第八話



 「第八話  ユリ武伝 〜海棲の刺客〜 」
 
 
 
 序
 
 荒い息遣いが、畳敷きの室内にせわしなく飛び交う。
 武道場と思しき広い部屋の中、薄暗い照明のもとに対峙するのは、ふたりの美少女。
 黒のウェットスーツに身を包んだ美麗ともいうべきレベルに突入した美少女は、やや茶色が
かった長い髪をポニーテールにまとめ、鶴のごとき優雅な立ち姿で構えている。かたや、白の
道着に黒袴姿の、黒髪を襟足でふたつに縛ったおさげの美少女は、力みのない姿勢で対して
いる。
 
 月のごとき幽玄の美少女と、水仙のごとき可憐な美少女。
 五十嵐里美と西条ユリ。
 真相を知らぬ巷の人々から、ファントムガールと黄色のファントムガールと呼ばれている地球
の守護者たちは、透き通った瞳に真剣の炎を燃やしながら、互いに眼前の相手を見詰めてい
る。ピリピリと音をたてそうな空間が、ふたりが遊びで相対しているわけではないことを教える。
 
 仕掛けたのは、幻想的ですらある美の結晶。
 五十嵐里美が5mの距離を一瞬で詰める。
 射程距離に侵入した相手に、呼応するユリの柔術。
 突きを放つ拳と、それを捕獲せんとする掌。さらにまた、その飛んできた掌を切り返さんとす
る手・・・そこから先はふたりにしかわからぬハイスピードの攻防が、ドラムを叩くような心地良
さで応酬する。
 
 パパパパパパパパ!!
 
 一瞬、フラッシュのような攻防が止まる。
 血も痛みも存在しない壮絶な死闘を制したのは、おさげの武道少女。
 簡単に折れてしまいそうなくノ一少女の右手首が、白さの際立つ天才武道家の指に絡め取ら
れる。
 
 風を巻く音がして、五十嵐里美の芍薬のごとき肢体は、空中で真っ逆さまに反転していた。
 そのまま畳に落とせば、あどけなさが残る柔術家の勝利が決まる。
 
 ユリの掌に、予定外の力の波動が伝わってきたのはその時だった。
 グン、と里美のカモシカのような脚が伸ばされるや、空中で舞った新体操選手の肉体が、さら
に回転する。
 キレイなトンボを切った御庭番次期頭領のたおやかな肢体は、何事もなかったようにすくっと
畳に舞い降りた。
 
 「私の、勝ちね」
 
 黒目がちな大きな瞳をさらに丸くするユリの顎に、小さく、力強い拳がピタリと付けられてい
た。
 達人同士だからこそわかる、決着の合図。
 五十嵐家に造られた鍛錬室での特訓は、この時点で終了を迎えたのだった。
 
 「どうしても、本気になれないみたいね」
 
 水をいれ、噴き出た汗を触り心地の良いタオルで拭いながら、里美が声を掛けたのは、組み
手が終わってから五分ほどが過ぎてのことだった。
 背筋をピンと伸ばして、ちょこんと正座した西条ユリは、申し訳なさそうに眉を曇らせてか細い
声をあげる。
 
 「・・・ごめんなさい」
 
 「ううん、いいのよ。そのための特訓なんだもの。ユリちゃんがエリちゃんの“許可”なしでも実
力が発揮できるようにするための」
 
 5人のファントムガールたちのリーダーである里美にとって、仲間の戦闘力アップは大切な使
命といえた。それは、地球を守る重要な使命であると同時に、なにより彼女たち自身の命を守
るために欠かせないことであった。
 まるで日直当番のように日替わりで行われる猛特訓。それぞれにテーマを抱えた仲間たち
を、最も多忙であるはずの里美が付きっきりで指導する。
 
 藤木七菜江は全力を出し切らないよう、ペース配分を考えさせる。
 霧澤夕子は戦闘に慣れるのと、必殺技の開発。
 桜宮桃子は超能力のコントロールと、とにかくちゃんと闘えるようにすること。
 一筋縄でいかない頑固者ぞろいの教え子たちの中で、もっとも里美が手強いと感じているの
が、実はこのユリであった。
 
 「ゆっくり、焦らずにいきましょう。まだ時間はいくらでもあるんだし」
 
 落ち着いた口調とは裏腹に、里美の心中は一向に改善されないユリの欠点に戸惑ってい
た。双子の姉がいなければ、どうしても手加減してしまう天才武道少女・西条ユリ。この状況が
長く続けば、近い将来彼女に悲劇的な結末が待っていることは、生死のライン上に生き抜いて
きた現代くノ一には、手に取るようにわかる。
 
 「・・・私・・・いつも迷惑ばかり・・・かけてますね・・・」
 
 心なしか、俯いた幼い少女の声は震えて聞こえた。
 上から見上げる格好の里美からは、ユリの表情はみえない。ただ、ギュッと握った膝上の両
拳だけが、印象深い白さで焼きついてくる。
 
 「・・・里美さんにはいつも助けてもらうし・・・七菜江さんには命まで救ってもらって・・・・・・自分
が情けないです・・・」
 
 「なに言ってるの。ユリちゃんに助けてもらってるのは、私の方よ」
 
 膝を折った里美の視線が、ユリと同じ高さになる。
 小宇宙を散りばめた、吸い込まれそうな神秘的な瞳に見詰められ、ユリはわけもわからず緊
張する。雪のような頬が、火照っていくのが自分でわかる。
 優雅な蘭が、すっと白百合に近付く。
 羽毛のような柔らかさで、ユリは里美に抱き締められていた。
 
 「大丈夫。ユリちゃんは強いわ。あなたは私にとって、なくてはならない大切なひとよ」
 
 聖母マリアがこの世に実在するのならば。
 それは、今、ここにいる。このひとこそが、慈愛深い聖なる母。
 柔らかな胸に包まれて、ユリは限りない温かさが染み入るのを感じ取った。
 
 「・・・里美さん・・・・・・私、がんばります」
 
 優しさに抱擁された人形のような美少女の脳裏に、同じ顔をした姉の姿が浮び上がる。
 
 「・・・お姉ちゃんなしでもいいように・・・がんばります・・・・・・もう、危険な目には・・・遭わせたく
ないから・・・・・・」
 
 蛇の異能力を手に入れた破壊屋に、無惨に壊された大切な姉・エリ。
 二度と人外の闘いに巻き込まぬようするため、妹・ユリができるのは、己の意思のみで本気
になれるよう、トラウマに打ち克つ苦闘に挑むことだけであった。
 
 「里美さん・・・もう一回、手合わせ・・・お願いできますか?」
 
 黒袴を翻し立ち上がった、フランス人形のごとき少女。
 荒野に咲いた一輪のコスモスを思わす儚さに、彼女を血風漂う死闘の渦に巻き込んだ美麗
な令嬢は、自然と胸が痛くなるのを抑えられないのであった。
 
 
 
 1
 
 透き通るような青空の下に、甲高い歓声が沸き起こる。
 白い波頭が砕ける爽快な音が、断続的にBGMとして背景に流れる。波間に反射する太陽
光。突き抜ける強い陽射し。潮の香と、足の裏を焼く砂地・・・時折吹く潮風が、火照った頬を撫
でていくそこは、海水浴で賑わう観光客から、200mほど離れた場所の海岸だった。
 
 「以上で、想気流、夏季特別合宿を終了する!」
 
 道場主である西条剛史の声が響いたのと同時、先程の歓声は起こったのだった。
 続いて沸きあがったのは、次々と青い海に子供達が飛び込んでいくダイブ音。楽しげな絶叫
と、水飛沫が撥ねる音が続く。
 毎年恒例の景色は、今年も例外なく繰り広げられていた。
 
 想気流柔術夏の恒例行事である合宿は、特に大きなハプニングもなく、最終日を迎えてい
た。
 毎年静岡県は伊豆地方の海岸で行われるこの合宿は、夏休みという期間を利用して2泊3
日というスケジュールで行われている。基本的には全員参加であるが、一般クラスの社会人に
は、なかなか参加は強制しづらい。実際には少年クラスの小学生たちを対象にした、お楽しみ
イベント的要素の濃いものになっていた。よって練習内容もどちらかというと、楽しめる内容の
ものが多かった。
 なかでも最大の楽しみといっていいのが、この最終日、練習打ち上げ後の海水浴で、子供達
が弾けるように海に飛び込むのは、毎年恒例の光景となっている。
 
 「やれやれ、無邪気なもんだ。こっちの苦労も知らずに」
 
 3日間、それなりに練習して少しは疲れも出そうなものなのに、まるで体力の底を見せずには
しゃぎまくる子供達を眺めながら、小笠原卓也は溜め息混じりの愚痴をこぼす。
 この小笠原は数少ない一般クラスからの参加者で、道場では一番の古株でもある。年齢25
歳。2段。市役所に勤める公務員。真面目より爽やかな印象が強い彼は、剛史から最も信頼
されているまとめ役でもある。毎年合宿に参加している小笠原の役目は、宿泊施設の確保か
ら子供達のお守まで、いわば雑務を一手に任されており、合宿の運営は事実上、彼の手に委
ねられているといっても過言ではなかった。
 
 「ホントに・・・ご苦労様でした」
 
 隣りで鈴が鳴るような声を掛けてくる少女に、小笠原は視線を送る。
 美少女が、いた。
 夏の凶暴ですらある陽射しの下に、雪のように真っ白な素肌の美少女が立っていた。
 西条ユリ。
 次期想気流柔術の後継者であり、現師範代である可憐を絵に描いたような少女は、その天
才的実力の片鱗すら見せずに、内気な視線で子供たちの様子を見守っている。
 白い道着に黒袴という衣装が、凛としてどこか優しげな彼女に驚くほどマッチしている。
 
 「ユリさんこそ、ご苦労様。今年は子供たちをまとめるのに、よくがんばっていたね。やっぱり
高校生になったからかな?」
 
 襟足でふたつに縛った黒髪を揺らして、ユリは首を横に振る。大きな黒目がちな瞳を持つ少
女の顔は、ちょっとした仕草で実に愛らしく映る。
 
 「小笠原さんに比べたら・・・全然です・・・・・・それに今年は、エリがあんなふうだから・・・」
 
 昨今の格闘技ブームの影響で、想気流柔術の門下生も以前に比べるとぐっと増加していた。
今年の合宿参加者は、全体の約8割にあたる32名。ユリや小笠原を含めたわずか数人の大
人達で、残りの小学生の面倒を見るのは、練習以上に疲れる仕事であった。
 
 「本当なら、お父さんが一番しっかり見なきゃいけないのに・・・」
 
 「ハハ。仕方ないよ。先生はああいう性格だから」
 
 子供達に混ざって、大ハシャギしている西条剛史を見ながら、ユリは呆れた表情をする。
 
 「とにかく、無事大きな怪我人や病人がでなくて良かったよ。ようやくこれで、ホッと一息つけ
そうだ」
 
 「ハイ・・・小笠原さんや、皆さんのおかげです・・・」
 
 今、旅館で休んでいるひとりを除いて、合宿参加者たちは全員元気いっぱいである。子供た
ちを預かるうえでもっとも懸念すべきは健康管理だが、無事に親元に帰せそうで、ユリの心は
安堵していた。合宿の成否はそこに懸かっているといってもいい。
 
 「ユリさんも、海に入ったらどうだい?」
 
 他意なく掛けた小笠原のことばに、あどけなさの残る少女の顔はみるみるうちに赤くなる。
 
 「いえ・・・あの・・・私はいいです・・・・・・」
 
 「子供の世話ばかりで、ほとんど楽しんでないんだろ? 最後くらい、羽目外したらいいよ」
 
 「そ、そういうわけじゃ・・・・・・」
 
 アニメ声と揶揄される高い調子の声が、尻切れトンボで小さくなる。
 異常に赤く上気した頬に、小笠原は怪訝そうに視線を送った。
 
 「どうしたの? 水着でも忘れた?」
 
 「い、いえ・・・この下に・・・・・・着てます・・・」
 
 「じゃあ、入る気あるんじゃない。遠慮しないで入ればいいよ」
 
 ユリのリスのような愛らしいマスクは、ますます火がついたように真っ赤に染まっている。
 
 「は・・・・・・はずか・・・しい・・・・・・・」
 
 「?? なにが?」
 
 「水着に・・・・・・なるの・・・・・・」
 
 消え入りそうな声を聞き分けた小笠原の耳には、確かにそう聞こえた。呟いたユリは、今にも
崩れそうに真っ赤な顔を俯かせている。
 
 「恥かしいの?」
 
 コクリ。
 
 「水着になるのが?」
 
 コクリ。
 
 「大丈夫だよ、ここは他の海水客とは離れてるから。子供たちぐらいしかいないんだから、恥
かしがることないよ」
 
 「ワッハッハッハッ! 最高だなァ〜、海は! おお〜〜い、ユリィ〜! なにやってるんだ、
お前も早く来なさい!」
 
 先程から子供達に混ざってハシャイでいる、父親の大声が飛んでくる。眉を曇らせた美少女
は、もじもじと指をせわしなく絡ませながら、決断する勇気を高めているようだった。
 
 「ほら、先生もああ言ってるし」
 
 「早くしないかァ、ユリ! 師範代のお前がそんなんじゃあ、みんな白けるだろうがァ! うじう
じしとらんと、素っ裸にでもなってしまえい!」
 
 娘に対するとは思えぬデリカシーのない台詞に、ユリの決断のトリガーは引かれた。
 意を決して道着に手をかけると、一気に脱ぎ捨てる。
 あまりに鮮やかで、豪快ですらある脱ぎっぷりに、傍らの小笠原が慌てたほどだ。
 
 武術家らしい道着姿の下から現れたのは、透き通るような肌と、白いビキニの水着。
 まだ発育途上の胸元を開け広げた大胆なカットと、Tバックに限りなく近い細いパンツに、度
胆を抜かれた小笠原の目が丸くなる。
 
 「み、見ないでください!」
 
 両手で胸を隠しながら叫んだユリは、そのまま駆け出して海に飛び込んでいく。肌の露出が
多い水着は、ユリのスレンダーなモデル体型を一層際立たせていた。
 
 「あんな大人しそうな顔して・・・意外と大胆なんだな・・・」
 
 剛史の豪快な笑い声と、子供達の歓声に迎えられる美少女武道家を眺めながら、青年の口
から独り言が漏れる。道場に通い始めて10年ほど、ユリとの付き合いも同じくらいあるのだ
が、いまだに師の娘であり、柔術の先輩でもある少女の性格は、測りきれないでいた。
 
 「恥かしいなら、もっと地味な水着にすればいいのに・・・」
 
 自分で選んでいるはずの水着を見られないよう、首まで海に浸かった美少女を、小笠原は不
思議そうに眺めるのだった。
 
 
 
 けたたましい爆音が響いてきたのは、合宿参加者たちが海に入ってから、20分ほど経って
のことだった。
 胸の内に棘を突き刺してくるような、鋭いエンジン音。間違いなく近付いてくる不愉快な音に、
遊びに夢中になっていた子供たちが、不安そうな視線を音がする方向に向け始める。
 誰もがわかる、バイクの暴走音。
 敵意を剥き出しにしたかのような荒々しいスロットルが、それまでの楽しい気持ちを打ち消
し、重々しい不安を募らせていく。
 
 来た。
 爆音はついに、視界に捉えられる距離にまで近付いた。
 すでに全員が遊びをやめ、立ち尽くした姿勢で不安な視線を向けるなか、3台のオートバイ
が砂浜を踏み躙るように疾走してくる。
 黒塗りの大型オートバイは、危険な香に満ちていた。ひとめで改造されたとわかる派手なデ
ザインが、バイクを操る人間が、できるだけ関わりたくない人種であることを知らせる。
 砂を蹴散らし、向ってくる彼らの目的地がここにあることは、もはや疑いの余地はなかった。
 
 向ってくる侵入者を阻止するように、まとめ役である小笠原卓也が前面に立つ。出番が来た
ことを、彼は誰よりも理解していた。
 自然と厳しくなる青年武術家の目の前で、無遠慮と無秩序の塊のような3台のオートバイは
停止した。
 
 「ここになにか用か?」
 
 毅然とした態度で言い放つ小笠原の口調には、いささかの動揺も感じられない。
 答えず、3人のバイカーは、愛車から降りる。全員がTシャツ、短パン、サンダルという格好。
衣装だけでなく、バイクよりもサーフィンに乗っているのが似合いそうな容姿の彼らは、ある意
味海には釣り合っている。
 
 「そう尖んなよ、おっさん」
 
 真ん中のボス格らしい少年が茶化す。
 金髪に口髭をたくわえ、褐色に日焼けした肌は、いかにも鋭利なイメージを与える。勝手気ま
まな現代若者の代表のような少年。180cmを越える長身と不遜な顔つきが、それなりの貫禄
を漂わせているが、実年齢は二十歳は越えていないだろう。
 残るふたりはドレッドヘアーとサングラスが特徴的だ。どちらかというと痩せ気味の彼らは、
頭ひとつ真ん中の少年より低いため、侍従のような雰囲気が強い。事実、ボスに対して一歩引
いているようだ。
 話をすべき相手が明確に誰かを悟った小笠原は、真正面から金髪少年を見据えて言葉をか
ける。
 
 「いまこの場所は我々が貸し切っている。用がないなら、さっさと立ち去ってくれ」
 
 「ハッ、ケチなこと言うなよ。用ならちゃんとあるぜ」
 
 ガムを噛みながら、不敵な少年は唇を歪ませ、笑ってみせる。
 
 「想気流柔術ってのは、ここのことでいいんだろ?」
 
 「いかにもそうだが」
 
 「オレたちは総合格闘技ジム“アタック”のもんなんだがよ」
 
 巷の格闘技ブームによって、空手、柔道、合気道など古来からの道場以外に、多くのジムが
誕生しているのは、小笠原も知っている。“アタック”とはそれらのひとつなのだろう。人口の多
い首都圏では、ユリたちの住む地域では想像できないほどいろいろなジムがあるのだろうが、
関東からほど近いこの伊豆にも、その波が来ていても至極当然のことといえる。
 特にこの総合格闘技――ボクシングのように打つだけでなく、柔道のように投げるだけでもな
い、打・投・極すべてを兼ね備えた格闘技は、近年の格闘技界でもっとも躍進したジャンルとい
ってよかった。“なんでもあり”つまり最も自由に闘っていいルールのなか、磨き抜かれた総合
格闘技の技術は、ルールに制約が少ない分、もっとも実戦における優位性が高い印象を与え
るのに成功していた。「強くなりたい」と願う者たちが総合格闘技に走るのは、現代格闘技界の
流れになっている。
 
 その総合格闘技の隆盛の源となったのが、グレイシー柔術である。
 日本古来の柔術の流れを強く受け継いだ、ブラジル産のこの柔術は、世界の格闘技大会で
多くの優秀な結果を残し、今日の格闘ブームを導いた。柔道と違い、打撃も含めたその技術
系統は、実に理詰めで敵を倒す方法が完成されていた。そのグレイシー柔術をより研究し、あ
らゆる格闘技のエッセンスを盛り込んで、どんな闘いにも対応できるよう造られたのが総合格
闘技だといえる。
 
 いわば、日本古来の柔術と、総合格闘技とでは遠い親戚のような関係であるといえた。
 両者の決定的な違いは、原点ともいうべき古来からのものを忠実に守り抜いているか、多く
の他の技術を取り入れて変化し続けているか、の違いだといえよう。
 原点か、進化形か。
 格闘技ファンの間で密かに優劣を知りたがっているこの命題については、現在のところ答え
がでていない。それは伝統的な柔術を守り抜いている流派が、試合や大会など、決して表舞台
には出てこないためであった。
 
 その伝統的流派のひとつである想気流の合宿に、総合格闘技のメンバーが殴り込みをかけ
る。
 格闘技業界に詳しいものなら、それが意味する重大さは、わからないわけがなかった。
 
 「ほう」
 
 なにげなく答えた小笠原の瞳に熱がこもる。
 一気に爆発した緊張感に、爽快な夏の海岸は、暗澹たる舞台へと姿を変えた。射し込む陽
射しは変わらぬままで。
 
 「せっかくだから、伝統の古流柔術様に手ほどきでも受けようかと思ってよ」
 
 あくまで尊大な態度を崩さぬ少年が、高い場所から袴姿の小笠原を見下ろす。
 
 「お前らに教えることなどない」
 
 「んじゃあよ、いっちょ手合わせしようじゃねえか」
 
 不穏な空気に戸惑いの表情を浮かべた子供達が、周囲に集まってくる。高まった危険な兆
候を、彼らは敏感に感じ取っていた。
 
 「対外試合は先生の許可がないとできん。礼儀も学ばないお前らとは違うんだ」
 
 「先生とやらに許可とればいいんだな?」
 
 黙って様子を窺っていた西条剛史が動く。傍らで抑えるように腕にしがみついていたユリを振
り切り、恰幅のいいガタイを揺さぶって海を出ていく。
 
 「お、お父さん・・・」
 
 ノッシノッシと真っ直ぐに近付いてくる道場主に気付き、金髪少年は鋭い視線を向けた。ビキ
ニパンツの中年男が、海水を滴らせながら海をでてくる姿は滑稽な趣もあるが、四角い体躯に
詰められたナチュラルな筋肉が、少年たちから笑う余裕を奪い取る。
 
 「あんたがここのトップかい?」
 
 投げつけられた質問も無視し、西条剛史は砂浜を我が物顔で突き進む。砂を踏みしめ、大
股でグングンと迫っていく。
 丸い目をギョロつかせ、唇をニンマリと吊り上げた剛史の顔は、ついに金髪少年の鼻先10c
mまで突き寄せられた。
 
 「・・・・・・ッ?!!」
 
 「少年、うちの者と、手合わせしたいんだって?!」
 
 身長は10cm近く低いはずなのに、剛史に大迫力で迫られ、金髪少年は一歩後退ってい
た。呑まれそう、いや、食べられそうな圧倒的存在感に、夏の暑さのせいではない汗が、褐色
の額に浮き出る。両隣のサングラスとドレッドヘアーが、数m先にまで下がったことを、少年は
感覚で悟った。
 
 「お、おう・・・」
 
 「ワッハッハッハッ! 感心、感心! 若いモンはそれぐらい血気盛んでなくっちゃイカン。よ
し、名前を聞いてやろう。なんていうんだ、ん?」
 
 「か・・・兼子・・・賢児・・・」
 
 「そうかそうか、よーし、カネコくん。早速やろうじゃないか! ルールはなんでもありでいい
な? 目潰しと噛みつきだけはなしにしようか。金的はありでいいや」
 
 カポカポと腕を胸板に叩きつける想気流柔術の師範。
 やる気満々のその姿に、慌てた金髪が動揺を隠さずまくしたてる。
 
 「ま、待てよ! あんた、ここのトップなんだろ? オレはまだ格闘技やって3年だぜ、もう何十
年もやってるあんたに勝てるわけねーよ! いくらなんでもちょっと大人げないんじゃねー
か?!」
 
 「ダイジョウブ、下は砂だ。なんなら君ら3人、一斉にかかってくればよろしい」
 
 青くなったサングラスとドレッドヘアーがぶんぶんと首を横に振る。注意する者も、反抗する者
もいないのをいいことに、街ではやりたい放題の彼らだが、強者を見極める嗅覚だけは発達し
ていた。拳を交えるまでもなく、目の前のガタイのいい中年に対すれば、どんな悲劇的な結果
が待っているかは手に取るようにわかる。
 
 「ちょッ・・・ちょっと待ってくれよ! 実はオレがやりたい相手ってのは、もう決めてあるんだ」
 
 「ほう?」
 
 「あのコと試合させてくれよ」
 
 金髪の少年・兼子が伸ばした指の先にいたのは、首まで海に浸かった、おさげ髪の少女だっ
た。
 指名を受けた西条ユリは、くるみのような瞳をさらに丸くさせ、白い手で口を押さえる。ひどく
脅えているようにも見えるが、頬が赤らんでいるため、恥かしがっているような印象を与えた。
そのまま硬直した水仙のような美少女は、不安げな視線をせわしなく父親に送る。
 
 「ふむ。構わんよ。じゃあユリとやってもらおうかぁ」
 
 一瞬の逡巡もなく、我が娘を得体の知れぬ輩との闘いに狩り出す剛史。
 その能天気を越えた無神経ぶりに、さすがに内気な武道少女の唇が一気にへの字に曲が
る。
 
 「先生、なにもユリさんがでることはありません。ここはボクが」
 
 「なんだなんだ小笠原〜。ユリのことを心配してるのか? ユリの実力では不安だと?」
 
 「い、いえ、決してそういうわけでは・・・」
 
 「ならいいじゃあないか。おーい、ユリィィ! 話は聞こえただろ? 早くカネコくんの相手をし
てやりなさい」
 
 娘のムッとした視線も一切介さず、四角い体をした武道家は大袈裟なまでの動作で手招きす
る。
 
 「頼みついでにもうひとつ、お願いがあるんだけどよ」
 
 予想外の呆気なさで、想気流元締めから試合の許可を得れたことが、サーファーらしき少年
の心を大きくしたのか。兼子賢児は遠慮なく、更なる要求を申し立てた。
 
 「オレが勝ったらあのコを・・・ユリっていうのか? ユリを1日、オレの思い通りにさせてもらう
ってのはどうだ?」
 
 とんでもない要求に、海に浸かったままの武道少女のスレンダーな肢体が硬直する。
 すかさず反応したのは、道場の良心とでもいうべき、小笠原だった。
 
 「おい、あまり調子に乗るなよ。そんなふざけた話を、聞けるとでも思っているのか」
 
 「まあまあ。そういきり立つな、小笠原」
 
 「先生、こんな奴らの相手など、する必要はありません。どうしてもというなら、ボクがやりま
す。こういう連中と試合など、ユリさんが可哀想ですよ」
 
 「そう熱くなるなって。お前もまだ若いなあ。よかろう、カネコくん。君が勝ったら、ユリを1日好
きなようにしたらいい」
 
 「先生!」
 
 金髪の下で、日焼けした唇が吊りあがる。
 なぜ彼らがここに現れたのか、その真の目的を悟って焦る小笠原を軽く受け流し、西条剛史
は突然の乱入者の非常識な申し入れを快諾した。その泰然とした態度は、とても娘を窮地に
追いやる父親のものではない。
 ザバアッッ・・・
 水飛沫を激しく飛び散らせて、白いビキニの美少女が海からあがる。
 若干肩をいからせて、ツカツカと剛史のもとに歩み寄るユリ。薄桃色の唇を尖らせ、大きな瞳
を見開いたその表情は、明らかな不満を露わにしている。父のもとに辿り着いた細身の少女
は、すがるように左腕にしがみつくと、耳元で囁いた。そのふっくらとした頬は、燃えあがるよう
に赤い。
 
 「お父さん、私、嫌だよ・・・勝手に決めないで・・・」
 
 「バカモン、これもお前のためだ。とっとと用意しないか」
 
 ドン、と強く背中を押されて、よろよろと金髪少年の手前3mまでに西条ユリは突き飛ばされ
る。実の父とは思えぬひどい仕打ちに、武道よりも琴でも弾いてる方が似合う淑やかな少女
も、カチンとした視線を飛ばすが、すぐに対戦を避けられなくなった目前の相手に向き直る。
 
 「よーし、それじゃあ・・・やろうか」
 
 全てが思い通りに事が運んだサーファー風情の少年は、爽やかとさえ言っていい満面の笑
顔を浮かべていた。
 すっと腰を降ろす。両腕をあげて構える。
 笑顔は霧散し、凄みさえ帯びた格闘者としての顔が現れた。
 
 反応したユリが、条件反射的に構える。
 力みの抜けた、自然体に近い、それでいて隙のない構え。
 武道家の娘として生まれたにしては、ユリは本来、闘争を好まない性質であった。まして道場
の合宿中に乱入してくる乱暴な人間とは、できる限り関わりたくない、というのが本音だ。危害
を加えられない限り、黙ってこの場が収まるのを待つつもりだったのだ。
 しかし、チャラチャラした外見からは、想像できない本格的な量の“闘気”が、兼子からは立ち
昇っていた。
 道場の子供たちが見ているなかで、私闘を見せたくなかったユリも、構えを取らずにはいれ
なかった。それぐらい真剣な戦闘の眼差しが、兼子の双眸に輝いている。
 
 「もう一度確認するけど、オレが勝ったらユリを好きにしていいんだな?」
 
 「いいとも。勝ったら、な」
 
 183cmある長身を前屈みにし、両腕で顔面をガードする独特の構えを取る兼子。打撃に
も、組みにもいける中腰姿勢が、綺麗な武道に慣れ親しんできた少年部の子供たちには奇異
に映る。ガードの奥の眼光が、狼のように鋭い。
 対する師範代・ユリの姿勢は、背筋をピンと伸ばした美しい佇まい。165cmのスレンダーな
ボディを、清廉さを表したような白のビキニが包んでいる。透き通るような肌に、あどけなさを残
したふたつ縛りのおさげ髪。清楚をこれほどまでに具現化した美少女はなかろうという天才柔
術家の顔は、桜色に上気している。心なしか、いつもよりぎこちない構えに、小笠原はある種
の緊張感を感じ取った。
 
 (も・・・もしや・・・この期に及んで、恥かしがっているのか?)
 
 獣じみた兼子の眼光に対し、あろうことか、ユリは大胆な水着を凝視される羞恥に、動転しき
っていたのだ。
 ユリが試合を拒んだ最大の理由はこれだった。
 年頃の男性に、己の水着姿を見られる・・・思春期の少女らしい感覚は、しかし武道家として
は甘すぎる精神といっていい。
 天才的な技の切れとは正反対に、大人しすぎるユリの性格は、常日頃から小笠原も心配して
いたのだが・・・あろうことか、総合格闘技からの刺客を迎えた、この大事な局面で顔を出して
しまうとは!
 
 (総合格闘技という因縁深い相手、得体の知れない敵の実力・・・それだけでも十分やりにく
い闘いなのに、集中力を欠いた状態で挑まなくてはならないとは)
 
 ユリの力を知る小笠原ではあるが、古流柔術を進化させたと言われる総合格闘家との闘い
に、暗雲が心を覆うのを自覚する。この兼子という相手自体、サイズ・闘争心はユリを圧倒して
おり、技術で遅れを取った場合、武道少女に悲惨な暴虐が降りかかるのは確実だった。羞恥
に絡め取られた内気な少女が、道場生に囲まれたプレッシャーのさなかで勝利するのはいか
に困難か。不穏な予想を、小笠原はせざるを得ない。
 
 「あ!」
 
 生真面目な公務員の口から、思わず叫びが迸る。
 構えを崩した武道少女が、己の胸と股間とを両手で隠したのだ。
 雪のように白い素肌は茹であがったがごとく朱色に染まり、純真な瞳は浮んだ涙で濡れ光っ
ている。極度の恥かしさに耐えられなくなったユリは、肢体を凝視される仕打ちに自ら敗れてし
まったのだ。
 
 砂が、舞う。
 絶好のチャンスを逃すほど、金髪少年は間が抜けてはいなかった。
 長身が一気に殺到する。両腕を自ら封じ込めてしまった可憐な少女に詰めより、パンチのラ
ッシュを放つ。一撃で昏倒は免れない鋭い打撃が、柔らかな頬を、襟足で結んだふたつの黒
髪をかすっていく。
 
 当たらない。
 完全に射程距離に捉えているはずの華奢な少女を前にして、兼子の凶暴な拳は、皮膚をか
するのが精一杯であった。
 両腕で身体を隠した不自由な態勢のユリは、風に揺れる柳のように、ことごとく闘志を剥き出
しにした拳をかわしていく。
 
 「こッッ・・・!!」
 
 恐怖を覚えたのは、兼子。
 当てるつもりで繰り出した打撃が、手応えなく空振る戦慄。全ての攻撃を無効化される脅威。
 掌上で踊る己を自覚した日焼け顔に、大粒の冷や汗が浮んだその時、大振りの右フックを
直撃寸前でよけた愛らしいマスクは、兼子の鼻先に突然出現した。
 
 「うくッッ!!」
 
 「もう・・・やめにしませんか?」
 
 黒目がちな二重の瞳。花びらのごとき小さな唇。可憐と清楚と愛らしさを、存分に放つロリー
タフェイス。
 男なら誰しも愛慕が沸きあがるのを禁じえない、キュートな美少女に間近で見詰められ、粗
暴な少年の心がドキリと鳴る。
 
 「くそッ!」
 
 ひるんだかに見えた兼子の身体がいったん沈む。
 か細いユリの胴体目掛けて、高速のタックル。
 これこそが、総合格闘技のもっとも得意とする基本戦術であった。タックルで相手を倒し、寝
た状態から敵をコントロールしていく。殴るもよし、関節を極めるもよし、締め上げるもよし。寝
た姿勢=グラウンド状態から、敵を自在に操ってしまう技術の粋こそ、総合格闘技の生命線と
いっても過言ではないだろう。多くの動きを制限されるグラウンドでは、いかなる武道の達人で
も、本来の戦闘力を発揮できない。空手やボクシングの一流選手が、総合格闘技に苦杯を舐
めさせられたのは、ここに大きな要因があった。
 
 「マズイ!」
 
 叫んだのは、小笠原。彼は知る。タックルで倒されてしまうことが、いかにユリにとって、いや
想気流柔術にとって、危ういことかを。立ち技でのウエイトが大勢を占める想気流にとって、グ
ラウンドに持ち込まれるのは、敗北に等しい窮地であることを、長年道場に通い続けた彼は悟
っているのだ。
 事実、想気流の基本攻撃は、相手の力を利用して投げるというもの。寝た状態では、一切の
効力を発揮しないのは、それこそ少年部の子供達にもわかることだ。
 
 突っ込んだ兼子の腕が、ユリの腰と太股に回る。高すぎず、低すぎず、理想的なタックル。
 焼けた砂が、高く高く、舞いあがる。
 スレンダーな少女の中央に組みついたはずの金髪少年は、雲をすり抜けたような感覚を残し
て、前のめりに砂浜に倒れ伏していた。
 
 それは、有り得ない光景だった。
 腰に飛び込んできた弾丸タックルを、ユリは絶妙な体重移動でバランスを崩した挙句に投げ
飛ばしたのだ。
 普通に掴みかかってきた相手を投げるのならば、小笠原にもできる。しかしタックルという、
己の脇の下に潜り込んでくる敵のバランスを崩してしまうとは、どういう神業であるのか。
 明らかな態勢の不利にもかかわらず、敵を意のままに操ってしまうとは・・・力の流れを読め
ると言われる西条ユリの、恐るべき武術家としての能力に、小笠原は戦慄に近い感情を覚え
る。
 
 「ちッ・・・ちくしょオッッ!」
 
 血走った野獣の眼光を、兼子は砂浜に倒れたまま振り返り、楚々とした武道少女に投げつ
ける。いまだ頬を赤らめたままの幼い少女は、モデル体型の肢体を捩らせ、少しでも見られな
いよう、両手で隠している。
彼女にとっては必死の作業なのだろうが、「闘っている」兼子にすれば、それは屈辱的な態度
といえた。
 全身をバネと化した金髪少年が、一息に立ちあがり、白い少女に突進する。
 流れるような動きで構えを取るユリ。さすがに突っ込んでくる敵を前に、いつまでも周囲の視
線を気にしているほど青くはない。
 
 右手を長身が大きく振りかぶる。わかりやすいパンチ。
 兼子が右ストレートを放つ。だが、それは当てるために打ったのではなかった。
 砂。
 右手に掴んだ細かい砂塵を、愛らしい瞳に投げつける。
 
 「あ!!」
 
 反射的に眼をつむったユリだが、少し遅かった。突然閉ざされた視界と、眼球を突く小さいな
がらも大量の痛みに、両手で顔を覆って仰け反る。
 無防備に晒された白い腹部に、褐色の弾丸が飛び込む。
 鮮やかなタックルが、細身の少女に豪快に決まる。褐色の巨斧に切り倒される白樺。低い呻
きを残したユリの肢体は、次の瞬間には総合格闘家の下敷きになっていた。
 
 「ユリさん!」
 
 小笠原の口から叫びが漏れる。見守っていた子供達の間から悲鳴が沸く。
 仰向けに倒れたユリに、馬乗りになる兼子賢児。いわゆるマウントポジションの態勢。
 総合格闘技にとって、100%の勝率をもたらす勝利の方程式に、若き達人は嵌ってしまった
のだ。
 誰もがわかる絶対的不利の態勢。下敷きの状態からでは打撃の威力は半減し、満足な攻撃
は叶わない。身体のコントロールを奪われ、逃げることすら不可能な状態では、嫌というほど
殴られるか、隙を見せて関節技を極められるか、選択肢はない。
 涙を滲ませ開いた黒い瞳に、口髭を生やした野獣の顔が映る。覇気に満ちた表情は、一切
の手加減を知らないことをユリに教えた。振りかぶった拳が、愛くるしいまでのマスクに振り降
ろされる。
 
 「ひっぎいいいィィィッッ?!!」
 
 引き攣った悲鳴を漏らしたのは、金髪少年の口だった。
 西条ユリの顔面を砕くはずの拳は、細く長い指に絡めとられていた。
 
 天からの才能に恵まれた少女武術家は、近代格闘技が生んだ最高傑作を持ってしても、仕
留めることは叶わなかったのだ。
 敗北を意味する馬乗りになられた状態、絶対的窮地にありながら、ユリは敵の打撃を掴んで
しまっていた。
 
 手首を捻る。
 激痛により、兼子の上腕が硬直する。その固まった腕で、肘関節を極める。
 金髪の口から叫びが漏れる前に、今度は腕全体を利用して肩関節をねじる。
 捕らえた手首ひとつ、指一本で次々と関節を極めていってしまう・・・それが想気流柔術の本
質であり、脅威。
 
 ピキッ・・・ミキミキ・・・メシメシミチ・・・ピキピキ・・・
 
 「ま・・・参り・・・ました・・・・・・」
 
 弱々しい降参の合図が、奔放な若者の口をつく。
 古流柔術と総合格闘技。因縁ともいえる突然の乱入試合は、波打つ潮の音に消え入りそう
なほど、静かに決着を迎えた。
 
 
 
 キャイキャイとはしゃぐ子供達の歓声が、穏やかな波間を渡っていく。
 数分前の不穏な空気もどこへやら、切り換えの早い小さなギャングたちは、何事もなかった
ように海中を、砂浜を走り回っている。止めるものがいなければ、やりたい放題遊び回る彼ら
は、我が世の春を謳歌するごとく全身で自由を満喫している。
 
 「すいませんでした!」
 
 砂地に土下座し、額をこすりつけて頭をさげる3人の若者の前で、困惑した表情を見せるの
は、西条剛史とユリ、それに小笠原卓也であった。
 掌を返したような殊勝な態度もさることながら、彼らの言う「お願い」が、想気流の幹部といっ
ていい剛史たちを困らせている。
 
 「しかしお前ら、そんな勝手な言い分が、簡単に通ると思っているのか?」
 
 厳しい口調で問い掛けるのは、もっとも常識人である小笠原。
 
 「勝手なのはわかっています。でも、こうしてお願いするしかないんです!」
 
 頭をさげたまま訴える兼子の声は、いままでの不遜さとは一変し、切実さに溢れていた。突
然の変貌ぶりに、ユリや小笠原が戸惑うのも無理はない。
 
 「その・・・兵頭というひとは、そんなに悪いひとなんですか?」
 
 父親に半分隠れた姿勢で、おずおずとユリは尋ねる。恥らう乙女の可憐さが、存分に滲んだ
愛らしさだが、今の兼子たちにそれを楽しむ余裕はない。
 
 「あんたたちは当然知らないだろうけど・・・この伊豆で、オレらみたいな半端モノのなかじゃ
知らない奴はいない悪党です。暴力、恐喝は当たり前、この辺のワルをみんなシメて、上納金
を納めさせて君臨してやがる。病院送りになった野郎や、暴行された女のコもいっぱいいるっ
て噂で・・・」
 
 「そういうのをやっつけるために格闘技を習ってるんじゃないのかね、カネコくん?」
 
 「そ、そりゃあ無理です」
 
 「なんで?」
 
 「だって兵頭さんは、オレたち“アタック”の総帥だから・・・」
 
 フーッと深い溜め息をついた剛史が、呆れ顔を浮べる。
 
 「強さを過信して暴走するボスに、子分どもがついていけなくなった、ってえ訳かい」
 
 「昔はあんなふうじゃなかった・・・けど今の兵頭さんは、止める奴がいないから、まさしくやり
たい放題なんです。誰かがなんとかしないと。でも、メチャメヤ強いあのひとに、オレらなんかじ
ゃ敵うわけなくて・・・」
 
 「で、ユリに一肌脱がせようってか」
 
 美少女の眉が、八の字に垂れる。哀しげな表情を、ユリは見せた。
 
 「無茶苦茶なのはよくわかってます! だけど、あいつのせいで、多くの人間が泣いてるんで
す。警察はオレらみたいなワルは助けてくれないし。合宿に来ている道場に、凄い天才がいる
って聞いたから・・・俺らが頼れるのは、他にいないんです!」
 
 「だからって、なにも関係ないユリさんを、危険な相手と闘わせようっていうのか?」
 
 小笠原の発言は、至極真っ当な意見と言えた。試合を挑むという、賛同しかねる方法を取っ
てきた相手に、真面目さがウリの公務員は、できる限り冷静に対応するよう心掛けていた。そ
れでも、いや、仮に同情を寄せたとしても、ユリを闘いに貸し出すなどという答えは出るわけが
なかった。
 合宿に突如乱入し、ユリの身を賭けて勝負を挑んできた不良少年たち。完敗した彼らが語っ
たのは、助けて欲しいという、意外なことばだった。全てはユリの力を借りたいがため、仕方な
く取った方法だという彼らの言い分を、3人の柔術家はどう受けとっていいものやら、思案に暮
れるほかなかった。
 
 「実際に試合してみて、ユリさんが物凄く強いことはよくわかりました。あの兵頭さんに勝てる
のは、ユリさんしかいません! お願いだから力を貸してください!」
 
 「・・・でも・・・合宿は今日までで・・・帰らないと・・・」
 
 もごもごと口篭もりながら、内気な少女は呟く。
 背後の娘をチラリと覗き見ながら、想気流柔術の師範は心の底を見透かしたようにニンマリ
笑う。
 
 「ふむ。どうやらユリは、やる気になっているようだな」
 
 「え?!」
 
 驚愕の声をあげたのは、当人のユリではなく、隣りに立つ小笠原だった。
 武道少女は頬を薄く染め、恥かしげに視線を落としてさ迷わせている。
 
 「困っていると聞いては、断われんか。まあ、悪党退治もいい修行になるかもしれんなあ」
 
 「せ、先生! まさか・・・」
 
 「よかろう。ユリ、いっちょカネコくんに力を貸してやりなさい」
 
 土下座していた3人が、一斉に顔をあげる。
 
 「で、でも・・・合宿は終わったから・・・」
 
 「細かいことは気にするなぁ。1日ぐらい余分に泊まっていけい。それぐらいの金は出すぞ」
 
 密かに宿泊のことを心配していたユリは、少し考えたあとで意を決したように言う。
 
 「・・・じゃあ・・・私で・・・よかったら・・・」
 
 立ちあがった3人の若者が、歓声をあげて抱き合う。
 大喜びではしゃぎまわる少年たち。勢い余ってユリに抱きつこうとする彼らを、あからさまに
不機嫌な小笠原が牽制する。
 
 「先生、いいんですか?! ボクらは今日帰らないといけないんですよ。ユリさんひとり残し
て、しかも得体の知れない輩と闘わせるなんて・・・」
 
 「まあ、ひとりくらい世話役を残すさあ。ユリもやることやったら、1日ここで遊べるんだ。オレ
からのちょっとした娘孝行ってとこだ」
 
 界隈随一の悪党と闘わせる娘孝行などあるものか。
 心の中で毒づきながら、真面目な青年はいまだ掴みきれない師匠に食い下がる。
 
 「もしユリさんが、その兵頭って男に負けたらどうするんです? 相当危険な人物のようじゃな
いですか」
 
 「負けたら負けたときよ」
 
 「そんな気楽な・・・ユリさんはまだ高校1年生なんですよ。しかも、この可愛らしさだ、野蛮な
男がそのまま放っておくと思いますか? ただ負けました、じゃ済まされないんですよ!」
 
 「ったく、うるさいなあ。本人がやる気なんだから、しょうがあるめえよ」
 
 「ユリさん、嫌なら嫌といっていいんですよ! もともとユリさんとは無関係なんだから」
 
 白いビキニに包まれたスレンダーな肢体を、まだどことなく恥かしげにすくめていた可憐な少
女は、急に屹然とした視線で傍らの同門生を見詰める。
 
 「小笠原さん・・・そんな、無関係だなんて、言わないでください」
 
 大人しいユリにしては強めの口調に、10歳年上の公務員はたじろいだ様子を見せる。
 
 「私たちと同じように武術を学ぶひとが、困っているんです・・・私で役に立てるなら、嬉しいで
す」
 
 内気で大人しく、時として霞みのように弱々しく映ることすらある少女・ユリ。
 天才と呼ばれる武道少女の内側に、燃え上がる闘志の炎と強い意志を、小笠原は確かに見
た。
 
 「兵頭というひとは・・・私が倒します」
 
 想気流柔術、次期正当後継者西条ユリ。
 その私闘の火蓋は、いま静かに切って落とされた。
 
 
 
 2
 
 幽玄のような灯りが、連なって淡い闇の世界に浮んでいる。
 民宿やお土産屋の店名が書かれた蛍光の看板。ネオンと呼ぶには、そのどこまでも続く光
の帯は淡白すぎた。ネオンという単語が極彩色のイメージを持つのに対し、目の前の世界は
水墨画を思わせる。どこかアナログの香する街並みの情景が、西条ユリの心を古き良き郷愁
へと誘う。
 
 首都圏に隣接した伊豆の街並みは、現代社会に生きるものたちを癒すべく、瀟洒でいながら
どこか懐かしさを感じさせた。海が近いせいか、昼間の熱気が嘘のように心地良い風が頬を
撫でていく。賑やかさと、けだるさの絶妙なバランスが街を包んでいる。リゾート地の老舗の風
格が、この土地には沁みついていた。
 
 「いい・・・ところですね」
 
 ユリは素直な言葉を吐いた。
 この界隈の裏世界では「皇帝」と呼ばれている男、兵頭英悟との闘いが待ちうけているとは
思えぬ、平然とした様子。平常心が闘いにおいて重要な要素を占めるのならば、ユリが武道の
達人であることに、疑いを持つ者はいないだろう。
 
 「・・・そこが、オレたち“アタック“のジムだ」
 
 答えず、金髪の少年・兼子賢児は、20mほど前方に見える、3階建ての雑居ビルを顎指し
た。
 灰色の壁に、『総合格闘技ジム アタック』と書かれた看板が取りつけられている。兼子の話
によれば、ユリが倒さなければならない相手は、そのビルの最上階にひとりでいるはずであっ
た。
 
 貸し切りバスに乗り込んだ、西条剛史を始めとした想気流の道場生を見送ってから、約3時
間近くが経っていた。
 夏とはいえ、七時を越えれば周囲は闇に包まれ始める。いったん民宿に戻って、もう1日宿
泊の延長を手配したユリは、シャワーと着替えを済ませて、再び兼子たちの前に現れていた。
 
 もしこんな形で出会ってなければ・・・密かに兼子は思う。
 私服姿のユリを、彼は無意識のうちにつま先から頭頂まで、舐めるように見詰めてしまってい
た。ロリコンの気はなかったはずだ、などと口裏でごちつつも、恋愛ゲームにでも出てきそうな
美少女らしい美少女に、魅入られかけていることを自覚する。
 どうもこの少女は、極端な恥かしがりやのくせに、大胆な格好を好むらしい。
 黄色のタンクトップのうえに薄手の白シャツを重ね、下はこれも白のマイクロミニ。
 “ハクジョ”こと白鳳女子高校の制服からして白を基調としているが、ユリ自身白が好きなの
だろう。透明な肌とあいまって、白い妖精は爽やかさと涼やかさを周囲に振り撒いている。
 だが、決して大きくはないバストの谷間がかすかに望められたり、全体に細長いなかにあっ
てやや太く見える白い太股が露出していたり、挑発的とすらいえる衣装は、人々の視線を集め
ずにはいられない。ましてや西条ユリは、愛くるしい人形のような容貌の持ち主である。頬を赤
らめ、俯き加減で歩く少女は、隣りに3人の危険そうな男たちがいなければ、変質者の格好の
ターゲットになりそうだった。
 どこからどう見ても、かよわく、気弱そうな美少女。
 その可憐な一輪の華を、これから死地に手向けねばならぬことが、兼子の心を暗くさせる。
 
 「もう一度、確認するけどよ」
 
 雑居ビルの入り口まできたとき、先頭にたっていた兼子の足が立ち止まる。
 
 「ホントにやるのか? やめるならいまのうちだぜ」
 
 驚きとともに、ひどく焦った顔を、残るふたりの男たちは浮かべる。ドレッドヘアーが斎藤、サ
ングラスが克也と呼ばれていることは、先程の自己紹介でユリは知った。
 
 「急に、どうしたんですか?」
 
 「兵頭さんは化け物だ。やめてもオレらは文句は言わない」
 
 振りかえった金髪少年が、10cm以上低いユリを見下ろす。野獣のような視線に、真剣な光
が灯っていることに武道少女はすぐに気付いた。
 
 「でも・・・困ってるんですよね?」
 
 「行ったら・・・お前、地獄行きだぞ」
 
 斎藤と克也がなにか言い掛けるのを制し、低いトーンで兼子は言った。その額には冷たい汗
が浮いている。
 
 「大丈夫ですよ。・・・負けませんから」
 
 内気な少女は、そのとき、ニコリと花のように明るく笑ってみせた。
 スッと長身の少年の横を通りすぎた武術の達人は、躊躇することなく灰色の階段を昇ってい
く。
 3階。階段を昇りきったそこに、扉がある。外にかけられた看板と、同じレタリングがされた表
札が掲げられた鉄の扉の前で、一旦ユリは立ち止まる。
 軽く、深呼吸。
 重々しい扉を、非力な少女はゆっくりと、押し開けていった。
 
 白いマットが敷きつめられている。
 思ったより広い。ざっと30畳もあろうか。
 奥に3つの扉が並んでいるのは、更衣室とトイレ、それにトレーニングルームといったところ
だろう。手前の扉の入り口付近には、ダンベルがいくつか転がっている。格闘技界では新興勢
力といえる総合格闘技のジムにしては、かなり整った施設だといえよう。それは即ち、ボスであ
る兵頭英悟の力を示しているともいえる。
 
 真正面の奥にサンドバックがぶらさがっている。
 その手前に、背中を向けた男が、いた。
 ドス! ドス! 鈍い音が断続的に響いてくる。男は誰かがジム内に侵入してきたことを知り
つつ、サンドバックを拳で打つのに集中している。
 闇に閉ざされ掛けた世界の中で、男の姿は沈みゆく太陽の残滓に照らされている。ユリのく
るみの瞳がやや細まる。閉め切った室内は空調が効いて涼しかったが、上半身裸になった男
の背中には、びっしりと滝のような汗が滴っているのがなんとか確認できる。
 
 「兵頭・・・英悟さんですね」
 
 敵であろうと敬語を使う武道少女が、数歩進み出る。
 黙ったまま、男はサンドバックへの殴打を繰り返す。重い打撃音が、生々しさを伴ってユリの
耳に届く。
 
 黒のハーフパンツひとつで、上半身を披露している兵頭の肉体は、格闘家らしくよく引き締ま
っていた。
 ムキムキのマッチョマンではないが、ナチュラルなパワーが逆三角形の肉内につまっている
のがわかる。身長175cm、体重85kgといったところか。特に大きいサイズではないが、バラ
ンスが取れているため、ユリには理想的な格闘体型に映った。肩幅が広く、胸も厚く、腕も太
い。父親や工藤吼介という規格外に見慣れたユリでなければ、相当に“ゴツイ”という印象を持
つはずの体格。
 特に異常なのは、その拳であった。人差し指と中指の拳頭が、ダイヤでも埋まっているように
盛り上がっている。明らかに硬いものを叩き、研鑚に研鑚を重ねて造りあげた破壊の拳。兼子
らがあれほど恐れた理由を、拳の形だけで敵は若き柔術家に伝えてくる。
 
 「想気流柔術・西条ユリといいます・・・あなたを、倒しにきました」
 
 律儀な宣告は武道家ならではの作法だったか。
 だが、格闘技の世界に身を置くものにとって、ユリの言葉はあまりに挑発的なものだった。他
流派がジムに殴り込んできた・・・明確な道場破りの宣言と行動に、血が沸騰しない格闘者は
いまい。
 
 打撃音が、止む。
 四角い肉体が振りかえり、兵頭英悟はその全貌を武道少女に明らかにした。
 五分刈りの頭に、目尻の下がった大きめの眼。
 日本人らしからぬ大きな鼻のせいか、ヨーロッパ系の民族の血が混ざっているような顔は、
垂れ眼のせいで、見ようによっては優しげに見えなくもない。しかし、その瞳の中に灯った鷲の
ように鋭い眼光が、男が猛禽類並に危険な存在であることを教えてくる。
 
 だが、凶悪な素性を秘した男の容姿より、西条ユリの視線を釘付けにしたものがある。
 薄闇と、兵頭の身体に隠れてよく見えなかった、部屋の奥。
 兵頭が叩いていたのは、サンドバックではなかった。
 吊り下げられた、全裸の女性。
 荒縄でがんじがらめに縛られた女性が、崩れかけた肉体を天井からぶら下げている。紫に
変色した顔は、腫れあがって岩石のように膨れ上がっていた。縄の締めつけと殴打によって、
肩口から足首まで、黒・青・紫の痣が、斑点となって埋め尽くしている。
 ウェーブのかかった茶色の髪が、女性が二十歳代でオシャレに気を使うタイプであったことを
窺わせるが、被虐の末に今の彼女は無惨な肉塊に変わり果てていた。美しかったであろう美
貌も、今は目鼻の場所すらわからぬほどに崩壊している。
 
 キリ・・・
 桜色の唇のなかで、西条ユリは歯噛みする音をたてた。
 くっきりとした二重の下で、丸い瞳がたぎっている。
 昇った血が瞳に集中したように、光を帯びて輝く。初めて見せる怒りの眼光に、斜め後ろに
控えた兼子は己が気圧されるのを自覚した。
 
 「お前が想気流柔術の西条ユリか・・・フン、思った以上にガキだな」
 
 知っている。私のことを。
 武道少女の脳裏に鳴る警戒アラーム。しかし、沸騰した怒りが、慎重よりも戦闘を優先させ
る。
 
 「だが、なかなかカワイイじゃないか。そろそろこのサンドバックも限界だ。次はその、細い身
体を使わせてもらうのもいいな」
 
 低いトーンで話す兵頭。
 その西洋人っぽい顔が、ニヤリと歪む。
 
 ザワリ
 その瞬間、兼子はユリのトレードマークともいうべき、ふたつに縛ったおさげ髪が、浮いたよう
に錯覚した。
 細い眉が、吊りあがっている。
 黒目がちな瞳に、怒りの炎が揺れる。天才少女の沸騰は頂点に達していた。
 
 「・・・どうやら・・・罠だったようですね」
 
 ガチャリという、ノブを回す音。
 更衣室とトレーニングルームに隠れていた男たちが一斉に飛び出す。
 4人の総合格闘技の猛者たちが、あっという間に単身乗り込んできた柔術少女を取り囲む。
全ては予定されていた動きであった。
 
 「こんな卑劣なことまでして・・・柔術に勝ったといいたいのですか?」
 
 「柔術? フン、関係ないな。オレはただ、いい女は全部下僕にしたいだけだ」
 
 「・・・本当に・・・尊敬できないひとですね」
 
 皇帝と呼ばれる男が、鼻で笑う。
 構えを取る、武道少女。手を開いた、自然体に近い立ち姿からは、いつものような涼しげな
風ではなく、熱に満ちた闘気が吹きつける。
 
 「5人なら・・・勝てるとでも思っているのですか?」
 
 「5人? フフ、8人の間違いだろう?」
 
 隠れていた4人に兵頭、そして、ここまで引率したくれた3人が、敵の数に入ったことを、孤立
した少女闘士は知る。
 
 「だから・・・言っただろ! 行けば地獄だって・・・」
 
 吐き捨てる兼子賢児の声に、隠せない悔しさがこもるのをユリは聞き分けた。
 兵頭の命令に・・・逆らえなかったんですね。
 あの砂浜で救いを求める兼子の視線に嘘はなかった。兵頭を倒して欲しいという彼の願い
は、確かに本物だったのだろう。
 だが、暴力による支配は、金髪少年を完全に包み込んでしまっていたのだ。全ては兵頭英悟
の策略通り。なまじ兼子の願いが本物だっただけに、ユリは見事に罠に掛かってしまった。ま
んまと敵のアジトに誘い込まれた武道少女を、凶悪な拳が、今襲いかかろうとしている。
 
 「兼子さん・・・私をここに連れて来たことを・・・悔やむ必要はないです」
 
 幼さの残る内気な少女は、鈴のように鳴る声ではっきりと言った。
 
 「私は・・・ここに来て、良かったと思っています」
 
 ユリの言葉が終わるより早く、一斉に周囲を囲んだ男たちは、華奢な少女に飛びかかってい
った。
 
 ブオオオオオオ!!
 
 風が逆巻く。
 正面と背後、同時に襲いかかったはずの男たちは、一瞬で手首を掴まれ、空中で回転して
背中からマットに叩きつけられていた。
 ピクリと動く、皇帝の眉。
 己のアジトともいうべき道場内で、多数で取り囲む圧倒的優位。だが、とても武道をやってい
るとは思えぬ細身の少女が垣間見せた力量が、暴虐の限りを尽くして君臨する暴君の心に暗
い影を落とす。
 
 多数vsひとり。それが圧倒的な優位を導くのは間違いない。
 だが攻撃にはタイミングが必要だ。実際には、よほど訓練されていなければ、手際良く同時
に攻撃するのは難しい。他人が攻撃している最中に飛びかかっていくのは、つい躊躇してしま
うものなのだ。それは遠慮などという精神的な理由ではない。タイミングの取りづらさにある。
 それでもほとんどの場合、ひとりが多数に囲まれた時、勝算が皆無であるのは戦況が膠着し
てしまうからだ。普通、人間の戦闘力に大差はない。ひとりを相手にせめぎあっている間に、無
防備な背中などにふたりめ、三人目の攻撃を受けて、敗北への階段を転がり落ちていく。一旦
隙を見せてしまえば、多数を相手に逆転することは不可能といっていいだろう。
 西条ユリには、その法則があてはまらない。
 なぜなら天才と呼ばれる美少女柔術家は、一瞬で相手を倒してしまうのだから。
 膠着する瞬間のない、凡人を遥か超越した戦闘力。
 多数で襲いかかっても、次々と薙ぎ倒されていくのみ。それだけの技量の持ち主であることを
認めた兵頭から、貼りついていた余裕が剥がされる。
 
 「兵頭さん・・・いえ、兵頭」
 
 絵に描いたような美少女が、横目で鋭い視線を飛ばす。たおやかにして可憐な美少女は、燃
え上がる怒りを内気な表面に立ち昇らせる。
 
 「ここまで誰かを倒したいと思ったのは・・・生まれて初めてです」
 
 「・・・ほざけ」
 
 苦々しく吐き捨てる兵頭。
 襲撃の第2波が、華奢な少女に押し寄せた。
 
 
 
 「はぁ・・・はぁ・・・はぁ・・・はぁ・・・」
 
 夕闇が押し寄せるジムに、荒い息遣いが充満する。
 せわしない呼吸は複数のものだった。西条ユリが、この総合格闘技ジム“アタック”の策謀渦
巻く室内に姿を現してから、約20分が過ぎようとしている。夏の暑さ対策で、エアコンにより涼
しく調整されているはずの部屋は、蒸せかえる熱で占め尽くされていた。白いマットのところど
ころに、ポツポツと汗の滴りが落ちている。
 
 圧倒的不利な状況に陥りながら、天才武道少女はいまだに致命的なダメージを受けずにい
た。
 右頬が切れて、一筋の朱線が横切っている。
 黄色のタンクトップや白のシャツは乱れ、腹部や肩口には汚れがついている。これまでの闘
いで、何発か打撃はもらっているが、そのダメージはわずかなものだった。わずかですむよう、
巧みな防御でユリはかわしていた。素人ではない、総合格闘技を学ぶ猛者たち数名に囲まれ
て、ここまで凌ぐこと自体、華奢な少女の実力が飛び抜けていることを示していよう。
 だが、今、西条ユリの愛くるしいマスクにこびりついているのは、疲労と焦りの色だった。
 
 ユリが無傷であるのと同じく、周囲を囲んだ男たちもまた、無傷であった。
 次々と襲いかかる屈強な男どもは、面白いように美少女柔術家に投げ飛ばされていた。殴り
かかっては手首を掴まれ宙を舞い、タックルを仕掛けてはすかされて倒れこむ。高見を決め込
む兵頭と、手を出せないでいる兼子賢児以外の6人が、津波となって飛びかかるが、細身の武
道少女は柳のようにしなやかに揺れながら、鮮やかに受け流し、撥ね返していく。幼少のころ
より稽古に明け暮れた天才武術家と、屈強とはいえまだ格闘経験の浅い男たちとの力の差は
歴然だった。
 だが、今現在西条ユリを取り囲んでいる状況は、この闘いが始まったころから全く好転を見
せてはいなかった。6人の敵は誰ひとり欠けることなく、孤立した美少女を包囲している。
 
 「フフン、どうした、西条ユリ? だいぶ息があがってきたようだが?」
 
 腕組みをしたまま嘲る兵頭英悟を、悔しさのこもった瞳でユリは見る。
 これが試合ならば、武道少女は男たちを相手に30連勝以上しているだろう。
 技術を駆使して、関節を極め、投げ飛ばしていくユリ。しかし、彼女の攻撃は、その全てに遠
慮が入っていた。
 投げる時には背中から落とし、関節を極めても、あと少し力を入れれば外れるというところで
離してしまう。しばらくの間は苦しんでいる敵も、時間が経つにつれ戦列に復帰してくる。倒して
は立ち上がり、立ち上がっては再び襲ってくる敵を相手に、ユリはたったひとりで闘い続けてい
るのだ。6人という人数の多さ、それに下が柔らかいマットであることが、ユリに苦境を忍ばせ
ている。
 
 「はぁ・・・はぁ・・・はぁ・・・う・・・うぅぅ・・・・・・」
 
 白い額に柔らかな黒髪がへばりついている。黄色のタンクトップには、点々と汗の沁みが浮
き出ている。投げられ、痛めつけられている男たちの息もあがっているが、孤独な闘いを強い
られている美少女の疲労は遥か濃い。どこかのショートカットの少女とは対照的に、ユリの闘
い方は体力のロスが極端に少ないが、20分以上も休む間もなく襲われては、さすがの達人も
限界が近い。
 
 “こ・・・こんなに・・・倒したいと思っているのに・・・・・・どうして・・・どうして、手加減してしまう
の・・・?”
 
 自問する答えを、ユリ自身の奥底は気付いていた。
 後継者を決める闘いで、双子の姉であるエリを完膚なきまでに叩き潰してしまったあの日。
 あの日以来、心に負ったトラウマは、己の感情などでは制御できない深いレベルのものだっ
た。傷つけてしまった当事者のエリの許可がなければ、全力を出せなくなってしまったユリ。フ
ァントムガール・ユリアとして、この星の守護者の顔も持つことになった彼女にとって、それは致
命的な欠点であり、克服しなければならない弱点であった。姉がいなければ本気をだせないと
いうことは、ユリを窮地に落とすだけではない。普通の人間であるエリを、「エデン」寄生者の死
闘に巻き込むことにもなる。事実、エリは葛原修司という「エデン」の寄生者に、瀕死の重傷に
遭わされていた。
 かけがえのない姉・エリのためにも・・・いや、エリのためにこそ、ユリはこの弱点に打ち克た
なければならなかった。
 
 何も罪のない女性を、楽しむために嬲る兵頭に対し、かつてないほど怒りを覚えたユリは、
密かに自分が本気を出せることを期待した。火がついたように熱くなった少女の胸は、間違い
なく卑怯な相手を倒すことに燃えていたはずなのだ。
 だが・・・それでもやはり、ユリは全力を出すことが出来なかった。
 頭から落とそうとするのに・・・関節を外そうとするのに・・・できない。
 魔法でもかかったように、武道少女の肉体は意志を裏切って、敵を仕留めることを許さない。
無限とも思える格闘地獄に落ち込んだ幼い少女に、破滅の足音はすぐ背後にまで迫ってい
た。
 
 「なかなかの腕だが、どうやら詰めが甘いようだな。どれ・・・そろそろオレの出番かな」
 
 ずい・・・と腕組みを解いた「皇帝」兵頭英悟が、数歩進み出る。
 激しく呼吸を繰り返す童顔が、厳しい視線を向ける。怒りはこもっているが、どこか可愛らしさ
の拭えない瞳。薄めの唇は半開きであり、熱い吐息がせわしなく吐き出されている。
 圧倒的優位にありながら、より安全な方法を選択する兵頭。敵のなかで最も強いのが、“アタ
ック”総帥である兵頭であるのは雰囲気からも確実だが、それでも卑劣な男はユリの体力が枯
れるのを待っていたのだ。改めて怒りが沸きあがるのを感じるユリ。しかし、感情を裏切り、疲
弊しきった肉体は、思うように動かなくなりつつあった。
 
 一気に、流れるように、兵頭の頑強な肉体は水仙の少女の目前に飛び込む。
 うまい。間合いの詰め方は本物だった。
 すっ・・・と自然な動きで射程距離に入った兵頭の、初弾。
 異形の拳が、唸りをあげて振りかかる。
 大振りの右フック。ボクサーのような華麗さはないが、空気を切り裂く尋常でない速度が、危
険なまでの破壊力を教える。
 バックステップでかわす武道少女。続けて襲いくる左のアッパーも、同じく下がって空振りさせ
る。
 鼻先をかすめる風圧。石が埋まっているような凶悪な拳の一撃は、決して耐久性に優れてい
るとはいえぬユリにとって、もらってはならない代物だった。
 
 “この男・・・強い! でも・・・”
 
 捕らえられる。
 兵頭英悟の瞬発力、パンチの軌道は、彼がこの街で権勢を振るっていることを十分に納得さ
せるだけのものがあった。格闘家としての実力は、本物であると断言してもいい。
 だが、格闘家の実力を論じるならば、天才であるユリには敵わない。
 次。いや、次の次のパンチ。
 速度と軌道を把握しきった武道少女が、逆転へのカウンターを狙う。
 兵頭の右拳が、真っ直ぐに伸びてくる。右ストレート。
 三度、下がって凶悪な拳をよける美少女柔術家。
 
 「!!」
 
 ゾクリという悪寒が、ユリの背筋を駆け登る。
 背中に飛んでくる、蹴り。
 少女戦士の敵は兵頭だけではなかった。囲んだ男たちのひとりが、無防備な背後から不意
打ちを仕掛けてきたのだ。
 背に眼がついているかのような反応で、身体を捻って蹴りをかわすユリ。
 その身のこなしは、まさに天才武道家の名に相応しい。前からの兵頭のパンチをよけるだけ
でも凄いのに、背後からの不意打ちすら同時によけてしまうとは。
 だが。
 
 ”しまッ・・・!!”
 
 白のマイクロミニから生えたカモシカの脚が、積み重なった疲労でもつれる。
 達人が見せる、大きな隙。チャンスを窺っていたハイエナたちが、それを逃すはずはない。
 
 鈍い音を残して、強烈な蹴りが白い少女の背中を打つ。
 軽量のユリが吹き飛ぶ。反りあがった肢体の先に待つのは・・・兵頭英悟。
 蹴り飛ばされたユリの姿勢はあまりに不安定であった。ふらふらとつんのめる美少女の腹部
に、ついに凶悪な拳が突き刺さる。
 
 ドボオオオオオオッッッ!!!!
 
 「ぐはあアアッッ?!!」
 
 一気に見開かれる、胡桃の瞳。
 兵頭のボディブローは、斜め下から鳩尾に突き刺さっていた。異形の拳がまるまる細身の内
臓に埋まりこんでいる。叫びとともに、ユリの口からは大量の唾液が溢れた。胃が破れてしまっ
たのではないか。身体の中央を灼く圧迫と痛みに、華奢な肢体がビクビクと痙攣する。
 容赦ない「皇帝」の追撃は、左のフックとなって、人形のごとき愛らしい顔面に撃ち込まれる。
 
 パシッッ!!
 
 猛スピードで迫る拳を、ユリの右手が絡め取る乾いた音が、やけに大きくこだました。
 兵頭の視界が、天地逆になる。
 華麗なる柔術の技。手首を曲げられる激痛が、肘に、肩に、電流となって伝わっていき、兵
頭英悟の四角い肉体は、弾けるように飛びあがった。空中で一回転した卑劣な支配者は、背
中から激しくマットに落ちていく。
 
 「んんッッ・・・ぐはアッッ!・・・ぅぐ・・・・・あアアッ・・・うああッ・・・・・・」
 
 拳が抜けた鳩尾を両手で押さえながら、過酷な杭刺しを逃れたユリが苦悶に呻く。まるで腹
部に穴があいたかのような痛撃。鉛が埋まったような重い痛みがいつまでも身体の中央に残
り、下半身が麻痺したような錯覚を覚える。
 
 ”な・・・なんて打撃・・・・・・こ、こんなに効くなんて・・・”
 
 アニメにでも登場しそうな美少女の顔に、びっしょりと脂汗が浮ぶ。
 拳頭が盛り上がった形から兵頭の拳がいかに鍛えられているかは知れたし、肉体の筋量か
ら力も推測できた。その打撃が並外れた威力であることは覚悟していた。が、実際に受けた一
撃は、ユリの想像を遥かに凌駕する破壊力を持っていたのだ。
 物心ついたときより柔術の稽古に明け暮れたユリではあるが、基本が投げ技であるため、打
撃の免疫は一般の少女よりやや強い程度だ。それはモデルのような、スラリと伸びたスレンダ
ーな体型も大きな起因のひとつになっていた。もし、『エデン』の寄生による耐久力のアップが
なければ、今の一撃も耐え得れたかどうか・・・。
 
 予想の範疇を越えた、いや、逆にある不穏な予想を喚起されずにはおれぬ兵頭の強さに、
焦燥を募らせる白い妖精を更なる衝撃が襲う。
 
 「このオレを、まさか投げ飛ばすとはな」
 
 「皇帝」兵頭英悟は立っていた。
 右肩を押さえているところを見れば、ノーダメージというわけではない。ユリが相変わらず、全
力で叩きつけれなかったのも事実だ。だが、それでも1mの高さから落とされて、間髪いれず
に立ちあがってくるのは尋常ではない。
 
 「うッ・・・・・・ううぅ・・・」
 
 腹部を押さえたまま、ユリは知らず、2歩後退する。
 突然の衝撃に、細身の肢体はガクンとぶれた。
 背後からのタックル。武道少女を取り囲む輪は、わずかな隙も逃しはしない。
 白い水仙が一瞬浮く。だが甘かった。タックルに加わった力のバランスの悪さを、瞬時に見
抜いた美少女の肉体は、巧みな捌きですり抜けていく。
 すかさず次なる刺客の低いタックルが飛ぶ。
 風に舞う花びらのように、少女の身体が開く。柔術家のお手本となるタックル防御。最小の動
きで軸をずらして、突っ込んでくる攻撃を無効化する。
 
 天才と呼ばれる少女の華麗な技も、そこまでだった。
 激しい疲労と腹部へのダメージ。そして複数による続けざまの攻撃。
 かろうじて2撃まではかわした正義の妖精に、狙いすました「皇帝」のタックル。
 段違いのパワーとスピードに、足元から刈り取られた白百合は宙を飛んだ。
 
 ふたつの肉体が、絡み合ってマットに落ちる音が響く。
 強靭な肉体の下に組み敷かれる華奢な少女。囲んでいた男たちが、池に落ちた獲物に群が
るピラニアのごとく、一斉に飛びかかる。
 両手両足をひとりづつが全体重をかけて押さえていく。四肢を伸ばされ、畳に大の字に張り
付けられる武道少女。襟足で縛ったふたつのおさげ髪まで、ご丁寧にひとりづつに踏まれる。
 首を動かす自由まで奪われ、西条ユリは屈強な男たちによって完全に取り押さえられてしま
った。
 
 「ううッッ・・・・・・くッ・・・ああぁッ・・・!」
 
 動かない。手も足も、ピクリとも動かない。
 元々非力なユリは、「エデン」の助けがあっても、腕力自体は普通の女のコとなんら変わるこ
とがない少女であった。圧倒的技量を誇る柔術少女も、力で押さえ込まれてしまっては、翼をも
がれた小鳥も同じ。
 悔しさと怒りと恐怖の混ざった丸い瞳が宙を泳ぐ。
 もはや、逆転の可能性が皆無であることを知るのは、ほかならぬユリ自身であった。
 
 「フン、てこずらせやがって」
 
 胴に跨った兵頭の冷たい視線が、股下の美少女を見下ろす。勝者と敗者を残酷に凝縮した
図がそこにはあった。
 
 「ひッ・・・卑怯ものッ・・・」
 
 組み敷かれて尚、闘志は失わないユリが、真っ直ぐな視線で凶悪な支配者を見据える。それ
は少女にできる必死の抵抗だった。
 ゾッとするほど冷酷な笑みを、兵頭は刻んだ。
 ユリの鼻先に右の拳を近づける。甲が硬質化し、人差し指と中指の拳頭に瘤がくっついた凶
悪な拳。少女の白い咽喉が、ゴクリとなる。
 ゆっくりと見せつけるように、上昇していく異形の拳。
 両サイドから束ねた髪を踏まれ、顔を逸らすことすら許されない美少女のマスクに、ハンマー
のようなパンチが振り下ろされる。
 
 ドキャリリッッッ!!! 聞き慣れない音がジムに響く。
 恐怖に引き攣ったユリの顔面に、容赦ない破壊の拳は埋まっていた。
 押さえられた四肢の先が、ビクンビクンと痙攣する。
 半失神に陥った少女の顔から、拳が引き抜かれる。ヌチャリ・・・という音がして、拳と顔は、
噴き出た鼻血の橋で繋がった。
 
 「あッッ!!・・・・・・かはッ!・・・ぐぷ・・・ぐぐぅッ・・・」
 
 「フン、まだ意識があったか。思ったより丈夫だな」
 
 左のフック気味のパンチが、固定された愛くるしいマスクに吸い込まれる。
 バチャアッッ! 血飛沫が美少女の顔と白いマットとを赤く染める。
 朦朧とするユリの視線が宙空をさまよう。みるみるうちに、柔らかな頬が変色して腫れあがっ
てくる。
 
 「がはあッッ!・・・・・・はあッ、はあッ、はあッ!!」
 
 「どうだ、西条ユリ。オレ様の拳の味は?」
 
 鼻と口内の出血で真っ赤に染まったなか、白い歯を食い縛ったユリは、恐怖と怒りの混ざっ
た視線を卑劣な悪党に向ける。
 生来闘いを好まない少女を、強烈な顔面への打撃の恐怖が飲み込み掛けている。卑怯者へ
の怒りが、なんとか武道少女の闘志を繋ぎとめていた。
 
 「フンッ! 貴様はもう、終わりだ!」
 
 ドゴンッッ!! ドゴンッッ!! ドゴンッッ!!
 
 右、左、右・・・凶器の拳が次々と振り下ろされていく。
 その度に血風が舞い、四肢を押さえた男たちへの抵抗はどんどんと弱まっていった。兵頭の
両拳は鮮血で染まり、マットに張り付けられた指先の痙攣は、もはやピクン・・・ピクン・・・と時
折震えるだけ。
 
 「やッ・・・やめろーッッ!!」
 
 立ち尽くし、震えて暴虐劇を傍観するだけだった兼子賢児が、たまらず親分である兵頭に飛
びかかる。
 恐怖に動けずにいた金髪少年を、あまりに執拗な少女への嗜虐が、ついに解き放ったの
だ。健気なまでの武道少女が蹂躙されるのを、これ以上兼子は見ていられなかった。怒りが
「皇帝」の恐怖を打ち破る。
 
 「バカが!」
 
 重い打撃音が響き、兵頭の右拳は、金髪少年のどてっ腹に埋まっていた。
 一気にくの字にひしゃげる褐色の肉体。一発でKO状態に追い込まれた少年に、追撃のアッ
パーが飛ぶ。
 ダンボール箱が踏み潰される音がした。
 顎を砕かれた長身が20cmは垂直に浮きあがる。そのままグシャリと落下した兼子の身体
は、二度ピクピクと痙攣すると、動かなくなった。
 
 「あ・・・・・・・がはッ・・・・・・あぁ・・・・・・そ・・・んなぁ・・・・・・」
 
 男たちに組み敷かれ、ぐったりとしたユリの視界に、崩れ折れた金髪少年の身体が映る。
 頬は腫れあがり、噴き出した鮮血で顔は朱色に染まっている。無惨に汚された美少女のマス
クに、一筋の涙が伝っていく。
 
 「ゆ、許せ・・・ない・・・・・・あなたは・・・・・・許せません!」
 
 朦朧とする意識のなか、怒りに駆られてユリは叫ぶ。
 顔を殴られ続け、彼女自身の限界も近い。6人の男に押さえられていなくても、身体は満足
に動かないだろう。それでもユリは叫ばずにはいられなかった。恐怖に打ち克った、兼子の勇
気を思えばこそ。そして、残酷に打ちのめした、兵頭の悪行に。
 
 「フフン、負け犬が。戯言を吼えるな!」
 
 裸足で兵頭は、固定されたユリの顔面を踏みつける。
 グチャリ、という嫌な音。
 
 「貴様はもうオモチャなのだ。ほら、舐めろ! 舐めるんだ!」
 
 真正面からフランス人形のようなキュートなマスクを、ぐりぐりと踏み躙る。血と涎のヌルリとし
た感触が、兵頭の足裏に伝わってくる。
 反りあがったユリの背中に空間が出来あがる。それが少女にできる、精一杯の抵抗。
 ブルブルと震えるスレンダーな肢体は、全体重で押さえ込む男たちによって、完全に動きを
封じられている。武道少女の苦しみが、震えによって、拘束する男たちにも伝わってくる。
 
 「フンッッ!!」
 
 真上から、未発達な小ぶりの乳房に、兵頭は凶悪な拳を突き降ろす。
 黄色のタンクトップを盛り上げた小さな丘が、胸の肉内にまで一気に潰され捻り込まれる。
 
 「んんんああああああああッッッッ――――ッッッ!!!!」
 
 絶叫。
 開発途上の胸を破壊され、凄まじい激痛にユリは吼えた。槍で串刺しにされたかのような苦
痛。涙の結晶が、砕け散って飛ぶ。
 悪虐の皇帝は、この程度で反抗する少女闘士を許しはしなかった。
 左の拳が、脇腹に。
 肋骨の下から斜め上に、内臓を突き破るようにブローを打ち込む。
 
 「ごぼおああああああッッッ――――ッッッ!!!!」
 
 血塊が可憐な唇を割って出る。
 アニメ声とよく言われる鈴のような声が、獣のような苦鳴を咆哮する。兵頭の左腕は、20cm
くらいはユリの体内に突っ込んでいた。
 おこりのように、大きく痙攣する白い妖精。
 事実上、最後の2撃が、罠に嵌った美少女武術家へのトドメとなった。
 
 胸と脇腹、二箇所に埋まった拳を悪虐の皇帝は引き抜く。
 グボリ・・・
 窪みから棒を抜く音がふたつ。パクパクと小刻みに開閉する薄い唇から、ドロリとした血糊が
こぼれる。
 半濁した大きな瞳に浮んだ光は、陽炎のように弱くなっていた。
 なだらかに盛り上がった胸の丘を、血で濡れた足が踏みしめる。
 タンクトップの下で、少女の微乳はぐにゃりと潰れて形を変える。
 
 「安心しろ、西条ユリ。ここで貴様を殺しはしない」
 
 柔術の達人である美少女を粉砕し、勝ち誇った総合格闘家が言葉を投げる。
 
 「貴様は生かして連れ帰るよう、言われている。本当の地獄はこれからだ」
 
 ”・・・つれ・・・・・・か・・・え・・・る・・・・・・・?・・・”
 
 霞んだ意識のなか、ユリの脳裏に疑問が浮ぶ。
 総合格闘技ジム”アタック”の総帥は、この兵頭であるはずだ。だが、今の言い方は、まるで
黒幕がいるような・・・
 
 異変が起きたのは、その時だった。
 
 コン、コン
 
 乾いた音が、ふたつ。
 錯覚かと思われた音は、しばらくの間を置いて、今度は間違いなくジムの扉から聞こえてき
た。
 
 コンコン
 
 突然の、訪問者。
 雑居ビルの入り口には、邪魔者が来ないよう見張りを立たせていた。本日の使用不可をジ
ム生には伝えてあるので、リンチに加わる者以外、ここにやってくるわけがない。
 
 「この時間に、新聞勧誘でもあるまいな」
 
 軽いジョークを飛ばした、兵頭の垂れた眼は笑っていない。
 ユリの髪の片方を踏んでいたドレッドヘアーの斎藤が、顎で指示され扉に向う。静寂のなかノ
ブに手をかけた男は、中が見えないよう、カチャリと鉄扉を細く開ける。
 
 「なんだ? いま、取り込み中だ。とっとと帰れ」
 
 喋り終わった瞬間だった。
 巨大な暗黒の魔獣に飲み込まれたように、斎藤の身体が扉の向こうに消える。
 
 「ッッ?!!」
 
 緊張がジム内を瞬時に覆い尽くす。一旦閉まった扉が、間をおかず、今度はゆっくりと開いて
いく。
 
 廊下の奥に、大の字で昏倒した斎藤の姿があった。
 その前。倒れ伏した斎藤を背景に、開いた扉を枠にして、絵画のような美しさで悠然と立ちす
くむ者は。
 
 「西条エリ・・・妹を・・・返してもらいにきました」
 
 罠に陥った美少女武術家と、うりふたつの顔を持つ少女は、律儀にもこれから闘う悪党たち
に、己の名前を告げたのだった。
 
 
 
 ノースリーブのタートルネックは白く、妹に負けない短さのマイクロミニは、白と緑色のチェック
だった。双子らしく、姉妹の衣装にはどこか共通点がある。
 体型も顔も雰囲気も・・・今しがた葬った少女柔術家にそっくりの少女。あえて違いを見つける
ならば、髪形が束ねておらず、セミロングのストレートであることと、唇の右下に黒子があること
ぐらいか。天才柔術家・西条ユリの姉・エリは、外見上、涼しい顔をして一直線に囚われた妹に
向って進む。
 姉と妹。双子の姉妹。そっくりなふたりの、最大の違いは、このあとすぐに明らかになる。
 
 「お前が・・・西条エリか。なるほど、確かにそっくりだ」
 
 兵頭の口ぶりは、明らかにエリを知っている口調であった。
 
 「・・・お・・・ねえ・・・・・・・・・ちゃん・・・・・・」
 
 「ユリ、ひどいじゃない。黙って出ていくなんて・・・私はお父さんに、あなたの世話役を頼まれ
てるのよ。ユリになにかあったら、私が怒られちゃうわ」
 
 壊し屋・葛原修司との闘いで重傷を負ったエリだが、五十嵐家のサポートにより、最高レベル
の医療処置を施され、常人の3倍近いスピードで復活を果たしていた。
 とはいえ、本調子ではないエリは、合宿では専ら留守番などの裏方に徹し、練習自体には参
加していなかった。恒例の海での遊びも、エリはひとりで宿泊施設にいたため、その存在はほ
とんど知られていなかったのだ。だが、今回、兼子らの要望でユリひとりを残すと決まったと
き、父の剛史は万が一に備えて、世話役に指名したエリも残していったのだ。
 なにしろ、ユリ本来の戦闘力を引き出せるのは、世界中で西条エリただひとりなのだから。
 
 「あなたが・・・兵頭さん、ですね・・・」
 
 内気な少女の声は、妹同様、可愛らしさに溢れていた。
 ユリを踏み躙ったまま、冷酷な「皇帝」はニヤリと笑う。残り5人となった配下の男たちが、あ
っという間にセミロングの少女を取り囲む。
 
 「ユリの仇は・・・取らせてもらいます・・・」
 
 「フフン、バカめ。貴様が妹より弱いことは知っている。姉妹まとめて生け捕ってやろう・・・や
れ!」
 
 総帥の合図で、一斉に5人の男たちが、救出に現れた新たな獲物に襲いかかる。
 襲撃者の手が少女に触れた瞬間、風が巻き起こる。妹・ユリを襲ったときと、全く同じ光景が
再度繰り返される。
 だが、その結果は、ユリのときとはまるで違うものだった。
 
 「ぎゃひいいィィィッッ?!!」
 
 最初に飛びかかった男は、脳天から真っ逆さまに落とされて、一撃にして昏倒する。
 次なる襲撃者が、勢いに乗ってパンチを放つ。
 手首を掴んだと見えたエリは、そのまま男の脇をくぐり抜ける。流れるような美しい交錯。
 
 ゴキッ! ボキイッッ! グキグキッ!!
 
 想気流の関節技は、その一瞬のうちに完成を見せていた。
 手首、肘、肩。身体全体を移動させる力を利用し、エリは敵の関節を一気に外してしまってい
た。痛みに叫ぶ男は、やがて許容外の激痛に失神しておとなしくなる。
 次期想気流の後継者であるユリが、20分かかってひとりも仕留められなかった男たちを、エ
リは一瞬にしてふたりも葬ってしまった。
 なぜならエリは、ユリとは違い、出すべき力を出せるから。
 
 「私より・・・確かにユリの方が強いです・・・・・・でも」
 
 「こ・・・この女・・・・・・やれッ! 何をビビッている、やるんだ!」
 
 「あなたたちは・・・私で十分です」
 
 襲いかかる3人の男たちが、次々と宙を舞う。
 想気流柔術・西条剛史の娘、エリ。
 幼少より鍛えられたその腕は、総合格闘技を少々習った程度の街のチンピラの手に負える
ものではなかった。
 
 「エリ姉ちゃん!」
 
 5人目の男を後頭部から落とし、気絶させた瞬間、妹の切迫した叫びが姉の耳に届く。
 反射的に身を逸らせた鼻先を、硬質化した拳が掠める。巻き起こった風で、セミロングがな
びく。
 猛り狂った兵頭英悟の豪腕ラッシュ。
 突然現れた邪魔者に、敵意を剥き出した異形の拳が、今までの相手とは段違いの速度と破
壊力を伴って、若き達人に迫る。それまで苦もなくパンチを打つ手首を捕えていたエリが、唸る
風に脅えるように、ただ逃げるのが精一杯だ。
 
 「エ・・・リ・・・逃げ・・・て・・・・・・そのひとは・・・普通じゃない!」
 
 拘束を解かれたユリが、胸と脇腹を押さえながら呻く。
 散々蹂躙されたユリだからこそ、兵頭英悟の力の正体に気付き始めていた。そして、その予
想が正しければ、兵頭の相手はユリがしなければならなかった。たとえ現状が、姉の方が自分
より強くても。
 
 「!!」
 
 猛攻に下がり続けていたエリの背後に、壁が迫る。追い詰められた、セミロングの少女。
 破壊の拳がアニメの美少女を彷彿とさせる容貌に吸い込まれる。
 
 ”間に―――あった!”
 
 愛くるしいマスクを破壊すると見えた拳は、手応えなく少女の残像をすり抜けていた。
 最小限の動きでストレートをかわしたエリの右手が、凶悪な拳に絡みつく。それまでの攻撃か
ら、軌道と速度を学習したエリの逆襲。
 
 ゴキンッ! ゴキッ! ベキベキィッッ!!
 
 右腕の関節を一気に外され、激痛で飛びあがった兵頭の四角い肉体が、垂直に頭から落ち
ていく。
 落雷に似た轟音が、ジム内を駆け抜ける。
 完璧な手応えを残して、悪虐の限りを尽くした「皇帝」は、一撃で白いマットに沈み、大の字に
なって分厚い肉体を晒す。
 
 「・・・ふぅ」
 
 己が倒した恐怖の支配者をチラリと一瞥し、西条エリは妹へと振り返る。うつ伏せ状態で上
半身を起こした、同じ顔の妹は、不安そうな瞳でこちらを眺めていた。
 
 「・・・ユリ」
 
 大切な妹を安心させるためか、窮地を脱した安堵からか。初めて姉は、爽やかとも儚げとも
映る笑顔をかけがえのない妹に見せる。
 
 「エリ・・・姉ちゃん・・・・・・」
 
 「大丈夫? あまり心配、させないで・・・」
 
 「そのひとは・・・『エデン』の寄生者よ!」
 
 失神したはずの兵頭が、エリの背後に立っている。
 凶悪な殺気。戦慄を察知した柔術少女が、飛燕の速度で振り返る。
 一足、遅かった。確かに関節を外したはずの右腕のフックが、弧を描いて華奢なボディに突
き刺さる。
 
 肉に杭が打ち込まれる、荒々しい轟音。
 
 「ぐはああああアアアああアアッッッ?!!!」
 
 横から内臓を抉られ、大量の涎をぶちまけるエリ。身体の中央まで腕が埋まってしまったか
のような剛打は、明らかに人間の枠を越えている。
 苦悶に歪む柔術少女の顔面に、左のストレートが発射される。
 首を捻って、打撃の威力を逃がすエリ。だが、達人ならではの神懸り的技術も、大砲並の一
撃の前にはちゃちな小細工に過ぎない。
 
 壮絶な打撃音を引き連れながら、口腔から鮮血を噴き出したエリの細身は、矢のようにジム
の空中を一直線に飛んでいく。
 赤い飛沫をマットに降り散らしながら、4mほどを飛んだ姉の身体が、ゴロゴロと転がって妹
が這う近くでようやく止まる。
 
 「お姉ちゃん!!」
 
 泣き声に似た、ユリの叫びを振り千切るように、エリの白い肢体はすっくと立ちあがってい
た。
 右腕で左脇腹を押さえ、左手で唇の端を流れる深紅の線を拭う。愛玩動物のような瞳は、鋭
さを伴って、不敵に笑う凶悪な支配者へと向けられている。
 セミロングの白い妖精は、美しくすらある絶妙な構えを再度取る。
 かよわき一輪の華を思わせた少女の闘志は、いささかも衰えてはいなかった。
 
 「エリ姉ちゃん!! やめて! そのひとはミュータントなのよ。普通の人間では勝てない
わ!」
 
 柔らかいマットの上とはいえ、脳天から落とされても、瞬時に立ちあがってくる兵頭の姿を、ユ
リは見ていた。そして、己の手で、外れた関節を元通りに入れてしまうのも。
 そのタフネス、痛みへの耐性は、明らかに人間の範疇を越えている。守備力だけではない、
一撃で肉体を滅ぼしてしまいそうな打撃力も。ユリが知る限り、この超人的能力の秘密は、あ
る宇宙生物の力を借りたと考えるのが、もっとも適切な答えであった。
 
 「フフン・・・よくぞ見破ったな、西条ユリ。いや・・・」
 
 歯を剥き出して微笑む兵頭英悟の眼が、緑色に光る。
 
 「ファントムガール・ユリア」
 
 美少女姉妹の愛くるしいマスクに、一様に衝撃の色が浮ぶ。
 トップシークレット中のシークレット、裏で繋がっている防衛庁の幹部ですら、その正体を知る
者はわずかだというのに、伊豆という限られた地域でお山の大将を気取っているこの男が、な
ぜこの重大な秘密を知っているのか?!
 もっといえば、関東地方近郊でファントムガールが現れたことすらないのだ。恐らく、実物の
ユリアを見たことがないであろう兵頭英悟が、関東では落ちた形跡がない「エデン」を有し、さら
にユリの正体を知っているとなると・・・あまりに危険な香がする。
 
 「な・・・なぜそれを・・・?」
 
 状況から、ハッタリをかましているのではないことは確実であった。誤魔化す必要性を感じな
かったユリは、すんなりと己の正体を認めて逆に尋ねる。
 
 「それは・・・地獄に落ちる貴様には、どうでもいいことだ!」
 
 兵頭の四角い肉体が、超低空姿勢で、いまだマットに這ったままのユリに突撃する。
 地上10cmほどの高度を維持して弾丸となって突っ込んでいく総合格闘家。地面すれすれで
滑走していくその突撃は、脅威的な腹筋と背筋に支えられた、異能者のタックルだった。10m
の距離を、四角い弾丸が2秒で縮める。
 
 「妹には・・・手を出させません!」
 
 ユリの目前まで迫った肉の弾丸は、不意に方向転換して宙を一回転する。
 一体、どんな魔術か。横から手を出したエリが突進する兵頭に触れるや、見えないジェットコ
ースターの線路に沿うように、悪の「皇帝」は空を旋回する。
 
 「想気流柔術奥義・青嵐!!」
 
 グオオオオオオッッッ!!!
 
 体重90kg近い分厚い肉体が、華奢な少女の手によって、空中で独楽のようにぐるぐると回
転する。
 まるで、旋風。竜巻。
 万有引力の法則から除外されているのか。ゴツイ肉体は細身の少女によってねずみ花火の
勢いで旋回し、十分な加速度をつけられたうえで後頭部からマットに叩きつけられる。
 
 衝撃で、エリの足元が揺らぐ。
 
 完璧な手応えが、エリの白魚の指には伝わってきていた。
 物心ついた折から、大人たちに混ざって柔術の稽古に明け暮れた美少女の経験が、敵は二
度と立ち上がってこないと囁く。もろに延髄を打ち、兵頭は吐き気と眩暈に溺れているはずだっ
た。人間の生体構造からして、鋼の筋肉に覆われていようが、無尽蔵の体力を秘めていよう
が、それは避けられない事態なのだ。
 「エデン」の融合者といえ、不死身ではない。大の字でぶっ倒れた「皇帝」は、虚ろな視線をさ
まよわせてピクリとも動かず横臥する。
 
 「エリ・・・・・・」
 
 脇腹と胸を押さえたまま、絵に描いたような美少女はゆっくりと立ちあがる。構えを解かない
姉に向ってよろよろと近付いたユリは、眉根を寄せた複雑な表情を見せている。
 
 「来ないで、ユリ。このひとは・・・また立ちあがってくるわ」
 
 試合ならば、明らかに勝負がついた状況。
 だが、ユリの正体を知る、油断ならない総合格闘技からの刺客が、いまだ致命傷を負っては
おらず、戦意も失ってはいないことは双子の姉妹ともに悟っていた。しかし、倒れている相手に
攻撃することは、ふたりが知る想気流の理念には反する。父の剛史ならば平気で顔を踏みつ
けたかもしれぬが、少女であるふたりに父はそのような教えをしなかった。
 “立ちあがってくる敵は、また投げればよい”
 教えを遵守する少女柔術家は、支配欲に囚われた化け物に対しても、あくまで武道の心で迎
え撃つ。
 
 「エリ姉ちゃん、私に・・・私に“許可”をだして! このひとは私が相手する」
 
 「・・・ううん。私が闘うわ」
 
 「ダメだよ! 『エデン』の寄生者が普通でないのは、エリもよく知ってるでしょう?! しかも
ユリアの正体を知ってるんだよ。私を狙ったのは、絶対になにか裏があるんだよ!」
 
 「ユリ、見くびらないでよね。今のあなたよりは、私の方が強い自信はある。たまには姉らしい
ことさせてよ」
 
 桜色の唇を、セミロングの少女は少し歪ませる。爽やかな笑顔になるはずだったが、びっしょ
りと浮いた汗がエリの真実を妹に教えていた。
 兵頭に食らった一撃。
 脇腹を抉った豪打が、毅然とした立ち姿を披露する少女を、壮絶な激痛で絡めとっている。
 エリの体調は完全に戻っている。壊し屋葛原に粉砕されたアバラも、元通りになっているの
は間違いない。
 だが、地獄の記憶が柔術少女を苦しめているのだ。
 蛇とのキメラ・ミュータントである葛原は、執拗かつ無慈悲にエリの肉体を文字通りミンチ寸
前まで破壊し尽くした。砕かれた肋骨は内臓に突き刺さり、細い腰は千切れそうなまでに捻ら
れた。失神も許されぬ悶絶苦に、エリは肉体も精神も廃人にされかけたのだ。
 兵頭の破壊の拳は、一発で柔術少女に悪夢を思い出させるには十分だった。
 姉妹のダメージは傍目から見る分には明らかに違いがある。しかし、颯爽と見えるエリの肉
体も、決して万全ではないのだ。
 
 「そのひとのタックルは、普通じゃかわせないよ! お願い、エリ! 私に“許可”をだして!」
 
 内気で双子の姉以外には喋るのも苦手な武道少女が、必死の思いを露わに叫ぶ。
 葛原との闘いのあと、後悔の爪跡はむしろユリの方に残っていた。妹を守るため、姉は無謀
な闘いを挑み、散ったのだ。かけがえのない姉妹を「エデン」寄生者との闘いに二度と巻き込
まぬよう、若き達人は肉体のダメージも省みず矢面に立とうとする。
 しかし、肉親を想う気持ちは、姉も妹に引けを取らない。
 
 「満足に構えも取れないひとを、闘わせるわけないでしょう」
 
 ピクリ
 横たわる巨体の指が動く。
 互いをかばおうとする姉妹の目前で、ゆっくりと「皇帝」兵頭英悟の分厚い肉体が立ちあが
る。真っ直ぐに正面を見据えた垂れがちな眼に、憤怒の青い炎が燃えあがっている。危険で獰
猛な、猛獣の眼光。
 破壊を悦び、支配を生き甲斐とする「エデン」寄生者の復活。
 やはり奥義を持ってしても、強靭な「エデン」融合者を葬るには至らなかったのだ。怒りに震え
る肉体が、姉妹抹殺への決意を秘めて振り返る。
 
 「ふざけたメスがッ!! 殴り殺してくれるッ!!」
 
 床を踏みしめる、強い音。
 爆発音を引き連れて、総合格闘家の超低空弾丸タックルが、今度はセミロングの少女に向
って放たれる。
 復讐を誓った「皇帝」の獲物は、宴の邪魔に入った姉へと変更されていた。宇宙生命体より
授かった運動能力と、独自の訓練で鍛えた格闘能力。戦闘のための全ての能力を全開にした
破壊者が、獣の牙を華奢な少女に突き立てんとする。
 
 速い。まさしく弾丸。
 通常、タックルに対しては身体を入れ替えて捌くのが想気流の基本対処法である。飛び込ん
でくる攻撃に対しては、身体を開いて半歩中心をずらすだけで、攻撃の効果を半減させること
ができるのだ。正面からタックルを食らうから倒れるのであって、横向きで食らえば足の踏ん張
りで、十分倒されずに済むのである。
 だが、極限にまで速められた兵頭のタックルは、捌く余裕を与えない。
 
 グシャアアアッッッ!!!
 
 鈍い音がジムに響き渡る。赤い飛沫が空を舞う。
 エリの白い膝は、突っ込んできた兵頭の顔面に、文字通り突き刺さっていた。
 タックル封じの最大の有効技。それがこのカウンターの膝蹴りだった。
 相手がタックルにくるとわかっていれば、タイミングが取りづらそうに見えるこの技も、決して
難しいものではない。組み技中心の想気流とはいえ、西条姉妹のレベルともなればその練習
はきちんと取り入れられていた。
 人外の速度、肉厚な重量・・・鍛えられた肉体が生んだ衝撃は、兵頭自身に撥ね返り、鼻骨
の粉砕と脳震盪とを引き起こす。
 が。
 
 「あッッ?!」
 
 白く細いエリの胴体に絡んだ丸太の腕が、可憐な水仙を薙ぎ倒す。
 カウンターの膝は鮮やかに決まっている。しかし、破壊衝動に狩られた男の執念が、強引に
少女柔術家をマットに這わせたのだ。
 愛らしい武道家の上に乗る、頑強な肉体。
 総合格闘家にとって、圧倒的優位な態勢。だが、関節を取れる状況ならば、想気流の天才
姉妹たちなら十分反撃可能であることは、昼間の砂浜での闘いが実証済みだ。
 総合格闘技ジム“アタック”の首領は――しっかりと、獲物の実力を配下の者から学習してい
た。
 
 「はんんああアアあッッッ――――ッッッ?!!」
 
 甲高い絶叫が、人形のごとき美少女の口を割る。
 少女柔術家の上に跨った破壊者の左手は、未発達なエリの右胸を無造作に鷲掴み、ゼリー
のように握り潰していた。
 
 「ああウウアアアあああッッッ!!!・・・くああああアアッッ――ッッ!!」
 
 小山のような白い膨らみが、千切り取られんばかりに握られたまま引っ張られる。
 予想だにせぬ苦痛に、あられもない苦鳴を漏らすエリ。猛獣に噛みつかれているのと同意の
嗜虐に、キュートなマスクがぐしゃぐしゃに歪む。
 激痛に意識を奪われ、無防備になった肉体に、異形の拳が襲いかかる。
 先程と同じ、左の脇腹に埋まる豪腕。
 ドボオオオオオッッッ!!! 
 肉に穴が開く、無惨な響きがジムいっぱいに轟く。
 
 「ぐぼおおおおおオオオオオッッッ――――ッッッ!!!!」
 
 絶叫とともに、ビチャリと血塊がエリの口から溢れる。
 白濁した瞳を見開き、哀れな妖精がブルブルと痙攣する。
 いわば弱点ともいうべき脇腹に、鉄杭を埋め込まれたも同然の若き柔術少女。
 記憶と現実、ふたつの凄絶な苦痛に襲われ、可憐な闘少女が悶絶地獄へ落ちていく。エリの
意識にあるのは、もはや巨大な苦しみのみ。
 
 「フンッ! このオレを投げた罪、存分に償ってもらうぞ、西条エリ!」
 
 肋骨の下からめり込ませた異形の拳を、兵頭英悟はぐうりぐうりと掻き回す。
 か細いエリの内臓が、ぐちゃぐちゃと乱暴にこねくり回され、凄惨な激痛と圧迫がセミロング
の頭頂に突き刺さる。
 
 「ごぱああアアアァァッッああああッッッ!!!! くふぇええあああアアアッッッ?!!! げ
ぼオオオおおおッッッ――ッッッ!!!」
 
 ゴボオッッ!! ゴボオッッ!! ゴボオッッ!!
 
 グリグリと太い腕が体内を掻き回すたびに、エリの潤んだ唇から血塊がこぼれる。少女の童
顔は鮮血で深紅に塗られていた。ぐるりと白目を剥いたエリは、ピクピクと悶絶に震えながら、
ただ耳を塞ぎたくなる悲鳴をあげるのみ。
 妹を守るため、果敢に巨悪に立ち向かった柔術少女。
 しかし、冷酷な現実は、圧倒的な力の差を少女に叩き込んで、被虐の果てに葬ろうというの
か。
 
 「エッッ・・・エリィィィッッ――ッッッ!!!」
 
 姉の窮地にたまらず飛び込む手負いの妹。
 だが、無策に飛び込んできたユリの顎を、狙いすました「皇帝」の裏拳が砕く。
 手の甲、拳の頭で急所を的確に打つのが裏拳の本道。
 鋼鉄のごとく鍛えられ、ダイヤが埋まったように盛り上がった兵頭の裏拳は、金属製の凶器
で殴られるようなもの。
 ダメージの残るユリの肢体が、もんどりうって卒倒する。
 うつ伏せに倒れた幼き武道少女。脆弱そうな華奢な背中に、破壊欲に狩られた猛獣の拳
が、足が、容赦なく殴りつける。踏みつける。
 
 後頭部を蹴り飛ばす。脊椎を穿つ。腰骨を踏みつける。首に膝を落とす。肉の薄い部分を拳
で抉る。
 どれもが格闘技の試合なら反則とされそうな危険な打撃。死に至らしめるための蹂躙が、
弱々しくさえあるモデル体型の少女をすり潰していく。嵐のような打撃に、うつ伏せのまま壊さ
れていくユリ。痣と血に汚れた白い指が、助けを求めるように虚空をさまよう。
 
 “・・・・・・エ・・・・・・リ・・・・・・・・・”
 
 「ほらほらアアッッ――ッッ!! どうした、ファントムガール・ユリアッ?! 姉ともども、ボロ
きれにしてくれるぜッッ!!」
 
 “・・・許可・・・・・・を・・・・・・・・おね・・・が・・・・・・い・・・・・・・”
 
 「待って・・・ください・・・・・・」
 
 背後からかけられた声に、蹂躙の嵐が止む。
 振り返った兵頭英悟の視界に飛び込んできたのは、とっくに戦闘不能になったとばかり思っ
ていた、セミロングの少女だった。
 
 「あなたの・・・相手は・・・・・・私です・・・・・・妹には・・・手を・・・出させません・・・」
 
 喋るたびにドロリとした血が、唇の端からマットに落ちていく。
 己のスレンダーなボディを抱き締めるように、西条エリは両腕で腹部を押さえていた。体重を
支えた内股が、ガクガクと震えている。唇の右下にある黒子と、朱に染まった容貌が、幼さに
溢れた少女を妖艶のスパイスで彩っている。
 普段のユリでは、見せることのできない鋭い視線。エリだからこそ見せうる視線。
 本来大人しい少女が見せるその視線は、闘う者の視線であった。妹を庇うためだけではな
く、兵頭を倒す決意に満ちた眼光。瞳の真意を感じ取った闇の「皇帝」が、ぐったりと平伏す妹
を無視して、勇敢な少女闘士に正対する。
 
 「貴様・・・まだ動けたのか・・・」
 
 「・・・ユリと・・・闘うのは・・・・・・私を倒してから、です・・・」
 
 強い光を放つ大きな瞳に、兵頭英悟は触発される己に気付いた。
 なるほど、どうあっても、妹の身を守るつもりか。
 ならば、その想いごと砕いてしまうのもまた一興―――
 
 「バカが。タックルを防げぬ貴様に、勝機はない!」
 
 四角い肉体が、疾走する。
 地を這うような超低空の弾丸タックルが、再び白百合に撃ち込まれる。
 カウンターでは仕留めきれぬ。逃げるにも、タイミングが早ければ追いつかれ、ギリギリまで
引きつければ間に合わない。
 まるで研ぎ澄まされた総合格闘技に対し、源流を頑なに守る想気流柔術の限界を知らされる
がごとく窮地。
 近代格闘技の技術の前に、成す術なく古流柔術は敗れ去ってしまうのか。
 
 砲弾と化した肉体が、目前2mまでに迫る。
 エリの白い足が動く。膝か? 先程痛い目を見た反撃法を、再度試みるつもりか?
 コンマ数秒でタックルが届く距離。
 その瞬間、西条エリの肢体は、前方に突撃した。
 
 「ッッッ?!!」
 
 高々と空中を舞うのは、兵頭英悟の分厚い肉体。
 低空で飛んでくるタックルに対し、柔術少女は兵頭よりさらに低い姿勢でその足元に飛び込
んだのだ。
 これぞ、エリの編み出したタックル防御法。
 巨大な石につまずいた格好となった兵頭の巨体が、勢い余って空を飛ぶ。予想外の出来事
に、動転した闇の「皇帝」は、まな板の上の鯉状態で手足をバタつかせ、宙を泳ぐ。
 
 「これで」
 
 叫び掛けた兵頭の顎が、何者かに閉じられる。
 伊豆に君臨する暴君は見た。己の顎を掴み、空中にある肉体をコントロールする者の顔を。
 セミロングの下に、愛らしいマスク。
 そして、紛れもない武道家の瞳と、かすかな色気を仄めかす黒子。
 
 「・・・終わり、です」
 
 顎を掴んだ西条エリの右手が、真っ逆さまに兵頭英悟の脳天を叩きつける。
 鈍重な響きがジムを駆け抜け、死闘終了の合図がこだました。
 累々たる負傷者の山のなか、最後に咲いていたのは、セミロングの、一輪の白百合だった。
 
 
 
 「果たして、彼は勝てますかね?」
 
 『総合格闘技ジム アタック』の看板が掲げられた、3階建ての雑居ビル。
 すっかり陽が落ち、薄闇に包まれかけた世界で、ひとりの男がビルの最上階を見上げながら
問い掛ける。
 
 「・・・・・・さあ」
 
 しばしの無言のあと、もうひとりの男は興味なさげに答えた。
 暗く沈んだ声だった。
 たとえるならそう、冥府の底から届いてくるような・・・
 
 「どちらでもいいことですがね。なにしろ、本当のお楽しみはこれからですから・・・」
 
 心底嬉しそうに、肩を揺らして笑う。
 対照的に、もうひとりの男は、凍ったような表情をいつまでも崩さなかった。
 夕闇のなか、血走った眼光が、これから起こる煉獄を予兆するかのごとく輝いていた。
 
 
 
 「大丈夫、ユリ?」
 
 腫れあがった妹を胸に抱え、死闘を終えた姉が囁き掛ける。
 瞳をつぶったまま、髪を束ねた少女はコクリと頷いた。
 
 「・・・ごめん・・・お姉ちゃん・・・」
 
 「なんで、謝るの?」
 
 「・・・迷惑、かけちゃった・・・・・・」
 
 自分よりさらに輪をかけて大人しい妹が、誰よりも責任感が強いことをエリは知っていた。
 だからたとえ本気が出せない状態でも、恐ろしい強敵が相手でも、ファントムガール・ユリア
は闘いの場に現れる。一度は殺される悲劇にあいながらも・・・武道家の娘として生まれた少
女は、誰かが困っているのを助けるために、死地に向い続けるのだ。それが己に与えられた
役目だと言わんばかりに。
 そのユリを、ただひとり、本気にさせることができるからこそ、エリは大切な妹を守りたかっ
た。
 ひとりでは実力を出しきれない悲運の戦士ユリを。そしてそれ故、エリが苦悩を抱え込んでい
ることを、恐らく知らないであろうユリを。
 
 「ううん・・・これで・・・良かったのよ」
 
 「・・・え?」
 
 開き掛けたエリの唇が閉じる。
 横臥した兵頭英悟の身体が、黒い粒子となって霧散していく。
 『エデン』寄生者の真の能力、巨大化。
 真っ向から格闘に敗れた破壊者が、ついになりふり構わず強行な姿勢で臨んでくるのだ。
 そしてそれは、新たな闘いの始まり―――
 
 「キュオオオオオオオッッッ―――ッッッ!!!」
 
 甲高い咆哮が窓の外から飛び込んできたのは、次の瞬間だった。
 突如現れた巨大生物に、緊急サイレンが鳴り響く。のどかな湯の町は、一瞬にして正邪の決
戦の場へと姿を変える。沸き起こった騒然とした空気が、ジム内の美少女姉妹にも伝わってく
る。
 
 もう・・・・・・私では、どうにもならないのね・・・・・・
 
 「エリ! 私・・・闘う」
 
 「・・・そうだね・・・・・・ユリに任せるしか、ないよね」
 
 コクリと頷く、おさげの少女。
 同じ頷きでも、先程とは違い勢いのあるそれは、ハンデを乗り越え、身を挺して守ってくれた
姉に報いる、嬉しさのせいであったか。
 
 「エリ・・・私に・・・“許可”を・・・・・・」
 
 深く呼吸をしたエリは、力強く、温かい口調で愛する妹に言葉を送る。
 
 「ユリ! ううん、ファントムガール・ユリア! あいつを・・・やっつけてきなさい!」
 
 ドクン!
 
 くるみに似た大きな瞳が、カッと見開かれる。
 風が舞い踊る。つい先程までぐったりと横たわっていたユリの肢体が、力強い二本足で立っ
ている。
 襟足で結んだ黒髪が、ピリピリと気を発し、浮かんでいるかの錯覚を起こす。エリが見せた闘
士の視線。いや、それを上回る強い視線が、白い妖精を戦士に変える。
 少女闘士・西条ユリ。その真の姿の完成。
 
 「エリ」
 
 愛しい姉の名を、闘う少女は呼ぶ。溢れる闘気が光となって、全身を包んでいるかのようだ。
 
 「あなたを傷つけた敵を・・・滅ぼしてくるわ」
 
 少女が光の粒子となって消える。
 銀色の肌に黄色の紋様。ふたつに束ねたグリーンの髪を持つ女神。
 ファントムガール・ユリアの神々しき勇姿が、いま伊豆の海岸近くに、邪悪を滅ぼすため降臨
した―――
 
 
 
 3
 
 「キュオオオオオオオッッッ―――ッッッ!!!」
 
 怪鳥を思わせる甲高い鳴き声が、観光地の紫色の天を裂く。
 巨大生物の存在も、迎え撃つ正義の女神が存在することも、逃げ惑う人々は知っている。テ
レビでも、新聞でも、ネットでも、あらゆるメディアが伝えている彼らの姿を、関東地方の人々が
実際に目の当たりにするのは、これが初めてのことになる。
 
 美しかった。
 もしこれが神の姿と言われれば、納得してしまいそうな美しさ。銀色の光沢に包まれた皮膚
と、スラリと伸びた全身とが、見守る人々を幻想の地へと誘う。長い手足は日本人ではお目に
かかれない優美さを醸し、うっすらと盛り上がった胸の丘陵は逆にスタイルを際立たせ、仄か
なエロティシズムを漂わせる。マスクが人形のような童顔であることと、女子中学生のようなふ
たつ縛りの髪型とが、幼さを存分にアピールしているだけに、美しい体型はよけいに強調され
ている。
 緑の髪と、ビキニの水着にも見える黄色の模様。
 全体の銀色と青い瞳。明らかに人間ではないその姿は、不可思議なほど、人間らしさに溢れ
ていた。
 
 新ファントムガール、あるいは黄色のファントムガールと呼ばれている守護天使。
 その可憐で、優美で、儚げで、どこかぎこちない色気を隠した少女戦士の降臨に、避難する
人々の口から、現状を忘れた嘆息が洩れ出る。
 
 そして、もうひとつの巨大な影が人々から搾り取ったもの。
 それは恐怖に引き攣る悲鳴であった。
 赤茶色の岩石が合体してできたような、質感のある体躯。
 闇の中で光を照り返す体表には、オイルを塗りたくったようなヌメリが覆っている。横に広い
体型は、亀が二本足で立ったような、とでも表現するのが適当だろうか。鋭い牙の生え揃った
口と緑に光る巨大な眼とが、禍禍しさを増幅する。
 だが、この巨大生物の最大の特徴は、腕と背中にあった。
 筋肉の塊がくっついてできた腕。問題はその先、三本しかない指にあった。
 指というのは、正しくはない。鋏だ。
 蟹を思わす巨大な鋏。だが蟹とは違い、鋏の上にあたる爪は下より遥かに大きく、しかもふ
たつあった。短剣かサバイバルナイフを2本、くっつけているようなものだ。
 
 そしてもうひとつの特徴、背中には、誰もがそれとわかる巨大な白い巻貝の貝殻が背負われ
ている。
 キメラ・ミュータントという言葉は知らない人々も、巨大生物がなんの化身であるかはすぐに
わかったことであろう。
 暴虐に魅入られた男・兵頭英悟と、ヤドカリのキメラ・ミュータント。
 破壊欲にギラついた緑の眼光が、スレンダーな少女戦士を真っ直ぐに見据えている。
 
 「その姿・・・完全に・・・負のエネルギーに捕らわれてしまったようですね・・・」
 
 「フフンッ!! ほざくな、ファントムガール・ユリア! もう貴様を助ける者はいないのだ
ぞ!」
 
 異形の怪物が言葉を発していることに、細い観光地の路地を駆け逃げていく人々は戦慄を
覚える。理由のない、原始的な恐怖だった。そして同時に、黄色のファントムガールがユリアと
いう名前であることも、記憶の一部に留める。
 
 「貴様を始末した後、ゆっくり姉をミンチにしてくれる!」
 
 「・・・させないです」
 
 黄色の妖精が、舞うように構えを取る。
 言葉や仕草はまるで変わらないのに、吹きつける圧倒的な戦意が、武道少女が本物の戦士
になったことを教える。仮にも格闘家を名乗る兵頭英悟が、より闘争心のあがった変身後の姿
で、少女戦士の本気に気付かぬわけはない。両者の闘志はとっくに全開モードに入っている。
 
 山地に囲まれたわずかな盆地で、50mに達する闘少女と異形の怪物とが対峙する。伊豆
の、ほとんど平野のない手狭な地形が、お誂え向けの決闘場を生み出していた。ぐるりと深緑
の山に囲まれ、1vs1で向き合う姿は、金網のなかで闘う格闘者と酷似している。
 「エデン」寄生者が巨大化するとき、その出現する場所は、ある程度コントロールができる。
兵頭英悟が街の中心からはやや隔離されたこの場所にミュータントとして現れたのは、己のジ
ムを戦闘に巻き込みたくない配慮と、何者にも邪魔されずに闘いたい格闘者の性ゆえだった
か。
 
 「『シェル』と呼んでもらおうか。貴様が最後に聞く名だ、よく覚えておくがいい」
 
 「私は・・・負けません」
 
 「ほざくな! 小娘が!」
 
 凶悪な三叉の鋏がパカリと開く。
 オレンジの怪光線が、予告もなしに発射される。
 極太の二条の熱線。スレンダーな銀の女神は横に飛んで、危機を回避する。
 西条ユリも兵頭も、生身の状態で深いダメージを負っている。自然、両者は短期決戦を狙っ
ていた。
 華麗なまでに鮮やかに横回転したユリアの身体は、一気に立ちあがり逆襲に転じる。
 長い両手が十字に組まれ、白い光を充満させていく。
 
 「スペシウム光線!」
 
 レンタルビデオで見た特撮番組から拝借した、ファントムガール・ユリアの光線技。
 見よう見真似で体得した技も、闇のエネルギーに満ちたミュータントには、十分な効力を発揮
するはずだった。
 
 「小癪な」
 
 不敵に吐き捨てたヤドカリのキメラ・ミュータントが、ピクリと全身を震わす。
 その変形は、まさしく一瞬のうちに行われた。
 岩のような筋肉で覆われた赤茶色の身体が、吸い込まれるように背中の貝殻に入っていく。
 正義の白光は巨大な貝殻に直撃するや、焦げ跡すら残さずバチバチと弾け飛んだ。
 
 「破邪嚆矢!」
 
 黄色に発光する両手を頭上で重ねたユリアが、間髪入れずに必殺技の態勢に入る。
 シェルの禍禍しい姿をひとめ見た時から、少女戦士には背中の貝殻が高い防御力を保持し
ているであろう予測はついていた。心構えが完了していた武道天使は、慌てることなく最大威
力の光矢を狙う。
 右腕を引く。両手を結んだ黄色の光が一直線にかかり、聖なる矢が完成する。前方に差し出
した左手の先には、置物のように大地に坐している巨大な白い巻貝。
 幼少より訓練に明け暮れた柔術。その一部として習った弓道の腕は、にわか仕込みのスペ
シウム光線とはわけが違う。
 
 “これなら・・・どう?!”
 
 動かぬ標的に、轟音を伴って光の矢が発射される。
 
 ドンンンンッッッ!!!
 
 凛とした立ち振る舞いから放たれる、一筋の光。
 正義の嚆矢は、貝の中心に突き刺さるや、パリンという乾いた音を残して砕け散った。
 
 「そ・・・そんなッッ?!!」
 
 愕然とするユリアの肢体が、不測の事態に驚き揺れる。
 聖なるエネルギーを凝縮し、矢という力の加えやすい形状に込めた破邪嚆矢は、ユリアが放
つ技のなかでは飛び抜けて威力の高い、文字通りの必殺技なのだ。それがこうも容易く、しか
も完全に力負けして敗れるなんて・・・
 
 「フハハハ! 痛くも痒くもないわ! 今度はこちらの番だな」
 
 貝の中からゴツゴツとした筋肉質な肉体が一瞬で吐き出される。
 2本足で立ったヤドカリの怪物・シェルは、力の差を叩きつけるように大音響で笑い飛ばす
や、重々しい外見を裏切る速度で、動揺する黄色の妖精に突進する。
 鈍器と化した三本爪の鋏が、ユリアの青い瞳に映る。
 互いの攻撃が届く射程距離内に、巨大なヤドカリが突入する。振りかぶる、凶悪な右腕。必
殺技を完全に打ち破られ、衝撃に打ちのめされた天才柔術少女の反応は、わずかに遅れてし
まった。
 
 フック気味に殴りかかってくる鋼鉄の右腕。
 兵頭の打撃は、すでにユリは把握済みだ。咄嗟の反応で鋭い鋏を捕えにいく。
 不意にヌメリ光る赤茶の肉体は、ユリアの視界から消失した。
 打撃は囮。本当の狙いは・・・タックル。
 瞬時に巻貝へと変態したシェルの巨体が、地を這って華奢な足元に襲いかかる。
 総合格闘家とヤドカリのキメラ。それは単なる偶然ではない、互いの長所を駆け合わせた、
強者を創り出すための合体。
 高層ビルを豆腐のように貫く破邪嚆矢を、粉々に砕いた頑強な渦巻き貝殻が、総合格闘家
のスピードとタイミングに乗って、ギュルギュルと回転しながら飛び込んでくる。
 
 モデルのような長く伸びた両足がズタズタに切り裂かれる・・・ひとやま越えた避難地から、正
邪の戦闘を見守る人々が無惨な光景を覚悟したとき、銀の妖精は夏の夜空に高く舞いあがっ
ていた。
 打撃のフェイント。超速度と、完全なタイミングによる凶器のタックル。常人ならまともに浴び
ずにいられない格闘コンボをかろうじてかわしたのは、天才と呼ばれる少女武道家ならではの
神業。貝殻のドリルにかすった左足のブーツが破れ、つま先から血の霧が糸をひく。
 だが、さすがのユリアも直撃を避け、真上に飛翔するまでが精一杯であった。
 飛行能力を持たない銀と黄色の妖精が、重力に引かれて落下する。
 下に待つのは、唸りながら猛スピードで回転する白いドリル。
 懸命に肢体を捻る少女戦士の太股が、非情にも尖った貝殻の先に落ちていく。
 
 「きゃあああああああッッッ―――ッッッ?!!」
 
 ブシュウウウウウッッッ――ッッ!!!
 鈴のような少女の悲鳴と、血霞みが噴き上がる。
 辛うじて串刺しを免れたファントムガール・ユリアの左の太股が、貝に抉られて外側の肉を削
り取られている。
 ゴロゴロと転がり距離を取る武道天使。左足を押さえたまま、脳天まで痺れるような鋭利な痛
みに大地をもんどりうつ。伊豆の山間を揺らしながら、転がり悶える巨大少女。神聖な銀の肌
は、みるみるうちに茶色に汚れていく。押さえた左足は深紅に染まり、黄色の指の隙間からプ
シューと勢いよく血泉が吹き出る。
 
 純粋に格闘家としての闘いならば、すでに西条ユリと兵頭英悟の間では決着はついていると
いってもいい。打撃も組み技も、兵頭の攻撃はユリにはもう通用しないだろう。まして“許可”を
得た今のユリは、一撃で兵頭を仕留めることが可能なのだ。
 だが、ファントムガール・ユリアとシェルの闘いとなれば、情勢は大きく異なってくる。ヤドカリ
の能力と、ひとを破壊することに悦びを感じる兵頭の暗黒面とが、更なる強大な力を闇の「皇
帝」に与えていた。
 
 「ああアッッ?!! あッ・・・足がッッ・・・ああアアッッ――ッッ!!」
 
 「キュオオオオオッッッ―――ッッッ!!! どうした、その程度で闘えないのかッ?! 天才
柔術家も口ほどにもないな」
 
 「くうぅぅッッ・・・んああアアッッ・・・・・・」
 
 太股の肉を抉られた痛みに悶えるユリア。
 串刺しは免れたとはいえ、左足の大腿四頭筋にあたる部分を削がれてしまった傷口は、深く
痛々しい。朱色の内肉を覗かすほどの傷は、年端のいかぬ少女には相当な苦痛であるはず
だ。
 思わず四つん這いになり、可憐な妖精は逃げるように敵に背を向ける。
 
 「バカがッ! 死ねッ、ファントムガール・ユリア!」
 
 よろよろと這う無防備な背中に、カサにかかったシェルの破壊光線が照射される。
 三本指の鋏から放たれた極太のオレンジ熱線は、土に汚れたユリアの背中を直撃し、バチ
バチと音をたてて焼いた。
 
 「うあああああああッッッ――――ッッッ!!!!」
 
 折れ曲がらんばかりに反りあがる、武道天使のか細い肢体。
 二条の光線が、ピクピクと震える銀と黄色の背中を焼き続ける。
 焼きゴテでも押しつけられたかのような熱さに、逃げることすらできずユリアは叫び続ける。
いっそ倒れてしまえば熱線を逃れられるはずなのに、ジュウジュウと皮膚を焦がす苦しみが筋
肉を硬直させ、少女戦士の自由を奪ってしまっていた。オレンジの熱光線を浴びれば浴びるほ
ど、あどけない守護天使は自分自身で背骨を反り曲がらせていく。
 
 「くああ・あ・あ・アアッッ・・・きゃあああああッッッ―――ッッッ!!!」
 
 「どうしたどうした?! 負けないのじゃなかったのか?!」
 
 「うううぅぅッッ!!・・・・・・んあああああッッッ―――ッッッ!!!」
 
 「所詮、小娘などオレの敵ではないわ! フフンッ、いい臭いがしてきたぞ。これはユリアが焼
き肉になる臭いだな!」
 
 嘲るシェルに対して、武道天使はただ痙攣しながら絶叫することしか許されない。
 不意にオレンジの照射が止む。
 ぐったりと前のめりに倒れこむユリア。地響きが住民が避難したあとの宿泊地にまで届いてく
る。簡単に壊れてしまいそうな細い背中の中央には、炭化した黒色と過熱による赤色とが巨大
な円を描いている。神々しい銀の皮膚は焼け爛れ、ブスブスと白煙が立ち昇る。タイヤを焼い
たような悪臭が、周囲一帯に充満し始めていた。
 
 「ううッッ・・・くうぅぅッッ・・・・・・あ・あアアッッ!!・・・・・・」
 
 消えない闘志を青い瞳に滾らせて、可憐な少女戦士は四肢を震わせながら立とうとする。
 トランスフォームした後のダメージは、変身解除すれば数十分の一に軽減されるとはいえ、
今現在ユリアが感じている苦痛は相応のものだ。ましてこの闘いの前に、西条ユリは執拗なリ
ンチにより激しく消耗させられていた。いかに姉の“許可”を得たとはいえ、体力が回復するわ
けではない。武道少女の限界はすぐ近くにまで迫っていた。
 それでも懸命に闘おうとする少女戦士。
 満足にいうことを聞かぬ身体を無理矢理動かし、うつ伏せに倒れた肢体を四つん這いの態
勢にまで持っていく。
 
 すぐ背後に、赤茶色の処刑者は待機していた。
 震えながらなんとか四つん這いになったユリアを、もがく蝶を見る蜘蛛の眼で冷ややかに見
下ろす。
 天才柔術家の実力を肌で知る男は、到来したチャンスを逃さぬよう、一気に銀色の妖精を破
壊しにかかる。
 
 グワシャアアッッ!!
 
 ヤドカリの左鋏がユリアの左腕を挟み、右鋏が右の脇腹に食らいつく。
 
 「んんああッッッ!!!! うああああああッッッッ――――ッッッ!!!!」
 
 「フハハハハ! 貴様は終わりだ、ユリア!」
 
 破れた銀の皮膚から、鮮血が迸る。
 巨大な鋏を左腕と右脇腹に食い込ませた無惨な姿の守護天使が、満天下に見せつけられる
ように高々と掲げられる。ブンブンと首を振るたび、ユリアの緑色のおさげが切ないまでに揺れ
る。
 
 ベキベキベキッッ!!! ボキッ! グチャメチャバキバキッッ!!
 
 骨と肉と皮膚と筋肉組織を磨り潰す、壮絶な破壊音が夜の盆地に流れていく。
 
 「うぎゃああああああッッッ――――ッッッッ!!!! やめてぇぇぇッッッ〜〜〜〜ッッ
ッ!!!! う、腕がアアああッッッ―――ッッ!! もッ、もげちゃいますぅぅぅッッッ〜〜〜ッ
ッッ!!!! わッ、脇腹があああァァッッ〜〜〜ッッッ!!! くうううぅぅッッ、苦しいいィィィッ
ッッ―――ッッッ!!!!」
 
 武道家の娘とはいえ、わずか15歳の少女。
 容赦ないヤドカリ魔獣の破壊に、たまらず悲鳴をあげたのを誰が責められよう。
 しかも、破壊欲に囚われたシェルの暴虐は、これだけに留まらなかった。
 
 「フハハハハ! そりゃそりゃあ! このまま3つに分断してくれようか?! 苦しめユリア! 
苦しめッッ!!」
 
 「ふぎゃはああッッッ―――ッッッ!!!! んああああああッッッッ――――ッッッ!!!!
 ぐッ、グチャグチャになっちゃううぅうぅッッ〜〜〜ッッッ!!!! 腕がああああッッッ―――
ッッッ!!! やめてぇぇぇッッ・・・やめてくださいィィィッッ―――ッッッ!!!」
 
 狂ったように人形のような愛らしいマスクを振り続けるユリア。
 腕も脇腹も、鋭い激痛に襲われ、もはや感覚はほとんどない。華奢な少女の脳裏で、左腕を
切り取られ、下半身から真っ二つにされた己の姿が思い浮かぶ。刻一刻と裁断していく三本爪
の鋏が、少女戦士を死地へと追いやっていく。
 そして、破壊の皇帝は恐るべき次なる嗜虐を、幼い獲物に伝えた。
 
 「フフン、ユリアよ。このまま、燃やされるというのはどうだ?」
 
 「ッッッ!!!! やッッ、やめてエエエエッッッ〜〜〜〜ッッッ!!!! そッ、そんなあああ
アアアッッッ・・・あああああッッッ!!!」
 
 「フハーッハッハッハッハッ!! 食らえッ、ユリアッッ!!」
 
 細身の肢体にしっかりと食い込んだ凶悪な鋏から、ゼロ距離からのオレンジ熱戦が銀と黄色
の妖精に直接叩きこまれる。
 
 「キャアアアアアアアアアアアアアッッッ―――――ッッッッ!!!!」
 
 炎に包まれた守護天使の、哀れな絶叫が黒い空に轟いた。
 
 
 
 「ユッッッ・・・ユリいいィィィッッ―――ッッッ!!!」
 
 3階建ての雑居ビルの最上階、総合格闘技の猛者たちが失神して眠る“アタック”ジムの窓か
ら、正義の女神と邪悪なヤドカリ怪物との闘いを見守っていた西条エリが、思わず愛する妹の
名を叫ぶ。
 己を抱き締めるように両手で腹部を押さえた柔術少女は、兵頭英悟に蹂躙された内臓の痛
みも忘れて、ガラス越しに妹の奮戦を眺めていた。美しい銀色の女神と化した双子の妹は、ヤ
ドカリのキメラ・ミュータントに苦戦を強いられ、燃え盛る炎に包まれて高く掲げられている。こ
のままの状態が続けば、ファントムガール・ユリアが全身を焼き尽くされて絶命することは、子
供にでもわかることだった。
 
 “や、やっぱりあの状態のユリを、闘わせるべきではなかったの? で、でも・・・”
 
 「ユリアッッ!! あなたしか、闘えるひとはいないんだよ?! 自分の力で脱出しないと!」
 
 聞こえるはずもないエールを、エリは必死で室内から送る。
 
 “里美さん・・・どうして・・・どうしてあのとき私を・・・”
 
 巨大少女の悲鳴を聞きながら、西条エリの脳裏にはつい2週間前に五十嵐家の地下で話し
た、美麗な少女との会話が蘇っていた。
 
 「エリちゃんを、ファントムガールにさせるわけにはいかないわ」
 
 憂いを帯びた瞳を横顔に浮べながらも、ファントムガールのリーダーである五十嵐里美は、
毅然とした口調で言い放った。
 
 「ど、どうして・・・ですか? 『エデン』は・・・まだひとつあるって聞きました・・・」
 
 おずおずとしながらも、エリは誰もがしり込みせずにはいられない圧倒的美少女に食い下が
る。
 
 「確かに『エデン』はまだひとつ残っているわ。でも、できるならそれは使いたくはないの。私た
ちにとって、最後の切り札になるものだから」
 
 「それは・・・私では、実力不足という意味ですか?・・・」
 
 双子の妹に敗れ、次期後継者の座を失っているエリにとって、ユリと実力を比べられるの
は、本来実にデリケートな話題であるはずだった。
 内気で真面目で純粋な少女が、そのことで妹と仲違いする可能性は無に等しいが、それでも
ユリより劣ることを指摘されるのは、少なからぬ屈辱であるはず。そんな背景を理解していない
わけがない里美だが、切れ長の瞳で真正面からエリを見据えてきっぱりと言う。
 
 「そう思うなら、そう受けとってもらっていいわ」
 
 ピンク色の唇をキュッと噛んだエリが、俯いて視線を落とす。
 部屋の隅でソフトクリームを舐めながら、本人としてはさりげないつもりで様子を窺っていた
藤木七菜江の細い眉根が思わず寄る。単純な少女がムッとしてしまうほど、里美の口調は厳
しいものだった。だが、冷淡な姿勢を見せるときほど、尊敬する生徒会長が深い慈愛を隠して
いることを知る七菜江は、動きかけた足を止め口出しするのを我慢する。
 
 西条エリがたったひとりで五十嵐家を訪ねてきたときから、なにやら平静ではない空気は感
じていた。七菜江が見たエリの固い表情は、修羅の世界に入ろうとする少女の決意が生んで
いたのだ。
 エリの武道家としての実力を、七菜江は身をもって知っている。極限のレベルで見ればユリと
は差があるのだろうが、その辺の男が数人がかりで襲っても敵わない強さを持つのは確実だ
った。6人目のファントムガールとして、これ以上の適任はいないはずなのに、里美が強く拒否
するのがスポーツ少女には不思議だった。
 
 「じゃあ・・・七菜江さんと手合わせさせてください・・・・・・実力を証明しますから・・・」
 
 「いいィッッ?!!」
 
 突然飛びかかってきた火の粉に、ショートカットの少女からソフトが落ちそうになる。
 
 「だめよ」
 
 「ど、どうしてですか?!・・・・・・今度は柔術以外を使ってもらっていいですから・・・」
 
 「このコはわざと負けるもの。それにもし、真剣にやるのなら・・・結果はわかっているわ」
 
 胡桃のような丸い瞳が、みるみるうちに伏せられていく。
 返す言葉を失った白い少女は、しおれた華のように無言でその場に佇んだ。儚げな少女をさ
らに沈痛な空気が包み、見ている七菜江にまで痛々しさが伝わってくる。
 白いセーラー服の丸い肩に、そっと優しく手が添えられたのはその時だった。
 
 「なぜ、そこまでしてファントムガールになりたがるの?」
 
 咎めるためでも諌めるためでもない、純粋にエリを心配するがゆえの里美の言葉。
 底の見えない優しさに包まれて、エリの心に温かい奔流が沸きあがる。溢れようとする涙を
懸命にこらえ、静かな少女は質問に答えた。
 
 「ユリは・・・ひとりでは、本気で闘えないんです・・・私が、いつも側にいないと・・・・・・」
 
 「あなたたちがふたりでひとりのファントムガールであることは理解しているわ」
 
 「でも・・・ユリは多分、気付いてないんです・・・私が“許可”なんて、だしたくないことを・・・本当
はあのコに・・・闘って欲しくなんかないことを・・・」
 
 “許可”をだすこと、それはつまり、闘いに送り出すのと同意。
 世界でただひとり、西条ユリを本気にさせることができる姉は、世界でもっとも妹を本気にさ
せたくなかったのだ。
 だが、窮地が迫った折に、人類を、仲間を、そしてユリを救うためには、エリは“許可”を出さ
ざるを得ない。その葛藤のなか、淑やかな少女はひとり苦しんできたのだった。
 
 「だから私が・・・私がユリの代わりになりたいんです・・・柔術の腕は、劣るかもしれないけど」
 
 「エリちゃん・・・」
 
 品のある柳眉が、哀しげに垂れる。深い湖をたたえた漆黒の瞳が、ひどく切なく揺らいで見え
た。トラウマを抱えた妹を守りたい気持ち。姉の切実な想いは、心優しき正義の守護者には突
き刺さるように伝わっているはずだ。
 それでも五十嵐里美は、エリが望む返事を返そうとはしなかった。
 
 「あなたたち姉妹を、ふたりとも『エデン』と融合させるわけにはいかないわ」
 
 じっと見詰める美しい瞳を、エリは生涯忘れることはないだろう。
 
 「ふたり揃って不幸になる必要は・・・ないのよ」
 
 
 
 “あのとき私をファントムガールにしてくれてたら・・・ユリを助けにいけるのに・・・”
 
 焦るエリの心に浮かぶのは、里美への不満ではなく、疑問であった。
 麗しき令嬢がエリのためを思って『エデン』との合体を拒否したのは、痛いほどよくわかってい
る。しかし、戦士として中途半端なユリを守るためには、エリに異能力を与えるのは決して無駄
ではないはずだ。
 それだけではない。トラウマに縛られた妹を倒すため、まずは姉を襲う作戦は十分に案じら
れた。エリ自身を守るためにも、『エデン』との融合はむしろ積極的に進められてもおかしくはな
いのだ。あの思慮深い美少女が、それに気付いていないわけがない。
 他にもなにか、理由がある。エリに『エデン』を渡さぬ理由が。
 そして、恐らく、その理由は里美以外の誰かが、彼女に強制しているであろうことを、エリは
本能的に悟っていた。
 
 だが、今はその誰かを推測している余裕はなかった。
 遠く離れた伊豆の地に、残り4人のファントムガールが駆けつける可能性はゼロだ。来てもタ
イムリミットの1時間はとっくに過ぎ去り、ユリもエリも悲惨な運命を辿っていることであろう。
 どんなに悔やんでも、エリに『エデン』の能力が宿ることはない。どう考えても、ユリアの窮地
は彼女自身が脱出するしかないのだ。
 
 「ユリアッッ、冷静になって! 相手の身体はあなたに接しているのよ」
 
 無駄と知りつつ、ガラス越しにエリは叫ぶ。
 苦痛に意識を奪われているユリアにはわかっていないようだが、想気流柔術を習得した者に
とって、今の状態は決して脱出不可能ではない。少しヒントをやれば、恐らくユリアも気付くだろ
う。しかし・・・。
 このジムから死闘の現場まで、300mくらいか。巨大な正邪が闘う轟音のさなか、おとなしい
エリの声量でことばを届けるのは実に困難といわざるを得ない。
 
 「ユリちゃん!」
 
 突然背後から抱き締められ、条件反射でエリは投げ飛ばしそうになる。
 だが、男には悪意が潜んでいなかったことが幸いした。細身の身体を包む両腕に、慈しむよ
うな温かさを感じ取ったエリは、瞬時に男が敵ではないことを悟る。
 
 「よかったァ〜! ユリちゃん! 無事だったんだなッ、よかったァ〜!」
 
 泣き出しそうな声で何度もよかった、よかったと繰り返し、男は強く抱いたら壊れてしまいそう
なエリの背中に頬を擦りつけてくる。
 予想外の事態に動転しつつも、真っ赤な顔をしたエリはゆっくりと男の両腕をほどいた。
 
 「え、えっと・・・カネコさん?」
 
 一旦宿舎に戻ってきたユリから、兼子賢児の容姿とどういう人間かは聞かされていた。
 長身、金髪、焼けた肌。鼻と口から血を溢れさせているのと、エリが倒した連中のなかにいな
かったことを思うと、兵頭を裏切って粛清でもされたと考えるのが妥当か。ひとを見るのが意外
と確かなユリが悪いひとじゃないと言っていたのも、見た目軽薄そうな男を信用する助けになっ
ている。
 双子の姉の存在を知らない彼が、エリをユリと間違えるのも無理はない。髪型や服装の違い
など、この緊急事態では大して気にもならないのだろう。
 ユリアの正体を知られるわけにはいかないエリにとって、この勘違いは好都合といえた。
 
 「オレはてっきり兵頭さんに殺されるんじゃないかと・・・よかったッ、よかったァ・・・」
 
 再び抱きついてくる興奮気味の少年を、さりげなく押し戻しながらエリは切迫した声をあげ
る。
 
 「この建物・・・屋上にいけますか?!」
 
 「えッ?! あ、ああ、いけるけど」
 
 「一緒に・・・来てください!」
 
 白く長い指が、黒く焼けた手を握るや、セミロングの美少女は走り出す。なにがなんだかわか
らぬまま、金髪少年は可憐な少女に引き連れられていく。
 数十秒後、白い少女と褐色の少年は、灰色の雑居ビルの屋上に現れていた。
 
 「うおおッ?! なんだありゃあッ!!」
 
 つい先程まで失神していた兼子は、巨大な赤茶色のヤドカリを目にして、たまらず叫んでい
た。
 どう見ても、災いをもたらすとしか思えぬ凶悪な外見。白い巻貝を背負った岩のような怪物
が、か細い銀と黄色の戦士を蹂躙している。巨大な鋏が左腕と右脇腹に食い込み、ポトポトと
鮮血を滴らせている。全体にオレンジのヴェールがかかった可愛らしい顔の女神からは、炎が
蜃気楼のように立ち昇り、少女戦士が灼熱地獄に陥っていることはすぐにわかった。
 
 「んんああああああッッッ――――ッッッ!!!! あッッ、熱いいイイィィッッ――――ッッ
ッ!!!! いやああああああッッッ〜〜〜〜ッッッ!!!!」
 
 ファントムガール・ユリアが生きたまま焼かれていく苦しみに、悲痛な叫びをあげ続けてどれく
らいたっただろうか。
 細い左腕にはもう半分は鋏が食い込んでいた。ギリギリと絞まる脇腹の内側で、アバラが歪
んでいくのがわかる。溶岩を内臓に流し込まれたような苦痛が、永遠に続いている。半分意識
を吹き飛ばされながら、ユリアは苦悶の海を泳がされていた。破壊欲に囚われた怪物シェル
は、明らかに武道天使を嬲り殺して楽しんでいる。ユリアの悲鳴を搾り出して、悦びに浸ってい
るのだ。
 
 「あ、あれがファントムガール・・・やばいぜ、死にそうじゃねえかッ!」
 
 「カネコさん、手伝ってください!」
 
 言うなりエリは、ありったけの大声でファントムガールの名を叫び始めた。
 本来ならば、巨大生物にも存在を知られてしまう、実に危険な行為。だが、希望をユリアに賭
けるしかない以上、エリは精一杯の声で呼び掛ける。
 
 「お〜〜い! ファントムガール! こっちだあああ〜〜ッッ!!!」
 
 「!! ・・・ありがとうございます、カネコさん」
 
 事情を察していない兼子が、エリの真似をして大声で絶叫する。
 鈴のようなエリの声とは違い、猛々しい少年の咆哮は何倍もの大きさで夜空を渡っていっ
た。危険であることを了解しつつ、金髪少年はよくわからないまま、ユリと間違えたエリの願い
を聞いて声を嗄らして叫ぶ。切羽詰った状況下で、見掛けとは違う少年の優しさが、エリには
頼もしく心に響く。
 
 “燃え・・・ちゃう・・・・・・わ、私・・・・・・も、もう・・・・・・”
 
 じりじりと業火で銀の肌を焼かれながら、絶望がユリアの心にのしかかってくる。
 挟み込まれ、空中に固定されたまま、熱線を浴びせ続けられる・・・痛みと熱さで、ただ悶える
ことしか考えられなくなっていた少女戦士の耳に、その時奇跡は届いた。
 
 “わ・・・私・・・・・・呼ばれ・・・・・・て・・・る・・・・・・?・・・”
 
 「こっちに・・・気付いた!」
 
 ビクビクと痙攣する頭がかすかに動き、ふたつに縛ったおさげがわずかに横を向く。灼熱地
獄に苦しむ青い瞳が己を映すのを、エリは確かに感じた。
 
 「え・・・そうか?!」
 
 「カネコさん、あの怪物のように・・・私を襲ってください」
 
 「はあッ?!」
 
 「早く!」
 
 慌てて金髪少年が、背後からセミロングの少女の左腕と右脇腹を鷲掴む。
 その瞬間、絶望に飲み込まれ掛けていた銀の妖精は、姉がしようとしている意図を悟った。
 
 “ユリ・・・私と同じように・・・動いて!”
 
 エリの右足が飛燕の速度で撥ねあがり、背後の兼子の股間に吸いこまれる。
 十分遠慮しながらも、的確に急所を打つ痛みに、呻いた金髪少年の手から力が逃げていく。
 
 朦朧とした意識のなか、もはや戦意を喪失したと思われていたファントムガール・ユリアの肢
体が、屋上の少女に合わせるように急に動く。
 後方に撥ねあがった右足は、ユリアを高く掲げていたヤドカリ巨獣の顎にピンポイントで炸裂
する。油断しきっていたシェルの巨体が、不意を突かれてグラリと揺れる。
 
 急所を打たれ、兼子の意識は完全にエリを拘束することから離れた。形だけとなった右脇腹
を掴む手に、エリの自由な右手が添えられる。
 親指の付け根、盛り上がった部分にあるツボ、合谷。
 圧迫することで強い痛みを生み出すこのツボを、柔術少女は容赦なく押さえる。
 ビクンと震えた兼子の右手は、エリの脇腹からきれいに離れていた。
 そのままエリは男の右手を巻き込むように捻る。激痛の波が、兼子の手から手首、肘、肩と
一瞬の間に渡っていく。
 悲鳴をあげながら、金髪少年の長身は、鮮やかに空中を一回転した。
 
 その光景を最後まで見ることなく、巨大な天使は動いていた。
 思わぬ反撃にシェルの熱線が一瞬途絶える。再びオレンジの光線がユリアを焼くより早く、
黄色のグローブに包まれた右手は、姉と同じようにヤドカリの鋏に添えられていた。
 激痛を生むツボは・・・あった。
 怪物と化した肉体に潜むツボを、武道の天才は瞬時に見つけ出していた。鋏の付け根を強く
圧迫すると、電流の走る痛みに、思わずパカリと脇腹を押さえていた爪が開く。
 赤茶色の凶悪な腕が、一気に聖少女に捻られる。
 関節を極められる激痛に絶叫をあげながら、シェルの巨体は自ら前転するような格好で真っ
逆さまに落ちていく。
 超重量が大地を揺らす轟音が響き渡る。
 
 「やった!」
 
 360度、完全に一回転させて足から着地させた兼子を気遣いながら、エリの丸い瞳が歓喜
に輝く。徐々に敗北に向っていた妹戦士は、姉の決死のサポートによって、見事に窮地を脱し
たのだ。
 そんなエリを見詰めながら、コクリと可憐なマスクを縦に振るユリア。 
 リンチによる打撃の痛みと、灼熱による火傷の痛み。積み重なった苦痛は、華奢な少女に重
く圧し掛かっている。本当なら膝から崩れて座り込んでしまいところだが、それが許されないの
を誰よりも知っているのはユリア自身だ。
 
 もう、不覚は取らない。
 抉られた左足からはドクドクと鮮血が垂れ続け、輝く銀の肌はすっかり色褪せ、爛れと焦げ
があちこちに浮んでいる。可憐な妖精は哀れな姿に変貌していた。儚くさえある細身の少女戦
士。だがその頼りなさげな肢体は決して屈することなく、静かな闘志をたたえた視線で巨大な
ヤドカリに正対する。
 
 「くッ・・・このッ・・・しぶとい小娘め・・・素直に炭になればいいものを・・・」
 
 呪詛の言葉を吐きながら、脳天を激しく打った巨獣が立ちあがる。
 再び対峙する、黄色の聖少女とヤドカリの怪物。
 ヴィーン・・・・・・ヴィーン・・・・・・
 ユリアの苦境を知らせるエナジー・クリスタルの点滅音が、夜の観光地に静かに鳴り渡る。
 必殺の嚆矢すら通じなかった貝のシェルター。凶悪な三本爪の鋏。総合格闘家の筋力が生
む超速度。そして防御不能の高速タックル。
 文字通りの怪物に、傷だらけの妖精はどう闘おうというのか。
 
 「大丈夫でしたか?」
 
 右腕を押さえたままの兼子に、エリは心配そうな瞳を向ける。ファントムガール・ユリアを救う
ためとはいえ、身体を利用させてもらった罪悪感が、柔術少女の表情をより不安げにさせてい
た。
 
 「ああ、平気だ・・・それよりファントムガールはまだ闘う気なのか?! もうボロボロじゃねえ
か。ただでさえ、オトナと子供くらい体格差があるのに・・・」
 
 百合のごとく立ち構えるユリアと、山のような巨体を揺らすシェル。
 巨大な正邪の聖戦を肉眼で見るのは初めての兼子でも、正義の女神があまりに不利な状況
にあるのはすぐにわかった。
 ファントムガールが多くの巨大生物たちを滅ぼしてきたのは、ニュースで聞いて知っている。
だが、外見だけでも凶悪さが伝わってくる巨獣相手に、モデルのようにスレンダーな少女戦士
が勝てるとは到底思えない。
 兼子の不安は当たり前と言えた。恐らく誰もがそう思うだろう。だが、黄色のファントムガール
をもっともよく理解するエリは、彼女には珍しい自信に満ちた声で言った。
 
 「ファントムガールは・・・勝ちます」
 
 「??・・・嘘だろ?」
 
 「あの黄色のファントムガールなら・・・勝ちます、必ず」
 
 決着をつけんとするシェルの咆哮が、妹を信じる姉の言葉を掻き消した。
 
 
 
 「キュオオオオオオオッッッ――――ッッッ!!!」
 
 怒声が天を衝き、殺意のこもった眼を光らせたシェルが、一直線に銀の妖精に突進する。
 少女戦士のまさかの反撃は、確かに破壊の皇帝を焦らせた。頭から何度も大地に落とされ、
軽い脳震盪が襲ってきているのも事実。だが、貝殻を回転させながらの低空タックルがある限
り、ユリアは負ける相手ではないのだ。
 強固な貝のシェルターは、聖少女のあらゆる攻撃を跳ね返す。得意の柔術も、肉体がドリル
となった貝の内部にあればどうすることもできまい。
 ユリアを血祭りにあげるのは、もはや時間の問題―――
 確信に満ちたドリルタックルが、猛スピードで佇む武道天使に迫る。
 
 ゴゴゴゴゴゴゴ!!
 
 ギュルギュルと回転する巻貝。触れるだけで皮膚をビリビリに破る凶悪なドリル。総合格闘家
の速度に乗って、絶対不可避の無敵コンボがユリアを襲う。
 
 もし、シェルの相手がエリだったならば、柔術少女は大方の予想通り、惨殺されていただろ
う。
 現実は違った。兵頭英悟の変身体が襲ったのは、想気流柔術の歴史に残る天才、ユリ。
 静かな構えから、そっと両手を前に突き出すユリア。
 そのまま受け止めようとでもいうのか? 一瞬、自殺行為とも取れる愚行。だがもちろん、武
道少女はやけになったわけでも、イチかバチかのギャンブルにでたわけでもなかった。絶対の
自信を持って放つ、想気流柔術最高奥義――
 
 「気砲ッッッ!!!」
 
 想気流400年の歴史が生んだ芸術。
 回転する貝が長い銀の足に触れる瞬間、気の流れを利用した神業は炸裂した。
 
 ドオオオオオオオオオオンンンンッッッ!!!
 
 「ぐべええええッッッ?!!」
 
 大砲の発射される音。
 己の勢いをそのまま返された巨大ヤドカリが遥か後方に吹き飛んでいく。
 何が起きたか、わからない。不可思議な柔術の究極技を食らい、気の爆破を浴びた巻貝
が、グルグルと回りながら天高く舞う。
 
 「スペシウム光線!」
 
 咄嗟に放たれた正義の白光は、貝殻の底、巻貝の内部に直撃する。
 
 DOGOWWWWWNNNNッッッ!!!
 
 火花と爆発音が、飛び散る。
 炎に包まれ大地に落ちたヤドカリ巨獣は、ビクビクと二度ほど痙攣するや、掻き消すように夜
の観光地に溶けていった。
 
 「うおおおおおッッ?!! ファントムガールが・・・勝ちやがった!」
 
 本能からの歓喜に、兼子賢児の雄叫びが轟く。
 それはファントムガール・ユリア、鮮やかな逆転勝利を称える、高らかな勝ち鬨であった。
 
 
 
 「まあ、こんなところでしょうかね」
 
 呆れた調子の声が、総合格闘ジム“アタック”が入った雑居ビル前の路地から洩れる。
 ユリアとシェル、ふたりの実力を知る男にとって、この結末は意外なものではなかったようだ。
ユリアの戦闘力を削っておくという、当初の目論みを果たせた男は、薄い唇を吊り上がらせて
下卑た笑いを浮かべる。
 
 「君にとっても、私にとっても・・・リハビリ相手として、ユリア君は最適です。念には念を入れて
兵頭くんに襲わせる作戦、どうやら見事に決まったようですね」
 
 「・・・ユリア、か・・・」
 
 「彼女が他のファントムガールたちと離れてくれたのはラッキーでした。なにしろ我々は、いま
だ万全ではない。もっとも組しやすいユリアくんが孤立し、尚且つあれだけのダメージを負ってく
れたこの好機、逃すわけにはいかないでしょう」
 
 高揚した気持ちを隠せない一方の男に対し、もうひとりの男はじっと一箇所を見詰めたまま、
冷静な姿勢を崩さない。どこか遠くに思いを馳せたような表情は、見る者をゾッとさせる迫力を
伴っていた。
 
 「どうします? いまなら邪魔なエリくんを容易に捕獲できますが・・・手始めに彼女から地獄
に落ちてもらいましょうか?」
 
 「・・・いや・・・それでは、つまらん・・・」
 
 「では、計画通りに」
 
 「そうだ・・・姉妹互いの目の前で・・・絶望の底に突き落とす・・・」
 
 不穏な台詞を吐き捨てて、ふたつの影はさらなる闇に消えていった。
 
 
 
 「どうやら、打撲ですんでるみたいね」
 
 液晶画面の向こうから流れてくる琴のごとき流麗な声を、西条ユリはほっとした面持ちで聞
く。
 黄色の天使と巨大ヤドカリの戦闘が終わってから、約三時間。時計の針は、まもなく今日の
終わりを告げようとしている。エリとユリ、ふたりの姉妹は宿泊施設に戻り、五十嵐里美への定
期連絡をいれているところだった。
 
 『エデン』の寄生者は、巨大化後、ダメージに応じて一定時間の休息を強要させられる。強烈
な睡魔は意志などでどうにかなるものではなく、極めて生理的に行われる強制的な睡眠であっ
た。変身解除した妹を宿舎に連れ込んだ姉は、自らもダメージによって、ユリと同じように眠り
こけてしまった。ほとんど同時に起きたふたりは、慌てて里美への連絡を取った、という次第で
ある。
 伊豆地方に巨大生物が出現した、というのは、今日のトップニュースで何度も報じられてい
る。
 マスコミ、あるいは政府に入った情報は、里美の耳にも入っている情報といえる。着信履歴
にいくつも連続して里美の名があるのを見たときは、さすがにユリも慌てたが、いざ話してみる
と里美はすでにほとんどのことを知っていた。少しは叱られるかと覚悟していたのだが、連絡
が遅れたことについても、一言の注意すらなかった。
 
 「とにかく無事で、良かったわ」
 
 それが里美の第一声。
 リーダーとして、戦士として、ひとりの女性として、最高に尊敬できる麗しき美少女に、多大な
心配をかけてしまったことを悟り、おとなしい武道少女の優しい心は逆に痛くなった。
 
 その後、ユリはファントムガール用の特殊携帯電話で、全身の画像を送るよう指示された。
 一旦裸になるのは恥かしかったが、ほどなくして五十嵐家のマザーコンピューターが、怪我の
状態を分析した結果を導き出す。
 姉妹揃って、全身の打撲は夥しかったが、骨折などは免れていた。ユリについては火傷跡も
多かったが、いずれにしろ応急処置で十分間に合うものばかりであった。
 
 「ごめんなさい、里美さん・・・心配かけてしまって・・・」
 
 神妙な表情で謝るユリに、崇高のレベルにまで到達しそうな超美少女は、軽いウインクを送
る。
 
 「いいのよ、ユリちゃん。ちょっとした、ブームみたいだから」
 
 三重の山奥で里美が瀕死に陥り、七菜江がいまだに包帯でグルグル巻きにされていること
を、遠く伊豆にいるユリは知るはずもない。
 
 「で、明日1日遊んでから帰ってくるのね」
 
 質問に答えたのは、隣りに座っていたセミロングの姉であった。
 
 「はい・・・せっかく海に来てるんだからって・・・ユリと相談して決めちゃいました」
 
 「そう。それはいいわね。ゆっくり楽しんでくるといいわ」
 
 迷子の子犬が見たら、二度と離れなくなりそうな・・・眩しい笑顔を最後に見せて、淑やかな令
嬢は通信を終了した。
 
 「どうしたの? 桃子」
 
 振りかえりもせずに、次期御庭番頭領たるくノ一は、背後の気配に声をかける。
 やや驚いた表情を隠しもしないで、入り口の影から現れたのは、綺麗という単語がこれほど
似合う美少女もいまいという、完璧な造形を施された少女であった。
 真夜中と呼んで差し支えない時間帯に、地下の作戦室で里美と桃子、ふたりで会う。
 居候として住み始めてから半月ほど、今までにありそうでなかったシチュエーションに、エスパ
ー少女は仄かに緊張している己を自覚する。
 
 「ユリちゃん、大丈夫だったのかなァ〜って・・・ちょっと心配だったから・・・」
 
 「・・・桃子は、優しいのね」
 
 すすっと中に入ってきたイマドキ美少女の頬が、ほんのり赤くなる。
 他人に褒められるのは初めてではないが(寧ろ、美人という褒め言葉なら、飽きるほど聞い
てきたが)、何度経験しても慣れることはない。照れてしまうのは常だったが、褒めた相手が逆
立ちしても敵わないと思ってる人物だけに、恥かしさも倍増された。
 
 「そんなことないですよォ」
 
 「ナナちゃんは?」
 
 「寝てます。途中までナナも心配して起きてたんだけど、やっぱりまだ体調が良くないみたい。
この前の闘いで、かなりやられちゃったから・・・」
 
 言い終ってから、桃子は慌てて形のいい唇を押さえる。
 藤木七菜江に固く口止めされていたのを思い出したのは、時すでに遅かった。大きな瞳で上
目遣いし、里美の反応を窺う。大人びた色香を放つ桃子の慌てる様子は、妙に女子高生らしく
て可愛かった。何も気付かなかったフリをして、気品を纏った令嬢は話を続けることにする。
 
 「ユリちゃんは無事だから安心して。ちょっと打撲がひどいけど、『エデン』の回復力があれ
ば、数日で完治するんじゃないかな」
 
 「そうなんだ・・・よかったぁ」
 
 「話はそれだけじゃ、なさそうね?」
 
 図星を突かれ、厚めの唇が閉ざされる。
 観念したように、桃子は以前から気になっていたある疑問を口にした。
 
 「里美さん」
 
 「なに?」
 
 「どうして、エリちゃんをファントムガールにしないんですか?」
 
 憂いを帯びた美貌は、動揺も驚きも、なにひとつ感情を示さなかった。ただ、凛とした視線で
優しく5人目のファントムガールを見詰め返す。
 
 「この前ナナに聞いたんだけど・・・エリちゃんがファントムガールになりたいっていうのを、断
ったんですよね? そりゃ、できる限り『エデン』の寄生者を増やしたくないっていう、里美さんの
気持ちはわかるんだけど・・・でも、やっぱりひとりでも仲間が多い方がいいじゃないですか?」
 
 「ファントムガールになるってことは、死ぬことになるかもしれないってことなのよ」
 
 敢えて直接的な言い方を、里美はした。現実をあからさまにした台詞は、心優しき少女に少
なからぬ衝撃を与える。
 
 「そ、それはそうだけど・・・」
 
 「実はね、桃子。最後ひとつ残った『エデン』、使わないでおこうと思ってるの。この間の闘い
を考えても、久慈たちの戦力は一度に4,5人といったところが限度だと思う。今いる私たち5
人で十分対応できるわ」
 
 現在失踪中の久慈仁紀が、ファントムガールの抹殺を狙って仕掛けてきた闘い。一時は里
美が捕虜となり、ユリアが惨殺されるというショッキングな闘いでは、メフェレス、マヴェル、クト
ル、マリーと4人までミュータントが登場した。残るシヴァをいれて5人、これが敵側の最大人員
だと考えていいだろう。
 久慈が無数の『エデン』を掻き集めているのは確かだが、戦力となりうる人材が限られてくる
ため、ミュータントが大量発生する可能性は低いといえる。また世界征服という現実離れした
目標を、本気で掲げる久慈にとっては、できれば支配者層は少ない人数の方がいい。無闇に
『エデン』をばら撒くような愚挙は、まず起こすことはないだろう。
 一方ファントム陣営は、ナナのように敵を殲滅可能な戦士もいるし、サクラのように究極的な
能力者もいる。現在の5人で、ほとんどの事態に対処できると里美は踏んでいた。
 
 「桃子だって、私たちのような人間を、もう増やしたくはないでしょ?」
 
 潤んだような切れ長の瞳に見詰められ、桃子は返す言葉を失った。
 
 「・・・わかりました」
 
 「ありがとう。その分、みんなには苦労させてしまうけれど・・・」
 
 それまで不自然なまでに表情を変えなかった令嬢の美貌が、この時初めて翳りを見せる。
 里美の辛そうな顔は、桃子にとっても辛くなってしまう顔だった。
 リーダーとして敬愛する少女を悲しませないように、アイドル顔負けの美少女は慌てて言う。
 
 「ううん、それは平気ですよォ! じゃ、じゃあ、あたし、もう寝ますね。夜更かし得意じゃない
から、眠たくて」
 
 ウサギのような白い歯を見せ、グラビアの表紙を飾りそうな飛びきりの笑顔を桃子はつくる。
はにかんだ笑顔とは、こういうものを言うのだろう。カワイイという言葉を、世界中から奪いとっ
てきそうな笑顔だった。
 くるりと振りかえった美少女は、パタパタと小走りで地下室の出入り口へと駆けていく。扉まで
きたところで、小さな足はピタっと止まった。
 
 「里美さん・・・あたし、テレパシーはないんだけど、けっこう勘は鋭いんですよネ・・・」
 
 ちらっと大きな瞳を肩越しに投げ掛けた美少女は、きょとんとした様子の里美を試すような口
調で言った。
 
 「本当は最後の『エデン』を・・・“誰か”のためにとっておきたいんじゃないですか?」
 
 「えッ?!」
 
 「な〜んてね♪ おやすみなさい」
 
 動揺した里美が喋るより早く、イマドキ美少女は最高の笑顔で迎え撃つ。名前通り、桜のごと
き鮮烈な華やかさを残して、エスパー少女はひょいと立ち去っていった。
 
 「・・・そういうことか」
 
 突然現れた桃子の目的が、最後の言葉に対する里美の反応を窺うことにあったのを、しばら
くしてから美少女は悟る。
 一本、取られたのかな?
 しばしの硬直のあと、誰もいなくなった地下作戦室で、くすりと里美は微笑んだ。
 
 
 
 真夏の太陽が、白い砂をじりじりと焼いていく。
 ソフトクリームを思わせる入道雲が彼方で天に向っている。対照的な青空を見ていると、上に
宇宙があるとは思えないほど透き通っている。爽快なブルーは紺青の海に溶けこみ、見る者
の心に風を吹き抜けさせていく。
 
 昨夜、巨大ヤドカリと銀の守護天使が激突した伊豆の大地は、嘘のように平静を取り戻して
いた。
 闘いが中心から外れた山間で行われたのが良かった。被害は最小限といえる範囲に留まっ
ていた。初めて関東地方に巨大生物が現れたということで、若干の混乱があったのは事実だ
が、大きな損害は起きていない。海水浴場も、さすがに人は少なかったが、いつもと同じ顔を
見せている。
 
 混雑せず、まばらにひとがいる海岸。
 遊ぶには理想的な人出のなかで、ひときわ目を引くふたりの少女がいた。
 100人が100人ともカワイイと言うプリティーフェイスに、モデル並のスレンダーな肢体。
 同じ顔をした双子は、白い肌のところどころに青痣を残しながらも気にする素振りなく、きゃっ
きゃっと騒ぎながら水を掛け合ってハシャイでいる。
 
 西条エリとユリ、天才柔術姉妹。
 昨夜の激闘すら忘れたように、典型的な美少女は普段あまり見せない眩しい笑顔を弾けさ
せていた。ふたつに髪を縛ったユリは昨日と同じ、白のビキニ。セミロングのエリは、薄緑のこ
れまた際どいカットのビキニ。別々に水着を買いに行ったのに、似たようなものを買ってくるの
はこれが初めてではなかったが、双子ならではのセンスの一致にふたりは苦笑するしかなかっ
た。
 大人しい姉妹にとって、唯一気の置けない相手が互いの存在である。露出の多い水着をあ
まり気にせずに済むのも、昨夜の激闘を忘れられるのも、心の底から信頼できる相手が目の
前にいるからだ。
 
 「ユリ! 肩ひもがずれてるよ!」
 
 「えッ?! ウソ!」
 
 瞬時に顔を真っ赤にして、両手で己の胸を包み隠す妹に、姉の掬った大量の海水が浴びせ
られる。
 
 「きゃあッ?! やったな、エリ!」
 
 「あはは、大成功♪」
 
 柔術の稽古に明け暮れるふたりには、なによりこんな時間が至福であった。
 1日とはいえ、素敵なプレゼントをくれた父親に、少しは感謝をしたくなる。闘いのオマケでな
ければ、もっと素直に感謝できるけど。
 
 「ノド乾いちゃった。ジュースでも買ってくるね。なに飲みたい?」
 
 「ん〜、じゃあコーラ」
 
 今日になってようやく海に来れたエリは、妹以上に大自然を満喫していた。
 ひと泳ぎし始めた姉を尻目に、おさげの少女は財布を片手にてくてくと砂浜を昇っていく。
 大きめのタオルを肩からかけ、なるべく水着を見られないようにするユリ。すれ違った大学生
くらいの二人連れの男たちが、じっと立ち止まって振り向いているのが、背中でわかる。頬を赤
く染めた少女の足は自然に早まった。
 空を見上げてみる。つき抜けるような青さ。ギラギラと照りつける太陽が、痛いほど目に沁み
る。小さな鼻腔をくすぐるのは、仄かな潮の香。自然の恩恵を身体いっぱいに受けながら、ユリ
は血生臭い昨日の記憶が夢であったかのように薄まっていくのを感じる。
 
 「これで・・・いいかな」
 
 右手にペプシ、左手にコークを握ったユリは、自動販売機の前でポツリと呟いた。
 姉には黙っていたが、ユリのノドが欲したのも、またコーラであった。同じものを買うのがため
らわれ、辛うじて選択した結果がこれ。どちらにするかは、エリに決めてもらえばいいだろう。
 周囲に人影がないせいか、午後に入ったばかりで陽が強くなったのか、気温はますます上昇
したように感じる。白い額を流れる汗を、美少女は手の甲で拭う。
 
 急に振り返ったユリの顔は、少女戦士のそれに変わっていた。
 セミの鳴き声が激しさを増す。胡桃の瞳に毅然とした光が灯る。
 
 「まだ・・・闘う気ですか・・・?」
 
 武道少女の前に現れたのは、「皇帝」兵頭英悟であった。
 灰色のタンクトップに紺のハーフパンツ。分厚い肉体は相変わらずだったが、半分以上の皮
膚がケロイド状に爛れている。首にはムチウチ患者がするような太いコルセット。死闘の痕
は、姉妹以上に敗者に色濃く残っていた。
 
 「貴様ら姉妹・・・無事にこの町から帰すわけにはいかん」
 
 「・・・もう・・・決着はついています」
 
 ヤドカリ巨獣シェルが、滅びてはいないことはユリも気付いていた。
 だが逃げる相手を仕留めるつもりは、清廉な少女にはなかった。父から教わった武道者とし
ての心構えにもない。あくまで、向ってくる者を、身を守るために倒すのが武道の本質。敵が闘
いを放棄することは、ユリにとっては歓迎すべき事態であった。
 まして、もはや兵頭英悟=シェルの力量は見切っている。たとえ再びあいまみえることがあろ
うとも、実力の差は明らかだ。苦戦はしても、敗北することはないであろう。ユリが眉を垂れさ
せたのは、敵である兵頭のことを思えばこそであった。
 
 「一度負けたからって、また負けるとは限らんぞ」
 
 「兵頭さん・・・力の差は、あなたが一番わかっているはずです・・・命を粗末にしないでくださ
い・・・」
 
 「一度の負けで全てが決まるというなら・・・君の死は確実ということになりますよ、ユリくん」
 
 突如沸いた新たな気配に、ユリは驚いた顔を声のした方向、斜め右に向ける。
 
 ゾクリ
 
 ひとめ男を見た瞬間、ユリの背筋を凍るような戦慄が駆け上がる。
 嫌悪感、恐怖・・・かつてない圧倒的な負の感情。
 初めて見るはずの男に、ユリは説明不能な衝撃を覚えていた。兵頭など、比べ物にならない
危険な敵の登場。細胞が慄き、震えているのが自覚できる。
 
 “だ、誰・・・? で、でも・・・この敵は・・・!”
 
 「フフフ・・・この姿で会うのは初めてですね。でも、私は昔からあなたのことを知っていました
よ。白鳳女子の制服に身を包んだときから。多くのコレクションのなかでも、あなたはトップレベ
ルの可愛さでしたから」
 
 ボトボトと滝のような汗が白い肌を流れていく。じりじりと知らぬ間に後退っているのにユリは
気付いた。
 今まで、多くの敵と相対してきたが、この敵は違う!
 普通の敵ではない、特別な敵。
 武道少女を心底から恐怖させる敵。そして、どうしても倒さねばならぬ、運命のような敵愾心
を起こさせる敵・・・
 
 「あ、あなたは・・・」
 
 「ふふふ・・・ようやくわかってきたようですね」
 
 ハゲた頭をした、小太りの中年男。
 脂の浮んだ顔が、えびすになって歪んだ笑いを刻んでいる。ユリにとっては、吐き気を催す醜
悪な笑顔。その裏に潜んだ狂気。ねっとりと溢れてくる淫欲。皮肉なまでに丁重な物言い。ユリ
は知っている、同じ雰囲気を持った、怪物を。忘れられるわけがない、死んだはずのあの敵
を!
 
 「私の名は田所。いや、『クトル』と名乗った方が、思い出しやすいでしょうかね、ファントムガ
ール・ユリアくん」
 
 ユリの全身が総毛立つ。
 クトル――ユリアを一度は惨殺した、恐るべきタコの魔獣!
 その後、総力戦となった闘いで、サクラの光線を浴びて死滅したと思われた淫獣は、生きて
いたのだ! 恐らく、今までエリがそうだったように、リハビリに努めていたのだろう。そして復
活した今、再びユリアへの刺客として、参上したのだ。
 
 「うッッ・・・うううぅぅッッ・・・・・・そッ、そんなあッッ!!」
 
 美少女の白い歯がギシギシと鳴る。
 天敵とも呼んでいい、最悪の魔獣の復活。一度、成す術なく殺されてしまった苦痛が、容赦な
くあどけなさの残る少女を責めたてる。
 恐い。逃げてしまいたい。
 だが、武道家としての血が、守護天使としての使命が、この因縁の敵に打ち克てと囁いてく
る。
 オモチャのように陵辱され、雑巾のように惨殺された屈辱。心身に刻まれた傷跡を消し去る
には、自分自身で復讐を果たすしかないのだ。
 
 内気な少女が、キッと中年男を睨みつける。
 相性最悪の敵。関係ない。
 2vs1の不利。関係ない。
 “許可”を出されていない状況。関係ない。
 未来を切り開くには、この男を倒すしかないのだ。
 
 「おや? 闘うつもりですか、西条ユリくん?」
 
 「・・・あのときのお返しは・・・します」
 
 「愚かな。まだ状況を把握していないようですね」
 
 その瞬間、ユリのスレンダーな肢体は、ビクリと揺れた。
 ゴトゴト・・・ガラガラガラ・・・
 ふたつのコーラの缶が、白い砂に落ちて転がる。
 田所、いやクトルの登場に動転した天才武道少女は、背後に迫った殺気に気付くことができ
なかった。
 巧みな技術によって消された気配は、ユリの生殺与奪を100%掌中に納めてから全開にさ
れた。背中に突き付けられた殺気に、ユリはわずかでも抵抗の素振りを示した瞬間、己が死
ぬことを確信した。
 首筋に突きつけられたもの。それは日本刀であった。
 
 「こ、この殺気・・・ま、まさか・・・」
 
 圧倒的な殺意に、ユリの高い声が震える。
 返ってきた声を聞いた瞬間、白い美少女は恐るべき最悪の敵の正体と、己に迫った残酷な
運命とを悟った。
 
 「西条ユリ・・・いや、ファントムガール・ユリア・・・貴様はたっぷりと遊んでくれる。そして・・・も
う一度、貴様を処刑して、このオレは本当の復活を遂げるのだ」
 
 暗い闇の底から響いてくるような、その男の声。
 魔人・メフェレス。久慈仁紀。
 工藤吼介に敗れ、消息不明となっていた悪の中枢が、この伊豆の地でついに現れたのだ。
 
 「ユッッ・・・ユリィィッッ!!」
 
 突っ立ったまま、身動きが取れなくなっていたユリの耳に飛び込んできたのは、遅くなった妹
の身を案じた姉の叫び。
 
 「こッ・・・来ないで、お姉ちゃん! 私に・・・“許可”をッ!!」
 
 「ユリッッ!!」
 
 “許可”は、出せなかった。
 出せば、ユリは殺される。本能的に悟ったエリは、気がつけば、日本刀を妹に突きつけた、ス
マートな男に飛びかかっていた。
 
 「エリ姉ちゃんッ!!」
 
 ドゴオオオオオッッッ!!!
 
 ユリの首筋に当てられていた刃が、光速で横に薙ぎられる。
 一撃で脇腹を打ち抜かれたセミロングの少女が、前のめりに倒れていく。鮮やかに鳩尾を抉
られ、細身の少女は一瞬にして昇天していた。
 
 「バカが」
 
 妹戦士の悲痛な絶叫に、冷酷な魔人の嘲りが重なった。
 
 
 
 「なんだ、あれは?!」
 
 真夏の日光の下、伊豆の観光地を奇妙な車が疾走する。
 車自体はどこにでもあるRV車。だが、ひとめ見た者は、その凄惨な光景に絶句する。
 
 車の前方に、白いビキニ姿の美少女が、大の字で逆さに括りつけられている。
 襟足でふたつに縛った黒髪が、地面すれすれで揺れている。谷間が見える胸も、少ない生地
で隠された股間も、さらけだすことを余儀なくされ、未発達の少女らしい肢体は衆人の好奇の
目に汚されていく。だが、白目を剥き、桜色の唇を半開きにした少女は、そんな己の惨めな姿
に気付くことすらない。
 
 そして、もうひとり。
 四駆車の後方には、同じく逆さに磔られた、薄緑のビキニの少女。
 セミロングの少女もまた、完全に意識を失い、自由を無くした醜態をひけらかせてしまってい
た。
 
 「ユリア、貴様はこのオレ復活の・・・生贄となるのだ」
 
 車内で、暗く沈んだ久慈の声が響く。
 西条姉妹を襲う、地獄の宴が始まるのは、もう間もなくのことだった。
 
 
 
 

第八話・続き
第八話・続き


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