身を包んだ紳士は飲みこんだ。
言わなくても、当の里美自身が、誰よりもそのことを理解しているからだ。
わかっていて、尚、イバラの道を選ぶ。
五十嵐里美をもっとも身近に感じてきた人物は、里美が里美である所以を、よく知っていた。
藤木様、あなたがノーと言うのなら、別れる覚悟はいたしましょう。
祈るような気持ちで、病室となっている寝室に、里美と執事は入っていく。
「ごめんなさい、起こしちゃった?」
純羽毛の掛け布団から、首から上だけを覗かせて、藤木七菜江は寝ていた。赤く蒸気した顔
は、こちらを見つめている。目の周りが黒ずんでいるのは、シヴァの毒が抜けきっていない証 拠だった。
「ううん。起きてました」
弱弱しいが、白い歯を見せて微笑む。その顔には、里美が近くにいるだけで、ホッとできる心
境が色濃くでている。
「ちょっと、話せるかな?」
「どんどん話したいです。ずっと寝てるの、退屈なんだもん」
毒に冒されてるのが、嘘のようにニッコリと眩しく笑う七菜江。
百合のような美少女が枕元の丸椅子に座る。白髪混じりの執事は、扉の脇に存在感を薄くし
て佇んでいる。
「で、今日は何、話しますか? 昨日の続きで、山口屋のイチゴショートについてとか?」
安藤の計らいにより、今は隣同士のベッドで寝ているふたりの少女は、女子高生らしい話題
で、よく盛り上がって話していた。ファッションとか、友達の話とか、おいしい店とか。昨夜、ふた りは怪我人であることも忘れて、駅前の洋菓子店のオススメメニューを、夢中で情報交換しあ っていたのだ。
「・・・・・・・どうしても、ナナちゃんと話しておきたいことがあるの」
里美の口調に、真剣味を感じ取った七菜江の心が緊張していく。ゴクリと唾を飲む音が、静
まった室内に響く。
ふたりの美少女が見詰め合う。お互いがお互いの瞳の美しさを確認する中、里美は潤んだ
唇を、重々しく開いた。
「もし・・・ナナちゃんが、もう闘いたくないと思ってるなら、ファントムガールになんて、ならなく
ていいのよ。元々私が無茶をいってお願いしたんだもの。寄生した『エデン』は離れないけれ ど、私達が責任を持って、ナナちゃんの一生を保障するわ。どこか遠い街で、もう一回人生を やり直せるよう、最大の努力をさせてもらう。辛い闘いを、無理して続ける必要はないのよ」
一気に里美はことばを紡いだ。
「私に遠慮することはない。ナナちゃんが本心で思ってるように、して欲しいの。あなたには、
もう十分助けてもらったのだから」
顔を伏せたまま、じっと聞いていた七菜江は、上目遣いで里美の表情を窺う。捨てられた子
猫を思わせる、哀しげな瞳。桜の花びらに似た唇が、少し震えて言葉が出てきた。
「もしかして、あたし・・・弱いから、ファントムガールクビなんですか?」
「え?? ち、違うわ、そういう意味じゃないのよ。ただ、ナナちゃんが闘うことに疲れたなら、
辞めてもいいよっていう・・・」
「じゃあ、ファントムガール、やってもいいんですね?」
「ナ、ナナちゃんが、やってもいいのなら、もちろんいいけど・・・」
「やったあ!! 私、絶対やめませんからね! こんな目に遭わされて、このまま引き下がれ
ないよ。あの女、片倉響子と、神崎ちゆりには絶対お返ししてやるんだから! あ、あとメフェ レスもやっつけますからね! 私、もっともっと強くなって、二度と里美さんに迷惑かけないよう にします!」
里美が扉の執事を振り返る。その麗しい顔には、驚きと、普段滅多に見せない喜びが、自然
と溢れていた。
“本心を隠してしまうのは、あなたのほうですよ、お嬢様”
本当の気持ちを曝け出した笑顔につられ、落ちついた紳士の顔にも笑みが浮ぶ。
突然、里美がそのスレンダーな肢体で、布団にくるまった少女に抱きつく。上半身全体で覆
い被せられた七菜江が、思わず声をあげる。
「い、痛いよ、里美さん・・・」
「ごめんね、ナナちゃん。でも、もうちょっと抱いていたいの」
この世で唯一人、同じ境遇を、苦しみを、そして喜びを分かち合う仲間を、五十嵐里美は、い
つまでも、愛しく、愛しく、抱き締めるのだった。
1
小鳥の囀りが、明かりの満ちてきた室内に洩れてくる。
柔らかなオレンジの光は、朝の安らぎを平等に世界の隅々にまで運んでいた。光のさざなみ
は、ゆっくりと、闇を暖かな景色にへと、押し寄せていく。
普段はまだ夢の中にいる時間帯に、藤木七菜江は目を覚ました。うっすらと開ける目蓋に、
オレンジの波が溶けこんでいく。少女は陽光をバックに、女神が霞み立っているのを見た。
パチパチとアーモンドのような大きな瞳を2回、まばたきする七菜江。
肩甲骨にまで茶色がかった髪を垂らした女神は、鮮やかな青のプリーツスカートの、サイドに
ついたジッパーを引き上げるところだった。学校の規定通り、膝下にまで届く長さが、女神の清 楚さを強調する。軽やかな音をたて、ジッパーが引きあがったところで、女神は七菜江がこちら を見ていることに気付く。
「おはよう、ナナちゃん。」
「里美さん、おはようございましゅ・・・・・・なにしてるんでしゅか・・・」
決して寝起きのいいとは言えない七菜江は、回らない舌で、朝の挨拶をする。いまだ、魔女
シヴァに注入された毒が抜けきっていない少女は、重い両手を動かして、猫が顔を洗うような 仕草で、開けきらない目をこする。
「そろそろ学校に行こうと思って。あまり休むと変に思われるから・・・」
五十嵐里美は、無造作に、淡いブルーのパジャマをなんの躊躇なく脱ぎ取る。女である七菜
江が、一瞬ドキリとしてしまう。その下には、いつのまにか、薄紫の下着が付けられていた。
目立って大きいわけではないが・・・七菜江が惚れ惚れするような、芸術的なラインを、里美
の胸部は誇っていた。スタイルには七菜江も若干自信があったが、里美のそれは、綺麗としか 表現の仕様がない。シルクのように輝く肌が、その美しさをより助長している。
青いカラーの付いた純白のセーラーを、無駄な動きなく着る里美。青と白のセーラー服は、こ
の地域一帯の女学生が羨望する、聖愛学院を象徴する制服だ。これも学校規定に沿った長さ なのだが、元々が短めに規定しているのか、少し激しく動くと、おへそが見えてしまうことが 多々あった。
しかし、今の里美からは、おへそは見えない。
見えるのは、何重にも巻かれた、包帯の白さだけ。
「学校って・・・・・・そんな身体で行くんですか?!!」
驚いた七菜江の脳が、一気に活発に働く。痛む上半身を無理に起こし、完全に覚醒した瞳
を、心配そうに生徒会長に向ける。
「正直、まだ痛むけど・・・あまり弱いところをヤツらに見せるわけにもいかないの」
里美のいう「ヤツら」とは、彼女達の宿敵ともいえる、ミュータント・メフェレスのことだった。そ
の正体は、生徒会副会長にして学園理事長の孫、久慈仁紀。柳生新陰流の剣術を、影ながら に受け継いできた彼は、久慈流とでもいうべき殺人剣を体得した、恐るべき敵だった。しかも、 その配下には天才生物学者である片倉響子と、「闇豹」とあだ名される、裏世界の住人・神崎 ちゆりがいる。片倉響子の頭脳が生み出した、キメラ・ミュータント=2種類の生物と『エデン』 との融合体を操り、メフェレスは世界征服などという途方もない野望を実現させようとしている。
闇の力に溢れたミュータントを葬れるのは、同じく宇宙寄生体『エデン』との融合により生まれ
る、光の戦士・ファントムガールしかいない。つまり、五十嵐里美と藤木七菜江、ふたりの美少 女こそが、人類の最期の希望なのだ。
そして、その光と闇、ふたつの勢力は、実は聖愛学院という、公的なひとつの場に集結してい
るのだった。
ふたつの勢力は、基本的には通常の姿の時は、争うことを避けたがる。何故なら、闘いにな
った場合、巨大化=トランスフォームをしてしまう可能性が高いからだ。だが、必然的にそれ は、正体をバラす危険を晒すことになる。もし、一般人に正体が知られれば、ミュータントはも ちろんのこと、ファントムガールも抹殺される恐れがある。少なくとも彼女達の考えの中ではそ うだ。よって、両者は己の保全を第一に考えた場合、正体を一般人に知られずに、穏やかに 生活することが最も重要なことであった。
正体を知られるのが致命的ならば、敵の正体だけバラせばいいのではないか。そう考えるの
も当然だろう。事実、七菜江は、そう里美に質問したことがある。だが、里美の答えはノーだっ た。報復で正体をバラしあうようになり、結局はお互いが破滅の道を辿ることになる、と。それ はどちらの陣営にしても、望むことではない。ましてや、互いの戦力をハッキリと把握していな い現状で、そんな冒険を起こす気にはなれなかった。
結局は、正邪両陣営が闘うのは、巨大化した時、というのが暗黙の了解として成立しかけて
いるのだった。
しかし、それは、両者が五分の状況にあれば、の話だ。
傷が完治していない里美が、今、悪に襲われれば、恐らく巨大化するチャンスも与えられな
いまま、嬲り殺されてしまうだろう。
ましてや蜘蛛の魔女シヴァの前に、ファントムガールは完全に屈してしまったのだ。情勢は一
方的といっていい。
そんな状況で学校に行くのは、処刑台に昇るのと一緒だ。
「今行ったら、殺されちゃうよ?!」
「危険なのはわかってるわ。でも、寝ていてもヤツらの侵略計画が進むばかり。こちらも手を
打たないと。」
「じゃあ、私も行くッ!!」
「ダメよ、あなたは歩くことさえままならないのよ」
「そんなの、根性でなんとかしてみせる! 里美さんだけ危ない目に遭わせらんないッ!!
絶対行くからね!」
「ナナッ!! ワガママ言わないのッッ!!」
初めて、里美が仲間であり、下級生である七菜江を叱る。
自分を心配してくれる同士を、後輩を、思いやるが故の、優しい怒り。憂慮する七菜江を暴
走させないために、里美は叱るしかなかったのだ。
一方で、里美は本当に怒ってもいた。すぐに自分を犠牲にしようとする七菜江の精神に、だ。
嬉しくないわけはなかったが・・・そんな考えは自分ひとりで十分だった。
「・・・・・・ごめんなさい・・・・」
凛とした一喝に、ショートカットがシュンと垂れる。小さな肩は、小刻みに震え、ピンクの口を
尖らせた七菜江は、必死で涙をこらえているようだった。
途端に里美の胸に後悔の念がよぎる。そうだ、このコは本当は弱いコなんだった・・・・・・抜群
の運動神経を誇る七菜江の心には、どこか脆いところがあるのを、里美は見抜いていた。
ベッドの上の落ちこんだ少女に近付き、里美はショートカットを優しく胸に包み込んだ。そのま
ま、ギュッと抱き締める。
「ナナちゃんの気持ちはよくわかってる。でも、今のあなたはこんなにもボロボロじゃない・・・
お願いだから、無茶はしないで」
瞳を閉じた長い睫毛が揺れる。涙をこらえ、ぐっと里美の言葉を飲みこもうとする少女の姿が
あった。柔らかな胸の中で、コクリと頷く七菜江。
純粋な後輩を抱き締めながら、里美は彼女の考えを、落ちついた声で話し始めた。
「私達がこんな状況にも関わらず、メフェレスが侵略を開始しないのは、恐らく理由があると
思うの。それは多分・・・手駒を探してる」
「・・・・・・てごま?・・・・・」
「そう。メフェレスは、できれば直接トランスしたくないはずなの。トランス解除後、眠ってしまっ
た時に、仲間が回収してくれるか、不安でしょうから。私達はバックに国家機関がついてるか ら、まだ無事に回収される可能性が高いけど、ヤツらはそうはいかないわ。より慎重に侵略を 進めるためには、配下となるミュータントを利用したいと考えるんじゃないかしら? この前のア ルジャのように」
再び頷く七菜江。アルジャ・・・ネズミと大男のキメラ・ミュータントを使って、敵はこの地方の中
枢都市を壊滅状態に追い込んでいた。キメラ・ミュータントという、化け物を作り出す手法を手 に入れたメフェレスが、それを利用しないわけはない。
「ただ、そうなると、『エデン』の宿り主が必要になるわ。けれど、私達が正のパワーに満ちた
人間を見つけられないのと一緒で、強烈な負のエネルギーに満ちた人間を捜すのは、なかな か困難な作業だと思うの。それに、いくら片倉響子が天才だからといって、そんなに簡単に 次々と『エデン』と動物を融合できないんじゃないかしら。だから、まだ攻めてこない。今はミュ ータントを作るのに、精一杯なのよ」
里美がそこまで考えていたことを知り、七菜江は内心驚いていた。恥ずかしながら、七菜江
は敵が何故攻めてこないかなど、考えたこともなかった。自分が倒れているから、攻めてこな いのは、なんとなく、当たり前のような気持ちになっていた。能天気に構えていた己が、腹ただ しい。
「一方で、ナナちゃん、これは私達にとって、これからもっとも重要な任務になるんだけど・・・
私達はなんとしてでも、新しい仲間を見つけなくてはいけない。久慈仁紀、片倉響子、神崎ちゆ り・・・ヤツらが少なくとも3人いて、しかも新たにミュータントを創る力があるのに比べて、ファン トムガールがふたりでは、とても勝てない。『エデン』はあとふたつあるから、最低でもふたりの 仲間は加えたいの」
『エデン』が宇宙からきた寄生体であり、巨大化を含めた特殊能力を有することを突き止めた
国家は、『エデン』の収集を極秘裏に進めたのだった。だが、懸命の探索にも関わらず、成果 はたった4つしかなかった。そのうちのふたつが、今、ふたりの美少女に寄生しているのだ。
コンピューターの試算によれば、もっと大量にこの地方に散乱したはずの『エデン』が、なぜ
たった4つしか見つからないのか?
その答えは、どうやら何者かが、国より先に『エデン』を収集していたというのが、真相らしか
った。
その何者かが、誰であるか、もはやそれは明白であったが・・・。
「で、でも・・・・・・そんな人、いるんですか?」
胸から顔を離し、少し赤くなった瞳を開いて、真っ直ぐに憧れの生徒会長を七菜江は見る。
聖母のような優しい微笑みが、少女を迎えてくれた。
「実は、ひとり・・・考えている人はいるのよ」
七菜江の瞳に明るさが灯る。緩やかにカーブを描いて、唇が微笑みの形となる。健康的な白
い歯が、チラリと覗く。
「受け入れてくれるかは、わからないんだけれどね。ただ、少しでも早く話を進めたいから、学
校に行きたいの」
「男ですか、女ですか?」
「女のコよ。ナナちゃんと同じ、2年生」
「・・・・・・もしかして、ファントムガールって女のコしかなれないんですか?」
「そんなことはないわ。男でも光の戦士になれるはずよ。ただ・・・私が見てる限り、男の人で
正のエネルギーに溢れた人って、いないのよ・・・。特に力がある人、格闘技やスポーツで名を あげてる人って、ほとんどが負の力に魅入られてる気がするの」
里美の意見は、体育会系の異性にばかり、恋に落ちてきた七菜江にとって、意外であった。
スポーツをやってる人って、爽やかでいい人ってイメージなんだけど・・・・・・。ただ、里美がそう いうなら、反論するつもりはない。
だが、ひとりだけ、格闘技をやっている人間で、信じられる人物について、七菜江は聞いてお
きたかった。
「里美さん、吼介先輩は、ダメなんですか?」
少女の口から出たのは、学校、いや、そういった括りを越えて、最強と呼ばれる、五十嵐里
美の幼馴染の名前だった。
「・・・・・・前にも、その答えは言ったよね?」
「はい。・・・でも、どうしてダメなのかなぁって。だって、先輩皆に優しいし、私を2回も助けてく
れたし、威張ってるわけでもないし・・・なにより強いじゃないですか」
「そうね。けれど、彼は光の戦士にはなれないわ」
「里美さんだって、先輩のこと、好きなんでしょ?」
押し黙る里美。
スッとベッドを離れ、着替えの掛けてある、壁際のハンガーへと歩を進めていく。その端正な
顔には、微かな動揺と、切なげな翳りが混ざった、複雑な表情が浮んでいる。
里美と七菜江、ふたりは怪我で寝ている間に、いろいろな話をしたが、ついに七菜江が切り
出せなかったのが、里美と吼介の関係についてだ。あの時、七菜江を背負った吼介は、里美 は好きだが、有り得ない、と不可思議な台詞を吐いた。その真相を、七菜江はどうしても、里美 の口から聞きたかった。
それでもなかなか聞けなかったのが、今、こういう形で、思いも寄らぬ方向から、聞き出すチ
ャンスが巡ってきたのだ。
「先輩と里美さんの間には、どんな関係があるんですか?」
「・・・・・・・言ってるじゃない、ただの幼馴染だって。」
「吼介先輩は、そうは言いませんでした。里美さんのこと、好きだって。でも、それはできない
って。どういう意味なんですか?」
「・・・・・・・・」
「お願いだから、教えてください。吼介先輩が光の戦士になれないのも、そのことと関係ある
んですか?」
「それは・・・関係ないわ。吼介は確かにきちんとした人間よ。弱い者には優しいし、熱い心も
持ってる。それに・・・」
いったんそこで、大富豪の令嬢は、言葉を止めた。
「私も、吼介のことは、好きよ」
大きく七菜江は頷く。覚悟していた言葉だけに、冷静でいられる自分がいた。
「でもね、彼は多分、光の戦士にはならない。恐らく、『エデン』と融合すれば、ミュータントにな
ってしまうでしょう」
「そんな・・・先輩に負の力があると思えないけど・・・」
「吼介が闘ったあとの相手を、ナナちゃんは見たことがある?」
1年ほど前に、七菜江は不良に絡まれてるところを、吼介に救ってもらったことがある。そし
て、今回の“ナナ狩り”の件と、2回に渡って、間近で吼介のケンカを見ていた。
「その時の相手の状態は、知ってるかしら?」
脳裏に蘇る記憶。吼介に完膚なきまでに叩き潰された相手は、ある者は血にまみれ、ある者
は骨を肉から剥き出し、ある者は顔面を原型もないほどに破壊されていた。
ゾッとする戦慄が、キレイなラインを描く少女の背筋を這いあがる。
「そう、彼はやりすぎるの。そこに悪魔が潜んでないって、誰が言いきれる?」
「でも・・・・・・」
「もし、吼介がミュータントになったら、私達では手に負えないわ。恐るべき脅威となってしまう
のよ。彼が光の戦士になる可能性は、もちろん無いとは言わないけれど、賭けに出るのは危 険すぎる」
吼介が敵になったら、どうなってしまうのか? 恐ろしい想像が、ショートカットを駆け巡る。ど
うやったって、とても勝てそうに・・・ない。敵うわけがない。里美がなぜ、吼介を戦士として選ぶ ことを、拒絶するのか、七菜江にはよく理解できた。
だが、もうひとつの質問の答えは、まだ聞かされていない。
「じゃあ、里美さんと先輩の関係は?」
再び黙る、深窓の令嬢。憂いを秘めた切れ長の瞳が、哀しげに七菜江に迫る。苦渋とも、諦
めともとれる視線が、純粋な瞳を射抜く。
しばしの沈黙が流れ、里美は、決断したように深い溜め息をついた。
「・・・ナナちゃんには、言っておくべきよね」
己を納得させるように、呟く。
「里美さん・・・・・・」
「でも、もう少しだけ、時間をちょうだい。心の整理をつけたいの。必ず、必ず近いうちに話す
から」
「・・・・・・・わかりました」
深い溜め息を、もう一度、里美がつく。
とても、これ以上、七菜江には聞き出すことは出来なかった。
「とりあえず、この話はこれで終わりましょ。今は新しい仲間を増やすことに集中しなくちゃね」
胡蝶蘭のような上品な微笑みが、話題の区切りを宣言する。無理に作ったとは思えない、見
事な表情に七菜江は感心する。里美が御庭番、現代のくノ一であることは最近聞かされたの だが、こういった修行もしたんだろうな・・・ふと、そんなことを考えてしまう。
里美の努力を無駄にしないよう、彼女を尊敬する少女は、話題を元に戻した。
「でも、本当に大丈夫なんですか? 学校にはあいつら3人がいるんですよ・・・」
「いくらなんでも、学校のような目立つ場所で、殺すまではしないでしょ。・・・それに神崎ちゆり
は、学校にはほとんど来ないから」
しゃがんだ姿勢で、里美は濃紺のハイソックスを履く。スラリと伸びた足が、より長く、華麗に
映える。靴下に関しては、聖愛学院ではなんの指定もなかったが、いまや、生徒会長といえば 紺のハイソックスというぐらい、里美を強く印象づけるアクセントのひとつになっている。ちなみ に七菜江は、短めのルーズソックスを愛用していた。これも隠れファンには絶大な人気を誇っ ている。
しかし、今、七菜江が気になるのは、ソックスを履く里美の顔に、色濃く出ている翳りについて
だった。しかも、その色は、常に冷静な里美には珍しく、不安と懸念であったから、つい声を掛 けてしまう。
「・・・痛むんですか?」
「・・・ん? まぁ、ちょっとは、ね。でも大丈夫よ。どうして? 私、痛い顔してたかな?」
「痛いっていうか・・・なんか辛そうな顔してたから・・・」
「・・・・・ごめんね、心配させちゃったわね。ナナちゃんを叱っておきながら、私がそんな顔して
たら、ダメよね」
「それは別にいいんですけど・・・どうかしたんですか?」
「ん・・・・うん・・・・・」
おとなしそうに見えても、己の意見はハッキリ伝える里美には、珍しい口篭もり方。
“私、最近、ナナちゃんに甘えるようになってきたかもしれないな・・・”
弱い自分を戒めようとして、里美はやめた。
そんなに突っ張って、どうするの?
甘えられる時には、甘えた方がいいかもしれない。今まではひとりでガンバッテきたけれど、
今は隣に仲間がいる。このコを信じるなら、甘えた方が、お互いにいいのではないか?
里美の心の中で、ちょっとした、心境の変化が芽生えてきていた。
黙っていようと決めていた話を、里美は頼れる仲間にすることにした。
「・・・実はね、私、神崎ちゆりと、以前揉めたことがあるの」
有名人・里美の話は、聖愛学院生なら、誰もが知っているのが常識だったが、ちゆりと揉め
たというのは、七菜江も初めて聞くことだった。里美が一年のころだから、入学してない七菜江 が知らないのは当然だ。考えてみれば、絵に描いたような優等生の里美と、対極に位置する 「闇豹」とでは、そりが合うわけはなかった。
「ズル休みしたり、タバコ吸ったり、初めから彼女は荒れてたわ。でも、そんなことじゃ私は何
も言わない。けれど、目の前で同級生が男の子達に乱暴されそうになったの。彼女の指示で ね。私のこと、嫌ってたから、あてつけるつもりだったみたい。さすがに我慢できなくて、私は彼 女を懲らしめたわ」
神崎ちゆりは悪魔のような女だが、腕力があるわけではない。(恐らく『エデン』が寄生してい
る今は、違うだろうけど)忍びとしての鍛錬を、幼少より受けてきた里美には、勝てるわけがな かった。まして大財閥の令嬢となれば、あまり無茶もできない。結局、ちゆりは泣き寝入りをし たようだ。
「彼女、私のこと、憎んでるでしょうね」
「でも、それは里美さんは悪くないよ! 完全にあのイカれた女の逆恨みじゃない!!」
「ありがとう。でも、そういう理屈の通じる相手じゃないから・・・」
ニッコリと、痛々しいまでに可憐に微笑む里美。これからの不安より、話を聞いてくれる仲間
がいることに、少女は嬉しさを噛み締めているようだった。
「やっぱり、行かないで、里美さん!! 危険すぎるよ!!」
「大丈夫よ、ちゆりは滅多に学校には来ないもの。逃げててもどうせ、闘わなくちゃいけない
んだし・・・」
スクッと立ち上がった里美は、深い青色のスカーフを、清流が流れるがごとき鮮やかさで巻
く。神々しいばかりに輝く、セーラー服姿の聖愛学院生徒会長がそこにはいた。慈愛と気品と 清純さに満ちた華が一輪、初夏の朝焼けを後光にして立ち振る舞う。
綺麗・・・・・・七菜江の喉の奥で、嘆息がこぼれる。青と白のセーラーが、これほどまでに似
合う人はいない。制服が、誇っている。里美がこの制服を着る限り、聖愛学院のセーラー服は 永遠に憧れ続けられるだろう。
毒の抜けきらない体を支える少女に、里美は強く、優しいことばを掛けた。
「心配しないで、必ず帰ってくるから。私はもう、ひとりじゃない。大事な人が待っててくれるか
ら」
凛とした涼やかさが、留守番の少女の胸を心地よく振るわせ、吹きぬけていった。
3年生普通科が入っている校舎・第10号館では、その日、ちょっとした騒ぎが起こっていた。
原因は、学園のマドンナで、生徒会長の五十嵐里美が、久しぶりに登校してきたためだっ
た。里美に限らず、巨大宇宙生命体が、この星に現れるようになって以来、学校を休む者はど れだけでもいたが、今回里美が休んでいるのは、宇宙生物から逃げるときに、怪我を負ったた めというから、穏やかではなかった。事実、アルジャと名付けられたネズミ型の巨獣が現れて から、半月以上もの間、里美は学校を休み続けた。
復活した里美を待っていたのは、クラスメイトたちからの歓声だった。男も女も、元気な里美
の姿を見たくて、良かったねの一言が言いたくて、仕方が無い。その気持ちはクラスに留まら ず、校内中の里美ファンを巻き込んでのものになったから、お祭り騒ぎとなったのだ。里美ファ ンといったら、学園の半分以上のことである。あまりの喧騒に、担任の数学教師も、ほとほと困 り果てた様子で聞く始末だ。
「五十嵐ィ・・・お前、全校集会で復帰挨拶でもやったらどうだ?」
「すいません・・・ご迷惑おかけしてます・・・」
さすがの里美も、予想外のフィ―バーぶりに、恐縮するしかなかった。
午前中は里美の復帰祝いに沸いた校内だが、昼ごろともなれば、さすがにその熱も、幾分か
は冷めていた。
思ってもいなかった歓待に、内心辟易した里美だが、お陰でメフェレス・久慈仁紀の魔の手
から逃れられたのは、幸運であった。この様子なら、しばらくは、仕掛けてくることも出来ないだ ろう。
“この間に・・・・・・”
里美は最優先ですべき行動を、早速取ることにした。
「ね、ねえ、五十嵐里美が来てるわよ・・・・」
聖愛学院の第3号館は、3学年全ての理数科が集められた校舎である。普通科とはやや離
れた場所に校舎があるのと、平均偏差値が10は違うことから起因する、理数科生のエリート 意識により、精神的にも普通科とは隔離された印象がある。
その99%は有名大学の理学部・工学部に進路を決める理数科は、聖愛学院の中でも飛び
抜けた頭脳を誇る、勉学におけるエリート集団だった。明るい校風が自慢の学園内において、 この理数科だけは春夏秋冬いつでもピリピリとした緊張感に包まれている。
その学園の孤島に現れた美少女の姿は、やはり一際異彩を放っていた。
一体、何の用があって、こんなところにいるのか?
その多くが男子生徒の理数科にあって、その美貌は目立ちすぎた。ほとんどの生徒が、休み
時間を利用して解いていた高等数学の問題集から目を逸らし、里美の一挙手一投足に注目す る。
里美が向かうのは、2年C組の教室だった。
ちなみに里美が年下にも呼び捨てされてるのは、嫌われてのことではない。芸能人を呼び捨
てにする感覚に似ていた。それほど、里美の名は、学園内でアイドル化しているのである。
衆目の中を、目当ての教室にまで辿りついた里美は、後ろの扉を引こうとする。
その瞬間、急に飛び出してきた青いセーラー服とぶつかりそうになり、咄嗟に身を捻って、衝
突を回避する。
「・・・ごめんなさい」
言葉は丁寧だが、キッと鋭い視線を里美に飛ばす少女。そのまま、廊下を走り去っていこうと
する。
「待って! あなた、霧澤夕子さん・・・よね?」
「そうですけど」
少しムッとした様子で振り返る少女。
身長は、里美より少し低いぐらい。七菜江とほぼ同じだろうか。
反抗的な態度とは裏腹に、そのマスクは、実に端正なものであった。可愛いと美しいを足した
美形。絶妙のバランスで目鼻立ちは整っているのに、二重のパチリとした瞳が可愛らしさを演 出している。その髪は明らかな茶髪。里美も少し染めているが、夕子という少女の髪は、理数 科には類を見ない鮮やかなブラウン。左の前髪は垂らし、右は銀のヘアピンでかきあげてい る。後の方は両サイドでまとめたツインテールが、襟足にまで伸びている。全体としては肩まで のショートで、端正な顔によくマッチしている。
少女のセーラーは里美たちと基本は変わらないが、青いカラーに入るラインが、普通科が白
なのに対して、理数科は赤だった。そして、少女の外見上、最大の特徴は、首輪をしていること だった。
2cmほどの幅の銀の首飾りが、一分の隙もないほど、首に密着している。古代遺跡で発掘
されたようなそれは、確かにオシャレではあったが、あまりにピタリとくっついているので、息苦 しく感じてくる。
里美の視線は、知らずその首飾りに吸い寄せられていた。
視線の先に気付いた夕子という少女は、声を荒げて言い放った。
「なに、ジロジロ見てるんですか?! やめてください!」
「ご、ごめんなさい。素敵な首飾りだな、と思って」
百戦錬磨の里美が、思わずたじろぐ迫力。少女の声は甘えたような、鼻にかかったような響
きがあり、本来とても可愛らしい声なのだが、こめられた気迫がそうは思わせない。クラス中の 注意が、ふたりの遣り取りに集まる。
「用ってなんですか?! 私、忙しいんで早く言ってください」
「あの・・・少しだけ、時間分けてくれないかな? ふたりだけで話したいことがあるんだけど」
「急にそんなこと言われても困ります。私、やることがあるんで」
「じゃあ、今度、都合のいい時に時間取って・・・」
「失礼します」
話の途中で踵を返し、少女・夕子はスタスタと走り去ってしまった。呼びとめる里美の声も、夕
子には届かないようだった。
“これは・・・一筋縄ではいかないかもね・・・”
フウ、と息をつく里美の周りに、C組の女の子達が集まってきていた。理数科では1クラス40
名中に女子は5・6名しかいない。今いる4人が夕子を除いた全員なのだろう。
「あの〜〜五十嵐先輩、霧澤さんに用事だったんですか?」
「ん・・・・まあ、ちょっとね」
「彼女とは関わらない方がいいですよ・・・」
「どうして?」
「いつもツンケンしてて、私達とも仲良くしようとしないんです。普通、理数科の女子は少ない
から、団結するものなのに・・・。研究があるとかで、他の人とは交わろうとせずに、ああやって 時間があれば実験室に閉じこもってるんです・・・。首輪のことも言うと凄く怒るし。揉めてばか りいるから、理数科で彼女と話す人はいませんよ」
「ふ〜〜ん・・・・」
小さくなっていく茶色の髪を、里美はいつまでも眺めていた。
下校時になってもう一度、2年C組のクラスを訪ねた里美だが、そこに求める首飾りの少女
はいなかった。どうやらすでに“研究”に向かったらしい。
聖愛学院では放課後に実験室などの教室を、生徒のために開放していた。利用するのは主
に理数科生だが、そこで自由研究に没頭する将来の博士候補も、何人かいた。
探せば霧澤夕子の姿を見つけることはできようが、昼の様子からして、研究の邪魔をするこ
とになれば、決定的に嫌われそうだ。本日中の接触を諦め、里美は帰宅することにした。
新体操部にはまだ所属していたが、オリンピックの強化選手の話は辞退していた。ファントム
ガールと二足の草鞋を履けるほど、甘い世界ではない。金メダルの夢はとっくに諦めていた。 彼女には、生まれながらにしての使命がある。
部長としての役割から考えれば、体育館に顔くらい出すべきだろうが、残念ながらその余裕
はなかった。
腹部の傷が、痛みだしている。
心配させないために、七菜江には黙っていたが、里美の怪我はまだ完治には程遠い状態だ
った。抜糸は終わり、開いた穴は閉じていたが、抉り取られた肉は、完全には繋がっていな い。局部を麻痺させる口伝の秘薬のおかげで、かろうじて平静を装っていたが、さすがに効き 目が薄れてきていた。歩くたびに、ズキリと響く。
部活動のために人影の絶えた校舎の廊下を、姿勢の良い彼女らしくない様子で、とぼとぼと
歩く里美。
その足が、ふと立ち止まる。
「・・・今日は現れないかと思ったわ」
「本命は、しんがりを務めるもんだろよ」
廊下の壁にもたれている逆三角形の肉体は、里美の幼馴染・工藤吼介のものだった。
「その様子じゃあ、まだ本調子じゃなさそうだな」
里美の隣に来た吼介が、肩を貸して支える。身長差は男が腰を曲げて調節した。
安心したせいか、里美の額にドッと汗が噴き出る。ほとんど吼介に抱きかかえられる形にな
り、里美はその身を任せることにした。
「吼介、ごめんね・・・でも、ちょっとカッコつけすぎじゃない?」
「おう、オレはカッコつけ野郎だよ。けどな、お前は強がりすぎなんだ。オレぐらいには甘えと
けよ」
そうだ、里美が甘えられるのは、七菜江以外にもいたのだ。
頼もしい腕に抱かれて、類稀なる美少女は暖かな居場所で安らぐ。
できれば、このままずっといたいが・・・彼女には男に言わなければならないことがあった。
「ナナちゃんのこと、好きなの?」
湖底を思わせる美しい双眸が、男臭い角張った顔を見つめる。視線を合わせず、しばしの静
寂の後、吼介の口が開く。
「・・・ああ」
「・・・私達のこと、あのコに言おうと思ってる」
「・・・・・・・・そうか」
互いに何を言えばいいのか、わからずに時間だけが過ぎていく。時々、身体にかかった腕
に、信号を送るように力が篭る。
「吼介・・・・・・・」
長い睫毛が揺れる。星を宿した瞳に聖水が溢れ、スウ・・・と一筋、陶磁器のごとき頬を伝い
落ちる。儚げな女神の瞳が、涙で霞んでいく。
「好きよ」
正面から抱き締め合うふたり。筋肉の鎧とたおやかな華が、互いを優しく包み合う。唇が重な
り、彫像のように固まった男と女が、傾き始めた陽光の中で影を落とす。
全ての気持ちを伝え合うように、しばし、時が止まる。
やがて、唇を離した里美は、ぶ厚く固い胸に小さな顔を埋める。己の刻印を心臓に押すよう
に、強く、強く。
「オレは、世界一、汚い男だな」
最強と呼ばれる男の濃い苦渋。だが、押さえられない本音が、華奢な肢体を抱き包む。
「ううん・・・・・・あなたの気持ちはわかってる・・・私達にとって、それは一番いい選択のはず
よ」
どちらからともなく離れたふたりは、再び男が肩を貸す格好をとる。それからは無言のまま、
誰もいない校舎を歩く。重々しい足音だけが、放課後の学び舎に木霊する。
「!!」
里美の瞳が細まる。透明なレンズに緊張の色が走る。
己の変化を隣の逞しい男に悟られぬよう、声を掛ける里美。
「ごめん、吼介。私、急用思い出しちゃった」
「そんなのいいじゃねえか。その身体で無理すんなよ」
「でも、今日中にやらないといけないの。身体は大丈夫。それより、お願いがあるの。しばらく
の間、ナナちゃんを家で預かることにしたんだけど、まだ、体調が悪いのよ・・・。お見舞いに行 ってくれない?」
「お、お前の家にか?!」
明らかな動揺が吼介の全身に表れる。複雑な感情の中に、照れがあるのも、現代くノ一は見
逃さない。
「今回は特別よ。安藤にも伝えてあるわ。あのコ、相当参ってるから、あなたの力で元気にし
てあげて。これ、命令よ」
ハートが出そうなウインクをひとつ、吼介に送る里美。普段の生徒会長は、決して暗くなどは
ないが、ここまでお茶目に振舞うのは、限られた人間の前だけだ。その筆頭格の男は、くノ一 の術中に容易く嵌っていた。
「し、しょうがないな・・・。里美がそこまで言うなら行ってやるよ。お前もはやく済ませて、帰れ
よ」
「私はそこまで無粋じゃないわ。ふたりでゆっくりさせたげる」
どう反応していいか、困惑する吼介を飛びっきりの笑顔で見送る里美。しなやかな指を揃え、
ゆっくりと手を振る。心なしか、小さくなって逆三角形の背中は去っていった。
完全に視界から吼介が消えて1分ほど後、大きく深呼吸した里美が無人の校舎で声をあげ
る。
「いいかげん、出てきたらどう?」
鈴のような声音に押し出されるように、闇から湧く影。
少女の前と後にひとつづつ。
「どうも〜。生徒会長さん。もうお身体はよろしいんですかぁ?」
前に立ちはだかる男が、皮肉たっぷりの言い回しで少女を嘲る。
整った顔立ち。一見無造作に見え、それでいて計算され尽くした髪型。薄い唇が、軽薄そうな
印象をより強くさせる。華奢に映る肉体は、その実引き締まり、一切の無駄を削ぎ取ったアスリ ートの身体であることを、里美は知っている。
生徒会副会長にして魔人メフェレスの正体。久慈仁紀は、甘いマスクを崩し、下卑たニヤニ
ヤ笑いを、緊張する天使に向ける。
「あなたこそ、背中の傷は治ったのかしら?」
「ああ、おかげさまでね。あれは油断するなという、いい教訓になった」
挟み撃ちの形で、ふたつの影は里美に近付いていく。百合のように立ちすくんだ少女は、久
慈を睨んだまま、動けないでいた。
「面倒に巻き込まないために、最強のボディーガードを帰しちゃうとはね・・・相変わらず甘い
わね、ファントムガール。今のあなたに他人を庇う余裕はないはずだけど。素直に守ってもらえ ばいいのに」
背後に立つ女、片倉響子がその低いトーンで語る。侮蔑の響きがその中にはハッキリと含ま
れている。
完璧といっていい美貌。腰までの長い黒髪が空気を包んで膨らんでいる。現代の絶世の美
女は、蛇のような凍える視線を、固まったままの獲物に突き刺す。赤いピアスがやけに毒々しく 映り、エロティシズムを具現化した薫りが、オーラとなって肢体に纏っている。
「それとも、また、この前のようにボロボロにされたい? 弱い正義の使者さん」
里美の真後ろに立った美女が、シルクのストレートヘアーを無造作に掴む。グイっと容赦なく
引かれ、痛みに歪む里美の顔が上を向く。「うッ・・・」という呻きが、思わず洩れる。
突っ立ったままの里美が、言葉を返す。それが今の彼女に出来る精一杯の反撃だった。
「良かったわね・・・毒を使ったり、複数で襲ったり、罠を張ったり・・・汚い手を使ったおかげ
で、私達に勝てて。それで負けてたら、救われないものね」
「言うじゃない。私の足をペロペロと舐めてた人と、同一人物には思えないわね」
「まあ、立ち話もなんだ、ここでゆっっっくり話し合おうじゃないか」
近くの教室を指差す久慈。
『美術室』と描かれた部屋に、妖精のような美少女の姿は連れ込まれ、消えていった―――
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ・・・・・・・」
可憐なトーンの息が、荒々しく吐き出される。
普段そこら中に散らばっているはずのディーゼルや椅子が積み重なり、教室のうしろに山を
形成している。代わりに美術室の前半分の敷地にできたのは、ちょっとした広場。その真ん中 にひとつだけ、椅子が置かれている。椅子を挟んで、長い黒髪の女が背後、甘いマスクの男が 前。
気品と、憂いとを含んだ美少女が、その椅子に座っている。
少女の足元には、彼女の黄色の手提げ袋が捨てられ、筆記用具や教材などの中身が散乱
していた。そして、その横には鈍く光る金属製の物体――十字や矢じりの先の形をしたそれら は、マンガなどで見る手裏剣とよく似ていた。近くには、それらを収めるための、黒革製のホル ダーまで落ちている。
五十嵐里美の全身は、フルマラソンを走ってきたかのように、汗でビッショリと濡れている。キ
ラキラと光る額や頬には、自慢の艶やかな髪がピッタリと貼り付き、異様な妖しさを醸し出して いる。白いシャツが汗を含んで変色し、きめ細かな素肌に纏わりついている。蒸気した、透き 通る肌が熱気を醸し、かぐわしい芳香が美術室に充満する。
漆黒の瞳は虚ろだった。濡れた小ぶりの唇からは、苦しげな吐息だけがせわしく洩れる。ス
ラリと伸びた白い腕は、脱力して垂れている。
いつの間に用意したのか、右手に握られた木刀を、里美の前に立った久慈仁紀が振る。
「うぐうううッッッッッ!!!」
完治してない負傷箇所を、剣の切っ先が抉る。締まった里美の腹筋に、5cmほども木刀が
埋まる。
もう、何度食らったかわからぬ痛打に、くの字に折れ曲がるスレンダーな肢体。だが、ブルブ
ルと震える細い肩を、背後の女教師が掴み、また身体をグイッと元に戻す。
痛みに耐えきれず、過酷な修行をくぐり抜けた、里美の顔が歪む。眉根が寄り、瞳が細ま
る。
容赦ない木刀の一撃が、またも腹の傷跡を渾身の力で突く。
「うぐふううううッッッッ!!!」
うめいた里美が先程と同じように折れ曲がる。そして、また片倉響子に起こされ・・・
こんな地獄が、1時間以上も繰り返されていた。
はじめは平静を装っていた里美の精神力も、度を越したリンチの前に崩れ去ってしまった。
明らかな苦痛の翳が、美しい顔にこびりついて離れない。壊れそうな肉体が、危険信号を痙攣 という形で小さな全身に送る。
もはや、表情は哀しげに歪みっぱなしとなり、濡れ光る汗は、青のカラーとスカートを紺色に
染めようとしている。
こうなるのはわかっていた。
事情を知らないはずの吼介が、護衛するかのように現れてくれた時に、素直に側に付いてい
てもらえば、恐らくこんな目に遭わずに済んだろう。
だが、里美にはできなかった。片倉響子が素材としての吼介に興味を抱いているのを知っ
て、彼を危険な目に遭わせるわけにはいかなかった。たとえ、吼介が今の自分より強いと悟っ ていても。
なぜなら、里美は人々を守る、ファントムガールなのだから。
一対一なら、なんとかなるかもしれない。しかし、直接手を合わせた里美は、久慈と響子、こ
の悪魔ふたりに傷の癒えぬ自分が敵わぬことは、誰よりも理解していた。
まして響子には完敗を喫したのだ。七菜江を気遣うあまり、己のことは忘れがちだが、里美
の心にも、敗戦の爪痕は、深く刻まれている。あの、腹を八つ裂きにされる激痛が、六本の腕 から送られる地獄の業火が、里美の記憶に蘇るたびに、プライドも使命も捨てて、泣き叫びた くなる。
圧倒的な戦力の前に、闘うことも逃げることもできない。
今の少女にできるのは、ただこの暴虐の嵐が過ぎるのを、じっと耐えて待つのみ。
前髪が鷲掴まれ、汗まみれの顔が晒し上げられる。元が超のつく美少女だけに、濡れそぼ
り、苦悶の表情を浮かべている様は、淫靡な迫力さえ伴っている。
「最初の威勢はどうしたのかしら? 随分弱気ね、会長さん」
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ・・・・・・ううぅ・・・・くうぅ・・・・・」
「ハハハ! 無抵抗の女をいたぶるのは気分がいいな!」
肉が潰れる音が響き、木刀がくびれたウエストにめり込む。
今度は肩と髪を押さえられていたため、うずくまることも許されず、突きの直撃に悶える里
美。
「ぐうううううッッッ!!!! ・・・・・・がはあッ・・・・ぐふうッ・・・・こ、殺すなら・・・・・早く殺せ
ば・・・・・・」
「そんな簡単に楽になれると思ってるのか? このオレ様に傷を付けた罪は重いぞ、五十嵐
里美。貴様などいつでも殺せるが・・・人類の人身御供となって死んでもらう」
片倉響子が戒めの手を放すや、ガクリと俯く清廉の華。その背後に今度は久慈仁紀が、苛
めの快感に酔いしれた形相で立つ。ピアニストのようなしなやかな指が、セーラー服の胸元、 珠の汗が浮んだ肌と、ブルーのカラーの間に伸びる。
「クックックックック・・・・・」
学園のマドンナ、誰もが憧れる秘境へと伸びる、下衆の指。
以前、胸に伸ばした手は、里美自身の高貴な拒絶によって阻止されたが・・・・・
だが、今の里美にそんな自由はないことを、生命すら怨敵に預けた身であることを、本人が
一番自覚していた。
美術室の天井を見上げる里美。這いずる指の感覚が、柔らかな肉丘に迫っていくのを、微動
だにせずに受け入れる。
形のいい乳房はすっぽりと久慈の手に包み込まれ、先端の桜色の蕾は、二本の指に挟まれ
弄られる。
「うぅ・・・・・あふ・・・・・く・・・・・」
胸元から滑りこんだ手が、セーラー服の中で里美の白桃を揉みしだく。青いカラーが、手の
形に膨れ上がり、清潔感ある制服をしわくちゃにしていく。
性的なものより、屈辱感が里美の心を食い破り、哀しげな喘ぎが唇を割って洩れてしまう。
脱力した正義の少女戦士が、なにもできずに敵の愛撫を甘受する様は、悪魔たちの嗜虐心
を満たしていく。
「いいザマね、五十嵐里美。あなたみたいにお高く止まってる人には、こういった辱めがとっ
ても似合うわ」
「うく・・・・・・はうぁ・・・・・う・・・う・・・・・」
「里美、スペシャルゲストだ。どうしても、お前を嬲りたくて仕方ないそうだ」
空いている手で、久慈が里美の髪を掴み、焦点のぼやけた視線をある方向に無理に合わせ
る。
霞む視線の先に、3つ目の人影がいた。
茶髪。薄めのグラサン。豹柄のチューブトップとミニスカート。濃いアイラインと金色のルージ
ュが目を引く。右腕には大きなシルバーのリングが3つ。黒のハイヒールは、踵部分が異常に 尖っている。学校という場をわきまえない、毒々しいまでにド派手な格好のそのコギャルは・・・
「ち、ちゆり・・・・・・・・・・・」
いつの間に,現れたのか。
弱々しく、里美がコギャルの正体を語る。その瞳には、恐怖の翳が滲んでいる。久しぶりに会
った元クラスメイトは、無言のまま、ヒールを高々と響かせ、一歩一歩、椅子に座った生徒会長 に近付いてくる。
「久しぶりねェ〜〜、里美ィィ〜〜。あんた、ファントムガールらしいじゃん」
「闇豹」神崎ちゆりの左手が、里美の顎の先端を持ち、グイと上げる。白い歯を見せて、整っ
た容貌を覗き込むちゆりとは対照的に、自然目を逸らす里美。
ドボオオオオッッッ!!!
「うぐうううッッッ!!!」
その目が見開かれる。ちゆりのか細い腕から繰り出されたとは思えぬ豪打が、またもや里美
の腹部に叩きこまれていた。ちゆりの指には無数の指輪。それがメリケンサック替わりとなっ て、腹筋の繊維を断つ。
「里美ィィ〜〜、あんた、“ちり”にやったこと、忘れてないよねェ〜〜? あの時のお返し、た
〜〜っぷり、してやるからねぇ〜〜♪」
今度は麗しい顔面に向けて、鉱石を散りばめた拳が飛ぶ。
何かが千切れる音を残し、「闇豹」のパンチが、椅子ごと里美を吹き飛ばす。白い頬が,見る
見るうちに赤く腫れる。
埃が汗に濡れた背中に張り付く。埃の中で四肢に力を入れる里美。だが、意志に反して身体
は立ち上がれない。ブルブルと震える里美を背後から羽交い締めにし、久慈がボロボロの少 女を無理矢理立たせる。
「くうッ・・・・ううッ・・・・・・うッ・・・・くッ・・・・・・」
「メフェレスぅ〜〜、あんたの木刀、ちょっと貸してねぇ〜〜」
『エデン』の力を得たコギャルが、無造作に、しかし、めいっぱいに武器を振る。
袈裟切りにスマートな肢体に叩きこまれる木刀。
骨まで断たれるような一撃に、里美の口から血塊が爆発する。固められた両腕の指が、大き
く開かれ反りあがる。
胸の果実がフルスイングで打ち抜かれる。奇妙に潰れる柔肉。ドピュッッと噴き出た血と涙
が、里美の上空に舞う。
「あ〜〜っはっはっは♪ たっのしいィ〜〜ィ!! 里美ィィ〜〜、ズタボロにしてやるからな
ッ!! あははははは!! あはははははは♪」
容赦ない加虐が、華憐な少女を破壊していく。
肉を打つ音と、気違いじみた哄笑だけが、美術室を包んだ。捕らわれた、里美の指がダラリ
と垂れ、ピクリとも動かなくなるまで。
「ふぅ〜〜〜、疲れたぁ。ちり、手がシビれちゃったよォ」
悪魔のように尖った爪を見ながら、神崎ちゆりはひとりごちた。露出の多い素肌には、汗が
浮かんでいるが、特殊なメイクなのか、塗りたくった化粧は、少しも落ちていない。
その両足の下に、五十嵐里美。
聖愛学院の生徒会長は、売春・窃盗・恐喝など当たり前の少女に踏みつけられ、冷たいフロ
ーリングにその身を横たえていた。
胸を左足、顔を右足が踏みつけ、尖ったヒールの踵部分が、圧力のままに、里美の肉体を
へこませている。寝ても崩れない豊かな隆起も、赤紫に腫れあがった頬も、血が滲みそうに押 し潰され、まるで杭が打ちこまれたかのようだ。
里美はピクリとも動かない。
「ちり、起こせ」
メフェレス・久慈の指示に従い、豹女が完全に白目を剥いた美少女の顔を蹴り上げる。
鈍い音がし、血片が散らばる。呻き声とともに、里美の意識が蘇る。
「ア・・・・アア・・・ア・・・・・があ・・・がぶうッ・・・・アア・・・ガ・・・・」
「五十嵐里美、いや、ファントムガールよ、お前は人類を絶望に堕とす生贄だ。六時ちょうど
に我らの下僕を南区に放つ。血に餓えた奴でな、人間どもを助けたくば、闘うことだ。貴様はそ いつに嬲り殺されるがいい」
「ええ〜〜〜、ちり、今すぐ殺したいよォ〜」
「そう言うな。こいつらとの闘いは終わったも同然。観客どもに、ヤツらの希望が完全に潰え
る様を、思い知らせるのだ。そうすれば、もはや、抵抗する気も失せよう」
「ふふふ・・・別に嫌なら来なくてもいいのよ、生徒会長さん。あなたの代わりに人間どもが死
ぬだけだわ。それとも、ナナを行かせる? まあ、まだ生きてるのか、知らないけれど」
3種類の笑いが、里美の頭上を渦巻く。
侮蔑の笑いを一身に受け、ファントムガール・五十嵐里美は、ただ、冷たい床に倒れたまま、
笑い声が遠ざかっていくのを見送るしかなかった。
白い歯で、血にまみれた唇を強く噛むのが、彼女に出来る唯一の意志表示だった。
美術教師・金村は、日課である担当教室の見回りをしていた。
基本的に戸締りは、用務員さんの仕事だが、特別教室は、それぞれの担当者が備品のチェ
ックなどを毎日行うことになっていた。別に毎日じゃなくてもいいのに、とは思うが、そこは経営 者の徹底した管理態勢ゆえである。
森林に囲まれた「アトリエ」と通称される建物が出来て以来、美術部はそちらで活動してい
る。器材・設備が抜群に揃い、ロケーションも芸術に没頭するには最適だからだ。3号館にあ る美術室は、半分倉庫のようなものになってしまっていた。
だが、それでも見回りだけは欠かすことは出来ない。煩わしいことは、早く解決したいタイプ
の金村は、少し早いが美術室だけ先にチェックを済まそうと目論んでいた。
色白で背がひょろ長い金村は、いかにも芸術肌に見られる。太い黒縁の眼鏡は彼のトレード
マークでもあった。現在取組中の油絵が、あと少しで完成するとあって、美術教師の心は逸っ ていた。
ガラリと美術室の扉を開ける。
その瞬間、異臭が彼の鼻腔を刺激した。
“な、なんだ・・・この甘酸っぱい匂いと、海産物のような匂いは・・・汗と・・・・血か?!”
だが、視界に飛びこんできた風景に、そんな想いは吹き飛ばされてしまった。
教室の前半分には机や椅子がなく、空間が広がっている。
その真ん中ほどに教材が散らばり、黄色の手提げ袋が放り投げられている。あちこちに落ち
る、血痕。乾きかけたそれらのうち、いくつかは血溜まりとなっているものもある。
少し赤みが増した斜光が刺しこむ室内に、ひとりの女子生徒が、窓際に体操座りで蹲ってい
る。スッキリとした膝に顔を埋め、少しも動かない。茶色のやや入った髪が垂れ、少女の表情 を隠している。
ここで何かがあった。それだけは明白だ。
声を掛けることも忘れ、金村が少女に近付く。
その長く艶やかな髪、モデルのようなスラリとした手足には見覚えがあった。彼が頭に浮べて
いるその生徒は、美術の成績も良く、去年提出させた水彩画の美麗さに、溜め息が出たほど だった。しかし、生徒会執行部の彼女が、この時間になぜこんなところにいるのか? 金村は 更に少女に近付き、ギョッとする。
夏用の制服から覗く白亜の肌に、ビッシリと青紫の痣が浮んでいる。手や足だけではない、
髪で見え隠れするうなじや、耳のうしろにまでだ。
制服の背中や青のスカートは、泥と埃で黒ずんでいる。よく見るとその汚れは、上履きの底
のデザインに似ていた。どうやらハイヒールらしい跡もある。身体中を蹴られたり、踏まれたの か? そうだとすれば、何十回踏まれたら、こんな汚れになるのか・・・・・想像できない。
「お、おい! 五十嵐ッッ!!」
名前を呼ばれ、少女が顔をあげる。
顔全体が赤黒く、腫れあがっている。
それでも美しさを損なっていないのはさすがであったが、顔中にこびりついた血が、凄惨な様
相を作り出していた。
間違いなく、この少女はここでリンチされたのだ。
金村の教師の経験がそう語ってくる。
「お、お前・・・だ、誰にやられたんだ?!」
もしや、イジメか? 大きな学校だけにいろんな事件があってもおかしくはないが、この五十
嵐里美に限ってイジメなど・・・その気品に満ちた令嬢ぶりに、仄かな想いさえ感じることがあっ た金村は、激しいショックを受けて戸惑う。しかも並のイジメではない。ここまで痣ができるに は、相当強い打撃を繰り返し受けねばならないだろう。これはイジメというより・・・拷問を受け た跡みたいじゃないか。
だが、身体中を木刀で殴打された少女は、美術教師の予想もしない反応を見せた。
彼女はニッコリと笑ってみせたのだ。
「ちょっと、ケンカしちゃいました。心配をお掛けしてすいません。私なら平気ですから、先生、
この事は誰にも内緒にしてください。お願いします」
ケンカ? ジェロム・レ・バンナとか?
頭の回転の早い里美にしては、あまりに稚拙な嘘。
しかし、潰れかけた内臓の痛みに耐えるので精一杯の少女には、それが限界だったのだ。
「もう戸締りの時間なんですね・・・私、行かなきゃ・・・」
フラフラと立ち上がった里美が、ばら撒かれた教材を拾いあげていく。軋む身体を精神力で
支える里美。その全身を見て、金村は再びドキッとする。ハイヒールの跡は背中だけではな い、寧ろ身体の前面、特に腹と胸の膨らみに集中していたのだ。その証拠に踏まれすぎて皮 膚が破れ、白のシャツが薄ピンクに染まっている。
このコは一体何をされたんだ。
跪いた姿勢で里美はひとつひとつの教科書や、ペンケースを拾い上げている。それらにも靴
の跡が黒く残り・・・散々踏まれた後であることがわかる。
「五十嵐・・・・・誰なんだ? 先生に言ってみろ」
悪質なイジメが学園に蔓延っていることを知り、金村の中の正義感が燃える。
「本当に、なんでもないんです・・・。先生、お願いですから、忘れてください」
散乱した中身を拾い集め、手提げ袋を持つ里美が、その瞳を教師に向ける。
ゾクゾクゾクゾク・・・・・
金村の中の正義感が、一瞬にして沈黙する。
恐怖。別世界の視線。
これ以上踏みこめば、生命がないことを、雄弁に里美の眼が教える。常に死と隣り合わせに
生きてきたくノ一は、鈍感な人間に、危険を察知させる術を身に付けていた。
「あ、ああ・・・・・・・忘れる・・・約束するよ・・・・・」
ゆっくりと出入り口まで歩いていった里美が、去り際くるりと振り返り、深深とお辞儀する。絹
の髪が、サラサラと流れ落ちる。
「先生、ありがとうございます」
そして、もう一言。
「今まで・・・・・・お世話になりました」
美しい少女の姿は、風のように消えていた。
“五十嵐・・・それじゃあまるで・・・・・”
その先は考えたくなかった。
美術教師の胸に、暮れかけた夕陽が暗い翳を落とす。
六時まで、あと1時間。
青と白のセーラーが、薄く黄色に汚れている。そこから生えた手足は、緊縛された跡のように
紫の蛇が覆っている。暴打の嵐に木の葉のように舞い続けた少女は、壁に沿って無人の校舎 をズルズルと歩いていた。はぁ、はぁ、という荒い息遣いが、切なげに木霊する。
私・・・バカだな・・・ナナちゃんの言うことを聞いてれば、こんなことにならなかったのに。
私・・・バカだな・・・吼介に守ってもらえば、こんな目に遭わずに済んだのに。
朝、七菜江の言葉に耳を傾け、学校にいくのをやめていたら。吼介に近くにいてもらえた
ら。・・・だが、里美は思う。
そんな仮定は有り得ない、と。
何故なら、常にベストの選択をした積み重ねの上に、今があるのだから。
あの時、あの状況で、私が出来るベストの選択がこれだった。
たとえ、タイムマシンがあったとしても、私が下す選択は変わらない。
六時まであと・・・50分。
このまま、里美は南区に向かうつもりだった。安藤に知らせれば、必ず私を止めようとするだ
ろう。だが、私の抹殺が目的のメフェレスは、ファントムガールが現れるよう、より激しく街を破 壊するだけだ。
私が・・・・・・行くしか、ない。
ズルズルと壁にもたれて歩く里美。荒い呼吸は止まらない。
初めは学校にも秘密裏に設置されている、ジェットラインで現地に向かうつもりだった。
だが、やめた。地下鉄で行くことにした。
この姿は目立ってしまうけど・・・人々の顔を見ておきたい。生活を、街を、文化を。
私が守ろうとしたこの世界を、少しでもこの眼に焼きつけておきたい。
多分、これが最期だから―――
紅い夕陽が、帰宅途中の学生の影を長く伸ばす。
南区は所謂ベッドタウンだった。2階の一戸建てがやたらと多い。敷地面積も外観も似通っ
た造りが並ぶのは、この国が平等の名の元に均等化された結果といえた。その中で20階建 てくらいの巨大マンションが、4つほど点在している。ベランダに干された洗濯物が、まだ取り 残されている窓がいくつかある。
黒い沁みが天高くから広がり、アッという間に巨大生命体の形を取ったのは、ちょうど六時を
回ったときだった。
けたたましくサイレンが鳴り響く。わらわらと家屋から逃げ出た人々が、家族の手を引いて指
定された非難地区へと急ぐ。子供たちを公園で遊ばせていた母親は、混乱の中、我が子を抱 き寄せて駆ける。
ひとりの少女が、公園のベンチに座ったまま、動かない。
現れてから、ずっと眠ったようにうずくまったまま、ベンチに掛けていた長い髪の少女は、
人々が逃げ去るのを確認してから、小さく声を出す。
「・・・トランスフォーム」
少女の身体が白い爆発に包まれ、光の粒子となった肢体が空中に散っていく。
「あ!! ファントムガールだ!!」
母親に手を引かれた子供のひとりが、眩い光の結晶となって現れた、巨大な女神の姿を発
見する。
巨大宇宙生物とほぼ同じ体長は、高層マンションに届きそうな高さだ。輝く銀のシルエットに、
紫の幾何学模様。モデルのような抜群のスタイルが、戦士としての彼女の本分を忘れさせる。 怪物と向き合った姿勢には、凛々しさが溢れていた。
子供たちの無邪気な歓声とは別に、安全な場所を目指す親たちの気持ちは揺らいでいた。
ファントムガールは以前のファントムガールではない。彼女自身はなんら変わることはなかった が、見守る人々の意識は、格段に変化していた。もう、以前のような悪を滅ぼす女神ではな い。悪に屈し、敗北をすすった、単なる巨大な少女なのだ。彼女に過剰な期待はできない。せ めて私たちが逃げるまで、持ちこたえてくれればいいが・・・。
「お望み通り、私が相手になるわ。来なさい」
戦闘態勢に入るファントムガール。正体の五十嵐里美は、己のダメージを冷静に測ってい
た。『エデン』により、どこまで回復できたかを。
“骨には異常なし。お腹の傷も開いてないわ。けど・・・内臓へのダメージは残っている・・・こ
の身体でどこまで持つか・・・”
「ギシャアアアッッ―――ッッ!!」
巨大生物が吼える。身体のほとんどが黒い翼。潰れた鼻に、赤い口からはみ出した牙が鋭く
並ぶ。耳も爪も尖ったその姿は、誰もが蝙蝠を連想せずにいられない。
コウモリのミュータント。
見たところ、知性の高さは感じられない。ということは、人間との融合体、キメラ・ミュータント
ではないらしい。今の貴様など、通常のミュータントで十分屠れるわ。メフェレスの嘲りが聞こえ る。
巨大コウモリと、銀色の守護天使が、夕陽を背景に向き合う。幻想的な光景の裏には、死と
血の香りが漂っている。
「ファントム・クラブ!!」
天空に差し上げた手に、銀の棍棒がふたつ現れる。
コウモリに限らず、空を飛ぶものは、負担を減らすために軽量化されているものだ。骨も空
洞化しており、耐久力はない。クラブの一撃で、十分倒せる計算が里美にはあった。
コウモリが叫びながら、銀の少女に飛びかかる。
上空から襲い来るコウモリの爪は、素早く、不規則。巨大さに関わらない速度に、反射神経
のいいファントムガールが、翻弄される。クラブを振るが、危険を察知するや、手の届かぬ距 離に上がる漆黒の翼。
“は、早い・・・動物のミュータントだけに、行動が予測しにくいわ。けれど、ここまで攻撃が当
たらないのは・・・”
里美にはわかっていた。リンチによって受けたダメージが、ファントムガールの動きを鈍らせ
ていることを。腕を振るだけで、重い熱が疼く。筋肉が動くたびに悲鳴を挙げる。全身を荒縄で 締めつけられているようだ。自然手数は減り、一撃必殺を心掛けるが、思い切って振った腕 も、本調子からはほど遠い遅さだ。
「はぁ・・・はぁ・・・はぁ・・・はぁ・・・・・・」
息が切れ、丸みを帯びた肩が上下する。まだ、闘って5分も経ってないのに・・・。蝕まれたダ
メージの深さを知り、慄然とする里美。その焦りが、更なる深みに嵌らせていく。
「ファントム・リングッ!!」
両手で大きく弧を描くと、白銀に輝くフープが出現する。紫の手袋を振ると、高い位置で、獲
物が疲れるのを日和見していたコウモリに、光のリングが飛んでいく。
容易く避けられるリング。だが、その真骨頂はこれからだ。過ぎ去ったリングが、ブーメラン
のように戻り、背後からミュータントを狙う。
「あッッ?!」
だが、かつて片倉響子の化身・シヴァや久慈仁紀を欺いたリングは、巨大コウモリにあっさり
とかわされてしまう。
“蝙蝠は超音波で物体の場所を確認するというけど・・・それでは、背後からの攻撃など、まる
で意味がないわ。・・・・・・私は何を焦っているの? ダメージを気にして? それとも・・・処刑 宣告を気にしてるの?”
己の心に問いながら、里美は焦りの原因を悟っていた。
メフェレス・久慈は、この場でファントムガールを殺すことを宣言したのだ。
そう、目の前の敵は、ファントムガール抹殺の使命を受けた敵。
その見えない恐怖が、里美を不安に駆り立てている。
返ってきたリングが、ファントムガールの紫の手に収まる。
その瞬間、片膝をついてしまう銀の少女。
「あ・・・そん・・・な・・・はぁ・・・はぁ・・・はぁ・・・・・・」
“こ、ここまでダメージが溜まってるなんて・・・・・・身体が・・・どんどん動かなくなってい
く・・・・・・”
呼吸が乱れ、酸素の供給がままならないことが、さらに激痛を全身に絡ませる。万力であら
ゆる筋繊維を握り潰される幻想が、少女戦士の大脳を支配する。
獲物の弱り具合を探っていたかのように、巨大な翼が地に降り立つ。『エデン』の力を得た動
物には、闘いの悪知恵も供わるのか。
“ま、負けられない・・・ナナちゃんが動けない今、私しかこの星は守れない。なんとしてでも、
この敵を倒さなくては・・・・・・”
「ファントム・リボンッ!!」
巨大な天使の手に白い帯が現れるのと同時、漆黒のミュータントが牙に覆われた口を開く。
「キュア――――ッッッ!!!」
黒板を爪で引っ掻く折の、不快な鳴き声を発すコウモリ。
だが、その声の進み具合に合わすように、コウモリから銀の少女に向かって、足元の家屋が
津波のように爆発していく!
これは・・・・破壊モードの超音波!!
里美にはまだ、冷静な判断力・思考力が残されていた。
リボンを頭上に掲げ、己の身を包むように高速回転させる。白いリボンで出来た繭が、スレ
ンダーな肢体をガードする。
ファントム・リボンを応用した、独特の防御方法。光のエネルギーに満ちた帯を回転させて、
無敵のヴェールを張る。通常攻撃も、闇の光線も跳ね返すこの技は、空気の震動である音波 攻撃に対しても、相当有効であるはずだった。リボンの周りに乱気流が生まれ、気体の震動を 無効化するからだ。
だが、そのためには、“高速”回転が必要なのだ。
通常の体力でファントムガールがこの敵と闘っていれば、恐らく牛耳るのに、さしたる困難は
無かっただろう。
しかし、今の里美は、傷つきすぎていた。
それが、少女の運命を定めた。
破壊仕様の超音波が、白いヴェールを包むや、光のリボンはビリビリに裂け飛び、砂塵とな
って少女戦士の周囲を散っていく。
「そ・・・・・んな・・・・・・私の・・・リボン・・・が・・・・・・・」
紅い世界。白の砂塵。銀の美少女。幻想的な光景。
その後、地獄がやってきた。
「きゃあああああ――――ッッッ!!!!」
細い体躯を自ら抱き締め、絶叫するファントムガール。
破壊の音波が、銀の肢体を崩壊させていく。細胞が震え、光の肉体が崩れていく。内臓が直
接握り潰されているかのような、激痛。
見た目は変わらないが、細胞レベルの破壊の嵐に飲みこまれ、耐えきれぬ苦しさ・痛み・辛
さに、死のダンスを踊る里美。
「ふうわあああああ―――――ッッッ!!!! ああああッッ―――ッッ!!! ううわああ
あああ――――ッッッ!!!」
大地を転がり回り、肢体を折り曲げ、反らし、突っ張らせ、崩れ落ちるファントムガール。全身
の細胞が超音波により共鳴し、狂気の激痛を主人に送り続ける。耐えられない。とても耐えら れない。くノ一の修行など、何も意味を為さぬ、極限の破壊。それを、コウモリは一瞬の間隙も なく、絶え間無く銀の少女に浴びせ続ける。獲物が苦しむのを楽しむように。
守護天使の動きがピタリと止まる。
それは、反撃の狼煙、ではなかった。
敗北の象徴。
両膝立ちになった少女の左手が、天に向かって差し上がる。助けを求める、哀れな左手。反
りあがった背中がピクピクと震える。天を仰いだ青い瞳から、フッと光が消える。
失神した少女の上体が、ゆっくりと、大地に伏せる。
ズズーーンという轟音とともに、土煙があがり、茶色の髪が左右に分かれていく。
「ギシャアアア―――ッッ!!」
勝利の雄叫びを挙げる巨大コウモリ。
そして、それは、ファントムガールの処刑宣告でもあった。
うつ伏せに倒れる銀の背中に乗る、黒い翼。
赤い口が細い首筋に噛みつき、翼を使って怪物に屈した正義の戦士を、空中に吊り下げる。
人類に晒される、脱力した正義の使者。
目的を果たしつつあるミュータントが、最期の仕上げにはいる。
ゴキュウウ・・・・・・ゴキュウウ・・・・・・ゴキュウウ・・・・・・・
体液が、飲まれていく。光の少女の体液が、吸い尽くされていく。
体液を飲む音が響くたびに、ファントムガールの全身に光が一瞬走る。
コウモリが吸っているのは、体液だけではない。光のエネルギーをも吸収しているのだ。闇の
生物にして、光を吸い取る特殊能力を、この怪物は手にしているのだ。
「あ・・・うあ・・・・」無意識の銀の唇から、苦痛の呻きが洩れる。脳ではなく、細胞レベルで苦
しむ少女の身体が、そうさせる。
血を、エネルギーを、吸い尽くす悪魔の唄が街に流れる。
少女の銀色が、光を失い色褪せていく。
流れるようなフォルムの肢体が、ビクビクと痙攣する。
「ああッッ・・・くああああ・・・ああ・・・・・・・・」
迫り来る死の悪寒に、ついに意識を取り戻すファントムガール。青い瞳に光が灯火となって
揺らぐ。
ゴキュウウ・・・ゴキュウウ・・・ゴキュウウ・・・・・・・
「ふああッッッ?!! ふうわああああッッッ―――ッッ!!!!」
“エ、エネルギーを、吸われてるッッ!! ち、力が・・・・・・抜けて・・・・・・”
己に襲いかかる悲劇を思い知るファントムガール、里美。視界が薄闇に覆われている。寒
い。氷に閉ざされたようだ。必死で右手に集中し、光の珠を造ろうと試みる。
「ダ・・・ダメ・・・・・・・も、もう・・・力が・・・・・・・はいら・・・・ない・・・・・。ナ・・・ナ・・・・・・・ゴ
メ・・・・・・ン・・・・・・・・・」
右手がダラリと下がる。
同時に細い首が、吸い尽くされた力を示して、垂れる。
コウモリが銀の少女から、全てを奪う音だけが、異様に大きく響き渡る。
「響子よ、聞いてくれるか」
マンションの屋上、本来ならとっくに避難すべき場所で、2つの人影が声を交わす。
甘いマスクを無表情に強張らせたヤサ男と、長い髪の美女――久慈仁紀と片倉響子。
巨大生物が襲ってこないことを知っている彼らは、この場所で宿敵の処刑シーンを眺めに来
ていた。警戒区域に入った地域は、自衛隊員や警察によって立ち入りを禁じられるとはいえ、 事態が咄嗟なだけに監視の目はないに等しい。
彼らの目の前に、計画の邪魔をする最大の障害者・銀色の天使が、苦悶に喘ぎ、今、その
命を散らそうとしている。
「人間は誰もが挫折を味わう動物だ。幼稚園に入り、自分より腕力の強い者に出会い、小学
校に入り、自分より足の速い奴と会い、中学生になって、自分より賢い人間を知り、高校生に なれば、自分よりモテる存在がいることを悟る。そうやって、挫折を繰り返すことで、“負ける”こ とに慣れ、いつしか小さな夢しか描けなくなる」
「大多数の支配される人間とは、そういうものよ」
「だが、オレは挫折を味わうことは、ほとんどなかった。だからこそ世界征服という、小学生が
聞いても笑いそうな夢を、いまだにオレは持ち続けている。なぜなら、オレは選ばれた人間だ からだ。劣等人種では、持つことさえ許されぬ壮大な夢なのだ」
「ふふ・・・クズには、到底辿りつけない境地でしょうね」
赤いルージュの端が吊り上がる。色素が薄めの瞳の中には、断末魔に震える銀色の少女が
写っている。
「がッッ!! そんなオレに挫折を味あわせてくれた奴がいる!! ・・・それがこいつだッッ
ッ!!!」
無表情なマスクが一変し、三日月の笑いが冷たく貼りつく。目も口も、弓型に歪み、奇怪な笑
顔でヤサ男が巨大な少女を指差す。その先には、グッタリと息も絶え絶えな天使が、吸血獣に 生命の源を奪われて死にかけている。
「五十嵐里美ィィッ!! 貴様がファントムガールだったのは、神の最高の演出だった! そ
の、非人間体の姿のまま、死体を晒してやる! うわはははは!!」
笑う。悪魔が笑う。愉快げに笑う。正義の使者の死を、優等生な少女の死を笑う。
「くくく・・・下等生物のトランス時間は長い。エネルギーを吸い取られて絶命した後も、体液を
吸い尽くされろ。骨と皮だけになった、無惨な死に様こそが、貴様にはお似合いだ! ふはは はは!!」
狂ったように笑う悪魔。その顔には、プレイボーイとして鳴らした優しい微笑みの欠片もない。
単なる復讐鬼、いや、独裁者の笑いであった。
「うふふ・・・見て、あの顔。このコ自身が、自分の運命をよくわかっているわ。もう、どうしよう
もないってことをね。こうなっては逆転はない。どうやらこれでお終い、ね」
絶望の街に、高らかな笑い声が響き渡る。
刻一刻と、宿敵が死に絶えていく有り様を、久慈は特別リングサイドで楽しむ。
口の中で呟いた片倉響子の声は、歓喜にむせかえる悪の枢軸には、届かなかった。
「・・・残念よ、ファントムガール」
「ふああッッ・・・・・・ああッ・・・あああッッ・・・・・・・くううッ・・・・・ああッ・・・あ・・・・あ・・・」
死が近付く痛みに、悶える声が垂れ流れる。もはや、里美自身がその声がどこからでている
か、わからない。死に逝く者が、生への未練を残すかのような、悶え。
片倉響子の言葉通り、ファントムガール・五十嵐里美は、己の死を受け入れようとしていた。
何もできないことは、自分が一番わかっている。学校で宣言された通り、メフェレスの思惑通 り、私は人類の目前で見せしめとして、殺されるのだ。悔しいが・・・・・・もう、私にはどうするこ ともできない。
“このまま、エネルギーを奪われて殺され・・・・・・その後に血を全て吸われるのね・・・・・ろくな
死に方はしないと覚悟してたけど・・・・・惨めね・・・・・私・・・・・・・”
涙を流す体力すら残っていなかった。闇に包まれていく視界。死を待つ里美に、様々な想い
が溢れてくる。
“ナナちゃん、ごめんね。約束守れなかった。私のせいで辛い目に遭わせてごめんね。もう、
会えないね”
“吼介、ナナちゃんのこと、よろしくね。あのコはとてもいいコよ。私の分も幸せにしてあげて
ね”
“安藤、今までありがとう。あなたのおかげでここまでやれたわ。感謝してます”
“お父様、ごめんなさい。里美は弱い子でした。この国を守れず、死ぬことをお許しください”
胸の水晶体から青い光が消えていく。線香花火のようにチラチラとくすぶる命の炎。
薄れる意識が、まさに絶たれんとする、その寸前―――
光が爆発し、白い嵐が錯綜する。
渦を巻いて収斂し、眩い粒子が凝縮していく。空間を引き裂いて、四方八方から輝きが湧
き、一箇所にまとまって、巨大な影をかたどっていく。
密度を増す明るさ。光の欠片が散らばるや、美しい人影がそこには立っている。
目を覆わんばかりに輝く、銀のボディーライン。
胸と下腹部には、青く光る水晶体がある。
滑らかな骨格は間違いなく女性のそれだった。寧ろ、身長はファントムガールよりやや高いぐ
らいなのに、肩幅は逆にやや狭く、全体に華奢な感じが、少女という趣を強くする。手足が長 く、小ぶりな胸は形が良い。
全身に描かれた模様の色は黄色。緑の髪は、襟足のところで左右に大きくふたつに分か
れ、まとめられて背中に下がっている。その髪型がまた、少女らしさを演出している。
軽く開いた左手を前に出し、右手を胸の上に置いて、姿勢良く構えた姿には、醸し出す幼さと
は反対に、隙がない。大きめの青い瞳が愛らしい表情を造っている、その人影は―――
ファントムガール。
新しいファントムガールが、里美の瀕死の危機に際し、現れたのだ。
“ナ・・・ナナちゃん??! ・・・・・・ちがう、一体誰なの・・・・??”
暗い視界の中で、新たなファントムガールがこちらに向かって駆けてくる。
左の掌底突きを、ファントムガールに噛みついたままのコウモリへ。細腕から繰り出されたと
は思えぬ威力に、漆黒の翼が「ギャッ」とうめいて獲物を放す。
崩れ落ちる銀と紫の少女を抱きかかえる新戦士。体力を消耗しきった肢体を、優しく横たえ
る。残りカスのような体力を振り絞って、声を出す里美。
「・・・・あ・・・なたは・・・・・・・だ・・・・・・・れ・・・・・・・・??・・・・・」
答えず、ゆっくりと頷く黄色の新戦士。
まるで「あとは任せて」と言わんばかりに。
限界が来たファントムガールが、光の粒子となって弾け、トランスを解除して闘いの場から消
える。
安堵したような表情を浮かべた黄色の戦士が、立ち上がって黒い翼と向かい合う。
夕焼けの死闘第2ラウンドが始まろうとしていた。
「新ファントムガールだとォォッ!!・・・・・・ふざけたメスどもが・・・」
ピアニストを思わせる細い指で造った拳を、コンクリートの床に叩きつける久慈仁紀。白い肌
が紅潮し、眼は真っ赤に血走っている。
あと一歩というところで、図ったように現れやがる・・・一体何匹いるのだ? 底が計れない不
安が、苛立ちを募らせる。相手の戦力の全貌がわからないことが、侵略計画を慎重にさせる。 それが久慈のストレスになっていた。
「焦っても仕方ないわ。出てくる芽はひとつづつ摘むまで、よ。まずはここから逃げることが先
決のようだけどね」
久慈とは対照的に穏やかな表情を浮かべる片倉響子。
程なくして、ふたつの影はマンションの屋上から消えた。
宿敵を仕留めきれなかった、歯軋りを残して。
あどけなさが色濃く残る黄色の新戦士の構えは、力強さに欠いていたが、一切の無駄・隙が
無かった。それは里美が指を揃えて伸ばし、七菜江が握り拳を作るのに対し、軽く手を開けた 形、開手である点も影響していよう。
巨大であっても、人形のような可愛いマスクであることがわかる。そのつぶらな青い瞳に、黒
い翼のミュータントが映っている。
「ギシャアアアア―――ッッッ!!!」
一声吼えるや、コウモリが銀と黄色の少女に飛びかかる。
上空から素早い動きで、不規則に襲い掛かる鋭い爪。
少女はわずかに身体を揺らして、最小の動きでコウモリの攻撃をかわしていく。
彼女は気付いていた。反撃を恐れるコウモリの攻撃は、表面上のみで浅いことに。逃げるこ
とを意識した爪は、引っ掻く程度で、決して深追いしてこない。ボクシングのパンチに喩えれ ば、ジャブと同様。早いが腰は入っておらず、威力は薄い。しかも、伸びてこないので、避ける のも容易い。
先程とは逆に、焦らされたコウモリが、その爪を深く突きたてようとする。
冷静な新戦士が、軌道を読んで、黒い足を掴む。
ゴオウウッッッ・・・・・・・
空気の唸る轟音。
木の葉のように舞った漆黒の翼が、頭から大地に叩き伏せられる。
少女が投げた、ようには見えない。
まるでコウモリが自ら突っ込んだように、地面に激突したのだ。
人間ならば、脳漿をぶちまけるような勢いで、コンクリートに叩きつけられた巨大コウモリだ
が、骨が少なく軽いために、見た目ほどのダメージはなかった。
フラフラと立ち上がり、今度は一直線に黄色の少女に殺到する。
再び、不可思議な少女の技が決まる。
飛燕の速度で少女に飛びかかったコウモリが、バットでフルスイングされたように弾き返され
たのだ。飛びかかった以上の速さで。
少女の両腕は掌を向けて、前方に突き出されている。
荷物を押す格好だが、吼介のような体格の持ち主ならともかく、里美より華奢な体躯の少女
の細腕に、それだけの力が秘められているとは思えない。
だが、事実はその姿勢で新戦士がコウモリを吹き飛ばしたのだ。それはいかなる技なのか。
弾け飛んだコウモリが、ひとつのマンションに激突し、マンションの半分ほどまで埋まる。衝撃
で崩れる鉄筋の建造物。奇しくもそこは先程まで、ふたりの魔人がいたマンションだった。
「ギイエエエエッッ――――ッッッ!!!!」
瓦礫から飛び出した黒い翼が、沈みかける夕陽に向かい、飛んでいく。実力差を感じ取った
野生が、『エデン』により高められた攻撃性を上回り、逃亡という選択をさせたのだ。
ここで逃がせば、この悪魔と変わり果てた動物は、また血を求めて人々を襲うだろう。
少女の決断は早かった。
握り拳を作った両腕を、逃げ飛ぶ漆黒の影に向けて伸ばす。
光のパワーが手に集中する。バリバリとエネルギーが弾ける。左の人差し指をコウモリに向
け、右手を脇まで一気に引く。
ふたつの手に掛けられた光が、矢のような一本筋を形作る。
「破邪嚆矢ッッ《はじゃこうし》!!」
子猫のような可愛らしい声とは裏腹に、裂帛の気合いを乗せた光の矢が、空間を裂いて漆
黒の翼に放たれる。
股間から頭頂までを一息に貫かれ、絶命したコウモリの魔獣が爆発して、夕焼けに散ってい
く。
怪物の猛威が去ったのを確認した黄色の戦士は、ふたつに結った後ろ髪をなびかせ、オレ
ンジの世界に消えていった。
新ファントムガールの鮮やかな初陣であった。
2
銀の肌に、黄色の模様。愛らしい顔と、緑色の、襟足でふたつにまとめた髪形が、少女っぽ
い幼さを感じさせる。
巨大なスクリーンの中で、新たな少女戦士は馬型のミュータントと対峙していた。メフェレスの
手によるものか、自然発生的なミュータントかは、議論の分かれるところだ。
突進する荒馬を、少女は霞みのようによける。無駄のない、足の捌き。それだけで、このモデ
ル体型のファントムガールが、ただ者でないことを窺わせる。
荒れ狂う馬が、鋼鉄の塊と化した前腕で、バービー人形のような少女に殴りかかる。かする
だけで腰からボキリと折れてしまいそうな一撃。
陽炎となって揺らぐ黄色の肢体。高密度の豪打を華奢な細腕が受ける。
それは無理だ――打撃の威力に腕が耐えられるわけがない。
観衆の予想は見事に外される。
馬の巨体が宙に舞う。右前腕を捕えた少女が、投げを打ったのだ。
力を込めてるとは思えぬ涼しげな表情と、派手に吹っ飛ぶ怪物との対比が痛快ですらある。
頭から落下した馬が、再び宙を舞い、続けざまに投げ飛ばされる。
まるで張り子のように軽々しく操られる巨大生物。黄色の少女は重力を無視できる能力を持
っているのか?
2度、脳天から大地に激突した馬型ミュータントは、質量が重かったことが災いして、絶命し
た。
まだ、力の一部分しか見せていない新たな少女戦士は、光の渦の中に溶け込んでいった。
「ふうッ・・・」
スクリーンをじっと見つめていた麗しい美貌の少女・五十嵐里美が感嘆とも取れる溜め息を
つく。政府が撮影した記録用ディスクを見るのは、これでもう、5度目だった。
何度見ても、新戦士の鮮やかな闘いぶりに驚かされる。
「『新ファントムガール、またまた大活躍!!』・・・だって。新聞って調子いいですよね、私たち
が負けた時は、この世の終わりみたいに書いてたのに」
口を尖らせて不満を漏らしているのは、藤木七菜江である。シヴァによる毒がほとんど抜け
切った彼女は、左足の包帯こそまだしているものの、その小麦色の肌には活力が漲ってい た。
死の淵から戻ってきた時、里美はずっと傍についていた七菜江にワンワン泣かれてしまっ
た。幾度となく死線を越えてきたふたりだが、自分に内緒で死に向かおうとした里美が、七菜 江には辛くて仕方がなかったのだ。
コウモリ型ミュータントに、エネルギーをタンクの底まで吸い尽くされたも同然の里美だった
が、タンクの表面に付着したわずかなエネルギーのカスで、なんとか生還することができた。瀕 死に追いやられたとはいえ、外傷は『エデン』の能力にしてみれば大したものでなかったため、 3日も寝れば、完全といっていいほどの復活を遂げていた。
その3日の間に現れたミュータントを颯爽と黄色の戦士が退治した映像を、今、ふたりは見て
いたのだった。
「『新ファントムガール』、『黄色のファントムガール』かぁ・・・。凄いじゃないですか! 正体は
誰なんですか?」
ひまわりの笑顔に、里美は困惑した様子を見せて答える。
「それが・・・わからないのよ」
「えッッ??! 里美さんが言ってた人じゃないんですか?」
「彼女は別人。残念ながら、まだ話すらまともに出来てないの。多分、この新しいファントムガ
ールのコは、何も知らずに自然に『エデン』と融合しちゃったと思う」
「そんなことってあるんですか?」
「それはあるわよ。『エデン』も生きるためには、宿り主が必要だもの。私達は自らの意志で
融合したけど、本来は寝ている間とかに、勝手に寄生するのよ」
「じゃ、じゃあ・・・・・・凄い悪い人と勝手に融合することも?」
猫のような、少々ツリ目気味の七菜江の瞳が、不安げに垂れる。少女が危惧している内容
は、里美にも手に取るようにわかったが、適当にお茶を濁す気分にはなれなかった。
「もちろん、よ。久慈のような悪党が、まだ現れる可能性はあるの。だからこそ、『エデン』の
回収に力を入れたんだけどね・・・」
だが、逆に久慈仁紀に集められてしまったのは、既に七菜江も知るところだった。
ただ、全てが久慈によって奪われたわけではない。動物に寄生して、力を発現させていない
だけのモノもいれば、融合した人間が、世間の風評を恐れて、必死で秘密を隠しているケース もあろう。
恐らく、今回の黄色の戦士は、後者のケースと思われた。
『エデン』と融合してしまい、その能力に薄々感づいていながら、誰にも言えずに黙っていた
のだ。しかし、ファントムガール=里美の大ピンチに、矢も盾もいられなくなり、救出に飛び出し たのだろう。
「けれど、今回に関しては、神様は私達に味方してくれたみたい。光の力に溢れ、戦闘能力
にも長けている。文句ナシのファントムガールだわ」
ゆっくりと力強く七菜江が頷く。
彼女たちにとって、そして地球の未来にとって、待望の新戦士誕生なのだ。
「一刻も早く、彼女の正体を探って、私達の仲間になってもらわないと、ね」
「でも・・・当てはあるんですか? この髪型のコって多いし、顔だけじゃ判断難しいですよ?」
七菜江の疑問は当然だった。この地方一帯の女のコであることは確かだが、見た目、しかも
トランスフォームして若干変化したものを頼りに探すには、対象者が多すぎる。まして、一人一 人にファントムガールかどうか、確認する方法はないのだ。
「そう・・・ね。だけど、この強さはなかなかいないわよ。『エデン』の能力を授かったとか、関係
ないレベルの技術よ」
「強い人を当たる、ってことですか」
「見たところ、この技術体系は、合気道に似てるわ。その筋を探ってみれば・・・」
公儀隠密御庭番衆の頭領としての血を引く里美は、忍びとしての修行の一方で、一通りの格
闘技・暗殺術の知識を教え込まれていた。手足を掴んだだけで、自在に操る投げ。そして、巨 大コウモリを弾き飛ばしたように、突進する敵を、気の流れを利用して弾き返す技。黄色のファ ントムガールが使う技は、合気道の匂いが染み付いていたのだ。
合気道は、女性にとって馴染みやすい格闘技と呼ばれ、他の競技に比べれば女性の割合が
高い。とはいえ、随分と的が絞られるのは間違いなかった。
「わかりました! じゃあ合気道関係者を調べていけばいいんですねッ!」
「ちょっと待って。ナナちゃんは探さなくてもいいのよ」
里美はできる限り柔らかく言ったのだが、露骨に不満な本音が、七菜江の顔に浮ぶ。
「え〜〜ッ?! なんで?! なんでなんですか?」
口を尖らせ、歪ませる。両手はくびれた腰の脇に添えられ、外国のスーパーヒロインがよく取
るポーズをする。
生意気そうなポーズだが、ちょっと不貞腐れた表情が一番魅力的に映ったりするのが、この
少女の得な点だ。
「ナナちゃんには、やって欲しいことがあるの」
「仲間探しよりも大事なことなんですか?」
「そうよ。私達、ファントムガールが生き残るために必要なことよ」
「なん・・・・・・ですか?」
「強くなって欲しいの」
ますます七菜江の口が尖る。
「そりゃあ、私は弱いけど・・・里美さんに迷惑かけてるけど・・・そんな言い方ってないよ!」
「違うの、ナナちゃん。よく聞いて。あなたの潜在能力は私を遥かに上回っているわ。でも、今
はそれを使いこなせていない。いくら運動能力が高いとはいえ、闘いの経験が少ないからよ。 逆に言うと、身体能力だけで、ある程度闘えるほど凄いってことでもあるんだけど・・・それを克 服して欲しいの。ナナちゃんが闘い方を覚えれば、一人味方を得たぐらいのプラスがあると、 私は思ってる。それぐらい、あなたの力は魅力的なのよ」
「・・・・・・それ・・・ホント?」
七菜江の顔に、パアッッと太陽の明りが刺し込む。眉には戸惑いを示して皺が入っている
が、ピンクの唇の隙間からは、真っ白な歯が覗いている。
ホントにわかりやすいコよね・・・
最愛の仲間ながら、里美は七菜江の純粋さに呆れてしまう。しかし、こういう素直な一面が、
里美には何よりも愛しいのも事実だった。もちろん、戦士として見た場合、それは致命的な欠 点になるかもしれないのだが・・・
「私がナナちゃんに嘘ついたこと、あった?」
「・・・ひとりで闘いに行ったり、けっこうするような・・・」
「・・・ごめん。でも、今度はホントよ。新戦士探しは私に任せて、ナナちゃんは特訓ガンバッ
て」
「けど、里美さんひとりで大丈夫なんですか? 合気道関係者っていってもけっこういるんでし
ょ?」
「私、そういうの、得意なの」
うふふ、と上品に微笑む里美。ウインクひとつに可愛らしさと色っぽさが同居している。
そうだ、里美さんはくノ一なのだ。情報収集は、彼女の最も得意とする分野のひとつなのだっ
た。
「わかりました。里美さんの言う通りにします」
「できれば、新必殺技のひとつでも編み出してね」
「え〜〜〜ッ!! そんな簡単に言わないでくださいよォ」
「でも、『スラム・ショット』はいい技だけど、ひとつしか技がないと、読まれちゃうわよ」
ハンドボール部の七菜江は、ファントムガール・ナナになっても、ハンドボールのシュートをモ
チーフにした必殺技を使うが、現在それ以外にこれといった技を持たない。事実、片倉響子が 変身した蜘蛛女・シヴァとの対戦では、空中に飛び「スラム・ショット」を放とうとしたところを読ま れ、無惨な目に遭わされたのだ。
「野球で喩えると、150kmの速球を投げられるけど、それしかない、ってところ。もうひとつ、
大技があればグンと闘いやすくなるわ」
「・・・は〜〜い、わかりました。ガンバッテみます・・・」
「あと、もうひとつ。約束して欲しいことがあるの」
「なんですか? もう、なんだって言うことききますよ」
「あと1ヵ月、何があろうと絶対にトランスしちゃダメよ」
「ええッッ〜〜〜ッッッ!!! なんでッッ??!!」
突然のファントムガール・ナナ封印命令に、仰天した七菜江が勢い込んで、冷静な生徒会長
に尋ねる。
つい、最近、自分が変身できないがために、里美を窮地に追いやっているというのに。それ
だけは承服しかねる里美の命令に、一本気な少女は反発する。
「やだやだやだ!! 絶ッッ対ッッ〜〜ッにッ!! や・だ!!」
「ナナちゃん、よく話を聞いて」
「だって!! もう、やだもん!! 里美さんが危ない目に遭ってるのに、知らない顔してたく
ないもんッ!!」
富士山の皺が眉間に寄っている。キュッと閉じた形の良い唇は、今にも泣き出しそうに震え
ていた。
見舞いに来た工藤吼介との会話に夢中になり、里美のピンチを後になって知らされたのが、
七菜江には相当辛い記憶になっていたのだ。それは、少女の身を案じた、執事の働きによる ところが大きかったのだが、里美の苦境をよそに、楽しんでいた己が七菜江には許せない。
「ありがとう、ナナちゃん。そこまで想ってくれて、嬉しいわ・・・・・でもね、あなたの体内の毒
は、完全に消滅したわけではないの。今、無理をしてもらうより、1ヵ月我慢して、完璧な状態に 戻してもらうほうが、私には助かるのよ。ナナちゃんは若いし、回復力も早いから気付いてない けど、ファントムガールになってから1ヵ月近く、あなたの身体はボロボロになっているのよ」
確かに考えてみれば・・・七菜江の脳裏に、ファントムガールになってからの1ヵ月がよぎる。
メフェレスとの闘いに始まって、カブトムシとクワガタによる攻撃、神崎ちゆりによる“ナナ狩
り”、片倉響子の仕打ち、巨大ネズミの猛攻、そして、シヴァによる拷問。
少女の豊満な肢体には、あまりにも苛烈な嗜虐が加えられてきたのだ。
表面上は回復していたが、いや、そう見えるからこそ危険なのだ。
実際には、その深刻なダメージは、身体の奥深くに潜んでいるのだ。若さゆえ、回復力の高
さゆえに、その落とし穴に気付いていないだけなのだ。
里美にはわかっていた。だからこそ、少女を休ませたかった。
「・・・・・・・・・・・でも・・・」
「いい? これは私からの命令で、約束よ」
「・・・・・もし、約束破ったら、どうなるんですか?」
「・・・・・・・わたし、ナナちゃんのこと、嫌いになるわよ」
「・・・・わかりました。約束守るようにします」
翌日から、里美は新戦士の正体探しに、七菜江は特訓にと、それぞれの使命に向けて、ふ
たりのファントムガールは行動を開始したのだった。
タイルを叩く水音が、心地よく耳朶を刺激する。
熱めに設定したシャワーが、弾力に富んだ小麦色の肌を小気味良く打つ。17歳の光る肌
は、温水を弾き、透明な珠を撒き散らしている。
更衣室に隣接したシャワールームの一角で、藤木七菜江は激しい運動の後の汗を流してい
た。6つあるシャワーの、一番奥が七菜江の場所だ。カーテンの向こうでは、順番待ちの部員 たちが、乾いてきた汗の気持ち悪さにうずうずしている。
「ちょっと、ナナ〜〜! まだなのォ、早くしてよォ!」
「さっき入ったばっかじゃん! そんな急かさないでよ!」
「じゃあさ、一緒に入ろっか」
いきなり七菜江の親友・小島亜希子がカーテンをガバリと開ける。
「きゃああッッ!? ちょっと何すんのよォ!!」
「うわあああ〜〜〜・・・・ナナってホントにスタイルいいよねぇ・・・」
腰を少し屈めて捻り、顔を赤らめ、左手で胸のトップを、右手で大事な箇所を押さえる七菜
江。
豊満な肉丘から引き締まったウエストにかけて、キレイな逆三角形を描き、そこからパンパン
に張ったヒップのラインまで、芸術的な曲線が流れている。シミひとつない肌は、水に濡れて、 魅惑的な輝きを放っている。胸・腰・尻・足・・・・・全ての部分が完璧といっていい造形。そのど れもに艶やかさと、爽やかさの、相反する魅力が充満している。しかも、羞恥に桜色に染まっ た肌は、元々の美少女ぶりに加えてエロスの薫りを持ちこんだのだから、同性であっても興奮 してしまう可憐さだ。
水流のすだれを透して見えるヴィーナスの肢体に、並んでいた後輩たちも感嘆の声を挙げ
る。
「うわあああ・・・・・・七菜江先輩、凄くキレイな身体・・・羨ましいなあ・・・」
「この中、何入ってんの? Eカップ? もしかしてF?」
図々しくも中に入ってきた亜希子が、はちきれんばかりの七菜江の果実を、ムンズと鷲掴
む。
たまらず、嬌声を挙げる七菜江。
「きゃあああッッ?! ちょッ・・ちょっと、何すんのよ、アキ!」
「スッゴイ弾力!! お餅みたい! あんたに男がいないのが不思議だわ」
「先輩、私にも触らせてください!」
「私も!」 「私も!」
ドッと雪崩れこんだ5・6人が、ペタペタと、健康的なエロスが詰め込まれた柔らかな肉体を撫
でまくる。胸の球体からおへそ、肉付きのいいお尻まで、オモチャにされて遊ばれる。
「ちょッ、ちょっと、あんたたち! い、いいかげんにしろォッッ!!」
「ったく・・・そんなにプリプリ怒んなくてもいいじゃん」
「なんで後輩にまで触られまくんなきゃいけないのよ! 恥掻かされた!」
「あのねぇ、みんな、あんたに憧れてんのよ。わかんないの?」
「憧れてる? あたしに?」
キョトンとした丸い眼で、まじまじと親友を見つめる七菜江。赤いスポーツタオルをかけた首を
少し右に傾け、ハテナマークが頭上に浮びそうな表情をしている。
クラブハウスから、校門に向かう途中。校庭のあちこちに見られる、部活帰りの集まりのひと
つが、彼女たちふたりだった。暮れかけた夕陽が、長い影を作る。
ナチュラルに出て来たとぼけ顔に、クラスメートでもある同級生は、フゥ・・・と深い溜め息を吐
く。
「あんたのその鈍感ぶりは、ここまで来ると罪よね。そうやって、男の子たちの気持ちもムゲ
にしてきたんだろうな・・・」
「え、何?」
「なんでもな〜い。とにかくねぇ、一年はまだ部活に入って2ヶ月くらいなのよ。久しぶりに現れ
たあんたのスーパープレイを連発で見たら、憧れるなって方が無理な話よ」
「えへへ・・・そ〜う?」
照れた様子を隠そうともせず、小さめの鼻をこする七菜江。
彼女が久しぶりに学校に登校してから、1週間が経っていた。毒は抜けきっていないと言うも
のの、日常生活に支障はなかった。左足の調子も予想以上によく、ハンド部での活躍は、目覚 しいものがある。
部員たちは、ブランクを感じさせぬ、いや、もしかしたら以前よりも鋭くなった動きに、驚きを
隠せなかった。ライバルでもある仲間の復活は、嬉しい反面、複雑な思いもあるものだが、七 菜江に関しては、生来の無邪気さが誰からも愛され、大きな祝福とともに迎え入れられたのだ った。
「でさ、今日、樹里たちとカラオケ行くんだけど、ハンド部のスーパースターさんも当然来るよ
ね?」
「・・・ごっめん。用事があるんだぁ・・・」
「ええ〜〜ッ?! またなの?! 最近ずっとそればっかじゃん!」
「だからごめんって。里美さんからいろいろとお願いされてて・・・」
メフェレスに正体をバレて以来、七菜江は寮から引っ越して、五十嵐家に厄介になっていた。
無論、安全性を考慮してのことだ。問題なのは、傍目には無関係の七菜江が、五十嵐家に居 候する不自然さであったが、恐ろしいことに、翌日には七菜江は、戸籍上も里美の遠い親戚と いうことになっていた。
「五十嵐里美って、あんな顔して意外と人使い荒いのねぇ。もしかして、あんた、イジメられて
る? 白雪姫みたいに」
「変なこと言わないでよ! 里美さんの悪口言ったら、許さないからね!」
「わかった、わかった。けど、用事なんて言って、男と遊んでるんじゃないでしょうね?」
それまで眉を吊り上げていた七菜江の顔が、ボッと火が点いたように赤くなる。しかも、視線
を逸らすオマケ付きだ。
「あ、あれ? もしかして、図星なの?」
「ち、違う、違う!! そんなやましい気持ちじゃないからッ! 全然ないからッ! ホント、本
気でガンバッてるのよ、そんな楽しい気分とか、全然ないからッ!」
「?? あんた、なに言ってんの?」
ブンブンと、凄い勢いでかぶりを振る七菜江。少年誌の表紙を飾りそうなアイドルっぽいショ
ートカットが、吹雪となって吹き乱れる。
突如、真っ赤になった顔が、その動きをピタリと止め、一方向に視線が釘刺しとなる。
色が赤からどんどんと青に変わっていく。まばたきひとつしない横に長い瞳が、迫力の伴った
鋭さを帯びていく。部活で枯らしたはずの汗が額に珠を結び、白桃の頬を伝って、尖った顎か ら垂れる。
思わず振り返り、小島亜希子は七菜江の視線の先を見る。
校庭に、美貌の彫刻が立つ。
ハーフを思わせる、彫りの深い端麗な容姿。スラリと伸びた手足が、スタイルの良さを強調す
る。吐く息さえピンクに見える、圧倒的な艶かしさ。官能のオーラが、真っ赤なルージュと同色 のピアスによって、映える。
生物教師・片倉響子。
口元に歪んだ笑いが、不敵に少女を挑発している。
「ど、どうしたの・・・? あの先生となにかあるの?」
「なんでもない。あたしと話があるようだから、アキは先に帰って」
なにか、口にしようとして、小島亜希子は親友の言う通り、帰ることにした。
長身の女教師を横切る時に、ペコリと頭を下げる。
去っていく女子高生の背中を、舌なめずりをして見送る片倉響子。
餌を前にした、蜘蛛のように。
グワシイィィィィッッッ・・・・・・
白のブラウスの胸倉が、生徒によって鷲掴まれる。
生徒の名は、藤木七菜江。チャーミングな瞳は吊り上がり、食いしばった白い歯から、言葉
が洩れ出る。
「私の友達に手を出したら・・・許さないぞ・・・」
バシンッッという乾いた音が響き、平手で打って、生徒の手を払い落とす女教師。
自然に距離を取る七菜江。
体内の奥深くに沈み込んでいるはずの毒が、女神の皮を被った悪魔に反応するかのよう
に、ズキズキと疼き始める。心に渦巻くのは、片時として忘れられない屈辱の痛み。そして、怒 りと――恐怖。
妖艶な瞳と、純粋無垢な瞳が火花を散らす。
つい何日か前に、死闘を、いや、一方的な虐待ショーを行ったふたりが、勝者と敗者という非
情なまでに明瞭な立場で向き合ったのだ。
「ふん・・・学校に出てきて1週間らしいわね。思ったより、元気そうじゃない」
ゴクリと唾を飲む少女。噴き出る汗が絶え間なく整った顔立ちを流れていく。緊張感は隠せな
いが、瞳に浮んだ炎は、消え入る様子を見せない。
「あれだけやられたら、てっきり降伏してくると思ったけど。あなたたちもシブトイわね。私の毒
の味はいかがだったかしら?」
「・・・・・うるさい、卑怯者・・・・」
「あら? まるで普通に闘ったら、勝てるような言い方じゃない」
吊り上がっていた眉が、微妙に垂れ下がる。
食いしばる白い歯を見せる唇が、言葉に詰まって歪む。
一瞬、少女の瞳に走った哀しげな色が、敗者の悔しさと恐怖を正直に教えてくれる。
「ふふふ・・・どうしたの、黙り込んじゃって。そりゃあそうよね。あなた、泣き叫んで私に命乞い
したのよ。忘れたわけじゃないでしょ?」
「う・・・・くう・・・・・・」
「美味しかったわよ、七菜江。あなたの唇も、アソコも。あなたのファーストキスも処女も、奪っ
たのはこの私ってことを、よ〜くその胸に刻んでおくのね、弱くて惨めなウジ虫さん」
嘲る女教師。その胸には、泣き叫び、助けを乞う、哀れなファントムガール・ナナの敗北の姿
が蘇る。
が、しかし。
余裕に溢れた美貌が、不意に色を失う。
負けを認め、満天下に惨めな姿を晒した正義の天使が、その当時とは打って変わった表情
で、一直線に突進してきたのだ。
“は、速いッッ!!”
心臓が萎縮する。残忍な化け物の正体である女教師が、少女のように両手で顔を隠す。
予期された強烈な打撃は―――なかった。
過ぎ去った暴風の感覚に、後を振りかえる片倉響子。
左手を腰に、右手を突き出した七菜江がこちらを見据えている。右の人差し指を響子に向
け、少女は高々と宣言した。
「あんたへの借りは絶ッッ対ッッにッッ!! 返すからねッッ!!」
くるりと向きを変え、短いスカートから中を覗かせそうに走り去る青い制服。弾けるような走力
を眺め、残された女教師は満足そうに微笑む。
「ふふふ・・・あの程度でへこむタイプじゃないとは思ったけど。どうやら、心は折れてないよう
ね。これでまだ、楽しめそうね・・・」
腰にかかる長い黒髪を揺らし、片倉響子は次なる目的地へ向かった。
ダッシュで五十嵐家までの距離を駆け抜けた七菜江は、乱れた息を整えもせずに、分け与え
られた部屋に向かう。2階奥の部屋は、ひとりで使うには、勿体無いほどの広さと豪華さだっ た。革の鞄と、緑のリュックをベッドに投げ捨て、朝に用意しておいた道衣一式を引っ掴む。
「藤木様、いってらっしゃいませ」
「いってきます!!」
扉のところで待っていた、執事の安藤が挨拶を交わす。
階段を駆け下りた七菜江は、そのままの勢いで、安藤に開けてもらった扉をくぐり、特訓の場
所へと急ぐ。
“片倉響子・・・今はあんたに勝てないけど、強くなって必ず見返してやるッッ!!”
里美の指示通り、強くなるための特訓を、毎日部活終了後に行っている七菜江は、いつにも
増して、気合いを込めた表情で道場へと走る。
「失礼しますッッ!!」
道場に着いた少女は、入り口のところで正座をし、深深とお辞儀をする。それが、今回の特
訓のコーチを引き受けてくれた先生が、最初に七菜江に教えた、この道場での礼儀だった。
すでに道衣に着替えていた先生は、上座の中央やや右に座していた。背筋がピンと張った
姿勢で、微動だにせず黙想している。醸し出す緊迫感で、周囲の空気が蜃気楼のように歪む。
「七菜江、遅刻だぞ」
「すいませんッ!! すぐに着替えてきます!」
言葉通り、2分と経たぬうちに白い道衣に包まれた少女が現れ、正座した先生の前に座る。
乱れた呼吸を整えるため、姿勢をそのままに深呼吸を繰り返す七菜江。ふたり以外に誰もい ない道場に、一呼吸ごとに、緊張感が増幅していく。
「吼介先輩ッ、お願いしますッッ!!」
「よしッ、では組手立ちから中段突き20本だ」
五十嵐里美が手配した特訓用コーチ・工藤吼介は、普段学校では見せない険しい表情で、
その日の特訓の開始を宣言した。
白鳳女子高等学校―――通称「ハクジョ」。
偏差値55。生徒数780名。今年で70周年を迎える伝統校。全体の8割が大学進学を希望
するその高校は、この地方随一のお嬢様学校として名を馳せている。
シャツはもちろん、カラー、スカートまで白で統一されたセーラー服は、聖愛ブルーと並んで、
女学生の憧憬を集めている。カラーとプリーツスカートに入ったライン、胸元のリボン、それに ソックスだけが濃い緑色で、全体に白のイメージが強いため、ハクジョ生は「白い妖精」とも呼 ばれていた。
3人組の生徒が、レンガ造りの格式高い校門をくぐる。あどけなさの残った顔立ちを見る限
り、どうやら新入生らしい。
真ん中の少女だけがやや背が高く、一歩下がるような形で、他のふたりの会話を微笑を浮
かべて聞いている。165cmほどあろうか。俯いた姿勢からは、内向的な性格が看て取れた。 実際、会話に口を挟むこともなく、ずっと聞き役に徹しているかのようだ。表情は確認しずらい が、丸い瞳がお人形さんのような可愛さを引き出している。
やがて、500mもいくと、真ん中の少女だけが別方向らしく、他のふたりと別れる。雪のよう
に白い手を緩やかに振り、別れの挨拶を済ませる。
一人になった少女は、学生鞄を両手で前に持ち、伏し目がちに商店街を歩いていく。
白いセーラーはやはり目立つようで、すれ違う人々の視線を否が応にも集めてしまう。少女
はそんな人々の目が気になるようで、羞恥に白い頬をピンクに染める。瞳の大きな美少女が、 透き通るような白い肌を赤らめるので、ますます視線は集中する。そんな悪循環が、少女には たまらなく辛そうに見える。
場の空気が変わったことに、少女は気付いた。
今まで集中していた視線が、感じられない。ターゲットが他の箇所に変わったのだ。
周囲の雰囲気がざわめくのを感じ、少女はその原因に瞳を走らせた。
物凄い、美少女。
少女はこんなにも美しい人間がこの世にいることを、初めて知った。
青と白のセーラー服は、聖愛学院のものに違いない。少し茶色の入った長い髪を揺らした、
月のように美しい少女が、切れ長の瞳をこちらに向けている。
眼が合った瞬間、気品と憂いに満ちた美貌が、秋風のように涼しげに微笑む。
「私、聖愛学院の五十嵐里美っていうの。少し、お話したいんだけれど、いいかな?」
「ゼェーッ、ハァーッ、ゼェーッ、ハァーッ・・・」
白い空手道衣に身を包んだ女子高生が、荒い息を吐き続ける。前方に垂れてきたショートカ
ットが、呼気のたびにユラユラとなびく。
酸欠により、視界は薄闇に閉ざされ、寒気がするほど血が引いている。限界を教えるため、
全身の筋肉は痙攣を止めようとしない。それでも何とか構えを取っているが・・・背筋は曲がり、 腕は下がり、肩は落ちている。焦点の定まらぬ視線が、少女がとっくに臨界点に達しているこ とを示唆する。
対する黒帯の男は、息ひとつ乱さず、汗一粒かかずに、憎らしいほど平然と、左手を軽く前
に出した構えを崩さない。地球が誕生して以来、ずっとそこにいるのではと思わせる、不動の 構え。苦しげに少女が喘ぐのを、じっと見つめている。
「ハア、ハア、ハア、ハア、ハア・・・・・」
「どうした、七菜江? もう、やめるか?」
血の気が引いた青い顔が、流れる汗で濡れ光っている。あまりの苦しさに、笑顔の似合う瞳
から、涙が滲んでくる。
だが、ブルブルと震える小さな両拳は、工藤吼介に見せつけるように、力強く握られる。
“まだ、やれる”という証。
スプリンターの速度で、七菜江が道衣を着た筋肉の塊に突っ込む。
今までの疲弊ぶりが嘘のような動き。まばたきする間に吼介の目の前に現れる七菜江。
迎え撃つ山は、動かない。
なんという、巨大な構え。
七菜江には門が見える。吼介の周りを囲む門が。
1個や2個ではない、何十もの強固な門が、超運動神経の持ち主に立ちはだかる。堅牢な城
塞。だが、やらねばならぬ。
敢行。
ありったけの全能力、全筋肉、全細胞をフル稼働。
右ストレート。
回転して左のバックブロー。
さらに回転して右のハイキック。
続けざまに左足で、回転後ろ廻し蹴り。
肘打ち。ソバット。貫き手。ミドルキック。裏拳。廻し蹴り。
打つ打つ打つ打つ打つ!!!!!
ファントムガール・ナナがメフェレスに仕掛けた、連撃の暴風雨が、今、ここに再現される。
回転する小型台風が、一拍の間も空けずに、打撃の嵐を叩きこむ。
メフェレスを打破した七菜江のハリケーン――だが。
工藤吼介は、左手1本で、それらの攻撃のほとんどを蝿のように払っていく。
全てではない、当たる攻撃もある。しかし、それは吼介が当たっていい場所に当てさせている
のだ。つまり、当たるのは、攻撃を食っても効かない場所に、なのだ。塗り重ねた筋肉の鎧 は、『エデン』の寄生者である少女の力でも、傷ひとつつけられない。
七菜江の瞳が闇に覆われる。限界が、やってきた。
左足のローリングソバットを、肘を下げて防御する最強の男。
空振った。
違う、ソバットと見せかけた足を、七菜江が引いたのだ。
横蹴りに切り換えられた足技が、鋼鉄の腹筋に突き刺さる。
「ッッ!!」
“効いた!?”
フェイントに掛かった吼介の眉が、わずかに寄る。
その瞬間には、少女の身体は宙を飛んでいた。
残った右足で地を蹴り、身体を反転させて空を舞う。
腹に意識を集中している吼介の顔面を、自由な右足が蹴り抜く。
バッチイイインンン!!・・・・・響く破裂音。
顔面直撃寸前で、少女の足は、獅子のごとき右手に阻まれていた。
そのまま、右手を掲げる吼介。バランスを崩した七菜江が、畳の上に落下する。
かろうじて、受け身を取る七菜江。
その整った顔立ちに、襲い掛かる豪腕。
ブオオオオオッッッ!!!
突風が、ショートカットを掻き乱す。
吼介の突き降ろしの豪打に依る風圧で、少女の顔に流れる汗の飛沫が、八方に飛び散る。
「はあッ、はあッ、はあッ、はあッ、はあッ!」
チャーミングという言い方がもっともハマる瞳は大きく見開かれ、鼻先に突きつけられた隕石
の拳を凝視する。死の香り漂うそれは引き上げられ、大の字のまま、七菜江の隆起したライン が激しく波打つ。
「今日はここまで」
宣言を下した特訓用コーチの工藤吼介は、稽古開始時に座っていた場所と、寸分違わず同
じ場所に正座する。
よろよろと動いた七菜江が、這いずって吼介の前に移動する。組手の最初と最後に挨拶す
るのも、道場での最低ラインの礼儀だ。幻覚症状寸前でも、七菜江の身体は決められたことを 守ろうと、半ば無意識に動いている。
「はあッ、はあッ、はあッ、ありぁ・・・した・・・はあッ、はあッ・・・・」
「ありがとうございました」を自分なりに言いきった少女は、崩れ落ちるように再び大の字に倒
れ、空気を求めて汗まみれの肢体を上下させる。
数分後、ようやく喋れるようになった七菜江は、畳に倒れたまま、側で胡座をかいている吼介
に話し掛ける。
「先輩、ずるいィィ〜〜! 右手と右足は、使わない約束なのにィ!」
「わ〜〜ってるって! だからお前の勝ちだ。んでいいだろ?!」
稽古時とは違い、工藤吼介の口調は随分くだけた、いつもの調子に戻っていた。稽古に入れ
ば鬼になる、というのが今回コーチを引き受けた、唯一の条件なのだ。真剣に稽古をしない、 ということが彼にはできない。
「やったあッッッ!!♪ これで2勝めゲットォォ〜〜ッ!!」
「50回以上、負けてるけどな」
「先輩、言い訳カッコ悪いよォ」
クタクタの表情で、眩しい笑顔を見せる七菜江。充実感と心地いいというにはハードすぎる疲
労感で、心の中が抜けきったような爽快さだ。
「しかし、まさか『裏龍尾』を使えるとはな。あれは驚いたぜ。ハンドボールを上手くなるための
格闘技特訓っていうけど、いっそこっちの世界に来た方がいいんじゃねえか? その運動神経 は球遊びには勿体無いぜ」
『裏龍尾』とは七菜江が吼介に見舞った技のことである。
横蹴りを相手の鳩尾に突き刺し、そこを足場にしてもう片方の足で飛び、反転して顔面を蹴
るという技である。
似た技に『龍尾』があり、これは前蹴りを鳩尾に入れ、そこを足場にもう一方の足で飛び、顔
面に膝蹴りあるいは廻し蹴りを叩きこむという技である。
どちらも、吼介が習得している『篠田流柔術』の当て身技のひとつだ。柔術というと絞め技や
関節技など、組み技系のイメージが強いが、当て身、つまり打撃技もきちんと存在する。
腹部から頭部へと、続けざまに足が襲ってくるので、破壊力は高い。ただもちろん、実戦にお
いて鳩尾に蹴りを入れるのは至難の技だ。実際には少しでも強く蹴りをいれ、それを足掛かり に技を掛けることになる。
軽業師のような難度の高い技だけに、蹴りを打つ強さ、的確性、ボディバランスの良さ、敏捷
性など、様々なスキルが要求される。凡人では到底無理な、驚異的な身体能力にのみ許され た秘技だ。
七菜江の場合、蹴りは鋼の腹筋に跳ね返されんばかりだったが、ほんのわずかな取っ掛か
りを頼りに、技を成功させていた。神懸りなバランスの持ち主であるが故の成功である。
「吼介先輩、合気道で有名な選手、誰か思い出した?」
以前尋ねた質問を、大の字の少女がもう一度繰り返す。
里美から新戦士の捜索は任せるよう、言われてはいるが、少しでも手伝いたい気持ちは抑え
られない。武道の世界に身を置く吼介なら、何か知っているのでは、という考えは、ごく当たり 前の発想だった。
「この辺の女のコでだろ? 有段者なら結構いるだろうけどな。これっていう名は聞かんなあ」
「やっぱりそうですか・・・」
「柔術の凄玉なら知ってるけどな」
「柔術・・・・ダメですよ、合気道と全然違うじゃないですか」
「何言ってんだ、合気道も元は柔術の一派だぞ」
畳に寝転んでいた七菜江が、ガバリと起き上がる。
「そ、それ、ホントッ?!」
「おいおい、んなことも知らないのかよ。合気道ってのは会津藩の御留流、つまり藩で使われ
てたってことな、大東流柔術が基本となってできた技術体系なんだぞ。合気道に似た柔術の技 とか一門ってのも、当然あるわけ」
「そんなの、知ってるわけないじゃん! で、その凄玉ってどんな人なの?!」
「え〜〜っとな、確か今年白鳳女子に行ったと思うけど、『想気流柔術』の後継者で、西条エリ
とユリっていう双子なんだ。結構可愛い顔してるくせに、どっちもかなりやるぞ。柔術の技だけ なら、オレより上だろうな」
商店街の一角、ハンバーガーショップの2階に、青いセーラーの美少女と、白いセーラーの
愛くるしい少女が、向かい合わせに座っていた。
違う学校の者が一緒にいて、しかも両方ともに美少女の呼び名に相応しい器量の持ち主とな
れば、どうしても周囲の注目を集めてしまう。この店を選んだのは、店内が広いため、そういっ た注目を避ける場所があるのでは、と踏んだためだ。予想通り、おあつらえ向きの隅の席を発 見し、ふたりはそこに腰掛けた。客が少ないことも手伝って、周囲に人はいない。これなら、内 緒の話もしやすいだろう。
五十嵐里美の前には、ホットコーヒーの入った小さめのカップがある。右手の人差し指でカッ
プの蓋を軽く叩きながら、左手で頬杖をついた里美は、じっと向かいの少女を観察している。
白いセーラーの女子高生は、オレンジジュースに一度も手をつけることなく、ずっと俯いたま
ま固まっている。時々もじもじと、何かを口にしようとして、やめる。そんなことを繰り返してい た。
胡桃のような大きな瞳が愛らしい。里美や七菜江とは、また違ったタイプの可愛らしさだ。高
校一年生という年齢もあろうが、少女の幼さが強く感じられる。背が高く、手足も長いモデル体 型なので、そのギャップが逆に少女の未熟さを際立たせる。後髪を下の方で左右ふたつにまと めた髪型が、余計に少女っぽさを強めている。
少女は何故自分が里美に声を掛けられたのか、警戒しているようだった。ある意味、正常な
反応といえたが、度を越した警戒は、逆に里美には不自然に映っていた。
「西条エリさん、よね?」
「・・・・・・はい」
何故、名前を知っているのか。元々が大人しい性格の少女は、驚きと警戒で一際声が小さく
なる。
「双子なんだってね。妹のユリさんは、どうしてるの?」
「ユリは・・・妹は、先に帰りました・・・・・・」
我ながら、嫌な性格よね。
里美はわざと、知っている情報を内気そうな少女にひけらかす。あなたのことは全部調べて
いるのよ、ということを悟らせるためだ。西条エリに真実を語らせるため、里美は見えない脅迫 を仕掛けていく。
もちろん本当は、こんなことはしたくない。しかし、ファントムガールの候補者に接触するとい
うことは、自らを危険に晒すことでもあるのだ。リスクを冒す以上、甘いことは言ってられない。
「まずは、お礼を言わなくちゃね」
量るように、くりくりとした瞳を覗きながら、里美が仕掛ける。
「・・・・・え?」
「ありがとう。あなたのお陰で、こうして生き延びることができたわ。あなたが助けてくれなけれ
ば、とっくに私は血を吸われ尽くして、殺されていたでしょうね」
ニッコリと微笑む里美。月の女神の笑顔に、恐縮しきった少女がつられて、引き攣った笑み
を浮かべる。だが、台詞まではつられることはなかった。
「あの・・・・・すいません、よく意味がわからないんですけど・・・・・」
予想した通りの返事。もし、この少女が本当にファントムガールならば、正体を隠すのに必死
になるはずだ。なにしろ、里美自身、いや、七菜江も久慈も片倉響子も、『エデン』の寄生者 は、その秘密を隠すのが、己が生き残るために最も重要な条件であるからだ。人間以上の存 在となる者は、ファントムガールであれ、ミュータントであれ、人間が許すはずがない。その考 えは、少女も同じはずだった。
となれば・・・ここは勝負に出るしかない。
お願いがあるのは里美である以上、リスクを背負うのは、当然里美であるべきだった。
ひとつ、深呼吸をして、里美は決めてきたはずの決心を、再度行う。
「私はファントムガール。最初の、って言えばいいのかな? オリジナルの、かな? あなたに
助けてもらったファントムガールよ。改めてお礼を言うわ」
白い少女の顔が強張る。
驚いているようにも見えるし、脅えているようにも見えるが、凄まじい緊張感に包まれている
のは確実だった。
澱のように重く沈んだ空気が、ハンバーガーショップの一隅を支配する。
張り詰めた緊迫感に、先に耐えきれなくなったのは、意外にも里美のほうだった。
正体を白状した以上、もう引き下がるわけにはいかない。なんとしてでも、真偽を問い質す必
要が里美にはあるのだ。このまま、ダンマリを決めこまれては、ならない。
「そして、あなたが『新ファントムガール』、『黄色のファントムガール』ね、西条エリさん」
ビクンッと小さな肩が跳ね上がる。明らかな動揺。
その心の乱れを、確実に里美に見抜かれたことを知りつつ、細身の少女は言う。
「・・・違います。私はファントムガールなんかじゃありません」
「何故嘘をつくの?」
間髪入れずに里美が迫る。追求は容赦がなかった。
「あなたが受け継いだ『想気流柔術』は、黄色のファントムガールが見せた技にそっくりだわ。
特に“気”を使って相手を弾き飛ばす技は、余程の達人にしか出来ない。どんなセンスの持ち 主でも、10年以上は習得にかかるでしょうね。それほどの遣い手は、あなたたち姉妹以外に いない。日本全国で探してもいないでしょう。あとは、その顔。私は直接見てるのよ」
「・・・ユリがファントムガールとは思わないんですか?」
「ここ1週間、あなたたちふたりを観察させてもらったわ。ごめんね、汚いことして。でも、ユリ
ちゃんは性格がおとなしすぎる。あとは髪型。ファントムガールの髪型は、普段最もしている髪 型になるからね」
思わず、左右ふたつに束ねた髪を触るエリ。妹のユリは髪を結わず、そのまま垂らしたセミ
ロングであった。
「誤魔化そうとしてもあなた自身、無駄だとわかってるんでしょ? お願い、エリさん。助けて
欲しいの。私の話をきいて」
里美の口から、今までの経緯と、新戦士として、新たな仲間として、少女を迎えたい意向が語
られる。
陽がとっぷりと暮れ、薄墨が世界に広まる頃、ふたりの少女はハンバーガーショップから外
に出た。帰宅途中のサラリーマンや、部活帰りの学生によって、入った時より、商店街の人通 りは増えている。
「・・・ごめんなさい、力になれなくて」
「ううん、いいのよ。私の方がどうかしてるのよ。気にしないで」
優しく微笑む里美。その笑顔は先ほどと変わらないように見える。
「いくら言われても、私はファントムガールじゃありません。・・・助けたくても出来ないんで
す・・・」
容姿通りの可愛らしい声で、少女はハッキリと主張した。結局エリは、最後までファントムガ
ールであることを認めようとはしなかった。
“このコが新戦士であるのは、九分九厘間違いない。けれど、ダメだわ・・・どうしても認めてく
れない。バレてるのも承知で、頑として認めようとはしない。それはそうよね、ファントムガール となれば、闘いに巻きこまれてしまうもの。誰だって他人のために死にたくはない・・・”
内気な性格の少女だが、どんなに里美が言葉を並べても、断固として受け入れようとはしな
かった。
里美は正直に、現在の苦境を話し、新ファントムガールとして共に闘ってくれるようお願いし
たが、エリはファントムガールであること自体を否定し続けた。
それはある意味当然の反応だった。なにしろ、里美が言ってるのは、死と血が待っている戦
場への呼び掛けなのだから。
死に逝く里美を新戦士が救ってくれたのは、人類の守護天使が無惨に虐殺されかけている
のを見て、たまらなくなって、気がつけば変身していたのだろう。できることなら、闘いたくはな い、というのが、少女の本音に違いない。馬型ミュータント程度の敵ならともかく、メフェレスの ような悪魔の権化と闘うのは、死を覚悟した者にしか出来ぬ芸当なのだ。
“彼女は私やナナちゃんと違って、自分の意志でファントムガールになったわけじゃないも
の。寧ろ、被害者と言っていい。偶々『エデン』に寄生されただけで、生命を賭けてこの国を守 って、と言われても納得できるわけがないわ”
教育係である安藤に言わせると、そこが里美の甘い部分なのだが、嫌がる者を無理に仲間
にすることが、どうしても彼女にはできなかった。ぶっちゃけた話、仲間など、できればいない 方がいいのだ。何故なら死の危険と隣り合わせで、なんの報酬もないのが、ファントムガール なのだから。
里美に表れた翳りを勘違いした少女が、慌てたようにペコリと頭を下げて謝る。
「ホントにごめんなさい・・・・・あの・・・・・・五十嵐さんの秘密は、誰にも喋りませんか
ら・・・・・・・・」
「ありがとう、助かるわ」
鈴蘭の香りが漂うような、透明感のある微笑みを向ける里美。少女を少しでも、安心させて
帰らせることが、今の里美にとって第一の任務だった。
もう一度、申し訳なさそうにお辞儀する白い少女。
その妖精の背中を、商店街の雑踏の中に里美は見送る。
くたびれたサラリーマンの中年や、ダベりながら群がる高校生の集団とすれ違いながら、フラ
ンス人形に似た、白い制服の少女がとぼとぼと歩いていく。注目されるのは相変わらずだった が、つい数時間前と違い、気にする素振りはない。少女の意識は、先程までの長い髪の美少 女との会話に支配されていた。
眉根が寄っている。黒目がちな瞳は、哀しげに垂れていた。常に俯いているため、水仙のよ
うなスタイルが、ひどく小さく見える。
本当にあれで良かったのだろうか? 西条エリの小さな胸に去来するのは、疑問の念だっ
た。いや、あれで良かったんだ。次の瞬間には、納得しようとする気持ちが浮ぶ。その輪廻 が、ずっと止まらない。
肩を落した少女は、派手な格好のコギャルとすれ違う。ある意味、己とは対照的な存在であ
る少女を見たコギャルは、鬱陶しそうに蔑んだ眼を向ける。
「あんた、ファントムガールでしょ?」
虚を突かれた白い少女が、普段のおっとりした様子からは想像できないスピードで、振りかえ
ってコギャルを見る。
豹柄のタンクトップにミニスカート。薄く透けたサングラスの奥に、マスカラの濃い瞳が歪んで
いる。異常に長い凶器のごとき爪。
白鳳女子という、お嬢様学校にいるエリは知らない。「闇豹」という名の悪魔がこの世に存在
することを。
新たな“オモチャ”を前に、神崎ちゆりが愉悦をこらえきれずに破顔する。見る者の背にミミズ
を這わせるおぞましい笑い。
「あはは! お嬢様と遊べるなんて、ちり、ツイてるぅ〜〜!」
十本のナイフが付いた両手を、白い少女に振るう豹。
血煙が、舞う。
切り刻まれた白いセーラーが、季節外れの吹雪となって大地に舞い降る。
商店街には有り得ない、肉と布を切り裂く音に、通行人の視線が吹雪の発祥地に注がれる。
呆然とするエリの胸元に、五条の稲妻が走っている。濃緑のリボンは切断され、抉り取られ
たセーラーの爪跡から、小ぶりながら形のいい双房が露になる。五本の朱線が真横に引か れ、血の珠が、プツプツと膨れ上がってくる。
「きゃああッッ?!!」
ビリビリと痺れる熱い疼きより、公衆の面前で素肌を晒す羞恥に慌てた少女が、両手で胸の
膨らみを隠す。胸同様、腹部もセーラーが切り裂かれ、白磁の腹筋が剥き出しとなっている。
突如、襲い掛かる圧倒的殺意。大切な部分を通行人に見られるかも知れない恐怖。かつて
ない感情の恐慌に、パニックに陥る少女。
本来の戦闘力を奪われたエリに、加虐の限りを尽くしてきた魔豹に勝つ術は、ない。
「な〜んだぁ、てんで大したこと、ないじゃん〜」
ちゆりの青い爪が、横薙ぎに払われる。
プシュッッ・・・・
血の間欠泉が吹き、血管の浮いた青白い太股に3本の裂傷が引かれる。
糸が切れた人形のように、膝からガクリと落ちるエリ。
白いセーラーに点在する赤い飛沫に気付いたギャラリーが、日常世界に舞いこんだ異常に
ざわめき始める。
膝上にパックリ開いた傷跡から、ボトボトと鮮血を滴らせる少女。アスファルトに洩れていく赤
を、非現実的な想いで見送る。大きな瞳は更に見開かれたまま。
“い、一体何が起きてるの・・・・??・・・・・こ、この人、誰・・・・・何??・・・・・・・痛い・・・・・・・
死ぬの?・・・・・・私、死ぬの??・・・・・”
精神がショートする。この世に生れ落ちてわずか15年という経験では、対処できない異常事
態に、エリの混乱は深まり、幼いころより身につけてきた武道の鎧を剥ぎ取って、無防備な女 子高生の本性を暴き出してしまう。
見物人のひとりが、甲高い悲鳴を挙げる。
その声に押されるように、豹柄のコギャルを見上げる少女。
金色のルージュを割った赤い舌が、爪に付着した少女の鮮血を舐め取る。
「え??・・・・・・あ・・・・・ああ・・・・・」
「その顔をォ〜〜、串刺しィィッ〜〜ッ!!」
魔豹の右手が、避けることも忘れたエリの顔面へと飛ぶ!!
ブッシュウウウウッッッ・・・・・・
槍が人間の肉体を貫く音。
赤い飛沫が豹の右手に飛び、汚す。
周囲を囲んだギャラリーから、複数の悲鳴がどよめく。
「きったねえなぁ〜〜・・・返り血がついちゃったじゃんかぁ・・・」
ひとりごちる、「闇豹」。五本の指全てが貫いた肉体が、ビクビクと痛みに震える。貫通した爪
の先から、赤色の雫がポタポタと大地の神に捧げられていく。
「里美ィィ〜〜、あんたって、ホントにちりの邪魔ばっかするよねぇ〜〜・・・」
神崎ちゆりと白い少女の間に割って入った五十嵐里美が、片膝をついた姿勢のまま、見上
げる格好で魔豹を睨む。その左手は、掌から手首にかけて、青い爪に突き貫かれている。
“え?・・・ええッ??”
いつの間に、現れたのか? 風のように少女の目の前に出現した青いセーラー服の美少女
は、文字通り、身を盾にして白い妖精を守ったのだ。
キョトンとしたエリの眼に、光が刺してくる。里美の腕から流れる血潮が、少女をようやく現実
へと連れ戻したのだ。
「あ、ああ・・・い、五十嵐さん・・・・な、なんで??・・・どうして?・・・」
「ちゆり、このコは関係ないわ! 勘違いしないで!!」
里美の前蹴り。膝をついた姿勢から、一気に伸び上がるバネと、180度の開脚が可能な、
新体操で極めた柔軟性を併せ持つ里美ならではの見事な蹴り。
慌ててよける闇豹。だが、貫かれた腕の筋肉が爪を捕え、一瞬下がるのが遅れる。
透けたサングラスが、乾いた音をたててアスファルトに転がる。
「てッ、てめえぇぇッッ〜〜ッッ!! 里美ィィッッ・・・あんたってメスブタは、殺されなきゃわか
んねえようだなぁッッッ!!!」
アイラインで強調された大きな眼が、可憐なセーラー服姿を射る。豹の残酷な本性が露とな
る。そこにいるのは、コギャルではない、人の涙と血をすする猛獣。人の皮を被った悪魔の咆 哮に、見物人の肌が例外なく総毛立つ。
「やるなら受けて立つわよ! あなたには、返したい借りもある!」
毅然として、暴風雨の中を白百合が咲き誇る。憤怒の黒い風を、真正面から受けきる一輪
の華。その気高い美しさに、人間性の欠落した魔女が、逆に気圧されていく。
以前、里美がいいようにちゆりに嬲られたのは、怪我が完治していなかったのと、1対3とい
う状況であったからだ。あの時は、正直、里美は絶望していた。殺されても仕方ない、と。
今は違う。対等な条件で闘える。その想いが里美に自信と尊厳を取り戻させていた。そして、
その自信は、対するちゆりにも確実に伝わっているはずだった。
バターンという、何かが倒れる音。
黒い殺意の余波を受け、ギャラリーの誰かが昏倒したのだ。
「ちッッ・・・これ以上は騒ぎを大きく出来ないわね・・・里美ィィ〜〜、あんた、命拾いしたねぇ
〜。お楽しみは今後に取っとくわ〜」
鼻にかかった舌足らずな口調に戻った闇豹が、くるりと踵を返す。
周囲の注目もなんのその、悠然とした足取りで露出の多い格好のコギャルは、人波の彼方
へと消えていった。
「大丈夫だった?」
青いプリーツスカートの裾が翻り、里美は背後の少女に向き直っていた。
その額には、汗が光る。腕に5つの穴が開いているのだ。痛くないわけがない。それでも里
美は、そんな表情を見せようともしない。荒い吐息を隠して、心配そうにエリの傷口を見る。
「あ、大丈夫、です・・・血の割には傷は浅いから・・・私より、五十嵐さんの方が・・・・・・」
「里美でいいわよ」
「え? あ・・・・・・あの・・・里美・・さんの方が、重傷ですよ・・・・」
「私なら平気。これぐらい、なんてことないわ」
そんなわけはない。
平気な人間は、言葉の間にそんな荒い息をつかない。
平気な人間は、笑顔の上にそんな大量の汗はかかない。
平気な人間は、傷を押さえた手をそんなに震わせなどしない。
「ど、どうして?・・・どうして私なんかをかばったんですか? ファントムガールじゃない、里美
さんの手助けを断った私なんかを?」
「ファントムガールじゃないから、よ。私があなたに近寄ったから、襲われたんだもの、命を賭
けても守ってみせるわ」
厳しい顔つきで、里美は言った。命を賭けても、という台詞が、この人が言うととっても重く感
じられる・・・エリはその言葉が、単なる使い古された言葉ではないことを知る。
「それより、早くここから脱け出しましょ。騒ぎが大きくなるのは困るもの」
聖愛学院には武道場が2つある。それだけでも、珍しいのだが、闘技場なる、リングが設置さ
れた施設まであるのは、5000名を抱えるマンモス校ならでは、と言えた。
闘技場を利用するのは、ボクシング部とレスリング部が中心だ。他にキックボクシングの同
好会が、隅の方で汗を流していたりする。
それが偶然なのか、意図的なのかはわからない。その日はレスリング部が休みにしている、
木曜日だった。
キックボクシング同好会は、火・金しか闘技場は使わない。ボクシング部が占領する木曜は、
ミットやサンドバッグを叩く心地よい音が、ダンスミュージックとなって、学園の敷地の外れに響 き渡る。
それが、いつもの木曜だった。
その日は違った。リズムを刻む打撃音は、洩れてこない。
闘技場が他の施設の近くにあったなら、異常に勘付く者もあったろう。しかし、現実には、植
林の奥にある闘技場の異変を、知る者などいなかった。
ひとりの女性が闘技場に歩を進めていく。
腰までのボリュームのある長い黒髪が、一歩一歩、足を運ぶたびにフサフサと流れる。髪の
終わりに見える豊満な尻肉は、タイトなミニスカートを透かして、一歩ごとに揺れて女臭を発散 させている。背中のラインだけで、男子生徒を発情させそうな、艶っぽい後ろ姿。
女教師という淫靡な響きを、巧みに身に修めた女、片倉響子は、逡巡することなくひっそりと
静まり返った、闘技場へと入っていく。
木の板でできた闘技場の床に足を踏み入れた瞬間、思わず女教師は、柳眉をわずかにひ
そめる。
異常は一目で明らかだった。
12個の男の身体が、闘技場のあらゆる場所に横たわっている。
そのほとんどが失神しているようだった。そうでない者も、呻き声を苦しげにあげ、意識を混
濁させて、苦痛の海に溺れているようだった。
やられ方は、様々だ。
鼻を潰されTシャツを真っ赤に染めている者、白目を剥いてロープに凭れたまま気絶している
者、奇妙な方向に曲がった腕を押さえている者・・・・・・様々だ。
夥しい敗北者の山の中、ひとり佇む男を響子は見る。
背が、飛びぬけて高い。2m近くありそうだ。
つい最近、響子は武志という名の、巨躯の持ち主を間近で見たが、この男は横幅がない分、
武志よりも遥かに高い印象がある。高いというより、長いという方が合っているかもしれない。
ボサボサの長髪のため、顔はよく見えないが、隙間から覗く眼は、タレ眼の三白眼だった。
獲物を値踏みするような視線は、響子のあまり好きな視線ではない。
男は何故か、上半身裸だった。地黒の肌が痩せた体躯をさらに強調するが、その細い四肢
に浮んだ筋繊維の跡は、ひ弱そうな見かけとは裏腹に、男が素晴らしいバネの持ち主である ことを耳打ちする。
腕も足も、棒のように細く長い男。
そして、その長い手足には毛が生えていない。胸には細い毛が、密集しているというのに。そ
の事実は、彼が手足を鍛えていることを証明している。
「遅かったな、響子」
凄惨な光景には似合わない、垢抜けた調子の声が降って湧く。声の主は、リングに佇む長身
の不気味な男ではなかった。
「ちょっと途中で、懐かしい顔に会ったから、挨拶してたのよ。・・・で、“これ”がちゆりの言っ
てた壊し屋さん?」
闘技場のどこかに隠れていたのだろう、床に寝ているボクシング部員が、全員意識がないこ
とを確認して、久慈仁紀が、そのユニセックスな様子の身体を現す。体脂肪率3%、無駄な肉 を削ぎ落とした体は、一方で女性的な艶かしさも併せ持っていた。
「“これ”とはご挨拶だな、女。学校の中だからといって、犯されないとでも思ってるのか?」
黒い棒が声を発する。外見通りの低く、暗いトーン。
「壊し屋・葛原修司だ。まあ、強さは今、見せてもらったんだが・・・響子が遅かったんで、つい
さっき、終わってしまったよ」
教師と生徒という間柄を、無視した口調で久慈が話す。目の前で行われた破壊劇がお気に
召したのか、薄い唇は愉快そうに歪んでいる。
「見なくてもわかるわ。壊された体を見ればね。キックボクシングと、柔道系の関節技ってとこ
ろかしらね」
「フン。そんな格闘技など知らんな。殴って、蹴って、絞めてやりゃあ、大抵の奴は壊れるもん
だ。女ごときには、わからんだろうがな」
“ごとき”という部分が、西洋風美女の癇に触れたらしい。
毎日手入れを怠らない、細い眉がピクリと反応する。
「あなたのようなモテそうもない、ブ男ほど、女をバカにするのよね」
「モテる? 必要ないな。女など、いくらでも犯せばいい。なんなら、今すぐにでも犯してやろう
か?」
くっきりとした二重の目蓋が細まる。世界のどこにでも通用する美女の瞳が、死臭漂う鋭さを
帯びていく。対する長身の男も退かない。髪のすだれの向こうで、三白眼が鬼気を増す。
「やめろ、響子。で、どうなんだ? 使えそうか」
久慈の朴訥とした声に、美神が造形した傑作が、絡まった視線を下に落してほどく。成熟した
バストの上で長い腕を組み、冷静な口調で語り始める。
「この吐き気を催す精神は申し分ないわね。人の悲鳴や、骨・靭帯が切れる音が大好きだっ
て言うし。さぞ闇のパワーに満ちているでしょう。強さも、ウチのボクシング部12人を眠らせる んだから、“人間としては”相当なものよ。融合体としての素材は十分。ただ、ひとつ、条件があ るけれど」
「なんだ? 条件とは」
「今のままでは、自意識が過剰すぎるわ。このままミュータントにしても、恐らくあなたの命令
を聞かないわよ」
「さっきから、何ゴチャゴチャ言ってんだ。早く約束のモンを寄越せよ」
リング上の葛原の横槍に、明らかな不快の表情を見せて、久慈が懐から紙切れを掴む。
「ほれ、受け取れよ。お前ら、暴力しかない貧乏人には、なかなかお目に掛かれない額だ。き
ちんと数えて大事にしまっとけよ」
福沢諭吉の描かれた札を、ちょうど十枚、無造作にリングに投げ入れる。
「チッ!!」という舌打ちを聞こえるようにして、幽鬼のごとき影が、紙幣の束をとり、枚数を確
認する。
「どうすれば、オレの言うことを聞くようになる?」
「こいつは自分が強いと思ってるから、服従しないのよ。あなたの方が強いことを、身体に教
えてやることね」
「なるほど」
二回周り、枚数を数えた長身の影が、リング上から声を掛ける。
「おい、やることはやったんだ、オレは帰らせてもらうぜ」
「待て」
学生服のズボンに手を突っ込んだ久慈が、掴んだものを葛原に投げる。
先程より分厚い札束が、ボトっという音を残して青いキャンバスに落ちる。
「どういう意味だ、これは」
「それでオレと闘え。もし、オレに勝てたら、その十倍の金をやろう」
学生服のまま、ロープを飛び越えてリングインした久慈が、マットに寝ている邪魔な失神者を
蹴り落していく。物と化した生徒たちが、ドサドサと木板に落ちる。
「お前と、闘うだと? 気は確かか?」
「その額では不満か? なんなら二十倍にしてもいい。そうだ、響子も好きにしていいぞ。こん
なイイ女、貴様では一生抱けまい」
「あら? 勝手なひとね」
腕を組んだまま、不敵な笑みを浮かべる女教師。その余裕が黒い壊し屋を逆撫でする。
乾燥した髪の向こうで、三白眼が剥き出される。洩れてきたのは、堪えきれない愉悦の笑
い。
「キヒ・・・キヒヒヒヒ・・・・いいんだな? 本当にいいんだな? もう撤回は効かんぞ。お前のよ
うな苦労知らずのボンを、徹底的に壊してみたかったんだ・・・しかも、これほどの美人と犯れる とは、こんなオイシイ話はないぜ。生意気な女教師を壊して、泣かせて、犯りまくって・・・・・・」
「ふふふ・・・夢は見られるうちが幸せよね」
「その代わり、負けたらオレへの忠誠を誓え」
「なんだってしてやるさ。キスだろうが、殺しだろうが」
ゆらり・・・と揺れながら、黒い柳が構えを取って距離を詰める。格闘技を知らないといいなが
ら、その構えはムエタイ、タイ式キックボクシングの選手にそっくりであった。
「メフェレス、剣は取らないの?」
リングサイドに陣取った、たったひとりの観客がしなやかな学生服に声を掛ける。
久慈仁紀はボタンを緩めさえせずに、デートの待ち合わせをしてそうな雰囲気で、構えも取ら
ずにスタスタと長身の幽鬼に進んでいく。
「いらん。たまには素手で嬲るのも良かろう。得物がないと弱いと思われても困るし、な」
「広いお家なのね」
五十嵐里美の台詞は、彼女の実家を知る者が聞いたら、怒るか、拗ねてしまいそうなものだ
った。無論、月の明りに照らされた美少女に、皮肉な気持ちなどない。一般的な視点から見た 結果を、客観的に述べたに過ぎない。
「・・・古いだけです。家屋なんかは、もうボロボロだし」
ギイイ・・・という軋みを後に、木造の大きな門扉をくぐる。時代劇に出てくる、悪代官のお屋
敷のような門構えだ。くぐる時に里美は、「西条」の表札の下、『想気流柔術』という朽ち木のよ うな看板を見る。
神崎ちゆりに商店街で襲われた、五十嵐里美の怪我を手当てするために、西条エリは断る
里美を半ば無理矢理に、自身の家に連れてきたのだった。
ちゆりがエリを襲ってきたのは、里美とエリが話していたため、と考えてほぼ間違いなかった
が、エリはそれを里美のせいにするのを良しとはしなかった。武道家のはしくれである自分が、 助けられたのだ。原因がなんであれ、その恩義を返さないわけにはいかない。
二階建ての母屋に向かおうとした足が、ふと立ち止まる。西条エリのつぶらな瞳は、隣接して
建てられた道場へと注がれていた。
看板を掲げているだけあって、西条家には立派な道場が建っていた。外から見る限り、30畳
ほどもあろうか。木と漆喰で固められた壁は、ちょっとした歴史を感じさせる色に褪せている。
その格子窓から光が洩れていた。
エリの父・剛史(たけふみ)は、仕事が終わった後、十数名の門下生を相手に柔術を教えて
いたが、今日はその日ではない。稽古日でない日は、自由に道場を使っていいことにしている ので、門下生が時々やってきて個人練習をこなすこともあるが、それほど熱心な弟子は滅多に いないのが現実だった。
エリは腕時計を見る。すでに針は8時を回っている。
「誰か、来てるのかな?・・・ちょっと覗いてもいいですか?」
里美に確認を取る。その左腕には、応急処置で巻かれた白い包帯が目立つ。
ニッコリと爽やかな微笑みを返し、里美は了承のサインを送る。毅然とした表情が、最も美し
く映える里美だが、春の日和を思わせる笑顔はまた格別で、胸に暖かく染み込んでくる優しさ がある。
そんな里美の笑顔は、エリに安心感を与えたようだ。足の方向を変え、道場へとふたりは澱
みなく進む。
ガラガラと格子の戸を開け、畳の敷き詰められた道場に入っていく。
「ユリ・・・あんた、何してんの?・・・」
畳に座っていたふたりの少女が、気配に気付いてこちらを見る。
向かい合って座ったふたりは、それまでお喋りに夢中だったようで、キャッキャッと笑いながら
騒いでいた。エリと同じ、白いセーラー服に身を包んだ少女は、エリそっくりの顔をしている。違 いはセミロングの髪形と、エリの顎にある黒子が少女にはないことぐらいだろうか。きちんとし た正座が、自然な様子で似合っている。
もう一方の少女は白い道衣姿だ。こちらは正座に耐えきれなくなったのか、両足を崩した、所
謂女のコ座りをしている。道衣を見る限り、門下生ではない。『想気流柔術』では黒い袴を履く のが正装だが、少女はどうやら普通の空手衣を着ているようだ。ショートカットがよく似合う少 女で、グラビアアイドルと並んでも遜色ない可愛らしさ。少々ツリ目気味の瞳は猫を思わせる が、一点の曇りなく澄みきり、茶目っ気と爽やかさを同時に感じさせる。太陽のように笑う口元 に覗く白い歯が、眩しいくらいに印象的だ。
“部外者”の少女に、警戒を抱くエリだが、妹のユリの笑顔がその気持ちを薄れさせる。エリ
以上に大人しいユリが、こんなに楽しそうに笑っているなんて・・・学校ですら、見たことがない。 妹とほとんど一心同体の生活を送っているエリだが、ユリの笑顔は久しぶりに見た気がする。
しかし、その笑顔を引き出したのは、紛れもなくこの空手衣の少女なのだ。内向的で、人見
知りの激しいユリと、ここまで打ち解けてるなんて。一体、何者なんだろう・・・?
「え、え〜〜ッと・・・・・・・あ、あの、この人はね・・・・・」
双子だけに、ユリの声は姉そっくりであった。アニメ声とでも言いたいような、高く、幼さを含ん
だ声。
ただでさえ緊張するタイプのユリは、突然の姉の登場に焦っているようだった。説明をしようと
するが、言葉が出ずに困っているのが、誰の目にもわかる。
膠着しかけた空気を打破したのは、意外にも里美の声だった。
「ナナちゃんじゃないの?! どうしてここに?」
「へへ〜〜ん♪ 里美さんがいるってことは、どうやらビンゴ、ですね! 吼介先輩に教えても
らっちゃった」
ペロリと小さな赤い舌を出すのは、藤木七菜江だった。
足の力と反動だけで、一気に畳から起きあがり、白い道衣の裾を直す。
「し、知り合いなんですか?」
振り返ったエリが、驚きを隠しもせずに里美に訊く。
「えッ〜〜とね・・・まあ、その・・・・・」
今度は里美が口篭もる。常に落ち着いた現代くノ一が、らしからぬ動揺を、泳いだ視線を通
じて伝える。
“どうしよう・・・・・・。私と知り合いだってバレたら、すぐにファントムガール・ナナだってわかっ
ちゃう。と言って、しらばっくれるわけにもいかないし(ナナちゃんにそんな器用なこと、できるわ けないわ)。声掛けたのは、迂闊だったな・・・・・”
七菜江の正体を隠すべく、必死に左脳をフル回転させる里美。
だが、そんな苦労は杞憂に終わる。
「あッッ!! あなたがエリちゃんだね! うっわあ〜〜、双子ってホントにそっくりなんだぁ!
ユリちゃんと同じで、とってもカワイイ〜〜ッ!」
「え? いや、そんな・・・・・ありがとう・・・ございます・・・・」
「私、ファントムガール・ナナやってる藤木七菜江って言います! エリちゃん、『新ファントム
ガール』でしょ?! お願い、私達の仲間になって! んで、一緒に悪い奴らをやっつけよう よ!!」
股を広げて仁王立った七菜江が、渾身のピースサインを呆然とするエリに送る。チャーミング
すぎるウインクつきで。
「あ、あれ? なに、この雰囲気? ・・・里美さん、なんで頭抱えてるんですかぁ?」
「あ、あの・・・・・・私、ファントムガールじゃ、ない・・・んですけど・・・・」
一瞬、七菜江の笑顔が凍る。しかし、少女なりに対応シミュレーションを万全にしてきたた
め、解凍は早かった。
「ふ、フフ――ンだ。そうやって、すっとぼけるのは、お見通しなのサ。そう来ると思ったから、
この格好なのよ」
「??」
「私と闘おうよ! もし、私が勝ったら、素直に私達の仲間になるってことで、どう?」
3
濃紺のハイソックスが、畳の上を滑るように進んでいく。
五十嵐里美のバービー人形のように細く、長い脚に、紺のハイソックスはよく似合った。この
地域の洋服店では、他の地域よりも紺のハイソックスが3倍ほど売れるが、原因はたったひと りのお嬢様にある。
里美の左腕には真新しい包帯が、きつく結ばれていた。つい先程、西条ユリにきちんとした
手当てをしてもらったのだ。武道家の娘に生まれただけあって、包帯を巻くユリの手順は、手 慣れたものだった。
道場の真ん中ほどまで進んだ里美は、そこでスカートの裾を折り込んで正座する。
「派手にやられたわね、ナナちゃん」
里美の膝先に、仰向けで寝る藤木七菜江がいた。額から眼の部分にかけて、白い濡れタオ
ルが顔を隠している。首には氷枕。両手首・足首に塗られた軟膏のツンとする匂いが、鼻腔の 奥を刺激する。脱臼した左肩は、エリによって元通りにしてもらったが、負担をかけないよう、 三角巾で首から吊ってある。
「ごめ〜〜ん、里美さん。全然敵わなかったよ」
横になったまま、七菜江が応える。半分しか表情は見えないが、意外にサバサバとしている
のはわかる。
「当たり前でしょ。勝負って、何をやるかと思ったら、柔術で闘うなんて・・・。相手はスペシャリ
ストなのよ、いくら運動神経がいいからって、勝てるわけないじゃない」
「だって・・・無茶言ってるの、こっちだもん。相手の得意分野で闘わないと、納得してくれない
と思って」
打撃なしのルールで闘った七菜江とエリだが、組み合っては七菜江が宙を舞い、関節を折ら
れる寸前まで極められて悲鳴を挙げる、という繰り返しが続いただけだった。
吼介に教えてもらって1週間の七菜江では、いかに『エデン』との融合者であろうと、生まれた
時から柔術家のエリの敵ではない。関節を捻られ、頭から畳に落ちる七菜江の姿に、見守って いたユリは思わず眼を逸らした。
だが、どんなに痛めつけられても、七菜江は立ち上がってくる。体力は底を尽き、四肢は動
かなくなり、意識は朦朧としても、何度も何度も立ち上がる。その度に、エリは容赦なく七菜江 を叩き伏せた。立合いでは、手は抜かないというのは、父に教え込まれた最初の“常識”だっ た。
最後は、四肢をダラリとさげ、フラフラとやられるために立ち向かってきたような七菜江を、後
頭部から落して決着をつけたのだった。
「全く・・・エリちゃんはファントムガールじゃないって言ってるのよ。たとえ勝ったとしても、仲間
にはなってもらえないの。あれだけファントムガールであることは、誰にも言うなって注意したの に、正体を簡単にバラしちゃうし・・・もし、あのコが悪いコだったら、どうするの?!」
「大丈夫ですよォ。あのコたち、悪い人間なわけないじゃないですか」
「そういう問題じゃないのッ!」
「里美さん・・・怒ってる?」
「怒ってます!」
「許してくれる?」
「許してあげる。ナナちゃんらしいからね」
タオルの下で、青春真っ只中の前歯が、白く輝く。そんな七菜江を見て、里美は嬉しそうな苦
笑で、軽い溜め息をつく。
「でも、大したものね」
「ホントですよォ、結構練習したのになぁ・・・ちっとも歯が立ちませんでした」
「ナナちゃんが、よ。あのコ、途中から本気だったわ。もちろん、初めから手を抜いてないけ
ど、必死さが変わってた。たった1週間でここまで強くなるなんてね。1ヵ月後を期待しちゃうナ」
里美の言葉は、七菜江には意外だった。己の成長が、自分自身で気付いていなかったの
だ。実感は湧かないながらも、尊敬する人物からの褒め言葉は、モチベーションを高めるの に、これ以上のものはない。
「あとは必殺技を開発することね」
「そういや、そんなこと言ってましたっけ」
「・・・もしかして、忘れてたの?」
「う、ううんッ! 覚えてた! 覚えてました! ホントですよ、ホント・・・あは、あはははは」
口と鼻だけでも、嘘がわかっちゃうのね・・・・・・
ガラガラと人が入ってくる気配がしたのは、そのときだった。
白い道衣と黒袴姿の西条エリと、ジーンズと紫のトレーナーに着替えてきた妹のユリが、視線
を下に落して近付いてくる。まるで、対のお人形のような愛くるしい顔は、ふたつとも、今にも泣 き出しそうに歪んでいる。気配に気付いて顔をほころばせている七菜江とは、どちらが勝者か わからない。
横たわった少女の側で、双子の姉妹は里美の反対側に、同じタイミングで正座する。
「・・・・・大丈夫・・・・ですか?」
消え入りそうに、エリが尋ねる。眉の近くの産毛が、フルフルと小刻みに揺れている。黒目が
ちな瞳は、水をたたえたように光を乱反射している。
「ここんとこ、よく痛い目みてるから、これぐらいはへっちゃら・・・って言いたいけどね。効いた
ぁ〜〜! これだけやられたら、逆に気持ちいいよ」
「七菜江さん・・・・・・」
「カンッペキにあたしの負けだね。とっても残念だけど、『新ファントムガール』のことは、諦め
る」
ハッキリとした口調が、七菜江の決断の強さと、その底にある深い無念さを窺わせる。隣に
座る里美は、ただ、七菜江の眼を隠したタオルを、じっと見つめて動かない。
空手衣の少女の言葉は、姉妹にとって、少なからず意外であった。曇った顔を、互いに見合
す。何事か、決意を秘めたような双子は、瞳で意志を確認しあい、先程決めてきた事項に変更 がないことを了解する。口を開いたのは、いつも決定権を持つ、エリの方だった。
「あの・・・そのことなんですが・・・・実は新ファントムガールは、わた――」
「あなたはファントムガールではないわ。そうでしょ?」
エリの台詞は、里美によって防がれていた。
「いいのよ、それで。あなたたちは、ファントムガールとは一切関係がない、普通の女のコた
ちよ」
「で、でもッ!」
「私達、さっきふたりで決めたの。エリちゃんとユリちゃんには、迷惑が掛からないようにしよう
って。ふたりには、幸せになってもらおうって。ファントムガールになるってことは、死ぬかもしれ ないってことなの。あなたたちは、この道場を守らなくちゃ、『想気流』の看板を守らなくちゃいけ ない。そんなあなたたちの小さな背中に、この星の運命まで背負わせるわけには、いかない わ。この国と星のために死ぬのは、私達で十分。幸い私達ふたりとも、悲しんでくれる人が、少 なくて済むからね」
七菜江がスラリと伸びた指で、ピースサインをエリに向ける。
その手は震えていた。さんざんひねり、ねじったため、手首の靭帯は伸びきる寸前の手だっ
た。持ち上げるだけで、激痛が七菜江を襲っているはずだった。
エリは両手でピースを握る。強く強く。七菜江の暖かさが、じっくりと沁みこんでくるようだっ
た。こんなに辛い暖かさが、世の中にあることを、生まれて15年でエリは知った。
闘いを通じることで、エリは七菜江という快活な少女が、いかに自分たちの力を欲しているか
を悟っていた。
なぜなら、七菜江は、柔術の技をほとんど知らなかったから。
工藤吼介が教えたのは、打撃技ばかりだったのだ。それが七菜江に向いてるとの判断から
だ。関節技はひとつしか、教えていなかった。
そのひとつを、懸命に掛けようと、少女は何度も立ち上がった。エリにはそれが、組み合って
すぐにわかってしまった。
勝てないとわかっていて、立てば痛い目に遭うだけだと知っていて、それでも七菜江は闘い
続けた。エリが仲間になってくれることを願って。その純粋な気持ちが、肉体は壊れていってい るのに、技が上手くなっていく奇跡を生んだ。
だが、それでもエリには遠く及ばない。
エリは泣きたかった。辛かった。しかし、立ち向かって来るものには、容赦できない。最後、立
ちあがってきた七菜江の意識は、すでに飛んでいた。手加減せずに頭から落し、トドメをさし た。
それほどの想いで立ち向かってきた七菜江が、あっさり諦めるなんて。
“なんで? どうして? 私達の・・・ため? なぜ、そんな・・・”
言葉が出ない。ただ、エリは七菜江の意外なまでに小さな手を、ギュッと握り締める。
「・・・・・・嘘です・・・・・」
ずっと俯いていたユリの口から、言葉が洩れる。ジーンズの太股の部分には、紺色の沁み
が、ポタポタと点描画を作っている。
「悲しむ人が少ないなんて、嘘です・・・・・・私が、私達が悲しいです・・・」
足の付け根に置かれた拳にも、点描画が現れる。透き通った白さの拳は、グッと握られたま
ま、少女の心を教えるようにわなないている。
「ありがとう、ユリちゃん」
四人の少女による、無言の交流。それぞれの胸に去来する様々な想いが、大切な時間を刻
んでいく。
その暖かな奔流をぶち壊す、無法な乱入者は、突然に格子戸からドヤドヤと侵入してきた。
「おお〜い! いつまで経っても来ないから、待ちくたびれちまったぞ」
「お、お父さん! なに、持ってきてるの?!」
双子の父にして、『想気流柔術』の現後継者である、西条剛史が大きなテーブルとともに道場
に入ってくる。
「こ、吼介! あなた、なんでここにいるのよ?!」
「いやあ〜、七菜江が道わかんないって言うから、連れてきてやったら、西条先生に捕まっち
まって・・・・って、里美こそ、なんでいるんだ?」
テーブルの反対側を持っていたのは、工藤吼介だった。
娘ふたりの抵抗など、どこ吹く風の父親は、テーブルを道場の真ん中ほどで降ろすと、倒れ
たままの七菜江を覗き込む。
「ほほ〜〜、君がエリに挑戦したいっていう、お転婆かあ! 感心、感心。そういう無鉄砲な
バカが、最近はいなくてなあ〜」
「ハハ、こっぴどくやられたな、七菜江。だから言ったろ? 勝てるわけないって。ま、そこまで
やられたら、バカでもちっとは懲りただろ」
倒れていた七菜江の上半身が、ムクリと起き上がる。
「バカバカって、ふたりして言うな!」
「なんだ、元気じゃん」
「よ〜〜し、お前たち、みんな夕飯まだだろ! 今日はウチは手巻き寿司だ、パア〜〜ッと盛
り上がろうじゃないか!」
「お父さん! 神聖な道場に、手巻き寿司なんて持ってきて・・・」
「固いこというな。ほら、吼介、早く酒持ってこい」
即席で開かれた「手巻きパーテイー」は、酒気も入っての大騒ぎとなり、日付が変わるころ、
ようやくお開きになったのだった。
「西条先生って、どんなキャラなの?」
「いや、ホントはメチャメチャ凄い人なんだけど・・・。オレの師匠と仲いいから、よく出稽古や
ったんだよ。エリやユリともな。悪い人じゃないんだが、お祭り好きなとこがな・・・」
「こんな遅くまで・・・ホントにごめんなさい」
姉妹が揃って頭を下げる。だが、その表情は随分と明るい。酔い潰れた父親を道場の畳に
寝かせたまま、ふたりは客人を見送るために、古めかしい門構えまで出てきていた。
「でも、今日はとっても楽しかったです・・・トランプなんてやったの、何年ぶりだろ・・・」
エリは自らの声が弾んでいるのを、認めないわけにはいかなかった。友達と呼べる人は、道
場にも、学校にもいるけれど・・・気をおかずに付き合える他人には、初めて会った気がした。
「私達も、今日は楽しかったわ。いつもはナナちゃんとふたりだけで御飯食べてるから・・・」
「いいお父さんだね」
左腕を吊った七菜江が、里美の横で笑いかける。
「そんなこと、ないですよ・・・・うるさいし、わがままだし・・・とっても世話が焼けて困ってます」
「羨ましいな。私、お父さんの顔、見たことないんだもん」
その言葉の意味が、双子の顔に軽い緊張を走らせる。無邪気という単語が似合う年頃のふ
たりには、己の軽率さに後悔する色が濃く出ていた。
「あ、ゴメン! 気にしないで。変な意味で言ったんじゃないから。ホントにいいお父さんだと思
うよ。ふたりのこと、大事にしてるのが、よくわかるもん」
「私もそう思うわ」
夜風に里美の長い髪が揺れる。
気を遣っているのか、女のコの会話に入るのが苦手なのか、距離を置いている吼介を確認
して、里美は少し声を潜める。
「ところで・・・私、『新ファントムガール』に会ったら言いたいことがあるの」
あどけなさを残した双子の瞳に、緊張感がいや増す。隣を覗く七菜江の瞳にも、同じ模様が
浮んでいる。
「仲間になって欲しいというのも、もちろんあるんだけど、単独で闘いを挑むのだけはやめて
欲しいの。エリちゃんは、ちゆりに襲われたからわかるだろうけど、敵は思った以上に強力な 組織よ。だから、私達も団結しようとしている。単独で闘えば、命の保障はないわ。仲間になり たいというのは、そういう意味もあるのよ」
「・・・・・・・・」
「それだけは、やめて欲しいの。『新ファントムガール』にあったら、そう言おうと思って
る。・・・・・・・・遅くまでお邪魔してごめんね。そろそろ帰るわ」
踵を返す里美。寂しげにふたりを見つめていた七菜江は、未練を振り切る勢いで、里美の後
に続く。
「あ、あの!・・・・・」
背中を叩いたのは、妹・ユリの呼び掛けだった。
「・・・あの・・・また、遊びに来てくれますか?」
青いセーラー服姿の、ふたりの美少女は、百合とひまわりの笑顔を咲き誇らせて振り返る。
「もちろんよ」
「私達、友達じゃん! まったねェ〜〜!」
木造の門の前で、華奢で儚げなふたつの影は、いつまでも去りゆく客人を見送っていた。3
つの影が消え失せても、しばらくはそのままで。いつまでも。
「七菜江、日曜は暇か?」
帰路の途中、工藤吼介はショートカットの少女に声を掛ける。
5mほど前を里美が歩いている。ふたりに気を遣ったのか、どうかは定かではないが、吼介と
七菜江が並んで歩く格好になったのは、里美のおかげだ。
「うん、まあ・・・特に予定はないけど」
チラチラと里美の動きを見ながら、七菜江は答える。
里美の前で、吼介と話すのは、正直疲れることだった。尊敬する人への気配りといった点で
もそうだし、複雑な自分の気持ちが暴れ出してしまうためでもある。
そういえば、里美は吼介との関係を教えてくれると約束したが、いまだにその機会はない。里
美に限って忘れているわけはないが、こちらから催促するわけにもいかない。待つ辛さが、一 日ごとに募っていた。
「じゃあ、たまにはふたりで、街にでも行くか」
「えッッ?!」
頬が蒸気する。俯きながら、前方の長い髪を覗き見る。気品溢れる背中は、なんらの変化も
見せていない。
“これって・・・デートってこと、だよね・・・・”
デートは二回、したことがある。中学生時代にだが、そのときは、ただ映画を見て、ファースト
フード店に入って、それだけだった。つまらなくはなかったが、面白くもなかった。甘美な幻想 と、シビアな現実のギャップに、戸惑いを覚えた青い日々。
「べ、別にいいけど・・・」
「よし、んじゃあ決まりな」
夜でよかった。桜色に染まった肌を、誰にも気付かれずに済むから。
俯いたまま、ウブな少女は歩いていく。鼓動の早まりと、歩くテンポとのズレが、奇妙な酔いを
思わせた。
左肩の痛みは、忘れかけていた。
「エリ、本当にこれで、良かったの?」
西条家の2階の和室。そこが、エリとユリ、双子の姉妹に与えられた部屋だった。8畳の部屋
は、ふたりで使うには程よい。敷地面積で言えば、ひとりずつに個室を与えることは可能だが、 そうしないのは父・剛史の教育論によってだ。
酔いつぶれた父を運ぶことも含めて、宴の後片付けを済ませた姉妹は、自室で寝支度をして
いた。ピンクのパジャマがエリ、黄色がユリ。背中を向けて寝た振りをするエリに、布団の上に 座ったユリが問う。
「ファントムガールだってこと、言わなくて良かったの?」
「・・・仕方ないじゃない。言えなかったんだもの」
「あの人たち、とってもいい人たちだよ」
「わかってるよ、そんなこと・・・」
普段は喋るのが苦手なふたりだが、互いが相手の時だけは別だった。秋の虫の音のよう
な、涼やかで透き通るハイトーンボイスが、深夜の空間を行き来する。
表情を見せようとしない姉に、ユリはさらに話し掛ける。
「力に、なりたいよ。あの人たちの力に、なろうよ」
布団が跳ね上がる。起き上がったエリは、真正面から同じ顔の妹の瞳を見据える。漆黒の
瞳には、ジレンマという名の炎が、仄かに燃えていた。
「そう簡単に言うけどッ!! 死ぬかもしれないんだよッ?! 今日だって、私、殺されかけ
た。そのことをちゃんとわかってるのッ?!」
怒りとは無縁に見える少女の、激しい憤り。死に直面した少女は、その深遠なる恐怖を垣間
見たため、認識の甘い妹を、叱らずにはいられなかったのだ。
「ご・・・ごめん・・・・・・」
「私だって、里美さんたちを助けたいよ! でも、それがどれほど危険か、わかってるでし
ょ?!」
たしなめるエリの前で、ユリの瞳からポロポロと無垢な水晶が零れ落ちる。ユリの小さな胸
は、無力な己への責めでいっぱいになっていた。
「・・・でもね、私だって武道家のはしくれ。里美さんに受けた恩義は、どんなに危険でも、返さ
なくちゃと思ってる」
「・・・どういう・・・こと?」
すすり泣きながら、ユリは姉に、言葉の真意を尋ねた。同じ顔の少女は、包帯の巻かれた己
の太股に、宝石が散りばめられた瞳を落す。
「やられたら、やり返さなくっちゃね。ユリ、手伝ってくれる?」
日曜日―――
初夏の日差しが、緑の大地に広がっていく。地球が自転し、その速度と同じスピードで、この
星を照らす万物の創造主はやって来た。いつもと変わらぬ顔で、あらゆる生物に光を与える様 子からは、この日が特別な一日であることを、思いも寄らせない。
単なる安息日ではない日曜日が、長い長い日曜日が、始まりを告げようとしていた。
藤木七菜江は、豪華な鏡台に備え付けられた、金細工の縁取りが鮮やかな丸鏡に、芸術的
ラインを誇る己の肢体を写していた。
濃紫のキャミソールワンピースは、胸元のカットが際どく、双房の谷間が濃い翳りを見せてい
る。17歳の弾ける肌は、水に濡れたように光り輝いている。親友の亜希子には、牛乳風呂に 入ってるのかと、揶揄された肌だ。純白のシースルーのブラウスを上に着て、露出を抑える。 身の丈ほどもある巨大な鏡の中の少女は、随分と大人びて映った。頬に射した恥じらいのピン ク色だけが、やけに少女らしい純情さを演出している。
鏡に歩み寄る、七菜江。それに合わせて、鏡の中の少女も近寄ってくる。
そっと両手をあげてみる。鏡の少女が、掌を見せる。
大切なものに触れるように、ゆっくりと、幼さの残る丸い指先を伸ばす。
ふたりの美少女の指が、触れる。
伝わってくるのは、鏡の冷たい感触。
ふぅ・・・と溜め息をつく、鏡合わせの少女たち。
お互いに、じっと相手を見つめる。瞳が、潤んだように揺れているのがわかる。熱病に罹った
ように、顔が赤い。
“これが、等身大の私・・・。藤木七菜江の、ありのままの姿・・・”
キュッという音がして、少女の拳は握られる。
七菜江は、今日の自分の服装が、五十嵐里美が普段好む格好であることに気付いていた。
どんなに足掻いても、尊敬する学園のマドンナには追いつけないことを、七菜江は悟ってい
た。それ故に、この衣装を選んだ自分が、悲しかった。
その五十嵐里美は、隣室で眠っているはずだった。
怪我が治って以来、七菜江は里美の部屋の隣に、個室を与えられて生活していた。20畳近
くある、広大な部屋は、時々親元を離れた少女を、寂しく感じさせる時がある。そんな時は、隣 にすぐに飛びこんで、世間話で紛らわせるのが常だった。
しかし、里美の私生活は、お嬢様という響きからは、想像しにくいほどのハードさだった。
新体操の練習から帰れば、忍びとしての修行を独自でこなし、戦闘に関する知識を深め、学
業も疎かにしない。それ以外にも調べ物をしたり、五十嵐家の令嬢としてのパーティーに出た りと、寝る暇もないほどの忙しさなのだ。それを不平ひとつ言わずに、里美は次々とこなしてい く。
昨夜は1時ごろに帰ってきて、その後に地下の訓練場で、新体操の練習をしていたようだっ
た。さすがに隠しきれない、疲れ切った足取りが、里美の部屋に入っていったのは、午前3時 を回っていた。
“里美さんのことは、今日一日は、とにかく忘れよう・・・気にしたって、どうしようもないじゃ
ん・・・”
里美と吼介との関係とか。
里美は吼介を、吼介は里美を、どう思っているのかとか。
里美は今日のことを、どう思っているのかとか。
気にしない。気にしちゃダメだ。
今日はとにかく、楽しもう。楽しみたい。
柱に掛かった、古い鳩時計を見上げる。午前7時12分。吼介との約束の時間までは、まだ3
時間近くもある。
それでも七菜江は、早めに家を出ようと考えていた。里美にわからないように、したかったか
らだ。西条家からの帰り道、五感の研ぎ澄まされた里美が、吼介との会話を聞き漏らしたわけ はない。そうわかっているからこそ、里美の目の前を通って家を出るのは、少なからぬ負担だ った。
コンコンという、厚い木造の扉をノックする音が響いたのは、その時だった。
“安藤さん、日曜なのに平日と間違えたのかな?”
寝起きの悪い七菜江は、小学生のように執事の安藤に叩き起こされるのが日課だった。運
動会など特別な日だけ、早く起きられるタイプ。早朝の訪問者に、七菜江は声を掛ける。
「はい、どうぞォ。開いてますよ」
重々しく扉を開けて入ってきたのは、黒のTシャツとロングスカートに身を包んだ、落ち着きの
ある影だった。
「里美・・・さん・・・・」
「ごめんね、朝早くから」
部屋着と呼んでいい、ラフな格好でも、その纏った雰囲気からは、気品が損なわれることは
ない。柳眉がゆるいカーブの八の字を描いているのは、非礼に対する申し訳なさから来るよう だ。さざなみのような穏やかな微笑みのまま、美しき令嬢は正面から七菜江に近付き、純粋な 女子高生の肩に両手をかける。
「とっても綺麗よ、ナナちゃん。吼介も、きっと気にいるわ」
動転と羞恥と負い目と。桜貝の唇が、言葉を紡ごうとして、震える。だが、七菜江には、言う
べき台詞が思い浮かばなかった。
「あの・・・私、あの・・・・・」
「座って」
心に染みる優しい声に従い、七菜江は鏡台に向かって樫の木の椅子に座る。背後に立った
里美が、右肩越しに鏡を覗き込む。大きな丸い鏡には、ふたりの美少女の顔が並んで写って いる。
「見て、ナナちゃん。あなたはこんなに可愛いのよ。とってもチャーミングで、純粋で、女のコら
しい女のコ。こんなに可愛いコは、滅多にいないわ。もっと、自信を持って」
鏡の中の少女は、奥二重の眼を丸くして、真っ直ぐこちらを覗いている。ほんのり頬を染めた
桜色は、いまや無邪気さの残った顔中に広がりつつあり、少女が本来隠し持っていた、甘い艶 やかさを醸し出そうとしていた。少女の幼さに含まれた、女性としての魅力。“可愛らしさ”が光 リ輝いていた。七菜江には、天使のあどけなさと、女神の艶やかさ、その両方が微妙なバラン スで共生していた。桃色のオーラを纏った今、鏡に映った少女の顔は、どんな芸術家にも表せ 得ぬ、美の傑作と生まれ変わっていた。
七菜江の鼓動が躍動する。
ゴクリと唾を飲みこむと、白い喉が、かすかに上下した。
少女は、今の自分の変化に、ようやく気付いたようだった。
「ナナちゃんは、なんでお化粧しないの?」
「なんでって・・・やり方とか、知らないから・・・・・・」
「じゃあ、今日教えてあげるね。吼介を驚かせちゃおうよ・・・って、私もあまり、得意じゃない
んだけれど」
クスクスと笑う里美は、あまりにも無邪気だった。鏡台から備え付けてある、いくつかの化粧
道具を取り出すと、七菜江の正面に向かい合って座る。
突然の申し出に、慌てた七菜江だったが、里美の素早い行動によって、拒否する間もなかっ
た。髪をセットするか、眉を整えるくらししか、オシャレしたことのない七菜江にとって、化粧する という行為自体が恥ずかしかった。もちろん女のコである以上、興味がないといったら、嘘にな るが。
ファンデーションを取り出した里美は、少し考えてそれを元に戻す。する必要を感じなかった
からだ。代わりに20本ほどの口紅から、ひとつを選び出す。ピンクのカラーは、七菜江の唇の 色と、よく似た色合いだった。
「少し、口を開けてみて」
塗りやすいように、唇を半開きにしてもらう。白い歯が、チラリと覗くその唇の形は、同性の里
美から見ても、ドキリとするほど魅惑的だ。
「どうかな?」
「・・・なんか、変な感じ・・・」
マシュマロの唇を覆う塗料の感覚が、七菜江を戸惑わせる。里美の言葉に従って、口をパク
パクと開閉してみると、やや馴染んだような気がした。
「うふふ。初めはそんなものよ。・・・ラインも少し、入れよっか?」
「も、もういいですよ・・・」
「大丈夫よ、すぐ終わるから」
アイラインを引くために、道具を整える里美。筆を用意し、両目を閉じるように言う。
「動いちゃダメよ? そのまま、しばらく我慢してね」
透き通ったふたつの瞳を閉じ、口も閉じて、じっと、まだ朱色のままの顔を預ける七菜江。
その弓張りの眉と、濃いめの睫毛の間に、わずかに色を付けていく。
「私と吼介の関係を、まだ言ってなかったよね」
里美の台詞は、七菜江の身体をビクリと硬直させるのに、十分だった。
だが、目蓋の上を通る、筆の感触がそれ以上の動作を許さない。開きかけた口が、閉じる。
「姉弟よ」
筆は丁寧に、薄い紺色を着色していく。
ワナワナと震える七菜江のルージュに濡れた唇は、音を出すことが出来なかった。
「私と吼介は、腹違いの姉弟なの。だから、お互いを好きになることなど、ないの。ナナちゃん
が、私に気を遣う必要なんて、全くないのよ」
里美さんは今、どんな表情をしているのだろう?
閉じられた瞳では、見ることは出来なかった。
尖った顎に、光る汗が落ちていく。激しい動悸を抑えるため、七菜江は、右手を胸の隆起に
あてた。
ゆっくりと、眼を開ける。
化粧を終えた美しき令嬢の長い髪は、跡形もなく部屋から消え去っていた。
朝の陽光に照らされた部屋の風景だけが、全細胞を脈動させる少女の視界を迎えるのだっ
た。
ネズミと不良の大男を媒体としたキメラ・ミュータント、アルジャによって瓦解した北区・栄が丘
だが、甚大な被害は出たものの、ファントムガールふたりの身を張った犠牲は、決して無駄で はなく、崩壊を免れた地区は死闘の割りに多かった。高層ビルが破壊される時間を、ファント ムガールの蹂躙に費やされたため、と考えられよう。まさしく少女戦士は、その身を生贄にして 街を守ったのだ。
経験は人を育てるのか、最近では巨大生物が現れても、復興までの時間が早くなっていた。
もちろん、以前の活況を取り戻せるわけではないのだが、比較的スムーズに、通常の生活が 送れるまでには戻る。
栄が丘から西に行くと、若者たちが集まる「谷宿」がある。ファッション誌に登場するブティック
から、流行りの洋食屋、アミューズメントパークから総合レジャービルまで、“遊び”方面の追求 が徹底的に為されたのが、この谷宿だ。中高生からちょっと危ない連中まで、まとめて雑居し ており、休日はもちろん、そうでなくても人で溢れた街である。
日曜日の今日は、当然のようにこの地域一帯中の未成年が集合し、極彩色の人波を造り出
していた。地面の色が何色か、わからないほどの盛況ぶり。
私鉄の駅から吐き出される中高生の群れに、あるふたつの人影があった。
髪を襟足のところで左右ふたつに結った方は、膝までのデニムのパンツに、縞の長袖ティー
シャツの上にピンクのティーシャツを重ね着したラフなスタイル。
もうひとりの肩までのセミロングの方は、チェック柄のミニスカートに、白のパーカーというや
や子供っぽい感じ。
ふたりは、ほぼ同じ顔をしていた。違いは顎にある、小さな黒子の有無くらいだ。誰が見ても
わかる、双子。
本来、人の密集地は苦手な姉妹は、今日までに集めた情報から、彼女たちの探し人が、こ
の谷宿に生息していることを突き止めていた。真っ白な肌と、くりくりとしたつぶらな瞳は、可愛 らしい人形を思わずにはいられない。可愛らしさという点では、里美や七菜江も脱帽せざるを 得ない美少女は、数多の同世代の波の中でも、一際強烈な異彩を放っていた。しかも、ふた つ、揃っているのだから、注目度は倍増では済まない。男も女も、周囲の視線はチラチラと、 双子に引き寄せられていく。
普段なら、恥ずかしがりやの姉妹は、興味本位の集中砲火に耐えきれず、家に帰ってしまっ
たかもしれない。
だが、今日のふたりには、周囲の様子など、まるで意に介さなかった。
双子の姉妹には、為すべきことがあったのだ。
「ユリ、覚悟は決めてきた?」
「うん。エリこそ、大丈夫?」
『想気流柔術』の後継者、西条エリとユリの姉妹は、互いの意志を確認すると、人ごみから外
れて、並んで歩いていった。その方向は、危険地帯と呼ばれる、“一般人”が避けて通る一帯 に向かっていた。
双子の美少女が、駅に着いた頃、同じ谷宿でも、待ち合わせ場所で有名な時計台の広場で
は、エリやユリに負けない可憐な少女が人々の注目を集めていた。
紫のキャミソワンピに白のシースルーブラウスといったいでたちは、どことなく上品に映るが、
少女のはちきれんばかりのボディは、通り過ぎる男たちの欲情を、刺激せずにはおかない。吊 りあがった、美麗な形のバストとヒップは、罪作りなまでに通行人の視線を釘付けにする。耳を 隠すタイプの黒のショートカットは、初夏の陽光を跳ね返して、天使の光輪を浮き立たせてお り、その下の小さめの顔は、猫タイプの系列としては、最高級の美少女ぶりを発揮していた。
小麦色に焼けた肌は、少女の活発な様子を余すことなく伝えるが、大理石でできたモニュメ
ントのひとつにもたれる現在の少女からは、哀しげな翳りが色濃い。足元のミュールを見つ め、今にも溜め息を零しそうに眉を曇らす。
“里美さん、ひどいよ・・・なんでこんな日に、あんなこと言うの? ひどいよ・・・”
藤木七菜江にはわかっていた。五十嵐里美が吼介との関係をバラしたのは、七菜江が気兼
ねなく、今日一日を過ごせるようにするためだ。
しかし、真実の意外性と重大性は、精神的には少女の枠を越えられない七菜江にとって、あ
まりに衝撃的であった。
里美と吼介が姉弟・・・信じられない。
いや、何を考えたらいいか、わからない。
里美を好きだということは、有り得ないことと言った吼介の言葉も、理論的には理解できる。
でも、そんなんじゃない。なんというか・・・理論とか血とか、そんなものの通用しない関係が、ふ たりにはあるように思えるだけに厄介なのだ。
“こんな気持ちじゃ、とても吼介先輩といられないよ・・・帰っちゃおうかな・・・”
モニュメント群の総大将然として、中央にそびえる時計台の針は、約束時間まであと15分で
あることを告げている。早くからここに来てしまった七菜江は、もう30分近くも帰るかどうかを 迷っていた。
「もう来てたのか。ちと早めに来たんだが、負けちまったな」
ポンと肩を叩く衝撃が、七菜江の決断が遅かったことを教える。
振り返る七菜江の視線の先には、ティーシャツにジーパンというラフな格好の、工藤吼介の
ぶ厚い肉体があった。
周囲に何気にたむろしていた男たちから、一斉に無念と落胆の溜め息が洩れる。
七菜江は真っ直ぐに、圧倒的質量を誇りながらも、初夏の爽やかさにやけにマッチした肉体
の男を見る。
言えない。
とても言えない。
里美との関係が、頭から離れないが、とてもその話題に触れる勇気は、奔放に生きてきた七
菜江にはなかった。
いつもは小悪魔のように悪戯っぽく笑っている瞳は、心の乱れを見事に映して、哀愁を帯び
て蜃気楼のごとく漂う。
不安と動揺に押し潰されそうな少女の瞳には、男臭い顔がずっと映り続けている。
「??」
ここで初めて、七菜江は吼介の奇妙な行動に気が付いた。
鋭さを感じさせる細めの眼は、いつもより丸くなって、少女のつま先から頭頂までをせわしなく
往復している。そこには明確な戸惑い。
やがて男の焦点は、七菜江の顔に集中して動かなくなる。視線に力はあるものの、どこか呆
けたような表情が、吼介を襲った衝撃を推し量らせる。
“あ、そうか・・・私、お化粧してたんだった・・・・・・”
身体全体を見てたのは、いつもと違うファッションだからだろう。七菜江が履くのはパンツか、
ミニスカートが多く、イメージ通りの活発な服装ばかり好んでいた。ワンピース姿の七菜江を見 るのは、吼介は初めてのはずだ。
「やっぱり・・・変ですよ、ね」
苦笑いをしてみせる。普段慣れない服装や化粧を見られて、恥ずかしさが今更のように込み
上げる。
だが、吼介からの返事はない。ずっと、七菜江の顔から視線を外さず、食い入るように見つ
めている。
“あ、あれ? ・・・・・・もしかして、先輩・・・・・・顔、赤・・・い・・・?”
「こ、吼介・・・先輩・・・?」
“や、やだ・・・・・・・なんか、あたしまで赤くなってきちゃった・・・”
思わず顔を俯く七菜江。合わせるように、筋肉と血管が浮き出た肉体も、顔を伏せる。
茹で上がった赤い顔を、互いに背けて見ようとしない。そのまま、焦げるような時間が過ぎて
いく。
「恥ずかしい、な・・・・・・あんまり見ないで下さい・・・」
「いや、その・・・七菜江って、けっこうあれだな・・・その・・・か、かわ・・・・・・」
血が昇って爆発しそうだ。上半身が燃えるように熱い。湯気がでるほど顔を赤らめ、七菜江
は吼介の一字一句に耳を傾ける。
「その・・・・・・・・・・七菜江も女だったんだなぁって。あんまり意外な格好だったから、ビックリし
たぞ」
「なによォ、その言い方ッ!」
ガッカリするような、ちょっとホッとするような。
不可思議な気持ちで、七菜江は少しいつもの自分を取り戻して、口を尖らせた顔を上げる。
ニカッとした垢抜けた男の笑みが、少女を出迎えてくれた。
「けど、その格好じゃ、特訓には不都合だな」
「え?・・・特訓?」
「言ってなかったっけ? 今日は街に出て、実戦形式で稽古つけてやろうと思ってたんだが
な」
外見は立派だが、中身は小さな七菜江の胸に、凍えた氷の刃が突き刺さる。上気した身体
を、一瞬にして凍らすだけの威力が、その一言にはあった。
“・・・そうだよね・・・先輩は一言もデートなんて言ってなかったもんね・・・勝手に勘違いして、
ひとりで舞いあがって、バカみたいだ、私・・・・・・”
初めて着た、紫のキャミソールワンピースが、風にたなびく。着ている自分が、七菜江には哀
れだった。
初めての化粧。特訓をするというのに、場違いなオシャレをして現れた自分が、惨めだった。
吼介は自分のために真剣に特訓まで考えてくれたというのに、ひとりはしゃいでいた自分は、
まるでピエロだ。カッコワルイ。カッコ悪すぎる。
“最低だね、私。吼介先輩があたしなんかを誘うわけ、ないじゃん。なに、勘違いしてんだろ。
バカみたい。ホント、バカだな、あたし・・・”
込み上げてくる熱さに衝き動かされて、後ろを振り向く七菜江。滲んでくる瞳を、空に上向け
て仰ぐ。
“泣かない、泣くもんか。こんなことで泣くわけないじゃん”
想いとは裏腹に、見る見るうちに溢れる雫を、必死で抑える七菜江。どうして涙が出てくるの
か、自分でもよくわからないのに、止めることができない。
その涙を止めたのは、小さな右手を力強く握った、丸太のように太い腕だった。
「せ、先輩?!」
「仕方ない、今日はふたりで遊びまくるか。いくぞ、七菜江」
手を繋いで、逆三角形の筋肉武者と魅惑的なスタイルの美少女が、若者の街を駆けていく。
腕を引っ張る頼りがいのある力強さと、掌から伝わる温かさ。
吼介の、思いやりのある強引さに、ようやく少女は、彼女本来の明るい笑顔を、そのチャーミ
ングな造形のマスクに取り戻す。
里美との関係も、勘違いした恥ずかしさも、もうどうでもいい。
ただ、感謝を込めて、一言を。
「うん」
谷宿からやや離れた、栄が丘の駅前広場。
運良く巨獣の被害を免れたここでは、雑多な人種がせわしなく行き交っていた。家族連れ、カ
ップル、中高生のグループ、日曜出勤のサラリーマン・・・休日独特の朗らかな雰囲気の中、緩 やかに時間が過ぎていく。
木陰の下に立った少女の姿は、多くの人波に溶けこみ、居座っている時間の長さから考える
と、意外なまでに目立っていないことがわかる。
ジージャン・ジーパンといったラフな格好の下は、黒のティーシャツを着ている。スニーカーに
野球帽という、男の子っぽいファッションだが、庇の下に覗く顔は、目鼻立ちが完璧なバランス で整った、ゾクリとする程の美少女のそれだった。
長い茶の入った髪を、纏めて帽子に収納した五十嵐里美は、普段の彼女らしからぬ格好
で、ずっとある人物を見張っていた。
里美の視線の先にいる人物は、20分程前から、壁にもたれかかって誰かを待っている様子
だった。
鮮やかな青と白のセーラーは、紛れもなく、聖愛学院の制服だった。カラーに入ったライン
が、赤色であることから、理数科の生徒であることが知れる。左側だけ前髪を垂らし、右半分 は上げている。後髪はツインテールという、独特の髪型がとてもよく似合っている。落ち着いた 感じの顔は、キレイとも可愛いとも言える端正な造り。白磁の顔に茶色の髪、それに銀色の首 飾りが、絶妙なアクセントをつけている。
聖愛学院の理数科と言えば、エリートというのが一般的な印象だが、この少女の立ち居振舞
いは、既成概念を崩すのに、十分なものだった。ガムを噛み、手も足も組んで、街行く人々を 睨むように見据える姿は、まるで不良少女の素行だった。
“一体、こんなところで何をしているのかしら? 休日なのに、制服を着てるし・・・”
ファントムガールとしての素養を感じた里美は、この少女・霧澤夕子の尾行を二日前から始
めていた。もちろん、望んでしているわけではないが、大義のためには多少のことはする覚悟 が、里美にはある。
夕子の噂は、ほとほといいものがなかった。冷淡、孤独、不良、尊大、気難し屋・・・・・・だが、
そのほとんどが、彼女が他人と接しないことによる、必要以上の悪意に満ちた風評であること を、里美は見抜いていた。
一方で、風当たりの強い中、夕子への称賛を惜しまない者もいる。将来、女性では珍しい工
学博士を目指しているという夕子は、抜群の成績を修めているだけでなく、機械工学の知識 も、相当に深いということだった。また、不良に絡まれているところを彼女に助けられたり、倒 れたおばあさんを、背負って病院まで連れていくのを見たり、迷子と一緒になって母親を探す のを目撃したり、少なからぬ者が夕子の“意外な”一面を知っていた。周りの雰囲気に憚られ、 表立って口にこそしなかったが。
里美が夕子に興味を持ったのは、不良グループとの立ち回りを演じたと聞いたからだ。しか
も、その理由は、小学生と軽い接触を起こしたバイカーが、怒鳴り散らした挙句、立ち去ろうと したためだった。偶然その場にいた夕子は、3人のバイカーをアッという間に叩きのめしたとい う。その話が本当ならば、夕子の力と正義感は、七菜江に似たものを感じさせるのに、十分だ った。
しかし、尾行を始めて二日、里美はいまだに夕子の真実を、見切れないでいた。噂通りの不
良なのか? それとも仮面の下には優しい素顔があるのか?
自分がよく目立ってしまうタイプであることを知る里美は、50mは離れた場所から、夕子への
監視を続ける。
駅前の壁に現れてから30分近く経って、ようやく夕子の周囲に変化があった。
“あれが、待ち合わせの相手?”
茶髪の少女と話しているのは、頭の禿げ上がった、50代と思しき小太りの中年男。夕子を
凝視する好色な笑いが、里美の嫌悪感を刺激する。
何事か、会話を交わす夕子の瞳には、里美の十倍以上の嫌悪が浮かんでいる。すでにそれ
は憎しみに近いかもしれない。
待ち合わせ場所、やってきた相手、わざわざセーラー服を着ていること・・・それらの事実が、
里美にある嫌な想像を喚起させる。忍びとして鍛えた聴覚を、最大限に開放して、睨みつける 美少女と、下心を露にした中年との会話を聞き取る。
“やっぱりこれは・・・援助交際!”
津波のごときショックが、里美を飲みこむ。
話には聞いていたが、聖愛学院の生徒が、それもファントムガールの候補者である生徒が、
援助交際をしていたという事実は、名家に生まれ、清廉な世界に生きてきた里美にとっては少 なからぬ衝撃だった。
立ちすくむ里美とは対照的に、誰がどう見ても不釣合いなふたりは、そそくさと雑踏を掻き分
けて歩いていく。
“ど、どうしよう・・・とりあえず追わなきゃ”
単なる勘違いである可能性を期待して、里美は追跡を始める。
“・・・・・・・ホテルに・・・入っちゃった・・・・・・”
里美の期待、というか願望は、木っ端微塵に粉砕された。
白昼からネオン鮮やかなラブホテル街のひとつに、迷うことなく青いセーラー服と、ハゲ中年
のカップルは吸いこまれていった。セーラー服の女子高生を入れてしまうホテルのモラル欠如 を怒ることも忘れ、夕子が援助交際をしていたという事自体が、里美の脳裏を占め尽くす。
“べ、別に、貞操観念が薄いからって、悪というわけじゃないわ。彼女にファントムガールにな
る資質は・・・ない、とは言え・・・ない・・・よね? で、でも、ナナちゃんは嫌がる・・・・・そ、そん なこと、気にしちゃダメよ、うん・・・・・でもでも・・・”
冷静が売りの里美が、七菜江のように慌てふためく。知らないうちに、頬は真っ赤に染まって
いた。動揺しきった里美は、願望からとんでもない結論を導き出した。
“そうよ、ホテルに入ったからって、援助交際とは限らないじゃないの。ちゃんと確かめてみな
きゃ”
ホテルの裏口に回った里美は、上空を見上げる。雑然とした裏通りは、隣接する建物同士の
間隔が狭い。隙間から覗く青空はわずかだ。
少し腹に空気を溜めると、灰色の壁に向かって跳ぶ里美。壁を蹴って反対の壁へ。そのま
ま、アクションスターよろしくジグザグに壁の隙間を蹴上がっていく。
四階に開いている窓を見つけていた里美は、桟に手を掛けるや、無重力を舞うように、スレ
ンダーな肢体をホテル内部に滑りこませる。
「!!」
窓はシャワールームのものだった。
これから励もうとする若い男の裸身が、里美を出迎える。
「きゃあッ?!」
唖然とする男の鳩尾に、容赦ない一撃が叩きこまれる。
反射的にノバしてしまった男を横たわせ、真っ赤な顔を両手で隠す里美。胸の内で、「ごめん
ね」と謝る。
ベッドに寝ていた女に気付かれぬよう、部屋を抜け出た里美は、夕子たちのいる部屋へと向
かった。くノ一の聴覚は、女子高生とハゲ中年がフロントで確認した、ルームナンバーをしっか りと聞き逃さなかった。
施設に忍び込んでの、移動や侵入は、忍者の最も得意とするところだ。里美の前には、ビデ
オカメラも扉の鍵も、なんの意味も持たない。
散歩するような軽い足取りで、里美は目的の部屋への侵入に成功していた。
物音ひとつたてずに、ベッドルームに足を運ぶくノ一。彼女の鋭敏な五感は、部屋の異様な
空気に気付いていた。
“おかしいわ・・・気配が薄い・・・”
部屋には確かにふたりがいるはずだが、強い反応を感知できない。
耳をそばだてる。時計の針が進む音。
そっと、部屋の内部を覗き込む。
全裸の中年男が、うつ伏せにベッドに倒れこんでいる。
夕子の姿はない。
素早く周囲を窺い、里美はぜい肉まみれの中年に近寄る。
生きている。
だが、激しい麻痺が全身を襲っていた。強いショックが与えられたのだろう。白い泡がたらこ
唇からこぼれ、男は白目を剥いて失神していた。
床には男の衣類が散乱し、札束がなくなった財布が、用無しとばかりに捨てられている。これ
が意味することは、ただひとつ・・・
ベッドを飛び越え、前転する里美。
野球帽が吹っ飛び、纏めた髪が瀑布となって垂れ流れる。
身を潜めていた夕子の、背後からのハイキックを間一髪でよけた里美は、ベッドを間にして、
怒りに燃える瞳の少女と対峙する。
「なんで、私をこそこそとつけ回すのよ?! 五十嵐里美ッ!」
シルクの髪が、はらはらとベッドに落ちる。物凄い、ハイキック。風を切る轟音が、戦慄ととも
に耳から離れない。まともに食えば、失神ぐらいではすまないはずだ。
里美が知る女のコで、最も凄い蹴りができるのは七菜江だが、夕子の蹴りは、スピードこそ
敵わぬものの、威力では、七菜江と比べても勝るとも劣らない。
“やっぱりこのコ、ただものじゃない。この戦闘能力には、何か秘密があるはずだわ”
「前から私のことを探ってるのは知ってるのよ! 一体どういうつもり?!」
夕子の質問には、当然答えることの出来ない里美は、質問を返すことで誤魔化しにかかる。
「あなたこそ、どういうつもりなの? この人のお金を盗んだでしょう? そうやって援助交際
に見せかけて、お金を騙し取っているのね。これは立派な犯罪よ?!」
「金を出せば女のコを好きにできると思ってる奴らに、天罰を下してるのよ! こいつらの快
楽のために使われるより、もっと有意義なことに使った方が、お金も喜ぶってもんだわ!」
「そんな勝手な理屈、通るわけないでしょ?」
「うるさいッ! あんたのようなお嬢様には、私の苦しみなんて、わかりっこないわ!」
ベッドを飛び越え、躍りかかる夕子。その動きは、『エデン』の保有者と、なんらひけを取らぬ
素早さだ。
両手で殴りかかる夕子。その弾丸のような拳を、的確にかわす里美。無軌道なパンチの打ち
方が、夕子が格闘技の素人であることを教える。
“メチャクチャな打ち方だけど、スピードとパワーが並じゃない! まるでナナちゃんみたいな
闘い方ね”
不良3人を倒したという伝説は本当であることを、里美は確信する。普通の人間では、夕子
に勝つことはできない。『エデン』の寄生者や、吼介や西条姉妹のような鍛えられた人物でなけ れば。
パンチに加え、蹴りまで織り交ぜてきた夕子の攻撃を、美しい少女は最小限の動きでかわし
ていく。狭い室内でも、ダイナミックに打撃を繰り広げるため、部屋中の壁に拳やつま先が当 たる。ボコッという音がするや、隕石の跡のような穴が爆発してできる。恐るべき、破壊力。そ の辺の男より、遥かに凌駕した力が、小さな身体に秘められていることを、覚悟せずにはいら れない。
「くッ・・・ちょこまかと!」
攻め続けている夕子の額に、汗の結晶が飛び散る。恐らく、彼女の生涯でここまでの苦戦は
初めてなのだろう、焦りが眉の間の濃い皺となって現れる。
対して里美には、圧倒的なパワーに驚愕しつつも、余裕がある。夕子の攻めがいくら厳しくて
も、それ以上の強敵と闘ってきた経験が、美しきくノ一を支えていた。隙を見て、どうこの場を 逃亡しようか、考えを巡らせようとした、その時――
眩い光が、里美の漆黒の瞳を刺す。
不意を突いた白光の爆発に、視界を奪われた里美がもんどりうってよろめく。
“め、眼が光った?!!”
大量の光を放ったのは、夕子の瞳??
そんな非現実的な光景が、確かに起きたように思われて、里美の精神は、肉体同様激しく混
乱する。
打撃を避けられて、カッとした夕子の容赦ない追撃がふらつく里美を襲う。
左のフック気味のパンチ。
見えてないはずの里美が、気配のみを頼りに右腕でガードする。
ガスウウッッ!!
重く鈍い打撃音。
パンチを受けた右腕の骨が軋む悲鳴に、美貌を歪ませる里美。
動きの止まった生徒会長の右腕を、夕子の左手が握る。
そのまま一気に背中に廻し、腕を捻り上げていく。
「うああッッ!!」
知らず、叫びが洩れる。右肩を襲う痛みに、つんのめるようにしてベッドに長い髪の少女が抑
えつけられる。その背に跨り、ツインテールがお仕置きをするかのように、腕をギリギリとひね り上げる。
「ああッッ?! あああッッ!!」
たまらず里美の濡れ光る唇から、悲鳴が零れ落ちる。組み伏せられた屈辱が、御庭番総帥
の血統者を苛むが、この態勢からの脱出は容易ではない。不可能ではないが、そのために は、夕子を激しく傷付ける必要がある。里美は素直に屈することにした。
「はぁ・・・はぁ・・・あんた、ホントに何者なの・・・? この動き、普通のお嬢様じゃない」
「・・・・・・・・・・」
「じゃあ、質問を変えるわ。私を調べてるのは何故? 答えて」
「・・・・・・・・・・」
ミシミシと、音をたてて里美の右肩が破壊されていく。腕をもぎ取られそうな、痛烈な痛み。だ
が、脂汗を浮かべ、美貌を歪ませるだけで、里美はもはや、悲鳴すらあげようとしない。
鈴の音のような可愛らしい声の持ち主である夕子だが、凄みを利かせて言い放つ。
「言ってよ! このままだと、あんたの肩が壊れるよ!」
「・・・・・・・・・・・」
「言っててば! 知らないよ、ホントにどうなってもいいのッ?!」
「・・・・・・・・・・・」
「この、強情ものッッ!!」
凄まじい電撃が里美のスレンダーな肢体を灼く。虚をついて襲った、高圧電流の翻弄にあ
い、ジーンズに身を包んだ、芸術的な肉体が仰け反りあがる。
「うわあああああッッッ―――ッッッ!!!」
“なんで・・・こんなところで電流・・・がッ・・・??”
グルリと、切れ長の瞳が白目を剥く。
ハゲ中年がなぜ失神していたか、理由を知るとともに、女神も羨むプロポーションは、中年と
同じ末路を辿ってベッドに沈んでいった。
藤木七菜江は、すっかり里美のことを忘れるほど、今現在を楽しんでいた。
今日一日で、工藤吼介のことは、いっぱいわかったことがある。
甘いものが結構好きとか。(一緒にクレープ食べたから)
球技は全然できないとか。(ボーリング、下手だった)
ファッションには興味ないとか。(ブランドとかちっとも知らないんだもん)
あと、血液型がBとか、空手は小学生からやってるけど、柔術は中学になってからやり始め
たとか、炭水化物はあまりとらないようにしてるとか・・・・・いろいろ、いろいろ。
前から知ってたけど、照れ屋だってことも、改めてわかった。顔をあまり合わせてくれないの
は、多分、気のせいじゃないと、思う。
時々眼が合うと、耳たぶが赤くなるのも、多分、気のせいじゃ、ない。
身長差が25cm近くあるため、七菜江の頭は吼介の肩くらいにしか届かない。眼の前には、
巨木の根っこのような、硬質の腕がぶら下がっている。
急に触ってみたくなって、いつもより落ち着いたファッションの少女は、瘤だらけの腕にしがみ
つく。突然湧いた柔らかく、温かい感触に驚いた吼介は、天真爛漫な七菜江の笑顔を見下ろ す。
「次はどこ行きますか?! あ、カラオケはNGですよ、私、歌ヘタだから」
「そうだな。せっかくだから、ちょっとは修行に役立つとこに行くか」
「修行に役立つとこ?」
2分ほども歩いた後、吼介がエスコートしたのは、巨大なゲームセンターだった。
「ここで修行、ですか?」
デートの最中に修行だなんて、という考えは七菜江にはない。普通の女子高生ならば、そん
な野暮な男は最低、となるが、七菜江は吼介のそういう一途にのめり込むところが嫌いではな かった。
しかし、その場所がゲームセンターであるというのは、予想の範疇を越えていた。それどころ
か、格闘技一筋の筋肉武者が、ゲームという、一見軟弱な感じのするものをやること自体が、 七菜江にはひどく不釣合いに映る。
「意外そうな顔してるな。けど、こいつが結構、いいヒントになるんだぜ」
慣れた様子でずかずかと、あるビデオゲームまで歩いていくと、ふたりが並んで座れる椅子
にどっかと腰掛ける。狭くなったスペースに、腰を下ろす七菜江。さすがにここは予想通り、ゲ ームの内容は、バリバリの格闘ゲームだった。
「これで、反射神経とか養うんですか?」
「はは、まさか。指の動きと実際に手足を動かすのじゃ、全然違うだろ」
「じゃあ、なによ?」
ゲームはほとんどやったことのない七菜江は、デモ画面の拳法家と女傭兵との闘いに魅入
る。本物と見紛うほどのスムーズな動きに、少なからぬ驚きがあった。ゲーム業界の進化は、 よりリアルな格闘に近い虚構を造り出していた。ゲームだからこその超人的な動きもあるが、 『エデン』の寄生者なら、あるいは実現可能かもしれない。
「技の研究になるんだよ」
吼介が主人公らしき空手家のキャラを選ぶ。
「技?」
「まあ、ちょっと見てなって」
『ファイトッ』の声と同時に、吼介の分身と、デカイ覆面レスラーとの闘いが始まる。第一ステ
ージだけに敵が弱いのか、空手家の突き・蹴りが連打で巨体に決まる。
レスラーの残り体力がわずかとなって、トドメとばかりに空手家は、前蹴りをドテッ腹に突き刺
すや、そこを足場にして、もう片方の足でがら空きの頭部に膝蹴りを叩きこむ。強烈な一撃を 食らった巨体が派手にダウンして、勝負はついた。
「い、今の、もしかして『龍尾』?」
ニヤリと笑った吼介が、隣の七菜江を見遣る。
「そういうこと。ゲームの技って、意外と使えるんだぜ。そうじゃないのも多いけど。例えば、こ
のゲームをヒントに、開発した技もある」
画面の中では第二ラウンドが始まる。何事もなかったかのように平気な顔で立ち上がってき
たレスラーを、またしても連打で圧倒する空手家。気合いを入れると右腕が光る。光の演出に よって、ド派手になった中段突きを放つや、レスラーはモーターの振動並みの速さで震え、K. O.される。
「今のなんか、パクらせてもらったわな」
「え!? あんなの出来るんですか!?」
「腕は光らんぞ。震動を与えてダメージを食らわすのは、古流空手に伝わる打ち方のひとつ
だからな。ゲームとアレンジして、オレ独自の必殺技にしたわけ。他にも、マンガとかもいいヒン トになるんだよね」
七菜江の瞳が、悪戯っぽく、さりとて純粋な好奇心にランランと輝き出す。
非現実的な必殺技を使えるという、吼介に対する畏敬というか興味もあったが、新必殺技を
開発する手掛りを得たことが、少女を興奮させていた。到底解けないと思われた方程式の、攻 略の糸口が見つかった時のワクワク感に、それは似ていた。
ゲームとか、マンガとか・・・・・・今あるものをヒントに必殺技を創る。
架空の技が実戦で使える可能性は、本来ならば低いだろう。実戦では相手もいるし、第一
に、よくある“気”とかを使う技は、現実では有り得ないのだ。
しかし、ファントムガールならば、どうだろう。
光をエネルギーとして使える守護天使は、イメージによって光線技を出せるのだ。もちろん、
イメージを強くするために、普段からの練習は必要だ。ナナの必殺技『スラム・ショット』が凄ま じい威力を誇るのは、七菜江がハンド部で、猛練習を積んできた賜物である。そういった努力 は要るが、“気”を使った技もファントムガールには可能なのだ。
単なる体術に関しても、『エデン』により高められた身体能力があれば、できるものも多い。事
実、『裏龍尾』のような超人技が出来たのは、七菜江が『エデン』の寄生者ゆえだ。
「ねえねえ、もっと他の技も見せてください!」
「お、乗ってきたねえ! んじゃあ・・・」
七菜江に乗せられ、次々と技を見せていく吼介。しかし、現実の闘いとゲームとでは勝手が
違うのか、数ステージもいくと勝てなくなってしまう。振りだしに戻るたびに、キャラを変えて、な るべく多彩な技を隣の少女に披露していく。
「!! い、今の! もう一回やって!」
「え、今のか? あんなの、人間にはできないぞ?」
「いいの、いいの。もう一回やってくださいよ!」
七菜江の緩やかなカーブを描く背中に、戦慄が駆け抜ける。網膜に焼きついた技の鮮やか
さが、小さな戦士には、実に魅力的に映ったのだ。
リクエストに応えて、吼介が先程と同じコマンド入力をすると、画面の中で、閃光が破裂する。
ブルッという震えが、少女の脳幹を激しく揺さぶる。
青い光に反射する童顔が、白馬の王子に出会ったように、運命の出会いに恍惚する。
「す、凄いッ!! これ、カッコイイッ!! なんて技ですか?!」
「『ソニック・シェイキング』のことか? お前なぁ、こんなできっこないのに興味持ってどうすん
だ?」
「だってだって、カッコイイんだもん! これ、使えるようになりたいなぁ!」
人は、初めて海を見たとき、富士山を見たとき、宝石を見たとき、こんな表情をするのだろ
う。七菜江の無邪気な笑顔は、吼介を呆れさせながらも、春の高原に連れて行った。
「無理だってば。じゃあ、こんなのも好きそうだな」
調子に乗った垢抜けた男は、七菜江お気に入りの技の、亜流を出そうとコントローラーを操
る。
だが、七菜江がその技を見ることはなかった。
突然のゲームオーバーは、アウトドア用に履く、ゴツイブーツがもたらした。
2m近い高さから、真っ直ぐに振り下ろされた踵落しが、モニター画面に蜘蛛の巣を描く。派
手な音とともに砕け散ったガラス破片が、非日常な世界の開始を告げて、鋭利なダイヤモンド ダストを降らす。
「よう、この間は、世話になったな、マッチョ野郎」
ゲームに夢中になったカップルを囲むのは、5人の“普通でない”男たちだった。
スキンヘッドやら、金色の長髪やら、様々な髪型の下に光る眼光は、猛禽類の鋭さを帯びて
いる。七菜江はこういった眼の持ち主を、忘れることができなかった。つい先日、七菜江をリン チした男たち。神崎ちゆりの配下の者と、同じ匂いがする。自然、七菜江の眉は、不安以上の 怒りに寄った。
「見ろよ、この腕。てめえに折られて、使いものにならなくなっちまった。こりゃ、手術代、はず
んでもらわねえとな」
唇にピアスをした痩せた男が、左腕を固めたギブスを見せびらかす。ゲーセン独特の大音響
が、フロアの一角で始まりつつある騒ぎを掻き消そうとする。店員が出てこないのは、予想され た反応だった。
「ん〜〜、おかしいな」
座ったままの吼介が、顔より太い首を捻る。会話の内容から察すれば、以前にこの男たち
と、吼介が一悶着起こしたのは間違いないが、人数の不利、態勢の不利があるにも関わら ず、厚い胸板の誇示者は余裕を失っていない。
「なにがおかしいってんだ? あ?」
「あれだけ痛めつけりゃ、二度と目の前に現れないもんだがな。さては、助っ人でも、いん
の?」
ニンマリとギブス男に最高の笑顔を見せる吼介。戦慄に駆られた痩せ男が、2歩後ずさる。
苦痛と恐怖を反芻する不良たちの中で、ひとりの部外者がいた。
「ねえちゃん、いい身体してんじゃねえか。こりゃあ、思わぬ拾いもんだぜ」
はぐれ者の中にも、相手の戦闘力を見抜けない愚図はいる。今回初めて呼び出されたた
め、吼介と初遭遇したスキンヘッドは、思いあがって七菜江の白いブラウスを掴み、引き寄せ る。
「あッッ!!」
吼介の叫びは、一瞬遅かった。
ゴキリ
という音がこだまし、スキンヘッドの手首は90度に折れ曲がった。
「やったぁッ! 先輩、見ましたぁ? 初めて柔術が極まったよ! ・・・って、折れてるじゃ
ん! ご、ごめん、そこまでやるつもりじゃなかったんだけど、つい・・・ホント、ごめんね?!」
無邪気な喜びは、予想外の威力に、動揺の声に変わった。
激痛に転がり回るスキンヘッドを思いやり、格好に合わぬ強さを秘めた少女は、右往左往し
て慌てふためく。オロオロとして口に両手を当てる仕草は、吼介には可愛らしく映るが、不良た ちにとっては、カモフラージュにしか受け取れない。
「あ〜あ〜、だからこいつには、気安く触れるなって言おうとしたのに・・・」
「く、葛原さん! お、お願いしますッ!!」
予定にはない事態に混乱し、ギブス男は彼らの切り札を招き入れた。
ゆらりと曇る影が、人波を割って現れる。
いや、割ったのではない。勝手に人が割れていくのだ。
おおよそ、余程の鈍感でない限りは、その影が持つ狂気は、感知し得るであろう。歩くたびに
瘴気が噴霧される。濃厚な悪の気配を、影は持っていた。人殺しをしていても不思議ではな い、寧ろ、してないのが不思議な瞳は、長い髪の奥に潜んでいる。ひょろ長い、棒のような男。 ドス黒い腐敗臭が、異様に細長い手足を覆っている。
壊し屋・葛原修司。
ボクシング部12人を、瞬殺してみせた悪魔は、今、不良の手先となって極彩色と騒音の世
界に召喚されたのだ。
禍禍しい瞳の中には、逆三角形の超肉体が納まっている。
「聞いたことあるな。谷宿には、2m近い長身の壊し屋がいるって。なんか、人間を壊すのが
趣味らしいじゃないか」
ようやく鎧武者が、椅子から立ちあがる。
不良たちは周りを囲って、邪魔が入らないように場を設定した・・・というと聞こえがいいが、
実際は雰囲気に気圧され、離れただけだ。吼介が発し始めた闘気のバリアに、七菜江も思わ ず距離を置く。
「キヒ・・・キヒヒヒヒ・・・・・」
ボサボサの髪の向こうで、壊し屋の愉悦が洩れる。本当に楽しい時だけに起こる、奇妙な笑
い声が、黒い肌の悪魔が興奮している真実を伝える。
「聖愛学院の工藤吼介か・・・お前とは、一度やりあってみたかった」
「お! オレも有名人なんだな〜。男じゃなくて、女にモテたいんだけどね」
軽妙な口調とは裏腹に、吼介の筋肉に血管が根を張る。ミキッ・・・ミキミキミキッ・・・膨張す
る肉の硬直する音色が、16ビートの合間を縫って耳朶を叩く。ティーシャツの下の剛筋は、明 らかなボリュームアップを果たそうとしていた。
ゆらり・・・・
黒い棒が歩み寄る。
戦闘開始の、合図。
ガッシイイイイイッッッ!!!
旋風と黒い稲妻が交錯する!
壊し屋の右ハイキックが、弾丸となって突進してきた跳び蹴りを迎え撃つ。互角の威力を伝え
合い、両者はバランスを崩して、着地する。
「な、七菜江ッッ!!」
「へへ〜〜ん♪ 吼介先輩の前に、あたしが相手だよ」
黒い壊し屋に向かっていったのは、淑やかな衣装に豊満な肢体を包んだ、藤木七菜江だっ
た。
どんな素人でも危険とわかる、黒い刃物に突っ込んでいったのは、七菜江ならではの無鉄砲
とも言えたが、ファントムガールとしての正義感と使命感が大きく働いていたからだ。例え守る のが、自分より強いであろう吼介でも、目の前で危険に晒す真似はできない。
40cmもの身長差をものともせず、第二撃への態勢を整える七菜江。両手を上げて構える
壊し屋が、態勢を直すのと、タイミングはほとんど変わらない。圧倒的な体格差を前に、打撃の 威力がほぼ同じであることは、七菜江の優れた瞬発力を証明していた。
とはいえ、そのサイズの違いは深刻だった。
リーチが違う、懐の深さが違う。
七菜江のハイキックは、葛原にとってはミドルになるのだ。活路を開くには、懐に跳び込むの
がセオリーだな・・・興味を持った吼介が、性別・体格ともにハンデ戦となった闘いを、しばらく観 戦することに決めた瞬間―――
可憐なショートカットがダッシュする。
そして選んだ戦術は、・・・まさかのハイキック!
黒い壊し屋も、同じハイを放つ。こちらのミドルは、七菜江にとっては頭部を襲う、一撃だ。
乾いた破裂音。
右ハイを、左腕でガードしあう両雄。状況は五分。
では、ない―――
受けたはずの蹴りが、七菜江の後頭部を叩く。
意識を弾かれた美少女が、グラリと揺れる。一瞬の脳震盪。
膝から崩れるあどけないマスクを、黒の右ストレートが槍となって射抜く。
―――とは、いかなかった。
グローブ並の掌が、壊し屋の拳を阻止していた。
「ここまでだ。これ以上、こいつに手を出すと、シャレにならんことになるぜ!?」
朗らかに宣告するのは、最強の名を冠した男。
軽やかな口調の奥に隠された、明確な憤怒と破壊欲。
拳を掴まれる前に引いた壊し屋が、勢い余って3mを後退する。
痩せ細った顔に浮ぶのは、運動の量に比例しない、大量の汗。
「・・・・・・今日は用事がある。お前と遊ぶのは、次の機会にしよう」
振りかえった黒いナイフは、集まりかけた野次馬を十戒のごとく割って、ゲーセンを出ていっ
た。頼みの綱を失ったワルどもが、逃げるように後を追う。異世界の決闘を垣間見た彼らが、 二度とちょっかいを出すことはなさそうだ。
小脇に抱えた七菜江が、意識を取り戻したことを確認して、吼介は椅子に座らせる。キョトン
とした少女は、なにが起きたか、理解していない様子だった。コツンと、ショートカットを拳で叩 く。
「いったぁ〜い! なに、するんですかぁ!」
「お前な、お転婆も大概にしないと、痛い目に遭うぞ」
もう、さんざん遭ってるけど・・・・などとは、口が裂けても言えない。
「オレが格闘技教えてるのは、闘ってもらうためじゃない。・・・ま、仕方ない時もあるだろうけ
ど、今のは相手が悪すぎだ」
「そんなに、あいつ、強かったですか?」
「お前じゃ、勝てねえぞ。絶対に、な」
吼介の言葉は冷たいというより、事実を淡々と述べている口調だった。
「ていうか、あいつに勝てそうなのは、オレぐらいじゃねえか? 例えば西条の双子、ふたりが
かりでも、あいつには負けるだろうな。多分、相手にならないと思う」
その時、なぜ強烈な悪寒が襲ったのか―――
七菜江が知る由はなかった。
五十嵐里美が目覚めたのは、暖かい羽毛の中だった。
上半身を起こしてみる。なんとなく、麻痺している感もあるが、痛みや疲労は皆無だ。大怪我
が多くなった最近では、寝覚めのいい方といえるかもしれない。
「・・・もう、起きたの?」
鼻にかかるような甘い響きに、明らかな驚きを含めて語りかけたのは、窓際の学習机の椅子
に座った、霧澤夕子だった。制服を脱いで、ティーシャツにホットパンツという、らしくない格好 に着替えている。
どうやら、ここは彼女の寮の部屋らしい。見覚えのある構造が、それを示唆してくれた。
自室というシチュエーションがそうさせるのか、いつも尖った印象のクールな少女は、幾分和
やかに見える。ガラステーブルの上にあるポットまで行くと、くまのイラスト付きカップふたつに、 インスタントのコーヒーを淹れる。
「どうせお嬢様の口には、合わないでしょうけど」
カップを突き出す乱暴さと、伝法な口調に合わず、眼を背けた頬は赤い。カップを受け取る
と、心休まる香りとともに、温かさが伝わってくる。
「ありがとう、とてもおいしいわ」
コクリと一口飲み、春の日差しの微笑みを送る。夕子はそっぽを向いたままでいる。
「あの・・・どうして私を助けてくれたの?」
里美の口から質問が出たのは、香ばしいカフェ飲料を半分ほども飲み干してからだった。夕
子のカップは、早くも空になって、テーブルに置かれている。
「あのまま、ハゲと一緒に置いとくわけにはいかないでしょ」
「どうして私を拘束しないの? 逃げるかも知れないのに」
「正体がわかってるのに、そんなことする必要ないわ。あなたが学校辞めて逃げてくならとも
かく」
理数科の生徒らしく、夕子の言うことは理に適っていた。
「お金は・・・どうしたの?」
「返したわよ。あんたに見られて、証拠残すわけにいかないでしょ」
「なんで、あんなことするの?」
「うるさいなッ! さっきから、あんたばっかり質問しないでよ! こっちがいろいろ聞きたいん
だからッ」
「ご、ごめん・・・・・・じゃあ、あとひとつだけ」
「なによ!?」
「なんで、私に優しくしてくれるの?」
「・・・・・・・あんたを傷付けちゃったから・・・でも、そっちが悪いんだからね!」
綺麗な二重の瞳を、鋭く里美に飛ばす。だが、心なしか、眉間の皺は少なくなったように感じ
る。
「そうね、私が悪いわよね。・・・ごめんなさい」
ベッドを脱け出した里美は、冷たい床で土下座する。そこまでやると予想していなかった夕子
は、ひどく慌てて手を振る。
「そ、そこまでしなくていいわよ! 風邪ひくから、ベッドに戻ってよ」
言われて里美は、身に付けているのが、黒の下着だけであることに気付き、素早く毛布に包
まる。頬を紅潮させた顔は、いつもより少女っぽく見えるから不思議だ。
「服、ボロボロになっちゃったから、脱がしたのよ・・・でも、おとなしそうな顔して、意外といや
らしい下着つけてるのね・・・」
「そ、そんなんじゃないんだけど・・・」
里美がここまで赤くなるのも、珍しい。フリル付きの黒のレース下着は、清純派の里美のイメ
ージを裏切る。ただ黒が好きなだけなのだが、身につけると、それなりに妖艶になってしまうの が困ったところだ。
「ひとつ、提案があるんだけど」
互いの赤らみが、やや薄れるくらいになって、夕子がようやく口を開く。
「今日見たことは、お互いに忘れるってことにしたいんだけど。あんたもストーカー行為なんて
バレたら、生徒会長の威厳が無くなるでしょ」
「それは構わないけど・・・・なぜ私が、あなたを調べているか、訊かないの?」
しばしの沈黙の後、夕子の桃色の唇が開く。
「・・・あんたの傷、見ちゃったよ・・・なんかわかんないけど、もういい。理由があるみたいだ
し、あんたが悪い人じゃないってのは、知ってるつもりだから」
思わず、腹筋に刻まれた傷跡をさする里美。
魔人・メフェレス、いや、久慈仁紀に貫かれた剣戟、そして、身体の表裏に、袈裟懸けに走る
斬撃の跡。
死闘の歴史を刻んだ傷は、美しき18歳の乙女の柔肌には、あまりにも不釣合いなアクセサ
リーだった。それが語る里美の悲劇は、この冷淡と噂される少女には、十分届いたらしい。
ギュッと布団カバーを握る、里美のスラリと伸びた指。
夕子には、まだ不明なことが多い。不思議な力、そして、善か悪か。
しかし、自信を持って言えることが、里美にはひとつあった。
“このコの方が、私より、ずっと純真じゃない・・・”
「夕子さん、なぜ私があなたを調べたか、教えるわ。実は私は・・・」
歩きながら、藤木七菜江は、先程の闘いを頭から離すことができずにいた。
あてもなく、フラフラと若者の街を吼介とふたり歩く。時々振りかえる者がいるのは、全て隣の
筋肉獣のせいにして、人目をひくキュートな美少女ぶりを無自覚に振り撒いている。
しばらく無言でいるのに、吼介は楽しんでいるようだ。繋いだ手の強さから、なんとなくわか
る。手を握り合うことが、こんなに心地良いものとは知らなくて、七菜江はずっと、固い掌の感 触を味わっている。
少し強く握って、信号を送る。斜め上方に、限りなく澄みきった瞳を向ける。
「どした?」
「あの・・・エリちゃんユリちゃんでも、あいつに勝てないの?」
「お前、まだ、んなこと考えてたのか?」
「だって、ふたりとも凄く強いんだもん。私、エリちゃんに、コテンパンにやられたのに・・・」
「七菜江が負けたのは、ユリの方だろ? 双子だからって、間違えるなよ」
「違うよォ〜! エリちゃんにやられたんだってば! 先輩、よく見てないんでしょ?」
「だって、髪を纏めた方に負けたんだろ? ふたつ左右に」
「だ・か・ら、エリちゃんだってば・・・・・・・・あれ?」
七菜江の足が、ピタリと止まる。
「先輩、髪を纏めてるのは、どっちなの?」
「それがユリだって。昔からユリはその髪型だぞ。んで、セミロングで黒子があるのがエリ」
「え? え? 違うよ、その逆だよ。纏めてる方に黒子があって、そっちがエリちゃん・・・・・・」
七菜江の脳裏に、電撃が疾走する。吼介の証言と、己の目で見た事実との食い違い。それ
が意味する、ひとつの可能性が、脳髄を猛々しく揺さぶる。
もしや・・・・・
髪型を逆にした??!
「オレもあいつらに会うのは、一年ぶりだからな。髪型の変化なんて、ちっともわかんなかった
けど」
だとすれば、『新ファントムガール』なのは、実は・・・・・・・
そこで七菜江の思考は止められる。
警報サイレンがけたたましく鳴り響くなか、日曜午後の陽だまりに、轟音を伴って、巨大な生
命体が黒色隕石となって、若者の街を来襲したからだ。
ミュータント、出現せり。
「こ、こんな時にミュータントが現れるなんて・・・」
里美の顔に苦渋が浮ぶ。ファントムガールにトランスフォームできるのは、自分しかいないの
に、巨大生物が出現した谷宿と、学園の寮とでは、距離がある。急いで現場に向かわねばなら ない。
「そういうわけで、私はあいつを倒しに行かなくちゃならないの。危険なことだけど、誰かがや
らねばならないのよ。あなたに、その手伝いをして欲しかったんだけど・・・」
結局、霧澤夕子は、最後まで話を聞いてくれた。里美がファントムガールであることも、あまり
意外とも、非現実とも受けとっていないようだった。
じっと里美の話に耳を傾けていた夕子は、眼を伏せたまま、先程と同じ返答を繰り返す。
「話はわかったけど・・・悪いけど、私はパス。他を当たってよ」
覚悟はしていたが、実際にファントムガールを受け入れる者は、あまりに少なかったようだ。
さすがのくノ一にも、落胆の色が滲んでいたに違いない。
後髪引かれる想いが残るが、しかし、今は時間がない。
電撃により破れたジーンズを探し、一刻も早く、里美は戦場に向かおうとする。だが、思った
以上に破損がひどい。元の服を着て街に出るのは、相当な勇気が必要だった。
窮する里美に助け舟をだしたのは、可憐なトーン・淡々とした口調だった。
「これ、貸してあげる。それぐらいは手伝うわよ」
なにげに夕子が差し出したのは、聖愛学院のセーラー服だった。カラーに入った赤いライン
が、ちょっとした重みを感じさせる。
「・・・いいの? もし、私が激しいダメージを負うと、服にまで影響して、破れちゃうこともある
のよ?」
「じゃあ、そうならないように、返して」
「・・・ありがとう」
シャイな少女の、精一杯の応援を受け、世界で最も青いセーラー服が似合う美少女は、学園
の寮を駆け出して行った。
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