第十二話 3章〜


 3
 
 流れが、変わった。
 両肩を激しく上下させながら、五十嵐里美は形には見えない状況の変化をはっきりと感じ取
っていた。
 泥にまみれた美少女の前方15mに、頭部から鮮血を流した黒衣の剣士。本来ならば美形と
称して構わない男の顔は、憎悪によって羅刹のごとくに歪んでいた。久慈仁紀。悪の枢軸・魔
人メフェレスの正体である男。首都におけるファントムガール抹殺のシナリオは、ここまでほぼ
この男が描いた通りに遂行されていた。多少の誤算すら飲み込んでしまう、圧倒的優位な戦
況。だが、そんな優位を忘れたように、魔人は聖天使と対峙したままピタリと動きを止めてい
た。
 
 恐らく、久慈にもわかっているのだ。
 闇側の背中から猛烈に吹き付けていた風が、突如として乱気流と変わったことに。
 久慈仁紀と海堂一美。最大の脅威を敵に回して、片倉響子と手を組んだファントムガールの
リーダーも劣勢を余儀なくされた。いつ生命を落としてもおかしくない、窮地の連続であった。
 肉体のダメージで言えば、比べるまでもない差があった。里美も響子も傷つきすぎている。リ
ンチにさらされたくノ一少女の肉体は全身が悲鳴をあげているし、妖艶な女教師の右腕も折ら
れているのだ。一方で責める時間の長かった悪の陣営は命に直結するようなダメージは受け
ていない。
 それでも戦線は予断を許さない状況に変化している。
 消耗した体力の差ほどに余裕はないことを、久慈も、そして響子と睨み合ったままの海堂も
理解していた。実質的に闇側のふたりが被弾したのは一撃のみと言っていいだろう。久慈は頭
部にクラブによるハードヒットを食らい。海堂は自慢の『右手』を金剛糸でハリネズミにされた。
それだけで勝負の流れは五分五分とまでは言わないまでも、6対4、いや7対3ほどまでは押し
戻されている。
 
 守護側の勝利は1%もなかったはずなのに、30%にも跳ね上がったのだ。
 崩壊寸前の身体を支えた美少女と女教師に、二匹の悪魔は簡単には踏み込めなくなってい
た。
 
「・・・仕方あるまいな」

 長い沈黙を破って雨の霊園に流れたのは、若い男の声であった。
 日本刀の柄にかけていた手を久慈が離す。
 降服するのか? 里美の脳裏をよぎった考えは瞬時に消滅する。最も有り得ない展開であっ
た。自尊心に浸りきった魔人は、たとえ死を迎えても敗北を認めることだけはしないだろう。何
を仕掛けてくるつもりなの? 漂う謀略のニオイに、美しき柳眉が無意識に寄る。
 
「ムダな闘いは終わりにしよう」

「・・・何を企んでいるの? 久慈」

「里美、貴様を引き裂くのはこのオレの宿願であった。だが道連れ覚悟の貴様を相手にケガを
するのは、つまらんという話だ」

 憤怒から冷淡へと表情を変えた男の顔が、ゆっくりと斜めに向き直る。
 切れ上がった久慈の視線の先には、元パートナーであった女教師の姿があった。
 
「響子、茶番は終わりだ。五十嵐里美を殺せ」

 反射的にくノ一少女の美貌は、妖艶な真紅のスーツを振り返っていた。
 響子に浮かんだ表情は、困惑と驚きが混ざったと表現していいものであった。
 しばしの間を置いて、真っ赤なルージュが蔑むように吊りあがる。
 
「フフ・・・仲間割れでも誘ってるつもりかしら? 追い詰められたにしても、あまりに姑息すぎる
わね」

「お前にとって有意義な話をしているだけだ。仲間に戻れ、響子。裏切りの償いはしてもらう
が、命だけは助けてやろう」

「プライドの高いあなたが懐柔策とはね。もしかして、自信がないのかしら?」

「自信がない、だと?」

 真紅の美女の挑発に、久慈が見せたのは怒りではなく軽い溜め息であった。
 スラックスのポケットに手を突っ込み携帯電話を取り出した男は、いくつかの操作をした後、
響子の足元に放り投げる。液晶画面の青い光が、何かの動画を写しているのが離れた里美
の場所からでも確認できた。
 
「その画が意味するものはわかるな? いくら貴様らが抵抗しようと、勝負はすでに決してい
る」

 片倉響子が見せたのは、明らかな動揺だった。
 反射的に里美の視線が携帯画面に釘付けになる。ただ事ではなかった。智略に長け、胸の
探り合いを得意とする響子が、これほどまで感情を出してしまうなんて。悪寒が走る。一体久慈
はなにを響子に見せたというのか。
 常人では判別不能であろう画面の内容も、2.0を遥かに超える鍛えられた忍びの視力は詳細
に捉えていた。
 青く揺らめく液体の世界。巨大な水槽が映されているのはすぐにわかった。時折魚群が画面
隅を通り過ぎる。
 恐らくここは、品川水族館。
 衝撃は数瞬の間すら置かずに、里美の全身を駆け巡っていた。
 
「貴様らふたりが組んだところで、もはやどうにもならん。東京、いやこの国は間もなく我らの支
配下に納まる」

 無数の『エデン』が水槽内で浮遊している。
 鶏の卵ほどの、白く蠢く球体。ざっと見ただけでも100は下らぬ数の『エデン』が、品川水族館
の水槽で“飼われて”いるのだった。
 絶望的なまでの、戦力差。
 久慈の参謀格であった響子はもちろん、アジトに連行された経験のある里美も久慈が大量
の『エデン』を保持していることは知っている。だがそのほとんど全てをこの首都の地に集結さ
せているとなれば、久慈の侵略行為は相当なレベルまで進んでいると覚悟せざるを得ない。
 大量の『エデン』を国の中心地に運び込まれた事実は、あまりにも大きかった。
 闇が世界を侵食する確かな足音を、里美の脳裏は聞いた気がした。
 
「その気になればオレたちは、いくらでもミュータントを増やすことができるというわけだ。質の
良し悪しはともかくな」

「あなたたちに従う人間なんて、誰もいないわ」

「そうかな? 強い力になびくのが人間の本性というものだ。ファントムガールを殲滅し、圧倒的
な力を見せ付けて現体制に君臨すれば、追従する者どもは必ず現れる。オレたちはそこから
選別するだけでいい」

 強がりとわかっていて里美は言った。ミュータントとしての素養を持った人間は現時点でもいく
らでもいる。久慈の言葉通り、闇側の兵隊はさらに増やすことが可能なのだ。ひとり、またひと
りと戦力を失っていく守護天使とは対照的に。
 
「響子よ、貴様が本心でなにを望んでいるのかは知らん。興味もない。だが滅びゆくそいつらと
行動をともにしたところでまるで無意味だ。叶えたい願いがあるならば、このオレのもとへ戻っ
て来い」

「人類を滅ぼされてしまったら、私の目的は果たされないわ。根本の部分であなたたちとは相
容れないのよ」

「オレの目的は人間どもを殺すことにはない。支配者として君臨することこそが望みだ」

「あなたはね。そう知っているからこそ手を組んだのよ。でも、そこの怖いお兄さんたちは違うで
しょ?」

「海堂も、スカーフェイスのジョーも、無闇に殺したりはしない」

 無言のままのサングラスの男に代わって、久慈は話し続けた。
 
「確かにこいつらは殺人に快楽を覚える外道だ。だが人類を滅ぼすのが目的というわけじゃな
い。ただ殺しの快感を楽しめればいいのだ。時々な」

「時々・・・ね。最凶を冠するヤクザ者ふたりを、いつまでもあなたが抑えていられるのかし
ら?」

「できるさ。そのための大量の『エデン』だ」

 久慈の声に入り交ざった翳りを、里美は聞き逃さなかった。
 過去の経験でわかる。この男の本質は、己以外の全てをゴミ屑と捉える精神だ。その本音が
露出するときの、翳り。ひととしてあるまじき発想を、今この男は口にしようとしている。
 
「世界を支配すると言っても、実際にこの手で動かそうという気などオレにはない。政治、経
済、報道、宗教、ややこしいことは全て任せる。各界を牛耳りたいと願う者はオレに忠誠を誓え
ばいいのだ。そいつらの中から選んで『エデン』を寄生させ、それぞれの支配を許そう。オレは
ただ、絶対不可侵の存在として人間どもの頂点に立てればいいのだ」

 神にでも、なろうと言うのね。
 愚かなことを、と断言する気持ちは今の里美にはなかった。以前、「壊し屋」と呼ばれた葛原
修司を服従させ、己の手駒とさせた経験を久慈は持っている。『エデン』を利用することで忠実
な飼い犬と化すことは可能なのだ。あるいは実験台として葛原は使われたのかもしれなかっ
た。
 久慈が現実に各世界の権力を掌握するのは難しいだろう。だが現在権力の中枢に近い野心
家が、久慈が保持する悪魔の力になびいたとしたらどうだろうか? 若造に平伏すだけで絶大
な権力をその手にできるのだ。政界でも、財界でも、マスコミでも、ありとあらゆる権力構造の
なかで。悪魔に魂を売っても不思議ではなかった。そしてそんな精神の持ち主は、闇の資質を
大いに備えているに違いなかった。
 世界のあちこちで『エデン』の寄生者が権力を握る。その頂点に魔人メフェレスが君臨する。
反抗する者がいれば、ゲドゥーやギャンジョーといった戦力が喜んで殲滅にかかるだろう。
 このピラミッドの構造ならば、有り得ないと言い切ることはできない。そうして久慈仁紀は神に
昇り詰めようというのだ。
 だが、里美にとって許せざる発言は、さらにこの後にも続いた。
 
「そうしてバラまいてもまだ『エデン』は余るだろう。その余剰分を、海堂とジョーの楽しみに使わ
せてもらう」

「・・・楽しみ?」

「こいつらにとって極上の馳走は、反抗的で歯応えのある者。それも美しくて若い女であれば、
嬲りモノとしても堪能できる。そう、ちょうどファントムガールのような」

 久慈の薄い唇がニヤリと吊り上がった瞬間、里美の肢体は火がついたように沸騰した。
 
「選ぶのだよ。反抗的で、美しく、若い女をな。我々に従わない者への見せしめとして、定期的
にショーを開くのだ。『エデン』を融合させられた新しいファントムガールが、ゲドゥーやギャンジ
ョーに陵辱され、蹂躙され、泣き喚きながら惨殺される姿を全世界に見せつける。これぞ一石
二鳥というわけだ」

 ギリッと白い歯を鳴らした里美を、響子が手で制する。
 
「既存のファントムガールの連中はちょいと手を焼かせすぎるのでな。身体能力はもっと低い
女どもで構わん。非力なくせに正義感だけは強い小娘を、絶望の果てに嬲り殺すのだよ。『エ
デン』とともに得た希望を、完膚なきまでに打ちのめされる姿はさぞ快感だろうなァ・・・ククク」

「久慈ッッ!! そんな外道が許されるとッ・・・」

「殺人狂のお兄さんたちはその話で納得しているのかしら?」

 昂ぶる里美の叫びを、ゾッとするほど冷たい女教師の声が遮る。
 
「・・・・・・響子・・・?・・・」

「あなたの話はよくわかったわ。でも人殺しの快感に溺れたふたりが、定期的に与えられる獲
物だけで我慢できるのかしらね?」

「ファントムガールを手に掛ける満足感は、何万人を殺戮しようと得られるものじゃない。ジョー
の奴も同意見だろう」

 それまで一言も発しなかった海堂が口を開く。
 サングラスに隠れた素顔はまるで無表情のように見えた。
 
「それほど心配ならば尚更オレの側で、海堂とジョーを監視すればいい。お前が戻ってくれば
全てがうまくいくのだ」

「響子、騙されてはダメよ! 安易に勝てる自信がなくなったから、久慈は動揺を誘っているの
に過ぎない。むしろ精神的に追い詰められてる証拠よ」

「よく考えろ、響子よ。貴様はただ、生物学者として己の研究を追求したいのだろう? より環
境が整うのはどちらかな。勝ち目のない闘いに挑んで滅びゆく五十嵐里美か、全ての力を掌
中に納めんとしているこのオレか。まさか本気で正義などに目覚めたわけでもあるまい?」

「甘言に耳を貸してはいけないわ! 奴らの台詞が信用できないことは、あなたもよくわかって
いるでしょう?」

「五十嵐里美がかつての悪事を忘れたフリができる人種であることはオレも認めよう。だが、
バックの組織はどうかな? 自衛隊員すら手に掛けたお前を国は決して許しはしない。だがオ
レは許す。裏切り者の貴様を許そう。お前の楽園はオレの元にこそあるのだ」

 沈黙が続いた。
 時間にすればわずかに数秒。思考の嵐が天才学者の脳を渦巻いたことは、容易に想像がで
きた。
 真紅のルージュがわずかに開き、薔薇の芳香漂う吐息が、言葉とともに紡ぎ出される。
 
「里美・・・あなたにも、本当はわかっているんでしょ?」

「・・・なんのこと・・・?」

「確かに奴らの言葉は信用できない。本心を全てさらけ出したわけではないのもわかる。けれ
ど、今久慈が言った言葉にウソはなかった。彼が私に持ちかけたのは、実に正当な取り引き
だったわ」

 ツカツカと高いヒールを鳴らして、スーツ姿の女教師が黒衣の男に歩み寄る。
 口を閉ざしたまま、里美はその光景を見詰めていた。傍らに立っていたはずの真紅の美女
が、対岸へと渡るのを。
 視界が揺らぐ。一時的に体力を復活させた万能丸の効力は早くも失い始めたようだ。
 
「ふたつだけ条件があるわ、メフェレス」

「なんだ?」

「ひとつは水族館の『エデン』が本物かどうか確認したいわ。映像だけでは確信までは持てなく
てね。『エデン』であることがわかったら、あとは好きなようにしてもらって結構よ」

「いいだろう。気が済むまで確認すればいい。だがその後は、他の者の手前、少々制裁を受け
てもらうことになるぞ」

「わかってる。では、もうひとつの条件」

「言うがいい」

「里美をこの手で殺すことは、できないわ」

 西洋ハーフを思わせる二重の瞳が、真っ直ぐに孤立した美少女を見詰める。
 その瞬間、里美は片倉響子の寝返りが紛れもないものであることを悟った。
 美しき瞳に映る仄かな感情は、謝罪と哀しみ。
 巨悪を前にして結んだ脆き同盟は、聖なる少女が見捨てられることで、終結を迎えた。
 
「・・・よかろう。海堂よ、五十嵐里美の始末はお前に任せよう。オレは響子を連れて、すぐに品
川の水族館へと向かう」

 ドシャリとなにかが落下する響きを、里美は遥か遠方で聞こえた気がした。
 ぬかるんだ泥地に膝から崩れ落ちたのは、里美自身の肉体であった。
 
「さらばだ、五十嵐里美。正義の守護天使ファントムガールの亡骸は、あとでゆっくり拝見させ
てもらうとしよう」

 崩れ落ちたまま動かなくなったセーラー服の美少女を見下ろし、別れの台詞を吐き捨てた久
慈は、真紅の美女を引き連れて霊園の奥へと消えていった。
 もはや興味を失ったかのように、その黒衣の姿が二度と振り返ることはなかった。
 降り止まぬ雨だけが、月のように青白い、俯き加減の少女の美貌を濡らす。
 頬をつたう透明な雫は、まるで涙のようであった。
 
 
 
 ふぅ、と短い溜め息を吐いて、男は覗いていたカメラレンズから目を離す。
 朝方から降り始めた雨は一向に止む気配がなかった。どんよりとした厚い雲が空を覆ってい
る。己の胸のなかにまで雨雲が入ってきそうに感じ、合羽を着込んだ中年男はコンビニから拝
借したコーヒー缶の中身を一口すする。
 美しい光景が、目前には広がっていた。
 ひとによっては恐らく、同じ眺めをおぞましくも感じるのであろう。だが男にとっては名画にも
匹敵する絶景であった。
 廃墟と化した、首都の街。
 中心に位置する円筒型のビルには、鮮血に染まった銀色の女神が、雨に打たれて磔に晒さ
れている。
 死してなお、愛くるしいマスクであった。丸みを帯びた肢体とピンクの模様が少女らしさを際立
たせている。渋谷という街に似つかわしい、それでいて確実に人目を引くであろうこの美少女
の処女は男が奪っていた。数あるコレクションのなかでも、群を抜いた最高級の獲物であっ
た。あの時の快感を思い出しながら、今こうして惨めに屍を晒している姿を見ていると、自然に
笑みが広がってしまう。
 
 タコとのキメラ・ミュータント、クトルの正体である田所に与えられた役割は、絶命したファント
ムガール・サクラの監視と、その映像をテレビカメラに納めることであった。
 最初に臨時の“特派カメラマン”役を命じられたときは、内心でカチンとくるものがあったのは
事実だ。首領格であり、本来は教え子でもある久慈仁紀の口調には、明らかに見下した様子
が聞き取れた。まるでパシリに命じるような。
 それでもこの役割がそれなりに重要な意味を持つことは、田所にも理解はできる。ファントム
ガールは膨大なエネルギーと引き換えに仲間を蘇生させる秘儀を持つのだ。誰かが亡骸を監
視しなくてはならない。役回りとしては損だが、決して軽視できる任務ではなかった。
 つまりは今の久慈から田所への評価が、そういうことなのだろう。
 海堂一美とスカーフェイスのジョー、2枚のジョーカーを手にした悪の首領にとって、タコの怪
人は主戦力と見るには物足りなかった。かと言って、構想に利用できるだけの価値はあると判
断しているのであろう。実際に守護少女たちが現れるかどうかも不明な渋谷の地に張り付か
せたのは、一段レベルを下に見ている一方でそれなりに能力も認めている証拠と思えた。
 
 さらに一口、褐色の液体を流し込む。最近流行りの微糖のものは好みではなかった。缶コー
ヒーはミルクたっぷりの甘ったるいものに限る。人々が逃げ去ったあとの東京では、好きな店
舗で好きなだけ物資は調達できた。
 
 変わりましたね、久慈くんは。
 誰に語るでもなく、頭髪の寂しい小太り中年はひとり呟いた。
 会った当初から、高慢に満ちた若者であった。顔立ちもスタイルも整ってはいたが、全てを見
下したような暗い瞳の色が忘れられない。頭脳、身体能力、容姿、どれをとっても非の打ち所
がなく、加えて財力と地位まで兼ね備えている。増長が極みに達するのも当然であったが、冷
たさと同時にどこか脆さも感じられたのも確かだった。
 度重なる敗北で、久慈の内側でなにかが変わった。
 敗北の経験でひとが変わる、その実例は田所も、教師生活を長く過ごしてきたなかで幾度か
目撃している。
 一般には敗北はひとを強くする、と思われている。田所の感覚からすると、それは偽りであっ
た。敗北はひとを弱くする。自信を奪い、恐怖を植え付けるのだ。無敗であったチャンピオンが
一度敗北を喫すると負けが込み始めるのは、敗北の経験をしてしまったからだ。勝利しか知ら
ない者ほど強い者はいない。
 
 久慈仁紀は弱くなったのか。そう言い切れないところに、あの若者の不気味さがあった。
 田所の考えでいけば、敗北の味を知った久慈は弱くなるはずだった。事実、『エデン』を持た
ない西条エリや戦士としては隙が多すぎるファントムガール・サクラに不覚を喫している。結果
のみ見れば、弱くなったと断言していい有り様と言えよう。
 しかし、今の久慈にはかつての脆さを微塵も感じることが出来なくなっていた。
 全てに恵まれていながら、あの男の内部には常に満たされていない寂しさがあった。空虚な
内側を埋めるために、なにもかもを手に入れようとしたのではないか。空洞の中身が久慈とい
う青年の脆さの正体ではなかったかと、田所は睨んでいた。その内部を守護天使への憎悪と
復讐が満たしたのだ。
 一片の容赦もなく、ファントムガールを捻り潰す。久慈が打ち出す戦略の数々は徹底的なも
のであった。恐らく5人の守護天使たちは、この東京の地で全員が抹殺されることだろう。
 
 あのふたり・・・恐るべき殺人狂のヤクザふたりと手を組んだことが、久慈の本気をなにより
物語っている。
 刃物のごとき鋭さを総身にまとわせたサングラスの男・海堂一美と、ケロイド状の刃傷に顔を
歪ませた暗殺者・スカーフェイスのジョー。田所からすれば『エデン』の有無は抜きにしても近付
きたくない人種である彼らと、久慈は迷うことなく連携したのだ。
 あのふたりは、マズイ。
 どうしようもない人間、というのがいる。例えば盗撮から強姦まで、美少女のコレクションを一
向に辞めようと思えない、この自分のような。性癖というより人格に近いのだ。美少女への関
心を失ったなら、自分という人間が自分でなくなることを田所はよく悟っていた。
 同様に、あのふたりは殺人という行為を辞められない男たちだ。田所にはわかる。いや、田
所だからこそわかる。
 いつ殺しの標的が自分に向けられてもおかしくはない。本音を言えば、彼らの近くにいる間は
生きた心地がしなかった。今こうして別行動であることが、少し嬉しく思えるのは彼らの存在ゆ
えだ。
 
 久慈があのふたりと手を組んでいるのは正気の沙汰とは思えなかった。
 いや、だからこそ、今の久慈は恐ろしいのだ。
 正気を飲み込む狂気に彩られている。ファントムガールの少女たちが手強いことは身をもっ
て知る田所であったが、復讐鬼と化した魔人と死に飢えた凶魔二匹を止められるとは到底不
可能としか思えなかった。
 
 飲み干したコーヒーの空き缶を道路端に投げ捨てる。甲高い音色がアスファルトの上で転が
っていく。
 糸のように細い変態教師の視線は、飽きることなく、シブヤ109に縫い付けられた桃色の天
使の亡骸に再び注がれていた。
 死して尚、ファントムガール・サクラの可憐さは微塵も失われてはいなかった。
 本当に少女戦士たちは仲間を救出に来るのだろうか? 田所には半信半疑のままだった。
生命エネルギーを分け与えるという行為は、一見素晴らしい奇跡のように思えるが、戦術とい
う面では危険極まりない愚行だ。敢えてエネルギーの注入を試させてから、救援の天使を襲
え、というのが久慈から与えられた指令内容だった。それならば容易い。昨夜、ファントムガー
ル・アリスに圧倒されてはいるが、任務実行の自信が田所にはあった。エナジーを大量に喪失
した瀕死の守護天使ならば、恐れるほどのことはない。主力から外された屈辱よりも、「おいし
い」役どころを得た悦びが上回っているというのが、認めざるを得ない本音であった。
 
 しかし・・・危険とわかっていて来ますかね?!
 敢えてテレビ映像を流しているため、守護天使の陣営にもサクラの死体を監視する存在がい
ることは知られているはずだ。それでもノコノコやって来るなら、アホウに近い。だが、その無謀
な行為をやりかねないのがファントムガールであることも、田所にはわかっている。
 現れれば・・・愉しめる。疲弊し切った守護天使を、嬲りモノにできるチャンスだ。
 現れないにしても、ファントムガールの終焉はそう遠くないだろう。数日は、かからない。5人
全てのファントムガールを始末し終えたとき、褒美としてサクラの亡骸を田所がもらい受けるこ
とはすでに久慈から了承を得ている。
 あとしばらく我慢すれば、美しき少女の死体で遊べる。アイドルよりもキュートなマスクを、死
した後でも歪ませてくれよう。
 ヨダレが垂れていた。慌てて口元を手で拭う。磔の女神を前にして、もう何度同じ妄想を繰り
返したことだろう。
 
 カシュンッ!
 
 聞きなれない音色が、強引に田所の意識を引き締めた。
 誰か、いるのか?!
 振り向いた細い視界に人の姿は見えなかった。雨に煙る灰色の渋谷の街が、静かに佇んで
いるだけ。
 妙な違和感があった。なにかが気になる。頭髪の薄い小太り中年の視線は、やがて一箇所
に集まり始めた。
 先程投げ捨てた、スチール製の空き缶が転がっている。
 真ん中で、真っ二つに切られていた。
 “切る”という表現が妥当であった。まるで鋭い刃で振り抜いたような。銀色の断面が遠目か
らはふたつのリングのように見える。
 
 久慈くんが、来たのか? 真っ先に浮かんだその思いはすぐに否定した。周囲に充満する気
配は、明らかに濃厚な敵意であった。
 敵意と言って・・・いいのか、これは?!
 桃子は死んだ。七菜江は我らが手に堕ちた。夕子も昨夜の負傷で闘えるわけがない。ユリに
こんな技はない。ならばやはり・・・里美か。
 
 背骨が、氷の手で引き抜かれるようだった。
 なんだ、この“気”は?! 恐怖と呼ぶにも寒々しい感覚。泣き喚いている。渋谷の空気が。
ヒシヒシと伝わってくる気配は、敵意というには優しすぎる。“消し去る”という明確な意志。
 なにかがいる。なにかがこの場の空気を震えさせている。五十嵐里美に、こんな芸当ができ
るのか?! いや。いやいやいや。この気配は・・・むしろ邪悪と呼ぶのに近いかもしれぬ。
 
 射るような視線を、右横から感じた。
 右半身が焦げる錯覚。業火を噴き付けられているかのような。
 ゆっくりと身体を向ける。崩れかかったビルの谷間。車道であったアスファルトの中央。
 
 男がいた。見覚えのある顔だった。逆三角形の肉体が、異様に膨らんで見えた。
 少女が両腕に抱かれていた。毛布にくるまれたショートカットの女子高生は、田所たちの虜囚
のはずであった。全貌は見えなくとも、中年男は己を取り巻く状況を悟った。
 
「どうやら・・・困ったひとに困った現場を見られてしまったようですね、工藤吼介くん」

 最強と噂される男が、よりによってこんな場所に現れるなんて。
 偶然か、あるいはサクラ救出の手助けに来たのか。五十嵐里美の幼馴染であり、藤木七菜
江と恋仲と言われるこの格闘獣は、恐らくほとんどの事情を理解していよう。この田所の正体
も含めて。
 
 男臭い顔は、無言で変態教師を見詰めている。
 だが、言葉は必要ない。立ち昇る闘気がすべてを雄弁に物語っている。
 
「倒すつもりですね? ファントムガールの敵である、この私を」

 応えぬまま吼介は、毛布に包まれた少女を大事そうに道の端に降ろす。
 律儀に車道の中央に戻った男は、20mの距離を置いて、仁王立ちで変態教師に向かい合っ
た。
 戦闘開始、と言いたいのですね。
 ビリビリと空気が肌を刺すなか、冴えない小太り中年の全神経は臨戦態勢に入っていた。
 
 勝てるのか? この男に。人間離れした格闘の化身に。
 はっきりと確認は取れていないが、久慈仁紀を生身で破った男。
 もしも五十嵐家に残った最後の『エデン』が工藤吼介に渡っていたなら、闘ってはならない。
逃げるしかないだろう。しかし、『エデン』の力を得ていないのだとしたら・・・腕試しをしてみたい
気持ちも、なくはない。
 いざとなれば、クトルになればいいのだ。
 最強の男も巨大生物には勝てない。久慈にはどこか矜持がある。だからメフェレスになれぬ
まま、敗れた。恥を捨てれば『エデン』の寄生者が普通の人間に負けるわけがないのだ。
 
 ちょっと遊んでみるか。
 『エデン』に授かった身体能力を駆使すれば、プロボクサーの日本チャンピオン程度になら勝
つ自信がある。聖愛学院での工藤吼介の噂は伝説がかっていたが、所詮人間にどれだけの
強さがあるというのか。ここでこの男を殺せば、久慈の自分への視線も変わるのは間違いな
い。
 丸い拳を握り締める。先手必勝。仕掛けようとした、その矢先であった。
 
 メキョッ!! メキメキメキィッ!! ミシミシッ、ミシ!! 
 
 啼いた。逆三角形に形成された、筋肉の塊が。
 ボコボコと厚い肉がさらに膨らんでいく。同時に硬質化していくのが距離を置いても見て取れ
る。まるでダイヤモンドの筋肉。これが工藤吼介の本当の姿だというのか。血の気が引いてい
くのをはっきりと自覚するえびす顔の細い目に、さらなる光景が飛び込んでくる。
 無表情だった吼介の顔が、歪む。
 唇が開き吊りあがる。笑うのか?! 違う、食い縛った歯を剥き出しにしたのだ。
 鬼の形相。これは、鬼の形相。
 口腔の内部は、真紅であった。
 涎のごとく、血の雫が滴り落ちる。憤怒。この男を襲った膨大な怒りが、格闘獣の本性を引き
ずり出している。鬼の顔とダイヤの肉体を露わにしている。
 
 甘かった―――。
 遊ぶ、だと?! 試す、だと?! バカか。勝てるわけがない、この怪物にッッ!! 逃げろ。
いや、無理だ。背を向けた瞬間、殺される。巨大化。変身するのだ。クトルになって、この獣を
踏み潰してしまえッ!!
 
 ボゴオオオオオオオッッッンンンンッッッ!!!!
 
 衝撃で、首が吹き飛んだと思った。
 下腹部に寄生した生命体に念じた瞬間、田所の変身が始まるより速く最強獣の拳はえびす
顔の中央を貫いていた。
 20mの距離が、一瞬であった。
 一撃で、勝負は決していた。『エデン』の強化が施されていなければ、中年教師の首は遥か
彼方まで飛んでいっただろう。
 鬼が吼えた。追撃のアッパーブローが、下方からブヨブヨの腹部を突き上げる。
 パパパパパンンンッッッ!!!!
 内臓の破裂する連続音とともに、白目を剥いたえびす顔の口からドス黒い液体が吐瀉され
る。
 天に突き上げられた拳からズルリと落ちた変態教師の肉体は、己の黒い反吐にまみれてヒ
クヒクと痙攣するのみであった。
 
「まず、一匹」

 振り返ることもなく吐き捨てた男は、毛布に包まれた少女を再び抱え、雨の渋谷に消えてい
った。
 
 
 
 最後の金剛糸を右拳から引き抜き、海堂一美は舌打ちとともに投げ捨てる。墓石に跳ね返
った極細の針は、金属製の音色を静まり返った霊園に澄み渡らせた。
 軽く『最凶の右手』を握り、開く。骨にも腱にも異常はないことは確認できた。ただ激痛の余韻
が喚きたてるのには、サングラスの奥の眼を細めさせずにはおれなかった。
 あれほど五十嵐里美に執着していた久慈が、最期のトドメをあっさりと海堂に譲ったのは、案
外と片倉響子の身を考えてのことだったかもしれない。響子を連れて、久慈は品川の水族館
へと向かっている。もしこの役割が逆で海堂に品川へのエスコート役が任されていたら・・・怒り
のままに女教師を葬っていた可能性は否定できない。
 
 ゆっくりと己の足元に、白スーツの極道者は視線を下げる。
 蛇革の靴の下で、黄土色の泥水にまみれた美少女が、見事な胸の稜線を踏み潰されてい
た。
 口元から胸の谷間にかけて、鮮やかな真紅が生々しい。ピクリとも動かぬくノ一戦士は、瞳を
見開いたまま意識を途絶えさせていた。
 
 すべてを失った五十嵐里美を仕留めるのに、海堂は自慢の右手を使う必要もなかった。
 たとえ闘う気力を残していたとしても、死力を振り絞った里美には指一本動かす体力などな
かっただろう。
 逆にたとえ体力が残っていたとしても、片倉響子が敵の軍門に下った時点で、勝利の糸口を
探る気力は絶望のなかで途切れていたはずだ。
 そして事実は、気力も体力も、里美は枯らし尽くしていた。
 響子が里美の元を離れたとき、すでに守護少女は終わっていたのだ。いや、もっと言えば、
海堂と久慈、ふたりの前に敵対したことが里美にとって過ちであったのかもしれない。
 座り込み、肩で息をするだけのセーラー服の美少女を、鋭利なヤクザは蹴り付けた。蹴り転
がした。顔面を、鳩尾を、後頭部を。白と青の聖愛学院の制服は、泥で塗り込められ識別すら
不可能になった。
 なにかを仕掛けようとしたのか。それとも懇願であったのか。天に向かって真っ直ぐ伸びた白
い腕は、力なく垂れ落ち、ついにファントムガールのリーダーは完全にその動きを停止した。
 正義の少女は負けた。五十嵐里美は強大な悪の力の前に屈したのだ。
 あとはただ、処刑の時を待つのみであった。
 
「ファントムガールに変身することもできないとはな」

 胸を潰す足に力を込める。半開きとなった桜色の唇から、鮮血が花弁の破片のように噴き出
る。もはや里美の肢体のどこからも力を感じ取ることはできなかった。
 
「リーダーというからにはそれなりの手応えを期待していたが・・・所詮は女子高生か。もういい
だろう。その首、もらうぞ」

 傷ついた右手を再度海堂が動かす。リハビリとしては、少女の細首を捻り切るのはちょうど
いいかもしれない。宿敵の首が手元に入れば、久慈の気持ちも幾分かは晴れることだろう。
 白い咽喉に凶魔の右手が伸びていく。
 意識を失ったままのくノ一少女に、死神の鎌を逃れる術などなかった。
 
「やめておけ」

 海堂一美の低く落ち着いた口調は、背後の男に向かって放たれたものであった。
 濃紺のスーツに身を固めた男が、いつの間にか鋭利なヤクザの後ろに立っている。
 どこにでもいるサラリーマン、に見えた。年齢は四十代後半といったところか。銀縁の眼鏡と
七三に分けた髪が、いかにも真面目そうな雰囲気を醸し出す。恐らくはアルマーニと思われる
スーツの気品が、殺人が行なわれかけた雨の霊園に、あまりにそぐわず浮いて見えた。
 ひと気の途絶えた首都の地に、偶然に一般人が紛れ込むなど考えられなかった。まして凶
魔・海堂一美が支配する空間に足を踏み入れられるわけがない。
 眼光の鋭さが雄弁に語る。突如現れた壮年の男が、「一般人」ではないことを。
 男が手にした鍔のない短刀は、極道者の背中に触れる寸前、止められていた。
 
「御庭番の手の者、といったところか? いい気配の消し方だが、そいつがオレに届くより先に
五十嵐里美の首は飛ぶ」

「・・・よく、気付いたな」

 ごくわずかに。海堂の全身が震えたように見えた。
 気付いた時には回っていた。振り返りざまの裏拳。閃光の速度で海堂の巨拳が背後の刺客
を襲う。まともに喰らえば顔面の肉ごと削ぎ落とされる一撃。
 空を切る拳の音は、暴発の轟音にも似ていた。
 吹き飛ぶべき顔はそこにはなかった。皮膚の焦げる匂いを残し、スーツの男は後方に下がっ
ていた。襲撃も閃光ならば、回避も閃光。刹那の間に人間離れした超人二名は、3mの距離を
置いて対峙していた。
 棒状になった銀色の塊が、遠く離れた墓石のひとつに突き刺さっている。
 その奇妙な物体が海堂の裏拳で潰された銀縁眼鏡であると、気付かれる日はいつになるの
か。
 
「やるな。今のを避けられるとは思わなかった」

「貴様こそ、ヤクザ者にしておくには惜しいほどだ」

「少し楽しくなってきたぞ。昨夜の女忍者より腕は上とみた」

「相楽のことか」

 裸眼になったサラリーマン風の男の眼光は、余計に鋭さを増したようであった。
 かなりのことを経験している眼だ。海堂にはわかる。恐らく、殺しに近いことさえ。
 相楽魅紀を手に掛けたのが目の前の極道者と知りつつ、その眼光に揺らぎはなかった。あ
る意味で、里美以上に手強いタイプの敵であることをすでに凶魔は悟っている。
 
「名前を聞いておこう」

「五十嵐蓮城」

 ファントムガール関連の資料のなかにその名はあった。
 菱井銀行の頭取であり、五十嵐里美の父である男。首都の地に居を構えるこの男が、今回
のファントムガール抹殺計画に絡んでくる可能性は海堂の脳内では想定はしていた。
 しかし自身が身を挺して、娘の危機に駆けつけるとは。
 忍びの血を守る者としては甘く、集団の長に位置する者としては迂闊すぎる。それとも、里美
の命は一族全体の危機を天秤にかけても尚重いということなのか。瀕死の守護天使を救うた
めには、なりふり構っていられないということなのか。
 あるいは・・・自らが戦地に立っても生還できる、強い自信を持っているのか。
 
「娘の窮地にたまらず飛び込んできたか。御庭番の現頭首としては随分と甘いな」

「彼女の命はいまや私などよりはるかに重要だ。守らせてもらうぞ」

 不意に五十嵐蓮城の存在が重くなるのを、海堂は確かに感じ取った。
 手も、足も、身体も、眼光も・・・影さえもが、重い。存在そのものが、違う次元に入った感覚。
 覚悟を決めたな。殺す覚悟と、殺される覚悟を。
 さすがだ。賞賛の台詞を吐きたい気分に海堂は駆られた。わかっている、一瞬で生死が決
着することを。現代忍びの頂点に立つ男と、最凶最強の仁侠との決闘に、様子見も遊びも存
在しない。敵意をぶつけ合う瞬間があるならば、それは全知全能を賭けて必殺を目指すとき。
最初の激突でどちらかは死に、どちらかは生き残る。
 五十嵐蓮城は、すべての力を一瞬に捧げてくる。むろん、海堂も。
 ゾクゾクと震えが背筋を這い登る。こういう男とこういう殺し合いができるとは。
 震えの正体は戦慄ではなく、快感であった。
 
「お前では、守れない」

 踏み込んだのは、同時であった。
 眼と鼻の先に互いがある。白のスーツと濃紺のスーツ。殺人狂のヤクザ者と、大手銀行の頭
取。
 あらゆるものが動くなか、スローモーションの世界でただひとつ通常の速度で進むように、
『最凶の右手』は速かった。
 重い、響き。
 凶魔の右腕は蓮城の身体の中央を貫き通していた。
 
「海堂、貴様は勘違いをしている」

 濃紺のスーツ姿がぐらりと崩れる。違う。人間の身体ではない。蓮城の肉体は青々と茂る葉
の集合体へとすり替わっていた。空蝉の術、というやつか。飛来した鎖の塊が、サングラスの
凶魔に巻きついていく。
 
「現在の御庭番頭首は、私などではない」

 背後の墓石から影が飛び出す。忍び装束に身を包んだ、五十嵐蓮城。鍔のない忍刀が右手
に握り締められている。
 勝った。凶魔を、この手で滅ぼすのだ。
 海堂一美の背中に辿り着くまでに、コンマ数秒もあれば十分であった。
 
「わかっていたさ、そんなことは」

 低い声音が届いた瞬間、蓮城の視界から白スーツの背中は見えなくなった。
 振り返っていた。海堂一美が。察知していたのか、私の動きのすべてを。
 巻きついた鎖が力任せに千切り飛ばされるのを、奇妙に静かな心境で蓮城は見詰めた。
 
「お前の実力は、五十嵐里美に及んでいない」

 肉の破れる音が、蓮城の鼓膜を叩いた。
 
 
 
 なにかを引き裂く響きが、暗い底から里美の意識を呼び戻した。
 地に伏せていた肢体が反射的に飛び起き、よろめいて膝から崩れた。力はまるで戻っていな
かった。薄暗い闇が心の芯を抱き締め、生命力そのものを奪っているのが自覚できる。ただ
鍛えられた反応だけで、里美は身を起こしたに過ぎなかった。闘う力などとっくに失った肉体を
衝き動かすだけの、なにかが起こったのだ。
 とてつもなく悪意に満ちた出来事が起こり、余波を受けた細胞が危機に震えて身を揺り起こ
した。
 覚醒して数瞬のうちに、里美には理解できた。己の身に起きた現象を。そして迫り来る不吉
な予兆を。
 小刻みに震える身体に広がっていく悪寒を噛み締めながら、ゆっくりと憂いの瞳を衰弱し切っ
た少女が前方に向ける。
 
 ふたりの男が、重なっていた。
 海堂一美と折り重なるように対峙した濃紺のスーツの男は、里美の脳裏に鮮明に刻み込ま
れている人物であった。
 
「お父・・・・・・さま・・・・・・」

 五十嵐蓮城の背中から、『最凶の右手』が突き出ている。
 蓮城の肉体のほぼ中央を貫いた凶魔の右腕は、抉り抜いたばかりの紅の心臓をその掌の
上に握っていた。
 
「・・・さ・・・とみ・・・・・・さま・・・・・・」

 ゆっくりと壮年の男が生真面目そうな顔を里美に向ける。銀縁の眼鏡はなく、鋭い眼光だけ
がいつもと変わらぬままだった。
 ・・・さま? なぜ、私を呼ぶのに『様」なんてつけるの?
 もぞ痒い違和感が膝立ちの美少女を包む。わかりかけている。今まで、灰色の擦りガラスの
向こうで見えなかった景色が。亀裂の入ったガラスが砕け散る音色が、里美には聞こえてくる
ようだった。受け入れ難い現実の光景を拒否する余裕もないまま、更なる衝撃が敗北の少女
に押し寄せようとしている。
 
「・・・申し訳・・・ありません・・・・・・」

 海堂の右手が動き、臓器の潰れる音とともに鮮血が爆発する。
 ビクンッ!!と大きく身体を震わせたのが、五十嵐蓮城の最期の反応となった。
 『最凶の右手』が引き抜かれると同時に、ズルズルと崩れていった男の死体は、泥水に倒れ
落ちて二度と動くことはなかった。
 
 死んだ。目の前で殺された。父が・・・いや、父であったはずのひとが。
 本当に、父親だったのか? 厳しいひとだった。涙も枯れるほどの厳しい修練を幼少より課
せられた。直接会える機会は滅多になかったが、会うたびに厳しい指導の視線と、底に流れる
慈愛の思いを感じ取ってきた。
 間違いなく愛されていた、と自信を持って断言できる。
 だが、謝罪の言葉を死の間際に遺していった蓮城の姿に、娘であったと断言できる自信が今
の里美にはない。
 
「次は、お前の番だ」

 冷ややかな海堂の声が頭上から降り注いでくる。いつの間にか、白スーツの男は膝立ち状
態の少女の前に立っていた。虚ろな切れ長の瞳に映るのは、泥に汚れた革靴とスラックスの
足元のみ。
 身体は、動かなかった。
 死が間近に迫っている。大事な者を目の前で殺されている。それでもうなだれたまま、五十
嵐里美は冷たい秋雨にただ打たれている。
 心も身体も、衝撃を浴び続けた。浴びすぎていた。
 歯の裏に仕込まれたカプセル・・・通称『末期の一服』。
 人間の身体能力を100%引き出す禁断の麻薬は、自死のための猛毒でもあった。死と引き
換えにわずかな時間、超人的能力を得る薬。相楽魅紀が使用し、おそらく今また五十嵐蓮城
も服用していたであろう忍びの秘薬。
 その最終手段を飲み込む力さえ、里美には残されていなかった。
 
 『最凶の右手』が振り上げられたのが、雰囲気として伝わってくる。
 首を刎ねるつもりなのだろう。直感的にくノ一戦士は悟っていた。私の首は戦利品として、悪
鬼どもの巣窟に持ち帰られるのだ。
 心に渦巻くのは、謝罪の気持ちだけだった。
 風が鳴る。凶魔の右手が、死神の鎌と化して白き咽喉元へ―――。
 
 閃光が走った、と感じられたのは錯覚であったのだろうか。
 
「通せぬのう、これ以上は」

 海堂の豪打が、止まっていた。
 止められていた。音もなく。跪く少女戦士の前に立ち塞がった、黒装束の男によって。
 
“・・・・・・ッッ??・・・・・・だッ・・・”

「誰だ?!」

 里美と海堂、疑念が沸き起こったのは同時であった。
 いつの間に現れたのか?! 『最凶の右手』を止めるのか?! 音すら出さないとは如何な
る技術か?! わからない、全てが規格を越えている。ただひとつ、ハッキリしていること。そ
れは
 この男、並の強者ではない。
 
「海堂一美、この先、暴虐の途を続けるのは遠慮してもらおうぞ」

 追撃を放とうとした極道者のサングラスには、すでに男は映っていなかった。
 消えた?! いや、移動したのだ。まるで意識の間隙を縫うように、気がつけばそこにはいな
かった。
 20mは先の茂みのなかに、黒装束の姿はあった。その腕にはぐったりと四肢を垂らした五十
嵐里美が抱かれている。
 
「・・・逃げるのか?」

「蓮城をして一蹴するその実力。まともに相手はできぬな」

「どうやら、誰もが貴様には騙されていたようだな」

 久慈から預かった資料のなかから、男の正体を海堂は思い出していた。
 光が里美の瞳に戻ってくる。背中越しに伝わってくる温もりのなかで、ぼやけていた視界は
徐々に鮮明な像を結び始めた。
 黒の忍び装束は、伊賀伝統の正式なものであった。
 オールバックの髪には白いものが混ざっている。猛禽類を思わす、鋭い眼光。まるで形相は
違っていても、初老の男の顔は里美が忘れるわけがないものであった。
 
「・・・・・・あ・・・安藤・・・?・・・」

 五十嵐家に仕え、幼少の頃より里美の教育係の面も担っていた、執事・安藤。
 広い屋敷のなかで長年をともに過ごした家族同然の男は、刹那に生きる厳格な顔を初めて
里美に見せていた。
 この顔は、忍びの顔。闘う者の顔。
 安藤の躾は厳しかった。修練での教育は苛烈なまでであった。それでも今見せる厳しさはま
るで次元が違う。これが本当の安藤の姿だったのか。
 
「里美よ、まだ気付かぬのか」

 ゾクリとするほどの声であった。
 安藤として語りかけてきた声とは違う声であった。偽っていたのか。長年。騙され続けてい
た。そして今の声こそが、この男の本物の声なのだ。
 峻厳なる響き。執事が主に向かって吐くはずがない声の調子。くノ一少女は、男との立場が
逆転していることを悟った。そして、それが本来あるべき姿であることも。
 
「あ・・・あァッ・・・アアア・・・・・・」

「不肖なり、里美。はるか昔の記憶のなかで、仕えるべき者の声すら忘れたとは言うまいな?」

「・・・お、お許し・・・ください・・・当主・玄道さま・・・」

 当主、だと?!
 この男、執事として身を隠していたこの男こそが、現・御庭番衆の頭領だったというのか―
―。
 
「海堂一美よ、この勝負を預かる代わりに我が名を残していこう」

 気がつけば、安藤・・・いや、現在の御庭番衆の宗家である男の肩には、絶命した蓮城の遺
骸が担がれていた。魔法のような手練。意識の虚をついて、この男は動けるとでもいうのか。
 
「我こそが、御庭番衆、現当主。五十嵐玄道なり」

 ざっと風が鳴った。そぼ降る雨の向こうで、霞のごとく黒装束と担がれたふたつの身体は消
えていた。
 霊園にひとり残された海堂の耳に、響き渡るこだまのような声だけが届く。
 
「そして、里美は我が娘でもある」



 暗い空間に、己の足音だけが響いていた。
 一歩足を踏み出すたびに、閉ざされた空洞にローファーの踵が澄んだ音色を共鳴させる。真
っ暗闇と予想していたが、内部にはところどころに光が洩れていた。勢いよく流れていく下水か
らは、思ったような腐臭はほとんどない。どちらかといえば触れた壁から伝わる湿気の感触の
方が、西条ユリには不快に感じられた。
 
 もう、どれだけ歩いてきたのか、わからない。
 お台場の死地からファントムガール・アリスによって逃がされた武道少女は、変身後の睡魔
に呑み込まれる前にマンホール下の下水道へとその身を隠していた。
 巨大化を解除するとき、『エデン』を寄生させた戦士たちは、その残り体力によって解除後出
現する場所を特定できる。瀕死状態にあればほとんどその場に留まらざるを得ないが、余裕
があるならある程度の距離は移動できた。アリスに救われた形のファントムガール・ユリアは、
懸命な思いでその身をお台場の対岸・・・品川の一区画へと運び、地下に潜んだのだ。
 
 逃げなくては。ただ、その一心であった。
 サクラが死に、ナナが瀕死に追い込まれ、そして・・・目の前でアリスが壮絶に散った。
 もはや残る銀色の守護女神は自分とリーダーであるサトミしかいない。必ず敵は追ってくる。
100%の力で闘えない柔術少女を獲物として狙ってくる。
 強制睡眠に入るという条件は敵味方同等であった。しかしその後のサポート体制で、有利を
得られないのがこれまでとは違う。首都の地は多くの者の意志が複雑に絡み合うことで、守護
天使を補佐する体制はいまだ充実しているとは言い難かった。逆にミュータント陣営の脅威は
質量ともに、これまでを遥かに凌駕しているのだ。
 数時間の睡眠を経てすぐに、ユリは移動を開始した。手負いの少女戦士が目覚めたならば、
追っ手たちの意識もまず間違いなく覚醒しているだろう。スカーフェイスのジョーと『闇豹』は血
眼で白いセーラー服の少女を捜しているはずだ。地下へと身を潜めたのはユリなりに考えた結
果であった。
 
 少女の左脚は歩くというよりずるずると引き摺られていた。ふくらはぎには応急処置で白い包
帯が巻かれている。
 マヴェルによって注入された毒は、『エデン』の回復力によって大部分消滅した。その感覚は
ある。痛みと熱は酷いが、闘いとなれば踏ん張ることはできよう。だが、通常ではできる限り酷
使はしたくなかった。歩く速度が限定されることを差し引いても、ユリは回復を念頭に置いて行
動していた。
 
 今は逃げる。逃げなくてはならない。しかし、闘いの時は必ずくる。
 自身の手で決戦に臨むのか。あるいは・・・エナジー・チャージで他の戦士に希望を託すこと
になるのか。
 工藤吼介との約束があった。当初の計画ではユリは、絶命したサクラにエナジーを与える役
目であったのだ。きっと・・・たぶん、おそらく、七菜江を連れて逃げた吼介は、渋谷にてユリが
来るのを待っている。引き摺り歩くユリの足も、呼ばれるように渋谷方面へと向かっていた。
 だが・・・知らず、ユリの白い歯は仄淡いピンクの唇を噛み締めていた。
 
 出来得るならば、この手で仇を取りたい。
 助けられなかった。アリスを。逆に救われたのは自分の方だった。
 誰もが言う。武道家らしくないね、と。自分でもそう思う。華奢な肢体に童顔。おまけに極度の
恥ずかしがり屋。どこから見ても、頼りなく、情けない女のコ。だけど、己が武道家であることを
疑ったことなどなかった。どう見られようと、武道は力としてこの身に着実に宿っている。
 宿命として力を得たはずなのに、その力は出せなかった。
 守るべきは自分でなければならなかったのに、現実は守られた。本来は、闘うべき宿命など
なかったはずのアリスに。
 
 休息をしたとはいえ、闘いを終えたばかりのユリアに、死者を生還させるだけのエナジーが
創り出せるかどうかは微妙な判断であった。元々、エナジー・チャージはリスクを伴う方法だ。
仮にサクラを蘇らせることができたとしても、ユリアもサクラもかろうじて立つのが精一杯という
状況だろう。襲撃を受ければふたりとも、ひとたまりもない。
 ならば、全力を出せなかろうと、ユリアがそのまま闘う方が勝機はあるのではないか。
 吼介との約束を反故にするのに抵抗はある。しかし、お台場で姿を見せなかったメフェレスと
ゲドゥーが渋谷にて待ち構えてる危険性は十分高い。ユリアの登場を見越して、天敵とも言う
べきクトルが待機してる可能性も相当あるだろう。このまま渋谷に向かったところで、守護天使
を捕獲する罠に嵌りにいくような気がしてならない。
 
 それとも・・・アリスにエナジー・チャージを試みる、という手段は考えられないだろうか?
 脳裏に浮かんだアイデアを、即座にユリは自分自身で否定した。ふたつに縛ったおさげ髪
が、哀しげに横に振られる。
 ダメだ。アリスには・・・エナジー・チャージは通用しない。
 サイボーグ少女は胸のクリスタルを砕かれているのだ。
 胸中央に輝く青い水晶体、エナジー・クリスタルはファントムガールにとってはエネルギーの
貯蔵庫のようなものであった。
 光のエネルギーが消滅すれば、守護天使は死を迎える。ファントムガールとしての生命活動
が全て止まってしまうのだ。以前のユリアや109に磔にされているサクラがこの状態であった。
 通常ならば一度死した者が、生命活動を取り戻すことはない。しかし、ガス欠の車にガソリン
を給油するように、光のエナジーを注入することでファントムガールは再び蘇ることができるの
だ。その奇跡が実現可能であることは、誰よりもユリア自身が経験として悟っている。
 しかしアリスは、そのエナジーを貯蔵すべきタンクを・・・青いクリスタルを破壊されているの
だ。
 いくら光の力を注ごうと、漏れでていく。肝心のタンクに亀裂が入っていては、いくら給油して
も無駄であった。
 ファントムガール・アリスは・・・霧澤夕子は死んだのだ。
 復活の芽はない。考えれば考えるほど、残酷な現実に打ちのめされるだけだった。
 
 声が聞こえた。しゃくりあげる、泣き声だった。己の口から割れ出ている事実に気付いて、慌
てて頬を拭った。思った通り、頬は涙で濡れていた。
 もう、悲しまないと決めたのに。涙は溢れて止まらなかった。
 美人で、寂しい瞳が印象的だった。ツンとした表情が多かったのに、蘇るのは最期に見せた
笑顔ばかり。キツイ言葉も多かったけれど、いつも心の底ではかばわれているのがよくわかっ
た。今頃になって、可愛がってくれていたんだと気付く。いつの間にか、寂しい瞳は見せなくなっ
ていた。
 
 少女の歩みが止まる。足元に、水滴の束がボトボトと降り落ちた。
 涙と鼻水と涎とで、愛くるしい童顔は濡れそぼっていた。
 思い切り、泣いていこう。涙はここに置いていくのだ。
 白いセーラーに包まれた肩が小刻みに震え、やがて激しく上下した。慟哭とも叫びともつか
ぬ声をあげて、ユリは泣き続けた。
 
 夕子さん、仇は私が取ります。
 
 暗く湿った地下水道に、少女の嗚咽がやむことなく響き続けた。
 
 
 
 肉を打つ響きが途絶えることなく続いていた。
 苦悶の声が時折混ざる。艶のあるアルトの苦鳴は、溜まった男ならばそれだけで勃起させる
芳醇さを含んでいる。苛烈な拷問現場には、紛れもなく妖艶の香りが吊り下げられた女から地
を這うように発散されていた。
 
 水槽がある。巨大な水槽。目を凝らせば鶏の卵にも似た白い球体が、無数に漂っているの
が確認できる。その前で鋼鉄製の木馬に跨らされた女が、両手を鎖で縛られて吊り下げられ
ていた。全裸に剥かれた女は完熟した豊かなボディラインと下腹部にやや濃い目の茂みを晒
している。
 
「裏切り者への制裁はそれなりに行なわねばならん。理解できるな、響子?」

 木刀を握った久慈仁紀は、女教師の腹部を立て続けに殴りつけた。
 くぐもった呻きに続き、鮮血が真紅のルージュを割って噴き出す。ヴィーナス像を彷彿とさせ
る抜群の裸体は、腫れと痣とでほぼ全身が赤黒く変色してしまっている。『エデン』の持ち主で
なければとうに絶命していよう。逆に『エデン』融合者であっても、この一時間以上に渡って続い
ている責め苦は到底耐えられると思えない苛烈さであった。
 
 品川水族館に到着してすぐに、片倉響子は『エデン』との謁見を許された。館内に従業員の
姿はなく、照明は7割方が落とされていた。巨大生物襲来の報を受けて退避する以前から、こ
の地の制圧は着々と進んでいたのだろう。『エデン』は独立した水槽のなかにまとめて保管さ
れていた。
 確認した『エデン』は間違いなく本物であった。
 降服条件が満たされた時点で、響子の鞍替えは正式なものとなった。だが久慈の傘下に戻
る前に粛清の時間が必要となる。衣服を剥ぎ取られ鎖に縛られる間、女教師は黙ってそれを
受け入れた。
 
 木刀の打擲は三桁をゆうに越えていた。響子をこのまま、殴り殺すつもりかのようであった。
歯を食い縛って耐えられたのは10分が限度。一度洩れ始めた苦悶の声はとどめることができ
ず、やがて哀願が混ざり始め、女が混ざり始めた。
 かつて己が開発した凄惨な拷問の数々を受けることになるとは、響子自身も予想だにしなか
ったことだろう。
 
「ゴフゥッ!!・・・ゥグウッッ!!・・・ハァッ・・・ハァッ・・・ハァッ・・・」

「尊大な貴様でもそんな顔ができるんだな。辛いか、響子」

「ハァッ、ハァッ・・・も、もう・・・・・・十分でしょ・・・・・・あ、あなたに敵わないのは・・・よくわかった
わ・・・」

「殊勝なセリフだが、あいにくオレは貴様という人間をよく知っていてな」

「・・・・・・う、嘘なんかじゃ・・・」
 
「やれ、ドメキ。金剛糸だ」

 久慈に顎で指示されたスキンヘッドの男が、手にした金色の針を容赦なく尖り立った響子の
乳首に串刺す。引き攣るような女教師の絶叫が暗い館内にこだまする。
 二の腕と臍。そして乳首。響子の肢体に埋まった3本の金剛糸は、全てこのドメキと呼ばれる
男によって突き立てられていた。もちろん元々は響子が所持していたものだ。どうやらドメキは
『エデン』の見張りと拷問執行官との役割を兼ねた、久慈の新たな手駒らしい。髪も眉も剃り落
とした顔は油を塗ったように濡れ光っており、180cmほどの長身は白いフードで包まれていた。
 
「フン。痛覚を数十倍にする毒針を3本も突き立てられてなお、正気を保つか。さすがだな、響
子よ。ドメキ、もっと掻き回してやれ」

 腕と臍に埋まっている極細の毒針を掴むや、スキンヘッドがグリグリと乱暴に捻じ込む。
 ビクンッ!!と大きく仰け反った妖艶美女は、少女のような金切り声で泣き叫んだ。
 
「ンギャアアアアアッッッ〜〜〜ッッッ!!! アアアッッ――ッッ!!! ア・ア・アッ・・・!!」

「裏切りの代償をその身に刻むことだ。ドメキ、あれを」

 無言で眉なし男が鋼鉄の木馬に近付く。ドメキの声をまだ一度も響子は聞いてなかった。何
をされようとしているのか、瞬間的に悟った女教師の肢体が反射的にビクリと震える。
 
「気に入ったようだな、この木馬の味を。よがり狂わす快感も、激痛によるショック死も思いの
ままよ。もっとも『エデン』持ちの貴様にはスペシャルブレンドだがな」

 ドメキがスイッチを捻った瞬間、残酷な波動はまたもや響子の下腹部を襲っていた。
 木馬の先端は股間の秘裂に食い込み、真紅のハイヒールを履いたままの長い脚には片方
づつ20kgの重りが架せられている。引き裂きの激痛だけでも苦しみは十分だというのに、増幅
する微震動がじわじわと成熟したクレヴァスを刻んでいくのはまさに煉獄の苦痛であった。しか
も同時に子宮は妙なる快楽の波動に包まれるのだ。
 
「あうぇあヴぁッ・・・あヴアァッ・・・ふばアあ゛ッッァッ・・・」

「オレとの情事でも見せなかったよがり顔じゃないか。神を自称する天才学者も所詮はただの
メスイヌよ。震動をもっとあげてやれ」

「やッ、やめッッ・・・お、おねがッ・・・ひゃめェェッッ!!!」

「クハハハハ! まるで小娘の懇願だな。貴様の罪はこの程度では晴れぬわ! さあ、やれ
ッ!」

「あひいいィィッッ―――ッッッ?!! ひゅぎゅあああアアアアッッッ〜〜〜ッッッ!!!」

 妙味の震動が下腹部から腰へ、腰から乳房へと這い上がっていくのが見て取れた。
 屹立した乳首がコチコチに尖っている。百個の舌で乳房から膣内までを舐め上げられる刺激
は、妖女とて許容できる範囲にはなかった。木馬の上で硬直した西洋風美女は、嬌声混じりの
絶叫を狂ったように喚き散らす。
 
「なかなかいい仕事をするだろう、このドメキは。元々は地方官僚だったが、発作的に起こるレ
イプの衝動をどうしても抑え切れぬ奴でな。本来ならばミュータントの資質を満たしていない
が、今後も踏まえて試みに『エデン』を寄生させてみた」

 久慈の声は悶絶する響子には届いていなかった。
 潜在する闇のエネルギーや身体能力の高さがミュータントの強さを決定づける大きな要因と
なる。ドメキの能力はファントムガールと敵対するにしては物足りなさを感じさせたが、今後配
下を増やしていくには少々の妥協は必要であった。拷問官としての力量、一般人を掌握する力
としては、ドメキは十分及第点に達している。
 
 下腹部を襲う震動が激しさを増す。まだ上の苦痛と快楽があったことに、限界を迎えつつあ
る響子の精神はショックを受けていた。壊れる。発狂してしまう。これ以上はもう、耐えられな
い。溢れ出した愛蜜が木馬を濡らしているのを自覚しながら、臨界点まで響子は追い込まれて
いた。耐える。耐えてみせる。ドメキが諦めて出力ダイアルから手を離すまで、妖艶美女は涎
を降り散らして耐え抜いた。
 ドメキが木馬から一歩下がる。相変わらずの無表情。
 やはり震動はMAXだったのだ。快楽と激痛の津波に呑まれながら、これ以上の嗜虐はない
ことを響子は確信した。耐え切った。屈しかけた苦境を乗り越えた緩みが、わずかな間妖艶美
女を包んだ。
 刹那に、ドメキの両掌が剥き出しの乳房を掴んでいた。
 ボリュームと張り、見事な稜線を描いた極上のバスト。色香の風味をたっぷりと乗せた肉球
を襲ったのは、木馬が放つものと同じ、破壊と愉悦の微震動であった。
 
「ヒギャアアアアアアアッッッ〜〜〜ッッッ!!! ギュアアアア・ア・ア・アッッ!!!」

 ブシュッッ!! 白濁した飛沫が美女の股間から噴き出す。
 腰まで届く黒髪を狂ったように振り乱して絶叫した女教師は、やがてヒクヒクと全身を痙攣さ
せながら脱力して果てた。
 鋼鉄の木馬に股裂きされ、全身びしょ濡れで鎖に吊るされて失神する妖艶なる美女。
 足元に滴る汗と愛液と血飛沫の洪水を見れば、首領たる黒衣の闇王を裏切ろうという愚行
は、二度と誰も思いつかないことだろう。
 
 木刀の切っ先で昇天した妖美女の顎を上向かせる。呆気ないほど簡単に、カクリと響子の美
貌が天を向く。
 大きな二重の瞳は完全に白目を剥き、半開きの口からゴボゴボと白い泡がこぼれ落ちる。
濡れた額や頬にへばりつく、黒髪。かつて人類を恐怖の底に陥れた蜘蛛妖女・シヴァの化身
たる女教師は、拷問の果てに沈んだ無様な姿を、ひと気のない水族館で晒していた。
 
「100人に一斉に犯される快楽と細胞レベルから身を崩されていく激痛。いかなる『エデン』の持
ち主であろうと数十秒ももつまい」

 傍らまで歩み寄った久慈は、女教師の腰までとどく黒髪を鷲掴んで上向きの顔を固定する。
 半開きの真紅のルージュに口を寄せた闇王は、舌を挿し入れ響子の口腔を吸い始めた。
 ジュル・・・ギュボオッ・・・ヌチュ、ズルル・・・
 美女の艶気を飲み干していく。絡みつく舌と舌。窒息の苦しみに、意識を失っていた女教師
が瞳を見開く。
 
「ンッッ・・・ンゥンン・・・ンウゥゥ〜〜ッ・・・」

 ジュルル・・・グチュ・・・ギュプ・・・身体を揺らして悶える響子に構わず、吸引は続く。ヒクヒクと
ねだるように前後する腰の動きが、淫らな刺激が下腹部を貫いていることを教えた。さんざん
な陵辱と暴虐を受けた肉体はずいぶんと耐久力を失っているのを自覚する。
 背後に回ったドメキの掌が豊かなふたつの乳房を包んでくる。執拗なまでの、破壊と愉悦の
微震動。耐えられないとわかっている響子を絶望に突き落とすように、鋼鉄木馬と胸を包んだ
掌から再び震動が注ぎ込まれる。
 
「ンンンッッッ〜〜〜ッッッ!!! ングウウウウンンンッッ―――ッッッ!!!」

 壊れたオモチャのように、木馬に騎乗した裸身の美女が全身を痙攣させる。飛び散る汗が霧
となって周囲に漂う。
 屈服させるつもりだ。弾け飛びそうな意識のなかで、響子は久慈の意図を理解していた。
 裏切りを繰り返し陣営に戻ってきた響子を、許しはしても信用するつもりはないのだ。執拗な
拷問はそのためであった。身も心も屈服させる。二度と久慈に逆らう気など起きなくなるまで、
徹底的に責め抜くのだろう。
 
“こ、壊れる・・・壊され・・・る・・・・・・む、胸も・・・アソコも・・・お、おかしく・・・”

 窒息で意識を失う寸前に、久慈の舌が引き抜かれる。
 酸素を求めて激しく喘ぐ妖美女の息遣いが、水族館に響き渡る。荒い吐息に混じる、確かな
淫靡の震え。股間と乳房を襲う魔悦震動は、いまだ止むことなく注がれている。瞳から流れた
雫が頬を濡らしているのを響子は自覚することすらできないでいた。
 
「あはアアァァッッ〜〜ッッ!! ふばああアアッッ〜〜ッッ!! あああッ〜〜ッ・・・」

「苦しいか、響子?」

「・・・・・・く・・・苦し・・・い・・・・・・」

「はいかいいえで答えろ。気持ちいいか?」

「・・・・・・・・・は・・・い・・・・・・」

「ならば許しを請え。このメフェレスに」

「・・・・・・ゆ、許して・・・・・・ください・・・・・・も・・・う・・・許し・・・て・・・」

「よかろう。その言葉、信じてやる」

 鼻で笑った黒衣の男は、靴を鳴らして鋼鉄の木馬へと近付いた。
 憔悴しきった美貌ががっくりと垂れている。やまない震動に喘ぎながらも、その表情には安堵
の様子がほのかに含まれていた。
 だが、西洋風美女の顔が再び引き攣るまでに、わずかな時もいらなかった。
 
「これよりリミッターを解除する。震動の威力は約3倍だ。ドメキ、貴様も全力でやって構わん」

「なッッ?!!・・・や、やめえェッッ・・・?!」

「気の済むまで嬲るがいい。くれぐれも壊すんじゃないぞ」

「ひッ、ひいィッッ!!! そッ、そんッッ・・・た、助けッッ・・・」

「戻るまでに調教は終えておけ。それが貴様の仕事だ。わかるな、ドメキ」

 木馬のスイッチを捻った久慈は、響子の懇願に何も応えず背を向けた。
 
「ぎふううッッッ?!! ウギャアアアアアアアアアアアアアッッッ〜〜〜ッッッ!!!!」

 獣のごとき絶叫を背中で浴びながら、振り返ることなく久慈仁紀は品川水族館をあとにした。
 
 
 
 秋雨の止んだ首都に夜の帳(とばり)が降りていた。
 巨大生物が東京の街を急襲してから、2回目の夜。一千万人が避難したあとの大都会は死
んだように静かだった。自衛隊、政府関係者、一部の報道機関・・・不眠不休の活動は続いて
いるはずなのに、山手線のほぼ中央に位置するこの場所にひとの息遣いは届いてこない。雨
露に濡れた茂みの隙間から聞こえる虫の声だけが、里美の周囲を包む全てであった。
 
「里美さま。玄道様がお呼びです」

 足音もさせずに近付いた男の声に、セーラー服に包まれた少女の肩がピクリと反応する。ケ
ヤキの樹に向かって佇む令嬢戦士の背中からは、表情を観察することはできなかった。一時
間ほど前、深い眠りから醒めた里美は、あらゆる報告を聞いてからずっとその場に立ち続けて
いた。風雅と可憐を自覚なしに振り撒く天性の美少女の背中が、今ばかりは声を掛けるのも躊
躇わせるほど小さく見える。
 
「・・・いま、いきます」

 背後の気配が消えてからも、しばらくの間、里美は大樹に向き合ったまま動かなかった。
 甲高い破裂音が闇空に響き渡る。
 二度。三度。右手が痛くなるほどの力で、容赦なく己の頬を少女は叩き続けた。
 グッと空を見上げる。切れ長の瞳には強い光が戻っていた。樹木の緑のうえに、大きなたま
ねぎを乗せたような特徴的な屋根が見えている。
 東京都千代田区九段。日本武道館から数百m北西に進んだこの場所に、現代忍者の総本
部があろうとは誰も気付きはしないだろう。東西に長く伸びた敷地は樹木と塀とで囲まれてい
る。
 国家のために殉じ、尊き生命を捧げられた御霊を祀る社、靖国神社。
 歴史の表舞台には登場しないものの、この国を守護するために暗躍してきた御庭番衆が、こ
の地と深い関わりを持つのは寧ろ自然と言えるかもしれない。
 
 本殿の裏、一般参拝客では侵入を許されない敷地に地下への階段が見える。石碑で巧みに
カムフラージュされているため、常人では素通りしてしまうことだろう。慣れた足取りで、里美は
暗い地下へとその身を躍らせた。
 靖国神社からさらに1kmほど西に進むと、防衛省の建物が現れる。その地下にまで現代忍
者の本拠地は続いていた。
 防衛省から靖国神社までを、人知れず地下で繋いだ巨大な空間こそが特殊国家保安部
隊・・・つまり現代御庭番衆の総本部であった。防衛省と情報を共有してこの国を守り、恒久に
魂が安らぐ場所へと還る。御庭番衆の理念と実利を兼ね備えたこの地は、里美にとっても特
別な場所のひとつであった。
 闘いに殉じ、尊命を散らしていった同志たちがここに眠っている。
 四方堂亜梨沙。相楽魅紀。多くの仲間たち・・・
 そして今また五十嵐蓮城改め佐久間蓮城が、墓碑にその名を連ねる。
 桜宮桃子と霧澤夕子の名を入れるのは、里美が拒否した。頑なに拒否した。ふたりはまだ死
んでいない。渋谷とお台場に晒された亡骸は、鮮明に脳裏にこびりついている。それでもわず
かな可能性がある限り、諦めることはできない。諦めたら、里美自身が崩れて消えてしまいそ
うだった。
 
「入ります」

 地下に造られた現代忍者の総本部は、その言葉から受け取るイメージとは異なり、外見上
は公的施設の一角としか見えない簡素な造りであった。クリーム色の壁が続き、同じ形の扉が
ズラリと等間隔で並んでいる。最先端のテクノロジーがあちこちに配備されているはずであった
が、里美ですらその全貌は知らされていなかった。傍目にはなんの変哲もない部屋の前で、長
髪の美少女は指紋照合用の液晶画面に掌をかざす。
 かすかな機械音とともに横に開いた扉の内部へ、月のような少女は進み入った。
 
「来たか、里美よ」

 椅子も机もない、ただ書棚が壁際にあるだけの殺風景な部屋の中央に、黒装束の男は立っ
ていた。
 白髪混じりのオールバックに鷹を思わす鋭い眼光。長年見続けてきた顔だというのに、こうも
印象が変わるのかと驚くほど、表情には威容を備えている。吹き付ける威圧の風に、里美の
全身は縮むようであった。
 優しき執事であった老紳士は、御庭番現当主・五十嵐玄道としての顔を完全に取り戻してい
た。
 里美にとって玄道はもはや使用人ではない。寧ろ逆、主として仰ぐべき立場の存在となった。
 そしてまた、同時に玄道は実の父親でもあるのだった。
 
「このたびの失態の責任については、いかなる処分も受ける覚悟です」

 青と白のセーラー服が翻るや、床に額を押しつけて里美は土下座をしていた。
 
「全ては私の・・・責任です。甘い判断がこのような危機的状況を生んでしまいました。この命を
いくら捧げても過ちの代償にはならないことはわかっています。ですが・・・ですが、せめて、ひ
とりでも多くの侵略者たちの命脈を絶つべく、この身を捧げさせてください。どうか、どうか出撃
のお許しを――」

「顔をあげよ」

 執事の顔をしていたときとは、まるで異なる重い声が響く。
 
「あげよ、里美」

「・・・はい」

「責任の所在を問うならば、我もまた逃れられぬわ。事ここに及んで、うぬや我の首のひとつふ
たつで収拾するはずもない。今思案すべきは、いかに彼奴らの脅威を取り除くことができる
か、その一点のみよ。雑念を払い、全力を尽くして、その一事に心を砕け」

「はい」

 厳とした視線で見下ろす玄道と、澄んだ瞳で真っ直ぐに見詰め返す里美。
 傍目から見れば過酷に映るであろう、父と娘の光景。だが玄道の言葉の裏には、数々の衝
撃の事実に踏み潰されそうな娘の心を、闘いに集中させることで軽くさせたい魂胆も見え隠れ
していた。
 
「執事をしていた頃の我の言葉、憶えているか?」

「覚えています。目的のためにはあらゆる感情を殺して最善の策を選択せよ、と」

「苦境にあらばこそ、冷静に道を探せ。この世界はまだ、終わったわけではない」

 そう、終わったわけではないのだ。玄道の台詞を、里美は己への激励と受け取った。
 ファントムガールは、まだ闘える。ここに、私がいる。
 ユリアがこの地に来ていることもわかった。来てはいけなかった。未来の希望となるために
も、万が一に備えて身を隠すべきだった。だが、モニター映像のなか、アリスを救うために懸命
に闘う姿に、励まされたのもまた事実。
 エナジー・チャージさえできればきっとサクラは蘇生する。アリスもまた・・・信じることだ。サイ
ボーグ少女はいつだって驚異的な生命力を示してくれた。今回だって、きっと。信じることだ。
信じなければ、奇跡など起こるわけもない。
 そして・・・ナナ。
 あの男が介抱している少女が、きっと戦場に帰ってくる。そういう少女なのだ、あのコは。どれ
だけ叱ったって、無茶をして誰かのために闘おうとする。不器用で損な役回りのコ。だけれど
も、胸が痛むほどに眩しいコ。
 彼女がまだ生きている。希望はまだ、決して潰えてなどいない。
 
「勝ちます」

 凛とした言葉が、麗しき少女の桃色の唇を割って出た。
 
「こんな日が来るときのために、私はファントムガールになったのです。勝ってみせます。ここで
奴らを食い止めることが、私が生まれた意味の全てです」

 現代御庭番の総帥が、冷ややかな眼でじっと我が娘を見る。見定める、とでもいうべき眼光
であった。
 
 見事なり、里美。
 親友の死も、父を名乗った男の死も、絶望的な状況も、全ての悲嘆を飲み込んだか。
 たとえそれが表面的なものであっても、18歳の女子高生とは思えぬ精神力に、父は娘の確
かな成長を感じていた。
 
「里美よ・・・我はうぬの側用人として、長く居過ぎたかもしれぬ」

 ふっと吹き付ける威容の暴風が、かすかに緩んだのを里美は感じた。
 
「この部屋には、我とうぬしか居らぬ。・・・今、ここでならば、本当の自分を晒すことを許そう」

 己の呆れるほどの甘さを苦々しく噛み締めながら、玄道は思わず口走るのを止めることがで
きなかった。
 どんなに装っていようと、里美の本心が見えてしまう。娘の側に長く居過ぎたことが、このよう
な副作用を及ぼすことになるとは。
 忍びの長としては失格だな。そんな烙印を己に押すことになっても、玄道はあまりに多くのも
のを抱えすぎた少女の背から、少しでも荷を降ろさせてやりたかった。
 
「大丈夫です、玄道さま」

 美少女は、春風のごとくニコリと微笑んだ。
 そう、この笑顔。幼少の頃より少しも変わらぬ笑顔がそこにはあった。
 
「つい先程まで、吐き出せるものは全て吐き出して参りました」

「・・・もう、構わぬのか?」

「はい。泣くよりも先にすべきことが山ほどあります。あとは、全てに決着がついてからのことで
す」

 言葉が続けて出ようとするのを、玄道はこらえた。
 大きくなった。この数ヶ月で。守護天使に選ばれた少女たちのリーダーとなることで、もしかす
ると里美は飛躍的な成長を遂げていたのかもしれない。
 ならば父であり、長である自分が、甘い顔をみせるのはやはり耐えるべきであった。
 
「現状は、苦しいぞ」

 眼を背けたい現実に、玄道は話を戻した。
 
「品川近郊に潜んだと思われる西条ユリとは、どうしたわけか連絡が取れぬ。地下道に入った
可能性が考えられよう。戦力が限られた現在、まずはユリと合流することが肝要だろうな。お
台場フジテレビから姿を消した賊どもの足取りは依然捉えておらぬが、いくつかのチームに分
かれて行動していると思われる」

「こちらからの襲撃は難しい、ということですね」

「いや、もはやこちらから仕掛けることは出来ぬのかも知れぬ」

 玄道の言わんとしている内容を、里美もとうに悟っていた。
 
「彼奴らの狙いはまず第一にファントムガール全員の抹殺。休息を取り仕切り直した今、うぬを
殺すことのみに全力を傾けよう。うぬを引き出すため、重要と思われる施設を襲撃するのはま
ず間違いなかろう」

「防衛省、ですね」

 現代御庭番衆の総本部と呼ぶべき場所・・・つまり、今いるこの地下空間の上にある建造
物。
 五十嵐家が防衛省と通じていることは、とうに久慈には知られているはずだ。ただでさえ守護
女神を冠するファントムガールは、破壊工作に出る巨大生物を食い止めねばならぬ使命があ
る。まして、それが直接関係の深い施設となれば。もうこの場を動くことはできない、敵は否が
応にも向こうからやってくるのだ。
 刺客がやってくる。この身を散らそうとする、恐るべき悪魔たちが。
 それでも里美は逃げられない。闘うしか、ないのだ。迫る恐怖に打ち克って、死のデートが
刻々と近付くのを待つしかない。
 
「我らにできることは、迎撃態勢を少しでも整えておくことだが・・・いかんせん、戦力はあまりに
乏しい」

「玄道さま、ナナちゃん・・・ファントムガール・ナナとの合流は難しいのでしょうか?」

「そのことについては、ハッキリと断じておく必要があるのう」

 鳴りを潜めていた威容の暴風が、以前にも増した勢いで吹きつける。
 圧倒してくる玄道の眼光に、脅迫の念さえこもっているのを、里美は見て取った。
 
「ファントムガール・ナナ。藤木七菜江は今回の闘いにおいては戦力として計算せぬ。うぬには
厳しい戦闘を強いることになるが、覚悟を決めておけ」

「それは、彼女のダメージが深すぎるということなのでしょうか?」

「もちろんそれもある。本来ならば一両日程度では回復不能なダメージを、心身ともに受けてい
るのだからな。だがより深刻な問題が藤木七菜江の周囲には存在しておる」

「・・・工藤吼介、ですか」

 言葉の響きが重くなるのを、里美は懸命に自制した。
 
「奴が戦闘に参加することだけは、なんとしても阻止せねばなるまい。賊の殲滅と同時に、我ら
にとっては重要な使命であることを肝に銘じておくがよい」

「承知しています。ですが、『エデン』との融合が図られなければ、この緊急事態においては彼
の力も・・・」

「黙れ。里美、よもや未だに奴に未練が残ると言うまいな」

 明確な叱責の意図を含んで、黒装束の男は吐き捨てた。
 
「み、未練だなんて・・・」

「奴の危険性はメフェレスやゲドゥーとなんら見劣りないことを、重々理解せよ。奴に力を与え
ないこと、戦闘の場を与えないことが、頭領たる我と、次期後継者たるうぬの役目ぞ」

 深く頭を垂れた里美が、再び額を床に押し付けて平伏する。
 執事であったころから、吼介に対する姿勢は不自然なまでに厳しかった。『エデン』を与える
可能性については猛烈に反対された。何か、理由があるのだ。里美がまだ教えてもらっていな
い理由が。それを知らなくても、使命には絶対に従わねばならない。忍びとして生まれた少女
に、現頭領の命令を破ることなどできなかった。
 吼介が里美に近付くのを嫌がられたのは、父の私生児であるからだと思っていた。だが、今
ならわかる。恐らく、それは嘘だ。
 なにしろ父とされていたひとは、実際には父親ではなかった。役柄を演じていただけの、忍び
の一人に過ぎなかった。里美と血の繋がりもなければ、吼介との繋がりもまず考えられない。
といって目の前の玄道が、吼介の父と言うにはあまりに視線が冷たすぎる。
 
 薄々ながら浮かび上がる、ひとつの真実。
 吼介と私は、本当は姉弟なんかじゃない。
 痺れるような何かの感情が、胸の内で広がるのを懸命に抑えた。今は、死を賭した戦線の最
中なのだ。この世界を守らなければ。生き残らなければ、全ては泡となって消えるしかない。
 
「では、ユリちゃんとの合流を図る以外に、打つ手はないということでしょうか」

「いや、防衛省を守るのと同時に、打つべき攻めの一手がある」

「攻めの、一手」

「特別編纂した部隊を収集しておる。フジテレビ以外に、判明している賊の拠点に向かわせる
ためにな」

「・・・品川水族館、ですね」

 敵の襲撃に備えるのが精一杯の現状で、唯一こちらから攻勢をかけるべき場所。
 そこには大量の『エデン』が眠っている。奪還に成功すれば、戦況を一気に逆転することも可
能となるだろう。
 青山霊園での死闘は、里美にとって痛恨の敗北と言っていい結果を招いた。己が身は大打
撃を受け、片倉響子は敵陣営に移り、有能な忍びの末裔が犠牲となった。しかし唯一得られ
た、重要情報。『エデン』の秘匿場所が判明したのは、守護陣営にとって大いなる収穫であっ
た。
 久慈からすれば、響子の身柄と引き換えに渡した、重要情報。里美の命が100%、霊園にて
潰えると確信していたが故の、行動だったに違いない。
 抹殺されるはずだった令嬢戦士の命が救われたことで、逆襲への足掛かりは作られた。
 うまくいけば裏切りを見せた響子を、確保することもできるかもしれない。響子が品川水族館
に行くことは確実なのだ。里美が感じる限り、響子は久慈という人間の器に見切りをつけてい
た。あの場で翻ったのは、恐らくは『エデン』の存在があったからこそ。大量の『エデン』がなけ
れば、響子が今更久慈の側に仕える理由はなかったであろう。『エデン』さえ奪還できれば、天
才生物学者は再び悪とは袂を分かつ。義理や人情では動かない、ただ己の利がある陣営に
移る。そういうタイプだ、あの魔性の女は。
 
「ですが、恐らくは敵も厳重な警備を敷いているはずです」

「我が直接出向く。彼奴らがここを襲撃する機を計っての。敵戦力が分散する隙を利用するの
だ」

「し、しかし、ミュータントは巨大化ができます。いかに玄道様といえど、巨大生物を相手にする
のは・・・」

「構わぬ。巨大化して水族館ごと破壊してもらえれば本望なり。たとえ奪還がならずとも、悪魔
を生み出す白い球体が滅するのならば、最低限の任務は果たせたと言えよう」

 『エデン』が研究対象としても、新たな光の戦士を生み出す道具としても、超がつく重要な存
在であることは玄道も理解している。だが現時点で一番の懸念は、ミュータントの大量発生な
のだ。奪還が困難ならば、大量の『エデン』は死滅させる。それで現在地球を覆うクライシス
は、最悪のシナリオだけは回避できるだろう。
 当然、久慈もその点は理解しているはずだ。
 つまりは、『エデン』を持つ悪魔と御庭番衆が激突したところで、巨大化が敢行されることはま
ず有り得ない。もし巨大生物が現れたのならば、即ちそれは御庭番衆としては勝利を意味する
のだった。

「里美よ、うぬがこの場を守護する間に、我らは敵拠点を急襲するのだ。ファントムガール・サ
トミが長く耐え忍べば忍ぶほど、この策は奏功しよう。攻防表裏一体の策だと思え」

「はい」

「恐らくは敵主力はうぬの抹殺に向けられよう。苦しい闘いとなろうぞ」

「覚悟はできています。ファントムガールとなった時から」

 立ち上がった美麗の少女が深々と一礼する。
 濃紺のプリーツスカートを翻し、踵を返す。死も、痛みも、受け入れる覚悟はできている。闘う
しか、なかった。人類の、この国の未来は、ひとりの小さな少女の肩に重く圧し掛かっている。
 
「待て、里美」

 部屋を出て行こうとするスレンダーな背中に、御庭番衆当主の声は掛けられた。
 
「ひとつだけ、訊かせて欲しい」

「はい」

「ずっとうぬを騙していた我を、なじらぬのか?」

「佐久間さまのことは伺いました。優秀な現代忍びで、影武者としての任務に従事されたと。た
とえ血は繋がらなくても、私にとってはやはり父であったと思っています」

「表面上一線を退いた我には、ああいう形でしかうぬに直接触れることができなかった。御庭
番の当主という肩書きは、こんな時代になってもそれなりに危険と間近い立場なのだ」

「わかっています。そして・・・あなたが、当主としての立場より、私への教育を重視してくださっ
たことも」

 振り返ろうとして、里美は堪えた。
 今、優しい執事であった面影を残す、実の父の顔を見れば決意が揺らぐ。死を賭けた、戦場
に赴く決意が。
 
「ここまで育ててくれて、ありがとうございました。お父さんと長い間ともに暮らせて、私は幸せで
した」

 静かに扉を閉める音色が、いつまでも玄道の鼓膜に響き続けた。
 
 
 
「これを、どう捉える?」

 海堂一美の静かな問い掛けは、真向かいで佇む痩身の若者に向けられていた。
 漆黒のシャツにスラックス、ジャケットで揃えた久慈仁紀の姿は、闇の押し迫った渋谷の一角
に溶け込んでしまいそうだった。悪鬼の首魁たる魔青年は、白い面貌をじっと下に向けたまま
動かない。
 
「ハッ! んな奴ぁ、ハナッから使い物にならねえってわかってんだ。消えたところでなにも変わ
りゃしねえ」

 コンビニから拝借した角瓶に直接口をつけ、スカーフェイスのジョーが琥珀色の液体をゴボゴ
ボと咽喉に流し込む。数時間前に女神と称される存在を屠った快感からか、ケロイド状の疵が
覆う顔面は、喜色とも呼ぶべき歪みを絶えず刻んでいる。
 3人の禍々しき男たちと、豹の毛皮を羽織った一人のコギャル。そこだけ空気が凍てついた
ような四人衆の真ん中で転がっているのは、顔面を紅に染めた、肥満体型の中年男であっ
た。
 
 ドス黒い血が、口腔いっぱいに溢れて垂れ落ちている。
 潰れた鼻は顔の中央に陥没していた。上の歯が全て抜けてしまっている。虚空を見詰める細
目には、もはやなんらの光も灯ってはいない。
 流され続けていたシブヤ109のテレビ画像が、突如として途絶えた。手放したテレビ局のアジ
トを奪還されるには、予定よりかなり早い時間帯であった。109の撮影ポイントに集合した悪魔
たちを待っていたのが、クトルと呼ばれた男の、破壊された姿であった。
 
「ねェ〜、田所ちゃん、死んじゃったのォ〜?」

 爪に塗ったブルーのマニキュアの出来を気にしながら、『闇豹』が呟く。雨上がりの秋の渋谷
は、夜ともなれば肌寒さが沁みる。豹柄のタンクトップの上に羽織った毛皮は、冬本番に着る
ようなものであった。
 押し黙っていた久慈が、薄い唇を初めて開く。
 
「息はある。だがもう使えん」

「ふぅ〜ん」

「ならばここで始末するか? 政府に回収されれば面倒になるかもしれん」

「必要ない。喋ることなどできん。海堂、貴様が殺したいというのなら無理には止めんが」

 サングラスの男は顔色ひとつ変えないまま、首をわずかに横に振った。
 
「極上の獲物を愉しんだ後だ。余韻に浸らせてもらおう」

「海堂さんは抵抗する奴を力づくでバラすのが好みなんだよォ。壊れたオッサンなんぞに興味
あるかよッ!」

 空になった角瓶を投げ捨てるや、ジョーはファスナーを降ろして己の図太いイチモツを引き出
した。
 湯気を立てた黄金の液体が、ジョボジョボと禿げ頭のエビス顔に降りかかる。
 アンモニア臭が周囲に漂い、端整な久慈のマスクが露骨に歪む。跳ね返りを気にした神崎ち
ゆりは、素知らぬ顔で数歩を退いた。
 
「ふ〜〜、気持ちいいぜェ〜。なあ、小僧よォ〜。てめえの持ち駒は随分貧弱じゃねえか、あ
ァ?! こんなクズ揃えたところで邪魔くせえだけだろうがァッ!」

「クトルを潰したのは、並の人間ではあるまい」

「はァ?」

「工藤吼介。奴からの、宣戦布告だ」

 記憶のなかから蘇る筋肉獣の姿に、思わずジョーは歪んだ唇を吊り上げた。
 あいつか。あの、藤木七菜江の横にいた男。
 あの男の仕業というなら、メタボ中年じゃ歯が立たないのも道理だ。オレにしたところで、負け
ることは有り得ないにしても、それなりの手傷は覚悟する必要のある男。
 もしあいつを血の海に沈めたら・・・ファントムガールとはまた違った興奮が得られるのは間
違いないであろう。
 
 首都東京に本格的な襲撃を仕掛けて以来、丸一日が過ぎようとしている。
 誤算はあった。始末できたはずの、五十嵐里美を取り逃がした。御庭番衆の現頭領という、
厄介な相手も現れた。工藤吼介が参戦を果たそうとしているのも、もしかしたら大きなマイナス
材料と言えるのかもしれない。事実、クトルという戦力が格闘獣に潰された。
 だが、それ以上に事態は久慈の思惑通りに進んでいる。上首尾といっていい、現況であっ
た。
 ファントムガール・サクラを処刑した。続けてアリスを葬った。
 ナナは瀕死に陥り、一度は裏切りを見せた片倉響子も手札に戻した。品川水族館には多数
の『エデン』が飼われている。残るファントムガールの戦力は、サトミとユリアを数えるのみだ。
 詰めさえ誤らねば、全ての決着はつく。
 ファントムガールの殲滅は、もはや時間の問題であった。あとは油断こそが最大の敵。唯一
最大といっていい願いである復讐が、いよいよ完結間際となって、久慈の脳裏は鋭利さと合理
性を増して回転していた。
 
「藤木七菜江を車で連れ去ったのは、あの野郎だったってわけかい。そりゃあ面白ェ」

「死に損ないのファントムガール・ナナに、サクラを復活させる力などないだろう。もはや奴らは
この付近には潜伏していまい」

「工藤と藤木七菜江が一緒か。どうするつもりだ、久慈?」

 自分なりの答えは持ちつつ、海堂は敢えて決定の裁量を雇い主に委ねているようだった。暗
殺を生業とするプロだからこそ、己が越えてはならないラインを理解しているのだろう。
 
「『エデン』を持たぬ男に、なにができるわけでもない」

「工藤吼介はお前を倒したと聞くが?」

「オレは肋骨を折られ、奴は左脚を貫かれた。それだけのことだ」

「・・・工藤という男、本当に『エデン』を寄生させていないのか?」

「・・・何が、言いたい?」

 久慈の周囲の闇が、ゾワリと増殖したかのようだった。
 何らの動きの変化も見せず、明らかに黒衣の魔王は変わっていた。臨戦態勢へと。それ以
上、この話題に触れるのなら首を刎ねる。明確な意志が充血した眼光から迸る。
 懐に忍ばせた匕首に手を伸ばすジョーを雰囲気のみで制し、海堂一美は落ち着いた声で言
い放った。
 
「勘違いをするな、久慈。工藤吼介は危険だ。だからこそ純粋に、力の源泉を知っておく必要
がある」

「・・・奴が『エデン』と融合していないのは確実だ」

「それだけ知っておけば十分」

 すっとサングラスを指で直した海堂が、緊迫した空気をリセットする。
 張り詰めた空間が緩んでいくのが、眼に見えるようだった。
 一触即発の危機を越えた海堂は、何事もなかったように、己が今後やるべき作戦の具体内
容を口にしていた。

「では、防衛省を襲撃し、現れたファントムガール・サトミを処刑する、のだな?」

 数秒の沈黙の後、久慈仁紀は薄い唇を開く。
 
「御庭番に救われた五十嵐里美は、防衛省の近く、あるいは関連する施設に身を隠している
はずだ。必ず、でてくる。いかに戦闘を避けたくとも、逃げることはできん。正義の女神とは、実
に哀れな存在よ」

「オレたちが何人で襲撃しようと、立ち向かってくる、か」

「『闇豹』、貴様はこの渋谷で、クトルに代わってサクラの死骸を見張れ。ユリアのこともある。
闘い方はわかっているな?」

「まず先にわざとウサギちゃんを生き返らすんでしょォ〜。わかってるってば。ヘロヘロになった
トコを〜、ふたりまとめてブチ殺すっと♪」

「海堂よ、防衛省の襲撃は、貴様とスカーフェイスに任せる」

 五十嵐里美=ファントムガール・サトミの抹殺に執着を燃やしてきた男のものとは思えぬ台
詞を、久慈は吐いた。
 
「はッ! 小僧にしちゃあ、いい判断だァ〜。守護天使どもの始末は、オレらに任せときゃいい
んだよォ〜」

「ここに来るまで、まさか貴様が五十嵐里美を仕留め損なっているとは思いもしなかったので
な。責任を取ってもらおう」

「・・・お前は何をするつもりだ、久慈?」

 海堂一美の問い掛けに、凍えるような眼をした男は、表情ひとつ変えずに答えた。
 
「品川水族館に引き返す。『エデン』が集めてあることを知られた以上、奴らは必ず攻めてくる」

「万一に備え、『エデン』持ちを10名、守兵として就かせているのではなかったか?」

 唇の両端を吊り上がらせ、黒衣の闇王はニヤリと笑いを刻んでみせた。
 
「恐らく、政府の主要戦力が傾けられよう。この一網打尽の好機、逃す手はあるまい。品川と
防衛省、ふたつの地点で、ファントムガールと我らに歯向かう勢力は根絶やしにするのだ」



 ニューヨークのエンパイアステートビルを彷彿とさせる、高層ビルであった。
 北側に設置された大時計は、夜の8時を示している。首都が襲撃を受け、住民のほとんどが
避難していったあとでも、針は変わらず時を刻み続けてきた。ビル内部のオフィスにも、今では
従業員は誰ひとりとしていない。
 JR山手線代々木駅前にそびえたつ特徴的な建物。NTTドコモ代々木ビル。
 通称ドコモタワーと呼ばれる、この都内でも3番目に高いビルは、周囲に目立つ建造物が無
いなかで、その細長いシルエットが遠目からでも確認できるほど際立っていた。
 
 工藤吼介が潜伏場所としてこの高層ビルを選んだのは、マスメディアの情報も途絶えたなか
で、周囲の状況を一望できるからだった。
 ひと気の途絶えたビル内は、貸切状態のようなものであった。コンビニやドラッグストアから
拝借した食料や医療品が片隅に積まれている。生きていくだけなら、都会には物質が恵まれ
すぎるほど豊富にあった。だが、この場に隠れ続けたところで状況が好転しない事実は、嫌に
なるほど悟っている。
 
 滅ぼさねばならない。悪魔どもを。
 侵略が着々と進んでいる現実を、その眼に焼き付けられた。人類は、世界は、悪魔たちに屈
するのかもしれない。途方もない事態が、現実になろうとしている。
 いや、人類がどうとか、世界がどうとか、そんなことはどうでもいい。オレには、そんなデカイ
話はわからない。
 
 少女がふたり、殺された。吼介の、よく知る少女が。
 桜宮桃子はチャーミングな美少女だった。華やかな外見から想像できないほどの、優しい心
の持ち主だった。
 霧澤夕子には随分キツイ言葉も浴びた。だがその裏にある情の深さが、わかりやすいほど
伝わってきた。
 美しい、少女たちだった。生き様が。他人のために、我が身を犠牲にする少女たちだった。
 誰もが抵抗できない悪魔どもに立ち向かい、儚い命を散らせていった。
 
 死ぬ必要は、なかった。
 死なせてはならない、少女たちだった。
 闘う者がいないから、己の身を捧げたのだ。美しき、生命を。誰かが代わりに闘えばよかっ
たのに。
 オレが、代わりに闘うべきだったのに。
 
 窓ガラス越しにビルの眼下を見下ろす。いつの間にか、弓張り月が天空に昇っていた。夕方
までの雨雲は霞みとなって消えかかっている。
 新宿御苑の緑が、左の視界に広がっていた。月明かりに照らされた森林は、黒い茂みとなっ
て雨上がりの風にさざめいている。
 そして正面には、代々木の隣駅である原宿の、ファッショナブルな街並みが広がっている―
―はずであった。
 今、吼介の視界を占めるのは、その区画だけ切り取られたように瓦解した、破壊の跡地。
 代々木駅から原宿駅までにかけて広がる明治神宮の森。昨夜、この地で繰り広げられた巨
大な戦闘のあおりを受けて、原宿から表参道にかけての地域は多くの尊い命とともに崩壊して
いた。
 夜目にも見える、鮮血の飛沫が。思わず眼を覆う、無惨な光景。
 この血の大部分を流した、巨大な青き守護天使は、今吼介と同じ部屋のなかにいた。
 
「吼介先輩・・・」

 振り返る筋肉獣の視線の先に、毛布にくるまったショートカットの少女が立っていた。
 滅多に動じることのない男の眼が、驚きを隠しきれずに開かれる。
 
「無理するな。お前の身体はまだ・・・」

「みんな、死んでしまったんですね」

 流れ込む月の光が、見上げる少女の白い頬を優しく撫でる。
 青い光の海のなかで、藤木七菜江は輝くように愛らしかった。
 全裸の上に直接纏った毛布が、ふるふると揺れている。猫を思わす澄んだ瞳に、透明な雫
がみるみるうちに溢れでてきた。
 
「あたしのせいです」

「お前は、よく闘ったよ。十分すぎるくらいに」

「モモはあたしを助けようとして殺された。夕子はあたしの身代わりになって殺された。渋谷の
ひとたちも、みんなが、本当にたくさんのひとたちが・・・」

 ボロボロとこぼれ落ちる涙が、白桃の頬をつたう。赤子のように、可憐な少女の顔はぐしゃぐ
しゃになった。
 とめどなく溢れる涙と鼻水で濡れそぼった顔が、忍びこむ月明かりを照り返す。
 
「もォ・・・ヤダ・・・・・・よォ・・・」

 突然、少女の膝がガクリと折れる。全ての糸が切れてしまったように。
 崩れる七菜江がフロアの床に倒れる前に、駆け寄った逆三角形の男は小さな少女を支えて
いた。
 
 泣いた。
 力の限り、七菜江は泣いた。声にならない叫びをあげて。広くて固い男の胸に、グショグショ
の顔を埋めて。
 
 泣きじゃくる少女を胸に、吼介に掛ける言葉は見つからなかった。ただ、抱き締める。強く。
優しく。
 この世界にお前ひとりしかいないと言わんばかりに、男は壊れそうな天使を黙って抱き続け
た。
 
「・・・モモ・・・コ・・・がァッ〜〜ッッ・・・・・・夕子ォッ・・・・・・がァッ〜〜ッ・・・」

「死んでなんかいないよ。ファントムガールは生き返る・・・そうだろ?」

「・・・あたしィッ・・・あたしッ、もうゥ〜〜ッッ・・・」

 このまま溶けてなくなってしまいそうな少女のショートカットに、厚い男の掌が乗る。
 いつものような、乱暴な撫で方ではなかった。
 愛おしさを限りにして、優しく、優しく、吼介は七菜江の柔らかな髪を撫でた。
 
「七菜江」

 腰を落とした吼介が、少女と視線の高さを同じにする。
 潤んだ猫顔少女の瞳は美しく、真剣な格闘獣の眼は優しかった。
 見詰め合うふたりの間に、言葉が消える。
 
「お前のことが、好きだ」

 男の告白を、ただ小刻みに顔を揺らしながら七菜江は聞いた。
 
「お前が、オレにとっての全てだ。お前を守ることが、オレの生きる全てだ」

 小刻みな顔の動きが少しずつ大きくなる。やがてブンブンとショートカットを揺らして、七菜江
はイヤイヤをするように強くかぶりを振った。
 
「里美さんがッ・・・先輩には、里美さんがッッ!!」

「姉貴は関係ない。お前はオレの、全てなんだ」

 男の両掌が、かぶりを振る少女の顔をそっと抑える。
 再び見詰め合ったとき、七菜江の心に男の想いは雪崩れ込んできた。
 
 ああ
 ああ
 このひとは。
 あたしのことが、好きなんだ。
 かけがえのない友をふたり失って、崩れそうなあたしを
 必死で、なりふり構わず、繋ぎとめようとしている。
 ダメになるあたしを
 必死で、支えてくれている。
 
 頬をつたう涙を、吼介の舌が優しく舐めとった。
 鼻水も、涎も構わずに、ペロペロと愛しい少女の濡れた顔を、格闘の獣が舐め上げる。
 桃色の唇が、ペロリと舐められる。
 その瞬間、ふたりの唇は重ねられていた。
 
 淡い月光が、高層ビルの最上階の部屋に満ちる。
 青白き光の海のなか、若い一対の男女のシルエットが、幻想的なダンスを踊る。
 やがて、ふたつの影は、ひとつに重なった。
 
 
 
 胸の上でアイドルフェイスの美少女は、スヤスヤと寝息をたてていた。
 互いに一糸纏わぬふたりの身体を、毛布一枚が包んでいる。不安定な筋肉の身体の上だと
いうのに、藤木七菜江が見せる寝顔には、ようやく安らぎの色がかすかに浮かんでいた。
 涙の跡で薄汚れた童顔が、このうえなく愛おしい。
 じっと愛する者の寝顔を見詰めながら、腰に回していた手で、吼介は全身をそっと撫でた。
 
 『エデン』のもつ回復力によって、七菜江が受けた拷問の痕はほとんど癒えかかっていた。驚
異的としか言いようのない、速さであった。
 それでも吼介にはわかる。七菜江が、ファントムガール・ナナが、これまでの激闘で受けてき
た、ダメージの過酷さを。
 
「ボロボロだな。お前の身体は」

 辛く、厳しい闘いの日々を、本当によく頑張ってきたんだな、お前は。
 
「もう、闘わなくてもいいんだ。七菜江」

 反対の手を伸ばし掴んだのは、吼介自身の携帯電話であった。
 巨大生物の襲撃騒動で、首都圏の携帯電話はほとんど繋がらなくなっている。だが、特殊な
回線を利用しているこの番号なら、必ず繋がる確信が吼介にはあった。
 秘密裏に教えられたこの番号を、ついに使う日がやって来るとは。
 
 発信のボタンを押す。しばしの間のあと、呼び出し音が鳴り始める。
 やはり特殊回線は繋がっていた。問題は、相手が出るかどうか。
 5回、10回・・・コールが続く。やはりダメか? 戒厳下のこの状況で、コンタクトを図るのが所
詮無謀なのかもしれない。
 諦めかけたその時、ガチャリという音色が響いた。
 
『・・・はい』

 女の声が出る。電話を掛けたこちらが何者であるかは、当然伝わっているはずだ。
 
「・・・無事だったか?」

『・・・ええ』

「大事な話がある。少しだけ、会えるか?」

 しばしの沈黙の後、琴のような女の声は『ええ』という簡潔な応えを返した。
 
「ではこちらから、お前の元に向かう。待っていてくれ、里美」



 ポトポトと体液の垂れる音が、薄暗い室内に途切れることなく響く。
 白い球体『エデン』が無数に浮いた水槽をバックにして、見事なプロポーションを誇る美女体
が鎖で吊り下げられている。絹のごとき裸身に浮かぶ、おびただしい珠の汗。鋼鉄の三角木
馬に跨がせられた姿は、明らかに拷問の余韻を残しているのに、漂ってくるのは凄惨さよりも
香るような妖艶だった。
 薔薇のような、女だ。
 かつての栄華が嘘のように落ちぶれた片倉響子を見回しながら、ドメキは妖女の類稀な美し
さを改めて認めずにはいられなかった。
 呆けたような瞳。半開きの唇から垂れ流れる、透明な涎。汗でへばりついた黒髪。さんざん
嬌声と、ありとあらゆる体液を迸らせた妖女は、艶かしい湯気を全身から立ち昇らせている。
薄汚れた隷奴となんら変わらぬ姿だというのに、ヴィーナスを彷彿とさせる容貌からは、わず
かな美しさも欠けてはいなかった。
 
 不意に木馬に取り付けられたダイアルを、ドメキは回す。
 細胞をバラバラにされるような激痛と、快楽を催す微震動とが同時に股間から放たれる。『エ
デン』の寄生者でなければ到底耐え得ぬ悪魔の震動は、幾度浴びようと慣れることがなかっ
た。
 
「ぎいいィィッッ?!! ひゅぎゅあああああェェァあッッッ〜〜〜ァァッッ〜〜ッ!!!!」

 絶叫する美女の頭部を、ドメキの両手がガシリと挟み掴む。
 髪も眉も剃り落としたこの元地方官僚の男は、電気ウナギとのキメラ・ミュータントであった。
 キメラ・ミュータントのなかには、巨大化後の能力を人間体時にもある程度有するタイプが存
在する。ドメキはまさにその一例であった。常人には放てるはずのない破壊震動を、電気に代
わって自在に操る。
 頭蓋が砕ける寸前に留めた震動が妖艶な美貌を覆うや、絶叫はさらに段階をあげて迸っ
た。
 
「ギャアアアアアアアアッッッ―――ッッッ!!!! 許しィッッ!!! 許してエエエエッッッ―
――ッッッ!!! ギュエエエエエェェッッ〜〜〜ッッ!!!!」

 油で濡れ光ったような男の顔がニヤリと歪んだその時、暗い声での館内アナウンスが品川水
族館全域に流された。
 
『・・・侵入者を処断した。都合、4人目だ。各自、警戒を怠るな』

 軽く舌打ちを洩らしたドメキが、淡々とした放送に促されたように震動を止める。
 冷酷さが滲み出たような低い声は、コンゴウという名の男のものだった。元警察幹部で、久
慈より新たに『エデン』持ちとなることを許された、10名の守兵のリーダー格。魔人メフェレスに
資質を認められ、配下となった10人のなかで、もっとも実力を見込まれた男。残忍さを隠しきれ
ないこの男をドメキは好きにはなれなかったが、その力が10名の頂点にあることに異論は挟
めなかった。
 
 一見静寂に包まれた品川水族館だが、闘いの火蓋は既に切って落とされていた。
 政府の諜報部隊が、かなりの数、潜り込んでいる。特殊国家保安部隊と呼ばれる政府直属
の組織が存在することは、元警察幹部のコンゴウから聞かされていた。『エデン』が大量に保
管されている事実は、もはや確実に政府の中枢に伝えられているだろう。じりじりと内偵の手を
進める政府と、それを排除していく十守兵。単なる人間と『エデン』を寄生させた者とでは戦闘
力の差は大きいが、中心にコンゴウというプロあがりがいることはさらに悪側の優位を感じさせ
た。
 
 ガリ、ボリと、凄惨な響きが館内アナウンスを通じて聞こえてくる。
 仕留めた侵入者の屍体をコンゴウが喰らっているのだろう。コンゴウは人食いザメとのキメ
ラ・ミュータントであった。
 高圧的な鋭い眼と、受け口に生え揃った獰猛な牙がドメキの脳裏に浮かんでくる。まるで親し
みを覚えない男だが、味方であることには安堵せざるを得なかった。今後政府及びファントム
ガール陣営は、この地に総攻撃を掛けてこようが、コンゴウがいる限り己の出番はないように
ドメキはタカを括っていた。
 
 いざとなれば、政府陣営は品川水族館ごと、この地の『エデン』を消滅させる選択も取り得
た。増殖した巨大生物に国の領土を蹂躙される危険を思えば、一区画を焼き払うくらいの犠牲
は許容範囲内だ。だがそれは、出来る限り回避したい状況のはずであった。
 大量の『エデン』を得るということは、巨大な戦力を奪うのと同じ意味を持っている。苦境に立
たされたファントムガール陣営が、『エデン』を奪回することで一挙に逆転を狙えるのだ。
 同様のことはメフェレスら、闇側の陣営にも言えた。世界という巨大な相手を敵に回すには、
大量の『エデン』は必要不可欠なものであった。是が非でも、この切り札は守り通さねばならな
い。だからこそ急ごしらえとでも言うべき、10人の守兵がミュータントに選ばれたのだ。
 
 ここまでは、誰も辿り着けまい。
 『エデン』の水槽前に己が配置されている意味を、ドメキはよく理解していた。いわば最後の
壁。侵入者が目的の白い球体に届く直前の、最後の障壁。
 特殊国家保安部隊なる存在がいかなる実力を保持しているかはわからないが、ドメキには
自信があった。“生身”の人間に負けるなど、到底考えられなかった。『エデン』保持者に敵対
できる者は、『エデン』保持者くらいなものだ。ファントムガール自らが赴くのでなければ、この
品川の要塞を突破することなどできまい。事実、ネズミの4匹は、すでに十守兵の同朋によって
始末されている。
 
「ゆ・・・許しィッ・・・・・・おね・・・がい・・・・・・許してェ・・・・・・」

 全身汗に濡れ光らせた美妖女が、か細い嘆願の声をあげる。
 傲慢さが消し飛んだハーフを思わす美貌は、惨めなまでに歪みきっていた。半開きの唇から
トロリと垂れたピンクの舌。視点の定まらない、大きな瞳。汗と鼻水とヨダレと涙・・・あらゆる体
液を垂れ流した女教師は、とうに限界を迎えてしまったようであった。
 他愛もない。妖女シヴァもこの程度か。
 久慈仁紀からはかつての参謀であったこの女を、徹底的に破壊するよう命じられていた。二
度と歯向かえぬよう、心を壊せと。放っておけば、この悪女が再び裏切りを繰り返すことを、見
抜いているかの口調であった。
 並の女なら5分と耐えられぬうちに発狂するであろう媚惑の震動を、すでに2時間近く流してい
るのだ。いかに『エデン』の保持者であろうと、もはや満足に思考することさえ叶うまい。雌犬の
ごとく哀願の叫びをクンクンと鳴らすのも、当然といえば当然の姿であった。
 
 命令通り、片倉響子の調教は終わった。
 あとは賊が忍び入るまで、自由に遊ぶ権利が、このオレにはあるはずだ。
 
「ひあァッ?!・・・や、やめェ・・・てェッ・・・・・・」

 むんずと豊かな双乳を鷲掴まれた瞬間、続く地獄を響子は覚悟した。
 爆ぜるような激痛の合間を縫って、快楽の弩流が豊乳を貫く。一撃で失神しかねぬ愉悦の放
射が、何発も、何発も子宮を突き刺す。幾度となくオルガスムスを迎えた女体に、休む間を与
えない苛烈な官能の刺激。
 
「ひぶううッッ〜〜ッッ!!! あばあァァッッ!!! ひゃッ、ひゃめェェッッ・・・!!! 胸ェ
ェ・・・がァッ・・・こわれえェッッ〜〜ッッ・・・るウゥゥゥッ〜〜〜ッッッ!!!」

 高慢を絵に描いたような美貌が泣き叫び、よがり狂う。無様な性奴隷と化して。
 あの片倉響子が、オレに乳房を弄ばれただけで嬌声を迸らせている。救いを請いながら。闇
に堕ちた報酬として、十分すぎる光景であった。
 
「お、おねッッ・・・お願いィッ・・・・・・ちょッ、ちょうだいィィ〜〜ッ・・・あ、あなたを・・・ちょうだいィ
ィッッ〜〜ッッ」

 真紅のルージュがパクパクと開閉する。なまこのごとく蠢く舌。蕩けきった美貌が、求めてい
るのは明らかだった。
 貪るように、吸い付く。頭髪も眉毛も剃り落とした不気味なドメキの薄い口が、喘ぐ妖女の唇
を塞ぐ。ジュルジュルと響子の口腔をすする生音が、暗い水族館の一室にこだまする。
 温かな極太のヒルが舌に絡みついてくる。拷問で発狂寸前にまで追い込まれていたとは思え
ないほど、響子は積極的だった。甘い吐息がドメキの脳幹をくすぐる。美貌の女教師の味は、
まぎれもなく超のつく一級品であった。
 
 脂でまみれたドメキの顔が、快楽に酔ってニマリと歪む。
 これが片倉響子=妖女シヴァの味か。なんという美味。平伏し、懇願する女を貪る法悦こ
そ、この世の最上の馳走に間違いなかった。まして天授の容姿を誇る、魔性の妖女が相手と
あれば・・・
 堕落した女の表情を確かめたくて、ドメキは改めて視線を響子の顔に向けた。
 
「・・・・・・ッッ?!!」

 真実を悟った瞬間、ドメキを襲ったのは、この世界の表と裏が一斉に引っ繰り返る感覚であ
った。
 屈服し、隷属したはずの女が浮かべていたのは、凄惨ですらある悪魔の微笑み――
 
「物足りない男ね。なにもかも」

 ザクンッッッ!!!
 
 風を感じたと思った瞬間、ドメキの頭部は8つに分かれて爆ぜていた。
 崩れ落ちる肉塊のあとには、ただディープキスをした姿勢のままの妖女があった。
 長く伸びた真っ赤な舌の先に、巻きついた極細の魔糸が揺らいでいる。
 
「この程度で堕ちたと思われるとは、私も甘く見られたものね」

 頬に浴びた返り血を、赤い舌がペロリと舐めとる。
 舌先から伸びた極細の斬糸は、鋼鉄の枷をプリンのようにサクリと切断した。ガラガラと冷た
い鉄の塊が足元に落ちていく。
 鋼鉄の木馬を飛び降りた女教師は、颯爽とした足取りで片隅に捨てられた己の衣装を拾い
にいく。スーパーモデルのウォーキングにも似たその歩みは、とても拷問を受けた女のもので
はなかった。
 
「さて、監視カメラを覗いているこいつの仲間が、そろそろ気付く頃かしら」

 真紅のスーツに身を固め、響子は落ち着いたアルトの声で呟いた。
 10人の『エデン』を持った守兵たち。ひとり片付けた今、残る9人が、この広い品川水族館に
配備されている。
 通常ならば響子が恐れるような相手ではない。だが片腕を折られ、死闘と拷問で続けざまに
浴びたダメージは、強がった外見とは裏腹に深く妖女に根ざしている。いざ、命の遣り取りが始
まれば、しっかりとした足取りがもろくも崩れていくのは、響子自身が悟っていた。
 
「フフ・・・想定内のこととはいえ・・・今の私では、ひとりを道連れにできるかどうか、ね」

 皮肉な微笑を浮かべた美女は、長い黒髪を翻して走り始めた。
 
 
 
“恐らく、政府の主要戦力がこの品川水族館に向けられることを、メフェレスも察知しているは
ず。あの男が戻ってくるまでにここを脱出しなければ・・・”

 非常灯の光だけを頼りに、真紅のスーツを纏った美女は脱出口を求めて薄暗い館内を走り
続けていた。
 正面出口までの経路なら、当然頭に入っている。だがまともな通路は、『エデン』持ちの守兵
どもに固められているのは確実であった。脱走がとっくにバレているにも関わらず追っ手がな
かなか現れないのは、残る9人の守兵の多くが通路の封鎖を重視しているからだろう。恐らく
はコンゴウと言う名の、元警察幹部の男による指示に違いなかった。
 自信がある、ということか。
 政府の主要戦力に攻め寄られても、それぞれの配置についた数人の『エデン』持ちで入り口
を守り通せると踏んでいるのだ。確かに、響子が知る限りの『エデン』の寄生者ならば、そうし
た芸当もあながち不可能ではあるまい。そして入りにくい、ということは出にくい、ということでも
ある。
 
 やるしか、ないだろう。
 できる限り防備の薄そうな場所を選んで、正面突破するしかないと響子は覚悟を決めてい
た。探せば人ひとりが通れるほどの通路などは見つかるかもしれない。特殊国家保安部隊が
何人か潜入に成功しているのだから、きっと秘密の抜け穴的な通路がいくつかあるのだろう。
しかし、時間がなかった。手間取っていれば、魔人メフェレスが帰ってきてしまう。今、怒りに震
える魔人と対峙して、逃げおおせる自信は響子にはなかった。『エデン』と融合したばかりの守
兵とまともに闘うことが、恐らくはもっともリスクの少ない脱出方法となるだろう。
 
「まさか、ここまでダメージが残るとは思ってなかったけど・・・」

 疾駆する響子の口から、らしくない弱音が洩れる。
 全身が軋むのを美女は自覚していた。寝返りを勧める久慈に従い仕置きの拷問を受けたの
は、全て計算づくであり、覚悟していたことだ。ある程度のダメージも当然想定はしていたが、ド
メキの拷問は範囲内ではあったとはいえ過酷であった。痛哭の悲鳴は半分は演技であった
が、半分は本当だ。さんざん破壊震動を浴びた肉体が、一歩進むごとに崩れかけるのを、女
教師は懸命にこらえて走り続けた。
 
「片倉響子だな」

 突如沸いた声に、真紅のハイヒールが急ブレーキをかける。
 
「館内放送で逃走中とは知っていたが、まさかこの通路を選ぶとはな。笑わせてくれる。あんた
では私を倒すことなどできんよ」

 真っ直ぐに伸びた通路。30mほど先に佇んだ男の背後には、夜の風景が浮かんでいる。こ
の男さえ倒せば、水族館からの脱出は、もう眼と鼻の先だ。しかし、褐色の肌をした幅広の男
から伝わってくる雰囲気は、明らかな強者のそれであった。
 メフェレスが選んだという新たな10人の『エデン』寄生者の正体など、当然響子には知る由も
ない。ただ、恐らくもっとも難敵であろうコンゴウを避けるべく、目立たない脱出通路を選んだだ
けのことだ。
 懸念はあった。目立たぬ通路ならば、逆にそれなりの強者を配置するのは当然有り得る。だ
が、時間のない響子に、じっくりと脱出経路を熟慮する猶予はなかった。
 
「キメラ・ミュータントを生み出したのはあんたらしいな。感謝するぞ。自らの手で作り出した怪
物にひねり殺されるというのも、悪女の最期には相応しいというものだ」

 ズンズンと躊躇ナシの歩みで男が迫る。自信に溢れた壮年男の笑み。この通路を選んだの
は失敗だったのか? 悔やむより前に、響子の左手が断絶の妖糸を無数に飛ばす。
 視界に捉えるのもやっとの繊細な魔糸は、無用心に近付く褐色の男の全身に容易く絡みつ
いた。
 
「・・・これが、名高い片倉響子の妖糸か」

「悪いわね、名前も知らないお兄さん。私にはここから脱出して、やらなきゃいけないことがたく
さんあるの。悪魔に魂を売った代償として、死んでもらうわ」

「残念だが、それは無理な相談だ」

 男の台詞の途中で、響子は全身に巻きついた妖糸を引いた。
 男の衣服が細切れになって通路に舞う。
 だが、鋼鉄すら切断する斬糸は、男の表皮に傷のひとつとして刻めてはいなかった。
 
「あんたが私の名前を知る必要はないよ、片倉響子。なぜなら間もなく、この場で絶命するんだ
からな」

「・・・どうやら、甲殻類とのキメラ・ミュータントってとこのようね」

「よく間違われるのだが、甲殻類ではないのだよ」

 男の背中が丸く膨らんでいく。まるでかたつむりの殻を背負うように。
 巨大化しないまま、半ばミュータントに化身できるというのか。危険を感知した響子の指が動
く。捻り合わせて束になった数本の妖糸は、その切れ味が倍化していた。硬質の表皮を誇る怪
人であっても、今度の斬撃を耐えられるはずはない――。
 確信を持って綻ばせた口元のルージュは、数瞬後には驚愕に引き攣る結果となった。
 殺到した斬撃の妖糸は、男の手前で見えない壁に弾かれたがごとく、方向を乱して地に落ち
た。
 
「私はオウムガイとのキメラ・ミュータントでね。生物学者のあんたには、詳しく説明する必要は
ないだろう」

 アンモナイトとよく似た姿を持つ、頭足類。その見た目から巻貝の一種と勘違いされることも
多いが、実際にはイカやタコと同類のオウムガイは、品川水族館を代表する生物といっても過
言ではなかった。生きた化石とも呼ばれるこの珍しい生物が、硬質な殻を持つのはもちろん、
殻内部の空洞に浮き沈みに利用するためのガスを作り出していることを女教師は知ってい
た。
 硬い表皮とガスによる空流の壁。斬糸を操る響子にとって、目前に立ち塞がる男は最悪の
相性と言ってもいい敵であった。
 
 背後に沸いた気配に、美貌を引き攣らせた妖女がたまらず振り返る。
 異様に手足の長い、長身痩躯の男。
 追っ手が、このタイミングで現れるとは。9人の守兵のうち遊軍を担当する『エデン』寄生者
が、今、背後の道を閉ざしたことを響子は悟る。
 狭い通路の真ん中で、満身創痍の女教師は、逃げ場を失い孤立したのだ。
 
「教えておいてあげよう。そいつはタカアシガニのキメラ・ミュータントでね。もちろんあんたの糸
では、硬い甲羅を持つ彼を簡単に切れやしないよ。ヤツの鋏は、造作もなく妖糸を断つだろう
がね」

 日本最大を誇るカニの能力を引き継いだ追っ手の男が、見せ付けるように右手を突き出す。
 カニ男の右手は、巨大な鋏へと形を変えていた。
 
「・・・ふ・・・フフフ・・・ここに来て、相性の悪い敵ふたりに囲まれることになるとはね・・・」

 妖艶の欠片をどこか漂わせながら、片倉響子はアルトの声で呟いた。
 元々満足に闘える身体ではなかった。ひとり相手にならなんとかかわせるだろうという、皮算
用。妖糸の通じぬふたりの敵に挟まれて、女教師の頭のなかで勝算は木っ端微塵に消し飛ん
でいた。
 
 どうやら、終わったわね。
 ここで死を迎えるのか。あるいは再び虜囚に堕ちて、今度こそ自我が崩壊するまで快楽と苦
痛の煉獄に突き落とされるか。
 謀略に長けるが故にわかる。もはや、あらゆる可能性の芽は摘まれたことを。無様な己を嗤
う響子の全身から、残されたわずかな力が抜け出ていく。
 
 ドシャアアアアアッッ・・・
 
 意識を失った肉体が、白眼を剥いて冷たい通路に崩れ落ちた。
 
「・・・なッ・・・?!!」

 驚愕の声を洩らしたのは、長身のカニ男と、絶望したはずの響子であった。
 オウムガイの男が倒れている。気絶して。白い泡を口から吐き、ビクビクと痙攣を続けてい
る。
 
「きッ、貴様ッッ・・・な、何をッ・・・?!!」

 混乱がカニ男の脳裏を支配する。同志がやられた。それは確実。だが、敵であるはずの片
倉響子自身が、この事態に愕然としている。
 何が起きた?! 誰がやった?! いるのか、響子以外の敵が? 頑強な肉体とガスの壁
を誇る『エデン』の寄生者を瞬時に倒してしまうなんて。誰だッ?! 誰だ、誰だ?!! 一体
どこに侵入者が・・・
 白い稲妻が、走る。
 お前かッッッ、敵はッッ!!!
 一気に懐に飛び込んでくる新たな敵に、カニ男の右手が唸る。鋭い鋏でのカウンターフック。
正体不明の侵入者を、一撃にして刺し殺してくれる。
 
 乾いた音色を残して、カニのフックは容易く受け止められていた。
 ふわりとふたつに束ねられた黒髪が舞う。こいつが、この小娘が、同志を一瞬にして昇天さ
せたのか?! 長身のミュータントは、じっと黒い瞳を向ける愛くるしいまでのロリータフェイス
を見詰めた。
 
「西条・・・ユリッッ?!!」

「・・・響子・・・さん・・・あなたを、助けますッ!」

 風が唸る。激痛の悲鳴を洩らしたカニ男が、ギュルギュルと回転して空中高く飛び上がる。
 想気流柔術の真髄を受けて、『エデン』の守兵の一員は脳天から硬い床へと落とされた。
 妖艶な真紅のスーツと、あどけなさ残る清廉な白セーラー服。
 痙攣するふたりの守兵をあとにして、美女と美少女は激戦寸前の品川水族館を脱して駆け
た。
 目指す先は、守護天使陣営にとって、最後の砦になろう場所―――防衛省。
 そこに、五十嵐里美はいるに違いなかった。
 


 4
 
 なぜ、自分は生まれてきたのか?
 恐らくは、人生で一度は誰もが考える疑問。自分が何者であるかを知るために、きっと答え
など出ないとわかりつつも、ひとはこの難問に頭悩ませてきた。
 オレは運が良かった。すぐに答えがみつかったのだから。
 
 里美がそばにいてくれたから。
 彼女を一生守り続けると決めた。そのために生きていくと誓った。恋人だとか、結婚だとか、
そんな形式にこだわったことはない。ただ、近くにいられれば、良かった。里美を支えていける
のならば、それだけでオレが生まれた意味はあると、ずっと信じて生きてきた。
 里美さえ守れれば、良かった。
 強くなったのは、里美を守るためだった。里美を守ることさえできれば、それ以上の強さなん
て必要なかった。
 
 同じ父親の血を引き継いだ姉弟と知った日から、全てが変わった。
 すぐ見つかったはずのオレの生きていく意味は、幻のように消え去った。
 里美のそばでずっと支えていくはずだったオレは、実は五十嵐家の嫡子たる彼女にとって、
もっとも邪魔な存在だったのだ。
 なんという、滑稽な話。
 五十嵐の家にとって汚点であるオレという存在は、里美のそばどころか、もっとも遠ざかるべ
き人間だった。執事の安藤さんが冷たい視線を向けるのも当然のことだ。あのひとの反応は、
実に正しいものだった。
 
 全てを理解しながら、オレは里美から離れられなかった。
 距離を置くことはあっても、間を空ければ空けるほど、心が里美に絡まっていく。解けない、
感情の鎖。
 愛していたから。里美のことを。
 どうしようもないほどの、恋慕。オレの心の一部は、すでに里美のものだった。胸の奥に棲み
ついた彼女は、表面上をなにで覆っても隠れることはなかった。
 新しい恋をしようとするたびに、胸の内でひょいと里美が顔を出す。
 カワイイと思える少女はいくらもいた。魅力を感じる女性にも何人も出会ってきた。その度
に、心に棲みついた里美が笑う。「早く、私を諦めてね」と。
 
 できるわけねーよ。そんなもん。
 オレの心を奪っておきながら、そりゃねえぜ。わかってんだろ? オレがお前以外を、好きに
なれないってことは――
 
 男は何人もの相手を、同時に愛することができると聞いたことがある。そんなものかもしれ
ん。頭ではそうした言葉も理解はできる。
 だけど、たったひとり、人生でたったひとりだけ、どうしようもなく愛してしまう女性が、この世に
は存在するような気もしている。
 それがお前なんだろ、里美。
 だから、何があろうと、きっとお前のことを諦めることなんてできない。他の誰かと将来結婚す
るようなことがあっても、心の鎖は一生お前から解けることはないだろう。
 
 そう、思っていた。
 だから、絶望していた。オレが生まれてきた意味は、もう二度と見つからないと。
 存在理由を奪われたまま、ただ流されて生きていく。心臓は動いていても、里美を守ることが
許されなくなったときから、工藤吼介という男は死んだのも同然だったのだろう。
 
「七菜江」

 歩みを止めた吼介は、背中におんぶした少女に唐突に声を掛けた。
 
「・・・はい?」

「寒くないか?」

「大丈夫です。先輩の背中、あったかいから・・・」

「前にもこうして、傷ついたお前を背負って歩いたこと、あったな」

「憶えてます。あたしがまだ、ファントムガールになったばかりの頃で・・・あの時から、先輩の背
中はちっとも変わってないです」

「・・・いや、変わったんだ」

「え?」

 お前のおかげで、オレは変われたんだ。
 
「七菜江、オレはお前を守るために生きていく」

 里美。
 ようやく、お前のことを諦められる日が来たよ。
 お前よりちょっとおマヌケで、不器用だけど、ビックリするほど純粋で、真っ直ぐなコなんだ。
 里美。
 オレは七菜江のために、生きていく。
 
「・・・立てるか?」

 頷く背中の少女を、そっと逆三角形の男は下ろす。
 拝借した白のTシャツと黒のホットパンツ。大きめのレザージャケットに身を包んだ藤木七菜
江は、無言で吼介の顔を見上げていた。
 弓張りの月が照らす淡い光に、少女が流す涙の跡が、キラキラと頬を輝かせた。
 
「これから起こることを、お前は黙って見ているんだ。いいな?」

 ショートカットにポンと乗せた格闘家の掌が、グシャグシャと七菜江の頭を撫でる。
 ボロボロと真珠のような雫を瞳から溢れさせ、少女はただ愛する男の顔を見詰め続けた。
 
「・・・来たか」

 風が鳴る。
 雨上がりの九月の夜は、グンと秋らしい肌寒さに支配されていた。
 刻々と迫る、人類敗北のカウントダウン。無人と化した東京の街。
 千代田区北の丸公園の敷地内。靖国神社から眼と鼻の先にあるその場所に、巨大なたまね
ぎにも喩えられる、特徴的な擬宝珠を屋根に乗せた荘厳な建物があった。
 日本武道館。
 武道の聖地とされるだけでなくライブコンサートや格闘技の会場としても著名な威風漂う建築
物を背後にして、今、セーラー服に身を包んだひとりの少女が立っている。
 
 美麗の化身とでも言うべき、美しさであった。
 冷たい風に茶色混じりのストレートが踊る。陶磁器の如き青白き面貌は、天空に輝く月にも
勝る清廉に満ちていた。
 ゴクリと咽喉を鳴らしたのは、藤木七菜江であった。
 五十嵐里美は、これほどまでに美しい少女であったのか。圧倒される。いや、ただ外面だけ
ではない。ある種の決意を思わせる情念が、スレンダーな令嬢の肢体から青き炎のように迸っ
ている。
 ズイ、と一歩を吼介が前に踏み出す。
 見詰め合う。幽玄の美少女と獣臭漂う格闘者とが。まるで己が部外者であるかのような疎外
感を七菜江は自覚した。
 
「久しぶりだな、里美。昨日会ったばかりだってのに」

「・・・そうね。いろいろなことが、起こりすぎたわ。あまりにも、多くのことが」

 10mの距離を置いて、里美と吼介、そして男の背後に控えた七菜江とが対峙する。
 対峙と呼ぶのに相応しい、距離であった。これまで常に隣にいた里美と向き合っていることの
違和感が、七菜江の心を締め付ける。
 
「よく、抜け出せたな。こんな事態だってのに」

「あなた・・・いいえ、あなたたちに会うことは意味があると思ったからよ。でも、時間がないのは
確かだわ」

「そうだな。じゃあ、単刀直入に言わせてもらうぜ」

 風が唸る。人影の絶えた首都を、走り抜ける風が。
 沈黙の後に、工藤吼介は静かに声を放った。
 
「里美・・・お前が持つ最後の『エデン』を、オレに譲ってくれ」

 初めて聞く吼介の言葉に、背後の七菜江が息を呑む。
 
「できないわ。それは」

「もうお前たちが傷つくのは見たくない。オレがやる。たとえこの身が朽ち果てようと、あの悪魔
どもはオレが殲滅する」

「わかっているはずよ。あなたが『エデン』を得たところで、光の戦士になるとは限らない」

「そうだな。どうなるか、わからねえ。オレ自身、闇側のミュータントにならない確証はねえ。だ
から賭けだ。それでもこのまま破滅を迎えるよりは、ずっとマシなはずだ」

「破滅するとは決まっていないわ。まだ私は闘える。ユリちゃんも、それに御庭番衆にだって逆
襲の秘策が・・・」

「無理だ。どんな策を練っていようが、あいつらには勝てねえ」

 まるで作戦の一部始終を予測しているかのように、吼介は言い切った。
 
「お前も本当は気付いているはずだ、里美。やつら・・・手を組んだ3匹の悪魔には、小細工な
んか通用しないってことは。お前やユリ、それに七菜江を加えたところで、あいつらの相手にな
らねえ」

「・・・随分と、ハッキリ言うのね」

「ああ。お前は自分だけ死のうとしているからな」

 一切表情の変わらなかった里美の柳眉が、ピクリと反応する。
 
「だが、ダメなんだ」

 フルフルと男が、弱々しくかぶりを振る。太い眉毛が苦悩に歪む。
 
「わかってんだよ。お前がひとりで死んで、責任取ろうとしてんのは。でも、ダメだ。お前ひとりの
命で事が済むほど、奴らは甘くねえ。七菜江もユリも、全員が殺されるだろう。奴ら3匹を滅ぼ
さねえ限り、お前たちに未来はないんだ」

「・・・やってみなければ、わからないわ」

「奴らはオレが消す」

 ゾクリとするような落ち着いた声で、吼介は言い放った。
 真っ直ぐに射抜いてくる格闘獣の眼光を、凛とした少女は正面から受け止めた。
 
「賭けなのはわかってる。だが『エデン』は寄生時の精神状態が、変身後の姿に大きく影響す
ると聞いた。オレが奴らを潰したい気持ちが確かな以上、きっと大丈夫なはずだ」

「・・・吼介」

「お前を死なせたくない」

 何かに心臓を貫かれたように、くノ一少女の美貌が瞬間歪む。
 
「オレが代わりに全ての決着をつける。お前はもう、闘わなくてもいいんだ。七菜江にも、もう闘
わせるようなことはしない」

 言葉を返そうとして、里美の鈴のような声は詰まった。
 もしそれが許されるならば、どんなに嬉しいことか。
 愛する男が自分のために闘ってくれる。盾になってくれる。妹のように可愛がってきた、朋友
のことさえ守ってくれる。
 有難かった。泣き崩れたいほどに。それが現実となるならば、全ての気を緩めて甘えてしま
いたかった。
 
 でも。
 
「それは・・・できないの」

 胸に渦巻く熱い感情とは裏腹に、冷めた口調で少女は呟いた。
 
「使命だから。私の。吼介、あなたに『エデン』を与えてはならないのは、御庭番衆次期頭領とし
て、私に課せられた使命。なにがあっても、たとえ世界が滅びようともあなたに『エデン』は与え
られない」

「どうしても、か?」

「どうしても。あなたが『エデン』と融合したら、私は吼介を殺さなくてはならない」

 ブルッと震えが爪先から脳天まで、令嬢戦士の脊髄を駆け上がる。
 気を抜けば、涙が溢れそうだった。気力のみで、里美は込み上げる感情を力づくで抑え込
む。
 
「そうか。やっぱりな」

 ガクリと吼介が首を垂れる。脱力に合わせたように、逆三角形の肉体を包んでいた濃密な
“気”が、しぼむように縮んでいく。
 束の間、だった。
 
「わかっていたさ。こうなることは」

 世界が青から紅に、一気に塗り潰されるように。
 男の気配が変わる。急激に。噴火とも言うべき、劇的な変化。
 
 メキョ・・・メキメキ・・・ミシィッ・・・ビキビキビキッッ!!!
 
 虫の音のごとき、奇怪な響き。筋肉が、鳴いている。膨張し、研ぎ澄まされていく筋肉が。
 そのサインの意味するところを、里美も知っている。格闘獣の本気のサイン。真の武力を発
動する時のみの、最強の男の警戒警報。
 
「どうしても拒否すると言うのなら・・・オレはお前から、力づくで『エデン』を奪わなければならな
い」

 五十嵐里美という少女を、誰よりも知るのは吼介であった。
 使命のためなら命も捨てる。愛した男を、手に掛けることすら。
 今、傷つけあうことがどんなに無益で、馬鹿げたこととわかっていても、里美は闘う。課せら
れた、使命のために。
 そんな少女とわかっていて、この場に赴くことを決意したのだ。
 
「ならば、私はあなたを倒すわ」

 美しき生徒会長は、純然たる戦士の顔つきで宣言した。
 空気も凍てつくようであった。月が死を司る星というのなら、きっと月の女神は彼女のことだ。
 
「お前に拳を向けた瞬間、オレは御庭番衆の敵ということになるな」

 下向いたまま、鋼のごとき筋肉の鎧を纏った獣が、静かに呟く。
 
「御庭番のことは、関係ない。これはあくまであなたと私の闘いよ」

「里美、悪いが、全力を出す」

「望むところよ」

「お前を倒し、『エデン』をもらう。そして、悪魔どもを蹴散らしたあと、オレは二度とお前の前に
は現れることはないだろう」

 ゆっくりと最終形態に変形した工藤吼介が、俯いていた顔をあげる。
 泣いていた。
 男臭い顔面をくしゃくしゃに歪ませ、最強と謳われる男は泣き崩れていた。
 
「サヨナラだな、里美」

「・・・ええ」

「オレ、七菜江と生きていくよ。全てが終わったら、七菜江とふたり、ひっそりと生きていく」

「・・・・・・ええ」

「ごめんな。お前のそばに、ずっと一緒にいるはずだったのに。でも、できねえから。オレたち、
許されねえから。七菜江が、お前のこと諦めさせてくれた。オレはこいつのために、これから生
きていくよ」

 秀麗な美貌が天を仰ぐ。
 頬をつたう一筋の涙に、里美は気付くこともなかった。
 
「もう、わかったから・・・・・・我が・・・・・・弟よ」

 キッと美少女の切れ長の瞳が、鋭い光を放つ。
 呼応するかのように、筋肉の集合体と化した格闘の化身が、戦意を一気に解放する。
 轟音と震動がふたつ。
 大地を蹴ったくノ一戦士と格闘獣が、一直線に同時に飛び込んでいた。
 
 ドンンンンッッッ!!!
 
 衝撃が、闇に包まれた日本武道館の屋根を揺るがす。
 かすかな砂塵が秋の風に舞った。陥没した、アスファルトの大地。ふたつの高出力エネルギ
ーがぶつかり合う中心地点。
 
 止まっていた。
 美しき令嬢戦士も、膨張した筋肉獣も。
 
「・・・・・・ナナちゃん・・・・・・」

 激突寸前の里美と吼介の間に静止に入ったのは、ショートカットのアスリート少女であった。
 
「闘わせない」

 藤木七菜江の声が響く。炎の如き決意を滲ませて。
 
「あたしが、闘わせない。里美さんと吼介先輩が闘うなんて、あっちゃいけない」

「・・・どいてくれ、七菜江」

「どきません」

「オレがお前たちの代わりをする。そのために里美が持ってる『エデン』は奪わなくちゃならな
い。危機を乗り越えるためには、他に手はないんだ」

「どんな理由があっても、先輩は里美さんにだけは手を出しちゃダメなんです。絶対に」

 くるりと向きを変えた猫顔の少女が、守護天使のリーダーと正面から対峙する。
 ・・・大きくなったわね、ナナちゃん。
 二日前に会ったばかりの後輩は、目には見えない急激な変化を遂げていた。
 大きなものを失い、そして、大きなものを手にしたのね。
 聖愛学院指定の青いセーラー服を身につけた自分と異なり、七菜江の服装は白のTシャツに
黒のレザージャケットとホットパンツというラフなものだった。もしかしたら、もう二度と、自分を
慕ってくれたこの少女は、同じセーラー服を着ることはないのかもしれない。
 
「里美さん。『第六エデン』を、吼介先輩に渡してください」

「できないと、言ったわ」

「桃子も、夕子も、あんなことになってしまった。先輩は絶対にミュータントになんかなりません。
信じてください! 私たちが勝つには先輩の力を借りるしか・・・」

「吼介がミュータントにならない保証なんて、ない。それ以前に、『エデン』を吼介の手に渡さな
いのは、私に与えられた使命」

「使命なんて、どうだっていい!!」

 ショートカットの少女の叫びに、無人の公園が静まり返る。
 
「あたしの目の前で・・・たくさんのひとたちが殺されてしまった! 桃子も夕子も、魅紀さんだっ
て・・・大切なひとたちが犠牲になってしまったんです!! この現実をどうすることもできないな
ら、ファントムガールなんていなくたって同じです!!」

「・・・あいつらは、私が・・・」

「ベストを尽くせって、教えてくれたの里美さんじゃんッッ!! 目的のために、一番すべきこと
をやるんでしょッ?! 先輩の力を借りることしか、あたしにはわからないッ! あたし、バカだ
から、他になんにも思いつかないッッ!!」

 思わず下を向こうとする己を、里美は必死で制御した。
 どちらが正しいかで言えば、もしかしたら、間違っているのは私の方かもしれない。
 吼介、いいコを選んだわね。
 このコの言葉には、いつも私は反省させられてる気がする。正しくて、真っ直ぐなコ。私には、
このコの真似はきっとできない。
 姉弟だからフラれた、って言い訳は、多分、自分を慰めるための言葉なんだろうな。
 
「それでも私は、吼介に『エデン』を渡すことはできない」

 たとえ正しくないとしても、私にはこうした生き方しかできないから。
 
「あなたにはどうだっていい使命が、私にとっては全てなの。間違っていると思うなら、力づくで
取りに来ればいいわ」

 長い髪の美少女は、鋭利な光を放つクナイを右手に、無駄のない構えを取った。
 七菜江は知っている。これが五十嵐里美の本気の戦闘態勢だと。
 猫に喩えられる吊り気味の瞳で、グッと憧れの先輩を睨む。
 ゾッとするほど怜悧で麗しい美貌が、無表情でアスリート少女を見詰め返した。
 
「来なさい、藤木七菜江」

 里美の台詞が終わらぬうちに、ショートカットはくノ一の懐に飛び込んでいた。
 
「ッッ!!」

 このコ・・・こんなに速かったのッッ?!!
 
 風が過ぎたと感じたのは数瞬後のことだった。
 突き上がる、アッパーカット。風圧が、ヘヴィー級プロボクサーのそれを上回る衝撃を教え
る。避けたのは、肉体が反応したからだった。眼も脳も追いつけてはいない。生死の狭間で細
胞が研ぎ澄まされてきた里美だから、危機を感知した肉体が無意識のうちに退がっていた。
 右手が光を放つ。クナイ。退がりつつ里美は、一瞬浮き上がった無防備な少女のアイドルフ
ェイスに刃を突きつける。その速度に躊躇はない。
 七菜江の上半身が捻れる。伸び上がった無理な体勢から、迎撃しようというのか。まさか。タ
イミング的に間に合うわけがない。
 グシャ、と鈍い音を響かせて、回転した七菜江の肘が、クナイを持ったくノ一の右手甲に突き
刺さっていた。
 
 特殊金属製の凶器が里美の掌からこぼれる。澄み切った、落下音。パクリと裂けた七菜江
の頬から、朱色の珠がツツ、とこぼれる。
 捻りの入ったアスリート少女のグラマラスな肢体は、そのまま勢いに乗るかのごとく下半身か
ら回り始める。
 この動きは――知っている。修練場での手合わせでも、何度も体験したことのある七菜江独
特の体術。常識を超越した運動神経を誇る少女ならではの、高速の回転連撃。独楽のように
回転しながら、両手両脚による打撃の猛爆が息つく暇も与えず繰り出されるのだ。
 
 左の裏拳が飛んで来る。予想済み。反応は容易い。令嬢の細くしなやかな左腕が唸る手甲
をブロックする。
 が・・・重いッッ!! なんてパワー!!
 軋む上腕骨の悲鳴。スレンダーな肢体がグラつく。稽古と本番で、これほどに強さが違うなん
て。思考する脳を追い立てるように、すでに次なる超少女の打撃が視界の隅で空間を裂く。
 左脚の後ろ回し蹴り。まるで稲妻。戦慄すら走る速さと迫力。脇腹に吸い込まれるそれを、膝
を折って高くあげた左脚がすんでのところで防御する。
 衝撃が脳天を貫く。ブロックはきちんと成功しているのに。
 自分より背が低く、年齢もひとつ下のこの少女は、ダイナマイト並みの威力を誇る打撃をそ
の身に備えていた。
 
 マズイ。止めなければ。
 このハリケーンを。回転連撃が本格化する前に止めなければ、打撃の嵐に破壊される。
 肉感的な肢体がさらに回る。次は右のフックか、ミドルキックか。打撃と打撃の合間、わずか
な隙。左脚を空中にあげたまま、残る右脚で里美は跳んだ。
 空気の椅子でも土台にしたかのような、くノ一戦士の魔術的な体捌き。
 有り得るはずのないタイミングで放たれた右ハイキックが、回転する七菜江の顎にカウンター
で叩き込まれる。
 
 新体操の元五輪候補生ならではの体バランスが生む、神業ハイキックであった。
 弾かれたように吹き飛ぶふたりの守護天使。地面を大きく転がり飛ぶ七菜江の肢体が、勢
いを利用してそのまま立つ。
 あのカウンターをもらって、倒れないというのッ?!
 地面を滑るように飛んだ里美が、驚愕に切れ長の瞳を見開く。腹部を押さえるや、その場で
崩れ落ちる。
 
 ハイキックがヒットした瞬間、七菜江の右フックもまた、里美の左脇腹に突き刺さっていた。
 いや、正確に言えば、カウンターが決まった「後」に超少女の打撃は届いていた。威力は恐ら
く半減していたはず。交錯する衝撃をモロに受けたのは七菜江であり、ダメージの大きさは里
美の遥か上をいっているのは確実だった。
 それでも・・・私の方が、地を這うなんて!!
 
 突進してくる。ショートカットの少女が。このスピードは・・・吼介すら上回っている!!
 内臓が締め付けられる苦痛にも構わず、無意識に里美は立っていた。七菜江の脅威に立た
されていた。この暴風のような圧力が、今朝方まで瀕死に追いやられていた少女のものなの
か?!
 ショートカットの稲妻が一息で距離を詰める。風圧。青いプリーツスカートの裾が舞う。ビリビ
リと痺れるまでの気迫と勢いが、すでに目の前に。
 加速の乗ったストレート。七菜江らしい技。単純、だが光速と表現したいほどの恐ろしいまで
の速さ。
 逃げられない。こんな、人智を超えた速度のパンチは。防御すら、並みの『エデン』持ちには
許されまい。
 
 里美の顔面を捉えるはずの拳が空を切ったとき、七菜江の脳は何が起きたかを理解できな
かった。
 消えた、のか? 違う。下にいる!!
 折れるでも、沈むでも、下がるでも、超速度のストレートは避けられない。常人離れした柔軟
性を持つ里美ならではの回避術。『落下する』
 左右に大きく開脚した里美は、上半身を万有引力に任せたまま『落下』させていた。
 これぞ最速の移動法。今、見上げる里美の視線の先には、グラマラスな肢体を無防備に泳
がせた七菜江が、アイドルフェイスを愕然と強張らせている――。
 
 伸び上がる新体操戦士の両脚が、噴射するロケットのごとく猫顔少女の鳩尾を打ち貫く。
 
「ぐぶううゥッッ!!!」

 吐瀉物を振り撒きながら、丸みを帯びた柔らかな肉体が寒空の夜に高々と舞い上がる。愛ら
しいマスクが苦痛に歪む。声にならない悶絶の叫びを、超少女はあげていた。
 跳んでいた。くノ一戦士が。白い月を背景に、見惚れるラインを描いたふたつのシルエットが
重なる。
 
 跳躍の勢いを利した膝蹴りが七菜江の背中を穿つ。振り落とした手刀が白い咽喉元を抉る。
 鮮血を吐くショートカットの少女を、空中で御庭番衆次期頭領は膝を支点に反り曲げる。咽喉
と太腿を押さえられた七菜江の豊満なボディが、Uの字に反り返ったまま脳天を下にして落ち
ていく。
 
 重なったふたりの天使は、地響きとともに土の大地に激突した。
 数秒の沈黙の後、音もなく立ち上がったのは、長い髪の美少女であった。
 切れ長の瞳が見下ろす先で、白目を剥いたショートカットの少女が泡を吹いて転がっている。
 スポーティーな黒髪の後頭部は、ぬかるみの残る泥土にめり込んでいた。
 
「はァッ、はァッ、はァッ・・・」

 荒い呼吸のたびに、セーラー服の青いカラーが激しく上下する。短時間の戦闘で、ここまで里
美が疲弊を示すのは異例の姿と言えた。
 
「・・・次は、あなたが相手なの?」

 茶色がかった長い髪を揺らし、美少女の切れ長の瞳がゆっくりと背後を振り返る。
 岩石が結合したような逆三角形の筋肉獣が、腕組みをしたまま仁王立ちしていた。
 怒りとも悲しみとも取れる眼光。だが、動かない。静かに、マグマが満ちるのを待っているか
のように、じっと佇んだまま動かない。
 
「・・・このコの・・・仇を取るのでしょう?」

「・・・わかってないな、里美」

「『エデン』が欲しければ、私を倒すしかないわよ」

「そういう意味じゃない。お前は・・・藤木七菜江という戦士をわかっていない」

 言葉の意味を察するより早く、背中に湧き上がる気配に衝かれて、里美は弾けるように振り
向いていた。
 立っていた。
 K.O.したはずのグラマラスな少女が、脚をふらつかせながらも立ち上がっていた。
 唇の端に滲む朱色をグイと手の甲で拭き取る。よろめく足取りとは裏腹に、その吊り気味の
瞳には闘志の炎が燃え盛っている。
 
「オレがお前に手を出さないように、七菜江は必死で立ち上がる。その気持ちに報いるために
は、お前たちの闘いを最後まで見届けることしかできない」

 確実に失神する角度で叩きつけたはずだった。たとえ『エデン』の融合者であっても、10分以
上は昏倒から目覚めることはないはずだった。
 呆れる、いや、戦慄するまでのタフネス。
 同じファントムガールのなかでもナナがズバ抜けた耐久力を誇るのは仲間として理解してい
たが、いざ敵として向かい合ったときのアスリート少女の頑強さは予測を遥かに越えていた。
 
「・・・甘さを見せていたら、とてもあなたには勝てない、ということのようね」

 侮っていたのか。いや、決してそんなことはない。ただ、どこかで確実に手を緩めた。
 万が一、死に至らしめることもある覚悟で臨まなければ、この愛らしい超少女を眠らせること
はできない。やらねば、やられる。今度優しさを見せたら、地に眠るのはきっと私の方だろう。
 強い決意が胸の内で玲瓏と磨かれていくのを、里美は自覚した。

「・・・あたし、は・・・全力で・・・いきます・・・ッッ!!」

 七菜江の小さな手が、力強い握り拳を作る。
 その台詞に嘘がないことは、里美もよくわかっていた。もともと嘘をつけない性格だが、七菜
江は全力でしか闘えない少女だ。
 長期戦になれば、必ず体力を枯渇する。それが藤木七菜江の最大の弱点。長引けば、勝て
る。ただ問題は、長期戦まで持ち込めるかどうかだが――
 
 大地が震える。美少女ふたりの距離が急速に縮む。ダッシュをかけ、接近戦を仕掛けたの
は、七菜江ではなく令嬢戦士の方だった。
 近距離戦は本来ならば七菜江のもの、だろう。
 だが敢えて里美は飛び込んだ。七菜江の足元はグラついている。後頭部を打ち付けられた
ダメージは、いまだ完全に拭い取れてはいないはずだ。好機。長期戦など、狙っていてはこの
コには勝てない。潰せるときに、潰さねば。戦士としての経験が、絶好のチャンスを逃すなと肉
体を駆り立てる。
 
 火の出るようなカウンターパンチが、里美の頬をかすめ飛ぶ。
 超速の打撃を神速の体捌きがかわしていた。常人ならば、わかっていても避けられぬ速さ。
猫顔少女の尖った顎が、ガラ空きでくノ一少女の目前に差し出される。
 突き上がる掌底が、乾いた音をたてて七菜江の顔を跳ね上げた。
 伸び上がって浮く、グラマラスな肢体。数瞬、アスリート少女の意識が刈り取られる。
 決める――。一気の決着を求めて、里美の肢体は旋風となって回転していた。
 加速と体重を乗せた渾身の回転後ろ回し蹴り。いわゆるローリングソバット。
 七菜江が斧なら里美は刀。切れ味抜群の一撃が、ハンドボールで鍛えた少女の鳩尾にズボ
リと突き刺さる。
 
「んぐうううゥッッ!!!」

「えッッ?!!」

 超少女のくぐもった呻きと、美麗少女の驚愕の叫びとが起きたのは同時。
 腹筋を抉った里美の右足首を、七菜江の両手が掴んでいる。爪先から伝わる感触は、女子
レベルを遥か超越する腹筋の硬度。誘いだったの?! 四肢の一部を捕らえるために、わざ
とボディに打ち込ませた七菜江の戦術を悟った瞬間、里美の右足は勢い良く捻られていた。
 そのままでいたら、くノ一少女の足首か膝は間違いなく靭帯を損傷していただろう。
 だが里美は跳んでいた。捻られる方向に逆らわず。ギュルギュルと回転する肢体から、空い
た左脚のハイキックが七菜江の側頭部に発射される。
 
 身を沈めたショートカットの頭上を、紺色のハイソックスが風を巻いて過ぎる。
 七菜江もまたさけていた。捕らえた右足首を、腋の下に挟む。狙うは関節技。工藤吼介に稽
古をつけてもらった「かかと固め」ならば、敵をグラウンドに引き摺りこんだ瞬間に極めることが
できる。空中に跳んだ無防備な里美は、地上に落とすには絶好の体勢であった。
 
 パアアァァァッッ・・・ンンッッ!!!
 
 乾いた音色が北の丸公園の敷地中に響き渡る。
 里美の右の平手打ちが、白桃のような七菜江の頬を首が捩れるまでに張っていた。
 足首を離したアスリート少女が、よろよろとふらつく。並みの張り手ではない。『エデン』持ちの
渾身の一発は、幕内力士のそれに匹敵しよう。虚を突かれた一撃に意識を混濁させた七菜江
が、視線を彷徨わせて逃げるように後ずさる。
 
 再びの平手打ちが、今度は左の頬を張った。
 
 張り詰めた肉感的なボディが土煙をあげて大地を滑り飛んでいく。ふっくらとした白い頬は、
りんごのように真っ赤に腫れあがっていた。ヒクヒクと震えるアイドル顔が、撒き散らした唾の
飛沫で濡れている。
 
「あッッ?!!」

 立ち上がろうとする七菜江の肉体は、素早く忍び寄った里美によって組み敷かれていた。
 上半身が里美の体重によって抑えられている。胴体を挟んだくノ一の両脚が巧みにバランス
を取り、七菜江の身体を制御していた。完全なるマウントポジション。訓練したグラウンドでの
攻防を仕掛けようとした超少女は、皮肉にも圧倒的不利な体勢に陥ったのだ。
 大地に組み敷かれた状態から仰ぎ見る里美の美貌は、恐怖を感じるまでに冷たかった。
 張る。七菜江の頬を。左右の平手打ちが、凄まじい速さと迫力で、次々にショートカットの顔
面を揺らす。
 聞き分けのない子供への折檻、というには強烈すぎるビンタの嵐。
 可憐な猫顔が腫れあがるのも構わず、里美は後輩を張り続けた。破裂音が響くたびに、白
い飛沫が七菜江の顔面から舞う。
 
 このまま意識を失うまで、里美は七菜江を張り続けるつもりなのか。
 だがグッタリと四肢を投げ出していた超少女の反撃は、突如として開始された。
 組み敷かれたまま、両脚が跳ね上がる。無理な態勢からのキックは、里美の背中を打つとい
うより、叩く程度で納まった。当然のように、痛みすら里美は感じていない。
 脚の自由は奪われていないとはいえ、ポジション的にその蹴りが里美に届くことはない。その
ように仕組まれているのがマウントポジションなのだ。当たることはあっても、ダメージを与えら
れる打撃など放てない。
 無駄よ、ナナちゃん。哀れむ心を押し殺し、右手を振り上げる里美。再び両脚が跳ね上が
り、背中を叩いたところで委細構うつもりはなかった。
 
 急激な変化が里美を襲ったのは、その時であった。
 浮き上がる、というか、飛翔するような感覚が全身を捉える。世界が90度傾いたような、奇妙
な錯覚。
 ・・・立ち上がったのッッ?!!
 頬を腫らした少女が、吊り気味の瞳をランと輝かせていることに里美は気付いた。重力がこ
れまでと違う方向から働いてくる。七菜江の身体を制御していた両脚は、もはや意味を為して
いないことが理解できる。
 先程の、跳ね上がる両脚。あれは里美を蹴るためのものではなかった。反動をつけて肉体
を起こすため。上半身に乗った里美ごと、七菜江は全身のバネを利して大地から一気に立ち
上がったのだ。
 
 マズい。
 崩れるバランスを懸命に建て直し、態勢を整えるべくいったん距離を取らんとする里美。
 許されなかった。
 跳躍しかけたくノ一戦士の脇腹に、超少女の反撃の狼煙をあげるブローが、轟音とともに吸
い込まれる。
 
「ッッッぐゥゥッッ?!!」

 軋む。全身が。
 たまらずくの字に折れ曲がる、セーラー服の肢体。ただの一撃で、この衝撃なんて。ハッと気
付いた時には、七菜江の追撃弾はすでに発射されていた。
 見えない―――。
 右のキック。わかったのはそこまで。捉えきれない速度のハイキックは、秀麗な美少女の側
頭部にキレイな音色をあげて叩き込まれていた。
 吹き飛ぶ。木の葉のように。ファントムガールのリーダーが、無様に大地を転がっていく。
 
 そう・・・か・・・
 敵意がないのね。だから、私には捉えられない・・・
 
 武術の達人・西条ユリには及ばないにせよ、気を読むことに関してはくノ一である里美の能
力は秀でている。殺意のこもった攻撃を巧みに防御できるのも、気による感知が有効に働いて
いるのは間違いないところだった。
 しかし、今目の前にいる少女の攻撃は、純粋な武力と呼ぶのに相応しいものであった。
 殺意はもちろんのこと、敵意すら感じられない。あるのはスポーツマンとしての、濁りのない
攻撃。単純な運動能力、パワー、スピードならば、七菜江の力は里美を完全に凌駕している―
――。
 
 咆哮する超少女が、一直線に里美の元へ突っ込んでくる。
 呼応していた。麗しき令嬢戦士が。らしからぬ絶叫をあげて、真正面から弾丸となったアスリ
ート少女を迎え撃つ。接近戦での勝利は限りなく薄いと悟っているはずなのに。
 ふたりの守護天使が、固い絆で結ばれた先輩と後輩が、拳を固めて激突する。
 血飛沫が、舞う。肉を打つ鈍い音色が、響く。脚を止めての乱打戦は、女子高生のそれでは
なかった。月のような幽玄の美貌と、チャーミングなアイドルフェイスとが、痛々しく腫れあが
る。衣服がほつれ、素肌には青黒い痣が無数に浮かぶ。
 
 ボクシングの世界戦すら超越した打撃の応酬は、15分以上に渡って続いた。
 
「あ・・・うゥ・・・あァッ・・・」

 明らかにダメージが深いのは、無謀な接近戦を挑んだ里美の方であった。
 両腕をダラリと垂らし、鮮血の糸を唇から流した令嬢は、崩れ掛かる膝を懸命に支えて、ガク
ガクと震えていた。
 爆撃とも形容できる七菜江の豪打が、何発直撃したのかわからない。立ち続けているのが
奇跡的ですらあった。七菜江も蒼ざめるほどのタフネスは、一体何に支えられているというの
か? 確かなのは、ボロボロになった里美がそれでも闘志を失っていない事実だけであった。
 全身の内臓が、悲鳴をあげている。
 呼吸をするだけで、拷問にかけられたような激痛が身体中を引き裂く。あちこちの細胞や血
管を破壊されたくノ一少女の肉体は、もはや崩壊寸前であった。
 だが。
 
「ハァッ、ハァッ、ハァッ、ゲエッ、ゲホゲホオッッ!!! ひゅうゥ〜ッッ、ひゅうゥゥッ〜〜ッ
ッ・・・」

 戦闘で圧倒したはずの七菜江の身は、深刻な酸素不足の苦境に陥っていた。
 ここまでの闘いを判定で争うならば、紛れもなく七菜江に軍配があがっただろう。しかし、全
力少女の体力は限界を迎えていた。里美を追い詰める一方で、七菜江もまた追い詰められて
いたのだ。
 長期戦に持ち込んだ里美の勝利なのか。
 体力が枯れる前に追い込んだ七菜江の勝利なのか。
 
「ゼエッ、ゼエッ、ゼエェッ・・・里美ッ・・・さんッ・・・・・・ハァッ、ハァッ・・・あたしは・・・まだ・・・ハ
ァッ、ハァッ・・・動けッ・・・ますッ・・・」

 拳を握ったショートカットの少女が、ずるずると脚を引き摺りながら踏み出す。酸素と体力を
同時に失い、朦朧と意識が混濁しているのは歩みを見れば明らかであった。だがそれでも、一
歩一歩、確実に5m先で佇む里美のもとへ七菜江は近付いていく。
 
「来なさい・・・ナナちゃん・・・・・・『エデン』を、私から奪いたければ・・・・・・」

 応じる里美は構えを取ることができなかった。
 細くしなやかな令嬢の両腕は、ボコボコに変形し紫色に腫れあがっていた。超少女の猛爆を
受け止めるには、里美の腕では華奢に過ぎた。お互いにもう何度も拳を交わせないのはわか
っている。里美が耐え切るか。七菜江が沈めるか。カウンターを決めるか。連打で押し切る
か。我慢できるか。我慢できないか。恐らく次の激突で、勝敗は決定する。
 
 ドクン
 
 七菜江の心臓が高鳴りを告げる。
 
 ドクンッ・・・ドクンッ・・・ドクッ、ドクッ、ドクッ・・・
 
 ・・・え?!
 違う。
 何かが違う。
 この鼓動は緊張によるものじゃない。里美との決着に備えて、心臓が昂ぶった音じゃない。
 
 ドクンッ・・・ドクンッ・・・ドクッ、ドクッ・・・ドクッ、ドッ、ドッ、ドクドクドクドクッッッ!!!
 
 な・・・
 なんなのッ?! このイヤな感じはッッッ?!!
 
 心臓が、悪意に毟りトラレルヨウナ
 
 たまらず愛くるしい少女は、戦闘中であるはずの美麗な令嬢を見詰めなおした。
 蒼白となった、五十嵐里美の美貌。
 もはや見ていない。里美の視界に自分は映っていない。何かが起こった。愕然とさせる何か
を、里美は決着寸前の闘いすら忘れて凝視している。
 
「フン・・・この期に及んで仲間割れとは。随分とくだらんことをするな、ファントムガール」

 振り返った七菜江は、反射的に戦闘態勢を取っていた。
 忘れもしない。この声。この雰囲気。漂い流れる、濃密な殺意。
 なんということだ。
 最悪のタイミングで、最悪の悪魔どもと遭遇するなんて!
 
「ゲハハハハハァッ!! こいつァ、いいぜ! 極上の獲物が三匹も揃ってやがるとはよォ
ッ!」

「海堂一美ッッッ!!! スカーフェイスのジョーッッ!!!」

 怒号にも似た絶叫が、深閑とした日本武道館の威容を震わせた。
 忘れはしない。忘れるわけがない。金属製の拷問台“キラー・ファントム”に拘束されたまま、
陵辱され尽くした生き地獄を。七菜江の弾くようなボディは破壊されるように嬲られ、滝のよう
に青臭い白濁液を浴びた。発狂を覚悟した絶頂拷問に、我を忘れて哀願の叫びを搾り取られ
た。ショートカットの守護天使に、生涯消えることない傷痕を残した、恐るべき悪魔二匹。魂を
凍らせるような恐怖とともに、胸の内で激しく燃え盛る怒りが七菜江の口から咆哮を迸らせて
いた。
 
 ファントムガール・サクラを絶命させ、ファントムガール・アリスを処刑した、仇敵。
 この身が滅びることがあっても、倒さずにはいられない悪魔ども。態勢を立て直し迎え撃つは
ずが、仲間同士体力を削り合った、こんな最低の状態で出会ってしまうとは・・・!!
 
 距離にして30m。白いスーツに、トレードマークとも言える真一文字のサングラスを掛けた“最
凶の右手”と、分厚い肉体を紫のスーツで包んだ“スカーフェイス”。仁侠の世界から足を踏み
外した殺し屋ヤクザは、堂々と言える態度で日本政府の自衛力の象徴、防衛省の最前まで接
近していた。ここでふたりの守護天使を葬られれば、もはやこの国の防衛線は突破されたも同
然。首都、いや、日本崩壊のカウントダウンは確実に刻まれている。
 
「殺し損ねたお前たち二匹・・・改めて愉しめるかと期待していたのだがな」

「・・・海堂・・・」

「五十嵐里美、失望したぞ。オレたちを迎えるのに、仲間割れするその体たらく。実に気に喰わ
ん」

「ヒャハハハハァッ〜〜〜ッッ!! いいじゃねえですか、海堂さんッ!! ブッチブチッに切り
裂いて、穴という穴ァ、グチュグチュに犯してやりゃあ気も晴れますぜェッ!! どうしますッ?
 このままヤリますかいッ? 海堂さんは五十嵐の小娘にご執心みてェですから、オレは巨乳
のネエちゃんを肉奴隷にッ・・・」

 高笑いする疵で歪んだ顔が、一気に硬直する。
 風圧。左の側面から。
 暴風として叩きつけられたそれは、物理的ではなく強者のみが放つ闘気の風だとジョーは瞬
時に悟っていた。
 
「塞げ。汚ねェ口を」

「てめェとヤルのも待ってたんだよォッ、筋肉小僧ッッ!!」

 30mを、一瞬にして埋めていた。
 膨張した筋肉の鎧を纏った工藤吼介。背中まで振りかぶっていた右拳は、すでに発射されて
いた。
 
 轟音とともに、大地が陥没する。
 
 受け止めていた。格闘獣渾身の一撃を、疵面の恐竜が片手で。
 力と力の衝突で、空間が爆発したかのようだった。踏ん張ったジョーの両足が、陥没した土
の地面にめり込んでいる。
 刹那の空白。再び動き出したのは同時であった。吼介の左拳とスカーフェイスの右手。互い
に空いた片腕が、敵肉体を目指して交錯する。
 
 固められた拳が突如開いたのは、筋肉戦士の左手の方だった。
 握られていた土砂が飛ぶ。飛礫が三白眼に直撃し、予想外の刺激にたまらず殺し屋が視界
を閉ざす。
 吼介の攻撃は、目潰し。決してクリーンとは言えない戦法を先にとったのは最強の呼び名高
い高校生の方であった。だがしかし、スカーフェイスの放った打撃は不意の痛みに委細構わず
突き進んでいく。
 
 重厚な響きとともに、ジョーのボディブローは鍛えられた鋼鉄の腹筋に着弾していた。
 男臭い格闘獣の顔が瞬間歪む。奇襲の眼潰しに怯むことなく、疵面ヤクザの豪打は筋肉の
鎧に到達したのだ。鉛のごとき重々しい衝撃が腹部から背中までを貫く。だが、常人ならば内
臓破裂を避けられぬ猛爆を、幾重にも巻かれた筋肉のカーテンは耐え切っていた。
 
 ヒュンッと風が唸る。
 鞭のようにしなったのは、巌のごとき逆三角形の肉体からは不釣合いなほど、流麗な軌道を
描いた右脚。
 微小な粒子が眼球をジクジクと突く痛みに、たまらず目を瞑ったスカーフェイスが、神速のハ
イキックに気付くわけはなかった。
 
 鉄板を金属バットでフルスイングしたような、破裂音。
 疵面ヤクザの側頭部から後頭部にかけて、芸術的なまでの右上段蹴りが吸い込まれてい
た。足甲に伝わる確かな感覚。揺れた大脳にあわせるように、肉厚なジョーの身体がガクリと
崩れる。
 
 決まった。
 だが、耐えた。
 一本確実な一撃を喰らって、尚スカーフェイスのジョーは倒れなかった。留まる。踏みとどま
る。唖然とした吼介にらしからぬ隙が生まれたのも仕方はない。
 
 グシャアアアッッ!!!
 
 Tレックスを彷彿とさせるヤクザの放った頭突きが、最強高校生の顔面中央に叩き込まれ
る。
 鮮血の飛沫が跳ね上がる。グニャリと曲がった鼻と、紅に染まった口腔。ブプッと血の華を咲
かせながら、異様な筋肉で膨れ上がった肉体がグラグラと数歩を後ずさる。
 
「さっきのは効いたぜェッ、おい」

 懐に忍ばせた愛用の匕首を、ジョーの右手は抜き出していた。
 殺す。もはや遊ぶつもりはない。心臓を一突きにして、このゲームは終了させる。
 一呼吸で間合いを詰めた疵面の殺し屋は、躊躇うことなく冷たい刃を突き出していた。
 
 パシッという乾いた音色とともに、旋回した吼介の左腕は一直線に飛んでくるジョーの凶撃
を、下から上へと弾き飛ばしていた。
 空手でいうところの上段受け。回転力を利用して、敵の弾道をずらす防御のテクニック。
 
「技、使わせてもらうぞ」

 攻撃を無効化されたジョーにできるのは、吼介の反撃宣告を静かに聞くことだけだった。
 
 ドドドドドドドドドドドドッッッ!!!!
 
 一瞬。無防備になった殺し屋ヤクザのボディに、12発の連撃が一気に叩き込まれる。
 まさに猛打のマシンガン。一撃で骨ごと砕く轟爆のブローを12連発で喰らって、無事で済むは
ずはない。浮き上がったジョーの胴体から、立ち昇る煙が見えてくるような錯覚。ヤクザの右手
からポロリと短刀が放れて落ちる。
 だが、最強の高校生、至高の打撃を持ってしても『エデン』を宿した悪魔を仕留めることはで
きなかった。
 
「やっぱりてめェは殺しておく必要があるなァッ、あァッ?!」

 スカーフェイスがニマリと笑う。すでに恐竜のごとき体躯は、反撃の態勢を整えていた。
 再び固めたジョーの右拳が、吼介の顔面を打ち抜く。
 吹き飛ぶ。肉の鎧を纏った逆三角形の身体が。それは信じられない光景であった。ゴロゴロ
と地を転がった吼介は、里美と七菜江のほぼ中間地点で態勢を整え立ち上がる。
 ブッと口腔に溜まった血を吐き出すと、格闘獣は折れた鼻をグチュグチュと強引に元の位置
に戻した。その表情に戦前と比べて特別な変化は見られない。
 
 時間にして数秒。文字通り、最強と最凶の激突。
 
 背筋を駆け上がる戦慄の正体を、里美は自分でも見極めることができなかった。
 本気になった吼介ですら通用しないジョーの強さに脅えているのか。
 それとも、『エデン』の力を借りずに最凶ヤクザと渡り合う男の存在に震えているのか。
 
「初めて会ったときから、てめェとは何か通じるものを感じていたぜェッ!!」

「それはオレに潰される運命だからだ」

「ケッ、ガキがつけあがりやがるッッ!! 守護天使さまとの宴の前に、てめェは最高のオード
ブルだッッ!!」

「待て、ジョー」

 再び突っかけようとする疵面獣を、低く重い声が留まらせる。
 鋭利な死の臭いを撒き散らす男・海堂一美。
 代名詞とも言える“最凶の右手”には、ロシア製の改造トカレフが冷たい銃口を向けて握られ
ていた。
 
「その男は遊び相手にするには危険すぎる。『エデン』と融合する前に、消しておくのが上策だ」

 ファントムガールの抹殺を依頼されたプロの殺し屋として、海堂が懸念する材料はただひと
つ。
 もしこの抹殺計画に破綻の可能性がわずかでもでてくるとすれば、それは工藤吼介が『エデ
ン』を得たときのみ。
 つまずきの芽は摘む。当然のこと。まして奇跡を何度となく実現させている光の守護天使が
相手とあらば、万が一にも逆転の目を残しておくわけにはいかない。
 
「吼介ッッ!!」

 里美の口から絶叫が迸っていた。
 撃つ。ポーズではない、海堂一美は射殺するつもりでトリガーを引く。だが、まともに撃っても
最強を冠する男は恐らく弾丸を避ける。避けることができる男なのだ。信じられないことだが、
この場の誰もが確信できる。里美も、吼介自身も、海堂すらも。
 
 ならば。
 海堂は吼介に向けて、拳銃を撃たない。避けられるから。しかし、吼介の愛する者に銃弾を
放てば、格闘獣はきっと盾となってその凶弾を受けるだろう。
 
“オレがずっと、お前を守り続けるから”

 この期に及んで、なぜそんな昔の台詞を思い出してしまうの?
 
 死と隣り合わせの戦場のなかで、里美は自分自身を激しく憎悪した。
 
 ザッと大地を踏みしめる音がして、逆三角形の肉体が跳ぶ。
 工藤吼介は両手を広げ、膨張した筋肉の身体を盾代わりとして差し出した。
 藤木七菜江の前で。
 
「そうすると、思っていた」

 カチャリと冷ややかな音が響き、海堂が銃口の照準を向きかえる。
 悲痛な叫びをあげるショートカットの少女と、その前で鍛え上げられた身体を張る男。
 
 全てが、スローモーションとなって里美の視界に飛び込んできた。
 暗殺者の指先に力がこもる。
 覚悟を決めた吼介の、迷いのない顔。愛する男を見上げる、必死な七菜江の表情。
 
“オレがずっと、お前を守り続けるから”

 リフレインするかつての台詞。何度も聞いたわけじゃない。でも、ふたりにとって、なによりも
大切だったはずの、遠い約束。
 わかっていたはずよ。
 あなたがあのコを選んだときから。あなたが守るものは、もう私ではないってことを。
 でも。
 でも。
 気付いてしまった。思い上がっていた自分に。
 心のどこかで、最後の最後にはきっと私を守ってくれると勘違いしていた。
 
 海堂の指先が引き金を引く。
 その瞬間、藤木七菜江の身体は、吼介の横をすり抜けて前方へと躍り出した。
 両手を広げる、少女戦士。強い決意の眼差し。
 守る者と守られる者の位置が逆転したとき、改造トカレフの銃声が轟いた。
 
 バシュッ!! バシュッッ!! バシュッッ!!
 
 弾丸が生肉を抉る、低い響き。
 立ち尽くしたまま、一歩も動けないでいた里美の瞳は、全ての事態を見届けていた。
 
 3発の銃弾が、肉体に埋まっていた。
 背後から、藤木七菜江を抱き締めた、吼介の太い腕に。
 愛おしき者を強く、強く、抱き締めた二本の腕。3つの孔から鮮血が噴き出すのも構わず、丸
みを帯びた柔らかな少女を最強の男は抱き続けた。
 
「・・・痛ェ・・・」

「・・・せ、先輩ッ?!!」

「言っただろ。お前を守って生きるって」

 台詞が終わると同時に、背後から回った抱擁の腕が、ダラリと下がる。
 ドシャリと泥土を跳ね飛ばして、吼介はその場で両膝を屈していた。ビッショリと冷たい汗で覆
われた顔。逆三角形の肉体は小刻みに震えていた。
 
「な、なんでッ?!! なんで先輩があたしなんかを守って・・・」

「好きな女を守るのは、当たり前じゃないか」

「でもッッ!! あたしはファントムガールで、守るのはあたしの方でッ・・・」

「関係あるかよ、そんなもんは」

 かすかに男の顔が苦痛に歪む。腕とはいえ、3発もの弾丸を浴びれば激痛で失神するのが
普通だ。
 怒りの咆哮が轟いた。
 一直線にショーカットの少女が鋭利なヤクザへと突進する。躊躇なく向けられた拳銃は、カチ
ャリと弾切れの音をたてた。投げつけられたトカレフが、頬をかすめて飛んでいく。
 
 無謀だ。
 桁外れの強さを誇る悪魔二匹。まして激闘で体力を枯渇させた七菜江に、勝てる道理はな
い。
 この先起こる惨劇を予期しながらも、立ちすくんだ里美の脚は動くことができなかった。
 
 ドボオオオッッ!!!
 鳩尾に“最凶の右手”を突き込まれたグラマラスな肢体が、絶叫と吐瀉物を撒き散らす。
 ふわりと浮き上がった七菜江に忍び寄ったスカーフェイスのジョーが、拳を後頭部に振り落と
す。少女戦士の小さな身体はゴム毬のごとく大地に叩きつけられた。
 踏みつけられる。可憐な守護天使が、凶暴なる悪魔二匹に。顔面を蹴り上げられ、腹部を踏
み抜かれ、メロンのごときバストを踏み潰され。柔肉の潰される凄惨な音色と血の飛沫が静か
な公園に広がっていく。
 
「あぐゥッ!!・・・ぐうッッ!!・・・ごぶッ・・・アアッ、ああァァッ・・・!!」

「ギャハハハハッッ!! 守護天使さまはビクビクと震えることしかできねえかァッ?!」

 純白だったTシャツは、少女自身の流した血で薄黒く変色していた。
 一撃で悶絶する猛打を何十発と疲弊した肉体に打ち込まれ、仰向けに転がったショートカット
の聖戦士は悲痛な呻きを洩らしながら緩慢に揺れ動く。
 最初から闘う力など七菜江には残されていなかったのだ。無力な女子高生は、兇悪ヤクザ
の格好の餌食でしかなかった。
 反撃を試みるようにユラユラと伸びてきた七菜江の右腕を振り切って、高くあげたジョーの右
脚は、豊かに盛り上がった少女の胸を踏み潰した。
 
「あああうううううッッッ―――ッッッ!!!! うぐゥッッ、ぐううッッ・・・!!」

「トドメだ、藤木七菜江」

 冷ややかに宣告した海堂一美の右拳が、悶絶するアイドルフェイスに垂直に叩き込まれる。
 
 グシャアアアアッッッ!!!!
 
 凄惨な破壊音が響くと同時に、緩やかに動いていた七菜江の四肢が、糸が切れたようにドサ
リと地に落ちた。
 ショートカットのほとんどが、衝撃で大地に埋没していた。
 “最凶の右手”が拳を引き抜くや、粘った鮮血が少女の顔面との間に紅い橋を架ける。プシュ
プシュと血の噴き出る生音が、何も言わなくなった七菜江の口腔付近からやけに大きな音量で
漂い流れる。
 
「こいつ、まだ生きてますぜェッ!! さすがはファントムガールッ、しぶとさだけはゴキブリ並
みだァッ!! ヒャハハハハハァッ〜〜ッッ!!!」

 鼓動を確かめるように、盛り上がった左胸をジョーは足の裏でグリグリと踏みしめる。ピクリと
も動かない聖少女の心臓は確かにまだ、その活動を止めてはいなかった。
 だが、口と鼻からゴボゴボと血溜まりを溢れさせる七菜江の薄く開いた瞳には、もはやなん
の光も灯ってはいない。
 疵面の怪物に踏みつけられ、グッタリと横臥する守護天使。潰れて変形した豊かなバスト
が、いかに少女が“モノ”として粗末に扱われているかを示す。顔から溢れた鮮血が、公園の
敷地にじっくりと吸い込まれていく。正義が悪に虐げられる、現実。意識を失った少女に、処刑
の断撃を避ける術があるはずもなかった。
 
「これで、終わりだ」

 “最凶の右手”が再び唸る。垂直に振り落ろされる剛拳。1トンを越える衝撃に、たとえ『エデ
ン』の持ち主であろうと、弛緩した少女の頭蓋骨が耐えられるわけがない―――
 
 右拳が血塗れの猫顔に到達する寸前、弾かれたようにふたりの外道は、昏倒した少女の肢
体から飛び退った。
 元いた場所をクナイの乱射が通り過ぎる。
 わずかのところで女神の抹殺を邪魔された殺人鬼が睨む視線の先には、棒状手裏剣を構え
た、青セーラーの美少女がいた。
 
「ハァッッ、ハァッッ、ハァッッ、ハァッッ!!」

「危ねえ、危ねえ。まだてめえがいたなァッ?! どうやら先に殺されてェらしい」

「五十嵐里美。お前にはファントムガールの象徴として、盛大に死んでもらわねばならない。い
くぞ、ジョー」

 ふたりの兇悪ヤクザの身体が、黒い靄となって霞んでいく。
 敵の戦力が見えない状況では、「先」を考えれば迂闊な巨大化は避けねばならない。だが今
や、戦況は圧倒的に闇の勢力に傾いていた。政府側、つまりファントムガール陣営に残された
戦力は、すでに警戒すべきものではないと見破られている。
 巨大化した姿。ファントムガール・サトミとしての敗北を、人類に見せつける狙いなのは明ら
かであった。
 そして、侵略を目的とした巨大生物が現れた以上、銀色の守護女神はその挑戦から避けて
通ることは許されないのも熟知されている。
 海堂とジョー。暗殺者たちはファントムガール・サトミを公開処刑するつもりで、この地を襲撃
したのだ。里美は全てを理解しつつ、闘いに臨まねばならなかった。
 二体の殺人鬼が完全にその姿を消す。間もなく恐るべき巨大な凶魔が、この日本武道館を
前にした公園に降誕するだろう。
 
 夜の公演に取り残されたのは、顔面を血に染めて倒れている少女と、狙撃され跪く男、そし
て棒状の手裏剣を握ったまま佇む、長い髪の現代くノ一だけであった。
 動けなかった。
 無謀に飛び込む七菜江をサポートしなければならなかったのに、真っ白になった里美は何も
することができなかった。
 ただ目の前で、互いに庇いあう吼介と七菜江を眺めていた。狙撃される吼介を見て、怒りに
駆られる七菜江がリンチを受けるのを見た。それぞれのために、それぞれを想って、ふたりは
傷つき倒れた。傍観者でしかない、里美の前で。
 
 なんて。
 なんて、私は、惨めなのだろう。
 誰も守れず、誰にも守られず。
 私はたったひとりなんだと思い知らされた。
 愛していた男と、かけがえのない友が傷つくのを眺めていただけだった。そしてなによりも、
恥ずべきことは。
 
 嫉妬した。
 
 今、ふたりが倒れているのは、私の無様な感情のせいだった。
 失格だ。守護天使としても。くノ一としても。ひとりの人間としても。
 こんな惨めな私が、人類の希望を賭けて凶魔二匹と闘わねばならないなんて。
 
「・・・里美」

 男から名前を呼びかけられ、セーラー服の肩がビクリと震える。
 
「・・・七菜江を、助けてやってくれ」

 ズシリと響く、言葉だった。
 しばし硬直した里美が、ゆっくりと美貌を幼馴染の男へと振り向ける。
 俯いた工藤吼介の顔は、青白く、冷たい汗で濡れていた。
 赤く濡れた弾丸が3つ、地面に転がっている。腕に埋まった銃弾を、自力で抉り出したという
のか。だが筋肉の膨張が収まり、元のサイズに戻った手負いの格闘獣は、激痛に縛られたよ
うに座り込んだまま動かない。
 
 一歩、吼介の元へと向かいかけた里美の脚が、台詞に促されたように七菜江のそばへと駆
け寄る。
 ひまわりのような笑顔が似合う可憐な美少女は、大地に頭部を埋没させて自らの血に染まっ
ていた。
 薄目を開け、鼻と口から溢れた血糊で顔全体を真紅に濡らした敗北の少女戦士。
 失神した七菜江の無惨な姿を直視した瞬間、里美は己の完敗を悟った。
 
“私には、あなたの真似ができたのかしら・・・”

 吼介は七菜江を選び、選ばれた七菜江はその吼介を守ろうとした。
 ガラガラと遠い約束が崩れていく音色を聞きながら、里美は愛おしい後輩戦士を胸に強く抱
き締めた。
 
 黒い稲妻が二閃、闇夜を裂いて九段下の地に直撃する。
 確認するまでもない。最凶最悪の二匹の巨大ミュータント、降誕の合図。
 黒縄で編んだかのような細身の肉体に白のプロテクター。鋭利な菱形の顔にひとつ眼を光ら
せた凶魔ゲドゥー。
 Tレックスのごとき肉厚な、茶褐色の体躯。マンモスの牙にも似た槍状の両腕を持つ疵面獣
ギャンジョー。
 悪の勝利を宣言すべく、ファントムガール・サトミを抹殺するために送られた刺客。己を殺し
に来た悪魔どもの前に、あらゆるものを失った里美は立ち向かわねばならなかった。
 
“こんな惨めな私に・・・一体なにができるというの・・・”

 グッタリと脱力した七菜江を抱き締めたまま、座り込んだ里美は動くことができなかった。
 『エデン』の持ち主は巨大化変身時、出現場所をある程度は意志の力でコントロールができ
る。ひとつ眼の凶魔と疵面の凶獣はともに、日本武道館から数十m離れたビル群の真ん中に
その姿を現していた。ゲドゥーにせよ、ギャンジョーにせよ、殺人快楽者ではあるが物質を破壊
することに興味はないはずであった。
 
 なぜ、敢えて高層ビルの近くに悪魔どもは出現したのか?――
 
 続けざまに衝撃を受け、打ちひしがれた里美に、若干の判断力の遅れが出たのは無理から
ぬ話であった。
 
 ゲドゥーとギャンジョーが力任せにそれぞれ高層マンションと雑居ビルとを土台から引き抜い
たとき、里美はようやく殺人極道たちが巨大化した狙いを悟った。
 
「吼介ッッッ!!! 逃げてッッッ!!!」

 ああ
 ああ
 私はなんて、愚かなのだろう。
 わかっていたことだった。ここにいる、男女5人。人並み外れた戦闘力を持つ、怪異な者た
ち。
 同じように見える5人でも、ひとりだけ、別種の人間がいる。普通の人間が。
 『エデン』を持たない人間が、ひとりだけ、いる。
 本気の殺し合いとなれば、絶対に敵うわけがないただの人間がひとり――

 引き抜かれたコンクリートの塊が宙を飛ぶ。
 銃撃の痛みに跪いた格闘獣に、天空から降ってくる巨大ビルふたつを、避ける術などあるわ
けがなかった。
 
 巨大建築物墜落の轟音と衝撃が、公園の大地を揺るがす。
 絶叫する里美の眼の前で、工藤吼介の身体は大地に激突するビルの、瓦礫の下に消えてい
った。
 凄まじい土煙と暴風。鼓膜が破れそうな爆音。
 崩壊したビルが瓦礫の山となって、北の丸公園の一角、武道館の真ん前に出現する。
 まるで、工藤吼介の陵墓と言わんばかりのコンクリートの山。
 震える身体を我が手で抱き締め、フラフラと歩み寄る里美の瞳が、あるものを視界に納め
る。
 瓦礫の下から、じっとりと広がっていく、深紅の血の海。
 他になにも反応のないなかで、その毒々しいまでの赤い血は、全ての真実を語っているかの
ようだった。
 
「うァ・・・ウアアアアアアアアッッッッ――――ッッッッ!!!!」

 闇夜を引き裂く令嬢戦士の絶叫。
 光の奔流が巨大な銀と紫の女神、ファントムガール・サトミを生み出した瞬間、殺到した守護
天使が握ったファントム・クラブが、ひとつ眼凶魔の側頭部に吸い込まれた。
 
 
 
 舐めていた、つもりなどなかった。
 
 『エデン』の特質については、政府防衛省も生物科学斑も未だ理解できていないことが多い。
実験データに流用できる被検体が圧倒的に少ないからだ。すでに『エデン』を体内に寄生させ
ている5人の少女たちは、人類にとっては切り札ともいうべき貴重な戦力である以上、無闇に
研究に駆り立てることが避けられていた。といって単体での『エデン』は通称『第六エデン』と呼
ばれるもの、ただひとつしかないのだ。
 こと『エデン』の研究においては、数多くのサンプルを保持するメフェレスらに大きく水を開け
られている。それが政府側研究者の、口には出さない共通の懸念であった。天才生物学者で
ある片倉響子が中途脱退したとはいえ、それまでに彼女が闇側に提供した数々の『エデン』情
報は、きっと相当な脅威となって立ちはだかることだろう。
 
 品川水族館に潜入する、選ばれし特殊国家保安部隊の戦士たち。御庭番衆の血を強く受け
継ぐ彼らの脳裏には、その認識は徹底して叩き込まれていたはずだった。敵は普通ではな
い、と。『エデン』を宿した者は、怪物と呼ぶに相応しい戦力を備えているのだ、と。
 人類の存亡を賭け、悪魔の巣食う水族館に突入した28名の隊員。その全てが相楽魅紀と同
等以上のレベルを誇る実力者ばかり。対するは『エデン』を宿した7人の闇の守兵ども。
 4倍の兵力差に慢心などなかった。
 ただ、単純に、『エデン』の守兵の戦闘力は、御庭番衆の子孫の能力を圧倒的に凌駕してい
た。それだけの、ことだった。『エデン』の奪還を目指して飛び込んだ忍びの末裔の血が、時間
の経つごとに、修羅場と化した薄暗い水族館の内部に流れていく。
 
「コソコソ隠れてないで、出て来い」

 くぐもった低い声が濃厚な血臭漂う空間に響く。死角となった水槽の陰に潜んだ漆黒のレン
ジャー服の男、坂本勇樹一尉は、声に逆らうように気配を押し殺した。
 そっと様子を窺う視線の先に、『エデン』の能力を得た敵がいる。
 口元が赤い血糊で濡れている。坂本以外の同志3名は、すでにこの男のよって亡き者にされ
ていた。
 180cmはあろう恰幅のいいガタイに、鋭い眼光。突き出した下顎に生え並んだ牙を見れば、
このコンゴウという敵がサメのキメラ・ミュータントであることは確信できた。元警察官僚だった
というこの男の周囲では、やたらと多く容疑者が不慮の事故で亡くなっているため、当時からあ
る種の疑惑が警察組織内でも噂されていたのは情報として入っている。
 
 “人食いコンゴウ”
 
 人間を食べる快感に目覚めたという、戦慄すべき噂。特殊国家保安部隊として数々の異様
なケースに対処してきたが、現役警察官僚がひととして忌むべき所業を好むなど、信じがたい
話であった。だが、いまやその噂が真実であったことは、目前の光景が証明していた。
 
 仲間であった隊員の右腕が、ムシャムシャと黄色い牙に噛み砕かれている。
 自分以外、3人の同朋たちは切り裂かれた肉片と化して、冷たいフロアに散らばっていた。コ
ンゴウは生き残った自分を探しながら、彼にとってご馳走である“ひとの肉”を拾いながら貪っ
ている。
 
「自衛隊の一部に忍者の血を引く連中がいるという話は聞いていたが・・・まさかこんな形でや
りあえるとはな。何をしても無駄だということは悟っただろう? 諦めてキレイな死に際を飾った
らどうだ、野ネズミ?」

 思わず歯軋りしそうになるのを、坂本は懸命に抑えた。
 防衛省内でも最上級にあたるトップ・シークレット、ファントムガールの正体である少女のひと
りに、坂本は会ったことがある。会ったといっても、警護として陰から見守っていただけだ。人
工的に造られた肉体を持つ少女は、定期点検のメンテのために三星重工の研究室に現れ
た。鮮やかな赤い髪のツインテールが印象的な、美しい少女であった。
 霧澤夕子という名前のその少女は、普段はどこにでもいる普通の少女、そのままだった。
 『エデン』により飛躍的に戦闘能力が引き上げられてると聞いても、例えば拳銃に撃たれれ
ば無傷で済むとは到底思えなかった。刃物で傷つけられれば、赤い血が当然流れ出るだろ
う。サイボーグという特殊な存在である少女にしても、『エデン』持ちだからといって手も足もで
ないほどの差は感じ得なかった。
 
 だが、このコンゴウは違う。違っていた。
 仲間のひとりはマシンガンでの一斉掃射を浴びせた。弾丸は紛れもなく何十発とゴツい肉体
に着弾した。坂本の知る『エデン』の寄生者ならば、全身に穴を開けて肉片となって吹き飛んで
いたはずだ。
 コンゴウに銃弾は通じなかった。
 全ての弾を受けきって、サメのキメラ・ミュータントは平然と笑ってみせた。効かないのだ。信
じられない話だが、このコンゴウはマシンガンの弾丸を跳ね返す肉体を持っていた。
 
「“鮫肌”ってのはよく言ったもんだよなァ」

 まるで坂本の心の声を聞いたように、コンゴウがひとり語りだす。
 
「オレたちが久慈様から授かった『エデン』は特別でな。巨大化してもたいした力はない代わり
に、通常時の戦闘力を格段に高めることができる。オレならば、サメの力をこの姿のまま発揮
できるってわけだ。そら、よく見てみるがいい。まるで鋼鉄のヤスリで覆われているようだろ?」

 茶化した口調で挑発しながら、掲げた右腕を照明にかざす。コンゴウの皮膚は鎖かたびらで
も着込んだように、ギラギラと反射した。
 やはりそうか。坂本は心の内でひとり納得した。
 政府が解明していない『エデン』の使用法を、すでに敵側は応用している。人間体のまま、極
限まで『エデン』の能力を引き出した兵士。それがこの品川水族館の守兵たちなのだろう。いく
ら御庭番の末裔といえ、太刀打ちできないのは無理からぬ話であった。
 
「そうとわかれば話は早いぜ」

「ほう。本当にノコノコでてくるとは思わなかったぞ」

 ギラリと眼光を輝かせるコンゴウの前に、坂本は物陰から飛び出していた。
 
「お前の強さの正体はちゃんと聞かせてもらったぞ、“人食いコンゴウ”。タネも仕掛けもないと
わかれば、正面から挑むしかないだろ?」

「どうせ死ぬなら真っ向勝負か。いい心掛けだな、若造。だが勝てないとわかっている相手に
挑むのは、単なるバカとも言えるぞ」

「お前らの仲間に殺された相楽魅紀は、オレのフィアンセだった」

 構えたマシンガンの銃口を、坂本はサメのキメラ・ミュータントへ向けた。
 
「任務とは離れた部分で、オレはお前らに貸しがある」

 マシンガンが火を噴く。銃声の連なりが水槽の壁をビリビリと震わせた。
 何発もの弾丸がサメ怪人に着弾し、跳ね返される。数分前に見たのと違わぬ、悪夢のような
光景が再び坂本の眼前で繰り返された。
 
「オモチャは通用しないというのが、まだわかってないようだ」

 コンゴウが動く。力を込めたと見えた瞬間、その恰幅のいい巨躯は坂本との間を一気に詰め
ていた。
 圧倒的なまでの速さ。
 これが、『エデン』を授かった魔物の力なのか。
 
「恋人を殺された男の肉か。哀しみの味はさて、いかがなものか」

 サメ怪人が右腕を振る。フックというより、斧を横薙ぎに払ったような一撃。
 ザクンッッ!!と軽やかな音を残して、マシンガンを構えたレンジャー服の首から上が、キレ
イな断面を見せて消えていた。
 
「ムッ?!」

 軽い。
 あるはずの手応えがないことで、コンゴウは瞬時に全てを理解した。変わり身の術、か。いつ
の間にか本体と入れ代わっていた人形の姿を認めながら、元警察官僚の男は反射的に振り
返る。
 
 天井から逆さにぶら下がった坂本がいた。
 右手に握った、サバイバルナイフ。日本刀の鋭さと鉈の重さを併せ持った現代の忍刀を、御
庭番の末裔はサメ怪人の顔面に突き刺した。
 これなら、どうだ?! 銃弾が効かぬ敵に、考え得る最大の攻撃。だが――。
 
 バキィィィッッッ・・・ンンンンッッ!!!
 
 迎え撃ったサメの顎に生え揃った歯は、特殊金属製のサバイバルナイフを一瞬にして噛み
砕いていた。
 
「なッッ?!!」

 驚愕の叫びをあげる坂本の瞳に、迫るジョーズの顎が映る。
 バクンッッ!!という噛み付きの音が響き、コンゴウの鋭い牙は若き兵士の右腕に食いつい
ていた。
 
「グアアアアアッッッ―――ッッ!!!」

 ブチブチブチブチッッ!!!
 
 絶叫をあげながら坂本は大きく跳び退る。右腕を残して。死を避けるためには、腕を犠牲に
するしかなかった。サメに食い千切られた二の腕が、ビリビリに破れた無惨な切り口を露呈す
る。
 
「フハハハッッ!! さすがに鍛えられた若い肉はうまいな! 相楽魅紀とかいう女の肉も、是
非ご相伴に預かりたいものだ!」

 己の腕がムシャムシャと咀嚼される光景を、坂本は無言で眺めていた。プシュプシュと噴き
出る鮮血の音色のみが若き兵士の放つ全てだった。
 動かない。いや、動けなかった。激しい失血と打つ手のない現実。そして確実に迫る最期の
時。
 任務を果たせぬ不甲斐なさに混じって、結婚を約束していた女のもとへ旅立てる喜びが、か
すかに男の胸に浮かぶ。
 
「貴様らが何人がかりで来ようと、この先には行けん。『エデン』のもとにはなァ」

 骨だけになった右腕をサメ怪人が投げ捨てる。今宵は豪勢な食卓であった。生きのいい新
鮮な肉を、まだたっぷりと堪能することができるのだ。
 獲物の若者は応急処置で右腕の出血を止めたようだった。だが、さほどの意味がないことは
互いにすでに理解している。次の一撃で、この勝負には決着がつくのだから。
 コンゴウが大きく顎を開く。上下に生えた凶暴な牙の連なり。せめて、頭からひと砕きにしてく
れる。慈悲とも悪意ともとれるメッセージを、坂本はただ受け入れるしかなかった。
 
 動く。サメのミュータントが。巨大な口を開き、一直線に動けぬ兵士に突っ込んでいく。
 
「うぬは随分と穢れておるようだ」

 突如、湧き上がった声にコンゴウの動きは止まっていた。
 眼前に男がいる。いつの間に?! 黒の忍び装束に、黒の頭巾。若者の仲間であることは
疑いようがないが、覗き込む鷹のごとき眼光が、圧倒的強者の威厳を備えている。
 
 危険だ。この男は、危険すぎる。
 
 動物的本能が囁く声に促され、サメの牙は瞬時にして標的を目前の黒装束に変えていた。
 ズボオオオッッッ!!
 呑み込む。黒装束の左の肩口まで一息に。鷹の眼光を持つ男の左腕は、丸ごとサメ怪人に
飲み込まれていた。
 
「“鮫肌”といえど、臓腑の内部までは覆ってはおるまいて」

 ブスリと肉を貫く音色が響き、コンゴウの背中から銀色に光る刃が突き出ていた。
 ブツブツと刃が徐々に上がっていく。男がサメの口から腕を引き抜く動作にあわせて。
 腹腔に大量の血が流れていくのを自覚しながら、コンゴウは悟っていた。黒装束の男が、わ
ざと左腕を飲み込ませたのを。いや正確には飲み込ませたのではない。自らサメの口に腕を
突き入れたのだ。柔らかな内臓から肉を切り裂くために。
 
 ズバアアアッッッ!!!
 
 頭頂までを一気に切り裂かれたサメのミュータントが真っ二つに割れていく。
 飛沫となった返り血を浴びながら、現御庭番衆当主・五十嵐玄道は、顔色ひとつ変えることな
く佇んでいた。
 
「げ、玄道さま・・・」

「腕を一本失ったか、勇樹よ」

「はい」

「その顔はまるで、死に場所を無くしたとでも嘆いておるようじゃな」

「はい」

「我らの肉一片、血一滴たりともこの国に捧げるものぞ。無駄死には我が許さぬ。たとえうぬを
愛する者が、黄泉にて待っていようともだ」

「わかっています」

「これより『エデン』の奪取に向かう。これ以上の犠牲を生まぬためにも、一刻も早く使命を果
たさねばならぬ」

 鋭い鷹の眼光を、玄道は遥か前方に飛ばしていた。
 品川水族館名物、トンネル水槽の入り口。
 ぐるり360度を水槽で囲まれた海底のトンネル。エイやウミガメなど巨大な生物も泳ぐこの水
槽内に『エデン』の群れもまた浮遊していた。人類の存亡を賭けた聖戦の鍵を握る宇宙生物
は、あと少しで手の届く距離にある。
 
 あとはただ、最大の障壁である魔人を乗り越えさえすれば。
 
「貴様が里美の父、五十嵐玄道か。娘の前に父を殺すも一興」

 声が響く。美しいと表現してもなんら問題のない、妥当と思えるような声であった。
 だが。
 男の声を聴き、その姿を見た瞬間、坂本の魂は悪魔に握り潰されたように硬直した。
 死ぬ。この男と立ち会えば、己は確実に死ぬ。それも報われることのない、残酷な死に様
で。

 漆黒のシャツにスラックス。端整な容貌は死人のように青白く、戦慄するほど冷たい眼光をた
たえた男が、日本刀を携えて立っている。
 この男が魔人メフェレス。久慈仁紀か。
 配下であるコンゴウの死を平然と見送った悪の首領は、待ちかねたように忍び装束の玄道
を見詰めた。
 
「思ったよりもここに来るまで時間がかかったな。おかげで『エデン』を奪われる前に間に合っ
たが」

「だが、あとはうぬを屠れば『エデン』は我らが手に落ちる。始末をつけさせてもらおうぞ」

「ククク・・・では始める前に、面白い情報をひとつ、貴様に教えてやろう」

 ニヤリと久慈は端整なマスクを歪めてみせた。
 これほど下卑た表情があろうか、というほど醜い笑いであった。
 
「ファントムガール・サトミはすでに敗れた! もはや貴様らの希望は潰えておるわ!」



 菱形の頭部がグラリと揺れる。漆黒の縄で編んだような肉体を白のプロテクターで包んだ凶
魔・ゲドゥー。
 銀と紫の女神、ファントムガール・サトミの一撃を受けた最凶の悪魔が、九段下のビル群に
倒れていく。ナナを圧倒し、サクラを処刑したかつてない強大な侵略者は、地響きとともに立ち
昇る土塵のなかに沈んでいった。
 やむなき状況とはいえ、戦闘に巻き込み建造物を破壊してしまうのは、心痛めるのが常だ。
だが今のサトミにはそんなわずかな悔やみすら、思い浮かべる隙はなかった。胸いっぱいに広
がる感情は、怒り。ただ一色。無法とも言えるやり方で、“一般人”の工藤吼介を排除した二匹
の凶魔を前に、抑え込んできた紅蓮の炎はもはや静まることがなかった。
 
 相楽魅紀を、ファントムガール・サクラを、ファントムガール・アリスを惨殺された。
 そして今また、美女神の生涯に深く関わってきた男が、瓦礫の山のなかへ消息を絶った。
 許せない。もう、感情を抑えられない。
 憎しみと怒り。正義のヒロインに似つかわしくない激情を全開にして、銀と紫の女神が昏倒し
たひとつ眼の凶魔に襲い掛かる。
 
「ああッッ!!・・・あああァッッ!!・・・ウアアアアッッ―――ッッ!!!」

 ドゴッッ!! ゴスッッ!! ドゴゴゴゴゴッッッ!!!
 
 連打。菱形の頭に次々と打ち込まれるファントム・クラブ。洗練された打撃とは程遠い、幼児
がダダをこねるような遮二無二の殴打。
 悪魔そのもののような白と黒の凶魔に馬乗りになった女神が、光の棍棒で滅多打ちにする
光景。明らかな違和を覚える情景ではあっても、正義の使者が優勢である事実に嘘はない。
次々に光の守護天使たちを圧倒的な実力で葬ってきたゲドゥーが一方的に攻められる姿な
ど、誰が予見し得ただろうか。
 
 スッ・・・
 
 影が寄る。サトミの背後に。
 茶褐色の肉体に疵だらけの凶相。殺しを快楽とする暗殺者は、巨躯に似合わぬスピードと気
配を根絶した移動術の持ち主であった。一切の音をたてずにくノ一戦士の背中を取ったギャン
ジョーが、象牙を思わす腕槍をサトミの心臓に狙いを定めて突き出す。
 
 ガキィイッッ・・・ンンッッ!! 硬質の音を放ち、凶器の腕は聖なるクラブに受け止められて
いた。
 後ろ向きのまま、両腕を背中に回したサトミのクラブが、十字になって極太槍の突撃を防い
でいる。見えていたのか?! 予想していたのか?! 無謀に見える一方で、冷静な判断を欠
かしていない守護女神の底力を、スカーフェイスの凶獣は思い知った。
 
 跳ぶ。スレンダーな紫の女神が。ギャンジョーの放った凶槍を支えにして。
 一瞬、槍腕の上に交差したクラブを使って逆立ちしたようなサトミは、すぐに落下の勢いを利
して、直下降の膝蹴りを凶獣の疵面に叩き込む。
 
 グシャリッッ!!! 確かに顔面に膝がめり込む感触が、怒れる天使に伝わってくる。
 サトミの全体重が真上から顔面に落とされたのだ。首や脳にダメージの残らぬわけがない。
少なくとも数秒は脳震盪を起こして満足に動けぬはず――
 そんな都合のいい予想を、サトミはしなかった。
 膝を引き抜き、背後へと跳ぶ。忍びならではの、俊敏な動き。
 ゴオオッッ!!と風を引き裂いて、銀色の美貌の鼻先を尖った腕がかすめ過ぎる。数瞬でも
退却が遅れていたら、女神の肢体は串刺しにされていただろう。
 
「調子にッ・・・乗んじゃねえッッ!! クソアマがァッッ!!」

 連続のバク転で距離を取るサトミ。だが仕切りなおしの猶予を、ギャンジョーは与えなかっ
た。
 追う。回転する女神を。
 一気に間を詰めた疵面の凶獣は、回転を止め、構えを取ったサトミの鼻先にまで迫ってい
た。
 
「くッッ!!」

 視界の隅で、玲瓏たる切れ長の瞳はギャンジョーの左腕がゴワゴワと変形するのを捉えてい
た。知っている。あの二本の腕が、様々な凶器に変形することを。象牙にも似た極太の槍腕
は、スカーフェイス愛用の匕首が巨大変形化したものであり、他の武器にも取って代わること
ができる。ファントムガール・アリスが散々苦しめられた、ギャンジョーの異能力。腕の変化は
危険の合図だ。
 先手必勝。右腕のクラブを美麗の女神が振る。左腕の変形が完成するより前に――。
 間に合わなかった。凶腕の変形はサトミの予想を遥かに上回る速度で進んだ。いや、なによ
りも、クラブを打たせること自体が、ギャンジョーの誘いであったと美天使は悟る。
 
 凶獣の左腕は極太の槍から、栗やウニを連想させる、尖った突起だらけの鉄球へと変わっ
ていた。
 一目で判断できる、粉砕専用の凶器。
 ファントム・クラブを正面から迎撃した棘付き鉄球は、聖なる棍棒をガラスのように微塵に砕
いていた。
 
 ボッッッ!!
 砲撃を放ったような擦過音は、クラブの破砕音に混ざってごく至近距離から届いてきた。
 必殺の腕槍の一撃。パワー、スピード、殺意。全てが最大ランクの、戦慄の凶撃。
 ギャンジョーが全力で放つ刺突は、ファントムガール・アリスが『臨死眼』を得て初めて避ける
ことができたシロモノであった。
 
 ガッキィィィ・・・・・・ンンンンッッッ!!!
 
 最凶を冠する殺し屋ヤクザの疵面が、刹那の瞬間引き攣った。
 受け止めていた。必殺の腕槍が防がれていた。フォース・シールド。ファントムガールが操る
光の盾。守護天使が発揮する持ち技のなかでは、ごくごく基本となっているもの。サトミが発動
したところで、もちろんなんら驚くことはない。
 驚愕すべきは、その形状。
 小さい。ギャンジョーが知っているフォース・シールドと比べて、今サトミが造り出した聖なる盾
は、掌サイズの小ささであり、その分厚みが何倍もあった。
 凶撃の威力に備えて、瞬時に改良バージョンを生み出したというのか。
 その格闘センス。アリスが死と引き換えにしか見切れなかった超速の突きを、極小の盾で受
ける戦闘能力。己の武器を破砕された動揺を引きずらぬ精神力。
 
 これが、麗しき守護天使のリーダー。ファントムガール・サトミか。
 
「ハアッ! ハアッ! ハアッ! ハアッ!!」

 喘ぐような美女神の荒れた息遣いが、凶獣の耳朶を叩き、意識を現実へと連れ戻す。
 奇跡と言ってよかった。幼少より忍びの修練に明け暮れた五十嵐里美にしたところで、ギャ
ンジョー渾身の一撃を完全に見切れたわけではない。ただ直感めいたものが、半ば無意識に
身を動かし惨撃から守ってくれたのだ。同じような成功が何度も重なる自信などなかった。
 だが、動揺を見せた疵面の凶獣が、わずかといえども動きを硬直させた僥倖が、先の展開
を左右した。
 
 ガバリッッとスカーフェイスが牙の揃った口を開く。
 この小娘はッ・・・サトミは疲弊し切っている。攻撃を避けつつも、無形のギャンジョーの圧力
に逼迫している。だからこその荒い息。激しく上下する丸い肩。
 “弩轟”ッッッ・・・・・・この距離で放てば、守護天使は終わる。
 状況の正確な把握から、確実に死に至らしめる手段まで。
 知能において愚鈍に映るギャンジョーだが、戦地における思考は明らかに秀英であった。己
が成すべき行動を導き出すまでの時間は、まばたき数回するまでもないごくわずかな間。
 
 それでも。
 金色のストレートをなびかせる戦女神は、凶獣の上を行っていた。
 疵面獣の白濁した眼に映るもの。それは、己の口先に当てられた、紫のグローブに包まれた
掌であった。
 
「ハンド・スラッシュ!!」

 光の手裏剣がスカーフェイスに打ち込まれる。連続の射出で。火花。煙。爆音。飛び散る鮮
血。
 絶叫とともにグラグラと後退する凶獣。効いたか?! いや、着弾の間際に口が閉じられる
のをサトミは認めていた。耐える。きっと耐え切る。この怪獣にはこの程度では通用しない。一
気に追撃を。勝負手を打つのは今この時ッ!!
 
「ファントム・リボンッッ!!」

 銀の女神の右手から、光の奔流が輝き溢れたと見えた瞬間、白い帯は生きた蛇神のごとく
褐色の凶獣に絡みついた。
 邪悪を滅ぼす聖なる光で編まれたファントム・リボン。締め付けられた闇の肉塊が、帯に触
れた部分からシュウシュウと黒煙をあげて焼け爛れる。頭部から足首まで、白光の渦は幾重
にも幾重にも、隙間なく凶獣の巨躯に巻きついていく。
 
「ウゴォッッ!!・・・グウッッ・・・ウグググオオオッッ―――ッッッ!!!」

「ハアッッ!! ハアッッ!! ハアッッ!! ギャンジョーッッ!!! 過去の全ての罪を償う
時よッッ!!」

 右手から伸びた聖なる帯を、幽玄なる美麗天使が強く握る。白い光が輝きを増す。
 闇の眷属に全身から光のエネルギーを注ぎ込む、サトミ最大の必殺技のひとつ“キャプチャ
ー・エンド”。令嬢戦士に残った全ての破邪の光を捧げば、頑強を誇るギャンジョーといえど、
無事で済むはずはない。
 
 イケる。勝てる。
 魅紀の仇を。
 アリスの仇を。
 無惨に散った友の命に、今こそ報いてみせる―――。
 
「勝ったつもりか? ファントムガール・サトミ」

 全身の血が、凍結したかのようだった。
 周囲の闇が震えている。怯えの感情。真の闇が、本当の恐怖が夜の世界すら呑み込もうとし
ているのか。
 悪意が迫る。足元から這い上がり、脊髄に絡みついていく。駆け登る戦慄に、聖女神は思わ
ず歯を鳴らしそうになった。ズブズブと憎悪の念が肉体を侵食していくのを、サトミは自覚した。
なんという、圧倒的恐怖。突如現れた一匹の悪魔が、勝利を目前に控えたはずの守護天使に
凍えるような死の息吹を吹きかけてくる。
 
 立っていた。白き亡霊のごとく。
 ゲドゥー。“最凶の右手”を持つ凶魔。
 菱形の尖った顎先から、ボトボトと鮮血が垂れ落ちている。クラブでの連続殴打によるダメー
ジであるのは確かだった。凶魔の血も赤いことが、やけに不自然なものに見える。
 
「やってみろ」

 無表情なひとつ眼のマスクが低く呟く。
 荒い呼吸を吐き出し続けるサトミは、ただ両肩を上下させるのみであった。
 
「やってみるがいい、サトミ。お前はもう、終わりだ」

「うッ・・・・・・うあァッ・・・うああああァァァッッ―――ッッッ!!!」

 弾かれたように銀と紫の肢体が動く。両手で光の帯を強く握り締める。
 恐怖に衝き動かされたのか。抑え切れぬ怒りが暴発したのか。わからない。サトミ自身にも
わからない。ただ必殺の意志を込めて、全身から掻き集めた聖なるエナジーを光のリボンに注
ぎ込む。
 
「キャプチャー・エンドッッ!!!」

 ボッッ!!
 発光したリボンが、炎をあげたかのようだった。
 流れる。紫のグローブから、リボンを伝って褐色の凶獣へと。闇を滅ぼす光の凝縮体が、輝く
奔流となって押し寄せていく。
 
「グオオオオオオッッッ―――ッッッ!!!!」

 咆哮。疵面獣の、大地を震わす絶叫。
 次の瞬間、暗黒を封じる女神のリボンは、内側から膨れ上がった爆発的な負のパワーによ
って、ビリビリに千切れて弾け飛んだ。
 
「なッッ?!」

 そんな・・・バカなッッ?!!
 
 幾重にも巻きついたファントム・リボンを内側から破るなんて。いや、だが、光のエナジーが
届く前に、ギャンジョーは持てる暗黒エネルギーを開放していた。キャプチャー・エンドが完成す
る前に、力技でファントム・リボンを破ったのだ。なんという桁外れのパワー!!
 
 ・・・・・・くるッッ!!!
 
 戦士としての直感がサトミを動かしていた。大きく振り上げる右腕。出現する光のリング。
 くる。この機を逃さずに、ゲドゥーがきっと襲撃を仕掛けてくる。技を破られたショックで、さす
がのファントムガールのリーダーも動きに翳りが生まれる。その隙を、ゲドゥーは必ず襲ってく
る。絶対ともいえる確信に衝かれて、サトミは反射的に迎撃の態勢を整えていた。
 隙を襲うゲドゥーに生まれる隙。その隙に乗じて、逆にカウンターを浴びせる―――!!
 
「ファントム・リングッッ!!」

 突っ込んでくるひとつ眼凶魔に投げつけられる、光のスライサー。
 細い首に回転カッターが唸り飛ぶ。これまで何匹ものミュータントを葬ってきた正義の光輪。
紺色のひとつ眼に眩い光が映りこむ。
 サトミにはわかっていた。きっとゲドゥーはリングをかわす。それだけの反射神経を、この凶
魔は十分に持っている。だがそれこそが戦女神の思惑。かわしたはずのリングは、Uターンし
て背後から白い悪魔の首を狩る。新体操の名手の技巧が、驕れる凶魔にトドメを刺す、はずで
あった。
 
 パシッッ!! という乾いた音色を残して、光のリングは“最凶の右手”に容易く受け止められ
ていた。
 闇を裁断する、正義のカッターが。まるでフリスビーでも扱うような軽々しさで。
 ガラスの砕けるにも似た音が大音声で響き、ファントム・リングは粉々に壊れて飛散した。
 
 よけるまでも、ないと言うの?!
 
 数々の巨大生物を葬ってきたファントム・リボンが、リングが、まるで通用しないなんて。真正
面から圧倒的な力で粉砕されるなんて。
 菱形の頭部が眼前に出現する。マズい。射程距離に完全に捉えられたことは、サトミ自身が
よく悟っていた。全身の血が逆流し、肺腑の全てがすくみあがる。
 
 唸りをあげて右拳が顔面へ。ゲドゥーのフック。“最凶の右手”が放つその一撃は、ギャンジョ
ーの凶腕の武器と比較しても、なんら破壊力で劣ることはない―――
 
 轟音。地響き。深紅の飛沫がパッと花咲く。
 吹き飛んでいた。銀と紫の守護天使が。凄まじい勢いで地面を転がり、北の丸公園のほぼ
中央で回転を利して立ち上がる。
 攻撃を受けて尚、すかさず戦闘態勢を整えるその体捌きは見事。だが。
 半開きとなったサトミの口から、喘ぐような吐息とともにボトボトと血の滴りがこぼれでていた。
 
「あぐァッ・・・ゴフッ・・・ハアッ・・・ハアッ・・・」

「ヒットの瞬間にフォース・シールドを張ったか。だが自慢の光の盾とやらも、オレの右腕の前
にはただ衝撃を弱める程度の効力しかない」

 右腕にまとわりついた光の残骸を振り落としながら、ゲドゥーが語る。ギャンジョーの槍に対し
て、ゲドゥーの拳は遥かに接地面積が広い。故に咄嗟に造った光の防御壁も、ギャンジョーに
対して造ったものより大きめの分、厚さを犠牲にしなければならなかった。
 その結果、シールドはベニヤ板のように貫かれ、凶魔の拳は美少女の尖った顎に吸い込ま
れた。
 
「どうやら、現実が呑み込めてきたようだな」

 傲然と言い放つゲドゥーの声に、サトミはただ、荒い呼吸で応えた。
 
「お前の攻撃も防御もオレたちには通用しない。全て、だ。巨大化変身と同時に急襲するのは
いい方法だったが、今のお前のその腕では、オレにダメージを与えることなど叶わん」

 七菜江との激闘で満足に上がらなくなった両腕。底を尽きかけた体力。
 冷静に考えれば、強大すぎる二匹の凶魔を相手に真正面から闘うのは愚の骨頂だった。だ
がサトミは、その無謀な選択をしてしまった。感情に衝き動かされて。
 情を押し殺すべきくノ一として、失格の烙印を押されてしかるべき、愚行。
 だが麗しき戦女神は、あまりにも大切なものを一度に失ったのだ。己の原点すら見失うほど
に。胸の内にポッカリと空いた巨大な空洞は、かつて完璧と呼ばれていた令嬢戦士を脆き少
女へと変えさせていた。
 
“バトンもリボンもリングも・・・私の攻撃は、全て破られた・・・・・・フォース・シールドも、通用しな
い・・・もう私には・・・打つ手がない・・・・・・”

 サトミ最大の必殺技であるディサピアード・シャワーは発動まで4秒の時間を必要とする。む
ろん二匹の凶魔が見逃してくれる猶予ではない。
 体力も、正邪のエネルギーも敵が上。それも圧倒的な差で。
 1秒でも長く、人類史上最悪の侵略者二匹の足止めを使命として帯びたくノ一戦士は、もは
や冷たい現実が己の勝利を許してくれないことを悟った。
 
「・・・それでもッッ・・・私は、逃げるわけにはいかないッッ!!」

 銀色の肢体が激しく輝く。ろうそくの炎が、潰える間際に明るく燃え盛るように。
 琴が奏でるような、凛とつんざく絶叫。光の女神が疾駆する。右手に残ったクラブを握って。
並んで佇む二匹の暴魔に、真正面から突っ込んでいく。
 
「無様だな。ファントムガール・サトミ」

 漆黒の光線が突き出したゲドゥーの両腕から迸る。天高く跳んだ美麗天使が、闇空に銀色の
姿を眩かせる。
 
「“弩轟ォォォッッ―――ッッッ!!!”」

 パカリと開いたギャンジョーの口腔から撃ち込まれる、暗黒の波動砲。空中に浮いたサトミ
に、回避の手段は有り得なかった。
 回転する聖なるリボンが、スレンダーな美体を包み込む。瞬時の判断で繰り出された、サトミ
最高の防御システム。だが。
 残酷な凶獣が放つ、漆黒の弩流が直撃した瞬間、光のリボンは朧ろな粒子と化して四散し
た。
 
「うあああああああッッッ―――ッッッ!!!」

 黒い煙をあげた天使が落下する。四肢をバラバラに投げ出して。右手に握ったファントム・ク
ラブも、表皮を覆った光の粒子も、全てが霧散し消し飛んでいる。
 ギャンジョーの一撃で事実上敗北を迎えた美麗女神が落ちていくのを、ひとつ眼の凶魔が右
手を構えて待ち受ける。
 
「このオレの顔に手を出したのだ。その身で償え、サトミ」

 グワシャアアッッッ!!!
 
 玲瓏たる銀の美貌を、下から突き上げた“最凶の右手”がカウンターで鷲掴む。ガクンと波打
つ抜群のプロポーション。衝撃でサトミの意識が一瞬吹き飛ぶ。
 
「ファントム破壊光線ッッ!! フェイスクラッシュッッ!!!」

 意識を取り戻したサトミを待っていたのは、煉獄の苦痛であった。
 光の女神を滅ぼす、最悪の暗黒光線。超絶を冠するゲドゥーの極大の闇エネルギーが、幽
玄の美を具現化した美少女の顔面から流し込まれる。
 
「キャアアアアアアアッッッ――――ッッッ!!!! アアアアアァァゥゥァアアッッッ〜〜〜ッッ
ッ!!!」

 ブシュウッッ!! ビシュッッ!! グジュッ、ボトボトボトッッ・・・
 
 ゲドゥーの右手と守護天使の美貌の狭間から、鮮血の飛沫が高く舞い上がる。
 暗黒の光がスレンダーな全身を包み、次の瞬間暴発していた。サトミの銀の皮膚を内側から
弾き飛ばして。さながら黒い蛇が、少女の肉を食い破るがごとく。
 グッタリと弛緩した紫の美女神が、顔を鷲掴みにされて吊り下げられる。ぶらぶらと揺れ動く
銀のブーツの先から、網の目のように肢体に描かれた鮮血の糸が、ボトボトと垂れ落ちてい
く。
 
 ヴィッ・・・ヴィーン・・・ヴィーン・・・ヴィーン・・・・・・
 
 胸中央のクリスタルが点滅するのを確認し、ひとつ眼の凶魔は絶叫を途絶えさせた血塗れ
の天使を、無造作に放り投げた。
 公園の中央に、二度バウンドした敗北の女神が、地鳴りを響かせて仰向けに転がる。
 横たわって尚崩れない、均整の取れたスタイル。孔雀の羽のごとく広がった、金色混じりの茶
髪のストレート。しなやかな四肢が、脱力を示して投げ出される。
 日本武道館の傍ら、人類の最後の希望として闇の脅威に立ち向かった守護天使が晒す、残
酷な敗者の姿。
 瞳から、鼻から、口から、耳から・・・泡を立てて噴き出た血潮が、究極とも言える美少女の麗
しき容貌を鮮やかな紅で染め抜いていた。
 
「・・・ぇああッッ・・・ひくふッッ・・・ふぶッ・・・アアァッ・・・アアッ・・・・・・」

 ビクビクッッ!! ビクンッッ!! ヒクッッ、ビグビグビグッッ!!
 
 横臥するファントムガール・サトミの理想的な美女体が、惨敗を象徴するように激しく痙攣す
る。打ち上げられた魚のように。
 ゴボゴボと鮮血混じりの白泡が、桜の花弁を思わす唇から溢れ続ける。血に濡れた端整な
美貌にハッキリと刻まれた悶絶の表情を、一方的な勝利を収めた二匹の暴魔は満足げに見
下ろした。
 
「ヒャハハハハァァッッ〜〜〜ッッ!!! これでオシマイかァッ、守護天使さまの大将よォ
ッ?!! ファントムガールもいよいよ全滅みてえだなァッ、オイッ!!」

「本来なら嬲り者にして愉しむところだが、お前の仲間がオレたちのアジトを襲撃しているのは
わかっている。大量の『エデン』を失うのは、オレらにとっても見逃せないのでな」

 全身が融解していくような苦痛にただ震えるしかない無惨な美女神を、白い凶魔が強引に立
ち上がらせる。羽交い絞めにされた無抵抗のファントムガール・サトミは、万歳の格好で宙に
浮き上がるのみであった。
 
「・・・ァああッ・・・・・・ふぇあッ・・・・・・ゴブッ・・・」

「手っ取り早く処刑してくれよう。誰の脳裏にもこびりついて離れない、残酷な死に様を天下に
晒すがいい。やれ、ギャンジョー。こいつの腹を割き、内臓を引きずり出してやれ」

 ギュイイイ―――ンンンッッッ!!!
 
 寒々しく響く、甲高い機械音。歪んだ笑いを浮かべた疵面が、焦点の合わぬサトミの眼前に
現れる。
 唇を吊り上げたギャンジョーが令嬢戦士に見せつけたものは、ドリルと回転ノコギリに変形し
た己の両腕だった。
 
「ッッ!!!・・・・・・アアッッ・・・アアぁッッ?!」

「ギャハハハハハ!! アリスに続いてもう一匹解体できるとはなァッ!! 今度は全身生身
だからよォッ、どんな臓物拝めるのか、愉しみだぜェェッ!! ヒャッハッハッハッハァッ〜〜ッ
ッ!!!」

「アアァッッ・・・うああッッ・・・や、やめッ・・・・・・やめ、て・・・・・・」

 己の唇から懇願の台詞がでるのを、サトミはどこか遠くで聞いた。
 わかる。本気なのが。ゲドゥーとギャンジョー、この二匹は本気でサトミの肉体を切り裂き、生
きたまま臓腑を掻き出すつもりでいる。ファントムガール・サトミを猟奇的に殺害して、残酷に晒
すつもりでいる。
 覚悟はしていた。戦士として生きる決意をしたときから。
 でも、こんな。こんな酷い死に方をするなんて。
 
「い、嫌ァッ・・・やめェッ・・・やめてェェッッ―――ッッ!!!」

「ヒャッハッハッハァッ――ッッ!!! オラッッ、死ねやァッッ、ファントムガール・サトミィッ
ッ!!!」

 ドリルの切っ先が鳩尾に突きつけられ、ノコギリの刃が鍛えられた腹筋に食い込む。
 バッと真紅の飛沫が噴き上がった瞬間、脳髄に切り込むような鋭痛が美麗な女神を襲った。
 
「イヤアアアアアアアアッッッ―――ッッッ!!!! あぎゃああああッッ〜〜〜ッッッ!!!」

「“破邪嚆矢ッッッ!!!”」

 突如飛来した閃光の矢に、疵面獣の巨躯が反射的に跳ね飛んだ。
 3本、4本・・・唸り飛ぶ、追撃の聖矢。美天使の拘束を解いたゲドゥーが、危険を察して一気
に後方に下がって距離を取る。
 
 グラリ・・・
 膝から崩れていく、銀と紫の麗天使。
 支えを失い大地に沈もうとするサトミの肢体は、黄色い風となって現れた、新たな守護戦士に
よって抱きとめられていた。
 
「・・・・・・ユ・・・・・・リ・・・・・・」

「サトミさん・・・あとは私が・・・やります」

 長く伸びたスレンダーなモデル体型に、不似合いなまでの愛らしいロリータフェイス。
 黄色の紋様とふたつに縛った緑のヘアスタイルが可憐な武道少女は、滲み出る怒りを隠しも
しないで言い放った。
 
「この外道たちは・・・皆さんの仇は・・・私が、とります!」

「てめえェェッッ〜〜〜ッッ・・・何度も邪魔しやがってッ、クソガキがァッッ!! アリスの次はて
めえだァッ、ファントムガール・ユリアァァッッ〜〜ッッ!!!」

 疵面獣の怒号を、丸い瞳が毅然として受け流す。
 一日も経っていない。時間にしてわずか数時間前。激突した疵面獣と童顔の守護天使は、互
いに大切なものを奪われていた。
 一方は殺しのターゲットは逃さぬという自尊心を。
 そして一方は、かけがえのない親愛なる戦友を。
 
「あなたたちは・・・斃します。・・・私が。・・・この手で」

 殺意を全開にする凶魔と凶獣の前に、戦線に名乗りをあげた黄色の武道天使ファントムガ
ール・ユリアは、臆することなく構えを取った。
 
 
 
 5
 
 ひんやりとした濡れた土の感覚が、じわりと背中に広がっていく。
 痛みが身体中、あますところなく疼いていた。熱い。煙が昇っているのではと錯覚するほど、
熱が全身を包んでいる。一度死滅しかかった細胞が急速に回復に向けて代謝しているのを、
取り戻した意識のなかで里美は自覚していた。
 
 負けたのだ。聡明な脳裏は即座に現状を理解した。続けてすぐに、生き延びたのだ、とも。
 覚醒して間を置くことなく、学業でもトップの座を譲ることのなかった生徒会長の思考は、フル
回転を始めていた。ゲドゥーとギャンジョー。二匹の暴魔の前に敗れた私は、大きすぎるダメー
ジが故にファントムガールの姿でいることを保てなかった。変身の強制解除。感覚が正確なら
ば、恐らく10分以上は意識を失い、この冷たい大地に転がっていたはず。
 ユリア。
 ファントムガール・ユリアが処刑寸前だったこの身を救ってくれた。本来ならば、この闘いには
巻き込みたくなかった少女。姉のエリを瀕死に追いやられ、本気で闘うことを許されなくなった
武術少女ユリでは、殺人鬼相手の闘いは危険すぎる。ダメ。私が助けないと。痛哭の叫びをあ
げ続ける肉体に渇を入れ、忍びの末裔である少女はその身を一気に起こそうとする。
 
 立てなかった。
 羽毛のように軽いはずの我が身が、鉛のごとくに重い。力を込めた瞬間、潜んでいた激痛が
稲妻と化して里美の神経と脳髄を焼き焦がす。
 
「あくッ・・・・・・ふぅッ・・・・・・んんッ・・・・・・!!」

 潤んだ唇から洩れ出る苦鳴に構うことなく、強引に長い髪の少女はスレンダーな肢体を立ち
上がらせていた。
 ガクガクと両膝が揺れる。だらりと垂れ下がった腕には、力の破片も感じることができない。
 青のカラーとスカーフ、そしてプリーツスカートが印象的な聖愛学院のセーラー服は、泥土で
黒く汚れたうえにあちこちが焼け焦げ、ほつれていた。ファントムガールの姿で受けたダメージ
は人間体に戻れば何十分の一かに軽減されるが、装着した衣類などにも影響がでる。セーラ
ー服の惨状はそのまま里美が受けたダメージの深さを物語っていた。
 
 倒れていたかった。このまま。激痛に耐えて食い縛る歯の間から、ボトボトと濁った血の珠が
こぼれ落ちていく。
 変身終了後に襲い来る強制睡眠の時間としては、先程まで失神していた時間ではあまりに
足りない。十数分前に敗北を喫したボロボロの令嬢戦士を衝き動かすのは、ただ気力だけ
だ。己の代わりに死地に立ったファントムガール・ユリアを助けなければ。使命感が、傷つき倒
れた守護天使のリーダーを無理矢理に立ち上がらせている。
 
「・・・え・・・?!」

 茶色混じりのストレートを振り乱して、里美が美貌を上向ける。北の丸公園を舞台に闘う、黄
色の天使と凶魔二匹。どんな残酷な光景も覚悟して、里美は聖戦に瞳を凝らした。
 
 衝撃音とともに天高く吹き飛ばされていたのは、ギャンジョーの褐色の巨躯であった。
 流れるような美しい構えを取ったままのユリアの背後に、ひとつ眼の凶魔が迫る。振りかぶる
右の拳。柔術天使の華奢な肢体では、到底“最凶の右手”を喰らって無事に済みそうもない―

 
「気砲ッッ!!!」

 突き出した黄色の両手が、最凶の一撃の威力そのままをゲドゥー自身の黒い腹部に打ち返
していた。力の流れが変身の解けた里美の眼にも見て取れるようであった。
 大地が揺れるほどの重低音。“最凶の右手”による打撃力を己自身のボディに返され、白い
プロテクターに保護された凶魔の身体が宙に浮いて弾け飛んでいく。
 
「ユリアが・・・優勢?!・・・」

 気絶していた10分ほどの空白の間に繰り広げられた戦闘の展望を、里美は瞬時に類推する
ことができていた。にわかには信じられない、でも恐らくは間違っていないはず。殺意を剥き出
しにした二匹の殺人鬼を相手に、優しさを残したままの女子高生が正体である武道天使が、
互角以上に渡り合っている。外見から判断できるダメージの量も、構えた佇まいから伝わってく
る雰囲気も、むしろユリアが暴魔二匹の上をいっている事実を示唆していた。
 怒りがユリアに本気を出させているのか? いや、それはない。
 感情で全力を引き出せるほど、西条ユリが抱えた心理的枷が甘くないことは、実戦でも修練
でもともに長い間闘ってきた里美がよく理解している。サクラとアリス、ふたりの仲間を処刑さ
れた怒りをもってしても、黄色の天使が修羅のモードに入ることは叶わないはずであった。
 
「じゃあ、一体・・・どうして・・・?」

「たいしたコよね。己の実力を最大限に高めるためには、復讐にとらわれないことだときちんと
気付いていた」

 通常の里美ならば、声が聞こえる前にとっくに反応していただろう。
 激しく消耗し、苦痛に意識を絡みとられた今の里美に、忍び寄る人物と妖糸の束を感知する
のはあまりに困難な作業であった。
 香るようでありながらトゲも含んだ薔薇の声に、反射的に跳びさがろうとした瞬間、セーラー
服の女子高生は全身を斬糸に巻きつかれていた。
 
「ぐうッッ?!・・・・・・んくッ!!・・・くぅッ・・・・・・」

「悪いわね、里美。こうでもしないと、今のあなたとは冷静に話ができないと思って」

「・・・・・・き・・・響子・・・・・・」

 腰に手をあて、妖艶と色香を立ち昇らせた女教師が、闇に覆われた世界のなかで一輪の華
のように浮かんでいた。毒々しいまでの、真紅のスーツに身を包んで。
 どこまでも深い憂いを帯びた切れ長の瞳と、策謀に思いを馳せた力のある眼が交錯する。沈
黙のまま、数秒。
 ハイヒールを踏み鳴らして、紅い美女は妖糸に囚われた幽玄の美少女に近づいていった。
数mの距離を置いて立ち止まる。
 数時間前、里美の元を立ち去ったはずの片倉響子は、以前と変わらぬ表情で再び守護天使
のリーダーとの邂逅を果たしていた。
 
「ここに来るまでに、西条ユリとはいくつか言葉を交わしたわ。研究対象としては面白みに欠け
るコだけど、戦士としてはなかなかどうして一級品。全力を出せない現状でどうすればベストの
闘いができるか、ちゃんと答えを出していたわ。つまりは、己の本質を見極めること。復讐に怨
念を燃やしたり、激情に身をゆだねるのは西条ユリ本来の姿ではない。『エデン』は媒体となっ
た人間が持つ性質に反応するものよ。もともと不得意な“怒り”をユリが力に変えたところでタカ
がしれている。それよりも長年積み重ねてきた武の技術に集中する方が、ファントムガール・ユ
リアの戦闘力は飛躍的に高まる」

 いくら怒りを露わにしたところで、ユリアが本気の実力を出せないのには変わりはない。なら
ば感情にこだわるのではなく、幼少よりの稽古で身につけた想気流柔術の真髄を一途にぶつ
けていくことが、天才武道家西条ユリの強さを一番に発揮できる方法のはず―――響子の説
明には説得力があった。
 一心不乱に武道家として、身に修めた技術で闘う。シンプルではあるが、発想としては光明
を見出せる闘い方であった。殺し合いの応酬となれば、優しき女子高生がふたりの殺し屋に勝
てる要素などないのだ。柔術家として極道二名に対してこそ、その暴力と渡り合うことが可能に
なるはずだった。
 奥義の全てを出し尽くして、ユリアは凶獣二匹と闘っている。だからこその優勢。合点はいく。
しかし。
 なぜ、里美を裏切った響子が、まるでユリの仲間のごとく振舞っているのか?
 
「・・・一体何を考えてるの、響子・・・あなたは久慈の元へと走ったはずよ・・・」

「そう思うのは無理もないわね。でも落ち着きなさい、里美。私にとって彼らが消去すべき存在
であるのは、紛れもない真実。以前あなたに語ったことに嘘はないわ」

「まわりくどいことをしないで、殺すなら早く殺せばいいわ! 見ての通り、今の私はあなたの気
持ちひとつで首を落とせるでしょう」

 眉ひとつ動かすことなく、片倉響子が左手の指を大きく開く。
 両手両脚、さらに首と胴とに巻きついた妖糸が、雑巾の最後の数滴を搾り出すように急激に
圧搾を強める。
 しなやかに伸びた令嬢の全身から、ギチギチと骨格の軋む悲鳴が洩れ流れる。
 
「くふぅッッ!!・・・あ、あぐぅッッ!!・・・くぁッ、アアッッ!!・・・」

「落ち着きなさいと言ってるでしょう。束縛して正解だったわ。あなたは危険すぎて、安心して話
もできない」

 皺がよじれるほど、白く細いくノ一少女の首が何重にも巻きついた糸によって絞められてい
く。美貌を紅潮させた里美が激しく咳き込む。
 半失神した美少女が小刻みに震える舌をだらりと投げ出した瞬間、泡だった涎と同時に極細
の仕込み針が、光を反射しながら垂れ落ちていった。
 
「ゲホオッッ!! ゴホッゴボォッッ!! かふッッ!!・・・あがァッ・・・ハァッ、ハァッ・・・」

「少しは冷静になったかしら? あなたの言う通り、殺すことはいつでもできるわ。でも、しない。
その気があったら、あのときにできたとわかっているはずよ」

 四肢を大の字にひろげられ、空中に浮き上がって固定された無様な姿で、里美は落ち着き
を取り戻し始めていた。生殺与奪を完全に響子の掌中に委ねられたことで、開き直れたのか
もしれない。
 響子の言葉は正鵠を射ていた。あのとき・・・青山霊園で里美を裏切り、久慈のもとへ寝返っ
たとき。絶望に打ちひしがれた里美を響子が仕留めるのは、容易い作業であったはずだ。だ
が背信の妖女はむしろ、里美の殺害を断った。“里美をこの手で殺すことはできない”・・・あの
場のあの台詞が本心からのものであることは、捨てられた側の少女戦士も正しく悟っている。
 
「・・・何が、狙いなの・・・?」

 束縛した魔糸から、くノ一少女が全身の力を抜いたことが伝わってくる。抵抗をしない、即ち
里美が話を聞く態勢を整えたことの意思表示であった。
 
「私の目的は『エデン』の研究。前にも話したでしょ。己が支配者であることを証明して権勢欲
に溺れたいメフェレスや、単なる殺人狂のゲドゥー、ギャンジョーとは違う。生物学者として当然
の探求よ」

「・・・『エデン』を研究して、何を企んでいるの?」

「企む?」

「とぼけてもムダよ。ただ研究するだけなら、執拗に吼介に『エデン』を寄生させたがる理由が
わからないわ。強さだけなら、海堂やジョーで遜色はないはず。私の動きを封じたのも、『第六
エデン』を奪って吼介と融合させるためでしょう?」

 蜘蛛の巣に捕らえられたように空中で束縛されたセーラー服の美麗少女と、見上げる妖艶
美女が互いに見詰め合う。
 虜囚と化した守護女神と捕縛した元悪の参謀。対照的な立場のはずの両者は、対等としか
思えぬ口ぶりで会話を続けた。
 
「私なりに考えてみたわ。あなたが久慈の側についたのは、『エデン』の研究のため。そして、
私たちファントムガールはあなたにとっては実験モルモットに過ぎないこと。それらの言葉に嘘
はないと思う。けれど、よく考えてみれば、あなたが異常なまでに執着する人物がふたりいた」

「・・・ふふ、どうやら、さすがの生徒会長は薄々気付いていたようね」

「ひとりは吼介、そしてもうひとりは・・・ナナちゃん。藤木七菜江よ」

 意識が覚醒し、視界が明瞭になった時点で、里美はすぐに気付いていた。昏倒しているはず
の、七菜江の姿がないことに。
 拉致された、というべきか。保護された、というべきか。
 戦闘のダメージで里美が気絶している間に、アスリート少女の身柄が片倉響子に確保された
ことは疑う余地もなかった。ファントムガール・ユリアが暴魔二匹と対等に渡り合っている隙に、
深謀を張り巡らす女教師は着々と準備を進めていたのだ。
 
「『エデン』を利用してあなたは何かをしようとしている。そのための優秀な実験材料として、ナ
ナちゃんと吼介を考えている」

「・・・90点。ひとつだけ、間違いがあるわ」

 胸元に左手を伸ばした深紅の妖女は、透明なケースに入った白い球体を抜き出し、動けぬ
里美の眼の前に突き出した。
 
「・・・新たな、『エデン』」
 
「もうあなたの『第六エデン』は必要ないわ。最初は奪うつもりだったんだけど。わざわざ芝居を
打って品川水族館に潜り込んだのも、全ては『エデン』を得るためよ」

「久慈に降ったのも、そのためだったと言うのね」

「工藤吼介に『エデン』を寄生させることができれば、私の計画の80%は成功したようなもの。
ゲドゥー、ギャンジョーという脅威にも、進化した彼なら対応できるはずよ。でも、いくら説得して
も『エデン』の受け入れは拒否し続けられた。人類の未来のためだと説明してもね。瀕死に陥り
動けなくなった今は、ある意味でこれ以上はない好機でしょうね」

 ギリシャ彫刻のごとき美妖女が、チラリと視線を瓦礫の山に向ける。
 大地に染みをつくった血溜まりからは、生の息吹は感じられない。だがコンクリートの残骸で
出来た小山の下に、最強を冠する格闘獣の肉体が埋まっていることは間違いのない事実であ
った。
 
「里美、彼が『エデン』を拒んだのは、あなたを想ってのことでもある。あなたにはさんざん邪魔
をされ続けたわ。これ以上妨害されないためにも、拘束させてもらったのよ」

「吼介に『エデン』を与えないことは、私に課せられた“使命”よ」

「そう言っていたわね。御庭番衆として、あなた自身の私情には関係なく義務付けられたと。で
も、なぜ国家組織とも言える御庭番衆がひとりの高校生にそこまでの注意を払うのか? 不思
議に感じたことはなかったかしら?」

 口をつぐんだ里美の態度は、言葉に出さずとも答えたようなものだった。
 いくら圧倒的な格闘技術を保持するとはいえ、一個人に政府が脅威を抱くものなのか? わ
ざわざ指定して、まだ謎多き宇宙生物とのコンタクトを、徹底的に避けようとするものだろう
か?
 そしてなにより・・・本当は血の繋がりのなかった男を、異母姉弟として里美の側に置いておく
必要があったのだろうか?
 
「もうとっくに、わかっているはずよ、里美。工藤吼介が何者であるかを」

 執事安藤・・・いや、五十嵐家現当主の玄道が吼介に見せた、過剰なまでの敵愾心。
 『エデン』の存在が明らかになるずっと以前から、五十嵐家の監視範囲下に置かれていた事
実。
 そして、単に努力の賜物と考えられる範疇を大きく逸脱した、現実離れした戦闘力。
 
「・・・吼介が、“特別な存在”であることは気付いていたわ・・・」

「もっとハッキリいったらどう? 幼馴染として、あるいは姉弟として常にあなたが彼の側にいた
のは決して偶然ではない。次期御庭番頭領ともあろうひとが、工藤吼介を“監視するため”に幼
少より近くにいるよう仕向けられたのは、それなりの理由があるはず。そしてあなたは・・・もう
その理由を悟っている」

 押し黙る里美の脳裏に、過去の光景がフラッシュバックして蘇る。
 異常とも言える強さから、もしや、とは思っていた。
 玄道や蓮城の厳しすぎるとも言える吼介への態度に、危険な何かを内包しているとは勘付い
ていた。
 そして決定的にヒントを与えてくれたのは、伊賀の忍び里にて入った洞窟で発見した、『エデ
ン』と思しき姿の化石―――
 
「・・・恐らく・・・『エデン』は、古き時代よりこの地球に存在していた」

 琴のごとく澄み切った声に、深き哀しみを秘めて里美は静かに呟いた。
 
「吼介は・・・すでに生まれながらにして、『エデン』の能力を授かった・・・人間を越えた人間」

 風が鳴る。闇に包まれた美少女と美女の間をすり抜けていく。
 すぐ眼と鼻の先で巨大な女神と悪魔が闘っているとは信じられないほど、夜の公園は静かだ
った。

「・・・異能な存在、それも人類を上回る能力を持った存在に対して、危機意識を高めるのは世
の常と言えるでしょうね。御庭番衆が工藤吼介をマークしたのは、至極当然のことだった」

 腕を組んだ片倉響子は、軽い溜め息を吐きながら言った。
 
「異能力を持った超人は昔からいたはずだわ。この国に限らず、世界各地にね。でも情報処理
が発達した国では為政者によって秘密にフタがされ、遅れている地域では噂の範疇に収まっ
た。そうやって“人間を越える人間”の存在は隠され続けてきたんでしょう。でも、実際にはいた
のよ。ずっと以前から、超人は」

「その超人が・・・『エデン』と融合した人々」

「そう。あくまで推測に過ぎないけど、過去何百年も前から『エデン』は地球に飛来していた」

 詳しい説明を聞くまでもなく、里美は女教師の推論に納得していた。
 忍び里の洞窟で『エデン』らしき化石を発見したときから、響子と同様の発想はすでに芽生え
ていた。いや、むしろ何百年という単位ではなく、何千、何万年も前からあったのでは、とさえ里
美は密かに考えていたのだ。
 『エデン』が宇宙から飛来したものであることに間違いはなく、数年前にひとつの塊のようにな
った『エデン』の群集体が里美の地元に落下した。ファントムガールやミュータントを生み出し
た、現在の聖戦の元を作ったのがこの一団の『エデン』たちだ。
 だが『エデン』はこの時のものが全てではなかった。
 実際にはもっと数多くの・・・無数の『エデン』が宇宙空間を飛んでいたのだ。恐らくは、地球の
公転軌道上に何千万、何億という単位で遥か宇宙の闇より降り注いだのだろう。
 『エデン』を生み出した星がどこにあるのか、いまだに解明はされていないため正確な距離は
わからないが、光の速さで何万年もかかる、という壮大な宇宙空間にあっては百年や千年など
一瞬のこと。江戸時代に飛来したものと現代に飛来したものの元が同じであったとしても、決し
て不思議なことはない。遥か以前から世界中に『エデン』が存在していたとしても、まるで有り得
ない話ではないのだ。
 
「不思議に思ったことはない? 例えば大入道。山のように巨大な妖怪を昔のひとは見たとい
うけど・・・いくら当時の人々だからといって雲なんかと間違えるなんてことがあるのかしら? 
彼らは実際に見てるのよ。巨大な人間をね。つまり・・・」

「『エデン』と融合したひと、ということね・・・」

「その通りよ。河童、天狗、雪女・・・実在するはずがないと思われてる妖怪たちだけど、『エデ
ン』の存在さえあれば肯定は難しくない。彼らが示した不可思議な能力も簡単に説明できる
わ。そして時間が経てば彼らは元の人間に戻るのだから、捕獲例がないのも納得できるという
もの」

「・・・ドラキュラや人魚のような世界各地の伝説の存在も、『エデン』があれば説明できる・・・」

「『エデン』を寄生させた全ての人間が変身能力を発揮したとは限らない。むしろ少ないでしょう
ね。なにしろ、この白い物体がナニモノなのか、理解していないのだから。ただ『エデン』の恩恵
を受けて異常に身体能力や生命力を高めた超人たちが、古くから世界には数多く存在してい
た。その可能性はかなり高いといわざるを得ないわ」

「存在・・・していた?」

 敢えて過去形を使った響子の言葉と、口調に含まれたかすかな揺らぎにくノ一少女の耳は反
応した。
 空中に大の字で磔にされたまま、真っ直ぐに漆黒の瞳を向けてくる里美に、妖艶美女はしば
しの沈黙の後に台詞を紡いだ。
 
「あなたも知ってると思うけど・・・『エデン』を寄生させた女は子供を産めない。つまり子孫を残
せないのよ」

 無意識のうちに唇を噛んでいた里美が、白い咽喉を上下させて生唾を飲む。
 そうだった。女体に寄生した『エデン』は子宮と一体化する。卵巣ごと変化した器官はもはや
ホモ・サピエンスのものではなく、かつていかなる陵辱を受けようとも、守護天使の少女たちが
妊娠する兆候は微塵も生まれなかった。『エデン』を受け入れるということは、女性としての機
能を失うのと同意だったのだ。
 だからこそ、愛する男がいる七菜江も、想気流の嫡子であるユリも、ひとりの人間としての生
を望んだ夕子も、子供が好きな桃子も・・・そして里美自身も、ファントムガールになると決意し
た瞬間に、それぞれが胸に秘めていた願いを捨てていた。女性としての幸せと引き換えに、少
女たちは闘うことを選んだのだ。
 
「私自身、自らの肉体で実験を繰り返したわ。夜毎、男を替えては性交に励んだけど成果はま
るであがらなかった。あるいはと思い、同じく『エデン』と融合したメフェレスとも何度もセックスし
たんだけど、これも効果はなかったわ。それどころかメフェレスが何十人と女の子たちを抱こう
と、妊娠させることはないと判明する始末。『エデン』の寄生者は次代に血を繋げることなく、
次々とその一代で絶えていったと思われるわ」

「ならば吼介が『エデン』の能力を受け継いでいたというのは、おかしな話になるわ」

「そう、そこよ。そこが長くわからない謎だった。そして本来有り得ないはずの存在だからこそ、
工藤吼介は重要人物でもある」

 双眸にランと強い光を宿して、魔性の妖女は言葉を続けた。
 
「『エデン』を持つ人間の子孫は存在しないはずだった。でも、工藤くんの戦闘力は明らかに常
人離れしている。なにより『エデン』の存在が明らかになる前から、政府と繋がる御庭番衆の子
孫が、幼少より彼をマークし続けていた。工藤吼介が超人の血を引く存在であるのはほぼ間
違いないわ。だとしたら逆説的に、『エデン』の血は繋がる、『エデン』寄生者の子孫は残すこと
ができる、ということになる」

 そうか。そういうことだったのか。
 里美のなかで、絡まりあっていた糸が徐々にほどけていく。点と点であった疑問たちが、ひと
つの線として繋がっていく。
 工藤吼介が存在しているということは、超人・・・つまりは『エデン』の寄生者の血を、受け継ぐ
ことができると証明されているようなものだ。これほどの検体を、世界にも名を知られた生物学
者の片倉響子が特別視するのは当たり前のことだと言えた。
 
「それで・・・謎を解明するために、吼介をどうしても掌中に収めたいのね」

 その結論に至るのは、里美としてはごく順当な帰結であった。
 だが、次の瞬間に響子が見せた反応は、くノ一少女の予想とは大きく異なったものであった。
 深紅のルージュを極端なまでに吊り上げた女教師は、不敵なまでの笑顔をその美貌に刻ま
せていた。
 
「謎ならすでに、解けているわ」

「・・・なんですって?!」

「証明はされてない。でも、恐らくこれが正解という推論には、辿り着いている。ずっと以前から
ね。そのうえで、工藤吼介という媒体が必要なのよ」

「『エデン』の血を繋げる方法を・・・子孫を残す方法を、あなたは気付いたというの? そのた
めには吼介の存在が必要だと?」

「里美、あなたたち政府側の人間は、まだまだ『エデン』について、何もわかっていないようね」

 里美の質問に答えずに、突如として響子が会話のテーマを転換する。
 響子らしい高慢さを口調に感じた里美であったが、嘲りの含まれた言葉を否定することはで
きなかった。確かにその通りだ。こと『エデン』の研究に関しては、ファントムガール陣営は女生
物学者にずっと遅れを取っているのは認めざるを得ない。全世界でもっとも『エデン』に詳しい
人物が片倉響子であるのは、疑いようがない事実であった。
 
「まさか、いまだに『エデン』が宇宙生物だなんて思っていないでしょうね?」

「ッッ??! で、でも、『エデン』が大気圏外から飛来してきたのは、国立天文台もハッキリと
確認している事実・・・」

「これは単なる生物なんかじゃない。生きてはいるけど、むしろ兵器と呼ぶのに相応しいわ。言
わば、宇宙の果てのどこかの星で開発された、生物型の兵器」

「・・・生物型・・・兵器・・・ッッ!!」

「そうよ。私たちの感覚でいうと、鎧や銃剣に近いものかしら。『エデン』を装着することで、強大
な戦闘力と高い生命力を手に入れる。どうやら遠い宇宙の先でも、闘争の類いは途絶えること
がないみたいね。地球の人類が核ミサイルや戦闘機を開発するのと同じように、『エデン』も戦
闘の道具として開発されたのよ」

「・・・なんて、ことなの・・・」

 己の唇から洩れるつぶやきを、里美は遥か遠い世界の言葉のように聞いた。
 奇妙には感じていた。生物と呼ぶには、あまりにも『エデン』自体から意志を感じることがなか
った。巨大化を始めとする異能力の数々は、生物が引き起こす現象としては規格外すぎると思
っていた。宇宙の産物という、特殊事態を考慮しても、だ。
 むしろ兵器と考える方が、納得はしやすい。常人を超人たらしめる、生物型特殊アーマー。そ
う考えれば、一般生活には必要と思えないファントムガールの特別な能力が、全て必然の装備
であったと合点がいく。巨大化という異常事態も、各種の光線技も、戦闘のために当然のよう
に配備されたものだったのだ。
 
“闘うために・・・生まれてきたのね。私たち、ファントムガールは・・・”

 偶然では、なかった。たまたま巨大化するのでも、たまたま光線が放てるのでもなかった。
 ファントムガールもミュータントも、闘うための存在だったのだ。
 まるで『エデン』の存在意義に呼応するかのように、光と闇に分かれて両者は死闘を繰り広
げてきた。それが本来の、『エデン』の寄生者の姿なのだ。人類のため、と看板を掲げてはい
るけれど、少女たちは闘いのためにファントムガールとなったのだった。
 
「ちょっと講釈をしてあげるわ。『エデン』の寄生者が巨大化できる仕組みをね」

 胸の内で里美が抱えている衝撃に構うことなく、女教師は台詞を続けた。
 
「あらゆる物質が原子の結合で構成されていることは知っているわよね。もちろんヒトの肉体も
例外ではないわ。『エデン』と融合した者はこの原子間の結合を極端に延長することができる
のよ。感覚としては風船を膨らませるのに似ているかしら。実体が引き伸ばされて大きく見える
けれど、巨大な身体のほとんどは風船でいうところの空気のようなもの。実際の肉体が占める
割合はわずか数%というところでしょうね。巨大化時に受けたダメージが人間体に戻ると大幅
に減少するのはこのためよ」

 “風船でいうところの空気”を生み出すことこそが『エデン』の特殊能力なのだが、そんな奇跡
が起こせる理由は、さすがの天才学者も解明できていないようであった。
 さらに響子は説明を続ける。
 
「面白いのはあなたたちファントムガールのみが持つ、エナジー・クリスタルという水晶体ね。鎧
や武器にも個性があるように、生物型兵器にもまた異なるパターンが存在しているということな
のだろうけど・・・これは電池のようなものと考えているわ。つまりは生命力の貯蓄庫。電池切
れを起こせば活動は停止するけど、充電、即ちチャージすることで再び蘇生可能というわけ。ミ
ュータントと違い、生命力のほぼ全てがこの一点に集中しているという、ファントムガール独特
の装備と言えるわね」

「エナジー・クリスタルについては・・・私たちも研究は進めているわ」

「肉体に激しいダメージを受けても、ファントムガールがしぶとく生きているのはエナジー・クリス
タルに生命力が集中しているおかげね。極端に言えば心臓を貫かれても、クリスタルが無事な
ら生きているはず。逆にここを破壊されれば、漏電と同じで生命力はどんどんと抜け出てしま
い、確実な死を迎えることとなる・・・便利というか不便というか、微妙なところね」

「・・・それで、あなたは他に『エデン』のなにを知っていると言うの?」

 切れ長の瞳に強い光を灯して令嬢戦士が訊く。
 響子が本当に言いたい内容は、こんなことではない。それはわかっている。巨大化やエナジ
ー・クリスタルの説明など、単なる付け足しに過ぎない。
 『エデン』について、考えていることがあるのだ、この天才生物学者は。
 片倉響子が行なってきた、全ての言動の理由があるはずだった。『エデン』に関連した、何か
の理由が。工藤吼介にこだわるのも、自ら身を挺してまで子孫を残せるのか実験したのも、魔
人メフェレスに協力してまで研究に没頭したのも、藤木七菜江に興味を持つのも、全てが一本
の筋で繋がるはずであった。
 まだ響子は言っていない。もっとも重要なポイントを。だから里美は促した。
 
 ふぅ、と軽く溜め息をつくや、深紅の美女はゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
 
「『エデン』が生物型兵器である、ということはさっき言ったわよね?」

「ええ」

 応える里美の声は、どこまでも落ち着いたものであった。
 
「その推測は恐らく間違っていないでしょう。『エデン』は兵器と呼ぶのがもっともしっくりいくシロ
モノよ。でも、こうも考えられる。超人を作り出す『エデン』は、人類を次なるステージへと引き上
げる、鍵となりうる、と」

「・・・ッッ!! あなたは・・・『エデン』を利用して、人類を進化させるつもりなのッ・・・?!」

「さすがに察しがいいわね、里美」

 今度は笑みを浮かべることなく、固まった表情のまま響子は言った。
 
「これまでにも人類は幾度となく進化をしてきたわ。でも、産業革命から始まった科学の進歩は
行き着くところまで来てしまい、人類の進化は行き詰まりを見せている。必要なのよ、新たな進
化が。『エデン』を使って私は人類を、強制的に進化させる。人類の新たな一歩を、私と『エデ
ン』が作り出すのよ」

 血が音をたてて引いていくのを里美は自覚した。美少女の顔色が透き通るように白くなって
いく。
 そうだったのか。考えてみれば、片倉響子が描いた野望は、生物学者としては当然のものだ
ったかもしれない。
 新人類・・・いや、強化人類とでも言うべきか。
 “人間を越えた人間”を響子は生み出そうとしている。『エデン』を利用して。現人類の何倍も
の身体能力と生命力を保持する超人たちを造り、さらにその血が次世代にも受け継がれるこ
とを実証して、やがては強化人類による世界を実現させようというのだ。
 
 大胆かつ尊大すぎる考え、ではある。だが権勢欲と支配欲に駆られただけの久慈の野心に
比べれば、未来への明るい兆しが感じられるという点で雲泥の差があった。里美自身、心の奥
底に灯った、かすかな高揚を否定できなかった。人類から強化人類へ――。少なくとも、ヒトと
いう種族が大幅な進化を遂げることだけは確定的なのだ。もしかしたら、私たちは今、人類の
歴史において決定的な重大分岐点に立っているのかもしれない・・・
 
 だが。
 違う。なにかが胸につっかえる。
 人類の進化。魅力的な言葉だ。片倉響子のしようとしていることは、行き詰った現代の人間
には必要なことなのかもしれない。頭のどこかで理解を示す自分がいる。響子を否定しきれな
い、里美がいる。
 しかし、それ以上に直感的なものが里美の耳元で囁いていた。間違っている、と。
 
「響子、あなたは・・・神になろうというの・・・?・・・」

「・・・その通りよ。私は新たな人類を造り、世界を次のステージへと導く。生物の進化に携わる
者として、これ以上の栄誉が有り得るわけがないわ」

「そんなまやかしの進化を、人類が望んでいるとは思えない」

「まやかしじゃ、ないわ」

 ピシャリと打つように女教師は言った。
 
「『エデン』は生物型兵器として開発された、とさっき教えたわよね。媒体の身体能力を飛躍さ
せるための兵器、つまり元々『エデン』は媒体を強制的に進化させる道具、なのよ。人類の進
化に利用するのは、むしろ正統な使用方法と断じて構わないでしょう」

「けれどもそれは、闘うための進化だわ!」

「戦争のために生み出されたものが通常の生活に還元されるのは、世の道理というもの。核も
原子力エネルギーとして利用されている」

「だからと言って、扱いによっては危険が及ぶとわかっているものを、誰もが進んで受け入れる
とは限らないわ。『エデン』との融合は覚悟と規律を持ち得る者のみになされるべきことよ。巨
大な力を得ることは、場合によっては巨大な不幸を招くこともあるのだから」

「同じようなことを言って、工藤吼介もどうしても『エデン』を受け入れようとはしなかった」

 感情を押し殺した声で響子は言葉を続けた。
 
「私の計画に彼は一定の理解を示してくれていたわ。人類に進化が必要ということも納得して
いたし、そのために『エデン』と融合することは、意味のあることかもしれないとわかっていた」

「吼介には、あなたの真の計画を話していたのね?」

「ずっと以前からね。人類の未来のために、工藤くんが『エデン』と融合することは必要なことだ
と何度も説いたわ。でも彼からはNOの返事しか返ってこなかった。あなたのせいでね」

「私の・・・せい?」

「五十嵐里美が困るから。人類の未来よりも、あなたを悲しませないことを彼は優先させたの
よ」

 唇を噛んだまま、空中に囚われた幽玄の美少女は俯き加減で沈黙した。
 こたえる。こんな時に、そんな言葉は。
 もし吼介が『エデン』を得ていたなら、今頃瓦礫の下に埋もれてなどいなかった。七菜江と無
用な潰しあいをする必要もなかった。あるいは悪魔どもに蹂躙される壊滅的現状を、打破する
ことができていた可能性すらある。
 私ひとりのせいで。私ひとりが使命にこだわったせいで、全ての悲劇は始まったのではない
か。
 
「でも・・・それでも私は・・・使命を果たさねばならなかった・・・」

 茶色の混ざったストレートが流れるように垂れ下がり、麗しき美貌を隠す。囁くような少女の
声は、響子に向けられたものではなかった。
 蜘蛛の糸に絡み取られた令嬢戦士の姿は、やけに惨めなものに映って見えた。もし響子が
その気になれば、今の里美の首を飛ばすのはいとも容易い作業であっただろう。
 その気にはなれなかった。数日をともにしたことで、女教師は美しく、優秀で、万能の生徒会
長の本質を知りすぎてしまっていた。
 
 何もかもを備え持ったと思っていた五十嵐里美は、何もかもを失った少女であった。
 元御庭番衆の嫡子として生まれた少女は、この国を守ることが生きる意味の全てであった。
工藤吼介に『エデン』を寄生させないというのも、課せられた使命のひとつに過ぎない。
 与えられた使命を果たすために、多くのものを少女は奪われていた。想いを寄せる相手も。
かけがえのない友も。普通の高校生としての幸せも、平穏な毎日ですらも。
 誰よりも研鑽し、血と涙と汗を幼少より何リットルも流し続けてきた。全ては使命のために。多
くのものを犠牲にして、努力の積み重ねの末に掴んだものは決して小さいものではないだろ
う。
 でも、努力の果てに手に入れた財産を、里美は自分のためには使わない。使えない。
 この国を、世界を守るために――。血を吐きながら得た修練の結晶は、我が身を捧げるた
めに使われるものだった。己が幸せになるためではなく、使命に殉じるために里美は全てを費
やしてきた少女だった。
 
 哀れだった。
 同情など無縁と思っていた己が、こんな感情を抱いていることに響子は戸惑っていた。苛立
った。だがこの少女を傷つけることに躊躇う自分が確かにいた。
 無用とも思える説明を里美に語り続けるのは、彼女を敵に回したくないという気持ちが根底
にあることに、響子自身も気付いてはいなかった。
 
「『エデン』の血を子孫に残す方法・・・それは何も特別な方法ではなかった。いえ、むしろ、本
来あるべき行動を自然に取ったならば、その血は当たり前のように受け継がれるものだった
のよ」

 ポツリとつぶやく女教師の声を、うなだれたまま囚われの少女は聞いた。
 
「実際に工藤吼介という『エデン』寄生者の子孫が存在しているのだから、考えてみれば当然
だった。『エデン』のことを何も知らなくても、子供はちゃんと産めているのよ。それほど特別な
作業や条件が必要だったとは思えない。普通にしていれば、普通に『エデン』の血は継承でき
る・・・そう考えるのが妥当でしょう」

「・・・普通、に?」

 微妙なアクセントの変化をくノ一少女は的確に拾っていた。
 
「『エデン』が感情に反応する、特殊な存在であることは里美も知っているわよね」

 その瞬間、里美の視界を覆っていた全ての謎は、氷塊が瓦解するかのごとく消え去った。
 
「ッッ!!・・・『エデン』はッ!・・・媒体の精神に反応するッ・・・!! 正しき心も、悪しき心も増
幅させる一方で・・・感情に鋭敏に影響されるッ・・・」

「そう。例えば今のあなたのように、拘束されている状態からファントムガールに変身すること
は・・・」

「できない! なぜなら、“拘束されている”という感覚に、『エデン』が鋭く反応するからッ! 捕
らえられた状態から脱することは不自然だと、自己判断した『エデン』が巨大化を不能にしてし
まう!」

「その通りよ。つまり」

 愛のないセックスに、『エデン』は反応しない。
 
 単なる性交の行為を、『エデン』は子孫を残す作業だと認識しない。そこに愛がなければ。子
孫を残したいという意志と、互いへの本物の愛情を感じ取って初めて、『エデン』は母体に懐妊
を許可する。その能力を新たな生命に受け継がせる。
 
 だから。だからなのか。
 陵辱の限りを尽くされた守護少女たちが、受胎には一切至らなかったのは。
 片倉響子や久慈仁紀がどれだけ乱交に励もうと、ただの一度として着床することがなかった
のは。
 いずれも愛のある行為ではなかった。一方的な姦通だった。あるいはただの遊びだった。『エ
デン』が反応しなかったのは、当然の帰結と言っていい。
 
 ならば。
 愛ある者同士のセックスならば、『エデン』寄生者の子供は産まれる―――
 
「だからッッ・・・・・・・・・ナナちゃんッッッ!!!」

 俯き加減の美貌が跳ね上がる。長い髪が振り乱れる。
 じっと真正面を見据えた里美の瞳は、見えない魔物の姿を追うように大きく見開かれていた。
 
「・・・工藤くんと藤木七菜江ならば、まず確実に子孫は誕生するでしょうね」

 それで。それでッ。それでッ!
 『エデン』の血を引く吼介と『エデン』寄生者の七菜江ならば、文句のない組み合わせ。互い
への愛情も疑いがない。響子がふたりに特別な視線を送るのも当然。
 でも。でもッ。でもッ!
 
「あるいは、工藤くんの相手はあなたでも良かった、のかもしれない」

 里美の胸に渦巻く疑問を、響子は正しく代弁した。
 
「ただ・・・もう、気付いているわよね? 藤木七菜江の正体」

「・・・しょう・・・たい・・・」

「藤木七菜江自身も気付いてないけど・・・不自然に思っていたでしょ? あの異常なまでの身
体能力とタフネス。同じファントムガールであっても、群を抜く潜在的な格闘センス。他のコたち
とは一線を画した根本的な差を感じていたはずだわ」

 ・・・そうだ。
 わかっていた。七菜江が、特別な存在であることは。ともに闘ううちに、異種とも言える能力
の高さを、とっくの昔から気付いていた。
 無意識のうちに、眼を瞑っていた。七菜江と吼介が似た存在であることに。奇妙なまでに、ふ
たりが惹かれあうことに。
 しっかりと現実を見据えていたら、答えはもっと簡単にわかったはずなのに。
 
「藤木七菜江も工藤吼介と同じ、『エデン』の血を受け継ぐ者よ。加えて自らも『エデン』を持っ
た、地球上でもっとも濃度の高い寄生者。だからこそ、工藤くんにも『エデン』を融合させ、ふた
りによる最高濃度の種を造りたいの。あなたを選ばなかったのは、そのためよ」

 工藤吼介をあれほど要注意人物として監視しておきながら、五十嵐家は同じく超人の血を受
け継いだ藤木七菜江を、迂闊なまでに見逃していた。あまつさえ、率先して『エデン』を与える
大失態。
 『エデン』を七菜江に与える決断を下したのは、他ならぬ里美自身であった。
 
 ・・・なんという、無様。
 
“私は・・・もうとっくに使命すら・・・果たせていなかったのね・・・”

 厳密に言えば里美が下された使命は“工藤吼介に『エデン』を渡さないこと”であり、“超人の
血を引く者に『エデン』を渡さないこと”ではない。七菜江に『エデン』を授けたことに非はない
し、ファントムガール・ナナのこれまでの活躍を考えれば、里美の判断は決して間違っていなか
ったことは結果が証明している。
 だが、そんな救いの言葉を掛けてくれる仲間は、いまや里美の周囲には存在していなかっ
た。
 
 戦闘に巻き込んでしまった無垢な乙女たちは、兇刃に散っていった。
 愛する男と無二の親友は、里美の元から去っていった。
 倒すべき凶魔二匹を相手に、成す術もなく惨敗した。
 なにもなかった。里美には、なにも。
 
「・・・ふ・・・ふふ・・・ウフフ・・・」

「・・・里美」
 
「・・・・・・笑えるわ、ね・・・・・・こんな私が・・・守護天使・・・・・・だなんて・・・」

 これほど痛切な笑顔を、響子は見たことがなかった。
 声だけが笑った里美の表情は、胸が張り裂けそうになるほど哀れなものであった。
 
「知っていたわ。あなたが本当は弱い人間だってことは。弱いあなたは、必死になって強い人
間であろうと踏ん張っていた」

 妖糸に絡まれたまま、空中に浮かんだセーラー服の横を響子は通り過ぎる。初めから、里美
を殺すつもりなど、なかった。ただ動きを封じられればそれでいい。工藤吼介に『エデン』を与え
るまでの間。
 公園の一角に突如出現した瓦礫の山に向かいながら、そっと深紅の美女は哀れな少女につ
ぶやいた。
 
「もうあなたは、休んでいいのよ。あとは彼が、全ての決着をつける」

 ドボオオオォォォッッッ!!!
 
 落雷の如き轟音が響いたのは、その瞬間であった。
 正邪の聖戦。新たな動きがあったのか。振り向き、上空を見上げる響子の視界に、これまで
とは異なる光景が飛び込んでくる。
 
 鮮血の破片が舞っている。夜の空に天高く浮かび上がったのは、銀と黄色のスレンダーな肢
体。
 被弾の音色を轟かせたのは、ファントムガール・ユリアの方であった。
 柔術の秘儀で優位を保っていたはずの武道天使が、腹部の中央をボコリと陥没させて宙を
舞っている。脳天から落下していく黄色の女神。あわやの瞬間、華麗に回転しながら受け身を
取った少女戦士は、勢いのままローリングして距離を取る。
 
「ゴボオッッ?!! ゴフッッ!!・・・ぐッ・・・ううぅッ・・・」

「やってくれるな、ファントムガール・ユリア。見事な武の力だ」

 地獄の底から湧きあがってくるような、低いトーンが響く。死を司る声というものがあるなら
ば、ゲドゥーの声はまさにそれであった。戦闘の展開は終始ユリアが優勢であったにも関わら
ず、黒縄で編んだような鋭い肉体からは、さしたるダメージも感じることはできない。
 
「技量はオレたちの遥か上にある。認めよう。だがその真髄、すでに慣れた」

 殺し合いでは暴魔二匹を敵にして、あまりに分が悪い。技の勝負に徹しようとするユリアの作
戦は、的を得ているはずであった。
 だが、連綿と繋がる想気流の技術の粋を、この短い戦闘の間に凶魔は見極めたというの
か。
 
「どうやら、もう長くはもたないようね」

 ユリアと共同戦線を張ったわけではなかった。ただ、西条ユリの戦法を聞いた響子が、勝手
に闘いを合わせただけだ。
 いくら武道天使が全力を傾けても、ゲドゥーとギャンジョー相手に勝てる道理がなかった。ユリ
アは死力を尽くすだろうが、いずれ果てることは眼に見えている。
 それまでに吼介を覚醒させる。あとは聖なる闘士になるのか、邪悪な破壊者になるのか、予
測のつかぬ格闘獣に全てを任せるしかない。ギャンブルの要素が強いとは言っても、響子から
すれば吼介に『エデン』を与えるのは、ファントムガールに任せるよりもずっと勝率の高い選択
であった。
 
 ひとり戦場に挑むユリアに背を向ける。響子がすべきは足手まといにしかならぬ闘いに参加
することではなく、一刻も早い、最強生物の生誕。
 瓦礫に向かおうとした深紅のヒールが、ピタリと止まった。
 
 一陣の風とともに上空から降ってきたのは、ビリビリに破れたセーラー服に身を包んだ、麗し
き長い髪の戦士。
 
 破れた制服の隙間から、無数に刻まれた切り傷と滲む鮮血が映る。抜け出したのか。強引
に。あの妖糸の拘束を。
 瞬間、響子は悟っていた。くノ一の体術のみが、里美を戒めから解放したのではない。明ら
かな、躊躇い。守護少女の肢体にきつく巻きついたはずの斬糸は、かつてよりかなりの遠慮が
あったことを響子自身が知っていた。
 
 重く、低い、響き。
 
 プロボクサーも感嘆するような、下から突き上げるボディアッパーを繰り出していたのは、藤
の花のごときたおやかさを持った華奢な少女であった。
 確かな技術と秘めたパワーに裏打ちされた一撃が、女教師の鳩尾を正確に射抜いている。
 響く。打撃が全身にビキビキと広がっていく。息の詰まる圧迫感に、響子は己の肉体もまた、
度重なる激闘に限界を迎えつつあることを悟った。張り付いたような激痛に脚を震わせなが
ら、心身ともにボロボロに擦り切れたはずの令嬢戦士を、西洋風美女はゆっくりと真正面から
見詰める。
 
「ごめんなさい」

 大粒の涙が、切れ長の瞳から溢れだしていた。
 
「ごめんなさい・・・でも・・・でも・・・・・・私はやっぱり、使命を果たさなければいけないの」

 よろよろと深紅の美女が後退する。少し押せば倒れそうなほど、五十嵐里美が疲弊し切って
いるのは明白だった。
 だが、きっとこの少女は立ち続ける。気を失おうと、死を迎えようと、工藤吼介へ辿り着く道
を、ボロボロと涙を流しながら妨げ続ける。
 
「私の・・・負けね」

 鉛の埋まったような腹部を押さえながら、もつれる脚を懸命に動かして、片倉響子の姿は闇
の中へと消えていった。
 深紅のスーツが見えなくなった瞬間、ズタズタに裂かれたセーラー服に包まれた肢体が、公
園の大地に昏倒する音色は響いた。
 
 
 
 熔かした灼熱の鉛を、腹腔に注がれたかのようだった。
 捻り込むような激しい痛みに、意識が途切れそうになる。熱く、そして苦しい。“最凶の右手”
による一撃で、己が大きなダメージを抱えたことをファントムガール・ユリアは悟っていた。内臓
はグニャリと潰され、腹筋はもろくも断絶された。おぞましいまでに陥没した鳩尾を見れば、華
奢な乙女戦士が被弾した後遺症の大きさは容易に想像できる。
 
 込み上げてくる鮮血の塊を、咳とともに吐き捨てる。ファントムガールに変身しているからこそ
立っていられるが、生身ならば病院送りは免れない一撃だった。泣き叫ぶ臓腑の悲鳴に耐え
ながら、細身の守護天使は隙のない戦闘姿勢を取り続けている。
 
 銀と黄色の女神ファントムガール・ユリアと、最凶の暴魔コンビ=ゲドゥー&ギャンジョーとの
闘いが始まって、まだ10分も経ってはいなかった。
 ユリアにとっては、長い、長い時間であった。一瞬の油断が、死に繋がる闘い。全神経を研ぎ
澄まし、持てる技術の粋を惜しげもなく開放した極限の600秒。通常の戦闘の何倍にもあたる
疲労を、すでに武道天使は感じていた。
 
 いや、むしろこの二匹を敵にして、この時間まで生きているのが驚異と言えた。
 サクラを絶命させたゲドゥーと、アリスを惨殺したギャンジョーとを、まとめてただ一人で応戦
しているのだ。こんな芸当は恐らく、天才武道家と称される西条ユリにしか成し遂げ得まい。も
しこの闘いが格闘技の試合で、この時点で判定が下るのならば、勝者としてユリアの名前が告
げられていただろう。
 
 そう、これが試合ならば―――
 
“やっぱりダメージは・・・たいして与えられていない・・・このままだと・・・”

 もともとは、時間切れを念頭においての闘い方であった。
 怒りに震えて立ち向かった、先のギャンジョー戦。かつてない憎しみがユリアの身を貫いたと
いうのに、それでも武道天使は凶獣に勝てなかった。深刻なダメージを与えることすら出来な
かった。
 『エデン』の戦士は感情を攻撃力に変えることができる。しかし姉の許可なしに本気になれな
いユリアでは、怒りによるパワーアップには限界があるのだ。ならば純粋に、身につけた武道
の技術全てをぶつける。それが西条ユリの辿り着いた結論であった。
 致命的な攻撃はできないかもしれない。ただ一途に、ひたむきに、武の真髄を叩き込む。『エ
デン』と融合した人間が巨大化できるのは60分が限界である以上、ファントムガール・サトミと
の闘いで先に変身を遂げている凶魔と凶獣は、ユリアより早くリミットを迎えるはずだ。その時
が来るまで、心技体を尽くして闘い抜く・・・それが武道天使の描いた青写真だった。
 
 だが・・・すでにユリアは気付いていた。
 許されない、と。そんな甘い目論見が、通用する相手ではない、と。
 
 最凶の暴魔二匹を敵にして、数十分も生きられない。ほぼノーダメージの殺人鬼どもは、必
殺の意志を込めてユリアを狙い続ける。避け切れるとは思えなかった。事実、ゲドゥーの一撃
はユリアの見立てよりずっと早く、天使の鳩尾を抉っていた。
 
“サトミさんも、ナナさんも闘えない今・・・私しか、いない・・・仇を取るのは私しか・・・”

「小娘ェェェッッ〜〜〜ッッッ!!! 死にくされやァァッッ!!!」

 茶褐色の凶獣が黄色の乙女の背後に現れる。瞬間移動と見紛う速度。巨体には似つかぬ
俊敏な動きからは、忍者のごとく気配が消されている。
 交錯する二本の槍腕。切っ先が側頭部と脇腹へと唸る。
 少女の柔らかな肉を抉る、と見えた瞬間、ユリアの肢体は後ろを向いたままギャンジョーの
懐へと潜り込んでいた。
 
 疵面の凶獣が浮く。宙を舞うギャンジョーの表情は、投げられたことにすら気付いていなかっ
た。公園の大地にしたたかに背を打ちつけた瞬間、スカーフェイスが醜く歪む。
 顔を踏み潰す。強固な肉体を誇る怪物も、深刻なダメージを受けずにいられないはずだ。だ
が、脳裏によぎった行動とは裏腹に、ユリアの身体は立ち尽くしたまま動かなかった。
 トドメを、刺し切れない。本気で闘えない柔術少女の、致命的な弱点。大いなる隙を見逃すほ
ど、最凶暗殺者が甘いわけはない。
 
「もらうぞ」

 吐息すら凍えるかのごとき声。菱形の頭部を持った悪魔が、躊躇を見せた戦乙女の鼻先に
現れる。ゲドゥーのスピードもまた、ギャンジョーにまるで劣っていなかった。
 逃げられない。
 武道天使の判断は咄嗟に正解を導き出していた。近すぎる。そして“最凶の右手”が放つボ
ディブローは、速度・破壊力ともにかつてユリアが体験したあらゆる打撃を超越していた。かわ
すのはおろか、身を捻る間すら許されない。女神の青い瞳が、腹部へと吸い込まれていく巨大
な右拳を映し出す。
 
 乾いた炸裂音が響き、黄色の少女戦士の肢体は上空を吹き飛んでいた。
 北の丸公園の夜空に、愛らしい武道天使が舞う。軽々しい人形のような、極端なまでの飛
翔。公園の端まで弧を描いて落ちていったユリアは、派手な吹き飛ばされ様とは裏腹に、華麗
に足元から着地する。
 
「・・・それも、柔術の技か」

 素早く構えを取るユリアを真正面から見据えながら、ゲドゥーのひとつ眼が紺色の濃度を増し
たようだった。
 “最凶の右手”のブローを破った者など、過去に数えるくらいしか記憶にない。直近で言え
ば、工藤吼介。今はコンビを組んでいるスカーフェイスのジョーも、かつては破壊力弩級の凶
撃を耐え切ったひとりであった。タフネス自慢のヘヴィー級格闘家。強靭な肉体を生まれ持っ
た、選ばれし怪物にしか“最凶の右手”は受け切れないシロモノのはずだった。
 ユリアは受けきってみせた。それも技術で。
 インパクトの瞬間、両手でゲドゥーの右拳を受ける。聖天使の華奢な腕では、通常なら破壊
力に耐えられず折れていただろう。
 だがユリアは着弾の瞬間に身を預けた。豪打の衝撃をそのまま受け入れ、己の肉体ごと吹
き飛ばさせたのだ。踏ん張れば、折れる。衝撃をクッションのように吸収し、体内で抗うことなく
伝播させ得たからこその神業。ゲドゥーの“破壊にきた”一撃を、ユリアは体術で“吹き飛ばす”
エネルギーへと変換させたのだ。
 しかし、それでも・・・想気流の絶技をもってしても、“最凶の右手”を無傷で受け切ることは許
されなかった。
 
「・・・くッ・・・うぅッ・・・」

 構えて突き出したユリアの両腕から、鮮血がボトボトと垂れ落ちる。
 鮮やかなレモンイエローのグローブは、ズタズタに切り裂かれて紅に濡れていた。パクリと開
いた無数の傷口。ユリアの技にミスはなかった。ゲドゥーの右ブローを会心の形で受けることに
成功していた。
 それでもデタラメなまでの破壊のエネルギーが、両腕を切り裂く。これが今ユリアが敵対して
いる凶魔ゲドゥーの実力なのだ。
 
「いいぞ、ユリア。その弱々しい姿でここまで楽しませてくれるとは。やはりファントムガールは
極上の獲物だ」

 ゲドゥーの口調に含まれる、確かな快感を聖天使は聞き取っていた。闘いの当初より、愉悦
の響きは確実に大きくなっている。拳を交えあううちに、ユリアの実力を凶魔が認めつつあるの
は疑いようがなかった。
 ギャンジョーが単なる殺人快楽者であるのに比べ、ゲドゥーには強き者を求める傾向がある
のは、闘いの間にユリアも確信したことだ。より強者を葬ることにエクスタシーを感じる凶魔。劣
勢にあってユリアが健闘すればするほど、皮肉にもゲドゥーの殺戮欲求はムクムクと上昇の一
途を辿っていた。
 
「サトミの弱さには、正直ガッカリした。お前が代役となったときも、落胆の気持ちは強かった。
だが、ようやく高揚してきたぞ」

 無表情の菱形の顔が、外見はそのまま、哄笑に歪んだのをユリアは悟った。
 
「殺してやろう、ユリア。そろそろ本気を出す」

 今までは、本気でなかったと言うの?!
 
 驚愕の声は口にはでなかった。心のどこかでわかっていたから。ギャンジョーはともかく、ゲド
ゥーは様子を伺うフシがあった。ユリアの強さをじっくりと吟味していた。短期決着を目指してい
るはずのこの闘いで、ゲドゥーは己の欲望を抑えきれずにいたのだ。
 守護天使を早々に葬り、敵襲を受けている品川水族館に急行する。それが本来ゲドゥーが
為すべきことだ。だがユリアへの強い興味が、雇われ暗殺者に仕事を放棄させた。面白い。こ
の小娘は十二分に殺す価値がある。幼さの残る細身の肢体、トドメを刺し切れぬ甘い精神・・・
それでいて我ら二体を翻弄する技術。ファントムガール・ユリアはじっくりと堪能すべき獲物で
あった。
 
「・・・ッッてっめえええェェッッ〜〜〜ッッ!!!」

 地も震えるような怒号が響く。立ち上がっていたのはギャンジョー。茶褐色の肉体から、闇の
波動が漆黒の炎のように噴き上がる。
 
「殺すッッ!! 殺すッッ!! 殺すッッ!! 小娘ェェッッ、てめえはオレの手で引き裂いてく
れるッッ!!」

 突っ込む。暴走ダンプのごとく。距離を置いて構えるユリアに、一直線に殺到する。
 思えばギャンジョーには、焦りがあったのかも知れなかった。ユリアは一度は逃がしてしまっ
た獲物。更には、ダメージは少ないとはいえ、この10分ちょっとの闘いでほとんどいいところなく
武道天使に投げられ続けたのはギャンジョーの方だった。
 このうえない屈辱。華のような可憐な天使を血に染めるのは、自分にこそ権利があるはず
だ。
 ゲドゥーが明らかな“その気”を見せたことで、疵面獣はいきりたった。この獲物は渡せん。先
に仕掛けないと。
 
 憤怒の凶獣に気圧されたかのように、くるりとユリアが背中を向ける。逃げた。ギャンジョーと
の距離を、さらに広げんと疾駆する。黄色の背中のうえで、ふたつにまとめた緑色のおさげ髪
が激しく揺れる。
 
「ギャハハハハハッッ!! 逃がすかよォッッ!! 後ろからブスリといくぜェェッッ〜〜ッ
ッ?!」

 吼える凶獣と守護天使の距離が見る間に縮まる。単純な走力では巨体のギャンジョーの方
が遥かに上であった。バカな小娘が。嘲る殺人鬼の前で、突如脚を止めたユリアが再び向き
直る。
 
 ・・・狙ってやがったかァァッッ?!!
 
「気砲ッッ!!」

 突き出す槍腕より速く、カウンターの掌底は凶獣の鳩尾に叩き込まれていた。
 雷鳴のごとき衝撃音が轟く。砲弾が胸中央を貫くような錯覚。ガバリと開いた疵面獣の口か
ら、鮮血の塊が噴き出る。
 気の流れを操ることで相手の攻撃ベクトルを変化させ、威力そのまま敵に返す奥義・気砲。
ユリアが距離を開けたのは逃げるためではなかった。ギャンジョーの突進のエネルギーをより
増大させるため。前回の闘いで気砲を耐えた強固な怪物に、より強烈な一発を撃ち込むため
の戦術。
 確かに今のユリアは、手加減をしてしまう闘いしかできない。だが気砲は、そっくりそのまま敵
の攻撃を返すだけだ。通常のユリアには生み出せない攻撃力も、気砲ならば発射することが
できる。
 
 ビクンッ、ビクンッ!
 茶褐色の巨躯が痙攣する。効いた。タフネスに自信を持つギャンジョーは反射的に踏ん張っ
た。だからこそ、余計にカウンターの一撃は、核の中心に染み渡るほど深く突き刺さった。ギャ
ンジョーは己の最強の矛で、我が身の最強の盾に打ち込んでしまったのだ。
 肉体の頑強さに絶対的自負を誇るギャンジョー。その闘いぶりを先の死闘で見抜けたからこ
その、攻略法。
 
“アリスさん・・・あの時の闘いで・・・・・・この方法を思いつくことが、できました・・・アリスさんが、
私を助けてくれたから・・・・・・”

「勝った・・・とでも、思ったか?」

 低い呟きは、距離を置いた公園の端からユリアの耳に届いてきた。
 ゲドゥーの右掌のうえで漆黒のエナジーが渦を巻いて凝縮している。撃つ気だ。破滅の魔光
線を。ギャンジョーの窮地など、意にも介していない。ユリアが近距離戦ファイターであること
を、凶魔は充分承知している。殺せる時には、殺す。ひとつ眼の悪魔は一気に始末をつけるつ
もりか。
 
「・・・もらったァァッ〜〜〜〜ッッ・・・」

 更なる呪詛の響きは、今度はユリアの目前から洩れていた。
 少女戦士の大きな瞳がさらに大きく開かれる。瞬時にユリアは、無謀と思えたギャンジョーの
真意を悟った。牙の揃った口腔から血の糸を垂らしながら、醜い疵面が、憤怒と憎悪と愉悦に
よって歪む。
 
 狙っていたのは・・・私だけじゃ・・・・・・なかった・・・
 
「効いたぜェェッッ〜〜、オイッ・・・覚悟していた以上だァァッ〜〜〜ッ・・・」

「・・・こうなることを・・・承知でッ・・・」

「てめえの懐に飛び込みさえできりゃあ、いいんだよォォッ〜〜〜ッッ!! 肉を切らせて骨を
断つ、てなァッ!!」

 尖った極太の槍腕が、闇夜にギラリと輝いたのは刹那のことだった。
 ギャンジョー超速の刺突。視界に捉えるのが不可能な、必殺の斬撃。
 ファントムガール・アリスが瀕死に陥ったのは、この刺突を見極められなかった故だった。幾
度となく刺し抜かれ、半死に追い込まれたことでアリスは死の運命から避けられなくなった。
『臨死眼』という新たな技を会得できなければ、アリスは仲間を救出することすら叶わず惨死を
迎えていただろう。
 ユリアはもちろん、『臨死眼』を体得していなかった。いや、あの奇跡の技をアリス以外に身に
つける者などあるまい。
 
 ドンッッッッ!!!
 
 鈍い激突の音が、夜の首都にこだまする。
 右の槍腕を突き出したギャンジョーと、腰をやや引いた格好で佇むユリア。
 短刀が具現化した凶獣の右腕は、黄色のグローブを嵌めた両手にしっかりと掴み取られて
いた。
 
「・・・なァッッ・・・ッッ?!!」

「私には・・・あなたの攻撃は・・・通用しませんッッ!!」

「バッ、バカなァァッッ?!! オレ様の必殺のドスが、見えるわけがッッ」

「見えてません・・・でも・・・私には、攻撃の気が感じられる・・・どんなに速い打撃も、私は捉え
る自信がありますッッ・・・」

 闘いの相性でいうならば。
 ユリアにとってギャンジョーは、決して組し難い敵ではなかった。想気流柔術の達人は気を読
むことの天才。一方殺人狂の凶獣は、気配を消しての接近と、超速の刺突が得意とする最た
るもの。ユリアによってギャンジョーの長所は、完全に掻き消されてしまっていた。
 
「ッッッ〜〜〜ッッッ!!! 小娘がァァァッッ〜〜〜ッッ!!!」

「これが・・・想気流柔術です!」

 苦し紛れに疵面獣が頭を振る。頭突きの一撃。愛らしい童顔に、疵で抉れた額が迫る。
 狙いを定めたゲドゥーの暗黒光線が放たれたのは、ほとんど同時のことだった。
 
「ファントム破壊光線ッッ!!」

 唸りをあげて、光を殲滅する闇の光線が一直線に発射される。膠着した状態の、黄色の天
使に向かって。
 爆音と衝撃波が大地を揺るがす。日本武道館がグラグラと震える。着弾した。間違いなく。漆
黒のエネルギーの残滓と煙が濛々と立ち込めるなか、ゲドゥーには全ての状況が飲み込めて
いた。
 
「ほう・・・ギャンジョーのヤツを、盾にしたか」

 銀と黄色の輝きが黒煙から飛び出す。無傷のユリア。煙を昇らせる疵面獣を投げ捨て、横に
跳んだ武道天使は、回転の勢いから一息に立ち上がっていた。
 
「破邪嚆矢ッッ!!」

 スレンダーな聖少女の手には、光り輝く弓と矢が握られていた。放つ。一気に。ユリアが近距
離戦のみの戦士と考えたのは、ゲドゥーの誤認だ。次々と聖なる光矢を造り出したユリアが、
あらん限りに連射する。
 
 ドドドドドドドドドッッッッッ!!!!
 
 白い煙に包まれたのは、今度はゲドゥーの番であった。
 柔術の技では遠慮をしてしまうユリアだが、弓に関しては関係がない。引き絞って放ったあと
は、武道天使の思惑を外れている。殺意を持てぬ少女戦士が、唯一必殺を期せる技がこの
「破邪嚆矢」なのだ。ユリアが敢えて距離を取った、もうひとつの理由がここにあった。
 だが―――
 
「無駄だ。何度やっても」

 最後に放った嚆矢が虚しく“最凶の右手”に弾かれるのを見届けたユリアに、暗黒の声は聞
こえてきた。
 
「ギャンジョー相手にその善戦、見事だ。褒めてやるぞ、ユリアよ。しかし、そんなオモチャの攻
撃はこのオレにはまるで無意味だ」

 何十発と放った光の聖矢は、ゲドゥーの右手にことごとくが弾き飛ばされていた。
 ユリアにとっては最大といってもいい光線技。破邪嚆矢は、この強大な闇エネルギーに包ま
れた凶魔にはまるで通じていなかった。脅威とすら映っていない。ユリア必殺の一撃は、ゲドゥ
ーには片手で払えるほどに軽いものだという現実が、眼前に突きつけられている。
 考えてみれば・・・ゲドゥーの右手は、ナナのスラム・ショットやサクラのレインボーですら受け
切っているのだ。破邪嚆矢が効かないのはむしろ自然。遠距離からの光線技は、このひとつ
眼凶魔には一切通用しないと考えるべきかもしれない。
 
「・・・わかって、いました」

 黄色の光る弓と矢を、ユリアが下げる。胡桃のごとき瞳に強い決意が浮かんでいるのを、濃
紺のひとつ眼は認めた。
 
「お姉ちゃんの許可なしでは・・・本気になれない惨めさ・・・こんな私では、皆さんに迷惑を掛け
続けると・・・いつも悩んでいました・・・」

 ユリアの右手から嚆矢が消滅する。残ったのは、左手に握られた弓だけであった。その光の
弓が、意志を持ったようにグネグネと変化を始めている。
 
「ほう・・・どうやら、隠し持っていたオモチャがまだあるようだな」

「これが私の・・・新しい・・・武器です」

 弓であった光が、長く一直線に伸びていく。その先だけが緩やかなカーブを描き、刃を思わ
せる明らかな鋭利さを見せていた。
 
「薙刀・“鬼喰”・・・ファントムガール・ユリア・・・参りますッッ!!」

 ハッキリとそれと分かる形状に変化し終えた光の長柄武器=薙刀を、可憐な少女戦士は堂
に入った姿勢で構えた。
 湿気を含んだ夜の空気が、ピンと硬直したのがわかる。武道天使が新たな武器を手にした
瞬間、対峙する凶魔の背中にビリビリと緊張が駆け抜けていった。
 
「薙刀・・・だと?」

 スラリと伸びたユリアの四肢に、長柄の武器は美しいまでによく似合っている。あどけなさを
残した愛くるしい童顔はそのままなのに、美少女から立ち昇る凛とした戦意を、ゲドゥーは確か
に感じ取っていた。
 似ている。そう、まるで、ファントムガール・サトミだ。
 この柔術使いのファントムガールは、現在本気で闘えないはずだった。深刻なダメージを与
えられぬ、甘ったるい腑抜け。それがいまや、くノ一戦士と同等の危険な香りを漂わせると
は・・・?!
 
「想気流は本来・・・戦場で生まれた闘技です。体術は、あくまでその体系のひとつ・・・杖術、棒
術、剣術に加え・・・弓矢や薙刀も・・・継承者であれば、当然修めるべきものです」

 古武道と呼ばれる一派の大半は、戦国時代に「生きるか死ぬか」の凌ぎ合いのなかで生ま
れたものを祖とする。西条ユリが習得する想気流においても例外ではなかった。もともとは刀
や槍といった、武具を想定に入れた技術系統なのだ。
 江戸という平穏な時代に移り、生死を争うものだった武術は、安全の範囲内で腕を競い合う
ものへと変貌していった。真剣が木刀になり、竹刀になり、やがては素手になって技術を研鑽
するものとなっていった。
 現在、街角の道場で子供たちに教えられる古流柔術は、投げ技や関節技、徒手で組んでの
技術がほとんどであろう。ユリが師範代を務める道場においても、実情は変わりない。ユリ自
身も、生まれてから15年間の修練の大部分は体術に割り当てられていた。
 
 だが、本来は違うのだ。
 武具を手にしての闘い方まで含めてが、想気流柔術。次期継承者であるユリが、弓矢や薙
刀の扱いに長けることはむしろ当然のことなのだ。
 
「ファントムガール・ユリアとして闘わねばならない・・・そう決断した日から・・・密かに薙刀の修
練に努めてきました・・・」

 黄色に輝く光の薙刀を、ユリアが軽く振り回す。
 まるでバトンチアリングを見るような鮮やかさであった。巻き起こる風で、闇が切り裂かれる
が如く揺らぐ。ユリアにとってはウォーミングアップに過ぎない一連の動作だけで、相当の手練
れであることは一目瞭然に伝わってくる。
 
「手加減をしてしまう私は・・・きっと、足手まといになると思ったから・・・お姉ちゃんがいなくて
も・・・闘えるように、ならなきゃいけないから・・・」

「なるほど。刃を持った武具なら、加減しようにもできないな。お前にその気がなくとも、その刃
を当てればブスリといける」

「本来なら・・・まだ闘いの場に通用する力は・・・私には、ありません・・・・・・でも・・・もう、私が
やるしか、ないんです」

 双子の姉エリの助けなしでは本来の戦闘力を発揮できない、天才柔術家ユリ。このままで
は、重責を担う守護天使として通用しないのは、ユリ自身が悟っていた。なによりも愛する姉
を、危険に巻き込んでしまう。エリの存在なしでも戦士として独り立ちすることは、ユリにとって
一番のテーマであった。
 後継者を決める闘いで、姉を図らずも瀕死に至らしめてしまったトラウマ・・・努力を重ねて
も、怒りに身を焦がしても本気で闘えなくなったこの弱点を克服するため、ユリが辿り着いた結
論が“武器を持つこと”―――薙刀という殺傷能力の高い武具を用いれば、必然的に敵を葬る
ことができる。エリがいなくても、ユリひとりで闘いに臨むことができる。仲間たちの足を、もう引
っ張ることはなくなるはずなのだ。
 
 だが『エデン』の戦士の光や闇の技は、想いの強さが威力の大きさに深く関係してくる。ただ
薙刀を手にするだけではダメだった。稽古を積み重ね、絶対の自信と身体の一部に同化する
ような感覚とを身につけねば。薙刀という武具が“自分のものになった”と深層レベルから納得
できねば、光のエネルギーを具現化して造り出すことすら叶わないだろう。
 
 追い詰められた、この時だから。
 アリスを救えなかった悔恨があるから、“鬼喰”を生み出せた。
 本来ならば実戦で使える段階には届いていない、もっと稽古を積まなければ・・・ユリアの内
心では“鬼喰”を使用するのは時期尚早であった。だが体術でダメージを与えられず、破邪嚆
矢も通用しないと明らかになった今、ユリアがゲドゥーと渡り合うには、この新武器に希望を賭
けるしかないのだ。
 
 チラリと横目で地面に伏せた茶褐色の物体を確認する。北の丸公園の敷地内、日本武道館
横の開けた土地に、それはシュウシュウと音をあげながら転がっていた。
 全身から漆黒の煙をあげて、ピクリとも動かないギャンジョーの巨体。
 ゲドゥーの闇光線を同士討ちにさせた。恐らく、こんな好機は二度と訪れまい。頑強な肉体を
誇るギャンジョーが滅んだとは思えないが、しばらくの間、戦闘不能に陥ったのは間違いなか
った。
 5分。いや、3分。
 凶魔ゲドゥーとのサシ勝負。相性的に噛みあうギャンジョー以上に、ユリアにとって難敵であ
るのはわかっている。だが、人類史上最悪の侵略者を撃退するのは、この世界に銀と黄色の
武道天使ただひとりしかいないのだ。
 
「世界を守るなんて・・・そんな大それたことは、私には言えません・・・ですがッ!」

 黄色の光で創られた薙刀の穂先が、ピタリとひとつ眼の凶魔に向けられる。
 
「アリスさんと・・・サクラさんの仇は、とりますッ!! この、ファントムガール・ユリアがッ
ッ!!」

 大地が鳴る。一直線に、“鬼喰”を構えた可憐な戦士が佇む凶魔へと疾走する。
 
「得物を手にして高揚する。素人にはありがちなハシャギぶりだな」

 言うなり突き出したゲドゥーの右手から、漆黒の光線がカウンターとなって発射される。
 ファントム破壊光線、ではない。あの技は名前を口にすることで、より威力が強化されるも
の。牽制の意味を込めた暗黒光線を、正義の薙刀が真正面から迎え撃つ。
 ザクンッッッ!!!
 軽やかな音色を残して、漆黒の弩流が中央から割れる。火が走るように、“鬼喰”が創った光
の裂け目が、暗黒光線を逆流して昇っていく。
 そのまま、凶魔本体すら断つか。ユリアの脳裏に浮かんだかすかな期待は、数瞬ともたずに
消え失せた。
 
「いい筋をしている。ユリアよ、どうやら相当の稽古を積んだな?」

 おさげ髪の天使の左側面、右腕が届く危険区域からゲドゥーの声は聞こえた。
 黒縄で編んだような極太の“最凶の右手”が引き絞られている。狙うは、脇腹か。圧倒的なス
ピードとパワーを誇るひとつ眼凶魔は、その死神の右手で早くもユリアの命を引き抜く寸前で
あった。
 
 ゾワリ・・・
 
 疑いようの無い、戦慄。
 背を駆け登る寒気に、放ちかけていたゲドゥーのブローがビクリと止まる。踏み込みかけた
脚が留まる。
 
 ザシュンンンンッッッ!!!という擦過音と、股下から跳ね上がった薙刀が光の粒子を振り
散らすのとは、ほとんど同時のことだった。
 
 踏み込んでいたら、股間から真っ二つ、だったのか?
 
 戦慄の正体を知ったゲドゥーの脳裏に、衝撃にも似た感情が押し寄せる。
 腰に装着した白のプロテクターから腹部の中央にかけて、縦一文字に断裂が走ったと見える
や、プシュッと鮮血が噴き出る。トリックプレーとでも評したい、変則的な薙刀の動き。修羅場を
潜り抜けてきたゲドゥーの直感が働かなければ、ユリアは大金星を得ていたかもしれない。仰
け反った凶魔のひとつ眼が、かつてない動揺の色を見せる。
 
「・・・くッ」

 小さく呻いたのは、美少女の花弁のごとき唇であった。
 思惑通りの誘いだった。左側面に敢えて隙を作り、飛び込んできたゲドゥーを仕留める狙い
は、すんでのところで表皮一枚を斬るのみに終わった。大上段から振り下ろした薙刀が、背後
もしくは側面から跳ね上がってくる“想気流薙刀術”の一技法。予測しづらいだけに一撃必殺と
成り得るが、変則的な軌道は一度しか使えないだろう。
 だが、収穫はあった。十分すぎる、収穫が。
 “鬼喰”はゲドゥーに通用する。ほぼ全ての攻撃を無効化してきた、最強の凶魔に。
 
“もともと鬼喰は・・・西条家に代々伝わる、本物の薙刀・・・・・・私の掌に残る鬼喰の感触を、き
ちんと具現化できたなら・・・その斬れ味は、まさに一撃必殺・・・”

 屠れる。この悪魔を。
 触れさえすれば、正義の薙刀はゲドゥーを斬る。本気を出せないはずのユリアが、勝利を人
類の手に取り戻すことができる。
 
「はあああああッッ―――ッッ!!」

 裂帛の気合いが迸る。銀と黄色の華奢な肢体が強く輝く。
 斬撃の怒涛が菱形頭部の凶魔に迫る。流麗なまでの、薙刀の舞であった。美しく、華麗で、
死の香り漂う、光刃の連続斬撃。あのゲドゥーがユリアの猛攻の前に、ただひたすらに後退し
ていく。
 内気で可憐な、愛玩動物のごとき美少女が、殺意に凝り固まった邪悪の権現を追い詰める。
にわかに信じがたい光景は、しかし今現実に間違いなく東京九段下の空の下で展開されてい
る。
 
 斬りかかっていた“鬼喰”の刃筋を、不意にユリアが突きに変える。
 その瞬間、空気が強張るのを武道天使は感知した。戸惑い。焦燥。動揺。ゲドゥーが示した
確かな硬直。逃げられない。この薙刀の突きから、ひとつ眼凶魔はもう逃げられない。いけ。い
っちゃうんだ。“鬼喰”が唸った、その瞬間であった。
 
「・・・ユリアよ」

 ガッキイイイィィッッィィッッ・・・ッッ!!!
 
「お前は、調子に乗りすぎだ」

 聖なる光の薙刀“鬼喰”は、ゲドゥーの右手にしっかりと受け止められていた。
 止めたのかッ?!! 素手でッ?? 素手で薙刀の刃をッッ?!!
 人形のようなロリータフェイスが驚愕に引き攣る。いや、わかっていた。わかっていたはず
だ。“最凶の右手”は武具と同等の扱いをするべきだと。薙刀を防ぐ程度のことは、覚悟してい
たはずではないか。
 
 ゴオオオオオウウウウッッッ!!!
 
 業火が熱風をはらんで、ユリアの顔に、全身に叩きつけられる。
 「きゃあッ?!」という少女らしい悲鳴を残して、黄と銀色のスレンダーな肢体が吹き飛ばされ
る。灼熱のように感じられた衝撃波は、業火ではなかった。暗黒の、波動。憤怒とともにゲドゥ
ーが全開にした闇のエネルギーが、吹き荒れる暴風と化してユリアの全身を叩いたのだ。
 
「うッ・・・うぅッ・・・!!」

 距離を置いて薙刀を構えるユリアの唇から、呻きが洩れる。
 ゲドゥーの本気がこれほどとは。
 邪悪の質量を示す漆黒の瘴気が、天に届くか如く燃え盛っている。この余波に触れただけ
で、人間などひとたまりもあるまい。違う。かつてユリアが闘ってきた敵たちとは、根本から闇の
素質がまるで違う。もしかすると、今、守護天使たちは本物の悪魔と闘っているのかもしれな
い。
 
 だが。
 
「・・・ひるみませんッ・・・私には・・・脅えることなど、許されないッ・・・!!」

 恐喝は、極道者にとっては初歩の初歩とも言える基本戦術。
 闇に呑み込まれたら、負ける。確かにゲドゥーとギャンジョーの暗黒エネルギーは巨大だ。だ
が、その圧倒的負の波動に気圧されることが、すでに凶魔の術中なのだ。
 
 タンッ、と軽く地を揺らしてユリアが駆ける。
 対するゲドゥーが悠然と歩を進める。冷たく光る濃紺のひとつ眼。ゆっくりと、右の拳を大きく
振りかぶる。
 
 薙刀“鬼喰”の一閃と“最凶の右手”の剛打。正面から激突する、光と闇。
 大地が割れるような轟音と空気が裂けるような衝撃。震撼する戦場。天使と凶魔、渾身の激
突を支える地球が悲鳴をあげる。
 
“まッ・・・負けるッ・・・な、なんてパワー!!”

 素手の拳が薙刀の斬撃を上回るというのか。
 驚愕が脳幹を走り抜けた刹那、瀑布となって押し寄せる暗黒に光の戦士は包み込まれた。
 
 ボンッッ!! ボボボッッ!! ボンッッ!!
 
「うああああああッッッ―――ッッッ!!!」

 燃える。ユリアが。暗黒の炎に焼かれて。
 肩が爆ぜ、腹筋が裂け、太腿が黒い火を噴く。敗れた。正面衝突での、完全なる敗北。力と
力では、所詮可憐な美少女がプロの殺人鬼に勝てる道理がない。勢いづくゲドゥーが、一気の
決着を狙って尚右腕に力を込める。
 奇妙な感覚が凶魔を襲ったのは、その瞬間であった。
 不意に支えが消失したような。無重力空間に投げ出されたような、不可思議な感覚。
 
 力を・・・受け流された?!
 
 真っ向からぶつかりあっていた薙刀が、右腕の内側を滑るように入ってくる。まるで風に揺れ
る柳のごとく。
 力勝負ならば軍配はゲドゥーにあがる。しかし、力を技で封じ込めるからこその想気流。技で
力を無効化してこそのファントムガール・ユリア。
 薙刀を手にしたからといって、想気流の真髄は変わらない。莫大な闇エネルギーの隙間を縫
うように、シュルシュルと滑り込む“鬼喰”の穂先が、ゲドゥーの心臓に突き進む。
 
 ドシュウウウッッ・・・!!
 
「残念だったな」

 薙刀の刃が貫いたのは、凶魔の心臓ではなく、ガードした左の腕だった。
 美少女の大きな瞳がさらに見開かれる。来る。一瞬にして攻防が入れ替わったことをユリア
は悟っていた。いまや窮地に立たされたのは私の方。“鬼喰”の一撃を防がれた今、凶魔の反
撃は確実にやってくる。
 “最凶の右手”のストレートパンチ。
 至近距離からロリータフェイスに放たれた爆撃。ゲドゥーの左腕に食い込んだ“鬼喰”は引き
抜けない。ユリアのアイドル顔が蒼白に変わる。
 
 バチイイイイッッッ!!
 
“捕った!”

 ゲドゥーが渾身で放った右腕の手首を、顔面にヒットする直前、武道天使の両手は掴んでい
た。
 打撃のなかでも最速とされるボクシングのジャブであっても、鍛錬を重ねた西条ユリは捕らえ
ることが可能であった。その天才少女をもってして、なお難関と思われたのがゲドゥーの右スト
レート。
 だが捕った。捕らえた。ユリアの両手はしっかりとゲドゥーの右手首を掴んでいた。顔面に届
く寸前、柔術少女の武の技が、圧倒的暴力を未然に防いだ。
 
「想気流奥義ッッ、『青嵐』ッ!!」

 痺れるような激痛が“最凶の右手”を駆け登る。手首から肘、肩へと。痛みによる条件反射が
自ずから凶魔の黒縄の肉体を宙に舞わせる。
 ・・・はずであった。
 
 ゲドゥーの身体が地から浮くより早く、その右手から闇の光線が放たれる。
 目と鼻の先にある、人形のような美少女の顔面に向かって。
 
「きャあああアアァァああッッ!!!」

 ボシュンッッ!!!
 ユリアの童顔が漆黒の煙をあげる。直撃。逃げる隙などあるはずもなかった。威力は小さめ
とはいえ、超近距離からの破滅の光線を顔面に浴びたのだ。たまらず両手で顔を覆ったユリ
アが、仰け反りながら一気に後退する。しなやかな指の間から、シュウシュウと黒煙が立ち昇
る。
 
“かッ・・・顔がァッ!! ・・・顔がァッ!! ・・・に、逃げなきゃ! ・・・今は距離を置かなき
ゃ!”

 黒く爛れた愛くるしいマスクを両手で抑えながら、銀色の女神が必死に下がっていく。熱い。
肉体のダメージ以上に、思春期の少女にとっては精神的ダメージの方が大きいかもしれぬ。だ
が凶魔も無傷では済ませなかった。いける。まだ、いける。態勢を立て直せば、まだまだ私は
闘える。
 十分な距離を取り、構えを取る。“鬼喰”はゲドゥーの左腕に刺さったままだった。両掌を開い
た自然体の構え。体術の稽古に明け暮れたユリアにとって、もっとも慣れ親しんだ戦闘の姿
勢。
 追撃をしなかったゲドゥーは佇んだままだった。怒りを増幅させているのか。ダメージの回復
を図っているのか。いずれにせよ、殺意に凝り固まったひとつ眼は真っ直ぐにユリアを見据え
ている。
 逃げることは、できない。いや、しない。もう一度、勝負。
 小さな胸の内で決意を固めた、その刹那―――
 
“そんなッ・・・?! まさかッッ!!”

 飛燕の速度でユリアの肢体は背後を振り返っていた。
 憤怒に狂う、ギャンジョー。今にも喰い付きかからんばかりに歪んだ疵面が、武道天使の暗
殺を狙ってそこにはいた。
 あのダメージを、もう回復したというのかッ?! ゲドゥーの暗黒光線は光に属するファントム
ガールと、同じ闇の眷属のギャンジョーとでは当然効果に巨大な差がでる。それにしても早い。
早すぎた。
 
 疵面獣の右腕はすでに発射された後だった。超速の刺突。常人には見ることさえできぬ速度
の斬撃。気配を消しての接近とこの刺突とで、殺人鬼スカーフェイスのジョーは幾人もの命を
奪ってきた。
 だが。
 気の流れを読むことの達人、ユリアには通用しない。すでにそれは、証明されたことだった。
 
 グジュウウウウッッッ!! ブシュウウッッ――ッッ!!!
 
「・・・え・・・?!」

 胸に向かって突き出されたギャンジョーの右腕を、ユリアの両手が抑えていた。
 先の激突で見せたものと同じ光景・・・に見えた。違っていた。
 ギャンジョーの右腕は、槍形状ではなく、鋭利な棘状突起がビッシリと埋め尽くした鉄球へと
変形していた。
 
「あッ・・・あアァッ・・・あああアアァァッッッ〜〜〜ッッ!!!」

 黄色のグローブを嵌めた両掌が、無数の棘に貫かれている。穴だらけになった少女の手の
甲から噴き出す鮮血。細かい神経が数多く通う掌を抉られた激痛と、何本かの指が千切れか
かっている光景を目の当たりにしたショックとで、ユリアの口から引き攣るような悲鳴が迸る。
 
「ボケがあァッッ〜〜ッッ!!! 目には捉え切れてねえって言うんじゃ、こうなってるとはわか
んなかっただろうがよォッ?!」

 両手を棘に縫いつけたまま、ギャンジョーが右腕をあげる。
 巨大な凶獣に吊り上げられ、叫ぶユリアの華奢な肢体が、成す術もなく勢いよく宙に浮きあ
がる。
 
「返すぞ、ユリア」

 ドシュウウウウッッッ・・・!!!
 
 灼熱が背中から腹部中央に抜けていくのを、武道天使は甘受するしかなかった。
 ごぷッッ・・・唇を割って飛び出る深紅の塊。身を断つ苦痛にヒクヒクと震えるユリアが、ゆっく
りと首だけを背後に向ける。
 冷酷に光る濃紺のひとつ眼。
 視線を己の腹部に移動したユリアは、“鬼喰”の穂先が背から突き抜け鳩尾から生えている
のを見詰めた。
 
「死ねやッッッ!!! 小娘ッッッ!!!」

 槍型のままのギャンジョーの左腕が、聖天使の右脇腹に吸い込まれていく。
 アイドルのようなマスクを持つ天使が潰される音色は、グジャアアアッッ!!という凄惨なもの
だった。
 骨ごと肉を抉られる響きに、泣き叫ぶユリアの痛哭が重なる。
 ビクビクと痙攣する血塗れの少女戦士のおさげ髪が、正義の終末を象徴するように震え続け
た。
 
「皮肉なものだな、ユリア。本物の薙刀で稽古を重ねた結果、こいつはまさしく薙刀そのものと
なった。だからオレにも触れるし、光の戦士であるお前を貫くこともできる」

 グググ・・・“鬼喰”を握ったゲドゥーの右手に力がこもる。
 武道天使を串刺しにした光の薙刀が、ジリジリと柔らかな腹筋を裂いていく。神経を研磨する
ごとき鋭痛に、甲高い少女の絶叫が響き渡る。
 本来ならば聖なるエナジーを具現化して創りだされた“鬼喰”は、同じ光の属性を持つユリア
に深刻なダメージは与えられないはずだった。
 しかし西条家に伝わる秘刀“鬼喰”で研鑽を重ねたユリアは、努力の末に本物とほぼ変わら
ぬ斬れ味の薙刀を生み出していた。それはもはや、光の技の範疇を逸脱した武具。ユリアの
懸命な努力が、真剣な修行の成果が、よもや己の武器で身を貫かれる悪夢となって返ってくる
とは。
 
 ギャンジョーがユリアの右脇に埋まった槍腕を引き抜く。絡みついた鮮血の塊がドシャドシャ
と大地に振り落ちる。
 同時に両掌をハリネズミにした棘付き鉄球が抜かれる。“鬼喰”を鳩尾から生やしたままの無
惨な天使は、糸の切れたマリオネットのごとく崩れ落ちた。
 
「アアッ・・・はぁぐぅッッ・・・ぐッ・・・ゴブッ!! ごぷうぅぅッ!!・・・」

 地面に尻餅をつき、脱力した清廉な美少女戦士。鮮やかなレモンイエローの模様が印象的
な銀色の肌は、残酷なまでの紅に染め抜かれている。時折激しく痙攣するたび、大量の吐血
が天使の小さな唇を割った。
 
“く、苦し・・・こ、こん・・・な・・・・・・死・・・痛、い・・・これが・・・死の痛み・・・?・・・”

 俯いたユリアの瞳に映るのは、己の唇から垂れる朱色の糸と、薙刀の穂先を生やした鳩尾。
そして穴だらけになったふたつの掌だけであった。
 絶体絶命の状態にあった自分を、なぜギャンジョーが解放したのか? ゲドゥーが黙って見
下ろすだけなのか? ユリアには真意が読めていた。
 嬲り殺すつもりなのだ。二匹で。単なる惨殺では許されない処置を、凶魔と凶獣は武道天使
に下そうとしている。それだけのことをユリアはやったのだ。そしてもうひとつ、守護少女にはも
はや逆転の可能性が皆無であることも悪魔どもは悟っている。
 
「ふはッ・・・終わりかァッ?! 終わりだよなァッ、クソガキがよォッ!! もうてめえは死んでい
くしかねえんだよォッ!! 息絶える前に、恥かかせてくれたお礼はたっぷりとさせてもらうぜェ
ェッ〜〜ッ!!」

 嗜虐に満ちたギャンジョーの哄笑が頭上から降ってくる。腹部を突き破った薙刀を握った童
顔少女は、ヒクヒクと震えるだけでなにも言葉を返さない。
 絶望に打ちひしがれたか。恐怖にすくんでいるのか。
 これまでに手に掛けてきたターゲットが死の間際に見せた姿を思い出しながら、疵面獣はユ
リアの反応もまた同じ類いと受け取っていた。
 
 だが、違う。
 致命傷とも思える刺突を二箇所に受けながら、ユリアの胸の内は真っ赤な戦意でたぎってい
た。
 
“こんな苦痛を・・・こんな、酷い苦しみを・・・アリスさんは・・・何度も、何度も受けて・・・”

 倒れられない。
 この程度で、死んでなどいられない。
 アリスもサクラも闘った。文字通り、身を削られても闘い続けた。
 武道家の娘である私が、闘いをやめるわけにはいかない。ふたりのファントムガールの、そ
して姉エリの仇を取るのは私がやらなきゃいけない役目だ。
 
「ああぅッッ・・・んはァッ・・・ああアアアッッッ―――ッッ!!!」

 引き抜く。鳩尾に埋まった我が武具を。流れる鮮血も構わず、ユリアは立ち上がっていた。
 反射的に襲い掛かるギャンジョーを、“鬼喰”が迎撃する。これが腹部と脇腹に穴を開けた華
奢な少女の攻撃なのか。流麗な薙刀の舞は、パワーに頼る凶獣のガードをくぐって表皮を切り
裂く。疵面獣の口腔から迸る、怨嗟と怒号の轟き。
 
 ヒュンヒュンと光が唸る。メチャクチャに振っているようで、正確な太刀筋の乱舞。気圧された
ように、最凶の二匹が退く。水仙のごとく華奢で内気な女子高生の化身を、兇悪な殺人鬼たち
が挟撃しつつも手を出せずに距離を置く。
 
“もう・・・長くは・・・もたない・・・”

 互角以上に渡り合っているように映るユリアの心は、悲痛とも言える覚悟を固めていた。
 
“手の内は・・・尽きました・・・・・・このままでは・・・ただ、死を待つのみ・・・”

 得意とする柔術で本気を出せないユリアが、頼れるものは“鬼喰”のみ。
 逃げたように見せかけ、凶魔たちは待っている。ユリアの体力が底を尽くのを。出血が止まら
ぬ黄色の天使は、いずれ動きを鈍らせる。その機が来るのを、じっと狙って待っている。
 仕掛けるしかない。こちらから。全身全霊を傾けた、渾身の一撃を。
 
 銀と黄色の女神は、閃光と化した。
 現れる。風を巻いて、疵面獣の鼻先へ。
 エリとアリス。血祭りにあげられた、ふたりの姿。たとえこの身が滅びようと、この殺人を快楽
とする凶獣だけは、地獄の底まで連れて行く。
 
「やああああああアアッッ―――ッッッ!!!」

 大上段からの、一閃。全力を注ぎ込んだ、刀撃。
 棘付き鉄球の右腕と槍型の左腕がクロスして、頭頂に迫る光の薙刀を受け止める。衝撃と
轟音が大地を揺らす。
 
「ギャハハハハハッッ!! バカがァッ!! パワーでこのオレ様と張り合おうなんざッ」

 猛るギャンジーの言葉が途絶える。
 全ての力と光のエナジーを込めた一閃を受け切ったとほくそ笑んだ瞬間、ギャンジョーの肉
体は不可思議な感覚に包まれた。
 力を吸い取られるような。突如、無重力の世界に投げ込まれたような。
 
「無撃」

 気砲と並ぶ、想気流柔術二大奥義のひとつ。
 力と力で正面衝突した瞬間、パワーのベクトルを混乱させる奥義は発動された。支えを突
如、失うが如く。強大だが単調なギャンジョーの気の流れを掴み切ったユリアは、力の塊を抜
き取るように、凶獣を強引に脱力させていた。
 
 無音の世界のなかで、ユリアが“鬼喰”を引く。
 引き攣る疵面。バランスを崩したままの凶獣。無撃に嵌った者は、立っていられないほどあら
ゆる力を失う。当然、強固な筋肉の壁も―――。
 弛緩し切った茶褐色の肉体は、いまや巨大な的に過ぎない。
 
 光の薙刀が吼える。旋回しながら、ギャンジョーの心臓へ。
 
 ブッシュウウウッッ・・・!!
 
「・・・なっ・・・!!」

 “鬼喰”が肉の壁に届く寸前、スラリと伸びたユリアの肢体は、左脚から崩れ落ちていた。
 血を噴いたのは、ギャンジョーの心臓ではなく、ユリアの左のふくらはぎ。
 東京湾の死闘でマヴェルに貫かれた傷が、思い出したかのように再び開いていた。
 
“さっきの・・・衝撃で・・・”

 耐え切れなかったのか。ギャンジョーのパワーをまともに受けるには。
 『エデン』の戦士の回復力は早く、変身前の負傷はカモフラージュされることも多い。だが、こ
の地に現れたユリアの左脚は、初めから完治などしていなかった。
 無撃を撃つために、全力で仕掛けねばならなかった一閃。だが破格外のギャンジョーのパワ
ーに、左脚は耐えることができなかった。
 
「終わりだ、ユリア」

 凍える腕が、心臓を掴むのを守護天使は理解した。
 戦慄。いる。後ろに、悪魔が。
 膝をついたまま、背後を振り返る。手にした薙刀を横に払う。
 乾いた音をたてて、“鬼喰”は容易くゲドゥーの右手に受け止められていた。
 
「認めよう。お前の技術は素晴らしかった。存分に楽しませてもらったぞ。だが」

 “最凶の右手”が暗黒に染まる。一瞬、右手が膨らんだように見えた。
 金属が砕ける轟音が響き、光の薙刀はガラス細工のように粉々に飛び散った。
 
「それでもお前は甘すぎる。最後、命を奪いにきたサクラにさえ、遠く及ばん」

「・・・そ・・・んな・・・」

 唯一の希望であった“鬼喰”を失ったユリアに、ゲドゥーの言葉は、遥か彼方のものに聞こえ
た。
 
 ドボオオオオオオッッッ!!!!
 
 突き上げる“最凶の右手”のアッパーが、おさげ髪の少女の鳩尾を抉る。背中に開いた傷穴
から深紅の血柱が噴き出る。
 くの字に折れ曲がったまま、ゲドゥーの目の高さまで浮き上がった黄色の天使は、そのまま
の姿勢で大地に落ちる。
 
「おおッッ・・・ォゴポオエエッッ・・・ごぶぅッッ・・・ぐッ・・・ふぅぐッ・・・」

 大きく開いた口から垂れ流れる、血と涎と胃液。爪先立ちでよろめきながら、ボトボトと朱色
混じりの体液を垂れ落とし続けるユリア。
 その右手が、ゆっくりと無言で佇むゲドゥーへと伸びていく。
 まだ闘おうというのか。ほとんど意識もないままに、武道天使はまだ闘いを続けようとしてい
た。もはや誰の目にも決着は明らかだというのに―――。
 
 ザクンッッ・・・
 
 背後から迫ったギャンジョーの左腕は、少女戦士の小さな胸の膨らみを横から突き刺してい
た。「ひぐぅッッ?!」無様な悲鳴をあげて、激痛にユリアが仰け反る。
 
「さんざんコケにしてくれやがったなァッ〜〜、クソガキよォ・・・覚悟はできてんだろうなァ、あ
ァ?」

 震えるユリアのスレンダーな肢体を、凶獣が羽交い絞めに捕らえる。もはや力を込める必要
もなかった。拘束というより、ただ支えるだけでユリアの身体は敵の手に落ちていた。
 霞むユリアの視界に、ゲドゥーが右手を突きつける。漆黒の煙が濛々と発ち上がるそれが、
聖天使を滅ぼす濃密な暗黒エネルギーを纏っているのは明白であった。
 
「あぐぅッ・・・ふぇあああアアッ・・・や、やめ・・・」

「武道家らしく、打撃でトドメを刺されるのも一興だろう?」

 ゲドゥーの上半身に捻りが入る。大きく振りかぶっての一撃。ただでさえ破滅的な“最凶の右
手”の豪打を、最大の闇エネルギーを纏って渾身の力で叩き込む。羽交い絞めにされた、無防
備な少女戦士に。
 確実な敗北が訪れることを、ユリアは悟った。
 
 ドッキャアアアアアッッッッァァッッンンンッッッ!!!!
 
 獰猛な悪魔の破壊ブローは、ユリアの胸中央、青い水晶体に叩き込まれていた。
 
「きゃあああああああああああッッッ―――ッッッッ!!!!」

 バシュッ!! バシュンッッ!! ドバババババッッ!!
 
 その瞬間、銀と黄色の肢体は爆発したかのようだった。
 全身から黒い炎を噴き上げるユリア。爆ぜた。聖なる戦士の肉体が、魔のエナジーに食い破
られて引き裂かれた。噴き上がる鮮血が赤い霧となってスレンダーな肢体を包む。
 ゴボリ・・・
 赤黒い塊が半開きになった唇を割ってこぼれ出る。
 ユリアの瞳から、青い光は消えていた。
 着弾の瞬間、消し飛んだように見えたクリスタルの光は、かすかに点滅をしていた。ヴィッ・・・
ヴィッ・・・という緩やかな警告音が、武道天使の命があとわずかであることを示している。
 
「ゲドゥーさん、オレにも遊ばせてくださいよォ」

 意識をなくし、もはや肉人形と化したような黄色の天使をギャンジョーが突き飛ばす。
 グチャァ・・・懐に飛び込んできた血塗れた身体を引き剥がし、今度はゲドゥーが動かぬユリ
アを羽交い絞めに拘束する。白のプレテクターは、ユリアの返り血で朱色に汚れていた。
 
 ズドオオオオッッッ!!! ブシュブシュブシュッッ!!!
 
 棘付き鉄球によるストレートブロー。怪力が放つ凶器付きの豪打は、発展途中の少女の右
乳房を潰していた。
 
「あがあああァァァッッ〜〜〜ッッッ!!! ゴボオオッッ!! ひぐぅッ、ひゅええああァッ・・・ア
アッ〜〜ッッ・・・」

「ヒャハハハハハァッ〜〜ッッ!!! 起きたか、ユリアちゃんよォ?! ちいせえオッパイが
穴だらけになっちまったなァ? だがよ・・・」

 残酷極まりない形状の鉄球が、妖しげなピンクの光を放ち始める。
 混濁するユリアの意識でも、ハッキリとわかる魔光の正体。何百人という単位で女性たちを
犯し続けてきた淫魔に備わる悦楽の魔光が、なだらかな乳房に突き刺さった鋭利な棘から思
春期の少女に流し込まれていく。
 
「あッ・・・ああアッ?!!・・・・・・んくッ?!・・・ひくぅッ?!・・・ひゃふ・・・ひゃめ・・・」

「ギャハハハハハアァァッッ〜〜ッ!! 随分敏感じゃねえかッ! オマセなガキだぜェッ〜
〜! ほぅらよっと!」

 ブブッッ!! ブブブブブッッ!!
 
 視覚で捉えられるほど大量の催淫光線が幼い乳房を揺らす。ただ胸の性感帯を愛撫される
だけでは済まない、媚薬の注射を何十本と打ち込まれるような官能の刺激が、ユリアの右乳
房に満ちていく。思春期の少女の過敏なオッパイは、強度の媚薬にホルマリン漬けにされてる
ようなものであった。15歳の少女に耐えられるわけがない魔悦の拷問に、痛みすら忘れて守護
天使が絶叫する。
 
「ひぶうぅッッ?!! ひゅはああああッッ〜〜ッッ!! ひゃめえェェッ!!! ひゃめええェェ
ッ〜〜ッッ!! イヤアアアアアッッ―――ッッッ!!!」

「ふん・・・どうやら、見掛けによらず淫乱な体質のようだな。あるいはすでに魔悦の洗礼を受け
たか」

 ゲドゥーの右手が空いたユリアの左の乳房を鷲掴む。ピンク色の霞を漂わせ始めた右手は
“最凶”ならぬ“最嬌の右手”となって、みるみる屹立した乳首の突起を転がした。マシュマロの
ような柔らかさと、蕾の固さを併せ持った乙女の乳房。グリグリとこねられただけで、熱い蜜が
下腹部の壷から溢れるのをユリアは我慢できなかった。
 
「いぎいいィィッ・・・ひふああッッ・・・はぁぐッッ!! ふひゃああああッッ〜〜〜ッッッ!!!」

「オレとギャンジョーでは似ているようでも法悦の種類が異なる。二種類の猛毒で乳房をそれぞ
れ責められるようなもの。初潮からも間もないようなお前では、狂ってしまいそうな快楽だろう」

 ギリギリと少女の乳房を握り潰しながら、ゲドゥーがユリアの身体を浮き上がらせていく。
 胸が千切れそうな激痛に絶叫するロリータフェイス。食い込む凶魔の指から注ぎ込まれる魔
悦光線と、突き刺さった棘状突起から打ち込まれる淫靡光線とで、桃色に染め抜かれた幼い
膨らみは、脈打つほどに感じまくってしまっている。
 
 ドス・・・
 
 悦楽の渦に蕩けきり、無様に嬌声を迸らせるユリアの股間に槍腕が突き刺さるのと、下腹部
の水晶体が凶魔の左手に掴まれるのとはほとんど同時であった。
 
「・・・はぁうッッ?!!」

「サクラと同じく、イキまくって死ぬか、ファントムガール・ユリア?」

 股間の内部と外、子宮に結びついた『エデン』に向けて、女芯を蕩かす魔悦光線が一斉に放
射される。
 
「ひゅぎゅああああああああッッッ―――ッッッ?!!! ひぶうぅッッ!!! ひゃめへえええ
えッッッ〜〜〜ッッッ!!! はあぎゃああああああッッッ―――ッッッ!!!」

 4つの腕から注がれるピンク色の悦楽に全身を包まれ、壊れたように泣き叫ぶ、ユリアの悲
鳴が轟いた。
 
 
 
 ユ・・・リ・・・ア・・・・・・
 
 耳鳴りが頭蓋骨にまで響いているかのようだった。
 重い、重い身体。五十嵐里美の五感は、全てが奪われてしまったかのようだった。石の彫像
に脳だけ埋め込まれたかのように。あらゆる神経がブツリと断ち切られたのか。見えない。聞
こえない。動けない。わからない。暗黒の底に飲み込まれ、ただ深い漆黒のなかに里美はい
た。
 
 かすかに、地平線の彼方から聞こえてくるほどかすかに、鈴のような少女の悲鳴が聞こえて
くる。痛切で、魂が救いを求めるような、悲鳴。
 あれは恐らく、ファントムガール・ユリアの泣き叫ぶ声。ということは、ユリアはまだ生きている
のか? 窮地に陥っているのか? わからない。ただ、なんとかしなければ。
 
 肉体の限界はとっくに越えている。『エデン』による強制睡眠で意識など保てないはずの里美
の身体は、動いていた。土の地面に伏せたまま沈んだ令嬢戦士の肢体は、ズルズルと無意識
の内に這い進んでいた。覚醒したとも夢のなかとも判断つかぬまま、里美の身体は随分と前
方に移動していた。
 
 そこに・・・いるのね、吼介?
 
 うずたかく積もった瓦礫の山がある。滲み拡がった血の痕がある。
 あなたも、ここで死ぬの? それが私の使命だったの?
 
 工藤吼介は最後には藤木七菜江を選んだ。里美の元を自ら去って。
 その七菜江は吼介と同じ、『血を継ぐ者』であった。そして里美自身がファントムガールに選
んだ少女だった。
 
 私は。
 私は、なんのために闘ってきたのだろう。
 
 私は。
 私は、なんのために闘わなければいけないのだろう。
 
 気がつけば、里美の身体は瓦礫の丘の上に這い上がっていた。
 意識は、あるのかないのか、よくわからなかった。自力でここまで来たのかも、わからなかっ
た。ただ、開いた瞳から、とめどなく涙が流れ落ちる。とどまることのない、涙が。
 
 私は、大切なものを失った。
 あまりにも多くの、大切なものを失った。
 けれども。けれども。
 
 震える右手が、混濁した視界のなかで見えている。
 里美自身の手だと気付くには時間がかかった。右手は、蠢く白い球体を持っている。
 
 通称『第六エデン』―――
 
 吼介。
 あなたは、ナナちゃんを、選んだのね。
 だったら。
 
 だったら。
 あなたと、ナナちゃんが、幸せになるのなら。
 私は、それで、十分嬉しい。
 
 再び意識を暗黒に飲まれていく里美の手から、『第六エデン』が滑り落ちた。
 瓦礫の山のなかへ。
 
 
 
「むねへええェェッッ・・・お、おかひくぅッッ・・・んきゅうッッ!!・・・・・・やッ、やめへえええッッ〜
〜〜ッッッ!!・・・・・・ゆッ、ゆるひへええェェッッ・・・くらさいィィッッ〜〜ッッ・・・!!」

 催淫のピンク光に身を包まれた銀の天使が、甘酸っぱい叫びで懇願を迸らせる。武道天使
ユリアの声には、明らかな昂ぶりが張り付いていた。人類の希望を託された守護天使は、いま
や怒涛となって押し寄せる悦楽地獄に飲み込まれた、無力な女子高生に過ぎなかった。
 なだらかに盛り上がった蕾の乳房の片方は、“最嬌の右手”に捻じ切れんばかりに揉みしだ
かれ、もう片方は無惨に穴だらけにされて淫魔のエキスを注入されている。ユリアの理性のタ
ガはとうに吹き飛ばされていた。唇の端からトロトロと涎が垂れ続けるのも気付かずに、少女
戦士は痺れるような快感に悶えよがった。
 
 だが、15歳の多感な少女に襲い掛かる淫獄は、その程度では済まなかった。
 子宮と結びついた『エデン』が表出した下腹部のクリスタル。ファントムガールを生み出す核
そのものであり、性感帯の極大地でもある女芯の中枢とも呼ぶべき弱点に、魔悦の光線を直
接浴びせられたのだ。しかも体内に挿入された、ギャンジョーの槍先からも同時に。
 
“死、死ぬ!! 死ヌッッ!! 死んひゃふぅぅッッ!! ・・・きッ、気持ちよすぎてェェッッ〜〜
ッッ・・・わ、私、死んひゃううぅぅぅッッッ〜〜〜ッッ!!!”

「ひゃぶううぅぅッッ!!! ひげええェェッッ!! ゆ、ゆるひィッッ、ゆるひへええェェッ
ッ!!! もうやめェェッッ・・・やめへええええェェッッ〜〜〜ッッッ!!!」

「無様だな、ユリア。先程までの武道家の表情はどうした? 女の愉悦には所詮逆らえない
か? さかりのついた雌め」

「ゲドゥーさんッ、こいつ、おとなしい顔して好きモノですぜェッ!! 気持ちよすぎてビクビクし
てやがるッ!! ギャハハハハハ!! 女神さまの正体が、単なるセックス好きの小娘だった
とはなァッ?!」

 ギャンジョーの蔑みの台詞も、底なしの桃源郷に突き落とされたユリアには届いていなかっ
た。
 下腹部が、胸が、熱く痺れている。欲情の稲妻に貫かれ、まだ幼さ残るスレンダーな少女戦
士は快楽に身を突っ張らせることしかできない。気が抜けたら最後、全てが破裂してしまいそう
だった。
 官能に侵食された脳裏の隅に、惨死したファントムガール・サクラの姿がよぎる。
 サクラも淫悦の魔光を子宮クリスタルに浴びて、トドメを刺されていた。快楽の果てに壮絶な
悶死を遂げていた。守護天使として、最も残酷な処刑でサクラは散った。
 
“私・・・も・・・こ、このまま・・・死ヌ・・・・・・このまま・・・嬲られて・・・殺サレル・・・”

 獣のように泣き叫びながら、ユリアはこの快楽責めから脱出できない事実を悟っていた。
 乳首もクリトリスも、カチカチに硬直して尖っている。
 感じまくっていた。ピンクの淫靡光線を浴びるだけで、闘う力など消え失せる敏感な身体。子
宮自体と発達途中の過敏な乳房を責められて、ユリアに反撃などできるわけがない。
 このまま、死ぬ。過酷な魔悦光線を浴び続けて、間もなく快楽死を迎える。
 発狂しそうな悦楽のなかで、ユリアは己の残酷な運命を受け入れつつあった。
 
「ひゃぎゅうううぅぅッッ〜〜〜ッッ!!! へああああッッ〜〜〜ッッ!!! ゆッ、ゆるひへえ
えッッ――ッッ!!! いっそ殺してくださいィィッッ―――ッッ!!!」

「ヒャハハハハァァッッ〜〜〜ッッ!!! わかったようだなァ、ユリアちゃんよォ?! そうだ、
てめえはこのままイキまくって死ぬんだよォッ!! 正義の女神さまには最高の死に方だろう
がッ?! 潮吹きながら絶頂し続けててめえは死ぬんだッ!!」

 ボコボコッッ・・・ボコオッ・・・
 奇妙な音色がユリアの下腹部で鳴る。血で汚れた銀色のVゾーンが、音に合わせるように膨
れ、凹み、変形している。
 槍腕が形状を変えているのだ。ユリアの膣の内部で。
 おぞましいまでの光景だった。凶器を飲み込んだ聖少女の秘裂内部が、悪魔の変形に蹂躙
されている。槍型が鉄球になり、ペンチになり、様々な拷問器具になり・・・モゴモゴと変形する
たびに乙女の締まった膣を抉る。
 
「んぎゅあああああアアアッッッ――――ッッッ!!!! ひぐえええあああッッッ!!! ふび
ゃああああアアッッッ――――ッッッ!!!!」

「ギャッハッハッハッハアアアッッ〜〜〜ッッ!!! そおら、ユリア、てめえの大好きな悦楽光
線をたっぷり浴びせてやるぜェェッ!!」

 凶魔と凶獣、美少女戦士をとらえた4つの腕から、一際発光の強い桃色が一斉に照射され
る。
 
「きゃふうううううぅぅッッッ―――ッッッ!!!! ダ、ダメええええェェェッッ〜〜〜ッッ!!! 
もうダメェェッッ―――ッッ!!!! ひィッ、ひぬううぅぅッッ〜〜〜ッッ!!! ゆるひィッ、ゆ
るひへえええッッッ〜〜〜ッッッ!!!!」

「女子高生ごときがオレたちに歯向かう無謀、思い知ったか、ユリアよ」

「ダメへえええッッッ〜〜〜ッッッ!!!! んひゃああああッッッ〜〜〜ッッ!!!! こッ、
殺しッッ!! 殺してええエエッッ〜〜〜ッッッ!!!」

「誓え、ユリア。オレたちに敗北したことを」

「ぎふううッッ!! ひゅぎゃああああッッッ―――ッッッ!!! お、お願ァッッ・・・いィッッ・・・
ですッッ・・・殺してェェッッ・・・くだ・・・さいッッ・・・」

「早くラクになりたければ、誓え。その口から、敗北の宣言を」

「んああああああッッッ―――ッッッ!!!! む、むねへええェェッッ〜〜〜ッッッ!!! ア
ソコがァァッッ・・・こッ、壊れええるううぅぅぅッッ―――ッッッ!!!! ・・・ちッ・・・誓いィッ・・・ま
すッ・・・・・・わ、私の負けをッ・・・み、認めますッッ――ッッ!!!」

「フヒャヒャハハハァァッ〜〜ッッ!!! 足りねえなァッ、そんなんじゃよォッ!! 気持ちいい
かッ?! 感じてんのかァッ?! 言ってみろォッ!!」

「きッ・・・気持ちいいッッ・・・ですぅッッ・・・感じてェッ・・・ますぅッッ・・・!!」

「もっとだァッ!! もっと丁寧に言ってみろやァッッ!! 正義の女神さまは気持ちよすぎて負
けを認めるんだなァ?!」

 ユリアを包むピンクの魔光が、さらにその発光を強める。
 言ってはならない言葉があることを、15歳の戦士は悟っている。たとえ死しても、口にしては
いけない台詞が守護天使としての運命を背負った少女にはあることを。
 だが、壮絶な苦痛に耐えることはできても、純真な少女に女芯を蕩かす快楽責めは過酷すぎ
た。
 
「・・・認め・・・ますぅッッ・・・・・・私・・・ファントムガール・ユリアはァァッッ・・・気持ち・・・よすぎて
ェ・・・敗北を・・・認めますッッ―――ッッッ!!!・・・・・・」

 ヴィヴィッ・・・ヴィヴィヴィッッ――ッ・・・ヴィヴィッッ・・・
 ガクンとうなだれるロリータフェイスに合わせるように、下腹部のクリスタルが金切り声を上げ
始める。
 許容を超えた愛撫を浴び続けた子宮の『エデン』が、激しく痙攣するがために起こる現象。
 それはユリアの性が危機を迎えている緊急のサインであり、サクラが死の間際に起こしたも
のと同じ現象であった。
 
「おしまいだなァッ〜ッ、ユリアちゃんよォッ!」

 執拗なまでの、4箇所同時の魔悦光線責め。
 間もなくユリアは悶絶死を迎える。サクラと同じように。快楽に悶えるだけで手も足も出ないユ
リアに、悲壮な最期から逃れる術はない。
 
「待て、ギャンジョー。面白い趣向を思いついた」

 唐突なゲドゥーの声に、子宮クリスタルと乳房を包んでいたピンクの発光がやむ。
 解放された黄色の天使の肢体が、ドシャリと大地に崩れ落ちる。戒めから解き放たれたユリ
アの身体は、しかし魔悦の余韻にピクピクと震えるだけで、反撃の力など皆無であった。
 
“ああァッ・・・あへああァァッ・・・ふ、ふぐうぅッッ・・・な、なにを・・・・・・一体・・・なにを・・・するつ
もり・・・?!・・・”

 ヒクンヒクンッッ!! ビクビクッッ!!
 横たわったスレンダーな天使が、緩慢に揺れ動きながら、時折激しく痙攣する。
 昂ぶるだけ昂ぶらされたユリアだが、昇天の寸前で魔悦責めは中断されていた。内にこもっ
た欲情が燃え盛ったまま放置された少女にとっては、じわじわと広がる官能の炎もまた拷問と
変わらない。
 
 霞がかった視界のなかで、茶褐色の凶獣が近づいてくるのが見える。逆にひとつ眼の凶魔
は離れていき、法隆寺の夢殿を真似て造ったとされる、特徴的な日本武道館の傍に立つ。
 ゲドゥーの右手が手刀となって、横一閃に武道館の屋根を薙ぎ払う。空手家がデモンストレ
ーションでビール瓶を切る、そんな仕草に似ていた。
 スパッと屋根を切り落とされ、武道館の天井には八角形の穴が開いた。なだらかな角度でせ
りあがった屋根の途中で不意に平行な切り口を見せる姿は、噴火口の極端に広い火山の様
にも似て映る。
 
「どうだァ? ああしてみると、武道館もなんだか“容器”みたいに見えねえか?」

 下卑た声が聞こえたと思った瞬間、ユリアの首には鉄枷が嵌められていた。
 変形したギャンジョーの右腕。棘付き鉄球であったものは、鎖に繋がれた鉄枷に変わってい
た。枷が細首に食い込むや、太い鎖がギャラギャラと引き戻されていく。
 
「んぐッッ?!!・・・ぐうぅッッ・・・・・・かふッ・・・ううぅッッ――ッッ!!!」

 銀色の細い首が伸びる。気管を潰される苦しみに、鈴のような少女の呻きがたまらず洩れ
る。
 生命の象徴エナジー・クリスタルに極大のダメージを受け、淫魔の光線を子宮クリスタルに浴
び続けたユリアはとっくに体力を枯渇していた。窒息の苦しみに悶えながらも、肢体はただビク
ビクと痙攣するのみで首を締め付ける力に抗うことすらできない。
 首に鉄枷を嵌められた美少女が、鮮血にまみれたスレンダーな肢体を、ズルズルと凶獣に
引きずられていく。モノ同然の扱いを受け、泥に汚れていく守護天使の姿は正義が敗れ去った
ことを雄弁に語っていた。
 
 ギャラギャラギャラッッ・・・ギュラララッ――ッ!!
 
 一気に鎖が引かれる。高々と掲げたギャンジョーの右腕に吸いつけられるように、スレンダ
ーな肢体が吊り上げられていく。
 ポッカリと穴を開けた、武道館の頭上。
 四肢を脱力させ、首に枷を食い込ませた血染めの天使が、ブラブラと揺れる。
 ファントムガール・ユリアの、公開絞首刑。
 魔悦の余韻で桃色の霞をまとわりつけた美少女が、苦痛と劣情の余波に痙攣する。襟足で
まとめたふたつのおさげ髪がヒクヒクと風に揺れている。大きな瞳が印象的な童顔が、呼吸を
求めて泣き出しそうに歪む。
 ゲラゲラと渦巻くギャンジョーの哄笑を、ユリアはただ浴び続けるしかなかった。
 
「ぐうぅッッ!! はァぐッッ!!・・・んくぅッ!!・・・んッ・・・んんアアッッ・・・」

「ヒャハハハハハ! 苦しいかァッ、小娘ェェッ!! だがお楽しみはこれからだぜェェッ〜〜
ッ!!」

 背後から回されたゲドゥーの手が、さんざん弄ばれた小ぶりな乳房を鷲掴む。
 首に食い込んだ鉄輪が徐々に降ろされていく。絞首刑は序章に過ぎなかった。本当の処刑
はこれからなのだ。私はこれから、二匹の暴魔に敗北した事実を証明するように嬲られ、殺さ
れる。
 
 日本武道館の上に降ろされたユリアは、まるで三角木馬のように跨がされた。長い脚が八の
字のように大きく開かされる。
 “容器”代わりにされた武道館の上に、跨った自分。
 ユリアは凶魔たちの恐るべき悪計を悟った。
 
「先程は絶頂目前で寸止めにして悪かったな。今度は遠慮なくイクがいい」

「いやああッッッ?!!・・・イヤアアアアアッッッ―――ッッ!!!」

 胸を乱暴にこね回すゲドゥーの両手が、再び魔悦のピンク光に包まれる。
 これが、本気の愛撫だったのか――。柔らかな膨らみがソフトにこねられ、頂点の突起をクリ
クリといじられる。ギチギチに硬直した乳首は突かれるだけで、脱力しそうな電撃を下腹部に
送った。呆けるような快感。威力を増した淫悦の波動は、少女の限界を遥かに越えたものであ
った。
 
「ひぶううぅッッ――ッッ!! ひぶううぅッッ――ッッ!! イっひゃうううぅぅッッ〜〜〜ッ
ッ!!! へああああああッッッ―――ッッッ!!!!」

「ギャッハッハッハッハァァッ〜〜〜ッッ!!! おらァッ、こいつも喰らいなッ!!」

 ドリルに変形したギャンジョーの左腕が、下腹部のクリスタルに突き当てられる。
 ギュイ――――ンンッッ!! ギャリギャリギャリッッ!!
 ファントムガールの根源を成す『エデン』そのもののクリスタルを穿ちながら、ピンクの魔悦光
線を凶獣は撃ち込んだ。ユリアにとっては濃厚な媚薬を子宮そのものに注射されるようなもの
――。
 
「はあぎゃあああああッッッ―――ッッッ!!!! イクううぅぅッッ〜〜〜ッッッ!!! ふびゃ
ああああッッ―――ッッッ!!!!」

 ぶっしゅううううッッ・・・ジョバアアアアッッ・・・
 
 絶頂に達するのと、失禁を洩らすのとはほぼ同時であった。
 凄まじい勢いで、ユリアの股間から大量の潮と小便が噴射される。ドボドボと溢れる体液の
洪水は、“容器”となった武道館に溜められていく。
 巨大な女神の体液を収集するビーカーの役目を、武道館が即席で担っているのだ。
 いくらユリアが巨大とはいえ、武道館を満杯にするだけの愛汁を射出するとは思えない。だ
が。
 
 ぷっしゅううう・・・ブシュッ・・・ジュルジュル・・・ぷっしゅうッ・・・
 
 オルガスムスを迎えた少女は、執拗に胸愛撫と子宮へのドリル攻撃を受け、続けざまに潮と
愛液を迸らせ続けている。
 ユリアが絶頂に達したかどうかなど、関係がなかった。貪るように、責め尽くす。一瞬の休息
も許されずに、昇天しては昂ぶらされ、繰り返し繰り返しユリアの精は搾り取られていく。敏感
な少女の大脳は、もはや官能の海に漬けられたようなものだった。全ての神経が、快楽で麻
痺している。
 
「へふばああッッ・・・も、もうダめェェッ〜〜ッ・・・らめへェェッ〜〜ッ・・・お、おかひくぅッ・・・おか
ひくなりゅぅぅッッ〜〜〜ッ・・・」

“ダメェェッ・・・ダメェェッ・・・も、もう・・・狂っちゃうぅぅ・・・・・・き、気持ちよすぎてェェ〜〜ッ・・・
正常じゃ・・・いられない・・・・・・”

 ヴィヴィヴィヴィヴィッッ・・・
 子宮クリスタルが今にも壊れそうに甲高い音色を立て続ける。
 ボトボトと滝のように流れるユリアの愛蜜で、水位を増していく武道館の内部。
 
「あひゅッッ・・・ひゅぎゅうううッッ〜〜ッッ・・・も、もうッ・・・も・・・ゴボッ・・・ゴボゴボゴボ・・・・・・」

 股間から、いまだに体液を噴き出しながら、ガクリと愛くるしい童顔が糸が切れたように垂れ
る。
 武道館に跨ったまま、犯され続け昇天してしまったファントムガール・ユリア。
 おさげ髪が似合う顔立ちの美少女戦士が、快楽の末に果てた姿は、淫靡を通り越して悲壮
であった。
 
「まだ体液が足りんな。ギャンジョー、やれ」

「こいつらファントムガールは生命力だけは並外れてますからね。トドメのトドメといきますか」

 子宮クリスタルを抉っていたドリルをギャンジョーが抜く。狙いをユリアの腹部に定める。
 精を搾り尽くされ、発狂寸前まで追い込まれて気絶したユリアに、惨撃を避ける術などなかっ
た。
 
 ドシュウウウウッッッ!!!
 
 黄色の守護天使を貫くドリルは、一息に腹部から背中へ突き抜けた。
 鮮血の華がユリアの前後で咲く。ブシュブシュと、勢いよく真紅の血が武道館のなかへ垂れ
落ちてく。
 
「ぐうううッッッ!!! ・・・んんんあああああッッッ―――ッッッ!!!!」

 身肉を抉られる激痛に蘇生したユリアの口から、絶望がこびりついた悲鳴が轟く。
 
“・・・私は・・・・・・もう・・・ダメ・・・・・・です・・・・・・”

 凶獣が笑っている。仇であった凶獣が。ユリアの死を確信して嘲笑している。
 グイと鉄枷が引っ張られ、崩れ落ちた顔を強制的に上向かされる。眼の前には、そそりだっ
たゲドゥーの剣魔羅が突きつけられていた。理解する前に、ユリアの小さな唇を割って、剛直
が突っ込まれる。
 
“エリ・・・姉ちゃん・・・アリス・・・さん・・・・・・私は・・・仇を・・・討てませんでした・・・・・・私は・・・
無様に・・・・・・殺され・・・ます・・・・・・”

 ヒクヒクと震えるだけの銀の女神は、凶魔と凶獣にとって、もはや性欲の捌け口となる肉人形
でしかなかった。
 おさげ髪を鷲掴んだゲドゥーが、ユリアの小さな頭部を激しく前後に振る。幾度も肉体を刺し
貫かれ、陵辱で心身ともに破壊された守護天使は、凶魔の成すがままだった。長大なペニス
が乙女の咽喉奥まで突き入れられ、引き抜かれる。ゴボゴボとユリアの咽喉が不快な音をあ
げるのも構わず、強制フェラチオは繰り返された。アニメに出てきそうな美少女の顔は、もはや
ゲドゥーのオナニー道具であるかのようだった。
 
「うぐぅッ・・・ごぷぅッ・・・オゴオォッ・・・オオオッ・・・!!」

「オレの肉棒に塞がれて、呻くことしかできんか。ファントムガールも惨めなものだな」

 ユリアの青い瞳がチカチカと点滅している。半濁した意識の少女に、ゲドゥーの嘲りはもう届
いてはいない。
 大股を開いた天使の秘裂には、ハッキリとそれとわかる女性の陰部が形作られている。
 ピタリと左腕のドリルを陰唇に当てたギャンジョーは、ソフトに嬲るためにゆっくりと回転をさ
せた。
 
「おぶぅッッ?!! おおおぅぅッッ――ッッ!!!」

「てめえをイカせるのには、もうこの程度で十分だァ。この発情期のメス犬がよォッ!!」

 シュルシュルと股間を摩擦され、子宮クリスタルと尖り立った乳首とが、ビクビクと痙攣する。
魔悦光線に染め抜かれた少女の肢体は、快楽に脆くも反応する淫乱肉へと書き換えられてし
まっていた。愛蜜がじっとりとドリルを濡らしていくのを、ユリアには止めることができない。
 
「無様だな、ユリア。愉悦に飲み込まれ、自ら舌を絡ませ始めたか」

 唇の端から涎をこぼし続ける童顔の頬が、かすかにすぼまっている。
 無意識のうちに、ユリアの舌はゲドゥーの男根に奉仕を始めていた。
 己の唾液とカウパー腺の混ざった透明液を、欲するように飲み下している。
 細胞レベルで、正義の女神が悪の凶魔に平伏した、瞬間であった。
 
 咽喉の奥で、達したゲドゥーのスペルマが射出される。小便と間違うような大量の白濁液が、
ユリアの胃袋に放出されていく。
 許されなかった。乙女の口腔を完全に犯しきったというのに、ゲドゥーは飽き足らずにユリア
の小さな顔をガクアガクとピストンさせ続けた。
 ゴボオッ・・・ゴボオッ・・・ゴボオッ・・・ゴボオッ・・・
 ユリアの瞳から青色が消滅し、悲鳴が洩れなくなっても構わず、天使の口への大量射精は4
回、5回と続けられた。
 
「そろそろ、いいんじゃないですかい?」

 疵面を吊り上がらせたギャンジョーの声に促され、ゲドゥーがヌルヌルに濡れた剣のごとき肉
棒をユリアの口腔から引き抜く。
 半開きになったユリアの口、いっぱいに溜まった白濁のザーメン。
 小さくも形のいい鼻からも、饐えた精液が溢れそうになっている。
 下半身の痙攣が収まらなくなるまで陰部への愛撫を続けたギャンジョーのドリルが、すっと股
間を離れて下腹部のクリスタルへと標的を定める。
 ツン、と子宮と同化した水晶体を突いただけで、ユリアの股間から再び滝のような潮と愛液が
噴射された。
 
 ぶっしゅうううううッッ―――ッッッ!!!
 ボトボトッ・・・ボトッ・・・ボタボタタ・・・
 
「ぶちまけろ、ユリア」

 “最凶の右手”が、動かなくなった肉人形の鳩尾を下から突き上げる。
 内臓まで届いた凶魔の右手は、ユリアの胃袋をグシャリと握り潰した。
 
「オボオオオォォェエエエェェェッッ〜〜〜ッッッ!!!! ゴボオオオオッッッ―――ッッ
ッ!!!!」

 ぶっぱああああッッ・・・ンンンンッッッ!!!
 一斉に逆流した凶魔のザーメンが、ユリアの鼻と口から反吐となって噴き出す。白濁液が噴
射される。
 
 ごぼおおおッッ・・・ドボドボドボ・・・ボタッボタッ・・・ボトトッ・・・
 ユリアが跨った武道館の器のなかへ、あらゆる体液が溜まっていく。全てを吐き出した哀れ
な少女戦士は、唇から精液の残滓をこぼしながら、ピクリとも動きはしなかった。
 
「ギャッハッハッハッ!! 終わりだァッ!! ユリアァッ!!」

 日本武道館に跨った哀れな少女の肢体が引き剥がされる。ゲドゥーとギャンジョー、二匹の
暴魔に高々と持ち上げられる血染めの女神。スレンダーなユリアの肢体が、逆さまにされて、
杭のようにピンと一直線に固定される。
 腕ごと胴を締め付けるギャンジョーと、両脚を伸ばして揃えるゲドゥー。
 受け身の取れない、ツープラトンのパイルドライバーの体勢で、巨大な悪魔二匹に捕獲され
た華奢な天使が、脳天から真っ逆さまに大地に落ちていく。
 己の愛液と潮、鮮血・・・あらゆる体液にくわえ、仇敵の精液で満たされた、日本武道館の“容
器”へと。
 
 グッシャアアアアッッッ!!!
 
 武道館の屋根から垂直に落とされたユリアの頭部が、大地へと激突する。
 半ばまでを地面に埋没させたユリアの顔は、凄惨な体液の海にその顎下までを浸されてい
た。
 ピーンと一直線に伸びた武道天使の肢体は、ピクリとも動くことなく地面に突き刺さったまま
だった。
 
「サクラが死に、アリスが死んだ。そしてナナとサトミは戦闘不能。このユリアの死をもって、オ
レたちの仕事はどうやらほぼ完成を迎えたようだ」

 逆さに杭打ちにされたユリアの身体を眺めながら、腕組みをして語るゲドゥーの声は、味気な
いほど冷徹なものであった。
 守護天使の胸の中央で鳴るエナジー・クリスタルが、その青色の光を消え入りそうに小さくし
ていった。
 
「ギャハハハハハハ!! 生意気な小娘も最期は脳天から杭打ちにされてザーメン漬けか
ッ!! い〜いザマだぜェェッッ!! ヒャハハハハハ!!」

「いくぞ、ギャンジョー。巨大化できる限界も、そろそろ近づいてきている」

 穴の開いた武道館の天井から真っ直ぐに伸びた、スレンダーな銀色天使の下半身。
 赤黒く汚れたユリアの両脚が、痙攣ひとつしなくなったのを確認して、ひとつ眼凶魔が背を向
ける。
 ゴボゴボと体液溜まりが泡立つ音も、もはや聞こえなくなっていた。
 武道の聖地とされるこの場所で、柔術の達人ユリアを葬り、屍を晒す。しかも汚液いっぱい
の棺桶と化した講堂に突っ込んで。希望を託された少女戦士の処刑としては、悪くない仕事ぶ
りのはずだった。ゲドゥーに不満が残るとすれば、サクラ戦ほどのスリリングな緊張感を味わえ
なかったことくらいか。
 
「これからメフェレスの小僧に増援するつもりですかい?」

「いや、今からでは間に合わんな。60分の活動限界時間がくるまでにこの姿を解く。次の仕事
の前に、少しでもダメージを抑えんとな」

「次ィ? オレらの邪魔しそうなヤツらは、もうほとんど消したじゃねえですか」

「まだサトミとナナが生き残っている。ファントムガールの最期の始末は、盛大にやらねばな」

 もはや武道館を振り返ることもなく、凶魔と凶獣は防衛省に向かって歩を進める。
 日本の防衛機能の中枢であるこの建物を襲うのは、ファントムガール・サトミを誘い出すため
であり本来の目的ではなかった。だが、人々の希望が潰えたことを見せつけるには、戯れに破
壊しておくのも面白い。
 紺色のひとつ眼が、チラリと北の丸公園の隅を見詰める。
 倒壊したビルの瓦礫の山の上に、ボロボロのセーラー服を纏った少女がひとり、横たわって
いた。
 
 お前を殺すのはいつでもできる。だが、今は殺さんぞ、五十嵐里美。
 お前の死刑執行は、もっと華やかな場で、だ。
 逃げることはできん。守護天使として、奉られたお前にはな。次にオレの前に現れた時が、フ
ァントムガールの最期の時だ。
 
 幾度かの交戦を経たことで、ゲドゥーの脳裏には確信が根付いていた。
 ファントムガールの全滅は、時間の問題だ。あとは残る二匹をどれだけ壮大かつ残酷に処刑
し、人類に恐怖と絶望を植え付けるか、のみ。
 力尽き、女子高生の姿に戻った小娘を踏み潰したところで何の意味もなかった。ファントムガ
ールとなって再び舞い戻るまで待ってやる必要がある。
 胸に満つる、勝者の余裕。人類にとっては暗黒でしかない時代の到来を近い未来と描きつ
つ、黒縄で編んだような足は進んでいく。
 
 ・・・何?・・・
 
 ゲドゥーの歩みは、ピタリと止まっていた。
 ギャンジョーの巨体はすでに振り返っている。その茶褐色の頑強な肉体に、一旦消えたはず
の殺気が再点火しているのはすぐにわかった。
 
 バカな。
 この戦場に、まだ“立っている者”がいるわけがない―――。
 
 明らかに背中で感じる気配。それも並ではない。凄まじい闘気を放った戦士が、つい先程正
義が滅したはずの戦場に存在している。
 ひとつ眼の凶魔が振り向く。新たな“敵”の姿を、その視界に捉える。
 
「・・・なんだと・・・?」
 
 ファントムガール・ユリア。
 死んだはずのユリアが、構えを取って立ち上がっている。いや、確かにユリアが息絶えたの
を確認したわけではない。完全に動きの止まったユリアを、絶命したと受け取っただけだ。これ
までのファントムガールたちの驚異的な生命力を考えれば、あの状態からの蘇生も有り得ぬこ
とではない。現に胸中央のクリスタルは、わずかではあるが淡い光を灯していた。
 しかし、体液をおさげ髪から滴らせ、抉られた傷跡から鮮血をこぼし続ける瀕死の天使の瞳
からは、完全に光が消え失せていた。
 それでいて漂う闘志は、まるで復活前と衰えてはいない。いや、むしろこの感じは。
 
「こいつ・・・失神したまま、立ち上がったか。そのせいで、闘いの本能が剥き出しになるとはな」

 雄叫びをあげたギャンジョーが突っ込んでいく。まさにTレックスを思わせる猛進。半死人の
華奢な少女に対して、頑強な凶獣は不釣合いなほど全力をこめて潰しにかかった。
 触発されていた。ユリアの闘気に。
 ギャンジョーの殺気が、意識のないまま立ち上がった武道天使の放つ気に反応していた。こ
いつは危険だ、と。
 もはやユリアは加減をしてしまう甘ったるい少女ではない。歴戦の武人なのだ、と。
 
 右手を変形させる。棘付きの鉄球へ。
 ダッシュの加速に乗せて放つ、超速の打撃。光を失ったユリアの顔面に。
 
 激突の瞬間は、炎と水とがぶつかり合うが如くであった。
 
 目視不能な速度で繰り出されたギャンジョーの右手は、ユリアの長い指に容易く絡み取られ
ていた。その手首を。
 捕った瞬間には、すでに武道天使の身体は前にでていた。突っ込むギャンジョーの脇をすり
抜けて背後へ。凶獣は己の突進力で右腕を強引に捻じ曲げたようなものだった。前に突き出
された腕が、カウンターを喰らって急激にグニャリと反対に方向転換される。
 
「ギイィッ?!!」

 背後に腕を回された激痛で疵面獣が呻く。痛みに思わず爪先立つ。
 腕を取ったまま背中に回ったユリアが、背負うようにして肩越しから巨体を投げる。逆関節を
極めての、変形背負い投げ。体重差を克服する、理想的な力学の投げであった。凶獣が脳天
から落ちる。真っ逆さまに。ミシミシと右肩が悲鳴をあげる。
 
 容赦のないユリアの投げに、ギャンジョーは受け身を取ることすら許されなかった。
 頭部の頂点に疵面獣の全体重が圧し掛かる、苛烈な落とし技。
 地面が柔らかな土でなければ、あるいはギャンジョーの頭蓋は砕けていたかもしれなかっ
た。重く響く衝突音。突進力を全て己に返される形で脳天落としを受けた凶獣の全身に電撃が
走る。
 
「ぐええええエエッッ!!!」

 悶絶する猛獣の雄叫び。茶褐色の巨体が、かつて味わったことのない衝撃にもんどりうつ。
 間髪いれず、絶叫する疵面を少女戦士の黄色のブーツが踏み潰していた。踵で。全体重を
乗せて。
 
 ぐっしゃあああッッ!! 血飛沫とともに凄惨な音色が響く。悲鳴にも似た叫びが、牙の生え
揃った真っ赤な口腔から迸る。
 
「・・・破邪・・・嚆矢・・・」

 夢遊病者のように呟いたユリアの両手に輝く弓矢が現れる。引き絞った光の矢を、だらしなく
開いた凶獣の口のなかへ照準を向ける。
 分厚い表皮と頑強な筋肉で包まれたギャンジョーに、必殺の嚆矢も阻止される可能性は十
分にあった。信じ難いが、それだけの強度をこの怪物は現実に持っている。
 だが、口腔内部にまで、その強固な防御力は敷かれていない。さしもの最凶獣も脳まで貫通
されれば死に至る。
 
 確かな勝機。しかし、光矢を放つ前にユリアの肢体は、踵を引き抜き後方へ大きくジャンプし
ていた。
 バクンッッ!! 数瞬前まで踵があった空間を、ギャンジョーの牙が噛み砕く。ブーツのヒー
ルがかすり、削り取られる。
 判断がわずかでも遅れていたなら、ユリアのアキレス腱は食い千切られていた。数瞬。あと
数瞬。コンマの世界でユリアは凶獣を仕留め損ない、ギャンジョーは守護天使の足首を噛み切
れなかった。
 
 なんてヤツ。
 互いが互いに向けて送る、魂の声。だが疵面獣は屈辱と憤怒で猛り狂い、銀と黄色の女神
は続けざまに襲い来る難敵に再び嚆矢を引き絞る。
 
「これがお前の本気の実力かッ!! ユリア!!」

 水仙のごとき聖少女の眼前に現れたゲドゥーの咆哮は、明らかな歓喜に震えていた。
 放つ、光の矢を。濃紺のひとつ眼に向けて。
 射った瞬間、“最凶の右手”にユリア必殺の破邪嚆矢は加速が乗る前に掴み取られていた。
 
 最大の必殺技を最強の右腕で防がれる。判定ならユリアの負けか。いや、違う。
 悪魔の右手を使わせた。最大の武器を防いだのは、実はユリアの方だった。今、この瞬間に
おいてのみ、戦闘力の天秤は、大きく女神に傾いた。
 
 スパ―――ンンンッッッ!!
 
 体重ごと突き出す、武道天使の右拳。
 打撃。ユリアが打撃。予測できるはずのない攻撃が、菱形頭部の顎先に着弾する。グラつく
凶魔。揺れる、脳が揺れる。華奢な肢体をめいっぱい使った、美しいまでの打撃。これほどの
打撃を、よもや柔術少女が隠し持っていたなんて。いや、この状態だから出たのだ。無意識の
まま、武道家の血を継ぐ本能の赴くままに闘うが故、こんな打撃がユリアから迸るのだ。
 
「オレをッ!! オレをッ!! このオレを殴るか、ユリアッッ!! これが本当のファントムガ
ール・ユリアかッッ!!」

 凶魔の左手がユリアの右手首を掴む。反射的な反応だった。顔に一撃を喰らう屈辱と、この
強敵をどうしても殺さずにはいられない昂ぶりとが、冷静な殺し屋を無用心な行動へと走らせ
た。
 
「・・・無撃」

 聖なる少女の唇から呟きが洩れた瞬間、ゲドゥーの肉体から全ての力は抜き取られていた。
 これほどまでか。武道天使の真の実力とは。
 ゾクリ。戦慄が這うのを確かに凶魔は自覚した。戦慄だと? このオレが、戦慄などという感
情と縁があるとは。
 砲弾のごとき重い衝撃が腹部を抉ったのは、その瞬間のことだった。
 ユリアの回転後ろ蹴り。ローリングソバット。脚を回すのではなく、回転の勢いをつけて「突
き」蹴る足技は、威力においてはあらゆる打撃で最上位に入る。長距離砲のごとく伸び切った
後ろ蹴りは、ファントムガール・ナナばりの威力で凶魔の中央に突き刺さっていた。
 スラリと伸びたユリアの四肢は華奢なイメージを強くさせるが、スタイルがいい分、秘めた身
体能力は守護天使のなかでも高かった。全身を弛緩させられたうえでのディープインパクト。ゴ
ボリと吐瀉物が菱形頭部の口付近から噴射され、黒縄で編まれた身体がエビのように折れ曲
がる。
 
 なんだ、これは?
 ユリアは瀕死だ。このまま闘いを続ければ、紛れもなく我らが殺せる獲物なのだ。先程まで、
悦楽地獄に泣き喚いていた女子高生ではないか。
 なのになぜ、このオレたちが押されている?
 これがファントムガールなのか。そうか。これがファントムガールなのだ。
 
 関節を極められる激痛が疾駆したと思うや、ゲドゥーの視界は天地が引っ繰り返っていた。
 脳天から大地に叩きつけられる凶魔。まるで違っていた。今までのユリアの投げ技とは。仕
留めにきた柔術少女の本気の落とし方は、ゲドゥーをして一瞬、死を覚悟せざるを得ないもの
だった。
 
「ウオッッ・・・オオオオオオッッッ―――ッッッ!!!」

 大地と激突する菱形の頂点。重い衝撃。崩れ落ちる白プロテクターの凶魔。
 だが、跳ね起きる。脳天直撃のダメージに麻痺しているはずの肉体を、咆哮とともにゲドゥー
は立ち上がらせていた。猛る。冷酷な凶魔のなりふり構わぬ絶叫。守護天使たちを圧倒し続け
てきた最凶の刺客ゲドゥーが見せる、憤怒の狂態。
 武道館が震える。靖国神社が震える。防衛省が震える。千鳥が淵が震える。
 ゲドゥーとギャンジョー、怒りの雄叫びが千代田区一帯を震撼させる。街が恐怖しているの
か。あるいは聖戦の決着を間近にしてたぎっているのか。憎悪と殺意が渦巻くさなかで、ただ
ひとり武道天使のみが凛とした闘気を纏い続ける。
 
 終局は近い。血肉に染み付いた武道家の本能のみで闘い続けるユリアの身体は、すでに細
胞が悲鳴をあげている。事実、エナジー・クリスタルは弱々しい警告音を鳴らすのを止めず、
生命の最後のひと絞りを燃やし続けているに過ぎない。ダメージの差では優位に立つはずの
暴魔どもとて、活動時間の限界は迫っている。
 恐らく、次の攻防が最期。決着をつけるための激突。
 暗黒の炎を噴き上がらせた凶魔と凶獣が、怒号の終焉と入れ替えに襲撃の体勢を整える。
殺す。全力で武道少女を抹殺する。柳のように蕭然と構える童顔天使が、確かな強者と認め
たうえで、最凶殺人鬼たちが勝敗を決すべく全神経を尖らせる。
 
 雷鳴が轟いたのは、その瞬間のことだった。
 
 地が割れる。マグマのような獄炎が噴き出す。実際には、そんな地殻変動は起こっていなか
った。幻覚。しかし、そう思わせるほどの巨大なエネルギーが確かに地を裂き、天を焦がすほ
どに突き上がっている。龍が昇るかのように、爆発的な弩流が理に逆らって噴き上がってい
る。
 震動と轟音と。地球が慟哭するかごとき高密度の衝撃。なにかが。天地を動揺させる巨大な
なにかが、この地に生み出されようとしている。正邪の聖戦に、割って入るだけの資格を有し
たなにかが。
 
「オオオオオオオオオォォォッッッ――――ンンンンッッッ!!!!」

 怪物がいた。
 膨張した筋肉の鎧を纏った、巨大な猛獣が。人型をしながらも、獣としか言いようがない獰猛
な灼熱を振り撒く巨大生物が、決着寸前の戦場に今、乱入を果たす。
 
「工藤吼介ええェェッッ〜〜〜ッッッ!!! 生きていたかアッッ!!!」

 たまらず人間体の名を怒鳴り叫ぶほどに、ひとつ眼凶魔の高揚が頂点を迎える。
 ひとめでわかる。最強の高校生を知るものならば、新たな巨獣の正体が、格闘を極めた逆
三角形の男であることは。
 巌のごとき剛筋が合体した巨肉。人間体と同じく逆三角の上半身。ユリアの胴の3倍はあろう
かという風船のような太腿。ダイヤモンドを思わせる、浮き上がったシャープな筋繊維。
 格闘獣まんまの肉体は、煮えたぎるような赤銅色で染め抜かれていた。
 波打つ金色の髪の間からは、水牛を想起させる二本の角が、見事なカーブを描いて生えて
いる。
 
 誰でもが、思う。この巨大な筋肉獣を一瞥すれば、工藤吼介の真の姿に誰もが思い当たる。
 
 『エデン』を得て、祖先から受け継いだ超人類の血を開花させた、格闘獣の巨大化した姿
は。
 
 まさしく、鬼、そのものであった。
 
 
 
 戦火から免れる、ギリギリの境界線の外。
 神宮球場の外野席に臨時の休息所を定めた片倉響子は、世界の終わりを告げるような落
雷の音に、素早く身を起こしていた。
 
 これといった物影のないこの場は、常識的に考えれば身を隠す場所に相応しいとは言い難
い。だが巨大ミュータント・シヴァの化身である響子は、即座に臨戦態勢に入れる広い敷地の
方がむしろ安全と考えていた。また、いまや完全に同盟関係を解消したと言える御庭番衆相手
には、煩雑な都会の迷路に紛れ込むのは不利になるばかり。ほとんどの戦力を品川水族館と
防衛省の守備に回したとわかっていても、現代忍び集団への注意は、響子の片隅に常にあっ
た。
 
 傍らのベンチでは血糊をこびりつかせ、キュートな素顔を無惨に腫れあがらせた、藤木七菜
江が眠っている。
 眼が覚めたら、全ての事実を伝えてやる必要があった。この超少女が自分に剥き出しの敵
意を見せるとわかっていても、納得させなければならない。響子が描く人類進化計画には、そ
して、目前にまで迫った悪魔侵略の危機を脱するには、七菜江の存在は是が非でも外すこと
はできない。
 
 七菜江がこの瞬間、いまだに意識を戻さないのは僥倖と言ってよかったかもしれなった。
 
「まさか・・・まさか、里美・・・『第六エデン』を工藤吼介に・・・・・・?!」

 品川水族館から奪取した『エデン』は、使用されることなく響子の手元に残っている。吼介と
融合させるはずだった計画は、執念とでも呼ぶべき里美の妨害によって阻止されていた。
 その里美自身が、『エデン』を与えたというのか?! 他に考えられなかった。彼女の存在意
義そのものであったはずの『使命』を、最後の最後でくノ一少女は自ら破り捨てたのか。
 
「あ、あの姿ッ・・・?!! や、やはり、私の考えに間違いはなかったッ! 工藤吼介こそが、
鬼の末裔ッ!!」

 巨大生物が赤銅の姿を露わにした瞬間、響子の真紅の唇は叫んでいた。
 圧巻の質と量を誇る筋肉と、禍々しくさえある二本の角。黄金に光る髪と眼。
 平安の昔から今に伝わる、鬼の姿。異形と怪力と並外れた身体能力を持つ妖怪の正体と
は、実は『エデン』と融合した“人間を越えた人間”だったのではないか。その血を脈々と受け
継ぎ現代に至ったのが、工藤吼介だったのではないか。
 日本各地に鬼の伝承は残されている。彼らこそが、その地に根付いた『エデン』の一族だっ
たのではないか。
 鬼とは、人類が進化した姿の、ひとつの答え。
 その最新鋭にして、最強の姿が、今武道館の傍らに出現したのだ。
 
 遠目から見てもわかる。すでに赤銅の鬼は臨戦態勢に入っている。高密度の闘気と殺気で
北の丸公園の上空が陽炎のように揺らいでいる。
 美しい。
 恐らくは響子だけが抱く感情。慄然するような鬼の異形に、超人類を生み出そうと計画する
天才生物学者のみが、紛れもない美を感じ取っていた。
 
 やはりそうだった。工藤吼介が『エデン』を得たら、こうなることは自明の理であった。
 
「ふ・・・フフフ・・・里美、恋は盲目とはよく言ったものね・・・・・・精神や性質が大きく影響する『エ
デン』の特性を考えたら、工藤くんがどうなるかはすぐにわかりそうなものなのに・・・」

 ファントムガールのような光の守護者になる? バカな。有り得ない。
 ミュータントのような兇悪な怪物になる? 外見だけで判断すれば、そう勘違いしても仕方な
いわね。
 『エデン』が生み出された元々の理由を考えれば、ファントムガールもミュータントも、所詮は
不完全な種族に過ぎない。工藤吼介が変身したあの存在こそが、『エデン』の戦士が、本来あ
るべき正しき姿―――。
 
「ファントムガールでもない。ミュータントでもない。敢えていうならば第三の種族“シュラ”!! 
ついに・・・ついに生まれた、工藤吼介の変身体・・・いえ、シュラ・“ガオウ”こそが、唯一本物の
『エデン』の戦士なのよッ!」



 赤銅の鬼・ガオウが天に向かって咆哮する。
 ビリビリと震える大地。足元から駆け登る震動が、ゲドゥーの背筋を貫いていく。
 血が沸き立つ。グツグツと沸騰するのを、抑えられない自分がいる。目の前にいるのは、紛
れもなく化け物だった。闘いを挑んで、無傷で許されるとは思えない敵。そんな相手に巡り合う
なんて、凶魔は夢想だにしなかった。
 
 死ななかったのか、工藤吼介。こんな怪物は、お前以外に有り得ない。
 そうか。なるほど。初めて知ったぞ。
 足がすくむ、とはこういう感覚のことか。
 やはりお前は、早く殺しておくべきだったな。
 
 無表情なはずの菱形の顔が、笑ったように歪んで見えた。
 
「このオレが、死を覚悟して殺し合いをする日が来るとはな。悪くない。悪くないぞ、この感じは」

 雄叫び終えた赤鬼が、ジロリと黄金の眼で白い凶魔を見詰める。
 炎の闘気と漆黒の瘴気が中央でぶつかりあう。対峙する、鬼と悪魔。ここは地獄かと見紛う
光景は、間違いなく首都東京の地上で展開されていた。

「その醜い姿、やはりオレたちと同じミュータントか?」

 ゲドゥーの問いに筋肉獣は答えなかった。台形の下半身に、逆三角形の上半身を乗せたよ
うなシルエット。大胸筋から腹筋、肩、二の腕、太腿と・・・全ての筋肉が膨張し、筋繊維の影を
くっきりと浮かべている。質・量ともに最上級の筋肉の鎧を纏った身体に、醜いと言い放てるの
はゲドゥーくらいのものだろう。
 
「だがその赤いオーラ・・・闇の色でもなく、光の色でもない。お前のエナジー源は、闇でも光で
もないということか?」

「カルルルル・・・」

 牙を剥いたガオウが咽喉を鳴らす。猛犬のように。
 また一段と立ち昇る闘気が勢いを増し、業火の如くに噴き上がる。
 
「フン・・・どうだっていいか、そんなことは」

「カロロロロ・・・・・・オオオッ・・・オオオオオッッ―――ッッ!!!」

「お前は殺す。何者であろうと。オレたちの間に、殺し合い以外の関係はいらん」

 バカアッッ!!!
 ゲドゥーの台詞が終わるより早く、赤銅の鬼の口は大きく開かれていた。
 口腔の奥、たぎるマグマが見えた瞬間、灼熱は弩流となって闇空高くに放射されていた。
 
「オオオオオオオオッッッ――――ンンンンッッッ!!!」

 漆黒の天を、赤い熱線が断ち割る。真っ二つに。
 夜は刹那に昼へと変わった。無人の都会を照らす、鬼の灼熱砲。ジュッ、という音だけを残し
て、高層ビルの頂上付近が蒸発して消えていく。
 
 これだけの距離がありながらッ・・・鋼を熔かすか、バケモノめッ!!

 熱線の余波で皮膚の表面が焦げる。かすりもしないで、ダメージを受けるとは。ガオウが持
つ核並みの破壊力を身に刻みつつ、ゲドゥーの脚が間を縮めんと力を込める。
 先客がいた。鬼の背後に。
 槍腕を光らせた、茶褐色の疵面獣。巨体の暗殺者は、隙を逃さずガオウの後ろに忍び寄っ
ていた。
 
「オレ様のマネしてんじゃねえェェッッ!!! 若造がァッッ〜〜ッッ!!!」

 ギャンジョーの鋭利な腕の刃が振られる。角の生えた赤鬼の頭部へ。
 風が唸る。突風が、八角形の日本武道館を揺らす。
 消えていた。赤銅に染まった逆三角形の肉体が。虚しく空を切る、槍腕の穂先。
 その遥か頭上。跳躍したガオウの巨体は舞っていた。
 
 なんとデタラメな、戦闘能力。
 
 この怪物は、赤銅の鬼は、ギャンジョーと同等のサイズとパワーを持ちつつ、ファントムガー
ル・ナナの機動力を併せ持つのか。巌の如き剛筋に身を固めてなお、飛燕の如く動けるのか。
 
 空中で旋回する。筋肉の凝縮体が鋭く捻れる。
 咄嗟にガードを固めたギャンジョーの腕の上から、飛び後ろ回し蹴りが轟音とともに炸裂す
る。
 
 剛力と剛力のぶつかる衝撃で、千代田区一帯の建造物のガラス窓は一斉に砕け散った。
 大地を滑るようにギャンジョーが吹き飛ぶ。踏ん張る脚が、土の地面を深く抉って二筋の跡
を描く。
 北の丸公園の端から端まで。約400mを凶獣は蹴り飛ばされていた。
 ガードした両腕から煙があがっている。防いだようでいて、鬼の打撃はギャンジョーに確実に
響いていた。思わず脱糞してしまいそうな、衝撃。ビリビリと麻痺する槍腕を、凶獣が忌々しげ
に振り払う。
 
「クソがァッッ!!! ナメんじゃッ・・・ッ?!!」

 ボッッッ!!!
 
 小爆発のような音は、地面を蹴るガオウの足元から届いた。
 格闘獣のダッシュ。空手で言うところの飛び込みで、遠く離れたはずの間合いは一気にゼロ
にされたことをギャンジョーは知った。
 その疵面に、闘鬼の右拳をめり込ませて。
 
 ドゴゴゴオオォォォンンンッッッ!!!
 
 グシャアアアァァッッッ!!! 肉の潰れる凄惨な響きと、飛び散る鮮血。
 ビクビクと弓なりに反った茶褐色の巨体が揺れる。顔より太い首が、ミチミチと奇妙な音色を
あげている。
 加速の勢いをつけ、体重を右拳ひとつに預けた正拳順突きは、鉄杭で顔面を打ち抜く衝撃を
ギャンジョーに与えていた。
 グラグラと揺れる凶獣がゆっくりと傾いていく。並のミュータントならば、首から上が吹き飛ん
でいてもおかしくない一撃だった。決着がついたと考えるのは、むしろ自然。
 トドメを刺すことなく、グボリ、とガオウが拳を引き抜くのも当然の行動と言えただろう。
 
「ゴアアアアッッ!!!」

 疵面を陥没させて尚、ギャンジョーの意識は途絶えてはいなかった。
 鬼の破壊力を凶獣の肉体が耐え凌ぐ。憤怒の咆哮とともに放ったのは、十八番の裏技とも
いえる、頭突き――。
 
 重く、低い衝撃音が大地に響く。世界の終わりを告げる、鐘の音のごとく。
 
 凶獣の頭突きを、闘鬼は頭突きで迎え撃っていた。
 正面から激突する、額と額。黒と赤、沸騰する巨大なパワーが一点でぶつかりあう。
 
 ブシュウウッッ・・・!!
 
 鋼線を捻り合わせたような筋繊維の隙間から、鮮血が霧となって噴き出した。
 燃えるようなガオウの赤い皮膚が、更なる深紅に染め抜かれる。そうだ。威圧的な容姿と膨
大な熱エネルギーに忘れそうになるが、工藤吼介は高層ビルの下敷きとなり瀕死に陥ってい
るはずなのだ。相打ちとはいえダメージを受けたことで、本当の姿が露わとなった。闘鬼の肉
体は深い損傷に蝕まれている。
 だが。
 巨躯が沈む振動が、大地を震わせる。
 リバウンドする、茶褐色の凶獣。白目を剥いたギャンジョーの牙の間から、ダラリと長い舌が
垂れる。
 
「オオオオオオッッ―――ッッッンンンッッ!!! オオオッッ・・・オオオオッッ―――ッ
ッ!!!」

 吼える。天に向かって、K.O.勝利を収めた赤鬼が咆哮する。
 ヒクヒクと痙攣するギャンジョーが足元に転がるのも見えぬように、鮮血まみれの筋肉獣は勝
ち鬨をあげ続けた。
 この機に凶獣を仕留めておく・・・そんなチャンスの到来など、まるで念頭にないように。
 
 
 
「トドメを刺さない・・・無理もないわね。ガオウとなった工藤くんには」

 呟く片倉響子の真っ白な頬を、戦況の余波がビリビリと叩いていた。武と暴の高密度エネル
ギーの衝突は、距離を置いたこの神宮球場のスタンドにも届いてくる。今日が地球最後の日と
言われても納得するだけの闘いを、女教師は片時も逃すことなく瞳に焼き付けていた。
 
「工藤吼介の意識が保ったままならば、仇であるギャンジョーの命は必ず絶つ。そんな感情が
働くはず。でも、今のガオウに工藤吼介の意識は反映していないでしょうね。こうなることがわ
かっていたからこそ、彼はギリギリまで『エデン』の受け入れを断った」

 吼介が一筋縄でいかない相手であることを悟った響子は、随分以前から『エデン』の秘密を
包み隠さず話していた。ファントムガールの正体から、なぜ巨大化できるかの説明、そしてもし
吼介が『エデン』を得たらどうなってしまうのか、の推測まで。
 
「彼が『エデン』と融合して巨大化すれば、意志を失うことは予測できていたわ。ガオウとは・・・
シュラとは、ただ闘争本能に従って闘うだけの戦闘マシーン。ただ敵を認識して滅ぼすだけの
戦闘員に、憎悪も、復讐すらも無用の感情」

 ちらりと視線を、ベンチの上で横たわる藤木七菜江に向ける。
 彼のこの姿を、見せなくてよかった。
 昏睡したままの少女を確認して、苦い感情が響子の胸に沸きあがる。
 
「元々『エデン』は宇宙の果てで、戦争のために生み出された生物兵器・・・つまり戦士であるシ
ュラこそが、本来正しき『エデン』の持ち主の姿だった。戦闘マシンを生むことこそが『エデン』
の真の目的なのよ。甘い思想に駆られたファントムガールも、邪悪に染まったミュータントも、
所詮は不完全な存在に過ぎない。完成形であるシュラに勝てる道理がないわ」

 再び武道館方面に視線を移した響子の頬は、不自然なまでに青白かった。
 ここまでは予想どおりだった。だが、ここから先は響子も、そしてガオウである吼介自身もどう
なるかはわからない。
 迫り来る予感を振り払うように、女教師は独り呟いた。
 
「冷静によく考えれば気付いたはずよ、里美。『エデン』とは、媒体となる生物の感情や性質が
大きく変身時に影響を与えるもの。あなたのような正義感に溢れたひとはファントムガールにな
った。でも、工藤くんの本質はなにか? わかっていたはずよ」

 心のどこかでわかっていたでしょ、里美。だからこそ、最後まで彼に『エデン』を与えることに
抵抗した。
 でも。
 愛した男の幸せを、あなたは最後の最後で望んだのね。
 
「工藤吼介は、闘うことが全ての男。正義でも悪でもなく、純粋な闘士。彼がただひとりシュラと
成り得たのは、当然の帰結だった・・・」



 凱歌の雄叫びをあげる赤銅の闘鬼を視線の先に見詰めながら、ゲドゥーは右拳を固く握った
まま動けないでいた。
 元々ギャンジョーに対しての仲間意識など、露ほども持ってはいない。仇討ちなどという発想
は欠片もなかった。だが、戦闘への一歩を踏み出せない理由はそこにはない。渇望していた
はずの極上の強者が実際に眼前に立つと、明らかな躊躇いが最凶の悪魔を襲っていた。
 恐れているのか、このオレが?
 あるいは最上級のフレンチを食する前、もう少し美観を堪能したいという、あの躊躇いと同種
なのか?
 
「フン・・・なににせよ、機は満ちたようだ」

 ギャンジョーが倒れた今、サシでの勝負は避けられない。
 60分という活動限界時間が刻々と迫っているのが本能で感じられる。恐らくは、同化した『エ
デン』が知らせているのだろう。対するガオウも万全の状態にないのは明らかだった。一度の
激突で、全ての勝負は決まるだろう。
 
 白甲冑の凶魔から漆黒の闇が立ち昇る。呼応したガオウが雄叫びを止めて振り向く。
 濃紺のひとつ眼を見据えた瞬間から、格闘獣の臨戦態勢は沸点に達した。深紅の闘気が業
火となって夜の空を焦がす。戦意の塊と化した赤鬼は、禍々しき鋭利な凶魔が敵であることを
ひと目見て悟っていた。ギャンジョーの乱入で邪魔をされたが、戦闘マシンの細胞がこいつを
消せと命じている。血の滴る肉体がダメージを抱えていることなど、まるで意に介していなかっ
た。
 
 ビキッ・・・ミチミチッ・・・メリメリメリッ・・・
 
 赤銅の筋肉が膨張するのを、ハッキリとゲドゥーは確認した。まだ本気ではなかったというの
か? 面白い。それでこそ、オレの右手も疼くというもの。
 飛び込んできたところを、撃つ。カウンター狙いに搾ったゲドゥーが、右手を引いて構えを取
る。どちらの拳が先に届くかの、勝負だ。高まる鼓動が早鐘のように鳴る。
 
 風が、唸った。
 
 一陣の突風が凶魔と闘鬼の狭間を遮断する。風は銀と黄色に彩られていた。
 ふたつに縛ったおさげ髪が舞い躍る。ファントムガール・ユリア。煌々と輝く光が、漆黒の闇と
深紅の闘気に割って入る。
 己の全身が粟立つ音色をゲドゥーは聞いた。叫びが洩れそうになる。ギュッと心臓が縮まる
痛みに痺れながら、ユリアの華奢な脚が大地を蹴るのを見届ける。
 
 飛翔する黄色の天使の姿を、凶魔はただ見ているだけだった。
 ユリアが跳び向かった先にいたのは、ゲドゥーではなかった。
 赤銅の鬼・ガオウ。
 意識を失ったまま、本能で闘い続ける武道天使が選んだ敵は、新たに出現した戦闘鬼のシ
ュラだった。
 
 回転するユリアの長い脚がガオウの顎に吸い込まれる。ローリングソバット。防御を忘れた
ように立ち尽くした鬼の顎をキレイに打ち抜く。
 スパ――ンッッ!! 快音とともにガオウの顔が揺れる。だが、すでにその瞬間には、反撃
の豪打は発射されていた。右の巨拳がスレンダーな女神に唸り飛ぶ。
 待ち構えていたユリアの指先は、格闘獣の手首に容易く絡みついていた。
 打撃の勢いをそのまま利用され、赤銅の巨躯が空中高く浮き上がる。錐揉みに回転させな
がら、ユリアは頭頂から真っ逆さまにガオウを大地に叩きつけた。
 地が割れるかごとき衝撃。震える地鳴りは、首都全体を覆うかのようだった。本気モードに突
入した容赦ないユリアの投げは、脳天から砕く勢いでガオウの巨体を落としていた。
 
 闘争の欲求に支配されたガオウと、武人の本能に衝き動かされるがままのユリア。
 膨大な闘気を振り撒く赤銅の鬼を、無意識のユリアが敵と見做したのはむべもなかった。巨
大すぎる闘争心に武道家は反応してしまったのだ。
 両者に意識がなかったことが、悲劇を生んだ。
 
「オオオオオッッ―――ッッ!!!」

 咆哮するガオウが一気に飛び跳ねる。大地に崩れたはずの筋肉の塊は、すでに空中に浮い
ている。信じられなかった。ユリア渾身の垂直落下の投げを喰らって、まるでダメージを受けて
いないのか。首の力のみで、赤鬼は巨体を跳ね起こしていた。
 ガオウの右腕が消えている。
 豪打を放ったと気付くより早く、武道天使の肉体は反応していた。ゴオオッという風切り音が
随分あとから届いてくる。“気”を察知する天才ユリアだからこそ、不可視の打撃を捉えてい
た。
 
 両手が鬼の右手首に絡みつく。先程と同じ光景。
 ガオウの本気度は違っていた。先程とは。
 捻りを加えながら繰り出されたガオウの右ストレートは、柔術家の手を撥ね返していた。

 ドギャギャアアアアアッッ!!!
 
 ユリアの右胸に深く突き刺さったガオウの拳が奏でた音色は、とても打撃のものとは思えぬ
破壊音であった。
 巨拳を打ち込まれながら、スレンダーなユリアの肢体は吹き飛ばなかった。陥没した右胸と
はあまりに不釣合いな光景。
 吹き飛ぶとは、力のベクトルが後ろに抜けてしまったということ。
 それが起こらないということは、ガオウの打撃の破壊力が全てユリアに叩き込まれたというこ
と――。
 
 ボコンッッ!!
 ユリアの足元が陥没する。直立不動の二本の脚の下。
 手首を捉えようとした姿勢のまま、ユリアの肢体はピクリとも動かず硬直していた。
 ビリッ・・・バリバリ・・・ブチィッ・・・
 奇妙な音色が響く。ユリアの背中で。すぐに音の正体は知れた。
 剥がれた銀色の皮膚がはらりと落ちる。少女らしい、しなやかなカーブを描いたユリアの背中
は、大部分で桃色の内肉を覗かせた。
 ブツッ・・・襟足で束ねていたふたつのおさげ髪がほどけ、セミロングの緑髪がざんばらに広
がる。
 
「ごぼおおッッ・・・!!」

 タールのごとき真っ黒な血が、ユリアの薄い唇を割って出る。
 トロトロとドス黒い血は垂れ落ち続けた。
 固まった姿勢のまま、光を失った武道天使は、ただ黒い吐血をこぼし続けた。
 
 赤い闘鬼が吼える。天に向かって。どこか悲しげに聞こえるのは気のせいだったか。
 もはや眼前の銀の少女が動かないことを悟って、シュラ・ガオウは霧のように赤銅の巨肉を
消えさせていった。
 
 ・・・・・・・・・ヴィ・・・・・・・・・
 ・・・・・・ヴィ・・・・・・ヴィ・・・・・・
 闘争の筋肉獣が戦場から去って、数十秒後。
 彫像のように固まったユリアの胸で、かすかにクリスタルが鳴る。淡い光が仄かに点滅する。
 光を失ったはずの丸い瞳に、ゆっくりと青い光が戻っていく。
 
 ファントムガール・ユリアはまだ死んではいなかった。
 ピクピクと指先が震える。半開きになった口から溢れる黒い血が、ようやく途切れ途切れにな
る。
 混濁した意識のなかで、ユリアは己の肉体がすでに破壊されていることを悟っていた。もう、
満足に指を動かすことすらできない。もはや武道家として闘うことすら叶わぬことを、瀕死の少
女戦士は受け入れていた。
 
 見える。霞む視界の先に、仲間たちの顔が。
 サトミが、ナナが。そして、アリスとサクラが。
 無理に微笑もうとした瞬間、夢のように仲間たちの笑顔は消えていた。
 代わりに映る、現実の光景。
 菱形の頭部に濃紺のひとつ眼を持つ白い凶魔が、ユリアの眼前に立っていた。
 
「・・・・・・仇・・・・・・アリス・・・さんと・・・・・・サクラ・・・さん・・・の・・・・・・仇だけ・・・は・・・・・・取ら
な・・・きゃ・・・・・・」

 震える指を必死で伸ばす。ブルブルと痙攣するふたつの手が、ゆっくりと無言で佇む仇敵に
伸びていく。
 
 ズボオオオオオッッッ!!!!
 
 ゲドゥーの右手は、懸命に手を伸ばす少女戦士の腹部中央を貫通していた。
 
「はァぐッッ?!!」

 ゴボオオオオッッ・・・
 
 まだこんなにも残っていたのかと思うほど、大量の鮮血がユリアの腹と背中、そして口から噴
き出す。血にまみれた華奢な肢体がゆっくりと仰向けに倒れていく。
 
 ドシュウッッ!! ドシュッッ!!
 
 背後で構えていたギャンジョーの槍腕が、両サイドからユリアの脇腹を串刺しにしていた。
 倒れることすら許されない黄色の天使が、強引に凶魔の前に差し出される。身を貫く壮絶な
苦痛に、ビクビクと痙攣するユリア。断末魔に震えるスレンダーな少女戦士に、トドメの処刑が
下される。
 
「ユリアァ・・・てめえだけは殺していくぜ」

 ユリアの耳に最期に届いてきたのは、凶獣の無慈悲な宣告だった。
 ぐしゃああああッッ・・・!!!
 “最凶の右手”が放ったストレートが、少女戦士の顔面を潰していた。
 血塗れたユリアのマスクが、ガクンと垂れる。構わずゲドゥーの右手が、二撃目に備えて引き
抜かれる。
 闇のエネルギーが“最凶の右手”を漆黒に染めていた。高密度の暗黒エネルギーを纏った兇
悪の右拳。
 左右から串刺しにされ、意識すら途絶えたユリアに、死を避ける術などあるわけがなかった。
 
「ファントム・ブレイクッッ!!」

 ドギャギャギャギャッッ!!!!
 
 闇を纏った“最凶の右手”がユリアの胸中央、エナジー・クリスタルを穿つ。
 直撃の瞬間、ユリアの胸は奇妙にひしゃげ、水晶体の青い光は消し飛んだ。
 
「アアアアアアアッッッ――――ッッッ!!!!・・・・・・」

 突っ張ったユリアが天を仰いで絶叫する。悲痛な叫びが、救いのない首都の空にこだます
る。
 再びガクリと全身を弛緩させたユリアは、ゲドゥーの技の名前通り、命を破壊されていた。
 絶命したユリアの屍が、高々とギャンジョーの槍腕によって掲げられる。
 防衛省の目と鼻の先で人類の期待を背負った守護天使は惨殺され、変わり果てた串刺しの
死体が晒される。人類の敗北を知らしめるのに、これ以上の演出はなかった。
 
「あれを喰らってまだ壊れないか」

 砕けなかった水晶体を不満げに見詰めながら、白い凶魔の姿が霞みとなって消えていく。
 追いかけるように、ユリアの死体を投げ捨てたギャンジョーの巨体が消える。
 激闘が夢であったかのように、武道館を静寂が包み込んだ。
 全てが残酷な現実であったことを示す、一体の屍を残して。
 
 少女らしさを残す細身の肢体にいくつもの孔を開けて、ファントムガール・ユリアの亡骸は武
道館の傍らに転がっていた。
 ほどけた緑色の髪が扇のように広がっている。血と泥と陵辱の跡をこびりつかせた天使は、
大地と一体化したようにドス黒く汚れた屍を晒していた。
 ファントムガール・ユリアは死んだ。サクラ、アリスに続き3人目の犠牲となった。
 重なった暗雲に厚く覆われた闇空からは、かすかな光も洩れ出てくることはなかった。
 
 
 
   【ファントムガール 第十二話 東京黙示録 〜疵面の凶獣〜 了 】
 



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