第十一話



「第十一話  東京決死線 〜凶魔の右手〜」



 序

 降りそぼる雨音が、窓外から洩れ聞こえてくる。
 静かな夜だった。普段なら秋の虫が賑やかに奏でる九月も半ば、耳朶を打つのがリズミカル
な水音だけであることが、かえって静けさを強調する。己と雨とを除き、全てが消滅してしまっ
たかのような静寂。金をあしらったヒールが床を踏むたび、甲高い音色が邸内の奥深くにまで
渡っていく。
 蒸し暑さがまだ残る昼とは、嘘のように空気は変わっていた。寒さすら覚える長い廊下を、神
崎ちゆりは照明ひとつ点いていない暗闇のなか、戸惑うことなく進んでいく。
 魔人メフェレスの正体である、久慈仁紀。柳生新陰流の裏の顔、殺人剣の宗家でもある久慈
家は数々の邸宅や土地、私有財産を保持しているが、この本宅内にちゆりが足を踏み入れる
のは一度や二度ではない。高い壁に四方を囲まれた都合800坪の豪奢な洋館。週に3度くると
いう2人の家政婦以外、ほとんど誰も入ったことがない屋敷に、『エデン』を宿した者たちだけが
特別階級であると言わんばかりに幾度か招待されていた。

「ちゆりくん、こっちです。久慈くんはこの先でお待ちかねですよ」

 ハゲ頭の中年男が廊下の突き当たりで立っていた。糸のような細い目と、メタボリックが気に
なる小太り体型。教師の立場でありながら、生徒である久慈の側につき従うこの田所という男
が、ちゆりはどうにも好きにはなれない。濃いマスカラの下で光る大きな瞳に、明らかな侮蔑の
色を浮かべて中年男を見据える。

「この先って・・・地下ァ〜? こんなとこでホントに待ってんのォ〜?」

「ええ、間違いなく」

「・・・で、あんたは一緒に来ないわけェ?」

「わ、私はもう会ってきましたからッ・・・さ、早く行ってください」

 無理矢理ロウで固めたようなえびす顔に、びっしょりと冷たい汗が浮き上がっている。
 あからさまに眉をしかめてみせた金髪のコギャルは、それ以上は何も言わず、存在すら知ら
なかった地下への階段を降りていった。
 カビ臭い臭気とわずかな照明。カツカツと響くヒールの音が一段と大きくこだまする。
 行き止まり、一番奥の部屋の扉に手をかけたちゆりは、迷うことなく中に入っていく。

 足を踏み入れた瞬間、「闇豹」の体毛は総毛だった。
 更なる薄闇。8畳の室内を照らすのは、裸電球がひとつ。壁も床も剥き出しのコンクリートで
灰色に塗られた部屋は、元は倉庫であったのだろう。隅に置かれ、転がるのは使われなくなっ
た剣道の防具、試技用の藁の束、放水用のホースや、西洋騎士の甲冑鎧などなど。
 入り口に立つちゆりと相対する格好で、部屋の、いやこの屋敷の主・久慈仁紀は片膝を抱え
てコンクリに直接腰を下ろしていた。
 闇に浮かぶ黄色の眼光は、飢えた野犬のそれ。だが、ちゆりを慄かせるのは、また別のも
のであった。

 濃く漂う潮の匂いは、「闇豹」も慣れ親しんできた、血臭。
 幾重にも濃密に重なった死の香りに、アイシャドウに縁取られた丸い眼が視線を下に移す。

 女と思われる肉体がふたつ、冷たくなって転がっていた。
 ひとつには首がなく、もうひとつは頭頂から股間までを竹のように真っ二つにされていた。キ
レイな断面からこぼれる内臓と夥しい血が、床に流れて水溜まりを作っている。

「この部屋の秘密を知った限りは・・・生かしておくわけにはいかん」

 地の底から響いてくるような声。
 常に尊大で自信に満ちていた男の、怨嗟に染まった呟き。表情を凍りつかせて、ちゆりは間
延びした声を返す。

「これ、家政婦のふたりィ〜?」

「どうせいつかは殺すつもりだったが・・・勝手にここに入ったのが運の尽きだ」

「ふ〜〜ん・・・つまんなァ〜いっていうかァ・・・みっともない殺し方ァ〜〜・・・」

 久慈の細い眉がピクリと動く。構わず豹柄を好む闇の女は、コツコツと周辺を回り始めた。

「昔のあんたならァ〜、こういう殺り方はしなかったけどねェ〜。遮二無二誰かを殺せば、心に
できた負け犬のキズが癒されるとでも思ったァ〜?」

「オレたちの体内に宿った気持ち悪い宇宙生物・・・蛆団子のごとき白い球体の特徴を覚えて
いるか? 闇豹」

 悪女の問いに魔人は問いで返してきた。

「血を求める者は殺戮マシンと化し、暴力を望む者は破壊の権化と化す。その生物の持ってい
る精神、欲、正邪の資質・・・そういった諸々を『エデン』は増大させ力に変える。欲望や想いが
大きいほど、力になる・・・正邪の資質が高いほど、力を得る・・・精神の強さが、そのまま強さ
に変わると言ってもいい」

 淡々と続ける久慈の言葉を、派手なコギャルは歩きながら無言で聞く。
 宇宙より飛来した謎の生命体『エデン』。究極には巨大化という異能力すら与え、寄生した生
物の戦闘力を高めるこの脅威の物体の特徴は、神崎ちゆりもよく理解していた。即ち、精神や
正負の資質によって、得られる力は大きく変化するということ。『光』を操る正義の女神ファント
ムガールも、相反する『闇』を生み出す怪物ミュータントも、元々は同じ『エデン』の寄生者。た
だ、正しき心の持ち主か、邪心に飲まれた悪人かが敵対する両者を分け隔てているのだ。
 とはいえ何が正で、何が悪か、その明確な基準は『エデン』研究のために久慈家がスカウトし
たとされる天才生物学者・片倉響子の口からも明らかにされてはいない。響子にもわからない
のかもしれないし、あるいは知っていても言わないのかもしれない。
 ただ、かつて参謀のように久慈の側に立った響子が去った今では、確認することすらできな
かった。

「ならばミュータント・・・我ら闇側の人間にとって、大事な資質とはなんだ?」

「・・・もしかして、闇の力を高めるためにこいつらを・・・」

「殺人こそ最大の悪。そうは思わないか?」

「・・・こいつら殺したところでェ〜・・・あんたが強くなるとは思えないけどねェ〜〜」

 足元に転がる女の首を、金色のヒールが無造作に踏みつける。闇豹の化粧の濃い顔に、一
切の感情はない。

「そんなことはわかっている。オレが新たなステージに立つのは、銀色の雌豚どもを喚かせ、悶
えさせ、絶望に叩き落してから死滅させてこそ。家政婦どもを始末したのは、あくまでこの部屋
の秘密を知ったからだ」

 歩き回るちゆりの足が、不意に止まった。
 薄闇にもハッキリわかるマスカラとアイシャドウ。ランと輝く大きな瞳。
 メイクの際立った顔が見上げる先には、この場所に置いてあるのが不似合いな、銀色の西
洋甲冑のマスク。

 青い風が疾ったのは一瞬であった。
 闇豹の右手が振られている。異様に長く伸びた鋭い爪。5本の青いナイフが、ちゆりの指先
で鈍く光を反射して生えている。
 スパン! 鮮やかな音を残して鎧のマスクが真っ二つに割れる。
 西洋甲冑のなかから現れたのは、口髭を生やした中年男性の顔であった。

「久慈家の当主。そして、聖愛学院の副理事にして実質の支配者と言われる男」

 悪女の背を奔る、戦慄。
 血の気の失せた死者の顔に、闇豹は淡々と語る魔人の面影をはっきりと重ねていた。

「久慈仁信。初めてオレがこの手にかけた、実の父親だ」

 ツ・・・と冷たい汗がちゆりの頬を伝う。
 なるほど。道理で学院も、久慈家も、この野心にたぎった若造の意のままに動くはずだ。
 甘えと厳しい修行の交差するなか育ったボンボン。英才教育の果て、どこをどう間違えたか
己を選ばれし者と断じ、他を下等とする思想に固まったエリート。
 増長し暴走する若者を止めるべき彼の両親たちは、とうの昔に始末されていたのだ。
 暴力、金、権力。生れ落ちた男にあらゆる力を授けた久慈の家は、自らが生み出したモンス
ターによって滅ぼされてしまったのだ。力を得て暴走する久慈仁紀を制御しなくてはならなかっ
た父・仁信。対峙した父が無惨に突破されたとき、天地を睥睨する魔人は誕生した。

「その死体はオレが支配者たる象徴だ。久慈家の全ては、このオレの掌中であることの」

 金髪の少女の脳裏に、長く忘れていた母親の姿が蘇る。
 ヤクザの娼婦。暴力と折檻の日々。邪魔者として向けられた、憎悪に満ちたあの視線。
 5歳の痩せこけた痣だらけの少女を、幼女趣味の親分に献上された、あの日の光景。
 それからちょうど十年後、床に散らばった母親だったものの肉片を見たときの、快感。震え。
狂気。
 あの最低女への復讐は果たした。だが、ちゆりの心に刻まれた親への憎悪と恐怖は、一生
消えることなどないだろう。

 久慈は違う。
 久慈仁紀という悪魔に力を授けた親ですら、この男は畏怖しなかった。敬わなかった。単な
る、我が力に屈した敗者の象徴。金も女も力も得た男は、親にすら敗北の味を教えてもらわな
かった。

「・・・初めて喫した敗北が・・・あんたを変えちまったってわけェ〜〜・・・」

「ファントムガール・・・ヤツら雌豚どもの死体を晒す・・・このメフェレスこそが、全世界の支配者
であると証明するために」

 そして、工藤吼介。貴様を殺して初めて。
 久慈仁紀はようやく久慈仁紀に戻ることができるのだ。

「・・・闇豹。いつか話していた、海堂一美と城誠に会わせろ」

「なッッ!! あ、あいつらに『エデン』渡す気なのォッ?!!」

「言ったはずだ。殺人こそ、最大の悪と。ヤツらを仲間にすれば、銀の女神どもなどもはや敵で
はない」

「け、けど、あいつら、あんたの言うこと聞くような相手じゃないッ!! やるとなったらどんな残
酷な手段を使ってでも、標的を皆殺しに・・・」

「そうだ。そういう吹っ切れ方こそ、オレにはなかったもの。手段など、体裁など気にしておれ
ん。ファントムガール・・・銀色の女神どもを、ひとり残らず惨殺する。必ず。絶対に! 世界征
服などどうでもいい!! あいつら、クソメスどもを全身全霊傾けて切り刻む!!! それこそ
がこのメフェレスの唯一の願いだアアッッ!!!!」

 魔人の絶叫。
 狂乱の、咆哮。
 いずれも大きく開かれた血走った眼と乾いた唇。青い血管が額に、首に、こめかみに、悪魔
の紋様のごとく浮き上がる。

 もう、やめだ。
 正義と悪の闘いだと? 人類の支配だと? くだらん。くだらんッッ!!
 どうでもいい。無駄に飯を食らい、生きている価値など寸分にもない下劣な人間ども。そんな
ヤツらがどうなろうが、まるでどうでもいい。
 ファントムガールを、ぶち殺す。四肢を刎ね、内臓を引き摺り出すッ!!
 忌々しいメスどもを全滅させるためには、どんな手段でも使ってやる!!

 魔人メフェレスの胸中に渦巻く怨念は、いまや守護天使殲滅の一事に向かっていた。
 そして、その成就のために・・・久慈の心はもう、禁断の悪魔たちとの契約に、微塵の揺るぎ
もしなかった。

「いっつも余裕ぶっこいてたあんたが、ここまで必死になるとはねェ〜〜・・・けど、知らないよォ
〜。海堂一美と城誠、あいつらに関わったらもう引き戻れないぜエエエッッ!!」

 ファンデーションを厚く塗った顔に、無数の水粒が流れ落ちる。甲高い女豹の叫びには、明ら
かな狼狽と脅えの色が張り付いていた。

「黒世界、最凶のヤクザと最凶の殺し屋。極道の世界でも疎まれている、非人道の殺人鬼たち
が『エデン』と融合したら・・・」

 足が、震えている。
 かつてない脅威の誕生と、守護天使滅亡の予感がひたひたと迫ってくる。力強い、足音で。
これ以上はない、ほぼ確実な未来として。

「最強のミュータントを生むには、最凶の悪党に『エデン』を与える。当然のことを、当然するま
でだァァッッ!!!」

「いいのかいィ?? あいつらを野に放ったらこの世界はムチャクチャになるぜエエッッ!!」

「構うかッ!! 銀のメス豚どもを処刑することが全てだッッ!!」

 クヒ

 激昂する闇豹の動きがビタリと硬直する。
 叫びの代わり、金髪に隠れた顔の向こうから洩れる、奇妙な音。
 やがてそれは狂乱の愉悦に満ちた高らかな哄笑へと変化した。

「クヒッ、クヒヒヒヒ!! ウクク、ククッ、アハッ、アーッハッハッハッ♪♪ いいじゃなァ〜〜い、
メフェレスぅぅ〜〜ッッ!!! 皆殺し、皆殺しにしちゃおうじゃないィィッ、いい子面したビチグソ
どもをヲヲォォッ〜〜ッッ!! お高く留まったあんたが、なりふり構わずその気になるのを待
ってたのよォォッッ!!!」

 哄笑は、終わらない。
 呼応するかのように、敗北に蝕まれ薄闇に同化しかかっていた男が立ち上がる。

「『最凶の右手』と『スカーフェース』、暗黒世界に轟く悪鬼ふたりの力を得て、ファントムガール
全員を滅殺する!!! 守護天使ども、今度こそ根絶やしにしてくれるわッッ!!!」

 憎悪と狂気の黒炎が灰色の地下室に氾濫する。
 5人の聖少女たちに迫る、過酷な運命。ファントムガール抹殺への序曲は、今、ゆっくりと回
り始めた。



 1

 頭上から照らす陽射しはまだ強くとも、頬を撫でていく薫風には明らかな爽快さがある。
 夏の残滓は感じられるが、透明感を増したような空気が秋の訪れを確実に教えてくれる。初
秋。九月の半ば。夏休みはあっという間に過ぎ去り、再開された学業の日々にも慣れ始めた
季節。刻々と清廉さを増していく時の移ろいのなかで、夏の騒がしかった心が落ち着きを取り
戻していくのがわかる。本格的な秋の到来はもう間もなくのことだろう。
 霧澤夕子は、秋という季節が好きだった。
 元々研究に没頭するタイプの天才少女にとって、過ごしやすいこの季節は集中するのになに
より快適であった。そしてどこか物哀しさを覚える雰囲気。賑わいよりも孤独とともに生きてき
た彼女には、馴染みやすい空気感なのかもしれない。

 ツインテールに纏めた赤い髪の先を、指先でくるくると弄ぶ。時折過ぎていく風がなんとも心
地よい。池の上に架けられた30mほどの木橋。やや色素の薄い茶色の瞳は、水面に映る己
の顔をぼんやりと眺めている。
 若宮緑地公園は、栄が丘や谷宿などこの地方の中心からはやや離れているが、広い敷地と
充実した設備でこの地方の誰もが知っている県営公園であった。サッカーや野球のグラウンド
からテニスコート、バドミントンコートまで整備された一方、芝生の広場や噴水など、一時の憩
いを求める場まで多く点在している。週末ともなれば多くの家族連れがグローブやお弁当を携
えてやってくるが、今日のような平日の昼間には、学生のカップルかサボリ中のサラリーマンく
らいしか姿は見えない。湖面の橋上に佇む、赤髪のセーラー服美少女は実に絵になったが、
生憎それに気付く者はほとんどいなかった。

「待った?」

 不意に背中から掛けられた声に夕子は振り返る。完全に虚を突かれた形であったが、声に
含まれた柔らかさのためか、別段驚くこともない。こういう慈愛もあるのかと密かに感じ入りな
がら、赤髪の少女は待ち人の姿を正面から見詰める。

 自分と同じはずの青いセーラー服が、やけに眩しく見えた。
 少し茶色の混ざった長い髪。スレンダーながらあるべきところにしっかりと丸みを帯びた完璧
なスタイル。紺色のハイソックスが長い足をよりスラリと伸ばして見せる。美貌という言葉では
言い表せないほどの美貌。切れ長の瞳に宿った優しげな光はどこまでも深く、桜色の唇が結
んだ仄かな微笑みがそれだけで気品溢れる華やかさを振り撒いている。
 静謐な秋の空気に溶け込んだかのような少女・五十嵐里美は、自然で、それでいて神秘的な
までの笑顔で、年下の友を迎え入れた。

「さっき来た、ばかりよ」

 あんたを待つのは苦痛じゃないし・・・言いかけて夕子は言葉を閉じる。同じ宿命を選んだ者
同士、その意味でふたりの立場は対等であるはずなのに、時に夕子は里美に話すのがあまり
におこがましく思える瞬間がある。かつて桃子には言えた同じ台詞を、夕子はついに里美相手
には口にすることはできなかった。

「学校は同じなんだから、校内で待ち合わせすればいいのに」

「学園のマドンナである生徒会長さんと、嫌われ者の私が一緒にいたら何かと目立つでしょ」

 困惑顔のなかにムッとした様子を見せたのは里美の方であった。夕子の言葉が一面事実で
あることを認めつつも、己を卑下する調子が気に入らなかったらしい。冷淡とも呼ばれるクー
ルな少女の魅力を、恐らくもっともよく悟っているのは、誰あろう里美であった。
 苦言を呈しようとする美しき少女の機先を制して、天才少女は話題をはぐらかす。

「いいところでしょ、ここは。喧騒から離れたいときには絶好の場所。誰にも聞かれたくない話
も、気兼ねなくできるしね」

「・・・わざわざ呼び出すところを見ると、よほど話したいことがあるみたいね?」

「別に。たまにはあんたと、ふたりきりで喋れたらと思ってね」

 夕子が忙しい少女であることは、今更思い返すまでもない。夏休みの期間中も、ほとんど毎
日のように聖愛学院の物理実験室に通って、課題としている研究に取り組んでいたことはわか
っている。人類の守護天使ファントムガールとなることを誘った里美と、受け入れた夕子。とは
いえ天才少女は、己の抱えている難題に引き続き取り組めることを熱望した。即ち、実験研究
をあくまで並行して行なうことを。
 戦士としての力量をあげるため企画された特訓を、平気でサボって研究に打ち込む夕子に、
さすがの里美もしばしば閉口したが、彼女が取り組む研究の重さを理解するだけに注意する
気にはなれなかった。夕子が取り組む研究、それはサイボーグである己の肉体を、自分自身
の手で作り直す研究。娘をサイボーグにせねばならなかった父に、肉体を返すための努力を
続ける夕子の邪魔などできない。してはいけない。特訓の重要性はわかっていても、守護天使
たちのリーダーたる少女は、あえて夕子の想いを尊重してきた。
 そんな夕子が時間を割いて、学校からも離れた公園に呼び出したのは、それなりの理由が
あるはずだった。台詞とは裏腹の深い思いを、忍びの末裔でもある少女はとっくに感知してい
る。

「七菜江から聞いたわ。来週からの修学旅行、許可出したんだって?」

 進学校でもある聖愛学院の修学旅行は毎年この時期、二年生を対象として行なわれてい
る。
 一学年で1500名を越えるマンモス校であるが、学科ごとにコースを変えて、一斉に旅行は執
り行われる。つまり、普通科の藤木七菜江も、理数科の夕子も、回るコースは違えども同じ日
にこの地を離れ旅立つということだ。

「もちろんよ。修学旅行は高校生活のなかでも大事なイベントでしょ」

「ファントムガールの戦力は分散されることになるけど、それでもいいわけ?」

 橋の欄干に肘掛けながら、夕子はやや垂れ気味の瞳で横目に見詰める。責めるのではな
く、確認する口調だ。
 これまで里美は、5人いる守護少女たちが極力離れ離れになるのを避けてきた。理由は明白
で、敵方であるメフェレス一党から個別に狙われるのを防ぐためだ。事実、里美が伊賀の里に
静養に出掛けた折や、ユリが合宿で伊豆地方に訪れたときなど、幾度か危機に陥っている。
援護の手がすぐに伸びるよう、できる限り近場で連絡しあうのは、鉄則としてずっと気をつけて
いたことだ。
 しかも今回の修学旅行は学校行事であり、その学園の実質支配をメフェレスの正体である
久慈家が握っているとなれば、絶好の襲撃チャンスを敵に知らせているようなものだ。夕子も
七菜江も、高校生活最大のイベントを密かに諦めていたのも無理はない。

「分散といってもまるでバラバラになるわけじゃないしね。久慈たちの動向にも、十分気をつけ
ておくつもりよ」

「あいつら・・・メフェレスたちもだいぶガタガタしてるようね?」

「久慈は消息不明のまま。片倉響子も袂を分けてから行方しれず。ちゆりは相変わらずだけ
ど、特に仕掛けてくる様子もないわ。・・・奴らの状況が状況だけに、許可を出したというのは否
定できないわね」

 久慈家の財産と殺人剣の技量。無数の『エデン』の保有。キメラ・ミュータントという新たな怪
物の創造。そして魔性の天才生物学者と狂気の「闇豹」という両輪の悪華・・・一時は国家をも
バックにつける里美らファントムガールを壊滅寸前にまで追い込んだメフェレスの一党。時代
の趨勢は人類を暗黒に巻き込むかと思われたが、ここにきて状況は変化を見せていた。尊大
の塊であったメフェレスは弱々しく逃げ去り、悪の結託は脆くも綻び始めている。かつてのよう
な勢いも、力も、今の敵方にはない。事実、個別にユリや桃子を狙い一時は勝利を収めた時
でも、最終的には敗走を強いられているのだ。戦況は明らかに光の側に傾いてきていた。
 慎重な里美が旅行に許可を出したのは、現況に依るところが大きかった。もしメフェレスらが
今までのような結束を見せていたら、涙を飲んでふたりの少女には思い出作りを諦めてもらっ
ていただろう。

「そこんところ、ちょっと訊いてみたかったんだけど」

 池の湖面に視線を合わせたまま夕子は言う。

「里美はこのままあいつらが落ちぶれていくと思ってる?」

 ツインテールの頭を後ろから見詰めながら、美麗の少女はゆっくりと首を横に振った。

「久慈はこのまま引き下がるような相手じゃないでしょうね。必ずさらに激しい闘いを挑んでくる
と思う。片倉響子も何を考えているのかわからないし・・・」

「私たちの闘いは、これからもっと厳しくなると?」

「恐らく・・・そうなるでしょうね」

「前から一度、里美には訊いておきたいことがあったの」

 わずかに夕子の語気が強くなるのをくノ一少女は聞き逃さなかった。本題が迫っていることを
しり、微かな緊張が美しい容貌に走る。

「あなた・・・最後の『エデン』を工藤吼介に渡すつもりじゃない?」

 ピクリと動いた里美の唇の花弁からは、言葉は出てこなかった。

「私を仲間に誘ったときのあなたは、ひとりでも多くの光の戦士を探すのに必死になっていた。
なのに所持する『エデン』が残り一個になった途端、仲間探しを口にしなくなったわよね」

「それは・・・ユリちゃんや桃子が、思いがけない形で仲間になってくれたから・・・」

「久慈が大量の『エデン』を持っている以上、ひとりでも多くの仲間が必要なのは変わらないで
しょ?」

 理路整然とした理系少女の追及に、全てにおいて完璧なはずの生徒会長が押し黙る。

「工藤はもうファントムガールの秘密をほとんど知っている。それでいながら今までと同様に私
たちと接し、しかも七菜江や・・・あなたを守ろうとし続けている。仲間として迎えるのに、これ以
上はない人間とも思えるわ」

「でも・・・彼は光の戦士になるとは限らないわ」

「そうね。だからあいつは片倉響子に誘われても『エデン』を拒み、あなたも最後の『エデン』を
使えないままでいる。逆に言えば全てを工藤が知った今、光になるか闇になるか、それだけが
最後に残った関門よ。そこをクリアすれば・・・あなたは工藤に『エデン』を託す」

 振り向いた夕子の鋭い視線が、突っ立ったまま表情を変えない美貌を射抜く。
 軽く溜め息を吐いた里美ははぐらかすように、今度は自分がゆっくりと橋の手すりに背中をも
たれた。

「随分と、断言するのね」

「あなたがそう思っているのは間違いないから」

「夕子は吼介のこと、苦手だったんじゃなかったっけ?」

「まあね。私はああいうハッキリしない男は嫌い。あいつが仲間になるとも正直思えない。でも、
私なんか比べられないほど長く付き合ってきたあんたがいいって思うなら、それ以上反対する
ことなんてできない」

「私だって・・・吼介が光の戦士になるなんて自信はないわ・・・」

 漆黒の瞳が伏し目がちになる。感情の揺らぎが、琴のような里美の声を翳らせた。

「吼介の格闘能力の高さは誰もが知っている。でも、正義と悪、どちらとも取れない彼の資質が
『エデン』との融合を躊躇わせるのは、今に始まった話じゃないわ」

「だからあなたは、私と七菜江がいなくなる間に、工藤を試そうとしている」

 一点を見詰め続ける切れ長の瞳が、大きく見開かれる。

「敵の状態が混乱している今なら実験はやりやすい。万が一を考えれば七菜江の前で工藤の
真実を見るのは避けたい。あなたにとって、千載一遇のチャンスがやってきたんじゃないの?」

「吼介は・・・片倉響子の誘いを断っているのよ。『エデン』との融合なんて、彼自身が・・・」

「あいつは五十嵐里美の頼みは断れない」

「・・・彼がミュータントになる可能性だってあるのよ」

「そのときは里美自身の手で殺すつもりでいる。だから、七菜江がいない時を選んだ。違う?」

 垂れがちな瞳に真摯な光を浮かべて、夕子は真っ直ぐに里美の横顔を見続けた。
 風が水面を渡る。鳥が高く啼く。
 気品に溢れた蘭のごとき少女は、俯き加減であった美貌をあげ凛と正面を見据えて言い切
った。

「違うわ。私は吼介に『エデン』を融合させるつもりなんてない。絶対に、ないわ」

「・・・そう。なら、いいんだけど」

 珍しく語気が強い里美に、夕子は落ち着いた声で応えた。

「工藤に『エデン』を与えないのは正解だって、あなたの理性がわかってるのは知ってるわ。た
だ感情のどこかが、あいつと一緒に闘いたがって暴走しないか心配でね」

 開きかけた唇を里美は閉じる。涼やかで、それでいて憂いを帯びた深い瞳で、そのまま赤髪
の少女を黙って見詰め続ける。

「じゃあ、安心して、東京巡りを楽しませてもらうとするわ」

 背中を向けたクールな少女は、用件を済ませると、振り返ることなくスタスタと湖上の橋を渡
り去っていった。

「しないわ、そんなこと・・・あなたに言われなくたって・・・」

 秋の穏やかな風にも掻き消えそうな呟き。
 18という年齢以上に落ち着いた普段の令嬢からは想像できないほど、その口調は随分と幼
い響きを伴って、風の中に溶けていった。



「ア・ナ・タとあったしさくらんぼォ〜〜♪♪」

 元気ハツラツという表現がこれほどハマる声もまずないだろう。
 青春という実体のないものがスパークしている。突き抜けるような明るい大音声と、鋭さ極ま
りない動き。広さ8畳ほどのカラオケルームに、若さと輝きが爆発している。多少の音程のズレ
など気にも留めない勢いある歌声は、歌い手の上々の気分に乗って、限られた空間の隅々に
まで氾濫して埋め尽くす。
 曲譜のページをめくっていた指先を思わず止めて、桜宮桃子は露骨に端整な顔を歪めて耳
を塞ぐ。学校帰りのミス藤村女学園は、白ブラウスに胸元を飾る赤いリボン。クリーム色のチェ
ックのミニスカに、同色のブレザーという制服姿である。可憐という言葉を滝のように浴びせて
も足りないと思われる愛らしさは、女子高生そのものの姿になって更に増したようにも思われ
た。整った柳眉を寄せたしかめ面も、この美少女にかかればキュートさこのうえない表情とな
る。

 壇上でマイクを握り締めたまま絶叫を繰り出すのは、夏が過ぎてもひまわりのごとき笑顔を
振り撒く、ショートカットの少女であった。
 白のシャツに青で統一されたカラー、スカーフ、そして短めのプリーツスカート。この地方界隈
では有名な聖愛学院のセーラー服は、爽やかさと愛くるしさを発散する元気少女が着ることで
よりその魅力を増している。今や、桃子の無二の親友といっていい藤木七菜江。男子が好み
そうな猫顔系列のアイドルフェースは、桃子というモデル顔負けの現代美少女の隣りとあって
造形の完璧さでは一歩譲るが、こと愛らしさについて言えば微塵も劣ってはいない。ふたりでカ
ラオケに興じる姿は、テレビの音楽番組を見るより余程贅沢な絵面に思われる。

 もともと仲の良い七菜江と桃子であるが、共に五十嵐里美の屋敷に居候になっていること、
カラオケが好きなことから、学校帰りふたりだけでカラオケルームに入るのは一度や二度では
なかった。
 正義の守護天使といえど、やはり年頃の女の子。遊びの誘惑を断ち切れないのも、仕方の
ないところと言えよう。

「んもォ〜、ナナったらハシャぎすぎだよォ! 鼓膜ジンジンしてるじゃん」

 絶好調の元気少女にイマドキ美少女はブーイングを放つ。美貌をしかめる桃子とは対照的
に、七菜江はとびっきりの笑顔だ。抜群の運動神経を誇る少女は、ムチャクチャな、それでい
て凄まじくキレのある動きで踊っているので紅潮した顔に汗を浮かべている。カラオケであって
も精根尽きるまで全力を出し切ってしまうのが、七菜江らしいところではあった。

「エヘヘ、だって、来週から修学旅行なんだよ! まさか行けるって思わなかったんだもん。イ
エイ♪」

「もう、相変わらず単純なんだから」

「イエイ♪ イエイ、イエイ、イエイッ!!」

「うるさい、うるさい、うるさーい!」

 耳元までやってきて絶叫を繰り返す七菜江に、さすがの桃子もたまらず悲鳴をあげる。
 曲が終わるころには、ヘトヘトの猫顔少女と、ぐったりとしたミス藤村が、互いに肩で息をして
ソファーの上に倒れていた。

「はい、モモ。ジュースきたよ」

 店員が運んできたアップルジュースのグラスを桃子の方に運びながら、七菜江は氷が浮かん
だウーロン茶のストローに口をつける。すでにカラオケ開始から2時間近く。カロリー消費は断
然にアスリート少女の方が多いはずなのに、復活が早いのはさすがと言えた。

「なんだかいつもより疲れたよ・・・もォ、ナナのせいだからね!」

「だってエ、嬉しくて仕方ないんだもん」

「そんなに旅行行けるのが嬉しいの?」

「それもそうだけどサ、高校の修学旅行は人生で1回しかないじゃん。亜紀子やみんなとちゃん
とした思い出作れるの、こういうときしかないから・・・」

 白い歯をこぼして、同性の桃子がキュンとくるほどの笑顔で七菜江は言う。
 亜紀子というのがバスケ部の同級生で、七菜江の学校での親友であることは桃子も以前か
ら聞かされている。七菜江の話にはやたら友達が登場してくるが、そのなかでも一番多く聞く名
だ。多くの友人に恵まれ、愛されていることがわかる七菜江の話を聞いていると、桃子は時
折、うらやましく思っている自分に気付く。桃子の周囲にも友達は多いが、校内に心から信頼し
ている朋友はいないのを、桃子自身が自覚してしまっていた。それは友人たちのせいではな
い。超能力という秘密を持つが故の、桃子の宿命ともいうべき事態であった。

「あ、あれ? どうしたのモモ? あたし、なんか悲しませるようなこと、言っちゃったかな?」

「ん。んーん、なんでもないよ。それよりナナ、修学旅行、どこいくんだっけェ?」

 友のオロオロとした気遣いの視線を受けて、すぐに超能力少女は笑顔を作る。桃子が本当
は闘いの宿命を背負った仲間たち以外には心を開けない、なんて知ったら、きっと七菜江は我
が事以上に哀しみに暮れる。このどこまでも真っ直ぐでお人好しな友は、自分の人生のことな
んてすっかり忘れてずっと側にいると誓いかねない。友達の哀しみを取り去るためには、己の
犠牲など厭わない少女。七菜江の性格を知り抜いているがため、似た境遇の夕子には話せて
も純粋少女には桃子の真実は隠したかった。

「えへへ、二泊三日、東京の旅です!」

「え? 東京ォ?」

「そうだよ。あたし、行ったことないから楽しみなんだァ!」

「せ、聖愛って修学旅行、東京なんだァ・・・へえ〜・・・」

 17歳にもなって未だ東京に行ったことがないというのも意外であったが、イマドキの高校で修
学旅行が東京というのも桃子には驚きであった。というのも、彼女たちが住む地方は新幹線を
使えば一、二時間ほどで東京には着いてしまう。他の学校、特に私立の高校では、北海道だ、
沖縄だ、と謳っているなかで、この身近さは異様ともいうほどのものだった。
 事実、聖愛の生徒のなかには、他校と比べあまりに見劣りする旅行先にブーイングを飛ばす
ものも多いのだが、歴史と伝統を重んじる校風にあっては、かつて一度も東京以外のコースを
選んだことはない。むしろ敢えて首都を選んでいるところに、名門校としての矜持を示している
ような印象さえあった。

「ね、ね、藤村は修学旅行、いつ行くの?」

「あたしたちのガッコは春先だから、もうとっくに行っちゃったよ」

「え、もう? 早いんだねー。モモたちはどこ行ったの?」

「え?・・・・・・グアムだよ」

「へ?」

 猫顔少女の吊り気味の瞳が、パチクリと二度まばたきする。

「グアムって・・・あのグアム?」

「んと・・・そのグアムかなァ」

「だってだって! グアムって海外だよ! 飛行機乗らないといけないじゃん!」

「もちろん飛行機乗って行ったんだけどね・・・」

「なんで修学旅行でグアム行くの?! 夢の島だよ?! 常夏の島だよ! 新婚旅行で一生に
一度、いけるかどうかってところじゃないの?!」

「ナナは何時代のひとなのよォ?!」

 今でこそ日本でも十指に入ろうかという地方の中枢都市に住んでいる七菜江であるが、元々
は山林に囲まれた田舎出身の少女だ。聖愛学院の何割かは遠地より来た寮生で占められて
いるが、七菜江も五十嵐家に居候する前はそのうちのひとりであった。彼女のなかでは未だ、
「海外」や「飛行機」は遠い世界の存在らしい。初訪問の首都に想いを馳せるのも、致し方ない
ところかもしれなかった。

「なんかちょっと不安になってきたよ・・・あんまり東京でハシャぎすぎないでね? 田舎者ってバ
レちゃうから・・・」

「ム。別にいいもん、田舎モンだから。そういうモモはどうなのよ? 東京に行ったことはある
の?」

「あたしは昔、住んでたから・・・」

 初めて聞く話に、再び吊り気味の瞳が丸くなる。

「な、ななッ?! なんでそういうこと教えてくんないのよ!」

「だってェ、わざわざ言うほどのことじゃないでしょォ」

「花の都、大東京に住んでたなら、ちょっとばかり言いふらしても良さげなもんじゃん」

「だから何時代のひとなんだってばァ!」

 思わず白い頬を緩める桃子の胸には、表情とは裏腹の苦い思いが蘇っていた。己の秘密を
隠すため、エスパー少女は幼少より家族とともに引っ越しを繰り返してきた。東京もそれらの土
地のひとつ。七菜江にとっては憧れの地も、桃子には感慨深いものはない。
 そんな実情を知る由もない元気少女は、瞳に宿る光をさらに強めて言った。

「じゃあさ、じゃあさ、やっぱり渋谷で遊んだりするわけ?」

「まあ、そうだね」

「お台場行ったりとか? 有名人にも会ったりして? ね、ね?」

「そんなタレントさんとか、滅多に会えないってばァ・・・」

「あ、そうだ!!」

 素っ頓狂な声をあげるや否や、満面に笑みを咲かしたひまわり少女は、戸惑う桃子の手を
握り締めていた。

「モモも東京行こうよ!」

「え? ええッ〜〜?! なに言い出すのよォ!」

「自由時間がすっごく多くてどうしようか困ってたの! モモが一緒なら心強いし、なによりゼッ
タイ楽しいよ。旅行は週末だから、学校も問題ないし。向こうで待ち合わせて夕子と3人で遊ん
だら、一生忘れられない思い出になるって!」

 突拍子もない七菜江の提案に驚く桃子。深く考えない単純少女の誘いに困惑するのは、至
極当然のことであった。
 だが実のところ、東京の空の下、親友3人で集う姿を想像した途端、桃子はこの案に魅力を
感じてしまっていた。闘う宿命を背負った守護少女たちのなかでも、同学年の3人組で遊ぶの
はままあることであったが、場所が東京でとなれば特別と思わずにはおれない。キュートさこの
上ないショートカットの元気少女と、理性に溢れた赤髪ツインテールのクール少女、そして華や
かな現代美少女の3人で、首都の名所を巡る図はあまりに豪華絢爛たる。七菜江の言う通り、
生涯の記憶に刻まれるのは間違いないであろう。

「で、でもォ、あたしが東京行っちゃったら里美さん、困らないかなァ? ただでさえこっちの守
備が甘くなるっていうのに・・・」

「だったら最初からあたしたちの東京行きも止められてるよ。モモひとりいなくなってもあんまり
変わんないって」

「うーん、ヒドイこと言うけど、当たってるかもォ・・・でも夕子はァ? 夕子にも相談してみない
と・・・」

「あはは、大丈夫だよ。夕子はあたしたち以外、友達いないもん。ブツブツ言いながらもゼッタ
イ合流してくるよ」

「ま、またヒドイことを・・・でも、当たってる気が・・・」

 オブラートに包むということを知らぬ七菜江の言葉に、眉根を寄せながら桃子は苦笑する。
その心の内は、久しぶりに訪ねるであろう東京の景色に、ほとんど染め抜かれつつあった。

「よっし、じゃあキマリ! 旅行プランは全部モモに任せるから、オススメの場所とかお店とか期
待してるね♪」

「もうッ、しょうがないなァ・・・あたしのお気に入りのとこ巡りになっちゃうけど、それでもいいの
ォ?」

「もちろんだよ! やっぱり渋谷? 原宿? それとも代官山とか? モモお気に入りなんてな
んだか緊張しちゃうなあ、すごくファッショナブルなお店そう・・・」

「んっとね、巣鴨だよ」

「スガモ?」

「あと浅草もいいなァ。ちょっと足伸ばして柴又もいいかもね。映画で有名な帝釈天とか、もうサ
イコーだよォ♪」

「へ、へえ〜?」

 よくわからないながらも、眩しいばかりのミス藤村の笑顔を見て、七菜江も楽しみがますます
湧いてくる。

「モモのおかげで最高の修学旅行になりそうだよ! ああ、早く来週になんないかなー」

「あっとそうだァ、ナナに言っておきたいことがあったんだった」

 それまで天使そのものという可憐な笑顔を咲き誇っていた桃子の美貌が、急に引き締まった
ものへと変わる。

「あのさァ、吼介とのこと、どうするつもり?」



 そのスナックに客が入っていくのを、目撃した者はまるでいなかった。
 昼にはオフィスビルが立ち並び、夜には繁華街のネオンが闇を照らす、この地方きっての中
心地・栄が丘。スーツを着込んだ公務員も、辻角に立って誘う売春婦も、共存して尚違和感の
ない街は、夜闇のなかで人間のあらゆる性を呑み込んでいく。酒気漂い、嬌声飛び交い、喧騒
渦巻くカオスの土地に、酒を飲ませる店は数え切れぬほどあるであろうが、よくよく観察してい
ればその店の不自然さは誰にでも明らかだった。

 石の階段を降りた地下、3軒連なった店舗の一番奥。ひっそりと出された看板だけが、そこが
スナックであることを教えてくれる。
 通路に灯った蛍光灯が、途中で切れている。おかげで店の前はひとが立っていても目を凝ら
さねばわからぬほど暗い。ただでさえ不穏な空気が漂ってくるというのに、暗闇の濃さがますま
す奥へと続く道程に踏み出すのを躊躇わせる。店の繁栄を願うのならば、どう考えてもその蛍
光灯は付け替えるべきなのに、店ができてから約2年、交換の兆しは一切見られない。
 壁は真っ黒に塗られ、一見しただけでは入り口がどこにあるかさえもわからなかった。まるで
来店を拒絶するように。酔客たちの賑やかな声も奥までは届いてくることなく、また店の中から
明るい声が洩れてくることはただの一度もなかった。

 客足のない、いや、むしろ遠ざけるような不自然な店。
 そしてもっとも不思議なのは、仮にも栄が丘という一等地だというのに、この利用客の途絶え
たスナックが2年もの間、潰れることなく続いていることであった。
 だが、この地を、そして社会の仕組みをよく知る者たちはわかっている。なぜこんな不思議な
現象が起こるのかを。この手の店はまだ他にいくらでも存在していることを。
 売上がなくても存続できる店。それはつまり、店であって店でないもの。本当の収益は他のル
ートから得ているもの。
 夜の街に君臨する裏世界の帝王たち・・・そのスナックは栄が丘にシマを張る、ヤクザの根城
のひとつに間違いなかった。

「遅せえな」

 ボツリと呟く男の声が、静寂に沈んだ店内に一際大きく響く。
 カウンター越しのテーブルに男はどっかと座り込んでいた。横には琥珀色の液体が揺れる角
瓶のボトル。適当に選んだ店の品を、男は店主がいないのをいいことに勝手に頂戴しているよ
うだった。

 一見しただけで、表世界の者ではないとわかる男であった。
 紫のジャケットとスラックスは少し大きめなのか、ブカブカと弛んだ印象を受ける。インナーは
黒のTシャツだけで、胸元を飾るのはド派手な金のネックレス。蛇のものらしい革靴とマルボロ
を口に運ぶ指に光るサファイアがやけに眩しく輝いている。背は人並みだが肉感は重厚で骨
の太さを感じさせ、短い首は頭部よりも太かった。
 明らかにその筋の者だとわかるファッション。だがそれ以上に見る者を畏怖させ、男が一般
人でないことを知らせるのは、その顔であった。

 ケロイド状に赤黒く腫れた刃傷の跡が、瓜のような輪郭のなかに縦横無尽に走っている。
 皮膚の位置がズレたせいで、左眼はやや下方に崩れ、唇は極端に折れ曲がっている。短め
の角刈りにした頭にはパッと見、虎の縦縞を思わせる肌色の切れ込みが数本入っているが、
よく見るとそれは頭部にまで達していた切り傷の跡だった。
 傷のせいか元からそうなのか、三白眼は垂れ気味で受け口からは常に黄色い歯が覗いてい
る。凶悪な人相と夥しい傷跡は、善良な市民を顔だけで脅えさせるのに十分であった。

「ちゆりよォ、オレたちをわざわざ呼び出しといて待たせるとは、よっぽど楽しい話なんだろうな
あ、ああ?!」

 重厚な猛獣が、唸っているかのような声だった。裏に潜んだ苛立ちを溜め、一気に獲物に襲
い掛かる時を待っているかのような。いたずらにイキがるチンピラとは訳が違う、聞くだけで震
えそうな凄みがそこには含まれている。鉛が含まれているように重い声。もし怒りの一喝でも浴
びようものなら、常人ならそれだけで卒倒しまいかねない。

「もちろんよォ〜、きっと満足してもらえると思うけど〜〜」

 男の傍らに立った金髪の少女が、紫煙を吐き出しながら言う。
 「闇豹」の異名に違わず、今夜の神崎ちゆりは全身を豹柄のワンピースで包んでいた。大きく
開いた胸元からはかすかな谷間もちら見えるが、どうやら下着も豹柄で統一しているらしい。
舌足らずな感のある喋り方も、念入りに施したメイクもいつもと変わりはないが、その表情には
どこか固さが見られ、いつもの他者を小ばかにしたような目つきが消えている。

 今、ハッキリとちゆりは己が緊張しているのを自覚していた。
 その異常事態を引き起こしている原因も理解していた。目の前、傷だらけの顔で見据えてく
る恐竜のような男と、店の奥――背を向けてソファーに座ったままグラスをひとり傾ける男。
 極道の世界においてその名を知らぬ者はないふたりの猛者は、闇世界の女帝として近隣に
名を轟かせる少女を、雰囲気だけで圧倒してしまっていた。

「もし満足できなきゃ・・・わかってるよなあ?」

 言うなり疵面の男が金髪コギャルの右乳房を鷲掴む。
 ピクリと眉を動かしたちゆりに構うことなく、男は粘土でもこねるような勢いで乱暴に片手に納
まる柔肉を揉みしだく。

「河西のオジキが惚れこんだっていう、『闇豹』の味、楽しませてもらうとするか」

「『スカーフェースのジョー』に抱かれるなんてェ〜、こっちからお願いしたいくらいだけどねェ〜
〜」

 下卑た笑みを浮かべる男――城誠に、ちゆりは淫靡に笑い返す。濃いシャドーの下の丸い
瞳がいわくありげに細まった様子は、男の迸りを心底熱望しているようにしか見えない。ならず
者たちが名を聞いただけで震え上がる「スカーフェースのジョー」相手に巧みに切り返す辺り
は、裏世界を身ひとつで渡ってきたちゆりならではの芸当といえた。ジョーの発する悪意に気
圧されつつも、「闇豹」はさすがは「闇豹」であった。
 無言で疵男は豹柄の悪女を引き寄せる。ふたつの手で両乳房を毟られそうなほど揉まれな
がら、ちゆりは声ひとつあげずに心の内で考える。

 今、ここでこの男と闘ったら、殺せるだろうか?
 「スカーフェースのジョー」の恐ろしさも、黙々とウイスキーを飲んでいる「最凶の右手」海堂一
美の禍々しさも、ちゆりはよく理解している。恐らく、今の日本の裏社会で、もっとも敵に回した
くないのがこのふたりだ。「闇豹」がいかにこの界隈を席巻しようとも、それはバックについた組
織のおかげ。ヤクザ社会でも要注意とされる男たちと、恩恵に預かっているに過ぎないコギャ
ルとでは、格から力から比べ物にならない。
 しかし、今のちゆりは単なる一地方を牛耳る悪党ではない。マヴェルという、軍隊ですら相手
にならない仮の姿を持ち、『エデン』によって飛躍的にあがった戦闘能力を備えているのだ。1
vs1、差し向かいで闘えば、悪名轟く殺人鬼を血の海に沈められぬこともないはずだった。

 そう、思ってはみるものの――
 悪女のなかで何かが呼びかけてくる。やめろと。この者たちを、敵にしてはならないと。
 『エデン』を持ち、人間を超越したはずの自分が、人間の域を出ない男たちに脅えている。闘
えば、無惨に切り刻まれ内臓をさらけ出された姿を、自然に思い描いてしまう。全人類を恐怖
に陥れた巨大侵略者の幹部にとって、たかが人間に脅えるなど有り得ない話のはずなのに。
 ちゆりの困惑。それは、『エデン』寄生者を上回る力を持つ人間がいることを、現実に体験し
ていないが故。
 世にはいる。恐るべき力を持った、凄玉の人間たちが。
 そう、例えば、逆三角形の肉体を誇る格闘獣・工藤吼介のような・・・

「ちゆり。待ち人が来たようだ」

 疵面の恐竜と豹柄の悪女の絡みに熱が篭もり始めたとき、ひとりグラスを傾けていた男が言
葉を放つ。落ち着いた、知性すら漂わせた声だった。ビクンと肩を震わせたジョーが動きを止
める。

 入り口の扉の向こうから、圧倒的な負の風が吹き込んでくる。
 店内の男たちの特筆すべき凶悪な腐臭に、まるで引けを取らない憎悪の風。ひとり、「闇豹」
だけが、ゴクリと咽喉を鳴らす。

「入って来いよ」

 歪んだ唇をさらに歪めて告げたのは、紫のスーツに身を包んだジョー。

「『闇豹』が言ってた久慈とやらはてめえだろ?」

「そうだ。『スカーフェースのジョー』とはあんたのことらしいな」

 黒い扉を挟んだままで、魔人と疵面とが会話を続ける。双方から放たれた黒いとぐろが見え
るかのようだった。降り積もった瘴気を圧縮していくかのように、スタスタとジョーが扉に向かっ
て歩を進める。

「ガキの分際でオレたちを呼び出すとはいい度胸じゃねえか、ああ?!」

「貴様たちにとっても悪くない話を持ってきた」

「遅れて登場の割りには、一言の詫びもなしかい?」

 扉まで1mの距離。
 歩みを止めた疵面の恐竜が、懐から取り出した拳銃を扉の向こうの声の主に向ける。

 ドシュッ

「フフン、面白い。ボウヤの割にはやるようだな」

 互いに無言の久慈とジョーに代わって声を発したのは、ゆっくりとソファーから立ち上がった、
海堂一美であった。
 扉を突き抜けた日本刀の刃先が、疵面の咽喉元数cmに迫っている。
 拳銃を構えたままのジョーと刃を突きつけたままの久慈。互いの姿を見ることなく、ギリギリ
の死線を渡るふたりの間に海堂が介入しなければ、魔人と凶獣とは硬直したままであったろ
う。

「オレたちと会うだけの力はあるようだ。じっくり話を聞かせてもらおうか」



 この地方一帯の裏世界を束ねているもの、それが全国組織花菱組系幹部・河西昇率いる河
西組である。
 神崎ちゆりが幅を利かせられるのは、その河西昇組長に特別な寵愛を受けているがため
だ。
 巨大生物が出没し、日々の危険が急激に増した現代であるが、ヤクザ組織自体に大きな変
化はなかった。ともすれば街の崩壊による混乱に乗じて、暴利を稼ぐことも考えられそうなもの
ではあったが、基本的に極道は商売だ。街や人がいてこそ、初めて商売は成立する。巨大生
物による破壊で多大な損害を被るのは、なにも表社会に限ったことではなかった。
 他者を虐げるのに快感を覚え、特に先の目標を持っているとも思えぬ享楽主義の「闇豹」
が、戯れに巨大化した姿になったり、積極的に街の破壊に乗り出さなかったのは、己を救った
闇世界の恩人に、それなりの感情を抱いているが故だったのかもしれない。

 巨大生物の出現のほとんどがこの地方であるため、河西組は今や大打撃を受けていた。栄
が丘や谷宿など、ショバ代の大半を得られる街で災害は繰り返されたのだからそれも当然だ。
構成員の何割かは、安全の確保とリストラの意味を兼ねて他の組に移籍したとも言われてい
る。
 そんななか、海堂一美と城誠は食客として河西組に招かれていた。
 花菱組の傘下にはあるものの、海堂と「スカーフェース」とは特定の組には在籍していない。
諸地方を渡り歩いてはその土地の組に厄介となる、渡り鳥のような存在であった。もちろん世
話になるからには、それなりの義理は返す。やるだけのことをやって報いを返すと、またフラリ
と好きな場所に旅立ってしまうのだ。

 ただ、今回河西組に厄介になっているのは、ちゆりの話によれば彼らの意思ではなく、組織
上層部の指示に渋々従ってのことであった。
 一説には極道界でも危険視されるふたりの存在を疎ましく思った上層部が、合理的な消去を
狙ってこの地に留めさせたとも噂されている。

「同じヤクザ世界でも、あんたたちはかなり嫌われているようだな。侠客だなんていうと聞こえ
はいいが、なんてことはない。あんたらを配下にしようなんて親分は、全国探してもいないんだ
ろう」

 スナックの店内、4人の悪鬼はそれぞれが距離を置きながら、思い思いの姿勢で会話を続け
ていた。中央の照明の真下に立ち尽くすのは魔人・久慈仁紀。元いたカウンター越しのテーブ
ルに戻ったのはジョーで、ちゆりはカウンター内に入り酒瓶を弄んでいる。そして海堂一美は、
今度はこちらを向いてゆったりと足を組み、ソファーに腰を下ろしていた。

 なるほど、これが海堂一美か。
 話を続けながら、久慈は数m先でくつろいでいる男に、自然好奇の目が向いてしまうのを自
制していた。伝説のヤクザ、海堂一美。直接裏社会には関わっていない久慈にも聞き覚えが
あるほど、その悪名は巷に轟いている。
 海堂一美。恐らく年は30代の半ば。日本"最凶"のヤクザと言われる男。
 海堂もジョーも身長は180cm前後と見られるが、恐竜のTレックスを思わせる重厚な肉体を
持つジョーに比べて、細身の海堂は鋭いイメージを伴っていた。ネクタイも三つ揃いのスーツも
白で統一され、それがますます研ぎ澄まされた印象を与えてくる。長方形型のサングラスで眼
は隠されているが、細長い顔にやけにマッチしているため、まるで黒い一つ目に睨まれている
ような錯覚さえ起こった。ソフトモヒカンの黒髪は鶏のトサカに似てなくもないが、こと海堂につ
いていえば鳳凰の頂きといった方が近いかもしれない。
 どこからどう見てもその筋のひと。だが、粗暴な悪党にしか見えぬジョーに対して、海堂はイ
ンテリヤクザとでもいった趣が強かった。

 そっとわからぬ程度に、久慈は海堂の右腕に視線を送る。
 白のスーツに隠れてよく見えないが、それでも殺人剣の達人は海堂の右手が左に比べてよ
り太く発達していることを見抜いていた。
 「最凶の右手」・・・その異名にどうやら偽りはないらしい。

「こんな話を聞いたことがある。ヤクザは道を極めれば極道となるが、道を外した奴は外道だ
とな。あんたたちは外道だ。規律や秩序もなく、無制御に暴れるあんたらを、ヤクザ社会も実
際は扱いに困っているというところだろう」

 青筋を浮かべたジョーを海堂がひと睨みで抑制する。ふたりの間では、格は明らかに存在し
ているようだ。

「オレたちの仕事ぶりを知っているような口の利き方だな」

「城誠。通称『スカーフェースのジョー』。犠牲者は三桁にも上ると言われる殺人鬼。暗殺を生
業とするものの、殺人自体に快楽を覚える異常者で、手当たり次第に人を殺すため裏社会で
もSランクの要注意人物。そして、あんた、海堂一美は」

 口に運んだ琥珀のグラスを、白スーツの男は表情を変えることなく飲み干した。

「ジョーより遥かに危険と言われている男。冷酷・冷徹であらゆる悪事に心を痛めることがなく、
目標のためにはどんな手段を使ってでも遂行する。ジョーもあんたも雇われた組の対立者を消
すのが主な仕事だが、ただ殺すだけのジョーとは違い、あんたは目の前で家族や恋人の目鼻
を削ぎ落としながら、たっぷり恐怖と苦痛を与えたうえで惨殺する。おおよそ悪魔と呼ぶに相応
しい男だ」

「クク、高校生はよく勉強しているじゃないか」

 唇を歪める海堂とそれを見て不敵に笑い返す久慈。
 恐らく、両者はともに相手の実力を看破しているはずだった。

 以前久慈は葛原という街の「壊し屋」を配下に収めたことがある。従属する気配をみせなかっ
た葛原を、久慈は叩きのめし、平伏させることで『エデン』を得たあとの葛原を下僕とすることに
成功した。『エデン』にはその人間が持つ精神を極大化させる作用があるためだ。久慈に恐れ
を抱いた葛原が、『エデン』と融合し実際には戦闘力を上げたにも関わらず、以前以上に久慈
を怖れるようになったのを利用したのだ。
 しかし今回のケース、海堂とジョーを服従させるのはあまりにも困難であることを、すでに久
慈も理解しているだろう。
 葛原と同様な手で、下僕とすることはできない。それどころか、もし『エデン』をふたりに授け
れば、久慈自身にも被害が及ぶような、とんでもない悪魔を誕生させることになるかもしれな
い。

 濃いマスカラの下、「闇豹」の眼がそっと久慈に向けられる。
 いいのかい?
 こいつらに『エデン』を渡したら最後、あんたも無事の保証はないんだぜェ〜?

「構わん。ヤツらを根絶やしにするのに、もはや躊躇うことはない」

 ボツリと呟く久慈の声は、ただちゆりだけが聞き分けた。

「あんたたちに殺して欲しい奴らがいる」

 懐から取り出した5枚の写真を、久慈は海堂の目の前に投げ捨てた。
 そこに写っているのはそれぞれタイプの違う美少女たち。青いセーラー服やクリーム色のブ
レザーに身を包んだ女子高生の写真を海堂は不思議そうに拾い上げる。
 さらに久慈は5枚の写真を海堂の手元に投げつけた。
 今度そこに写っているのは、鮮やかな銀の皮膚を輝かせた美しき女神たち――

「・・・なんの冗談だ?」

「殺して欲しいのは5人の守護天使たち。そしてその報酬として・・・世界を支配できる力をあん
たたちに授けよう」



 2

 「あの日」のことを、工藤吼介は今も鮮明に思い出すことができる。
 考えてみればまだたった一年ほど前のことなのに、随分昔のことのように思える。お前と知り
合ってからの時間は、それだけ濃密だったってこと、かい? 頭ひとつ分低い隣りの少女が、
キラキラとした瞳で話し続けるのを見下ろしながら、吼介は記憶のなかにある映像を呼び起こ
していた。

「工藤ッ!! 今日はもう、帰れッ!」

 空手道場の師範代の怒声が、佇む吼介に鋭く叩きつけられる。見下ろす先には共に汗を流
してきた同僚が、ピクリとも動かずに大の字で倒れていた。有り得ない角度に曲がった左足
と、陥没した胸部。そして血に染まった顔面・・・周囲の門下生たちの蒼白になった顔が視界に
入ってくる。真剣な闘いとはいえ、道場の組み手の範疇を越えた惨劇。修練の場である道場
に、度を越した暴力が猛威を振るったことをその光景は示していた。
 じっと吼介は己の右手を見詰める。真っ赤に濡れた岩のような拳。惨劇を生んだ犯人は誰な
のか、今更確認するまでもない。
 事件は今回が初めてではなかった。年に数回ある、工藤吼介の暴発事件。本人とすれば、
決して故意に相手を潰そうとしたわけではなく、ただつい熱がこもってしまっただけのこと。しか
しなんの罪もない道場仲間を、ただ己の胸に巣食った不快感を振り払うために、実力差も省み
ずに叩き潰してしまったことは、どう考えても許される行為ではない。

 折れた前歯が拳頭に突き刺さっている。無造作に引き抜くと、ドクドクと赤い血が噴き出して
きた。その様子を見詰めながら、吼介は拳以外の別の場所が、よりズキズキと疼くのを自覚し
ていた。

"・・・また、やっちまったか・・・"

 こうなった吼介を止められる者など存在しない。空手を一から吼介に教えた師範代にしても、
とうの昔に実力で追い抜いていった筋肉獣に敵わないことはこの当時すでにわかっていた。
 更なる被害を生まないように、ただ、帰らせる。
 脅えた視線を一身に背中で受け、最強を冠する高校生は黙って道場を後にする。いつもは
尊敬と憧憬の眼差しを向ける後輩たちが、人食い虎を見るのと同じ眼で見詰めているのがわ
かる。今の己が武道に相応しい人間ではないことを知る男は、ただ俯いてこの場を去ることし
かできない。

 惨めだった。
 このうえない、惨めさだった。何度味わっても。
 帰らされることが、ではない。少しの感情の揺れが、波立った苛立ちが制御できない心の弱
さが惨めであった。

"なにが最強だ・・・オレのどこが最強なんだ・・・たったひとりの女のことで、いつまでもウダウダ
してるようなヤツが・・・"

 あてもなく街をうろつき歩く工藤吼介の前、人々が次々と飛び退き道を作る。筋肉で膨れ上
がった逆三角形の肉体、血染めの拳。そして怒りとも哀しみとも形容し難い、あえて言うなら
「凄惨」な形相。ホモ・サピエンスの持つ本能が猛獣からの避難を選択させていた。

 吼介の脳裏にはつい数時間前の出来事が蘇っていた。高校からの帰り道。多忙な五十嵐里
美と一緒に帰るのは三日ぶりのことだったのに。偶然か。必然か。来週からのテストの話題で
盛り上がっていた会話を、中断するかのように不意に現れたのは、吼介も幼少より知る五十
嵐家の執事であった。

"仲がよろしいことですな。ご姉弟で"

 凍りつく里美の美貌。必要以上に慇懃丁寧な執事・安藤のお辞儀。

"まさかおふたりが同じ父君の血を継いでいることを忘れてはおられないでしょうが・・・姉弟睦
まじきことは、この老人が拝見しても微笑ましいものですが、くれぐれも工藤さまにあっては御
自身が五十嵐家の秘するべき恥部であることを、どうかお忘れなく・・・"

 血が逆流し意識が白くなるなかで吼介は、ただ眼を伏せ苦笑いを浮かべたのみだった。

 なんで・・・苦笑いなんだよ?!

 己の取った対応が許せない。さぞ卑屈であったろう己の笑顔が許せない。なにも言い返せな
かったことが許せない。そしてなにより・・・一瞬、泣きそうな表情を浮かべた里美を守れなかっ
たのが許せない。
 怒れよ。
 胸のなかでパンパンに膨らんだ怒り、鬱憤、存分にさらけ出して爆発させろよ。思いっきり叫
んで。路上の真ん中で、ありったけの咆哮で。誰に? 何に? そう、オレはわかっている。安
藤さんが憎いわけじゃない。あのひとがオレと里美との仲を引き裂こうとしていても、決して安
藤さんが悪いわけじゃない。里美の後見人であるあのひとは、ただ事実を突きつけているだ
け。オレが憎んでいるのは・・・怒りをぶつけたいのは・・・

 運命

"なんで・・・よりによって姉弟なんだよッ!・・・よりによって・・・里美なんだよッ!!"

 もう、何百回も何千回も胸の内で叫んできたどうしようもない怒りを、吼介は再び繰り返す。
 オレは何のために強くなったのか?! なんのために生きているのか?!
 吼介が一生を賭けて捧げると決めた、己の存在意義。自分がこの世に生まれたことの意
味、使命。誰もが思春期に一度は迷う、「なぜ自分は生まれてきたのか?」という疑問に対す
る、明確な答え。
 とっくに見つけていたはずのそれらが、里美との本当の関係を聞かされて以来、吼介のなか
から消え去ってしまっていた。
 最強ともてはやされ、賞賛と畏敬とを掻き集めるようになった我が身。だがそんな自分が運
命の前にあっては、拳ひとつ当てることすらできず、いいように弄ばれている・・・

「情けねえな、工藤吼介。守りたい女の近くにいることも許されず。惚れた女を好きでいること
すら許されず、か」

 強くなったのは、里美を守るためだった。
 生まれてきたのは、里美を幸せにするためだと思っていた。
 工藤吼介が見つけた、己が生きる意味。里美への消し去り難い愛情を悟った彼が辿り着い
た答えは、運命の冷たい風に吹かれ、掌の中でほどけて消えていった。

 棍棒のような右腕が、風を巻いて唸る。
 3階建てのビル。そのコンクリートの壁に、豪腕が重々しい響きとともに打ち込まれる。
 落雷のごとき衝撃音にビクリと歩みを止めた通行人たちは、地震もないのにグラグラと揺れ
る、灰色のビルをそこに見るだけだった。

"・・・悲鳴?!"

 吼介の足は、ビルとビルの間、細い路地を全力で駆け抜けていた。反射的な反応。かすか
な、しかし明らかな少女の苦悶の叫びを耳にした途端、幾重にも重なった筋肉の塊は弾丸とな
って疾走していた。
 少女を助けるため、というより、闘争を求める血がたぎった、というべきか。
 暴力の匂いを嗅ぎつけ、不完全燃焼のままの格闘獣が飢えを満たさんと急迫する。殴れる。
思う存分、力を振るえる。そこに運命の出会いが待っているとも知らずに、吼介はただ遠慮なく
力と技を開放できる悦びに震えて現場に突入する。

 青いセーラー服姿の女子高生が、4人の不良どもにリンチされていた。
 聖愛学院の生徒か?! 咄嗟に吼介は気付いていた。同じ高校に通う少女が、多数の男に
囲まれて蹂躙される様に、怒りの度数が自然に上昇する。

「うくッ・・・あッ?!・・・うふうッ・・・」

 蕾の青さをどこかに残したその少女は、愛らしいマスクにやたらとショートカットが似合ってい
た。恐らくはまだ入学したての一年生。セーラー服に包まれた若い肢体ははちきれそうに充満
し、実った胸の果実とツンと突き上がったヒップが芸術的なラインを描いている。容姿もスタイ
ルも、娯楽雑誌の表紙を飾るグラビアアイドルたちと遜色ない美少女だ。
 そのキュートさこのうえないマスクが、血に染まっている。幾度となく殴られた顔の皮膚は破
れ、口腔は鮮血で溢れていた。制服のあちこちはほつれ、青のプリーツスカートは半ば以上が
裂かれている。刃物を使って切り取られた胸の部分から、形も質感も最高の双房がブラを捲く
り上げられて露出されており、羽交い絞めにされた無惨な少女は、路地裏の薄暗い外気に乙
女の美乳を晒している。

 セーラーに飛び散った血痕が付着するほどの暴力。乙女の美肌、それも胸の突起すら引き
剥かれ開帳された恥辱。甘んじて受け入れるしかないショートカットの少女の悔しさは頬を濡ら
す大粒の涙に表れていた。だが、不良たちの嬲りは留まることをしらない。さんざんの殴打を
浴び満足に立てなくなっている少女を無理矢理に立たせ、残る三人の手がバストを中心に嬲り
遊ぶ。柔肌を這い、乳房を揉みしだき、股間の秘園に隠された花弁を摩擦する30本の指先。
屈辱に焼かれながら、いまや少女は快楽の津波の前に喘ぎに似た吐息を洩らし始めていた。

「ガキのくせにいいカラダだなァ、おい。へへへ・・・」

「オラ、気持ちいいかよ? 気持ちいいって言ってみな。無駄だぜ、頑張ってみてもよ。いっくら
声あげずにいようとしても、ホラ、カラダは正直にビクビクしちゃってるぜ?」

「ケケ、どうやらオッパイが一番感じるみてえだな。このままこね回して昇天させてやろうか?」

「ひゃッ・・・ぐッ・・・うううッーーッ!!」

 蕩けて濁った吊り気味の瞳が、乙女の肉体が粗暴な愛撫に溺れていることを教える。嬌声を
あげまいと必死に噛んだ下唇から、赤い糸がすっと流れ落ちていく。
 摘まれ、こねられ、弄ばれたピンク色の胸の頂点は、痛々しいまでに充血して尖り立ってい
る。もはやツンと触れられるだけで、官能の刺激は若さと肉感に溢れた肢体を貫いた。

「ヒヒヒ・・・雌犬のように昂ぶってやがる。エッチなカラダだぜ。ほーら、気持ち良過ぎてよがり
狂っちまいな」

 合図とともにふたりの男がそれぞれひとつづつ、左右の乳首を口に含む。
 生温かな軟体生物が吸い付く快感は、かつて少女が経験したことのない異世界の刺激であ
った。

「んあああッッ?!!」

「ぎゃははは! 盛りのついた雌犬が気持ちよすぎて鳴いてやがる! オラ、もっと鳴け! よ
がり狂うんだよ!」

「んんッッ!!! んくッ〜〜!! ふああァッ〜〜!!」

 ショートカットが振り乱れる。狂ったように首を振る少女。涙と涎が破片となって四囲に飛散す
る。抵抗しようとする健気な意志を、木っ端微塵に吹き飛ばす未曾有の悦楽に、たまらず被虐
乙女は甲高く絶叫していた。

 クチュ・・・クチュヌチュ・・・ピチュ・・・

 残るひとりの手が挿入されたクレヴァスの奥から淫猥な響きが洩れ始めていた。純白のショ
ーツに広がっていく恥ずかしい沁み。透明な滴りは少女の内股を淫らに濡れ光らせている。S
の字を描いた腰からヒップにかけての芸術的ラインはヒクヒクと痙攣を続け、理想的なボディが
愛撫の虜と果てたことを教える。少女のグラマラスな肢体は官能の炎に焼かれ、あらゆる穴か
らは甘い女蜜が滲み出していた。暴力に屈せず無情なリンチに歯を食い縛って耐えてきた少
女が、哀れにも悦楽地獄に堕落するのは、もはや時間の問題であった。

「お?! このアマ、ヒイヒイ喚いてやがるくせにまだ抵抗する気か。しぶといメスだぜ」

 背後から少女を羽交い絞めに捕らえていた男が、言葉の端に驚きを含ませて呟く。女子高
生の両肩を抑えた腕に、改めて力が込められる。

「・・・こ、こいつッ・・・ちっこいカラダしてなんて力だ・・・あれだけ痛めつけられてまだ動けるの
かよ!」

 桃色の刺激に全身を貫かれ、間断なく浴びせられる快楽の波に悶え震える少女。陵辱責め
に果てるとしか思えない乙女は、それでも堕落の間際に必死の抵抗を見せていた。留まること
のない、喘ぎと涎、劣情の波動。しかし蕩けた瞳のなかで、不屈の闘志を見せるような鋭い光
が、時折嬲り手の不良たちを射抜いてくる。

「ちッ! 生意気な女だ。オラ、これでどうだ?!」

 口に含んだ乳房の先を、唾液に浸して舌先でこね回す。再度襲ってくる快楽の怒涛に、あら
れもなく少女は総身を突っ張らせて悲鳴をあげた。

「よし、こいつの手足をグチャグチャに潰せ! ダルマにしてから4人で盛大な貫通式といこうじ
ゃねえか。ぎゃはははは!」

 リーダー格の男の笑い声が路地裏に轟いた、次の瞬間――

 ドゴオオオオオッッッ!!!

 なにかが砕ける音がして、仲間のひとりが10m先の宙空を吹き飛んでいた。
 その肉体は「く」の字に折れ曲がっている。逆に。踵と後頭部とがくっつきそうに屈折した姿
が、先程の衝撃音が背骨の砕けた音だと教えてくれた。

「女ひとりを男4人でリンチとは、いい趣味してるじゃないか」

 青ざめた顔で振り返った不良のリーダーが見たのは、巌のごとき筋肉で凝縮された逆三角
形の闘神の姿であった。
 怒れる格闘獣の前、供えられた哀れな4人の犠牲者たち――
 自分たちの悪行が数十倍の報いとなって返ってきた天の裁きを、彼らは生涯忘れることはな
いであろう。
 1分後、破壊され尽くした4個の肉体は神に懺悔をする間もないまま、薄暗い路地の冷たい
アスファルトにピクリとも動くことなく転がっていた。

「・・・」

 ひと通り拳を振るった後、工藤吼介は解放されうずくまる少女の背中を見下ろしていた。
 ショートカットがふるふると震えている。恐怖のためか、哀しみのためか。元凶である不良ど
もを蹴散らしたところで、少女が負った苦痛・悲哀を取り除けるわけではないことは吼介にも十
分わかっている。肉体的なダメージなどより、もっとも多感な時期の少女が、肢体を晒され嬲ら
れたのだ。その精神的ショックは想像して余りある。最強と噂される無骨な男にも、かける言葉
が見つからなかった。

 さて、どうしよう?
 ボロボロに破れたセーラーを纏った少女の素肌を隠してやりたいが、生憎道場帰りの吼介は
Tシャツ一枚のラフな格好であった。上着としてかけられそうなのは、汗臭い空手の道着くらい
しかない。いいのか、こんなので? ヘンな遠慮が武人に湧くが、今の状況でこの女子高生に
救いの手を差し延べられるのは自分しかいない。無言で少女に近寄った吼介は、そっと汗に
濡れた道着を背中にかける。

「・・・ありがとう・・・ございます・・・」

 素直に受け取る少女の声は、涙に沈んではいなかった。予想以上の芯の強さに、吼介は自
然に感心していた。

「大丈夫か?」

「あたしは平気、です・・・あの・・・おばあちゃんには、怪我ないですか?」

 少女の言葉に吼介はキョロキョロと周囲を見回す。辺りには昏倒して眠る不良ども以外、人
影ひとつなかった。

「おばあちゃん?」

「バス待ってたときに、こいつらに絡まれてて・・・それであたしが・・・」

 婆さん救うために身を張ったってのか。
 見下ろす格闘獣の眼に驚きが混じる。誰かを助けるために、危険に立ち向かう。その難しさ
を吼介はよく理解していた。彼は愛する少女を守るために、肉体を極限まで鍛えた。それは、
どんな巨大な危険も撥ね退けるためには力が必要であったから、だけではない。そうしなけれ
ば危険に立ち向かう勇気を持てなかったからだ、とも思っている。
 だが、この少女はかつての自分と比べても遥かに弱いはずなのに。守る相手は面識すらな
い通りすがりの老婆だというのに。こんな姿になるまで立ち向かったその心の強さが、吼介に
は異様に眩しく映る。
 最強の名を持つ男は、少女に向かい合う形で地に腰を下ろした。

「誰も・・・いないぜ」

 恐らく、老婆は身を張って助けてくれた女子高生を置き去りにして、とっくに逃げてしまったの
だろう。
 暗澹たる想いが胸に積もってくるのを自覚しつつも、吼介は老婆を責める気にはなれなかっ
た。己の身を危機から遠ざけようとするのは動物の本能だ。まして老婆ひとり、この場に残った
ところでなんの力にもなりはしまい。身代わりとなった女子高生が無惨な姿に変わり果てるの
を尻目に、我が身の安全のみを図ったところで責めるわけにはいかない。だから吼介は、事
実を事実としてのみ話した。

 血に汚れたショートカットの少女は、哀しみと悔しさが溢れた複雑な表情を歪める。
 吼介が思い描いたそんな予想は、見事に外れることとなった。

「よかっ・・・たァ・・・」

 安堵の溜め息とともに、心身ともに傷を負ったはずの少女は、ひまわりのように笑った。
 可憐で、天真で、純粋な笑顔。
 超のつく美少女を幼少のころより身近で見続けている吼介が、ドキリと胸の奥で早鐘を鳴ら
すほど、その笑顔は眩しかった。

「おばあちゃん、無事に逃げれたんだ・・・よかった・・・」

 そんな姿にされて。あれだけの仕打ちを受けて。
 己の身をそこまでボロボロにされながら、尚、お前は他人のことを心配していたのかい?

 工藤吼介と藤木七菜江、初めての邂逅。
 あのとき芽生え始めたお前への想いは、この一年で随分立派に成長したんだぜ。
 今は隣りで当たり前のように並んで歩いている少女に、吼介は聞こえぬ声で語りかけた。

「さっきからどうしたんですか? 黙り込んじゃって」

 心の声に反応するように振り向いた七菜江に、さすがの格闘王が瞬間慌てる。

「いや、ちょっと昔のことを思い出して、な」

「・・・子供のころの、ことですか?」

 何気ない質問の裏には、美しき令嬢の影が自然に七菜江の内側に挿していた。ふたりっきり
で並び歩いているこのときにも、もしや愛する男の胸には完璧な美少女が居座っていたのでは
ないか? 猫顔少女の眉が切なげに寄るのとは対照的に、吼介はやや照れたような表情で遠
くを眺めながら言った。

「お前と初めて出会ったのは、この辺だったよな」

 己の勘違いに気付いた少女は、頬を少し赤らめて純粋な瞳で微笑んだ。

「覚えてて、くれたんですか?」

「忘れるわけないだろ。お前みたいなお転婆、日本全国探したってそうはいねえ」

 修学旅行に出掛ける前、最後の日曜日。
 男と女がふたりきりで行動し、遊ぶことをデートと称するのであれば、ふたりのデートはもう二
桁に達しようかという回数を重ねていた。週末に共にいるのはもはや普通のこと。互いを誘う
のに、特に口実は必要ないほどの関係になったのに、ふたりの間に流れる空気は初々しさと
適度な緊張に溢れている。
 藤木七菜江が吼介と連れ立って歩いているのは、聖愛学院からもほど近い、駅前の通りで
あった。開発の進むその区域は、谷宿などとは比べ物にならないが、オシャレなブティックや美
容店、洋食屋などが続々とオープンして、華やいだ一角となっている。聖愛の生徒を含む地元
の多くの者は、特に中心部の繁華街に出張らなくとも、ショッピングにしろ遊びにしろここで十
分に事足りていた。
 同級生と遭遇する可能性が高いこの場所で、吼介とデートするのは極力避けていたのだが、
「闇豹」の存在を考えればやはり谷宿は訪ねにくい。いつの間にか吼介とふたりでいることが
自然になりつつあるのも無自覚なまま、七菜江は人目を気にすることなくこの聖愛カップル定
番のスポットで遊ぶようになっていた。

 吼介と初めて出会い、助けてもらったこの場所。
 来るたびに、あの時のキュンとした想いが蘇る。ドキドキと、切なさと。
 ふたりで遊びにくるときも、ひとりでぶらつき歩く日も、常に少女の内では淡い感情が沸き起
こっているなんて、鈍感なこのひとは気付いてはいないだろう。でも、あの日のことを、武闘一
途なこのひとが忘れずにいてくれたのが、七菜江には嬉しかった。

「だって、あのときはおばあちゃんを助けたかったんだもん。誰もやらなきゃ、あたしがって・・・」

「それでもアブナい兄ちゃん4人相手に、突っかかっていくのはお前くらいだよ」

「・・・気が付いたら、あいつら突き飛ばしてて・・・後でどうなるかなんて、考えてもいなかったか
ら・・・」

「あはは。今も昔も単純なところは変わってねえな」

「ムス。いいんです、これがあたしなんだから」

「まあな。オレはお前のそういうところが好きだぜ」

 顔を瞬時に真っ赤に染めた七菜江が、思わず隣りの男を見上げる。
 反射的に「しまった!」という表情を見せた吼介は、これも茹で上がったような色をした顔で、
あらぬ方向を向いている。
 ドクドクと脈打つ心臓の音が、やけに大きく七菜江の胸で響いていた。
 これ以上赤くなりようはない、というほど深紅に染まった顔を、元気少女は下向けた。見開か
れた瞳が心なしか潤んでくる。知らないうちに彼女の左手は、西条ユリのように口元に当てら
れていた。

"今、「好き」って言ったよね? 聞き間違いなんかじゃ、ないよね?"

 冷静になろうとする気持ちを振り切り、バクバクとした興奮が爆発しそうになっている。何故だ
ろう、そのまま駆け出して、逃げ出したいような気分になった。
 だが七菜江が無意識のうちに取った行動は、そんな気持ちとはまるで逆なものであった。
 少女の小さな手は、ゴツゴツとした格闘王の掌を、幼い妹が兄を頼るようにそっと握ってい
た。
 突然の出来事に、驚いた吼介が思わず振り返り、チャーミングな少女の顔を覗き込む。

「ダメ・・・ですか? ・・・こうしちゃ・・・ダメですか?」

 潤んだ少女の真っ直ぐに訴えてくる容貌は、抱き締めたいほど可憐であった。

「いや・・・オレも・・・嬉しいよ」

 筋肉の鎧を纏った男は、柔らかな手を強く握り返した。
 そのままふたりは、無言で昼下がりの休日の通りを歩いていく。
 幸せな、時だった。
 多分、幸せとはこういうことを言うのだろう。17歳の少女は悟ったような気がしていた。それは
小さな、小さな幸せかもしれない。けれど・・・きっと、この幸せはあたしの胸で永遠に輝き続け
るに違いない。
 人生で何よりも大切な宝物を見つけたような気がしてならない少女は、やがてその桜色の唇
をそっと開いた。

「あの・・・吼介先輩?」

「ん?」

「あの時、夜になるまでふたりでお話したの、覚えてますか?」

「お前の服、ボロボロだったもんな。人目を避けるよう、真夜中まで待ってたっけ」

「随分長い時間のはずなのに、話が止まらなくて、あっという間に時間が過ぎちゃって・・・いろ
いろ話せてすっごく楽しかったな・・・必ずお礼はしますって、約束したんですよね」

「そうそう。で、なにご馳走してくれるかと思ったら、ハンバーガー屋で100円バーガー食い放
題。しかも10個食ったところでお前がストップかけたんだよな」

「だって、お金なかったんだもん・・・先輩は食べ過ぎなんです。あそこなら奢れるかなあって思
ったのに」

「はは、この肉体維持するのにゃあ、食費も掛かるんだよ。七菜江が急に涙目になって懇願す
るからビックリしたぜ」

「・・・あたしって、先輩に迷惑かけてばっかいますよね」

 キュッと握る手に力がこもる。鈴のような声は、わずかに震えていた。
 吼介と出会ってからの日々が、走馬灯のように脳裏に蘇ってくる。それは楽しく、感謝するも
のばかりであった。特にこの数ヶ月、七菜江が体内に『エデン』を宿してからは、ふたりの絆は
格段に強くなったのは間違いない。

「あたし・・・先輩にちゃんとお返しできてないですね・・・いっつも・・・」

 側にいるときは安らぎをもらい。闘う前には力をもらい。傷ついた身体には復活のエネルギ
ーをもらい。そして窮地には、いつも現れてくれ、生命自体を救ってくれた。
 感謝してもし足りない恩人。愛するひと。そのひとに、何も返してあげられないことが、七菜江
の心を悔やませる。

「お返しなら、いっぱいもらってるじゃないか」

「え?」

「その笑顔と、生きる意味とだよ」

 五十嵐里美を守れなくなった男が、新たに見つけた「守るべきもの」。
 最強の格闘獣に存在意義を与えたなど、純粋な少女は思ってもみないのであろう。
 再び顔を染めた美少女は、言葉の真意はわからずとも、ただ、男が己に抱いた深い感情だ
けは仄かに悟ることができた。

"先輩・・・やっぱりあたしのこと、愛してくれてるんですか? それとも・・・"



 七菜江の胸の中で、数日前のカラオケ店で起きた、桜宮桃子との会話が思い出されていた。

「もういいかげん、吼介のこと、決着つけた方がいいんじゃないかなァ?」

「な、なによ、決着って・・・」

 イマドキ美少女の究極形ともいえる桃子の魅惑的な瞳にじっと見詰められ、七菜江ははぐら
かすようにストローでウーロン茶をすする。なかに入った氷が、カラリと音をたてた。

「もちろん、里美さんと吼介、それとナナとの三角関係の決着だよォ」

 普段は優しき女神のような桃子だが、ここぞというときには夕子などより手厳しく思われること
がある。ズバリ直球で詰め寄る今の桃子は、まさにそうだった。

「吼介はもうあたしたちの秘密を知ってるわけじゃない? じゃあさ、いつまでも今みたいな中
途半端な形はよくないと思うよ?」

「そんなこと言ったって・・・それは吼介先輩が決めることだから・・・」

「あたしはねェ、もう答えは出てると思うの」

 七菜江にとって桃子は唯一の恋の相談相手だ。複雑な里美と吼介の関係を思えば、クラスメ
イトたちには話せないし、夕子とユリはこと恋愛に関しては揃って頼りになりそうにない。知り合
う男性のほとんどを虜にしてしまうミス藤村は、悩める乙女には実に貴重な存在であった。
 その桃子が三角関係の答えは出ている、と言う。
 笑顔の似合う元気少女は、その無垢な表情を一気に強張らせた。

「里美さんと吼介は姉弟なんでしょ。だったら、ナナが吼介と結ばれるしか、ないよ」

「そ・・・」

 嬉しさと困惑と拍子抜けと、いずれもが爆発したような複雑な表情で七菜江は声高く言う。

「そんなことは初めからわかってるってば! 姉弟だから先輩は里美さんと結ばれることはでき
ない、だから代わりに違う恋愛をって・・・けどそれができないから悩んでるんじゃん。姉弟だっ
てわかってても諦められないほどふたりは愛し合っているの! あたしなんかじゃ里美さんを諦
めさせることなんてできないの! モモは当たり前みたいに言うけど、その当たり前にならない
から辛いんじゃん・・・」

「そんな、自分を里美さんの代わりみたいに考えなくてもいいと思うけどなァ・・・」

「あたしだって、そんなこと、考えたくないよ! でもね、吼介先輩の心のなかには、ずっと長い
間里美さんがいたんだよ? 里美さんがいなくなったら、きっとおっきな穴がポッカリ開いちゃ
う。その穴を誰かが埋めないと・・・だから・・・だから、あたしは先輩が選んでくれるまで待っ
て・・・」

「待つ必要は、ないんじゃないかなァ?」

 七菜江とは対照的に、落ち着いた表情で桃子はジュースで咽喉を潤す。

「今の吼介は里美さんのこともナナのことも、同じくらい好きだと思うよォ。それがいいか悪いか
は別にしてね。でも、どれだけ悩んで考えたとしても、結局はナナを選ぶしかないじゃない? 
だったらナナの方から積極的にアプローチして、吼介の決断を促してもいいとあたしは思うん
だけどナ」

「・・・積極的にアプローチって?」

「もう1回、告白してきちんと付き合いなよ」

 ショートカットの額からどっと汗が噴き出る。
 以前、仮死したファントムガール・ユリアを救う闘いに赴くとき、七菜江は吼介に告白してい
る。だがその返事は敢えてもらわないまま、今日までに至っていた。

「そ、そんなの、できるわけないじゃん!」

「なんでェ? 前は告白したんでしょォ?」

「あ、あのときは死ぬかもしれないって・・・吼介先輩と会えるのも最期かもって思ったから・・・」

「・・・あれ? もしかして、フラれるのが怖いのォ?」

「な、なに言ってんのよ、そうじゃなくて、その・・・な、なんか卑怯じゃん?! 里美さんは告白と
か、できないわけだからサ。あたしは正々堂々と里美さんと闘いたいの。里美さんと同じ条件で
闘って、先輩に選んで欲しいの」

「別に卑怯じゃないってばァ。そんなこと言ってたら、いつまで経っても決着つかないよ?」

「無理して決着つけなくていいじゃん。焦って決めちゃわなくても・・・今のところは、特に問題は
ないんだし」

「ダメだよ。こういうことは、きちんとしないと」

 桃子の鋭い瞳が、親友を射抜く。
 名前の通り、普段は穏やかな春の気候を思わす、見ているだけで癒されるような少女である
が、元が醒めるような美貌の持ち主だけに、強い気を放つときの桃子はゾクリとするほどの眼
力がある。さすがの元気少女もすくんだように唇を閉じた。

「こんなこと続けても、誰も幸せになれないよ。答えはもうわかってるんだから、それに向かって
進むべきだよ」

「・・・で、でも・・・」

「大丈夫、きっと吼介は受け入れてくれるよ。あとはナナの勇気。あんだけ巨大生物と闘ってき
たんだもん、ゼッタイあなたならできるよ。ね、ファントムガール・ナナ」



 桃子はあんなこと言ってたけど、七菜江にとっては恋愛はミュータントなどより何倍も手強い
相手だった。
 巨大生物は努力すれば倒すことができる。でも、恋は何をどうがんばったら解決できるの
か、よくわからない。
 桃子の言葉を胸に、今日のデートに臨んだ七菜江は、実は始終緊張していた。想いを、伝え
ねばならない、と。告白のタイミングはないかと。
 そんな折、突如訪れた、会話の流れ。いつになく高まった、場の雰囲気。
 密かに思い描いていたプランとはまるで異なるシチュエーションではあるが、今、告白の絶好
のチャンスが訪れている。ウブな天真少女にも、その流れが寄せてきているのは確実にわか
った。唐突で、予想外のタイミング。だが、互いの気持ちが昂ぶっているこのチャンスを、みす
みす逃す手はない。

 告白しよう。
 吼介先輩に想いを伝えよう。フラれても、構わないから。好きであることを、ただ好きと伝えよ
う。
 そしてもし、許されるならば・・・
 この先、ふたりのことを、いろいろと夢見てしまっていいですか?

 すぅっと可憐な少女が息を深く吸う。意を決した少女が、言の葉を口に乗せようとする。

「待て」

 不意に吼介の足は止まっていた。丸い両肩に優しくふたつの掌を乗せて七菜江を引き寄せ
ると、真正面からチャーミングなアイドルフェイスを見詰める。互いに紅潮する頬。濡れ揺らぎ
つつも、真剣な光を宿して交錯する眼差し。見上げる天使と見下ろす闘神。わずか数十cmに
迫った鼻先の間で、想いが濃度を増していく。

「言うな・・・男のオレから、言わせてくれ」

 少女が秘めていた想いに、男は気付いていたのか。

 どくん・・・どくん・・・どくん・・・

 永遠と思える時間のなかで、七菜江は次に放たれる吼介の言葉をただひたすらに待った。

「七菜江・・・オレと・・・」

 ドンンンンッッッ!!!

 甘い蜜のごとき場の雰囲気が、瞬時に剣山のごとく尖り立ったのはその時であった。
 優しさに満ちた男臭い顔は、闘獣の名に相応しい峻厳なものに変わっている。ひと目でわか
る、臨戦態勢。七菜江をすり抜け、背後に向けられた鋭利な視線。勘付くより速く、守護少女
の肢体もまた、振り返っていた。

 七菜江の背後、50cm。
 手を伸ばせば触れるほどの距離に、紫のスーツで身を固めた男が立っている。
 太い首。どっしりと重厚感ある肉体。恐竜のTレックスを想起させる体型と、チンピラそのもの
といったファッションが、周囲から明らかに浮き上がっている。街行く人々を寄せ付けぬ、圧倒
的な威圧。それを生み出す最たる箇所は、角刈りの下にある顔であった。
 無数に刻まれた、ケロイド状の傷跡。
 左眼や唇が崩れ歪むまでに、縦横に走った刃傷。壮絶とすら形容したい顔に、振り向いた七
菜江がビクリと肩を揺らす。

 明らかな、その筋のひと。ヤクザ者。
 それもとびきり凶悪で、凶暴な――

 甘い気分など一気に吹き飛ばされたアスリート少女の内部で、警戒と緊張が一斉に爪の先
まで配備される。
 見た目は可憐な女子高生でも、生来の運動神経と『エデン』に授けられた力とを持つ守護少
女は、銀の女神に変身する前でも戦士と呼ぶに相応しい戦闘力を誇っている。その七菜江の
背後を、こうも簡単に取るなんて・・・。外見通りの凄惨な殺気を今は吹き付けてくるが、吼介の
視線に知らされるまで、七菜江はすぐ背後に迫ったヤクザ者の気配を感じることができなかっ
たのだ。

「なんだ、小僧? なに見てやがる」

 低い声音のなかに凄みを含ませて、疵顔の男が言う。
 受け口から覗く黄色い歯は、口調とは裏腹にまるで笑っているかのように歪んでいる。

「いえ、別に。なんでもありません」

 応える吼介の口調は丁寧だが、その視線も雰囲気も、まるで警戒を解いてはいなかった。
 言いつつ、傍らの少女の腕を取り、自然な様子で引き寄せる。七菜江の半身は筋肉の鎧に
隠される形となった。

「オレたちに、なにか用でしょうか?」

 ヤクザを前に、最強の高校生はたじろぎひとつせずに相対し続ける。

「スタイルいいネエチャンがいるから、ついケツを追っちまっただけだぜ」

 クックッと男――スカーフェイスのジョーの異名を取る流浪極道は笑う。対する吼介の意識
が、ある一点に集中していることに気付いた七菜江はその意識の先に注目した。
 ギョッとした少女の全身の汗腺から、どっと冷たい汗が噴き出す。
 紫ジャケットのポケット。そこに無造作に突っ込まれた疵面の右手。
 特注らしいジャケットの、異様に大きなポケットが不自然に膨らんでいる。

「お似合いだぜ、おめえら」

 捨て台詞を残して疵面の恐竜は、肩で風を切りながら通り過ぎていった。
 あっさりと。思わず、拍子抜けしてしまいそうなほどに。

 ふう、という安堵の吐息が格闘獣の口から洩れる。
 そんな工藤吼介の姿を七菜江が見るのは、初めてのことだった。

「先輩、今のは・・・」

「さあな。目的があって近づいたのか、偶々か。オレを狙っていたのか、あるいは・・・お前だっ
たのか。わからん。単なる思い過ごしかもしれん」

 疵面が放つ凄まじい殺気は、吼介がその存在に気付くまでは解放されてはいなかった。襲撃
のために隠していた、とも思える。吼介に睨まれたために怒りに火がついた、とも思える。
 いずれにせよ。
 疵面のヤクザが持つ危険性は、その職業を度外視しても特筆すべきものであることは確か
であった。

「先輩でも、ああいうひとたちを相手にするのは・・・怖いんですか?」

「そりゃそうさ。プロは組織で動くからな。下手に面子を潰すようなことしたら、命がいくつあって
も足りねえよ。だが、今の男は、ちょっと違う」

「違う?」

「あいつ自身、相当危険な男だ。底知れない殺気を持ってるくせに、それを隠す技術も身につ
けていた。・・・次に出会うようなことがあったら、偶然とは思わない方が良さそうだな」

 言外に敵である可能性を仄めかした吼介の言葉に、七菜江はコクリと首を縦に振った。



「あれが青いファントムガール・・・ファントムガール・ナナの正体、藤木七菜江か」

 若いカップルから過ぎ去ること5分後、煙草の自動販売機に背をもたらせた城誠は、懐から
取り出した2枚の写真を眺めていた。
 青のカラーリングが施された銀の女神と、セーラー服に身を包んだショートカットの少女。つ
い先程出会った少女の姿を思い出しながら、スカーフェイスは乾いた唇を赤い舌でペロリと舐
め濡らす。

「いいボディガードつけてやがる。早速一匹、始末できると思ったんだがなあ」

 ポケットに突っ込んだまま、ジョーは右手に握ったモノをオモチャのように弄ぶ。
 短刀。
 いや、鍔がなく柄と鞘がピタリと合う形のそれは匕首、あるいはドスと呼ぶのが正解だろう。
 敢えてブカブカにしてある特注の紫スーツは、刃の長さ30cmある凶器を見事にポケットの内
部に潜ませていた。数々の暗殺を成功させてきた、スカーフェイスの相棒。新たな犠牲者を血
に染めることはできなくても、凶刃に住み着いた死神が愉悦に震えているのは、使い手のジョ
ーにもよくわかる。

「グフフ・・・オレ様好みのエモノだぜえ、ファントムガール・ナナ・・・あのムチムチの肉体、切り
刻むお楽しみはとっておくとするぜ」

 ナナと七菜江、重ねた2枚の写真に噛み付くや、凶悪なヤクザは首の部分から上を食い千切
る。
 ムシャムシャと少女の写真を咀嚼しながら、下卑た笑みを貼り付けた疵面の男は、飛び避け
る人々が作る、無人の道を闊歩していった。



 テナントを募る旨を知らせる張り紙が、通りに面した窓と入り口の扉とに張ってある。
 開発が進み、この地方で有数の繁華街となっているここ谷宿でも、全ての店が繁盛している
わけではない。寧ろひとが集まる分、その競争は激しく、店舗の移り変わりは常のことであっ
た。クリーム色の壁に囲まれた、ガランとした空間。雑居ビルの4階にあるこの空き部屋も、次
なる借主が現れるのを待っているひとつだ。

 「闇豹」の異名を持つコギャルが、昼間からこんな場所にいるのは、非常に不似合いな光景
であった。
 壁とブラインドに閉ざされた窓とだけがある空間。華々しさと悪念濃厚な瘴気とを愛する神崎
ちゆりには、もっとも掛け離れた場所とすら思える。だが、それ故に、彼女にとっては重要な役
割を持つ場所でもあった。

 谷宿に無数にある、空き部屋。誰の手も及んでいない、誰の耳も存在しない無味な空間。
 あらゆるしがらみを断って、他の何者にも聞かれたくない密談をしたい時、神崎ちゆりはこう
いった場所を利用していた。
 スポンサーである裏世界の大物たちも、配下の不良たちも、周囲には存在していない。ただ
話を交わす相手だけが、この部屋に招かれていた。

「日本"最凶"のヤクザと、凄腕の暗殺者・・・」

 呟く声にすら艶を含ませ、片倉響子は美貌を凍らせて言った。
 腰まで届くほどの黒髪と、西洋とのハーフを思わす彫りの深い美貌。大きな瞳と深紅のルー
ジュに染まった唇とが、美神アフロディーテの降臨を錯覚させるが、指先すらからも発散される
妖艶のエッセンスは、甘美のなかにも危険な香りを孕んでいる。視線を注ぐ全ての男を勃起さ
せる美女。だが、一度抱くことと引き換えに、命すら奪ってしまいそうな魔性の妖華。「闇豹」と
は別の意味で、不似合いなこの部屋に天才生物学者は立っていた。

 キメラ・ミュータントを創り出し、蜘蛛の化身シヴァとして魔人メフェレスの参謀格を務めてきた
響子だが、悪の枢軸とは袂を分かって以来、連絡を途絶えていたはずだった。その響子が神
崎ちゆりと共にいる・・・メフェレスの両輪として並んでいた当時から、格段仲が良いとも思われ
なかっただけに、妖女ふたりの邂逅は意外の感すらある。

「5人の子猫ちゃんたちと、その悪魔ふたりを知るちゆりの、正直な感想を聞きたいわね。闘え
ば、どちらが勝つのか?」

「頭のいいあんたらしくない質問だよねェ〜」

 青のマニキュアで爪の手入れをしながら、ちゆりは面倒臭そうに答えた。

「『エデン』とか抜きで考えてみたらァ? 運動神経のいい女子高生と、日本トップの実力を持つ
極道。殺し合いになったら、どっちが勝つか、考えなくてもわかるでしょォ〜」

 響子の整えられた眉が、一瞬、わずかに歪む。

「間違いなく、子猫ちゃんたちは全滅だねェ〜。それも地獄のなかで悶え苦しみながら惨殺〜
♪ 正義の味方も今回ばかりはオシマイじゃな〜い?」

「彼女たちをあまり甘くみない方がいいんじゃないかしら? これまであと一歩まで追い詰めな
がら、痛い目を見てきたのはあなた自身のはずよ」

「ジョーはともかく、海堂一美はそんなヘマは有り得ないねェ〜」

 ちゆりの語気は自然、強くなっていた。

「狙った獲物はどんな手を使ってでも、完璧に地獄に堕とす。それが"最凶の右手"海堂一美
さ。戦闘力の高さだけじゃない、冷徹・冷酷な策略も兼ね備えているからねェ〜。せいぜい対
抗できるのは・・・里美くらいなものじゃなァ〜い」

「・・・五十嵐里美、ねえ」

「それでも海堂の敵じゃないよォ〜。ムカツクお嬢様も、ついに最期のときってわけェ〜♪」

 クックッと肩を震わせて、「闇豹」は破顔した。その脳裏には、数々の因縁を残した守護天使5
人の、哀れな末路が思い描かれているようであった。

「なぜ、わざわざ、私にこの話を知らせたのかしら?」

「あんたがファントムガールを死なせたくないのはバレバレよォ〜♪」

 濃くマスカラを施した大きな眼を細め、ちゆりはケラケラと笑った。

「実際なにを考えてるのか知らないけどさァ〜、あんたの目指す野望達成のためには、ファント
ムガールの存在が必要だってことは薄々わかってるんだよねェ〜」

「・・・その場限りの快楽主義者の割りには、案外と鋭いのね」

 一瞬美貌を凍らせた響子は、妖艶の華を満開にして「闇豹」に微笑み返す。

「あはははは♪ ちりも舐められてたもんねェ〜。七菜江をわざと殺さなかったり、瀕死の桃子
にわざわざ『エデン』寄生させてるの見てれば、それくらいのことわかるわァ〜〜♪」

「正確には少し違うけれど・・・いいとこついてるのは認めるわ」

 邪悪な哄笑と妖艶な微笑。
 互いにしばし交し合った後、おもむろに響子は言葉を続けた。

「けど、そこまでわかっているのなら、尚更不思議ね? ちゆりは心底ファントムガールを抹殺
したいとばかり思っていたけど。私に情報を知らせない方が好都合のはずよ」

「もちろんそうよォ〜。あの正義面した小娘ども・・・地獄に堕としてヒイヒイ泣き喚かせたくて仕
方ないわァ〜。ただ、あんたがなにをしようとしてるのかも、面白そうなんだよねェ〜」

「・・・ふうん」

「それに、あんたに話したところでェ〜〜、どうなることでもないしねェ〜。子猫ちゃんたちの全
滅は確実♪ あとはちりたちと、あのふたりの世界よォ〜」

 微笑みを浮かべたまま、片倉響子は黙って「闇豹」の台詞に耳を傾けていた。

「あとはお好きにどうぞォ〜♪ ちりはただ、この情報を知らせたかっただけだからァ〜」

「・・・わかったわ。素直に礼をさせてもらおうかしら。あなたの真意がどこにあるのかわからな
いけど、私の役に立ったのは間違いないから」

 ポンと100万円の札束を、天才学者は無造作に投げ捨てる。バックに裏世界のスポンサーを
抱えた神崎ちゆりも金銭に不自由などしていないが、ふたりの関係をよりドライに保つために
は、こうした貸し借りを作らない作業は儀礼的に必要だった。これも無造作に札束を拾ったち
ゆりは、片手をひらひらと揺らしながら密会の終わった空き部屋を出て行く。

「どうやら、もう悠長なことはしていられないようね」

 ひとり残された美貌の女生物学者は、己に言い聞かせるように無人の部屋で呟いた。



 聖愛学院2年生、修学旅行東京の旅。
 出発の朝は慌しく過ぎていった。いつも遅刻ギリギリ、眠そうな眼をこすって起きてくる藤木七
菜江は、その日に限って早朝からエンジン全開であった。きっと遠足の日には興奮して目が醒
めてしまう性質なのだろう。いつも通り朝からきちんと身支度している里美も、いまだ寝ぼけた
様子の桃子も、圧倒する勢いではしゃぎまくった元気少女は、予定の一時間近くも早く五十嵐
の屋敷を飛び出していった。聞けば夕子と一緒に集合場所である駅に向かうのだという。バタ
バタと荷繕いした少女は危ういところで忘れ物を二度も里美に指摘されたが、それでも里美と
執事の安藤に、欲しいお土産を尋ねるのだけは忘れなかった。

 七菜江台風が去った後で、ゆっくりと登校準備を終えた里美は、学校の違う桃子とは駅へ向
かう途中の道で別れた。その桃子とも、今日から数日は会えなくなる。今日、金曜日の授業が
終わったあとで、七菜江たちを追って桃子が上京するプランは以前から聞かされていたことだ
った。週末を東京の空の下で過ごそうという同級生3人組。少しでも高校生らしい青春を味わっ
て欲しいと心底願う里美は、反対するどころか進んで桃子を東京へ送り出した。

 今頃、ナナちゃんたち、都庁でも見学中かしら?
 朗らかな秋の陽光を浴びながら、数学の難問を誰よりも早く解き終えた里美は、授業中の空
をふと眺め、遠く東京に想いを馳せてみたりする。
 こうして秋の一日は、穏やかに過ぎていった。

「こういうときに限って、時間ができたりするのよね」

 オリンピックの強化選手に選ばれるほどとなった新体操こそとうにやめてしまっているが、生
徒会長であり、名門五十嵐家の次代を担う令嬢であり、人類を守るファントムガールのリーダ
ーである里美の日常は多忙を極める。やらねばならぬ細かい作業をいくつも同時に抱えてい
るが、ときには余暇が生まれることも月に何度かはあった。その数少ないチャンスに限って、
七菜江や桃子といった愛する後輩たちがいないのを、里美は少し恨みたくなる。ホントなら、ナ
ナちゃんと約束してた古着屋さん、行くところなんだけどな・・・主役の七菜江がいなければ、行
く意味がなかった。最近七菜江が購入した服は、そのどれもが里美か桃子の意見を取り入れ
たものばかりだった。

 ふらりと夕方の街に繰り出した里美は、あてもなくウインドショッピングを楽しむことにした。
 本屋に入って立ち読みしてみる。どこか他の高校の女子高生たちが、青いセーラー姿の里
美を遠巻きに指差してなにか言っているようだが、美少女は気にも留めなかった。料理本をペ
ラペラめくっていると、おいしそうな栗ご飯が目に飛び込んできた。そういえば今夜は久しぶり
に安藤とふたりきりのディナーになるのだった。たまには私がお夕飯、作ろうかな? いつも世
話になっている執事に、ささやかなお礼をしてみたくなる。料理本と英語の参考書を買った里
美は、本屋をでたところで先程の女子高生たちにサインをせがまれて困ってしまった。

・・・明日は、ユリちゃんたちを招いて、ささやかな食事会でもしようかしら?

 以前は安藤とふたり、あるいはひとりきりでの食事が当たり前だったのに、いつの間にか賑
やかな食卓に慣れてしまった己に里美は気付く。ユリや姉のエリとは立場上よく会うが、腕白
小僧がそのまま大きくなったような父親の剛史や、清楚で控えめな雰囲気が好感を抱かせる
ユリたちの母親にも、里美は会いたくなってきた。ナナちゃんたちだけ楽しむなんてズルいも
の、私たちだって、いいわよね? そうと決めた秀麗な美少女のなかで計画が次々と進んでい
く。栗を多めに買って、モンブランでも作ろうかな・・・この前の夕子の誕生パーティーのときに
はフルーツタルトが好評だったけど、今回も喜んでもらえるかしら?・・・

 桜色の唇を緩やかに綻ばせた美少女の足は、その時、不意に立ち止った。

 街角からヒョイと折れ曲がって現れた人物。
 聖愛学院の男子制服である白シャツをはだけた内で、大胸筋が黒のTシャツを異様に盛り上
げている。
 逆三角形の見事な筋肉美と、男臭い顔、仄かに漂う獣性。古くから知っているその顔を、里
美が忘れるわけがない。

 工藤吼介と、まさかこんな街角で偶然出会うなんて。

 数mの距離を隔てて向き合ったふたりは、互いに驚きの表情を浮かべて固まった。
 以前は当然のように側にいたふたり、ここしばらくは無意識のうちに避けるように、会ってい
なかったのに・・・
 数秒の沈黙は、数時間の空白に思われた。

 くるりと、憂いを帯びた美少女は背中を向ける。
 駆け出そうとした白い腕を、骨太な手が掴んでいた。

「待てよ」

 走りかけた里美の脚が止まる。そのまま美少女は、静かに立ち尽くした。

「なんで・・・逃げんだよ」

「・・・逃げなんか、しないわ」

 俯いて話す令嬢の脳裏に、先日の夕子の言葉が蘇ってくる。

 ――七菜江がいない間に、『エデン』を工藤に融合させるつもりじゃない?――

「違うわ。しないわ、そんなこと」

 誰かに向かって言い聞かせるように、里美は語気を少し強めた。

「・・・じゃあ、こっち向けよ」

 しばしの沈黙の後、神秘的なまでに美しい長い髪の少女は、ゆっくりと筋肉の鎧に包まれた
幼馴染を見詰める。

「久しぶり、だな」

「そうね」

「元気にしてたか」

「おかげさまで。吼介も、元気だった?」

「ああ。ピンピンしてらあ」

 なぜ、こんな取りとめもない話をしているのだろう?
 互いに不思議に思いながら、ふたりは話を進めていく。

「ナナちゃんとは、うまくやってるの?」

「え? あ、ああ、それなりに、な」

「大事にしなきゃダメよ、あんなに素直なコ、滅多にいないんだから」

「わ、わかってるよ、んなこた」

「もしナナちゃんを泣かせたりしたら・・・許さないからね」

 切れ長の瞳をすっと細めて、美麗なる生徒会長は微笑んでみせた。
 その笑顔に仄かに潜んだ感情を、吼介が感じ取ったのは勘違いか、否か――

"・・・・・・里美、お前・・・・・・"

 辛い、のか?

「じゃあ、さようなら」

「お、おい! 待てって!! どうしてそんなにオレを避けるんだ?!」

「嫌なの!」

 叫ぶような里美の声に、最強と呼ばれる男は凍りついた。

「ナナちゃんがいない時にあなたと会うのは・・・嫌なの! 自分がたまらなく卑劣に思えて、辛
いのよ!」

「里美・・・」

「あのコは真っ向から私と競いたいと言ってるのに、その気持ちを裏切るようなことはできな
い、したくない・・・私とあなたが結ばれないのは決まっていることだけど、それでもあなたを惑
わすような行動はしたくないの。あのコに卑怯な人間とは、思われたくないの」

「・・・やめろよ」

 ぐっと唇を噛み締めた男は、静かにスレンダーな両肩を抱いた。

「そんなふうに自分を責めるなよ。一番卑怯なのは、オレじゃねえか。お前にそんな顔された
ら、オレだって・・・」

「違うの」

 フルフルと長い髪を揺らして、里美はかぶりを振った。

「私のどこかで、あなたに会えて喜んでいる自分がいるの・・・ナナちゃんが横にいないあなたと
会えて、ドキリとしている私がいるの。思わず、負けてしまいそうだから・・・だから、ナナちゃん
が近くにいないときは、特にあなたとは会いたくない。本当は卑怯な私を、認めてしまいたくは
ない」

 秘めた想いを吐き出した里美の言葉が、深々と吼介の心を貫く。
 そうだ。それはわかっていたことではなかったのか。
 愛する気持ちを、生涯を懸けようとした誓いを、無理矢理に奪われたのは、吼介ひとりのこと
ではなかったではないか。
 ショートカットの少女と過ごした無邪気な日々が、悔恨の念とともに男の胸を流れていく。

 オレには、七菜江がいる。里美とのことを忘れさせてくれそうな、無垢で純粋な少女が。
 だが、里美には・・・里美には、誰がいるのだ?
 あまりに重い使命を背負った孤独な令嬢を、誰が支えてやれるのだ?
 抱え込んだ重責を、己ひとりで背負おうとする少女。悲痛な運命を、甘んじて受け入れようと
する少女。偶然出会った吼介に思わず洩らした本音の想いは、おそらく、吼介だからこそ吐け
た言葉。吼介への本当の想いなど、他の誰にも、仲間の守護少女たちにも絶対に言おうなど
とはしないだろう。
 弱気な告白を、真の感情を、吼介にしか発散できない孤高の美少女を救えるのは、この世に
ただひとりしか、いない―――

"オレが七菜江と遊んでいる間、お前はひとり、苦しみ続けていたのか・・・"

 オレは、自分が恥ずかしい。

 里美への痛恨の想いが、格闘獣の心を満たしていく。ダメだ。やはりオレには、できない。孤
独なお前を見捨てて、ひとり幸せを掴むなんてマネはできない。七菜江、すまねえ。だけどオレ
には、どうしてもこのひとを、里美を救えずには前に進めない。オレが、このオレが悲壮な想い
で生きている、麗しき守護戦士を支えてやらないと―――

 偶然の邂逅が予期せぬものであっただけに、突発的に生まれた感情の嵐。
 激しく揺れ動く若いふたりの前に、偶然と呼ぶには最悪すぎるタイミングで、その男は現れ
た。

「お取り組み中、申し訳ないが」

 すらりと伸びた長身に、三つ揃いの白のスーツ。
 長方形のサングラスがサイボーグのひとつ目を思わせる、鋭い印象の男は、落ち着いた声
で憂いの美少女と逆三角形の筋肉獣の前に立った。

「お前が、五十嵐里美だな」

 "最凶の右手"海堂一美、参上。
 日本で今もっとも怖れられている極道世界の怪物は、守護天使のリーダーと最強を誇る高校
生との前に、臆することなく現れていた。



 3

 ヤクザという職業は、他者に怖れられてこそ実利に繋がる。ショバ代や興行の謝礼を渡すの
は、その威と影響力を怖れているからこそだ。
 と、するならば、海堂一美はヤクザの才気に溢れた男だと言えた。
 『スカーフェイスのジョー』のように肩で風切ることはない。ときにその口調は柔らかに聞こえ
ることもある。
 だが、恐ろしい。とてつもなく、怖い。
 海堂の正面に立つだけで、ゾクゾクと震えが止まらなくなる。誰もが。蛇を前にした、蛙のごと
く。
 全身から発散される鋭い空気が、この男に触れれば悲劇を呼ぶと威圧してくる。住む世界の
違う存在。死神。関われば、死ぬ。陽の当たる道を歩いてきた多くの一般人にとって、海堂一
美の気を受けることは、氷の手で心臓を鷲掴みにされるのに近い。

 姿を認めた瞬間、五十嵐里美は、白スーツのヤクザが己への刺客であることを悟っていた。

 スマートな体型と細長い顔、全身が「鋭利」でできたような男。ソフトモヒカンの髪型、引き締ま
った顎。サングラスで隠されていようとも、その眼は鋭い光を放っていることがわかる。一歩踏
み込めば、一分の隙なく纏った空気に切り裂かれてしまいそうだ。
 現代忍者の次期頭領として、死と背中合わせの修羅場を幾度となく潜り抜けてきた里美には
わかる。男が放つ"気"の正体が。
 殺意。
 濃密にして鋭利な殺気を、午後の街角でこの男は振り撒いているのだった。

「あなたは?」

 質問に答えず、秋の風が似合う美少女は、琴のような声で訊いた。

「海堂一美。彼氏との口論中に、お邪魔であったかな?」

 落ち着いた声のトーンに、からかいの響きがこれみよがしに含まれていた。
 外見からして明らかにわかる危険人物の登場に、冷静さを取り戻したと見えた里美の柳眉が
ピクリと動く。
 この雰囲気、この状況・・・突如として現れた海堂というこの男が、守護天使として使命を帯び
た少女を狙いに来た敵であるのは間違いない。
 にも関わらず、見え透いた挑発に思わず反応してしまったのは、完璧と呼ばれる五十嵐里美
らしからぬ軽挙といえた。

「吼介は、彼氏なんかじゃないわ」

「その割には随分と親密そうに見えるがな」

「そんなくだらない話をするために、私に会いに来たの?」

「・・・ほう。どうやらその口調からすると、オレの目的に気付いているようだな」

「舐めないで欲しいわ。これでも命を狙われるのは慣れているつもりよ」

 サングラスの下で、薄い唇がニヤリと吊り上がる。
 フフン、なるほど。
 すでに死ぬことすら、覚悟済みってわけか。
 聖なる女神の正体、とはいえ所詮は女子高生に過ぎぬとタカを括っていた己の緩んだ気持ち
を、海堂一美は引き締める。
 どこか幽玄の美すら思わせるこの五十嵐里美という少女、単にヤクザに物怖じしないだけで
はない。襲撃に勘付いたことすら、その真価を語るには足りぬ。憂いの美少女が秘めた凄み、
それはこの場で非業の死を遂げる可能性すら、真正面から受け止めてしまっていること。この
オレに殺されるかもしれないとわかっていながら、その事実から背かず口にしているのだ。
 覚悟が違う。その辺の一般人、いや今までに海堂が血に染めてきた極道モノと比べても。数
段に。
 人類の守護天使、という重い看板に恥じぬ、戦士。
 海堂のなかで巣食っていた甘い油断は、このわずかな時間で霧散していた。この女、やる
な。本気にならねばならぬ相手。
 実に・・・殺し甲斐のある、極上のエモノ。

「ならば話は早い。では早速・・・彼氏の方から、かかってくるがいい」

 牙のように並んだ歯を剥き出して、海堂はチョイチョイと不敵に指を動かして、里美の後方、
佇む逆三角形の獣を誘った。
 美少女の切れ長の瞳に朱色が走る。小馬鹿にしたような海堂の態度、あからさまな里美へ
の無視・・・挑発と頭ではわかっていても、感情まで抑えるほどには、今日の波立った里美は冷
静ではいられなかった。

「吼介は彼氏なんかじゃないと言ってるでしょう! 私たちの闘いにも関係はない!」

「ククク、とは言うものの、本人はやる気満々の様子だが?」

 ハッとした里美が背後の格闘獣を振り返る。
 巌のごとき筋肉の集合体。その極厚な肉体に、凄まじい闘気が立ち昇っている。赤い炎が視
界に映るかと錯覚するほどに。

「わかる! わかるぞ! その男の強さがな! コウスケというのか、ククク・・・なるほどさすが
だな、五十嵐里美。小娘の分際でいい兵隊を飼っているようだ」

「吼介、手は出さないで! これは私とこの男との問題。あなたには関わりのないことよ!」

「・・・里美」

 常に沈着なくノ一戦士らしからぬ、興奮した口調であった。
 全く虚を突かれた、唐突な吼介との再会。思わずさらけ出してしまった、奥深く隠していたは
ずの、本当の想い。
 普段感情を押し殺しているからこそ、思わず弱い姿を晒してしまった18歳の乙女が動揺する
のも無理はない。だがそれを差し引いても、刺客を前にし、最強の高校生を背にかばった守護
少女は、必要以上に冷静さを欠いているように見える。

「わかるでしょ、吼介? この男の正体が。単なる暴力団員などではない、私が闘わなければ
ならない相手よ。たとえどれだけ恐ろしい敵であっても。あなたの力は借りない、あなたを巻き
添えにするわけにはいかないの!」

 白スーツの男が『エデン』を宿していることは、里美はひと目見た瞬間から確信していた。
 旧御庭番衆の系統を告ぐ令嬢とはいえ、命を狙うほどの輩はファントムガール関連と考える
のがごくごく妥当なラインである。まして海堂の発散する"悪意"は、尋常な人間の放てる類の
ものではない。
 『エデン』を寄生した刺客との闘い・・・単なるいざこざとは次元の違う闘争を前に、里美の胸
には悲壮な決意が満ちていた。

「フフン、無理をしているな、五十嵐里美。我慢をするな。素直に助けてもらえ。口でなんと言お
うと、お前の本心がコウスケの力を望んでいるのはわかっているのだぞ!」

 再びオーバーラップする、夕子との会話。
 "あなたの感情のどこかで、吼介と一緒に闘いたがってるんじゃない?"

「勝手なことを言わないで! 私は、私は吼介の力を頼りなどしない! 一緒に闘うなんて甘い
考えは、とうの昔に捨てているわ!」

 切れ長の瞳に怒りと覚悟とある種の光を宿して、叫ぶ美麗少女は、後方で直立した格闘獣
に視線を飛ばす。
 その光の正体を、幼馴染である男だけは、正確に見抜いていた。

「吼介・・・私たちの闘いに、関わらないで。もし手を出したら・・・許さないわ」

 里美の瞳に宿った光の正体は、哀しみであった。

"里美、お前は・・・そうまでして、オレを『エデン』の闘いに巻き込みたくないのか・・・"

 ズシリと心に重く突き刺さる、衝撃。
 藤木七菜江は、『エデン』の寄生者は『エデン』を持つ者が倒さなければならない、と言った。
 里美は、それとはやや違う。孤高の令嬢を誰よりも知る吼介だから、わかる。
 五十嵐里美が最強の格闘獣を闘いから遠ざけようとするのは、修羅の道を愛する男に歩ん
で欲しくないため。
 そして、万が一、暗黒世界に堕ちた吼介を、己の手で始末したくないため。
 吼介が仲間になれば、どれだけ嬉しいか、心強いか。他の誰よりも何倍も理解している里美
は、それ以上に愛する男を失うことを怖れているのだ。
 だから、『エデン』の闘いで、吼介の力は借りない。どれだけ苦しい日々が続いても、最強の
男を仲間にはしない。させない。
 長い葛藤の末、答えを出した里美は、強く己にそう言い聞かせているのだ。

 運命により引き裂かれた、淡い恋の感情を捨て去り
 辛く厳しい闘いの日々に、最強の援護を求めることを諦め
 今、こうして、恐るべき刺客を前にして、己の命より愛する男の為を思う。

 そうやってお前は、いくつ自分のものを犠牲にしていくつもりなんだ、里美?
 憂いを帯びた美少女の悲痛なまでの決意が、最強を冠する男の動きを硬直させた。

「そうか。ならば・・・お前から死ね、ファントムガール・サトミ」

 白スーツの内側に海堂一美の左手が忍びこむのは、実に自然で素早かった。
 取り出された左手に握られたリボルバー=回転式拳銃の黒い銃口は、長い黒髪の揺れる里
美の額に、ピタリと照準が合わされていた。

 他愛無い挑発で、標的の冷静さを失わせることは、予想以上にうまくいった。
 厄介そうなボディガード、筋肉の鎧に包まれた男の手出しを封じたのは、目論み通りに成功
した。
 全ては海堂一美の狙い通り。守護少女、第一の犠牲者をあげるのに、想定通りの上首尾。
 ただひとつ、誤算であったのは――
 ファントムガールの正体をバラされ慌てるはずの里美が、すでに吼介に事実を知られていた
がために、少しの動揺も見せなかったことであった。

 海堂の指が、鋼の暗殺器の引き金を引く。
 バッ!!という擦過音は、銃弾の発射された証ではなかった。
 くノ一戦士・五十嵐里美が、地を踏み蹴る音。
 一瞬のうちに海堂の目前に現れた秀麗なる美少女は、片手でコルトの改造拳銃を押さえ、弾
倉が回転するのを防いでいた。

「貴様」

 漆黒を湛えた深遠なる瞳。青白くすらある透明な美肌。決意を秘めて結ばれた朱鷺色の唇。
 戦慄するほど美しく、陶酔するまで神秘的な、憂いのマスクが目鼻の先で見詰めてくる。
 恐れを知らぬ最凶のヤクザにゾクゾクと悪寒が駆け抜けた瞬間、ボッという空気を切り裂く音
はした。

 ダイアモンドを連想させる細長い顔面に、五十嵐里美の左拳が飛ぶ。
 拳の間に挟まれた鋭い光。尖った刃は、くノ一が操る暗器、クナイ。
 忍び流の小型ナイフが飛燕の速度で、海堂の急所を狙って放たれていた。

 バチイイインンンッッッ!!!

「女子高生は・・・カワイイものだな」

 難なく、いとも容易く里美の超速度の左拳は受け止められていた。
 海堂一美の、"最凶の右手"に。

"い、今の攻撃を、簡単に捉えてしまうなんて・・・ぅう?! ぅあああッッ?!!"

「くあッ・・・!! クッ・・・ううッ・・・ぐううッッ〜〜ッッ?!!」

「フフン・・・まるで・・・まるで脆いな」

 グシャグシャ・・・メキョ・・・ゴキグキ・・・グチャアッ・・・

 最凶ヤクザの右手のなかで、骨が軋み、肉が潰れ、関節がひしゃげる悲鳴が洩れる。
 破壊されていく。里美の清廉なる拳が。麗しき5本の指が。
 正真正銘、甲も指も拳丸ごとミンチにされそうな激痛に、美麗少女の白い咽喉が苦悶を鳴ら
す。

「手首からもぎとってくれる」

 鋭利な襲撃者の台詞は、いまだ海堂の右手が全力を出し切ってはいないことを里美に示唆
した。
 風が、突き抜ける。大地から天空に向かって。
 里美と海堂の間、わずか50cm空いた身体と身体の隙間を縫って、プリーツスカートを跳ね上
げた右の前蹴りが尖った顎を打つ。
 乾いた打撃音。ヒット。足応え、あり。
 力が抜ける一瞬に、左拳を引き戻す。数歩グラつく海堂。飛んで距離を置く里美。わずか数
瞬、再び対峙する白スーツの極道と青セーラーの少女。

"な、なんて・・・握力なの・・・"

 ピアニストのごとき白い手に、圧搾の責め跡がくっきりと赤く腫れ刻まれていた。
 麗美ですらある漆黒の瞳に驚愕の色が浮かんでいる。ビリビリと痺れる左手を、無意識のう
ちに里美の右手は抑えていた。
 対する海堂の右手は、そっと己の唇を拭う。"最凶の右手"の脅威の一部を知らしめた極道
と、新体操のトップ選手であった実力を体術として見せた女子高生。そのファースト・コンタクト
は五分と五分であったと言えるだろうか。
 時間にすればほんの数秒の攻防。しかし人通りの多い街角で、危険度を放出し続けるその
筋の男と秀麗ここに極まれりという美少女の激突は注目されないわけがない。ざわついた人垣
が周囲5mほど離れた位置に出来つつあった。

「大したもんだ」

 野次馬たちが気付くより先に、左手にした改造コルトを白スーツの内側に戻す。
 拳銃を海堂が隠したのは、騒ぎが大きくなるのを恐れて、だけではない。仮に五十嵐里美を
確実に抹殺できるのならば、海堂は躊躇うことなく改造コルトを撃っただろう。新たな力を手に
入れた今の海堂は、ファントムガールの邪魔さえ入らねばこの街の数十万人の人間をわずか
な時間で殲滅できる。里美を消去さえできれば、騒ぎの大小を気にする必要はない。
 海堂が拳銃の使用を諦めたもっと大きな理由、それは、もはやその殺人兵器が使い物にな
らなくなったから。
 コルトの銃口は里美の手によって、先の攻防の最中にいつの間にか詰められていた。容赦
なく標的を始末するのに最適な銃器は、もはや役立たずの鉄の塊に過ぎない。

「まだ、続けるつもり?」

 切れ長の瞳に鋭い光を宿して、長い髪の少女はヤクザ者に問うた。その声には闘いを避け
たい想いが表れた一方、いざ生死の攻防が続こうとも受け入れる覚悟が秘められている。

「必要以上に目立つのは、あなたにとっても得策ではないはずよ。それとも、極限まで行き着い
た闘いを望むの?」

 台詞の言外には、この場でファントムガールとミュータントの決闘を行なうことが、いかに互い
にとって危険であるかが伝えられていた。
 60分という時間制限、変身時に疲弊した折の強制睡眠・・・『エデン』の寄生者が正体を知ら
れるのは、遠からぬ破滅を望むも同じだ。もしここで海堂が巨大化をするのなら、ファントムガ
ール・サトミを倒した後で目撃者全員をひとり残らず皆殺しにする以外、破滅を免れる方法は
ない。

 ここまで衆目を集めてしまった以上、この場は引き下がるのが順当といえた。
 今までのメフェレス=久慈らとの激突において、それは暗黙のうちに了承された協定のような
ものと言ってもいい。

「確かに、ミュータントとやらになるのは危険なようだな」

「あなたの襲撃は失敗に終わったということよ」

「だが・・・変身などしなくとも、貴様を殺すのは容易いことだ」

 サングラスの下で、薄い唇がニヤリと吊り上がる。
 その瞬間、であった。

 ドンンンンッッッ!!!

 目に見えぬ漆黒の突風が、海堂の全身から噴き出される。
 その冷たさ、極寒地の吹雪のごとく。その鋭さ、幾多の血を吸った日本刀のごとく。
 その禍々しさ、生贄を待ちわびる悪魔のごとく。

"な、なんて・・・なんて殺気!! こ、この男は・・・ッッ!!"

 里美の美貌を冷たい汗が濡れ光らす。白く長い脚が、ガクガクと震える。
 麗しき令嬢戦士は悟った。白スーツのヤクザ、海堂一美がようやく本気になったことを。
 そして、海堂の持つ殺気・悪意・憎悪が、かつて経験したレベルとは、尋常でない程飛び抜け
てドス黒く巨大であることを。

 ヤクザである、とか。
 人殺しである、とか。
 そんな程度では片付けられない、あまりに濃密で強大な負のエネルギー。
 この海堂という男、経歴や肩書きなどではその闇を語れない。この世に生れ落ちた時から暗
黒の世界に染まっていたとしか思えぬ、それほどまでに瘴気が違う。
 恐らくこの男・・・人の心も身体もズタズタに引き裂き、蹂躙し尽くすことに心底から喜びを覚え
ている。異常者。他者を虐げることが快楽となる、生粋の悪党。良心の欠片もない、人間の皮
をかぶった、ヒトとは異なる生物。そうでもなければ、これほど圧倒的な闇の波動を放てるわけ
がない。

 ジリ・・・
 極道者の革靴が、一歩前に進む。
 闘わなければならない。この男と。人の世に生まれてきてしまった、人を食らう怪物。誰か
が、いえ、私がこの海堂という悪魔を止めねば、きっと更なる被害者が生まれてしまう。
 本気を現した恐るべき敵を前に、悲壮な決意を駆り立てる里美。だが、ローファーを履いた
脚は、想いとは逆に後ずさってしまっていた。

「はあッ・・・はあッ・・・はあッ・・・」

 荒い息が桃色の唇から洩れ出る。ボトボトと流れる汗が頬を伝ってアスファルトに落ちる。
 叩きつけてくる殺気の波動に、守護天使のリーダーたる少女は呑み込まれかけていた。
 一歩、一歩と海堂が足を進めるたびに、セーラー少女が後退する。無機質なサングラスに反
射した少女戦士の顔は、明らかに脅えの色を宿していた。先程の激突では五分であったはず
なのに、里美の心は濃密すぎる海堂の悪念に圧倒されてしまっていた。逃げるならまだ良かっ
た。なまじ闘おうとするだけに、少女戦士のダメージは深刻さを増す。正義の少女の心はいま
や、凶魔の放つ殺意の弾丸を真正面から嵐のように浴び続け、ハチの巣と化して削り取られ
ていく・・・

"わ、私は・・・ここで、死ぬかもしれない・・・・・・"

 不意に。そして、急に。
 一気に間を詰めた海堂に、里美は対応しきれなかった。
 獣のごときスピードも確かに驚異的ではあった。しかし、それ以上に全開放した殺気の弩流、
荒れ狂う濁流のごとき激しい負の波動をもろに浴びていたことが、くノ一少女の動きを完全に
封鎖してしまった。
 目と鼻の先。"最凶の右手"を振りかぶる海堂。
 右のアッパーが来る。顎か、あるいは下腹部、脇腹か。いずれにせよ、もはや回避は・・・不
能。
 己の吐き出した鮮血のなかで、悶絶する姿を里美が想像した、その時だった。

 ドゴオオオオオオンンンンンッッッ!!!!

 肉と肉とがぶつかり合った音とは思えぬ、重々しい衝撃音。
 "最凶の右手"海堂一美、渾身のアッパーブロー。
 馬の蹴り足にすら重なるそれを受け止めたのは、格闘筋肉獣の右掌であった。

「てめえええッッ〜〜ッッ、里美になに手ェ出してやがんだァァッッ!!!」

 吼えた。工藤吼介が。燃え上がる憤怒を隠しもせずに。
 まさしく猛獣の咆哮に、周りを囲んだギャラリーたちの頬すらビリビリと震える。
 震撼。
 街の一角が切り取られたように、すくみ上がっていた。恐怖で。歩行人も、行過ぎる車も、騒
音も、アスファルトも、コンクリのビルも、夕方の空も、全てが。男臭い顔を紅潮させ、怒号を放
った獅子王の一喝に。一様に引き攣った見物人たちが、泣くことも逃げることも叶わずただガ
クガクと揺れ動く。

 ただひとり、サングラスの奥でクワッと眼を光らせたのは海堂一美。
 ぶつかり合う、最凶の殺気と最強の闘気。必殺の拳を受け止められたヤクザが、凄惨な色を
表情に浮かべる。

「クソヤクザがッッ!!! 里美に指一本触れさせるかよッッ!!!」

 吼えた。格闘獣が再び。
 圧倒的な戦闘力を誇り、常にどこか余裕を漂わせる最強高校生の、魂の叫び。マグマのごと
き熱に、研ぎ澄ました殺気を放つ極道がわずかにひるむ。

「こ、吼介・・・」

「里美ッッ!! お前にはお前の事情があるだろう。だがオレにはオレの事情があるッッ!! 
どんなに頼まれようと、目の前でお前を傷つけられるのを黙って見てるわけにはいかねえッ
ッ!!! 絶対に! 絶対にだッッ!!!」

 傍らの美麗少女が言葉を失うほど、工藤吼介の雄叫びはストレートに心の奥底に響いた。

「お前の願いはわかってる。このオレは決してお前と同じ立場になっちゃいけないのもよくわか
ってる!! けどな、それでもオレは里美を守りてえッッ!! お行儀よくじっとしてるなんて我
慢ならなくなるんだよッッッ!!!」

 『エデン』の闘いに参戦してはならないとする理性と、手助けしたい感情。
 揺れ動く内面そのままに、最強の男の声も震えていた。
 藤木七菜江が縦横無尽に疵を刻まれた顔のヤクザに襲われて以来、吼介は街中を探し続
けていた。もう一度、あの疵面に会えないかと。
 会えばわかる、守護少女たちの敵であるか、あるいはそうでないのか。敵であるならば・・・あ
の男を、二度と七菜江たちの前に現してはならない。
 危険な臭気を嗅ぎ取ったからこその捜索の日々。街の片隅で里美に出会ったのは、その最
中のことだった。
 疵面には会えなかった。しかし、同等の、いやそれ以上に禍々しい刺客は今、目前にいる。
 いくら世界でもっとも逆らえないと思われる幼馴染の頼みであっても、美少女戦士の危機をこ
れ以上傍観している気にはなれなかった。

 ブンッッッ!!!

 しなった右脚が、華麗な放物線を描いて海堂の尖った顎へと吸い込まれていく。
 筋肉獣のハイキック。上段回し蹴り。
 岩のような逆三角形の肉体から放たれたとは思えぬほど、吼介の右ハイは柔らかく、しなや
かで、美しかった。
 そしてそのパワーとスピードたるや・・・斧の威力を秘めた音速のムチ。

 バチイイイイインンンンッッッ!!!・・・

「・・・なんだとッ・・・?!!」

 今度は吼介の打撃を海堂が受け止める番であった。
 左側からの攻撃を、敢えて海堂は右腕で受けていた。長身で細身だが、鋼の強さを芯に秘
める白スーツの身体が、猛獣の打撃にグラリと揺らぐ。踏ん張った足が最凶のヤクザを支えき
った瞬間、驚きと戸惑いの呟きは、ふたりの獣から同時に放たれていた。

―――この男、オレの右ハイを堪えきりやがった・・・
―――オレの右手で捉え切れんとは・・・こいつ・・・

 弾ける音がしたと錯覚するほどの勢いで、工藤吼介と海堂一美の身体が離れる。
 7mの距離を空けて対峙したふたりの怪物は、互いの足と掌に残った痺れを反芻しながら、
敵の力量を測るように沈黙する。

「得策では、ないな」

 遠巻きに人々が恐る恐る見守るなか、明らかに敵対した高校生の男女と極道者、最初に口
を開いたのは白スーツの男であった。

「吼介、といったか。貴様と五十嵐里美、ふたりを同時に相手にするのは、どうもうまい手とは
思えない」

「里美には指一本触れさせないと言ってるだろ」

「海堂・・・これ以上注目を集めるのは、お互い避けたいはずよ」

 クク・・・ククク・・・
 サングラスの下で、薄い唇がニンマリと歪む。
 ギャラリーに囲まれ、最強の護衛も立ち塞がったこの状況は、暗殺を狙った襲撃者にとって
は最悪のはずだった。一言でいえば失敗。仁侠界でも怖れられる最凶者・海堂一美といえど、
この場は引き下がる以外に手はないように思われる。
 だが・・・それでも鋭い雰囲気を纏った男は笑っている。心底、愉快そうに。

「このまま退散するのが無難なようだ・・・がその前に、ひとつ試させてもらおう」

 言うなり、ナイフのごとき威圧を放つ男が、猛然とダッシュする。
 向かった先は、里美らとは正反対、見物人が人垣を作る一角。
 買い物帰りのスーパーの袋を提げた若い主婦。スヤスヤと眠る我が子を胸に抱いた二十歳
代半ばの女性に悪魔が殺到する。
 悲鳴がこだまする。次の瞬間起こるであろう惨劇を予感して、輪を描いた観衆から怒号と絶
叫が巻き起こる。しかし、彼らの身体は硬直し切っていた。迫る死を前にして、女性も周囲もた
だ表情を凍てつかせることしかできない。

"殺す気なのッ?! 暗殺に失敗した腹いせにッッ!!"

 プリーツスカートを翻し、青いセーラー服が疾走する。
 海堂の凶行に勘付くより早く、里美の肢体は走り始めていた。その姿は、青い稲妻と化した
女神。風すら引き裂くスピードで、美貌の令嬢が暴走する凶魔に一気に追いついていく。

「かかると思ったぜ」

 伸ばした細い指先が白スーツに届くかと思われた瞬間、唇を吊り上げたサングラスの男の顔
は振り返った。

"しまった!"

 策略に嵌った美麗少女の顎に、海堂の右手の甲、振り返りざまの裏拳が打ち抜かれる。
 グシャリッ!!という何かが潰れる音。美貌が弾き返され、鮮血が飛散する。

「ぶッッ?!! ぐぅッッ!!」

 結果的にカウンターとなった一撃は、ただそれだけで超人的耐久力を誇る令嬢戦士の脳天
から足の爪先までをビリビリと痺れさせていた。
 金属バットでフルスイングされたような衝撃。
 ヒットの刹那、咄嗟に両手でカバーをしたのは、修羅場を潜り抜けてきた少女戦士ならでは
の神業であったが、拳を作った海堂の右手は鋼鉄よりも遥かに硬かった。くノ一の体術を笑い
飛ばすかのごとき、圧倒的破壊力。ガードの上から叩き込んだ、たった一発の裏拳だけで、里
美の女性らしい肢体を半ば昏倒状態に追い込む。

「里美ッッ!!」

 動きの止まった守護少女は、惨めなまでに無力であった。
 続けて襲い来る"最凶の右手"に反応することすらできず、セーラー服を美しい形で盛り上げ
た左胸を、無抵抗のまま鷲掴みにされる。

 グシャアアアアッッッ!!!

「うああッッ?!! うあああああッッッーーーッッッ!!!!」

 聖愛学院生徒会長、五十嵐里美。その象徴ともいうべき青のスカーフとカラー、そして純白
のシャツ。
 それら制服が引き裂かれるほどの勢いで、憂いの美少女の左胸は一気に握り潰されてい
た。
 千切れた制服の破片。噴き出る鮮血。海堂の指の間から無惨に歪んでこぼれた乳房の肉。
ブチブチという凄惨な音。
 無事な右胸と比べれば明らかなほど、超握力に潰された里美の左バストは圧搾されてしまっ
ている。

 ヤクザに嬲られる女子高生。その引き攣った苦悶の絶叫に、ギャラリーとして巻き込まれた
人々の顔面から血の気が引いていく。
 肉をつねられる痛みは誰もが経験していることだ。例えば腕のような、比較的感覚の鋭くない
場所であっても、ハッとするほどの痛みが襲う。
 それを片胸全体という大量の肉でされれば。しかも怪物並みの超握力で。しかも女性にとっ
ての弱点である乳房を。しかも18歳という多感な時期に。しかも殺意すら込めた容赦のなさで。
 里美を襲う激痛の壮絶さたるや、想像するのさえ及ばない。
 幼少からの修行で苦痛に免疫があるはずのくノ一戦士が、全身を大の字に突っ張らせてビ
クビクと痙攣し続ける。魂をカンナで削られていくような激痛に、里美の脳裏は反撃を考えるど
ころか、ただ必死に圧搾地獄に耐えるしかない。もし『エデン』を宿していなければ、とっくにショ
ック死していたに違いない許容外の苦痛を、戦士としての道を選んだが故に美しき少女は浴び
続けるのだ。
 胸を潰され四肢を突っ張らせたままヒクヒクと震え続ける秀麗な美少女・・・それはまさに地獄
絵図と呼ぶに相応しい光景だった。

「高校生にしては、いい胸を持っているな、五十嵐里美」

「はぐッッ!! くああッッ・・・ウウウウッッッーーーッッッ!!!」

「勝利の証として・・・この乳房、引き千切ってくれる」

 左胸を握り潰したまま、海堂の右手が、片腕一本で引き攣る里美の肢体を吊り上げていく。
 爪先立ちになっていた足が、アスファルトから離れる。己の全体重を鷲掴みにされた左乳房
ひとつに掛けられる悲劇に、白目を剥いた守護天使のリーダーの口から、ブクブクと泡がこぼ
れ落ちる。
 ビクン!! ビクン!! ビクビクビクビク・・・

"あくッ、あがアッッ・・・む、胸がァァッッ・・・死・・・死んじゃ・・・"

 脱出不能の里美の心に、かすかに湧く死への覚悟。
 憤怒の形相を浮かべた吼介が、救出に向かって来てくれていることは気配でわかる。だが、
間に合わない。海堂があと少し力を加えれば、言葉通りに左胸を毟り取られてしまうだろう。救
助を頼むには、ふたりの距離は離れすぎた。いや、正確には海堂の策略によって離されたの
だ。
 最凶のヤクザが一般人である子供連れの主婦を襲おうとしたのは、あくまでポーズだった。
だが、海堂は見抜いていたのだ。守護天使である少女が必死で主婦を守ろうとするのに対し、
最強の護衛にはその感覚が欠如していることを。工藤吼介が守ろうとしているのは、あくまで
五十嵐里美のみ。咄嗟の折に人々の盾となれる守護少女と、それができない格闘獣との差を
冷酷な暗殺者は利用したのだ。

 他愛無いものだ。ファントムガールなど。
 作戦は思い通りに成功した。右手から伝わる豊かな胸の感触と悶絶の震えが、もはや守護
天使が超握力の破壊の前にはなんらの反撃も出来ないことを教える。頭脳も、肉体も、このオ
レの方が上だ。断然に。リーダー格の少女を一瞬の油断を突いて捕獲した"最凶の右手"が、
まもなく手中にする勝利に身震いする。
 その、瞬間であった。

 ドシュドシュドシュッ!!

 深く柔肉に食い込んでいた指から、変形した乳房がずるりと抜ける。
 音をたてて地面に落下する青セーラーの少女。右腕を押さえた鋭利なヤクザが、反射的に
後方に飛び退る。
 己の右腕に突き刺さった、3本の光る刃を海堂は見た。

「・・・手裏剣、だと?!」

 研ぎ磨かれた刃を十文字型に輝かせたそれは、紛れもなくテレビの時代劇などで忍者が使
う飛び道具と同じ形をしていた。
 五十嵐里美が伊賀忍者の末裔、御庭番衆の流れを汲む者であることは、当然のようにレク
チャーを受けている。忍びの定番武器が登場しても、別段驚くことはないのかもしれない。
 だが、しかし、一体誰が?!

 思考を続ける前に、三つ揃いの白スーツはさらに後方に跳ね飛んだ。直前まで迫っていたの
は、血管を浮かび上がらせた工藤吼介。猛る怒りを全身から噴き出す格闘獣をまともに相手
にするのは、あまりに馬鹿馬鹿しい行為であることは明白であった。追跡しても無駄であること
を示すように、海堂は一気にそのまま距離を大きく開ける。
 射程距離に入る前に敵に逃げられたと悟った筋肉獣は、無益な深追いはしなかった。サング
ラスのヤクザへの怒りは強いが、それ以上に大事なものが吼介にはある。ダッシュの方向を
変えるや、左胸を押さえたままうずくまる長い髪の少女を抱きかかえた。

「ご丁寧に、毒まで塗ってあるか」

 突き刺さった手裏剣を引き抜きながら、鋭利な男はひとり呟いた。常人ならば致死量の毒
も、『エデン』という新たな力を得た海堂には、さほどの脅威にはならない。ややふらつく頭を自
覚しつつ、サングラスの凶魔は苦しげに美貌を歪ませた少女と、猛獣の視線を送る男に背を
向けた。

「正真正銘、引き際のようだな」

 飛び避ける人々の間を割って、海堂一美の長身は、ざわつく街並みを駆け去っていった。

「里美ッッ!! 大丈夫か、里美ッッ!!」

「平気よ、このくらい・・・なんでもないわ」

 瘤の埋まった極太の腕に抱かれながら、引き攣った微笑を里美は見せる。言葉とは裏腹
に、激痛の余韻は未だスレンダーな肢体を蝕んでいるようだった。左胸を押さえた手の間か
ら、うっすらと朱色の血が滲んでいる。肉体のダメージとしては深くないものの、最大級の苦痛
と年頃の令嬢が受けた乙女としてのショックは、歴戦のくノ一としても堪えたようだ。

「里美さま」

 ジャリッ、とミリタリーブーツがアスファルトを踏みしめる音が、ふたりの高校生の前でする。
 工藤吼介が見上げたその人物は、かつて見たことのない女性であった。
 くせッ毛のあるショートヘアとネコ型の野生動物を思わせる顔立ちが、活発な印象を与える。
ネコ顔の少女は吼介もよく知っているが、年上と思われるこの女性は同じ系統の顔でも随分と
凛とした趣が強い美人だ。迷彩模様のパンツに、黒のタンクトップ。首から提げたチョーカーに
は弾丸をあしらったペンダントが光っている。身長は里美と同じくらいだが、肉付きのいい体型
はバストやヒップにボリュームを感じさせ、ワイルドなファッションには不似合いな色香を醸して
いる。
 里美の、知り合いなのか?
 吼介の疑問を氷解するように、女性は片膝をついて里美の傍らで畏まる。

「お怪我はありませんか?」

「ありがとう。あなたのお陰で助かったわ」

「里美さまをお守りするのは、オレにとっては当然の責務です」

 これ以上、心配をかけさせまいとしたのか、無理にと思える調子で負傷した令嬢戦士は上半
身を起こす。

「里美さまがご無事でしたら、オレはこれからあの男を追います」

「・・・・・・気をつけて・・・魅紀さん」

 特殊国家保安部隊員にして、伊賀忍者=御庭番衆の血を受け継ぐ現代くノ一・相楽魅紀。
 次期御庭番頭領の里美を影ながらサポートする女戦士は、危険な初邂逅を終えた凶魔・海
堂一美を追って、雑踏のなかへと消えていった。



 淡いオレンジの光が、畳の敷き詰められた道場を柔らかに浸していく。
 仄かに篭もる、人々の熱気と汗の臭気。静まり返った室内に漂う残滓が、先程までこの場所
に多くの人間たちが集まっていたことを教える。初秋の鮮やかな夕陽は、稽古の余熱が残る
和風の空間を染めるのに、よくマッチしていた。温かで、柔らかで、それでいてどこか寂しい夕
暮れの光。遠い空で、巣へと帰っていくカラスの鳴く声が聞こえる。

 古流武道の一派・想気流柔術の修練場。
 現師範である西条剛史の居住宅の一角に建てられた道場では、決められた曜日にお弟子さ
んたちへの稽古が行なわれている。一般部の練習がない今日は、少年部のみの開催であっ
た。夕方、小学校帰りの子供たちが続々と集まってきた道場では、つい先程1時間半の稽古
が終わったばかりだ。

 迎えの保護者に無事子供たちを返し終え、ホッと一息ついたのも束の間、西条エリはひとり
再び道場へと戻っていた。
 父である剛史が所用で外出しているときなど、エリや妹のユリが代わりに指導することは珍し
いことではない。少なくともふたりの実力をよく知る道場生から、不満の声が挙がることはなか
った。むしろ丁寧で優しい双子姉妹の指導は、がさつな面もある剛史よりも好評なくらいであっ
た。
 今日はユリも稽古に間に合わないため、エリはただひとりだけでの指導となった。
 同じ白鳳女子高校に通うユリだが、文化祭の出し物について、クラスでの作業が遅れている
ため抜け出せない状態らしい。自分ひとりだけとなると、責任の重さも感じないわけにはいかな
かったが、こうした経験は初めてのことではない。20人ほど集まった小学生以下の子供たちを
相手に、エリはそつなく予定したメニューを終えたのであった。

「さて・・・ここから、頑張らないと・・・」

 指導者としての役目は終わったが、武術家としてのエリの稽古はこれからが本番だった。

「今のままじゃ・・・ユリの役に立てないから・・・」

 オレンジの光に包まれた空間で、ひとり幼さの残るスレンダーな少女は、力みの抜けた、自
然でそれでいて隙のないフォームで構えて立つ。
 白の道着に黒袴。長身細身の15歳の少女に、想気流柔術の道着は驚くほど馴染んでいた。
丸い輪郭に納まったくりくりとした漆黒の瞳と薄紅の唇。襟足まで届くセミロングの髪。お人形
のような童顔に愛らしさは満ちたまま、凛とした気配が濃厚に立ち昇ってくる。

 ファントムガールになるという願いを、エリはまだ諦めたわけではなかった。
 今のエリは、自分の許可がなければ全力を出すことができない妹のユリ=ファントムガール・
ユリアをサポートする立場でしかない。それは重要でありながら、己の代わりに双子の妹を死
地に送らねばならぬ、歯がゆく悔しい役目であった。本来ならば死を賭けて闘うのは自分であ
りたかった。ファントムガールにさえなれれば、ユリを二度と危険な目に遭わせずに済むの
に・・・だが、守護天使のリーダーである五十嵐里美は、唯一残された最後の『エデン』を、決し
てエリに渡そうとはしなかった。
 西条家の双子姉妹を、ともに過酷な使命に巻き込みたくなかったのは、里美の深慮。
 そして、変身可能にエリがなれば、己の代わりにその身を犠牲にすることがわかっている、ユ
リの願い。
 天才と呼ばれるユリに近い柔術の実力を持っていても、エリが守護天使となることを頑なに
拒否されているのは、そのふたりの意志が一致しているためであった。
 ふたりの優しさは、エリにも痛いほど伝わってくる。が、しかし・・・

"ふたりが、私をファントムガールにしたくないのは・・・結局・・・私が弱いから。・・・だから、傷つ
くことがないように・・・闘いから遠ざけようとする。・・・強くなれば、きっと・・・きっと、安心して私
を仲間に認めてくれる"

 ユリとの間に存在する実力差を、エリ自身が誰よりも理解していた。
 紙一重。だが、紙の向こうとこちらには、確かな「隔たり」がある。
 その境界を越えるために、ユリがいないこんなときこそ、稽古に励む必要があった。柔術の
練習はふたり一組が基本。互いの身体を実験台にすることで、技の精度を磨いていく。そうし
て愛らしい双子姉妹は、日夜修練に努めてきた。とはいえ、パートナーがいなくとも、腕を高め
る稽古はできる。

 畳が摩擦するかすかな音。
 流れるように動いた華奢な肢体が、一切の無駄なく前進する。両手が流麗かつ複雑に舞っ
たかと思うや、一呼吸で一気に美少女は回転していた。
 パッと見、そのリズミカルなムーブは踊っているかのように映る。しかし、しばらく凝視してい
れば、見物人の眼にもきっと見えてくるだろう。
 エリに柔術の技を掛けられている、空想の敵の肉体が。
 シャドーボクシングならぬ、シャドー柔術。目に見えないパートナーを相手に、エリは稽古を始
めたのであった。

 ただ、その意味合いはイマジネーションで生み出した敵と闘いの予行練習をする、というのと
は少し違っていた。
 空想の敵と闘う、というのであれば、相手がどう動いてくるかを想像し、それに合わせた攻守
の動きを脳裏に描きながら動く、ということになるだろう。それは実戦的でありながら、リアルに
近づけるには、なかなか難しい作業であった。想像する敵は、どうしても己にとって都合よく動
きがちになるからだ。
 今、エリがしている鍛錬は、もっと簡単で単純なものだった。
 エリが頭に描いた敵は、単一な攻撃を繰り返すばかりであった。例えば、右のストレートな
ら、それのみ。突き出された右パンチを、エリは決められた動きで受け、関節を取り、極める。
その同じ動作を何十回と繰り返す。それを攻撃パターンを変えて、ひたすら続けていく。
 要するに、エリがしている練習は、技の動きを身体に染み込ませるための稽古であった。

 基本的な練習だ、と思われるかもしれない。実際に技の流れを身体で覚えていくのは、想気
流柔術においてはイロハのイであり、稽古の根幹である。少年部も一般部も、練習はここから
始まり稽古時間の多くを費やす。柔術を極めた少女の特訓としては、あまりに地味に映っても
仕方のないところだろう。
 だが、技の流れを肉体で覚えることこそが、想気流において最大の重要事案である以上、エ
リの秘密稽古が地味で単調なものになるのも当然のことであった。
 柔術において大切なこと、それは関節を極める、それ自体よりむしろ、極めるまでの過程に
あると言っていい。
 考えてもみればいい。的確に関節を極めるのは、コツさえ掴めばできるようになる。しかし、
実戦=例えばケンカなどで関節技を極められるものかどうか? 必死で逃げる、あるいは攻撃
してくる相手に、思うように技を仕掛けるのは並大抵の難しさではない。武道の技はその「最終
形」に眼が行きがちだが、本質は「どう最終形に持っていったか」の流れにこそあるのだ。

 攻撃してくる相手に対し、どのように対処し、次にどう動いていったか・・・もっとも効果的で合
理的な動きを繋ぎ合わせ、一連の流れとしてまとめたものこそが「技」なのだ。右ストレートを打
ってきた敵を、確実かつ効率的に倒せる「動きの道順」を想気流柔術は知っている。あとはい
かにその道順を、動きの流れを、より正確に、より素早く実践できるか。全身の筋肉と細胞に
教え込ませた者のみが、技の成功を実現させるのだ。
 非力な肢体と内気な性格。どう見ても武道家としては不向きな双子姉妹が達人たる所以は、
遺伝もあろうがなにより幼少からの訓練によるところが大きい。一般の道場生より十倍強いエ
リユリ姉妹は、百倍以上、技の流れをその身に染み込ませてきたのだ。努力の日々が、流し
た汗がそのまま強さに直結する、それが柔術。途方もない時間を修行に費やしてきたからこ
そ、屈強な男数人がかりでも敵わぬ、双子の柔術姉妹は誕生した。

 同じ時間を稽古に費やしたのに、妹のユリが自分より強い理由・・・それが天から与えられた
才能の差であることは、エリも薄々感づいていた。
 だが、それを認めることは逃げること。ユリが私より強いのは、きっと隠れてやった努力の差
なのだ・・・敢えて言い聞かせることで、可憐な少女はチャンスを見つけては密かな特訓を続け
ているのであった。
 道着の下、白い素肌にじっとりと汗が浮かび始める。素早く、淀みない動きを一息の休止す
ら置かずに続けるエリの稽古は、同じ時間における運動量が一般人とは段違いであった。孤
独で、しかし濃密な修行・・・エリの充実した時間は、ここで唐突な終わりを迎えることになる。

「小娘のくせに、なかなかいい動きじゃねえか」

 背後から突然沸いた声に、西条エリは風切る速度で振り返った。

 ゾクリ

 足元から這い上がる冷たい感覚を、エリは生涯忘れることはないだろう。
 男。ひと目で凶暴性が伝わってくる男が、畳の上に土足で立っている。
 紫のジャケットとスラックス、ギラギラと輝く金のネックレス。角刈りの頭に、革製の靴。そのフ
ァッションからも危険な香りは漂ってくるが、男の顔は戦慄を覚えさせるには十分なものであっ
た。
 縦横無尽に生傷が顔に刻まれている。
 傷に引きつられて、三白眼の左眼と唇の左側が下にズレ下がってしまっていた。15歳の少女
には刺激の強すぎる顔。だが、エリの鼓動を緊迫感とともに急激に高めているのは、それらの
外見以外にあった。

 いつの間に、こんな近くまで迫っていたのか?――
 ユリほどではないにせよ、気配、それも危険度の高いものを察知するのは、想気流を会得す
るエリには決して苦手なことではない。それがここまでの接近を迂闊にも許してしまうなんて・・・

「道場に・・・なにか、御用でしょうか?」

 内気な少女が口を開く。あどけなさすら残す美少女が、明らかなヤクザ者に向かって言うに
は、堂々とした口ぶり。むしろクラスメイトや守護天使の正体である少女たちと話す折よりも、
その態度は毅然としている。

「想気流柔術ってのは、ココで間違いねえな?」

「そうです・・・あの・・・まずは靴を脱いでください」

 畳に落ちた土を視界の隅に認めながら、エリの丸い瞳が凛と疵顔の男を見詰める。
 水仙のように華奢な少女の注意を嘲笑うように、男は靴を履いたまま、グリグリと畳を踏み躙
った。擦り切れたイ草がささくれ立つ。

「靴を・・・脱いでください」

「西条ユリってのは、お前か?」

「・・・ひとに名前を尋ねるときは・・・まずは・・・」

「城誠だ。毛も生えてねえようなガキのくせに、生意気な口利くじゃねえか、あァ? もう一度訊
くから、きちんと答えな」

 腐った魚のような眼で、スカーフェイスのジョーが童顔の美少女を睨みつける。逃げることなく
エリの純真な瞳は、凶獣の眼光を真っ向から受け止めていた。

「お前が西条ユリ・・・ファントムガール・ユリアの正体だな?」

「ッッ!!・・・・・・そうです」

 ジョーの狙いを全て理解したうえで、エリは力強く頷いた。
 強い衝撃が、エリの全身を叩きつける。
 ファントムガール抹殺を目指す刺客・スカーフェイスのジョー第一の攻撃は、打撃などではな
かった。
 殺意。
 全開放された圧倒的殺気が、人形のような美少女のスレンダーな肢体に浴びせられる。か
つて経験したことのない、巨大な悪意。白い頬が、柔術の道着が、ドス黒い負の波動にビリビ
リと震える。

 次の瞬間には、腕も脚も首も太い重厚なジョーの肉体が、押し潰すような迫力でロリータフェ
イスの少女に突っ込んでいた。
 渾身の力を込めた、右のストレートパンチ。
 明確な殺意を受けた人間は恐怖する。恐怖は肉体を硬直させ、自由を奪う。本来なら。
 生粋の武道少女・西条エリは違った。
 肢体を捻りながら前進した美少女の頬を、凶獣の拳がすり抜ける。唸る空気の音。避けられ
た、と悟った瞬間、ジョーの拳は白い指に絡め取られていた。
 交錯する勢いを利用して、エリは岩のような拳をそのまま内側に折り込むように曲げていた。
 関節が曲がらない方向に曲げるのを逆関節といい、曲がる方向に可動範囲以上に曲げるの
を順関節という。手首を手の平側に容赦なく曲げた、エリの順関節技。激痛にジョーの身体が
思わず飛び上がった時には、その右肘までもが一気に想気流柔術の餌食となっていた。
 手首、肘、肩。電流のように這い上がる激痛に、自ら畳を蹴ったジョーの肉体はエリの顔の
高さまで宙を舞っていた。
 グシャリと肉の潰れる音を響かせて、疵に埋め尽くされた顔面から、分厚い肉体が垂直にエ
リの足元の床に激突する。畳の上とはいえ、脳震盪は免れない衝撃―――

 スカーフェイスがその動きを止めていたのは、時間にしてわずか2秒のことだった。
 首を支点に逆立ちした状態から両脚を振る。反動で一気に立ち上がったTレックスのごとき
肉厚の身体は、己を無様に地に叩きつけた張本人を見るべく素早く振り返る。
 古い疵跡から滴り流れた鮮血が、凶獣の顔面を朱色に染めていた。
 ペロリ・・・赤い舌が、己の血を舐め取る。数え切れぬ人間を楽しみながら始末してきた、殺
人快楽者・スカーフェイスのジョー。愛くるしいまでのロリータフェイスの少女に床を舐めさせら
れたその屈辱は・・・想像するだに恐ろしい。その胸に猛る業火は天を焦がし、怒りは全身を紅
潮させる――はずだった。

 憤怒に焼かれているはずの疵面は、歪んだ顔をさらに歪めてニヤリと笑った。

 ボト・・・ボトト・・・ポタ・・・・・・

 対峙する西条エリは、真っ直ぐに立ったまま無駄なく構えている。
 鮮血で赤く染まったジョーとは対照的に、元々白いエリの童顔は血の気が引いて青くすらあ
る。おびただしい汗が、愛らしい顔を濡れ光らせている。
 突然に現れた襲撃者。ファントムガール・ユリアの正体を知っていること、顔面から投げ落と
されても平気なタフネス、城誠と名乗るこの男が、久慈仁紀の手の者で『エデン』と融合した新
たな敵であることは、ほぼ疑いようがない。しかもその殺気は、エリも闘った経験のあるかつて
の敵・サーペントこと葛原修司や、シェルこと兵頭英悟などと比べても、まるでレベルの違う・・・
段違いの本物の殺気。いままでのミュータントを遥かに凌ぐ危険な敵の予感に、エリは十分な
警戒をしていた。していたはずだった。
 ―――なのに。

「きゃあああああああッッ―――ッッ?!!!」

 鈴のような少女の声が、甲高い絶叫となって夕暮れに染まる道場を揺るがせる。
 ガクガクと数歩、後ずさるエリ。崩れそうになる肢体を必死に支える膝。その少し上、黒袴に
包まれた太腿の部分。
 刃渡り30cmの短刀、ドスが、少女闘士の右脚を貫いていた。
 華奢な身にあって、わずかにムッチリと肉付きのいい太腿。真上から突き刺さった刃は、腿
裏から突き抜け、エリの右足を串刺しにしてしまっている。刀身を濡らす鮮血。畳に点描されて
いく深紅。厚い筋肉を抉りぬかれた壮絶な激痛に、凶悪な暗殺者が目の前にいることも忘れ
てエリは叫んだ。

「ギャハハハ! お前が使う柔術ってのは学習済みだぜェェッ!! 投げ一発と右足一本、悪
くねえ交換条件だなア!」

 下卑た笑い声が、どこか霞がかった世界の向こうから響いてくる。
 可憐と愛らしさを誇る少女武道家の意識の全ては、燃えるような右足の激痛に集中してしま
っていた。そうでもしなければ、とても正気を保っていられそうにない壮絶な痛み。いくらエリが
人形のごときスレンダーボディの持ち主とはいえ、太腿の筋肉は他箇所と比べてかなり大き
い。その大量の肉と神経を抉り抜かれたのだ。一度、堰を切ったように溢れた悲鳴は途切れ
ることなく、右足を両手で抑えた道着姿の美少女は、フラフラと後方へよろめき下がる。
 疵面の凶獣は、獲物を逃がしはしなかった。
 身体ごとぶつかっていくような突進。重厚な肉体が一気に突っ込んでいく。
 凄まじい激痛とショックで混乱するエリに、容赦ない追撃を避けられるわけがなかった。
 無防備状態の少女闘士の全身に、肉食恐竜のごとき肉体が衝撃となって叩きつけられる。

「はァぐッッ?!!」

 その瞬間、童顔少女の胡桃の瞳は、一際大きく見開かれた。
 重なり合う、細身の道着姿と疵面のヤクザ。小刻みに震える美少女と、歪んだ唇をさらに歪
ませて笑う凶獣。信じられないものを見るように、エリはゆっくりと視線を下方に落としていく。
 ジョーの手にした15cmほどのナイフが、根元まで白い道着の左脇腹に埋まっていた。
 ゴブッッ・・・桜色の唇を割って、ドロリとした血塊がこぼれ出る。

「ヒャッハアアッッ!! 柔らかい肉だなァ、おい! ファントムガールを抉るのは格別な気持ち
良さだぜェェッ!!」

 ズボリと音をたてて、ナイフがエリの腹部から引き抜かれる。噴き出す血が少女と凶器とに深
紅の糸を繋ぐ。
 殺人に悦びを得る凶悪な恐竜は、抜いた刃物をすかさず少女闘士に突き出していた。
 まるで躊躇いのない速度。必死で反応したエリが右手でナイフを防ごうとする。
 日本最凶の暗殺者と謳われる男の攻撃は、柔術少女の捨て身の防御など、まるで意に介さ
なかった。
 掌の中央を易々と貫き通した凶刃は、白い少女の鳩尾を右手ごと抉り刺していた。

「ぐうッッ?!! んんんううううッッッ―――ッッッ!!!」

 百合のごとき少女の肢体の真ん中で、深紅のバラが咲き誇る。
 ブッと噴き出した鮮血の飛沫。
 白の道着が、黒袴が、見る間に真っ赤に濡れていく。ヒクヒクと痙攣する美少女の瞳は、もは
や眼前の刺客を捉えてはおらず、宙空をさ迷っている。

「西条ユリ、お前が第一の犠牲者だァッ! ゲハハ、簡単には殺さねえッ、この柔らかな肉でた
っぷりと楽しませてもらうぜェェ〜〜」

 渾身の前蹴り、ヤクザ独特の正面からのキックが、エリの薄い胸を潰す。
 軽々と5mを吹き飛ぶモデル体型の少女。反動で刺さったナイフが一息に引き抜かれる。後
方に弾き飛ばされながら、フラつくカモシカのような脚は、かろうじて転倒するのを防いだ。
 華奢でしなやかな肢体が、前後左右にグラつく。汗で濡れ光る真っ青なロリータフェイス、首
から下は鮮やかなまでの深紅。着実に死への階段を昇っていく武道少女に、疵面の恐竜はエ
サに飛びつく勢いで襲い掛かる。

 振りかぶったナイフが、愛くるしいまでの丸い顔面に迫る。
 ドスに貫かれたままの右足で、逃げることは不能。悲鳴を洩らし、ただ左腕をあげたエリの防
御は、武道と呼ぶにはほど遠いものだった。

 ズバアアアアアアッッッ!!!
 白く細長い腕の手首から肘にかけてが、鋭い刃によって一気に切りつけられる。

「うぇああああああああッッッ―――ッッッ!!!」

 皮膚と筋肉とを30cmほど切り裂かれる鋭痛に、血染めの少女闘士が絶叫する。
 パクリと開いた傷口から迸る血潮。たまらず左腕を押さえたセミロングの少女がビクンビクン
と痙攣する。
 もはやエリの全身は灼熱と化した痛撃と失血による虚脱感で、苦痛以外の感覚は喪失してし
まっていた。ドロドロに溶けた高温の鉄を、あらゆる肉の間に流し込まれたかのような地獄。

 棒立ち状態で痛みに震えるしかない柔術少女に、宇宙生物から新たな力を得た最凶の暗殺
者が猛ダッシュで殺到する。
 スレンダーなボディの中央、ナイフで抉られた鳩尾に追撃の膝がめり込む。柔術の達人であ
る少女は、わずかに身を捻ることすら叶わずに、凶獣の重爆をもろに食らうしかなかった。グ
シャリとくの字に折れたエリの肢体が、50cmは宙に浮く。

「おぼおお゛え゛え゛え゛え゛え゛ッッ〜〜ッッ!!!」

 突き出された少女の唇から逆流した黄色の液体が噴射される。胃液混じりの吐瀉物がバチ
ャバチャと畳を叩く。
 丸い瞳からこぼれた雫の結晶が、神聖な道場を汚した己の反吐のなかに落ちていく。
 埋まった膝から伝わってくる、生温かな柔肉の感触。少女闘士の内臓がいくつか破裂したの
を確信して、手にしたナイフを、ジョーは少女の背中に突き立てた。
 丸まっていた肢体が、一気に反り上がる。
 鳩尾に埋まった膝を抜くと同時に、支えを失った柔術少女の肉体は、そのまま硬直した姿勢
でドサリと地面に落ちていった。

「フンッ・・・なにがファントムガールだ。弱え、弱え」

 蛇皮の靴が、うつ伏せに倒れた少女のセミロングを踏み躙る。ゴツという乾いた音色が、夕
闇に沈む道場に響いた。

"・・・・・・ユリ・・・ユ・・・・・・リ・・・・・・"

 これまで、『エデン』という飛躍的に身体能力をあげる宇宙生物の力を借りずとも、エリは凶
悪な敵と何度か闘ってきた。勝利を収めたこともあれば、再起不能と思われるほどの重傷を負
ってしまったこともある。
 だが、刃物という凶器で、身体中を容赦なく切り刻まれるという激しい痛み、そして恐怖は、
惨敗を喫した過去においても経験はなかった。それは紛れもない、「死」を予感させるダメー
ジ。
 ファントムガール・ユリアの名前を城誠の口から聞いたときから、妹の代わりにこの敵と闘う
決心は瞬時についた。しかし、その意味するところを、エリは理解していなかった。今までとは
次元の違う敵。血祭りにあげられ、穴だらけにされて、今ようやく少女は悟った。己では勝てぬ
相手であることを。そして闘いの最期に待つものは・・・己の死であることを。

"・・・ごめ・・・ん・・・・・・私は・・・・・・も・・・う・・・・・・"

 スッと一筋の涙が、倒れ伏す少女の頬を流れる。
 生命の残り火をわずかな痙攣でしか示せなくなった西条エリの胸に、背後から両手を回した
ジョーは、横臥する道着姿を無理矢理に立ち上がらせていた。

「ガキの青臭いカラダも・・・ちったあ楽しめるってもんだぜ」

 道着の襟をグイと下げる。下着代わりに着ていたTシャツと純白のブラとを、疵面は紙のよう
に破り捨てていた。
 仄かに盛り上がった少女のバスト。
 丸みを帯びた青い果実が道着から白日の下に晒される。
 ヤクザの両手が未発達な乳房を千切れんばかりの勢いで乱暴に揉みしだく。人差し指と中
指とで挟んだ桃色の小豆をこねながら、屹立を促すように摘みしごく。

 遊んでいるのだ。私の、カラダで。
 エリにはわかっていた。疵面の凶獣が、身も心も守護少女を破壊し尽くすつもりであること
を。弱者を蹂躙することが、この男の悦び。ましてそれが歯向かってきた相手ならば・・・十二
分に切り裂いた肉体に続き、エリの精神も嬲り尽くした後にトドメを刺すつもりなのだ。
 肉体がほとんど瀕死状態であるに関わらず、そこだけは別部分と言わんばかりに胸の頂点
が尖ってくる。凶刃に抉られ、裂かれ、貫かれ・・・己の血に染まった美少女が、死寸前である
にも関わらず乱暴な愛撫に反応してしまっている。自分が性欲に囚われた動物であることを示
すように見せ付けられ、ウブな少女の心は、肉体同様惨めに切り刻まれていく。

 ポロ・・・
 ポロポロ・・・

 苦しげに寄った眉根の下、くっきりとした二重瞼の瞳。
 純真な少女の瞳に透明な雫が溢れ、珠となって血に汚れた頬を伝っていく。

"・・・ユ・・・リ・・・・・・ごめん・・・ね・・・・・・"

 脆く、儚くさえ映るその肢体のどこに、そんな力が残されていたのだろう。
 穴の開いた右手が、若い乳房の柔らかさを堪能していたヤクザの手を握る。その瞬間、一本
背負いのような要領で、ジョーの身体は前方に投げ飛ばされていた。
 頭から床に叩きつけられる凶獣。肉厚の身体はすぐに立ち上がる。
 ダメージはほとんど感じていなかった。だが、死に体のはずの少女に投げ捨てられた屈辱
が、ずれ下がった三白眼に不快の色を挿している。

"・・・私では・・・・・・この男に・・・勝てない・・・・・・なら・・・せめて・・・"

 この身を犠牲にして、刺し違えてみせる。

 ジョーの恐ろしさは骨身に沁みている。深刻なダメージを受けたこの身体で、逆転の可能性
はゼロ。そしてこの敵は、必ず私を生かしておきはしない。
 ならば、エリにできるのは、己の死と引き換えに道連れにすること。
 もしかすると、命を捧げた特攻でも、この敵は倒せないかもしれない。ならば、腕一本、足一
本でもいい。恐るべき刺客の脅威から、妹を守ることができれば・・・助けることができれば・・・

 ごめんね、ユリ。
 お姉ちゃんは・・・先に、逝きます。

「どうやら、とっとと死にてえようだなアアッ、ああッ〜〜ッ?!!」

 いくつ凶器を隠しているのか。
 新たに取り出したドスを構え、必殺の意志を固めたジョーが弾丸となって殺到する。
 立っているのもやっとの様子で足元の定まらぬ血塗れの少女武道家。一直線に地を踏み鳴
らして猛突する疵面の恐竜。
 ジョーの突進は単調といえば単調すぎた。だが、無秩序な暴虐ぶりの裏に確たる思考を働か
せている暗殺者は、常に戦況を冷静に見詰める能力を併せ持っていた。

 もはやこの少女に、満足な反撃ができるわけがない。
 切り裂かれた左腕は使えない。残る右手も、掌の穴が開いた状態でどれほど動けるというの
か。
 そしてなにより、ドスが貫通したままの右足。踏ん張りの利かぬ状態から繰り出された武術の
技に、どれだけの威力が期待できるというのだ。

 格闘技の経験などないジョーだが、実戦のケンカと殺しの現場で、肉体そのものが効果的な
戦闘術を学んでいた。
 だから、わかる。右足一本を失うことが、闘う者にとっていかに致命的な事態であるかを。武
術の多くの技が、地の反動を利用し、身体全体の筋力を使い、足の踏ん張りから大きな威力
を生み出していることを。

 その知識の過ちが、最凶の暗殺者に大きな隙を作るきっかけとなった。

 刃渡り30cmのヤクザ必携の短刀が、ボロボロの柔術少女の顔面に迫る。
 切っ先が、頬肉を、セミロングの髪をかすめて過ぎる。mm単位の見切りで、エリは凶刃を避
けていた。
 ドスを握る手に少女の右手が絡まる。走る激痛。丸く開いた掌の穴から血が飛び散る。構わ
ない。顔を歪めても、技を緩めることなどない。死を覚悟したエリに、ささいな苦痛は障害にな
らない。

 発動、想気流柔術奥義「旋風落し」――

「ぎィッッ?!!」

 手首から伝わる激痛に思わず口走った己の悲鳴を、ジョーは何が起きたか理解できぬまま
聞いていた。
 エリに捕らえられた右手首から肘、そして肩にかけて、雑巾を絞るようにグニャリと捻れ曲が
ってしまっている。
 本格的な激痛は一瞬後、駆け登るように疵面ヤクザの延髄を直撃し、麻痺となって全身に響
き渡った。

 右足の損傷が技の威力を大きく下げる・・・ジョーの考えは間違いではない。
 ただ、想気流柔術に関しては、それだけで括れぬ懐の深さがあることを凶獣はわかっていな
かった。

"想気流は・・・戦国の合戦を想定して作られた武術・・・・・・腕や足の負傷くらいは・・・初めから
想定済みです・・・!"

 矢や刀が飛び交う戦場において、五体満足で常に闘える保証などない。
 怪我をした状態、腕の一本、足の一本もげたところで通用しないのでは、本当の実戦を考慮
した術とはいえない、それが想気流の主張。負傷しても闘えるからこそ、「術」として成り立つの
だ。

 通常以上に関節に捻りを加え、宙を舞った敵を旋風のごとく錐揉みさせながら地面に叩きつ
ける奥義「旋風落し」。この技に全てを賭け、エリは残る力を放出して襲撃者の関節を捻る。

「―――えッッ?!!」

 舞わない。
 関節は確かに極まっている。神経が捻じ切られるような激痛がジョーを捉えているのも間違
いない。だが・・・条件反射的に自ら地を蹴って飛ぶはずの肉体が、爪先立ちのまま、それ以
上飛び上がろうとしない。

 耐えているのか?!
 意志とは無関係に飛び上がらずにはいられない激痛、この凶獣は耐えるというのか!

 背筋を這い上がる戦慄と、確実に迫る死神の斧を感じながら、武道少女はどこか脳裏の奥
深くで、己の敗因を悟っていた。
 エリは確かに死を覚悟することはできた。
 しかし、この敵は・・・スカーフェイスのジョーは、「殺す」覚悟ができている。
 「倒そう」とするエリと、「殺そう」とするジョーとの違い。
 その致命的な差が、哀れな少女闘士の末路を決定した。

 蒼白となった愛くるしいマスク、ロリータフェイスの中央に、ジョー渾身の頭突きが炸裂する。
 グシャリッッ!! 顔の下半分が潰れる音とともに、エリの形のいい鼻から下が血飛沫を散
らして内部に陥没する。
 ぐにゃりと折れ曲がった鼻、欠けた二本の白い歯、一撃にして意識の吹き飛んだ美少女の
瞳がぐるりと白目を剥き、ドボドボと粘っこい血糊が口腔内に溢れていく。

 柔術家の拘束から逃れた右手を一気に引き抜くや、ジョーの両手は意識のないエリの丸い
両肩をガシリと鷲掴んだ。

「ちと効いたぜェェェ、今のはよオッ!!」

 憤怒を散らした疵面が朱色に染まる。
 道着から剥き出された小ぶりな乳房の右側に、歯を立てた凶獣がガブリと噛み付いた。

 ブチイッ!! ブチブチッ・・・ミチィッ!!

「きゃふうッッ?!! えぎィやあああああああッッッ―――ッッ!!!!」

 気を失っていた少女は、凄惨な仕打ちによって地獄の現実へと引き戻されていた。
 柔らかな青い果実が、恐竜の牙によって噛み千切られていく。
 清廉な少女の乳房が、疵面のヤクザに噛み切られ、引き千切られる。
 涙の結晶を振り飛ばし、狂ったように絶叫するエリの口に、ジョーは食い千切った少女自身
の乳房の肉を、無造作に突っ込んだ。

 ゴブ・・・ゴブゴブ・・・ゴブ・・・

 ガクリと愛らしい童顔が垂れ、セミロングの髪がさらさらと流れる。
 薄紅の唇の間、小さなエリの口の中は、粘っこい血と涎混じりの白泡、そして己自身の乳房
の肉片でいっぱいになっている。
 奇跡的に妹への想いだけで最後の闘いを挑んだ武道少女を待ち受けていた、残酷な結末。
 胡桃の瞳を見開いたまま、もはや断末魔に震えるだけの西条エリを、しかし疵面の凶獣は解
放しようとはしなかった。

「さて・・・噛み殺す、なんてのも楽しいかもしれねえなァ・・・」

 ケロイド状の傷に引き攣った唇を、ジョーはパカリと開いてみせる。
 紅に彩られた、黄色い牙の列。続いて左乳房を咀嚼せんと、ピクリとも動かなくなった少女の
胸に、疵だらけの顔が近付く。

「エリィィィッッ――――ッッッ?!!!」

 天に届くような甲高い絶叫が入り口から放たれたのは、凶獣の牙がまさに盛り上がった丘に
噛み付かんとした瞬間であった。
 エサの時間を邪魔され、不機嫌そのものの顔でスカーフェイスのジョーが見たのは、今しが
た仕留めたファントムガール・ユリアの人間体と、同じ顔をした少女。
 シャツもカラーもスカートも、全てが白で統一されたセーラー服。高校の帰りと思われる、あど
けなさを残したその少女は、髪型が襟足でふたつに縛ったおさげ髪であることを除けば、体型
といい顔といい、目の前の血染めの少女武道家と瓜二つであった。カバンを手から滑り落とし
たおさげの少女は、ガクガクと震えながら、信じられないものを見る瞳で呆然と立ち尽くしてい
る。

「・・・あァ?」

「エリッ、エリッ!! しっかりしてェェ!! お姉ちゃんッ――ッ!!」

 見た目にも内気そうな少女の、張り裂けんばかりの叫び。
 気弱に見える白セーラーの少女は、姉を助けるべく、真っ直ぐに凶悪な暗殺者の元へ駆け出
す。
 ジョーによって投げ捨てられた穴だらけの柔術少女は、突っ込んでくる妹にカウンターとなっ
て正面衝突した。もんどりうって重なり倒れる双子の姉妹。ダメージなど気にすることなく、おさ
げの少女は変わり果てた血ダルマの姉を抱きかかえる。

 ジョーの脳裏に、道場を襲撃する前眺めていた、ファントムガール・ユリアの正体とされる少
女の写真が蘇る。写真には、襟足でふたつに髪をまとめた少女が写っていた。
 エリ? お姉ちゃん?
 同一人物といっていいほどそっくりな、ふたりの少女。これは姉妹・・・いや、双子か?
 凶暴な暗殺者の頭脳が、これまでの情報の点と点を結び合わせていく。答えは、ほどなくして
導き出された。

「久慈・・・あの小僧ォ・・・随分重要な情報を黙ってくれるじゃねえか」

 血の海に沈めたのは、ファントムガール・ユリア=西条ユリの双子の姉であったか。
 だが、ターゲットを誤るという、本来なら深刻な事態にも、今のジョーはなんらの焦りすら感じ
ていなかった。
 標的は・・・西条ユリは目の前にいる。姉ひとりついでに地獄に送ったところで、単なる余興の
うちに過ぎん。
 いや、寧ろ。
 ふたりも女子高生を惨殺できるのは、愉悦以外の何物でも、ない。

「エリ・・・エリ・・・ひ、ひどい・・・こんな・・・こんなの・・・・・・」

 西条ユリの瞳からこぼれる大粒の涙が、ヒュウヒュウとか細い呼吸を洩らすだけの、瀕死の
姉に滴り落ちる。
 エリが危険な状況にあるのは、ひと目で確実にわかった。
 右足の太腿を貫いた短刀と、背中に突き刺さったままのナイフ。数箇所を刺された腹部から
は温かな血がいまだ噴き出し、道着をほとんど白が見えないほどに赤く染めている。アニメに
でてきそうなキュートなマスクは鼻から下を潰され、剥き出しにされた乳房の片一方は、噛み跡
を残して千切り取られてしまっている。限りなく死に近い状態、いや、殺すにしてもここまでの嗜
虐が必要なのかと思えるほどの、残酷で無惨な姿。

「し、死なないで・・・お姉ちゃんッ・・・死なないで・・・いや・・・こ、こんなの・・・こんなの、酷すぎ
る・・・・・・」

「おっとオ〜、あんまり姉ちゃんの心配してる余裕はねえんじゃねえかァ〜ッ、ああッ?!」

 新たな、そして本当の標的を得たジョーの三白眼がギラギラと輝く。女子高生をもう一匹、切
り刻めるのが嬉しくて堪らない、と言わんばかりに。
 涙のたまった瞳で、初めてユリは凶悪な疵面を持つヤクザを、キッと睨みつけた。

「安心しな。お前もすぐに姉ちゃんと一緒にあの世逝きだ。ファントムガール・ユリアよォ」

 トップ・シークレットが男の口から放たれても、ユリの心に波紋のひとつも起きはしなかった。
 正体がなんであれ、姉の仇のこの男を倒さねばならないのは、既に決定事項。
 本当は今すぐエリを病院に連れていきたい。だが、この男が邪魔するというのなら、全力を尽
くしてこの場で叩き伏せるしかない。

「西条・・・ユリです・・・・・・姉の仇は・・・私が、取ります・・・・・・」

 かつて見せたことのない闘志の炎をたぎらせて、天才柔術家は邪悪な凶獣の前に立ち塞が
る。

「ゲハハハハ! 城誠、通称スカーフェイスのジョーだ。お前の命を奪う者の名、よーく覚えてお
くんだなァ!!」

 ゲラゲラと笑いながら、疵面の右手が紫ジャケットの内ポケットに伸びる。
 日本最凶の暗殺者が忍ばせた隠し武器は、まだまだ尽きることなく、犠牲者の血を吸う瞬間
を待っているのだ。
 姉のエリ以上に大人しいユリが見せる、怒りの炎。
 それが滅多にない貴重な事態であることは確か、だが・・・復讐に燃える天才少女が、圧倒的
不利な立場にあることを知るのは、ジョーよりも寧ろユリ自身であった。

 エリが瀕死に陥った今、ユリの本気を引き出せる者は、この世に存在しないのだ。
 いかに激情が水仙のような肢体を焦がしていても、西条ユリは真の実力を出すことはできな
い。姉のエリの許可がなければ、トラウマを持つ天才少女は敵に深刻なダメージを与えること
ができないのだ。
 ジョーがエリを葬ったのは偶然であったが、その実、その効果は着実にユリをかつてない窮
地に貶めていた。
 エリが捨て身で闘っても、傷ひとつつけられなかった恐るべき凶獣。
 どう足掻いても手加減をしてしまう"許可のない"ユリに、殺意に満ちた殺人狂を倒すことがで
きるのだろうか?

「ッッ!!」

 場の雰囲気が一変したのは、新たな人物が、惨劇の場となった道場に現れたからであった。
 闘気を風に置き換えられるとするならば、その風はまさに暴風と呼ぶに相応しかった。

「ちょい待てやあ、ユリ。そいつの相手は、オレに譲ってもらわにゃなあ」

 想気流柔術師範・西条剛史。
 双子姉妹の父にして、現在想気流を束ねる当主。異様に肩幅の広い男が、ダブルのスーツ
に分厚い身を無理矢理納めて、道場の入り口で仁王立ちしている。
 腕も足も胴も首も、指も手首も全てが丸く、太い肉体。
 人懐っこい表情に薄笑いを貼り付けた男は、実の娘の惨状に顔色ひとつ変えずに佇んでい
る。

 娘が今にも死にそうな状態で転がり、さらにもうひとりの娘が殺人鬼と対峙している現場に現
れた親としては、考えられない悠長な態度。だが、裏世界に生きる凶獣にはわかる。一見、
飄々とした武人が、自分と同じ臭気を漂わせていることを。

「ユリよォ、弱っちいヤツは引っ込んでな。想気流を舐めた道場破りには、トップのオレ自身が
手合わせしなくっちゃなあ」

 口では道場のためを装いながら、父・剛史の本心がエリの弔い合戦にあることはユリにもよく
わかっていた。
 ズンズンと、ためらうことなく凶器を隠し持った疵面のヤクザに歩み寄る剛史。スカーフェイス
のジョーと名乗る襲撃者が、『エデン』の寄生者であることはもちろんユリは見抜いている。"普
通の人間"である父を、闘わすべきではないことはわかっているのに・・・誰よりも剛史の強さを
知る娘は、その歩みを止めることができない。
 天才と呼ばれるほどのユリが、この世で『エデン』寄生者と互角以上に闘えると思っている"
人間"はただふたり。
 格闘獣・工藤吼介と・・・我が父・西条剛史。
 同時にそれは、ユリが本気になっても勝てる自信のない相手であった。

「チッ・・・ちょいと遊びが過ぎたか」

 呟くように吐き捨てたジョーの身体がダッシュを掛ける。剛史とは、反対の方向へ――。
 道場の窓ガラスを突き破って、紫スーツの襲撃者は外へと飛び出していた。ユリと剛史とが
枠だけになった窓に駆け寄ったときには、疵面の姿を夕闇の街に見つけることはできなかっ
た。

「エリッ! エリィッ、死んじゃいやァ〜〜ッッ!! イヤアアッッーーッッ!!」

 血臭漂う道場から、魂を鷲掴むようなつんざく悲鳴が轟く。
 人々の不安を駆り立てる救急車のサイレンが聞こえてきたのは、それから間もなくのことで
あった。



 海堂一美による五十嵐里美襲撃と、城誠による西条ユリ襲撃。ほとんど同時刻に起きた凶
行から、1時間ほどが経っていた。
 本格的な夜の到来を控え、オフィス街から繁華街の顔へと変わり始めた、この地方随一の中
心地・栄が丘。
 "最凶の右手"海堂一美とスカーフェイスのジョーは、アジトとして利用している奥暗い地下の
スナックに戻ってきていた。
 安物のシャンデリアがひとつ、照らすだけの店内。
 カウンターに腰下ろしたジョーと、ソファにもたれ掛けた海堂。適当に取り出した琥珀色のボト
ルを口にしながら、仁侠の世界においても特に要注意とされる凶悪な男たちは、ともに失敗に
終わった"仕事"について、語っているところであった。

「正直なところ、どう思った? ジョー」

 はぐれヤクザともいうべき彼らに、正式な役職は与えられていない。だが、年齢のためか、こ
れまでの実績の差なのか、明らかに格上と見える態度で海堂は訊く。

「どうもこうも、大したことはねえですよ、一美さん。ファントムガールだかなんだか知らねえが、
所詮小娘。ズタズタに切り刻んで血祭りにしてやりました。ま、人違いで双子の姉貴を殺っちま
ったんですが」

 ゲラゲラと疵に覆われた顔を歪めて高笑いするジョー。西条エリを貫いた折の柔らかな肉の
感触が、殺人異常者の手に快感となって残っている。

「今日はハズしましたが、なーに・・・5人の守護天使どもとやら、オレひとりでも皆殺しにしてや
りますぜ」

「・・・久慈からもらったこの『エデン』の力、条件が同等である以上、オレたちに女子高生ごとき
が敵うわけはない。ファントムガールの小娘どもを、ひとり残らず始末するのは容易い仕事だ
ろうな。だが」

 サングラスの奥で、鋭い眼光を海堂一美はさらに細めた。

「作戦は変更する。修学旅行で分断された、ファントムガールども。地元に残った五十嵐里美と
西条ユリとから抹殺する計画は中止だ」

「なッ・・・どういうことです?!」

 ラッパ飲みしていた角瓶のウイスキーを思わず吹き出し、ジョーが位置のずれた眼を丸くす
る。その顔には、不満と驚きとが遠慮なく露わになっていた。

「まさか一美さんともあろうひとが、今日の失敗であいつらを手強いなんて思ってるんですかい
ッ?!」

「いや、ファントムガールの小娘どもは恐れるに足りん。しかし、ここは奴らの地元。周囲の人
間を含めた地の利は、厄介と認めずにはおれん」

「地の利?」

「そうだ。父親が現れなければ、ジョーは獲物を前にしてみすみす退散したか? オレにしたと
ころで吼介というボディガード、そして突然飛んできた手裏剣さえなければ、五十嵐里美の首を
土産にできていたはずだった。この土地では、奴らを影ながらサポートしている連中が多すぎ
る。注意すべきは、寧ろそいつらの存在かもしれんな」

 ジョーの脳裏にひとりの男の姿が蘇る。
 初めて邂逅した、守護天使の正体である少女のひとり。ショートカットで猫顔のグラマラスな
少女。
 隣りに連れ歩いていた、逆三角形の筋肉に包まれた男。
 ジョーが襲撃を諦めたのは、あの男がいたからであった。ファントムガール・ナナ=藤木七菜
江以上に、圧倒的闘気を揺らめかせていた獣。道場に現れた西条ユリの父親といい、守護天
使たちよりも遥かに手強いと思われる存在が他にもゴロゴロいるならば、確かにこの土地でフ
ァントムガール全滅を狙うのは、骨の折れる作業だと言える。

「東京へ、いくぞ」

 低く落ち着いた声で、海堂は言った。

「まず先に、東京へ行った藤木七菜江、霧澤夕子、桜宮桃子の3名を処刑する。首都の地に
奴らを守るバックアップ態勢は整っていまい。孤立した守護天使を地獄へ送る、絶好の機会
だ。こちらの連中を始末するのは、それからでも遅くはない」

 ニヤリと薄笑いを浮かべた最凶のヤクザは、人類を守る天使たちをその手に掛ける、至高
の瞬間を待ち切れぬように勢い良く立ち上がっていた。

「ファントムガールども・・・東京が、貴様らの墓場だ!!」



"・・・・・・これは・・・早く里美様に知らせねば"

 海堂一美とジョー、ふたりだけと思われた薄闇の空間に、第三の影が蠢く。
 白スーツの凶魔と疵面の凶獣、吐き気を催すほどの殺気の渦に隠れ、スナックの死角に身
を潜ませていたのは、御庭番衆にして特殊国家保安部隊員、相楽魅紀。
 里美襲撃に失敗し退散する海堂の後を、くせ毛のショートヘアの女戦士は、追跡することに
成功していた。
 気配を消し、乱雑な店内の暗闇で諜報活動に専念する魅紀。その耳にやがて飛び込んでき
たのは、東京へ向かうという、海堂一美の宣告であった。

 襲撃犯の正体、もうひとりの仲間の存在、そして背後にある久慈の存在・・・
 欲しい情報のほとんどを、魅紀は手に入れた。
 最後に、ファントムガール抹殺の恐るべき計画を耳にした現代のくノ一は、次期頭領と目され
る美しき令嬢に情報を伝えるべく、敵アジトからの脱出を図る。

「さて・・・まずは守護天使全滅の前祝いに、ネズミを一匹駆除するとしよう」

 冷たい海堂の声が響いたのは、その時であった。
 スポットライトの丸い光が、暗闇に潜んでいたミリタリールックの魅紀の全身を包み込む。
 刺すような眩い光のなかで、魅紀は己に迫る、ふたつの足音を聞いた。

「チッ・・・バレたのなら、仕方あるまい」

 "最凶の右手"とスカーフェイス、殺気を全開にした凶悪な犯罪者が、凍えるような視線で左
右から近付いてくる。吹き付ける、死の薫り。その瞬間、栄が丘のスナックの一角は世界で最
も危険な地域となった。
 だが猫系の野生動物の瞳を持つ美女戦士に、恐れの翳は微塵もない。
 両手の指に挟まった、無数の手裏剣。
 里美を守る使命感と、現代くノ一としての誇り。恐るべき凶魔を前に、魅紀は鋭く言い放っ
た。

「特殊国家保安部隊員・相楽魅紀。殺人に快感を覚える悪魔ども・・・貴様らは、オレが止めて
みせる」



第十一話・続き
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