第十一話 6章続き


 
 6

 かすかな潮の香りが鼻孔を突く。
 厚い雲が覆った空からは、月光も星の瞬きも降っては来ない。湿り気を帯びた空気が深い闇
と混ざって、やけに重くまとわりつく。陰鬱な、夜だった。波の音が届くたびに、街灯りを映した
光が海の狭間で揺れ動いている。太平洋から吹き付けてくる風が、時折赤髪のツインテール
を強くなびかせて過ぎていく。
 
 霧澤夕子は、東京湾の沿岸に立っていた。
 修学旅行、初日の夜。バスに揺られて首都の情景に溶け込んだその日が、もしかすると少し
特別な日になるかもしれない。夜風になびく少女の胸に、そんな予感が仄かに灯る。
 
 彼女が所属している聖愛学院の理数科は、東京駅に着いてから皇居、東京タワー、そしてさ
らに南下してレインボーブリッジに至るという、通称“いかにもコース”と呼ばれるルートで修学
旅行の道程を踏んでいた。以前にも東京に来たことのある夕子にとって、どの名所もかつて見
たことあるものばかり。ただでさえ「見世物」として定着したものを観賞することに深い意義を見
出せない理系少女には、東京見物はいささか退屈なものであることは否定できないところだっ
た。
 まして、旅をともにするのが理数科のクラスメイトたち、というのが夕子の心をさらに重苦しい
ものにしていた。
 
 クラスのなかで自分が孤立していることは、夕子自身がよく理解していることであった。
 肉体の半分が機械でできた彼女には、己の知識と技術でサイボーグの体を作り変えるという
大目標がある。そのために多くの時間を研究に費やす夕子は、理数科のクラスメイトたちとは
ほとんど接点を持たなかった。サイボーグという秘密を隠すため、敢えて他者との接触を避け
たという側面もある。いずれにせよ、必要以上に言葉を交わさず、むしろ必要な時以外の会話
を認めないような夕子の姿勢は、周囲の生徒からは冷淡なものとして受け取られるのは仕方
のないことであった。
 さらに言えば、エリート揃いとされる聖愛学院理数科のなかにおいても、夕子の学力は群を
抜いて高かった。今すぐに受験しても、日本のどの大学にでも行ける、というのがポツリと洩ら
した担任教師の夕子評。特に数学と物理、化学については、教師たちが束になっても勝てない
とすら噂されている。理数科の生徒たちにとっては、学力の高さこそ“力”の全て。近寄り難い
雰囲気と飛び抜けた“力”を誇る夕子の存在は、嫌うというよりも畏怖すべき対象であった。
 
 見えない壁をつくり、あからさまに距離を置いたクラスメイトたちの視線が教えてくる。夕子を
畏れ、慄いていることを。
 孤立などとっくに慣れた天才少女であったが、開放的な気分に浸るべき修学旅行においても
脅えの視線を向けられるのは、決して愉快なことではなかった。
 
“・・・まあ、いいけど。ひとりなのは、今に始まったことじゃないし”

 移動するバスのなか、カードゲームで盛り上がる周囲にひとり背を向けて、赤髪の少女は流
れていく東京の車窓にその身を置く。淡々とした、ちょっと退屈な修学旅行。旅の前半は夕子
がこの地に来る前から予想していた通りのものであった。
 劇的な変化が訪れたのは、その後。
 自由行動を許された、お台場フジテレビ近くでのこと。地元の不良学生か、あるいは他地域
からの修学旅行生か。ガンをつけた、つけないを発端としたトラブルに巻き込まれたクラスメイ
トを救ったのは、偶然通りがかったツインテールの美少女であった。「クール」「変わり者」とい
った代名詞を密かに与えていたクラスメイトたちからすれば、それはあまりに意外すぎる行為。
だが、5対3という人数、そして女子ひとりを含んだ聖愛学院生の顔にいくつかの殴られた跡を
見ては、己が特殊であると自認する夕子も黙って見過ごすわけにはいかなかった。
 
 サイボーグ、そして『エデン』の力をほんの少し開放した夕子にとって、5人のヤンキー程度な
ど相手ではない。
 “一般人”に特殊な自分が手を出す後ろめたさに、そそくさと場を去ろうとする夕子を引き止
めたのは、窮地を救われたクラスメイトたちの賞賛と感謝であった。
 ひとりであった夕子の旅に、尊敬の眼差しを向ける同行者3人は不意に現れた。
 噂はすぐに広まる。不良に臆せず立ち向かった赤髪少女の勇気と、びっくりするほどの強さ
と。
 修学旅行の初日、霧澤夕子は聖愛学院理数科生の、正義のヒロインに生まれ変わった。
 
“まったく単純なもんね。ちょっと不良をこらしめただけで、こんなに対応が変わるとは思わなか
ったわ”

 お台場から宿泊ホテルのある品川に向かうバスのなかは、夕子の武勇伝を讃える声で占め
尽された。今までほとんど喋ったこともないような級友たちが、続々と赤髪少女に笑顔と尊敬の
言葉を向ける。なんだかよくわからないが、数人からは握手も求められた。旅の後半、ヒロイン
となった夕子に車窓を眺める暇はなかった。
 東京にいる間の夕子は研究を進めることができない。となれば当然、話しかけてくるクラスメ
イトを避ける必要もまるでない。
 高くそびえていた見えない壁を乗り越え、少し懐に足を踏み入れてみると、冷淡と称される天
才少女の意外で味わい深い人間味は次々に明らかになっていった。
 なにげない会話に混ざるツッコミは的確で素早いし。
 要は確率よ、と言い切る麻雀はやたら滅法強いし。
 大浴場では意外なまでの均整の取れたプロポーションを披露するし。
 数学の難問片手に現れる男子生徒たちを、わかりやすく丁寧に教えていくし。
 挙句、それら男子のひとりに「霧澤ってけっこうカワイイよな」と告白されて、耳たぶまで真っ
赤にして動揺しまくるし。
 昨日までは孤独であったのが嘘のように、赤髪ツインテールの少女の周りには、級友たちの
笑顔が花咲いている。
 
「夕子がこんなに面白いひとだったなんて、思わなかったよ」

 コロコロと笑いながら、数時間前まで「霧澤さん」と呼んでいた少女が言う。
 
「私は昔からこんなふうだけど」

「そうなの? でもちょっと前から比べると、だいぶ感じが柔らかくなったような気がするけどな」

 なにげない級友の一言に、守護天使としての宿命を同じように背負った少女たちの顔が、一
斉に夕子の脳裏にフラッシュバックする。
 そうか。変わったのは周りじゃない、私の方だったのね―――
 
 修学旅行、第一日目。その日は、必要以上に纏っていた冷淡の衣を脱ぎ去ったとして、天才
少女の心に生涯記憶される日となるかもしれなかった。

「あんたさえ、現れてなければね」

 波打つ夜の海を眺めていたツインテールの少女が、くるりと背中を振り返る。
 
「ハッピーな一日として終わるかと思ってたんだけど。素直に幸せになれないところが私らしい
わ」

「美しい守護天使さまにハッピーエンドなどありませんよ、ファントムガール・アリスくん?」

 夕子の視線の先で、禿頭の小太り中年は作ったような微笑をたたえていた。
 美少女写真のコレクターでもある、聖愛学院の国語教師・田所。
 魔人メフェレスを補佐するひとり、タコのキメラ・ミュータント=クトルの正体でもある中年男
は、手の中に握った携帯電話を夕子に見せびらかすようにしながら話を続ける。
 
「またまた五十嵐里美くんから電話がかかってきているようですねェ。よほどの急用でしょう
か? ただ残念、我が校の校則ではケータイの持ち込みは禁止であることは、成績トップの夕
子くんなら当然ご存知でしょう」

「正直、教師の立場をここまであからさまに利用してくるとは思わなかったわ。手段を選べない
ほどそちらさんは追い詰められてるってことかしら」

 バキリとふたつに折った夕子のケータイを、禿頭がセーラー服姿の足元に投げ返す。確認す
るまでもなく、里美から届いていたはずの受信は途絶え、液晶画面にはもうなにも映ってはい
ない。
 唐突にホテルの部屋を訪れた中年国語教師は、持ち物検査と称して、半ば強引に夕子の携
帯電話を取り上げた。他生徒が見守るなかとあっては、度を越えた抵抗はできない。生徒と教
師という立場の差を利用され、大切な通信ツールを奪われた夕子は、さらに呼び出しを受けて
この港にまで連れてこられたのであった。
 人影のない、夜の港湾。互いに正体を秘する光と闇の使者にとって、都合のいい決闘場とい
えた。
 
「追い詰められているのは、果たしてどちらでしょうかねえ?」

「断っておくけど、ケータイを渡したのもここまで付いてきたのも、あんたが教師だからじゃな
い。あんたになら、勝てると思っているからよ」

 その気になれば相手が教師といえど、夕子には田所の指示に反抗することもできた。寧ろ、
このあからさまな罠に徹底抗戦するのが当然だったかもしれぬ。
 だが、夕子は賭けにでた。恐らく、今回の敵はこの不快な変態教師ただひとり。その確率が
70%以上はあると判断したうえで、敢えて敵の策に乗ることを選択したのだ。
 
 今回、修学旅行に参加すると決めて以来、ファントムガールの戦力が分散するこの隙を敵が
狙ってくる事態は、夕子も当然あり得ると予測していた。ただし片倉響子が一味を抜けた今、ミ
ュータントの中心戦力はメフェレス、マヴェル、クトルの3名しかいない。久慈の手元に大量に
あるという新たな『エデン』を使ったとしても、ファントムガールに相応しい人材がなかなかいな
いのと同様、強力なミュータントとなる素材もそうやすやすとは見つからないだろう。となれば、
自ずと襲撃方法も限定されてくるというものだ。
 もし襲ってくるならば、大別してふたつのパターン。
 全戦力を集めて、まずはひとりを集中的に狙ってくるか。
 あるいは戦力を分散させ、散らばったファントムガールを一気に殲滅にかかるか。
 クトル=田所が現れた以上、夕子が標的のひとりに選ばれたのは確実であった。問題は敵
がクトル一匹のみか、あるいはメフェレスやマヴェルといった連中も加わっているのか? とい
う点。
 確証はないが、教師という立場を利用してケータイを取り上げるという、ある意味セコイやり
方が、夕子には久慈や「闇豹」のイメージとは離れている印象を受けた。奴らは紛れもなく吐き
気を催すほどの悪党だが、戦闘を仕掛ける際にこのようなまわりくどい手は使わない。ある程
度自信があるが故、正面から堂々と現れる。また、多くの他生徒が見守る前で必要以上に夕
子との関係を際立たせる行為も、正体を厳守すべき『エデン』の寄生者としては愚かと言わざ
るを得ない。警戒心の強い久慈やちゆりには、まず考えられない行動だった。
 
 となれば、やはり目の前にいるえびす顔のメタボ中年が、夕子=ファントムガール・アリスの
対戦相手と捉えてまず間違いはないであろう。
 敵がクトルならば、ツイている。
 以前の闘いでアリスはトドメこそ刺せなかったものの、クトル相手に勝利を収めている。投げ
や関節技を主体とする武道戦士ユリアは軟体生物のクトルを天敵としているが、アリスからす
ればタコのキメラ・ミュータントは決して闘いにくい相手ではなかった。最大の必殺技である超
高熱弾ヒート・キャノンも電磁剣を始めとする電撃技の数々も、タコと融合した怪物には十二分
に有効。いや、それどころかクトルにとってはアリスの攻撃はもっとも苦手とする部類に入ると
言えるだろう。
 闘いには相性がある。
 ユリアの天敵がクトルならば、そのクトルの天敵は今対峙している霧澤夕子、つまりファント
ムガール・アリスなのかもしれなかった。
 そしてその相性の良さを、夕子自身がよくわかっている。
 
「どうせ久慈あたりに指示されて来たんでしょうけど・・・ミスマッチだったわね。私にあんたを当
てたのは、作戦として失敗している」

「さすがは天才の誉れ高い夕子くん。見事正解ですよ、前半はね。後半については惜しいので
すが、残念ながらハズレですねえ」

「私に勝てるとでも言いたいの?」

「いえいえ、滅相も無い。この私の能力が夕子・・・アリスくんの能力と相性が悪いというのは仰
る通りです。私が頑張ってみたところで、アリスくんには勝てないでしょうねえ。ただ違うのは」

 首都のネオンを跳ね返していた静かな水面が、突如として盛り上がる。
 流れる轟音と水飛沫。夜闇色の東京湾を引き裂いて、巨大な半透明の生物が、濡れ光るそ
の不気味な姿を暗黒の空に露わにする。
 キノコの傘にも似た巨大な頭部と、その下に無数に生え茂った触手。グニャグニャと蠢く不規
則な動きは、この新たなミュータントの知能の低さを教えるようだ。異形ともいうべきその姿は、
しかし夕子ならずとも一度は誰でも図鑑などで見た覚えがあるに違いない。
 紛れもない、この時期海に大量発生するクラゲのミュータント。
 
「ファントムガール・アリスくん、あなたの相手は私ではありません。この『ヒドラ』が、東京湾を
美しきサイボーグ少女の墓場にして差し上げましょう」



 明治神宮に現れたミュータントの襲来を受け、首都の街並みは大混乱に陥っていた。
 放置された車で埋まった道路を、人々が間をすり抜けて逃げ惑う。車道も歩道も関係なかっ
た。混乱で1mmとて車が動かなくなった今、人々に残された移動手段は己の足しかない。回線
のパンクした携帯電話に向かって必死に家族の名を叫ぶ声や助けを求める悲鳴が、緊急事
態を告げるサイレンと避難誘導する警察の怒鳴り声と重なり響く。初めて巨大生物の襲撃を受
けたメガシティの混乱ぶりは、想像を越えたけたたましさであった。
 全てのテレビのチャンネルとラジオ放送は、東京を舞台にした銀色の女神と侵略者の闘いが
始まったことと、一刻も早い避難勧告を一斉にがなりたてている。いつもはどこか他人行儀で
あったキャスターの声音が、今回ばかりは切迫感に溢れていた。無理もない。現れたミュータ
ントは、悪の中枢である魔人メフェレスと魔豹マヴェル。対する女神は、青いファントムガール
ただひとり。見るも邪悪な巨大生物たちは高い知能を有していることが、すでに公の常識として
認められている。もし、銀色の守護天使が敗れればそのときは・・・彼らがいかなる暴挙に出る
のか、その脅威は計り知れない。
 
 そう、メフェレスやマヴェル、これらの悪鬼どもの恐ろしさは単に巨大であることに留まらな
い。きちんと意識、それも一般的な人類にとって歓迎すべからざる悪意や支配欲、破壊欲を持
って行動しているのだ。特撮映画の怪獣が、本能の赴くままに暴れているのとは訳がちがう。
 彼らは意図的に破壊を行なうことができるのだ。ちょっと気が向けば、街ひとつを数分で消滅
させることができる。明治神宮や原宿周辺の人々が、特に血相を変えて慌てるのも当然と言え
た。
 先程、最新情報として流されたニュースでは、原宿の通り一帯が魔人の意図的な攻撃により
破壊されたとのことだった。生存者は絶望的。3桁、ことによれば4桁にのぼる多数の犠牲者が
生まれたのは確実であった。さらに青いファントムガールの劣勢は依然として続いているとい
う。
 明治神宮から一歩でも遠くへ・・・正邪の巨大な聖戦の余波を受け、逃げ惑う人の波が深夜
にさしかかろうとする時間にも関わらず原宿を中心に広がっていく。
 
 ただひとり、小柄な少女だけが、池袋方面から明治神宮へと向かって疾走していた。
 押し寄せる人波をすり抜け。制止する警察官の呼び掛けを振り切り。かすかな記憶を頼りに
しながら、最短で神宮の森に辿り着ける道を模索して、一直線に駆け抜けていく。
 真ん中付近で分けられた流れるような茶髪のストレート。陶磁器のごとく白く澄んだ顔には、
細く整えられた柳眉と大きく魅惑的な瞳、形のいい鼻梁と厚めの朱鷺色の唇が完璧なバランス
で並べられている。すれ違う避難の人々が、思わずドキリとしてしまうほどの、美貌。人気アイ
ドルや女優でも、ここまで愛らしさに満ちた容姿の持ち主はまずいないと思われる、イマドキの
美少女。いかにも女子高生といった華奢な体躯とは裏腹に、唇の右下にある小さな黒子が年
不相応の色香を仄めかせている。鎖骨が窺えるまで胸の開いたピンクのニットセーターとオフ
ホワイトのマイクロミニが、少女の持つ可憐さと芳香をより際立たせているかのようだ。
 
 桜宮桃子は、五十嵐里美から連絡を受けてすぐ、池袋にある聖愛学院修学旅行生が宿泊す
るホテルへと向かった。
 エスパー、つまり超能力者である彼女は、カンの鋭さにかけては自信がある。胸騒ぎを覚え
た桃子の行動は迅速であった。何度となく藤木七菜江、そして霧澤夕子にケータイから電話を
掛けてみたが、里美の言うようにふたりとも繋がらない。特殊回線を使用しているこの電話が
通じないことは、まず有り得ないことであった。特別な「何か」が起きたことは、容易に考えられ
る。いや、そう考えるべきであった。
 ファントムガール・ナナとメフェレス&マヴェルの戦闘が明治神宮で開戦したことを知らされた
のは、七菜江の姿がホテルにないと確認して間もなくのことであった。渋谷から池袋まで山手
線を利用してきた桃子は、わずかな時間の差と七菜江とのすれ違いに歯噛みする。渋谷から
明治神宮のある原宿までは歩いていってもさほどの距離ではない。山手線でも原宿駅を通過
して、この池袋までやってきた。親友の危機がすぐ近くで迫っていたのに、通り過ぎてかえって
遠くに来てしまうなんて・・・仕方のないこととはいえ、運命のイタズラが桃子にはもどかしい。
 
“もっと渋谷で待機しておけばよかった・・・この様子だと夕子もきっと・・・”

 電車の運行がストップし、タクシーも使えない今、桃子は走って池袋から明治神宮までの距
離を移動するしかなかった。地元に残った里美やユリは言うに及ばず、品川に泊まっているは
ずの霧澤夕子も、とても原宿付近まで駆けつけられまい。なにより夕子自身が敵襲を受けてい
る可能性が非常に高かった。自分と違い、七菜江や夕子は敵の首領メフェレスに居場所を知
られているのだ。ファントムガール・ナナの援軍に駆けつけられるのは、桃子ただひとり以外に
は考えられなかった。
 やるしかない。走るしか、ない。
 決して運動は得意とはいえないエスパー少女だが、体力の続く限りその足は止まらなかっ
た。
 
 ファントムガール・サクラに変身し巨大化すれば、当然短時間で距離を詰めることはできる。
だが、50mもの巨大な生物が全速で駆ければ、その震動と衝撃で建物の崩壊とそれに伴う犠
牲者の発生は抑えられない。仲間の危機が迫っていようと、それはファントムガール全員に共
通する禁忌であった。
 また超能力者の桃子ならではの移動手段として、瞬間移動、つまりテレポーテーションが考
えられるが、それも不可能である。テレポートの必須条件として、桃子が強く思い描くことがで
きる場所でなければならない。生憎、明治神宮および原宿周辺に、桃子が強く記憶に残してい
る場所はなかった。さらにもうひとつ、致命的なのが、首都ならではの人と物の多さだ。瞬間移
動したその先に、もし誰か他の人間が立っていたらどうなるのか・・・? 最悪の場合、原子と
原子が同空間に重なり合い、核爆発を起こすかもね、とは夕子の言葉だ。それはやや脅しに
しても、相手か自分が弾き飛ばされる可能性は十分に考えられる。その勢いがどれだけのも
のか、危険度はあまりに未知数といえた。
 
“ナナは・・・こうなることを予想してたの? 胸騒ぎが・・・収まらないよォ”

 息を切らして走る美少女の脳裏に、昨夜五十嵐家の七菜江の個室で交した会話が鮮やかに
蘇ってくる。
 
「ビーディー・・・セブン?」

 プリティーフェイスと呼ぶのにピッタリな美貌を傾ける桃子の前で、パジャマ姿の七菜江はコ
クリと頷いてみせた。
 
「明日からの修学旅行、もしかしたらメフェレスたちはあたしたちを狙ってくるかもしれない。だ
って、あいつらからしたら、ファントムガールを倒す絶好のチャンスだもんね」

「うーん、それはそうかもしれないけどォ・・・」

「もちろん襲ってこないかもしんない。それはわからないけど、あたしは逆にチャンスだと思って
るの。新しい必殺技『BD7』なら、きっとあいつらを倒せると思うんだ」

「どれだけスゴイ技なのか知らないけどォ・・・でも、やっぱりひとりで闘うなんて危険なことだ
よ?」

「それはわかってるよ。でも、いつか誰かがあいつらを倒さないと、みんな心の底から笑顔で暮
らせないじゃん」

 急に真剣な表情になった猫顔少女は、真っ直ぐな瞳で親友のイマドキ美少女を見詰めた。
 
「あたしが死んでも、モモは泣いちゃダメだからね」

「なッ、なに言ってるのよォ! そんなこと言っちゃダメだよ! 泣くに決まってるじゃん。ナナが
死んだりなんかしたら、泣いて泣いて泣き死んでやるんだからァ!」

「モモを泣かしたメフェレスを・・・あたしはゼッタイ倒してみせる」

 強い光を吊り気味の瞳に宿した友に、桃子は言葉を返せなかった。
 なぜだろう? 不意にこれまで感じたことのない、奇妙な感覚に捉われたのは。
 もう二度と、藤木七菜江とは、会えなくなるような気がする―――
 
 
 
「ナナッッ?!!」

 ビルの狭間に広がる深い緑。ようやく明治神宮の敷地を視界に捉えた桃子が見たものは、
聖なる森林に血の雨を降り注ぐ、無惨な敗北天使の姿であった。
 二体のおぞましい巨大生物が、ファントムガール・ナナを囲んでいる。勝敗は明らかであっ
た。銀色の肢体を紅に染め、ぐったりと四肢を投げ出して動かぬ聖少女と、傷ひとつない二匹
の怪物。ナナを屠ったミュータントは、メフェレスとマヴェルではなかった。初めて見る、敵。菱
形の頭部に光るひとつ目が不気味な漆黒の凶魔と、疵で埋め尽くされた顔が衝撃的な褐色の
凶獣。ゲドゥーと呼ばれた凶魔の右手はナナの胸のエナジー・クリスタルを周辺の肉ごと鷲掴
み、腕一本で守護天使の肢体を宙空に吊り上げている。もはや勇敢な少女戦士の扱いは、死
肉のそれと変わるところがなかった。
 遠目からでもよくわかる。ボトボトと弛緩した肢体から降り注いでいるのが、女神の鮮血と千
切れた肉片であることが。苦悶を刻み、半開きとなった口からドロドロと赤黒い吐血がこぼれて
いる。抜群の運動神経を誇るアスリート少女が、いかなる過酷な責め苦を浴び散っていったの
か・・・変わり果てた姿が雄弁に語る。
 
 どしゃっ・・・
 
 崩れ落ちた己の膝がコンクリートに沈む音を、桃子は霞みがかった意識の向こうで聞いてい
た。
 ファントムガール・ナナが、負けた。
 負けたという言葉では足りぬ、滅ぼされたとでも言うべき惨状。
 新たな必殺技を携え、決意の炎を宿らせていた朋友と、このような再会を果たすとは。いや、
ことによればナナの生命の灯はもはや・・・
 
 遅かった。
 もう一足早く着いていれば、ナナの窮地を救うことができたのかもしれない。今更サクラに変
身したところで、もはやどうにもならないことは血染めのナナが教えてくれる。
 ゴミのように投げ捨てられたショートカットの戦天使が、光の粒子と化して夜の闇に溶けてい
く。
 やはりあの時感じた奇妙な違和感は・・・目の前から七菜江がいなくなってしまうような感覚
は、当たっていたのか? 七菜江との永遠の別れを予知したとでもいうのか?
 
「ううん、そんなわけ、ないっ! そんなこと、有り得るわけないよッ!」

 再び小柄な美少女の肉体は走り始めていた。
 桃子にも経験がある。体力に余裕があるうちの変身解除は、ある程度離れた地点にでも元
の身体を現すことが可能だが、瀕死状態で巨大化が解ける折は、ほとんど場所を動くことはで
きない。今、藤木七菜江の身体は間違いなく、ファントムガール・ナナが消滅した神宮の森のな
かにあるはずだった。急いで向かえば、きっと七菜江を助けることができる。
 
「はあッ、はあッ、ナナ・・・死んだりなんか、させないんだから! はあッ、はあッ、そんなこと、
許さないんだからァッ!!」

 走ること、20分。
 いた。
 広大な神宮の敷地。鬱蒼と茂る夜の森。重なる悪条件にも関わらず、超能力少女は白砂の
参道に仰向けで転がる、青いセーラー服の少女を発見していた。
 酷い、姿であった。
 巨大化時のダメージは元の身体に戻ると、何十分の一かに軽減されるのが『エデン』の戦士
の特徴だ。それでも藤木七菜江の纏った聖愛学院のセーラー服は、獣に襲われたかのごとく
ビリビリに引き裂かれていた。胸や腹部、そして太腿からはじっとりと鮮血が滲んでいる。凶獣
ギャンジョーに貫かれた箇所は、穴が開くまでには至っていないものの、ナイフで刺された程度
の傷はしっかりと刻まれているようだった。ゲドゥーに殴られた顔面は、口と鼻から溢れた血で
真っ赤に濡れている。
 血に飢えた悪魔というものがこの世に存在するならば、きっと生贄に差し出される少女は、こ
のような無惨な姿で祭壇に祀られるのだろう。
 生きているのか、死んでいるのか、ピクリとも動くことない敗北少女に、一直線に桃子が駆け
寄る。
 
 ゾワリ・・・
 
 疑うべきもない悪意が背筋を疾走した瞬間、イマドキ美少女の小さな身体は弾けるように後
方に跳んでいた。
 足先をかすめる、銃弾。
 ドドドンッッ!! 桃子が通過するはずだった砂利道に着弾した3発の弾丸が、白い煙を緩や
かに立ち昇らせる。
 
「ヒャッハッハッハッーッ!! 超能力があるってのはマジみてえだなァッ、おい! いいカンし
てるぜェッ、ファントムガール・サクラァッ〜〜ッッ!!」

 どっと噴き出した冷たい汗が、桃子の美貌を濡れ光らす。大きく見開かれた魅惑的な瞳は、
コルト・ガバメントの改造拳銃を握った、疵面の男を見詰めていた。
 ガサガサと森林を割って出てきた、紫スーツの男。桃子の正体を知っている事実など、今更
驚愕には値しなかった。いかにもその筋のひとといった外見、そしてこの状況。下卑た笑いを
浮かべる疵面のヤクザが、ファントムガール・ナナを破ったひとりであることは確認するまでも
ない。
 森の葉を擦るガサガサという音は、桃子の背後でさらに起こった。
 反射的に振り返るエスパー美少女の視線の先で、サングラスをかけた白スーツの男が、薄
い唇を吊り上げて立っている。わかる。この男が、ナナのクリスタルを掴んでいたあの凶魔だ
と。ファントムガール・ナナを血祭りにあげた凶魔と凶獣が、今度は愛らしい美貌の少女を明治
神宮の参拝路で左右から挟んでいる。
 
「あははははは♪ 二匹めの獲物が向こうからやってきたみたァ〜〜い! 今度はウサギちゃ
ん狩りよォ〜」

 高らかな笑い声が、桃子の退路を塞ぐようにして沸き起こる。「闇豹」神崎ちゆり。つい今しが
た、桃子が走ってきた砂利道の中央に、銀色のコートを羽織った豹柄のコギャルは現れてい
た。金のルージュのなかで、真っ赤な口腔がギラギラと光っている。ファントムガール・ナナとの
闘いをほとんど無傷で切り抜けた狂女からは、戦闘の後遺症をほとんど感じることができなか
った。
 
 罠、だったのね―――
 
 七菜江を救いに来るであろう誰かを、敵は待ち構えていたのだ。いや、その誰かが桃子にな
ることは、恐らく十分に予測していたのだろう。東京の地において、守護天使をバックアップす
る態勢は地元ほどには整っていない。ナナの窮地を知り、真っ先に駆けつけるのが桃子であ
る可能性は非常に高い――
 
「フンッ、どうりでこの生意気な女にトドメを刺さなかったわけだ」

 呪詛を含んだ口調で吐き捨てる男が、いつの間にか横たわる七菜江の傍らに佇んでいる。
 魔人メフェレス。久慈仁紀。
 シャツもスラックスも漆黒で統一した闇の王は、振り上げた踵で思い切り弛緩した敗北少女
の鳩尾を踏み抜く。
 ゴボオオオッッ!!
 吐瀉物と鮮血を一斉に撒き散らす、ボロボロの猫顔少女。白目を剥いたままの瀕死の天使
は、踏みつけの反動で振り乱した手足をピクピクと痙攣し始める。
 闘うどころか、満足に動くことさえできない少女に、なんという仕打ち。
 憎悪を発散するように、ビリビリに破れたセーラー服から素肌を露出する七菜江の豊満ボデ
ィを、胸中心にグチャグチャに踏み躙っていく。失神した聖少女の口から深紅の気泡がゴボゴ
ボとこぼれ落ちる。
 
「ヒ、ヒトキ・・・あなたって人はァッ・・・!!」

 蒼白だった桃子の頬に、怒りの朱色が挿したのはこのときであった。
 可憐でもあり、綺麗でもある、美貌の持ち主・桜宮桃子。端整なマスクだけに、感情を燃やし
た美少女の表情は、凄みさえ溢れていた。
 
 前後左右を恐るべき敵に囲まれ、桃子が陥った状況は絶体絶命と呼ぶのに相応しいものか
もしれない。
 だが超能力さえなければ普通と変わらぬ美少女は、この苦境のなかで唯一の明るい材料を
見出していた。
 藤木七菜江はまだ、生きている―――
 
「あたしが・・・あたしがやるしかないッ! ナナァ、あなたはゼッタイ、あたしが助けてみせるか
らねッ!!」

 美少女たる所以を決定づけるような大きな瞳が、凛と輝きを増す。
 その瞬間、肩までに伸びた桃子の柔らかな茶髪は、突風を受けたように逆巻き立った。
 超能力の、全開放。
 見えないサイコのパワーが、少女戦士の周囲四方を一斉に吹き飛ばす。肉を打つ鈍い響き
が3つ。乗用車に撥ねられる衝撃が、何が起こったか混乱したままの二匹の凶獣と豹女を、現
れ出てきた茂みへと強制的に弾き飛ばす。
 
 桃子にもわかっている。並とは思えぬ4人の凶者に囲まれて、己が窮地の只中にあることを。
 命の灯が風前であるのは、七菜江ひとりに限った話ではない。死神の鎌は、確実にエスパー
少女の白き首元にも迫っている。
 だからこそ、遠慮などしていられなかった。今できる全力を、振り絞るしかなかった。
 
 10m以上は吹き飛んだ他の者とは違い、悪の首謀者とも言うべき久慈だけは思念の衝撃を
受けて尚、七菜江を踏み潰しながら留まっている。思惑外? いや、予期の範疇。4人の包囲
網のなかで、ひとり距離が離れていた魔人。念動力の効果が弱まることは、操る桃子自身が
一番よくわかっている。また、幾度となく美少女が起こす超常現象をその身で体験している男
は、サイコパワーの攻撃にもっとも対応できる敵でもあった。
 
「ヒトキッッ!!」

 真っ直ぐに、エスパー少女は黒き魔人へと突っ込んでいた。こうなることは、想定済み。自ら
を念動力で動かしたピンクのニットセーターが、飛鳥の速度で揺らぐ魔人へ特攻する。
 最初から、猛毒のごとき邪悪4人に勝てるなど、思っていない。
 桃子は己の力を過剰に評価する少女ではない。敵の力を過少評価するようなこともない。彼
我の実力差を比べて、まともにぶつかれば勝機などないことをきちんと悟っている。そしてそれ
以上に、いかに悪虐非道の悪魔相手であろうと、でき得るなら戦闘を避けられればと思ってい
る。
 この場で桃子がすべきこと。それは、藤木七菜江の救出、ただ一点のみ。
 倒せなくていい。ほんの少し、時間を作れれば。傷ついた仲間をこの手に戻し、テレポーテー
ションで安全な場所に飛ばす。自分も同様にして脱出する。本日の宿に選んだ渋谷のカプセル
ホテルならば、イメージも残っている。誰かがカプセル内に存在する可能性も極めて低い。瞬
間移動の超能力を十分発動できる。
 
 逃げの一手。七菜江と己れ自身が安全かつ確実にこの死地を脱するには、この作戦しか有
り得ないと桃子は確信していた。
 超能力といえど万能ではない。使用は即疲労となって肉体に返ってくるし、パワーの上限もあ
る。敵が4人もいれば念動力も分散され、自然威力も弱まってしまう。異端の能力を持つ桃子
ではあるが、それが通用するほど対峙している敵たちは甘くない。
 しかし、一発目。久慈やちゆりはともかく、初めて超能力を体験するはずの兇悪ヤクザ二人
には、目には見えないサイキック攻撃は必ず成功すると桃子は踏んでいた。一撃目。今こそ
が、勝負の時。ほぼ予想した通り、久慈以外の敵が吹き飛んだ今こそ、七菜江奪還の最大の
チャンスであった。
 
 思念によるエネルギーが、桃色の風と化した美少女の胸前に結集していく。
 対する久慈の右手に握られたのは、紛れもない日本刀。衰弱し切った少女戦士を踏みつけ
ながら、柳生暗殺剣の達人が凶刃を振り上げる。
 思念か剣か? 迫る勝負の刹那。取り返す者と奪う者のせめぎあい。この時、桃子は気付い
ていない。先程までの青き守護天使との闘いで、魔人メフェレスは確かなダメージを負っている
ことを。驚愕の新技“BD7”により、この男だけは万全の状態にないことを。他の3名とは違い
闇王・久慈仁紀だけは、この時実は戦闘の後遺症で激しい睡魔に襲われていたのだ。
 
 朋友の救出に生命を輝かせる聖少女と、張り付いた疲労を誤魔化しきれない悪鬼。
 ことこの激突に限って言えば、利は明らかに桃子の側にあった。
 
 ドンンンンンッッッ!!!
 
 巨木のバットで全身を叩きのめされたかの衝撃。
 加速を受けた念動力の波動をまともに食らい、漆黒に身を包んだ痩身が遥か十数mを猛烈
な勢いで吹き飛んでいく。
 
“やった!”

 辿り着いた。七菜江の元へ。瀕死に陥った仲間の元へ。
 オフホワイトのミニスカートが汚れるのも構わず、白砂利の参拝路に桃子は座り込んでい
た。その腕にボロボロに破れた青いセーラー服を抱き締める。ぐったりとした猫顔少女の重み
が、細い腕に伝わってくる。
 一瞬で、飛ばす。まともに動くことのできない七菜江を抱えて闘うことは不可能だ。テレポート
させる以外、脱出の方法はない。許されたわずかな時間で、桃子は瞬間移動を完成させなけ
ればならなかった。念動力で桃子ができるのは「吹き飛ばす」だけであり、深刻なダメージを与
えるまでには至っていない。あっと思う間もなく、敵は立ち上がってくる。必ず。こうして誰の邪
魔も受けずに朋友の側にいられるのは、きっとごく短い時間でしかないはずだ。
 
「あッッ?!!」

 絶望ともとれる驚きの声が、朱鷺色の唇を割って出る。
 闇夜に浮かぶ白刃が、横臥する七菜江の太腿に突き刺さっていた。
 打ち込まれた楔のごとく。ハンドボールで鍛えた張り詰めた腿肉を貫通した刃は、地中深くま
で埋没し、敗北少女の肉体を標本のようにその場に縫い付けている。ドクドクという鮮血のこぼ
れる音色が、今頃になって桃子の耳に届いてくる。
 
 見透かされていたのか。全ては、復讐鬼と化した魔人に。
 久慈が振り上げた凶刃は、桃子を迎撃するためのものではなかった。エスパー少女の狙い
が七菜江の奪還にあることを悟り、そのズタボロの肢体を串刺しにしたのだ。
 テレポーテーションは魔法ではない。自由に動けぬものを、大地に縫い付けられたものを動
かすことはできない。日本刀を抜かない限り、七菜江の身を安全な地に飛ばすことはできない
のだ。
 
「ひ、ひどいッ! なんてことをッ!」

 叫ぶなり桃子の両手は、突き刺さった日本刀の柄に伸びていた。目前にまで成功が迫ってい
た、計画の破綻。全てが思惑通りに進んでいたはずの脱出作戦が失敗に終わったショックよ
り、瀕死の少女をさらに痛めつける仕打ちへの怒りが優しいエスパーを衝き動かす。
 太腿の筋肉を貫いた刃は、少女の力ではビクともしなかった。
 『エデン』を宿した桃子の腕力は、一般的な女性と比べれば上位にあたる。それでもグイグイ
と力を込める美少女を嘲笑うように、筋肉に締められた刀身は1cmを引き抜くのすらままなら
ない。
 
「ムダムダァ〜! お嬢ちゃんのような細腕じゃあよォ〜」

 背後に湧き立つ生臭い息と、圧倒的な悪寒は同時。
 来たのか。恐るべき邪悪。もう体勢を立て直して。いつの間に後ろへ? なんという早さ!
 闇を切り裂く疵面ヤクザの轟音パンチは、反射的に飛び避けた桃子の茶髪を掠って過ぎて
いた。
 前方に飛んだピンクのニットが、勢いのまま5mを転がる。距離を取って振り返る美少女の毛
先から、立ち昇る焦げたような匂い。
 一斉に噴き出した冷たい汗で、瞳を見開いた愛らしい美貌は青白く濡れ光っている。
 
「はあッ、はあッ、はあッ、はあッ!!」

「さっきのが超能力ってやつかい? 面白ェ曲芸じゃねえかァ。けどよォ、オレらには痛くも痒く
もねえぜェ」

 エスパーならではの超感覚故か。桃子の透明な皮膚一面に鳥肌が粟立つ。
 凶悪過ぎる邪悪の具現者は・・・そう、もうひとり。
 弾丸のごとく突っ込んでくるそれは、触れるだけで爛れそうな濃密な殺意。
 風すら振り千切る速度で飛び込んできた白スーツの凶魔が、“最凶の右手”を引き絞った態
勢で桃子の傍らに現れる。
 
「ッッ!!! くゥッ!!」

 反射的に厚さ15cmはあろうかという鋼鉄の壁を思い描いた桃子が、見えないサイコのシール
ドを己の前面に張る。
 放たれる、海堂一美渾身の右ボディブロー。
 迎え撃つ、桜宮桃子念動力の壁。
 
 ドゴオオオオオオッッッ!!!
 
「あぐうううううッッッ!!!」

 己の鳩尾に突き刺さる海堂の右拳を、桃子は引き攣る激痛のなか、信じられない瞳で見詰
めた。
 超能力が、効かない。
 いや、サイコパワーの発動は確かに間に合っていた。鋼鉄の壁を思い浮かべたのも事実。
巨大金庫の扉と同等の強度を持つエネルギーが、念動力によってその場に生成されたのは間
違いない。
 ただ、サングラスのヤクザには・・・海堂一美には通用しなかった。
 超能力が作り得る防御壁の強度を、“最凶の右手”の打撃力は上回ってしまったのだ。
 つまり。
 実際に厚さ15cmの鋼鉄の壁があっても、海堂一美の右ブローはそれを打ち破るほどの威力
を持っていることになる。
 
“そ、そんなッ・・・まさかァ、まさかそんな力がァ・・・”

 ゴキッ!! ギュルッ!! ブチブチブチッッ!!
 
 ピンクのニットセーターの中央に陥没した右拳を、サングラスの凶魔は顔色ひとつ変えずに
そのまま桃子の中でこね回す。
 
「はがふッッ!! ゴブウッッ!! くあああッッ――ッッ!!! ああああッッ―――ッ
ッ!!!」

「フン、脆い肉体だな、桜宮桃子。守護天使を謳う小娘のなんと弱いことか」

 青き女神が敗退したばかりの神宮の森に、イマドキ美少女の悶絶の悲鳴がこだまする。
 悪鬼が支配する森のなかで、孤立した守護少女に差し延べられる救いの手など、あるわけ
がない。
 ジタバタともがく桃子の手足を軽く受け流し、“最凶の右手”の美少女調理が続く。桃子の肺
腑はボウルに入ったミックスサラダの具のごとく、こねられ掻き乱され続ける。苦痛という意味
ではこれ以上の嗜虐はなかった。ビクビクと震える愛くるしいプリティフェイスから、汗と涙と涎
と胃液が混ざった粘液が、長い糸を引いて唇の端から垂れ落ちていく。
 
“ひぎッイイィッッ・・・苦しッッ・・・壊されェェッ・・・ぐちゃッ・・・ぐちゃにィィッ・・・”

「ここが胃袋のようだな」

「ッッッ?!! きゃふはああああッッッ―――ッッ!!!」

「地獄の苦しみに泣き叫べ、ファントムガール・サクラ」

 グシャリという凄惨な響きが、アイドル顔負けの美少女の体内から起こる。
 
 ブシャアアアッッ!!
 
 黄色がかった吐瀉物混じりの液体を吐き出した瞬間、愛玩動物のような桃子の瞳が白眼を
剥く。
 許容外の壮絶な苦痛に耐え切れず、優しき少女戦士の意識はズタズタに引き裂かれてしま
っていた。
 何十万人にひとりと思われる美少女のマスクに苦悶と嘆きを刻んだまま、海堂の右手から抜
け落ちた小さな肢体が、ドサリと白砂利の大地に転がる。
 
 これが人類を守るため闘ってきた、戦乙女たちの現実だというのか。
 身体中を切り裂かれ血染めで転がる肉感的な少女と、内臓を潰され己の反吐で汚れたイマ
ドキ美少女。
 神が眠る聖なる敷地に、ふたりの守護戦士が惨めな姿で倒れ伏している。
 対照的に、ほとんど無傷の4人の悪魔たち。
 人類の守護天使と侵略者たる悪鬼ども。実力の差を象徴するというには、あまりにその光景
は無惨すぎた。
 
「ギャハハハ、変身すらできずに逝っちまったか? 手応えねェ小娘だぜ。手裏剣使いの女の
方がまだ楽しめたってもんだ」

「まあ甘ちゃんのウサギちゃんならこ〜んなもんよォ〜。で、ど〜するのォ〜、メフェレス?」

 大の字で仰向けに転がるピンクの少女を中心に、体勢を直した悪魔4人がぞろぞろと集まっ
てくる。その顔に喜悦の色が意外に薄いのは、桃子と海堂が激突すればこうなるのは当然と
いう認識の強さ故か。
 余裕の表情で一連の攻防を見守っていた「闇豹」は、やや動きが緩慢な闇の首謀者に向か
って第二の餌食となったエスパー少女の処遇を訊く。
 
「このウジ虫に取った不覚、オレ様の生涯を穢した最大の汚点と言ってもいいだろう」

 ゴツ、という乾いた音を立てて、漆黒の革靴が動かぬ桃子の茶色の頭部を蹴る。
 元は恋人であったふたり。久慈からすれば単なる手駒のひとつでしかなかった桃子に、死に
直面するほどの敗北に追い込まれた記憶は、比較的真新しいものであった。屈辱、侮蔑、恥
辱。いかなる言葉も物足りぬ、痛恨の失態。久慈を復讐鬼に変えた最終的な引き金は、桃子
によって与えられた敗北であった。
 闇の王を穢した罪は、万死に値する。
 魔人に巣食った悪夢を取り払うために、処刑せねば済まぬ守護少女たち。なかでも是が非
でも五体を切り刻まずにおれぬ罪人が、今目の前で横臥している。
 
「残りの小娘どもを誘き寄せるエサはひとりで十分。このウジ虫は不要だ。見せしめのために
もこの場で・・・殺す」

 ニットセーターに拳の陥没跡を残したまま、四肢を投げ出し転がるアイドル少女。
 取り囲み見下ろす4対の眼が、差し出されたエモノをじっくりと吟味する。
 殺せる。ファントムガールを。人類の守護天使と呼ばれた希望の少女を。
 真っ赤な舌を出したスカーフェイスのジョーが、刃傷で崩れた己の唇を舐めあげる。暗殺者
のジョーにとって、殺人は禁断の蜜の味であった。ゾクゾクと疾走する背徳感と、麻薬でも味わ
えない興奮。快感としか言いようのないあの感覚は、何物にも変えることなどできない。だがそ
の相手が、人間ではなく天使であったら。光の力を駆使する女神であったら。極上の蜜の予感
に、疵面獣は射精寸前であった。
 簡単には殺さない。じっくりと、嬲り殺す。
 紫スーツの内ポケットに隠した匕首に、敢えてジョーは触れなかった。孤立無援の少女戦
士。リンチには絶好の森の奥地。あらゆる臓腑を潰し、全ての骨を砕いて・・・絶命させる。
 
 桃子に降り注ぐ、狂気の視線。殺意の眼差し。
 嗜虐に飢えた悪魔4体が、丸みを帯びた美少女の肢体を貪るべく飛び掛る―――
 
「ぬうッッ?!!」

 異変を感じたのは、場にいた全員であった。
 なにかが、ある。沸き起こるエネルギーの予兆に、悪魔どもの動きがピタリと止まる。
 この小娘・・・まさかまだッ―――!!
 
 白砂利の瀑布が一斉に天に向かって噴き上がったのは、次の瞬間であった。
 周囲四方、何万ともいう砂の飛礫が逆流する滝となって、地から天へと打ち上げられていく。
 
「このアマァッ!!・・・まだこんな力を残してやがったかァッ?!!」

 確認するまでもない、重力を無視した奇跡を起こしているのは、桜宮桃子の念動力。
 待っていた。一瞬のチャンスを。まさしく絶体絶命の窮地に陥りながらも、エスパー少女は決
して全てを諦めてはいなかった。
 猛るジョーの怒号も、その兇悪な姿も、噴き上がる白砂利に遮断されどこにあるのか判別で
きない。砂粒が作る煙幕。桃子の周囲に集結した悪魔どもの視界は、いまや完全に噴き上が
る白砂利に閉ざされている。互いの位置を始め、横たわる桃子の居場所すらもはや正確には
わかっていまい。
 
 バチバチと噴き上がった砂利が佇む闇の住人たちに当たる。無論、『エデン』の寄生者には
なんのダメージにもならない。
 それでよかった。桃子の狙いはただひとつ。
 
“ナナ・・・あたしは・・・あなたさえ助けられれば・・・・・・”

 ブンッッと空間が震動する音とともに、砂の煙幕の中心で横臥しているはずのエスパー少女
が、やや距離を置いた藤木七菜江の傍らに現れる。
 念動力を発動しつつの、瞬間移動。
 異なるふたつの能力を同時発動させた反動が、小柄な美少女をぐらりと揺らめかす。瞬間移
動した距離が近いことが、幸いした。海堂一美に潰された肉体を気力で支え、再び失いかかる
意識を懸命に繋ぎ止める。
 視界を奪った今のうちに、この場を脱出しなくちゃ―――
 
 そう、初めから戦闘になれば圧倒的不利なのはわかっていた。桃子に与えられた使命は、な
んとかして傷ついた七菜江を奪還すること。
 油断した敵が近寄ったのを利用し視界を塞ぎ、再度テレポーテーションを試みる。力の限り
念動力を発動し続ければ、先程よりは時間を稼げるはずだ。
 最初から最後まで、桃子の目的にブレはなかった。ただ七菜江を助けたい、その一心。目的
を果たすために、エスパー少女は我が身を削られながらも、必死に脱出の糸にすがる。
 なんとか・・・なんとかテレポーテーションを成功させさえすれば――。
 
「ゲラゲラゲラ! まったくおめでたいバカ女だぜェッ!!」

 ガシッという骨の軋む音色とともに、背後に迫ったスカーフェイスのジョーに哀れな美少女は
羽交い絞めにされていた。
 
「あッッ?!!」

「女子高生の浅知恵など惨めなものだ。いくら目隠しをしようが無意味。お前の目的が藤木七
菜江である以上、ここに来るのはわかっている」

 凍えるような殺意の主が、捕獲された美少女戦士の眼前に立つ。
 仁侠界が畏れる現代日本最凶のヤクザ、海堂一美―――。
 
 グシャリッッ!!
 “最凶の右手”が、桃子の仄かな左胸の膨らみに抉り込む。
 
「はきゅううううッッッ!!!!」

 グルリと再び反転する魅惑的な瞳。吹き飛ぶエスパー天使の意識。
 だらしなく投げ出された小さな舌から、トロトロと透明な涎の糸が地面にまで垂れ落ちていく。
 すかさず凶魔の右手は、掌サイズで納まりのいい桃子の乳房を肉がはみ出るほど握り潰
す。
 
「くあああッッ?!! あぐうううッッ、あがアッ、ああぎゃああッッ―――ッッッ!!!」

 女性のシンボルを超握力で潰される激痛は、文字通りの地獄であった。
 アイドル顔負けの美少女が、可憐さに満ちた愛くるしい女子高生が獣のごとく絶叫する。たま
らずこぼれる涙が、白桃の頬を伝い落ちる。
 いっそ殺してあげればいいのに。見る者がいれば願わずにいられない残酷な仕打ちが、永
遠と思われる時を刻んで行なわれる。
 
「あぐうう゛う゛う゛ッッ〜〜〜ッッ!!! ふぇああッッ、はッ離してェェェッッ――ッッ!!! お
ッ、おねがッッ・・・きゃううううッッ―――ッッッ!!! やッやめェェッッ・・・やめえええェェッッ
――ッッ!!!」

 ゴブッッ!!・・・絶叫の狭間に、吐血の霧を咲かせる無惨な戦乙女。
 ビクビクと痙攣する悶絶のダンスをたっぷりと味わった海堂が、左乳房を握り潰したまま、上
空へと引き上げていく。
 
「いぎいいィィッッ?!! ぎゃふうッッ、そッ、そんなァァッッ・・・いやああああッッッ―――ッッ
ッ!!!痛いィィィッッッ―――ッッ!!!! きゃうううッッ――ッッ、許しッ、許してェェェッッ
〜〜ッッ!!!」

 ジョーの拘束を解かれた肢体が、凶魔のクローによって高々と吊り上げられる。
 己の全体重を左乳房に預ける形になった桃子の悲哀は、凄惨を極めた。
 数分、極痛に痙攣するしかなかった少女の肢体から、急激に力が抜ける。
 垂れ落ちる、鮮血混じりの涎と、涙。脱力した四肢。
 あまりに壮絶な痛みに、巨大すぎる苦しみに、桃子は何度目かの失神を迎えていた。痛すぎ
て、苦しすぎて意識を崩壊させたのだ。
 ようやく超握力から解放された小さな身体がドシャリと大地に落ちる。離れた位置から破壊シ
ョーを楽しむ闇の首謀者と豹柄の狂女が、正義のヒロインと呼ぶには無様すぎる弱々しい姿に
哄笑する。
 うつ伏せに倒れた桃子の腰を、恐竜を思わす疵面ヤクザが地面がへこむほど踏みつける。
 
「ギャハハハハ、ファントムガール二匹目の犠牲者だぜェェッ!! ゲラゲラゲラ!」

 左手で茶色の髪を、右手で生足の先にある足首を掴んだジョーが、一気に桃子の肢体を反
り曲げる。
 
 メキイイッッ!! メシメシッッ・・・ミチイッ!!
 
 まともな神経の持ち主なら思わず目を背けずにいられない、残酷絵巻。
 踏みつけられた腰を中心に反り曲げられた桃子の身体が、ほとんど円を描いている。
 ほぼ直角にまで反り上がった上半身と、踵が後頭部に付くまで持ち上げられた下半身。
 弓なりという表現を越えて、桃子の肢体は腰を支点にして真逆に折り曲げられていた。
 
 ゴブッッッ・・・
 白目を剥いたままのアイドル美少女の唇から、ドス黒い血がねっとりと糸を引いて鎖骨を露
わにした胸とピンクのセーターに網目を描いていく。
 
「折り畳み式のファントムガール・・・いい姿じゃねえか、桃子。ギャハハハハ!」

「なァ〜にィ〜? もう殺しちゃったのォ〜? ちり、つまんなァ〜〜い」

「慌てるんじゃねえよ、『闇豹』。小娘どもってのは案外身体が柔らけえからなァ。このくらいじゃ
死なねえよ」

 ジョーの両手が離れた瞬間、単なる肉塊と化したような桃子の上半身と足とがバタリと大地
に倒れ込む。
 ヒクンッ、ヒクンッとうつ伏せ状態のまま痙攣し続ける桃子の肢体。生存を確かめるように、
綺麗な流線を描いた茶髪の後頭部をグリグリとジョーが踏み躙る。
 幾人もの男子を虜にした厚めの唇は、泥の混ざった地面に口付けしたまま。
 白さの際立つ太腿にも、やや丸みを帯びた指先にも、もはやアイドル少女のあらゆる場所か
ら残された力を感じることはできない。
 
「ジョー、愉しむのはいいがあまり油断はするな。ナナといい、先程のこいつといい、ファントム
ガールどもの生命力と粘りは侮れんぞ。頃合いを見て始末をつけろ」

「海堂さんに言われちゃあしょうがねえ。そろそろ仕上げに入りますかい。ファントムガールの
解剖ショー、なんてのはどうです?」

 満を持して取り出した愛用のドスを、疵面獣は濃密な闇夜に光らせる。
 
“・・・・・・ナ・・・・・・ナ・・・・・・・・・”

 倒れ伏す桃子を見下ろし、数え切れぬ犠牲者の血を吸ってきた凶刃を構えるジョー。まずは
乳房を切り落とすか、一気に背中を引き裂くか。天使惨殺の瞬間を間近にし、興奮はもはや抑
えきれないレベルに達していた。
 
“ゴ・・・メン・・・・・・・・あ・・・たし・・・ナナを・・・・・・助けれ・・・そうに・・・・・・ない・・・・・・”

 狂気に彩られた殺意の刃が、一息にエスパー少女の首元に降ろされる。
 ガツッッ・・・
 ジョーのドスが突き刺したのは桃子の首、ではなく、硬い白砂利の大地であった。
 
「なんッッ・・・だとォ〜〜ッ?!」

 再びの、テレポーテーション。
 瞬間移動で消えたピンクの女子高生の肢体は、キョロキョロと見回す疵面ヤクザの視界には
捉えられることはなかった。
 
「フン。藤木七菜江を救うことを諦め、己の命を優先したか。賢明な判断だ」

 もし今度七菜江の側に現れたなら、首を折るつもりで構えていた海堂一美がニヤリと笑う。
 桃子の目的が七菜江救出にあることは百も承知。だからこそ、超能力という不可思議な技の
持ち主であっても、葬ることは容易いと考えていた。桃子が七菜江にこだわればこだわるほ
ど、仕留めるのはラクになる。エスパー少女が仲間の救出を目指す限り、悪の術中から抜け
出すことはできないのだ。
 
 気付いたようだな、桜宮桃子。
 藤木七菜江の救出など、不可能であることを。
 そして、お前が生き残る唯一の方法は、七菜江を見捨てて逃げるしかないことを。
 
「無意味な友情ごっこに殉じて死に急ぐかとも思ったが・・・こうでなければつまらんというもの
だ」

「あの身体でテレポートといってもそう遠くにはいけぬはず」

 不敵に微笑む海堂に歩調を合わせるように、獲物を逃がした焦りを感じさせぬ口調で久慈
が言う。
 
「逃がしてはならん。桃子を追うのだ。この好機に・・・ひとりでも多くのファントムガールを始末
する」



 日付も変わろうかという時間帯にも関わらず、首都東京は突如現れた巨大生物によってか
つてない混乱に陥っていた。
 明治神宮に出現した4体のミュータントと、ほぼ同時に東京湾に現れた一匹。もちろん、偶然
ではないだろう。首領格であるメフェレスが直接参戦していることも考え合わせれば、なんらか
の意図を持って東京襲撃が行なわれているのは確実であった。政治・経済を始め日本の中枢
機能が集まったこの地を、悪魔どもは完全支配、あるいは破滅させようとしている可能性すら
ある。極論すれば、日本という国の存亡が懸かった危機、と言ってもいい。
 山の手界隈の大部分の人々が、自主的に避難を開始していた。
 ただ巨大なだけの動物が暴れているのではない。高度な知能を持った生物が、邪悪な目的
に従って破壊をしているのだ。危険度は自然災害の比ではない。
 新幹線を始めとする公共の運送手段がストップした今、首都を離れる人々を乗せた車で高
速も一般道も埋め尽くされていた。東北方面、あるいは中部方面へ伸びるテールランプの帯
が、毒々しい赤い蛇となって夜闇に浮かび上がっている。
 
 渋滞とは無縁の反対車線を、一台のスポーツカーが闇を巻いて唸り飛んでいた。
 流線型のフォルムと重厚な色調。現在国産車のなかで最高クラスの馬力を誇るシルバーの
最新GT−Rは、ゆうに時速200kmを越えていた。通常なら出し得ないこのスピードも、他に一台
の車も走っていないがため。東京へ向かっていた車両の全てがUターンを決めたなか、単騎、
高速道路を占有して疾走を続ける。
 
「ファントムガール・ナナが敗れたというのに、随分冷静なのね」

 車中に流れたのは、妖艶が染み付いた女の声であった。
 深紅のスーツを身に纏った、長い黒髪の美女。
 GT−Rのエンジン音だけが響く車中に、後部座席から放った片倉響子の呟きは鋭さを伴って
聞こえた。
 
「海堂一美と城誠。あの二人をひとりで相手するのは無謀すぎたわ。あの様子ではタフな藤木
七菜江といえど・・・」

「ナナちゃんは、死んでいないわ」

 響子の隣りで毅然とした声が応える。
 聖愛学院の制服に身を包んだ五十嵐里美は、手元の資料に目を通しながら凛とした姿勢を
崩していなかった。
 “最凶の右手”海堂一美とスカーフェイスのジョー。現代日本における最も凶悪なヤクザと暗
殺者に関する資料は、警視庁より比較的簡単に取り寄せることができた。とはいえそこに載る
情報は、凶魔と凶獣が『エデン』を寄生させる以前のもの。凶暴性にしろ、身体能力にしろ、更
なるパワーアップを遂げていることは考慮せねばなるまい。
 
 相楽魅紀が命と引き換えに残したメッセージ。東京にいる少女戦士たちに迫った危機を知ら
され、里美の行動は迅速を極めた。
 新幹線の運行が終わり、自衛隊の協力も要請しにくい段階で、考え得る最速手段は乗用車
しかない。五十嵐家に6台常備された車のうち、最速を誇るGT−Rが選ばれたのだが、それで
も東京までの距離はあまりに遠かった。里美が持つノートパソコンに送信されたナナ敗北の動
画は、移動する車中のなかで無言で受け入れる以外になかった。
 ミュータントが実際に現れ特別警報が発令された段階で、自衛隊への要請は通りやすい状
況になっている。これからならヘリコプターや戦闘機での東京入りも十分可能であろう。しか
し、関東圏に突入した今、乗り換えや待ち合わせの時間、そして空いた道路状況を考えれば、
このままGT−Rで進むのがもっとも素早く、かつ確実であった。空からの移動は確かに速い
が、敵に見つかりやすいのもまた確か。相手は無知な巨大生物ではない、人間の知能を持っ
た悪魔なのだ。最悪の場合、撃ち落される可能性も決して低くはない。すでに後手を踏んでい
るファントムガール陣営にとって、救援の手が東京入りしたことを悟られるのは、できる限り避
けたい事態であった。
 
「ハッキリと断定するのね。しかし、たとえ変身を解いて難を逃れたとしても」

「ナナちゃんは死んでいない。死なせなど、しないわ」

 聡明な里美の言葉の拠り所が、具体的な根拠などではなく彼女自身の強い信頼に懸かって
いることを響子は知る。
 
「あなたこそ、ナナちゃんは大事な『実験体』ではなかったの? あなたの言い方は、まるで私
たちの生死に無頓着のように聞こえるわ」

 切れ長の瞳に強い光を灯し、初めて里美は傍らに座る薔薇のような美女に視線を向ける。
 
「もちろん大事な存在よ。あのコだけでなく、あなたたちもね。ただ感傷的な気分を持ち出す対
象ではないことは、理解しておいてもらいたいわね」

 彫りの深い瞳と真っ赤なルージュを歪ませて創った微笑は、取りようによっては挑発的と見え
なくもないものであった。
 魔人メフェレスの参謀であった妖女・片倉響子。
 二匹の凶獣を打倒する目的で一致したとはいえ、先日まで聖少女たちを苦しめてきたこの天
才生物学者に完全な信頼を寄せるのは、里美でなくとも難しい作業であった。
 車中の配置ひとつ取っても、両者の微妙な関係は浮き彫りになっている。
 ドライバーを務める安藤の後ろに里美が座り、その横に響子という配置。ドライバーからは極
力遠ざけ、妖女が不穏な動きをすればすぐに里美が対処できるよう、考えられたものであっ
た。心底から信用などはしていない――車中を支配する張り詰めた空気は、互いの心情をな
によりも物語るように思われた。
 
 一体・・・あなたはなにを考えているの? 片倉響子
 フフフ、意地でも信用しないって顔ね、五十嵐里美
 
 闇に沈んだ妖女の本音を見透かそうとする守護女神と、はぐらかす天才生物学者。
 到底相容れぬと思われるふたりだが、ひとつだけ共通していることがあった。
 今はともに、互いの力がどうしても必要だということ――。
 
「さて、東京入りしたらどうするつもり? メフェレスやあのふたりが現れた明治神宮に向かう
か、品川付近の東京湾で交戦中のアリスを助けにいくか。二手に分かれるという方法もあるけ
ど」

 防衛省から送られてくる情報により、霧澤夕子=ファントムガール・アリスが現在東京湾に
て、クラゲのミュータントと闘っている最中であることは数分前に判明していた。
 七菜江と夕子、携帯の繋がらないふたりに覚えた悪い予感は、図らずも的中してしまったこと
になる。そして唯一繋がった桃子にしても、七菜江の救出に彼女が向かった以上、危険と無縁
であるとは到底思われない。
 
「あなたには私と一緒に行動してもらうわ」

「フフ、それはそうよね。まだ私を信用しているわけじゃないんですもの」

「それもある。けれど、私たちが手を組む理由は、あの恐るべき凶魔二匹を倒すためのはず
よ。海堂とジョー、ふたりの前に立たなければ意味はない」

 一切の迷いのない口調で、美しき女子高生は言い切った。
 
「明治神宮に向かうわ。ナナちゃんを救い、同時にメフェレス、マヴェルともども悪魔二匹を葬
る」

 感情を秘すくノ一少女にはらしからぬほど、切れ長の瞳には強い決意が滲んでいた。
 聞いた響子が一瞬たじろぐ。一見何気ない宣戦布告だが、その裏に秘められた想いは悪の
参謀を務めていた女がドキリとするほど深い。
 里美の言葉をそのまま受け取れば、この憂いを帯びた美少女は響子とふたりで4人の尋常
ならざる悪魔たちと闘うつもりなのだ。
 圧倒的不利はもちろん否めない。しかも、もし響子が裏切るような事態があれば、令嬢戦士
の命脈は確実に途絶えることになる。
 ある意味で七菜江以上の無謀。そこに気付かぬ里美であるわけがない。それでも彼女が逡
巡を見せないのは、昂ぶる感情とそれなりの勝算があるからこそだ。
 
 抑えきれないのだ。七菜江が倒された悔しさと、救出したい熱意を。
 信用しているのだ。隣に座る、謎を秘めたかつての悪女を。
 
「メフェレスやマヴェルまで倒すなんて、私は言ってないわよ?」

「ゲドゥーとギャンジョー、あの二匹を倒すまでの協力で構わない。あとは私ひとりでいいわ」

「姿を消した彼らが、いまだに明治神宮に残っているとは限らないけど?」

「わかっているわ。けれども、確かな情報がない以上、そこに向かうしかない。付近にいるはず
の桃子のことも心配だし」

 現時点で存在する災害怪獣はクラゲのミュータントのみ、ということを考慮すれば、アリスの
救援に向かうのが巨大生物対策としては正解だろう。
 しかし、ナナとアリス、両者に仕向けられた敵を見れば、悪の中枢がどちらにあるかは明白
だ。本命はナナ抹殺であり、アリスは足止めを受けているに過ぎぬ。今後事態を深刻化させず
に済ませるには、侵略者の主戦力を叩かねばならない。夕子には酷だがひとりで戦闘を制し
てもらい、その間に闇の首領を粉砕する・・・戦力と現況を冷静に見極めたうえでの里美の結
論がそれであった。
 
「他の連中はともかく、メフェレスはナナちゃんとの闘いで少なからずダメージを受けているわ。
桃子と合流することができれば、こちらもあちらも3対3の同条件。決して勝てない闘いとは思
わない」

「・・・あのひとを連れてくれば、もう少し有利な闘いにできたでしょうに」

「ユリちゃんのことなら最初から頭に入れていないわ。まともに闘えない今のあのコには荷が重
過ぎる」

「しらばくれないで頂戴。今こそ最強の格闘獣を解き放すべき時なのに」

 言葉を出しかけて桜色の唇を噛む美少女に代わって、絶妙のタイミングで運転手の執事が
話をはぐらかす。
 
「都内の一般道路は乗り捨てられた車で埋まっているようです。首都高速でいけるところまで明
治神宮に近付いてみますが・・・そこから先はおふたりとも徒歩での移動をお願いします」

「・・・承知のうえよ。私たちを降ろしたら、安藤、あなたも少しでも遠く現場から離れるのよ」

「在京の特殊国家保安員のものたちと行動をともにするよう、手はずは整えてあります。常人
の老いぼれにはお嬢様の近くに寄り添うことはできませんが・・・彼らとともに出来る限りのサポ
ートは尽くす所存です」

「ありがとう。でも・・・私のことよりあなた自身の命を大切に考えて。約束よ」

 伊賀忍者で構成された御庭番衆が形を変えて防衛省に組み込まれた組織、特殊国家保安
部隊は“最凶の右手”に散った相楽魅紀が所属していた部隊でもある。その本拠地は、防衛省
のお膝元であるここ東京に当然のようにあった。
 激しい戦闘のあとは睡魔に襲われる『エデン』の戦士にとって、サポート部隊の存在は実に
心強いものであった。 最悪、勝てなくても・・・60分という時間制限を闘い抜くことができれば、
敵も味方も眠りに落ちるのだ。そうなれば国家が背景にある守護天使陣営の方が圧倒的に有
利となる。苦戦必至の決戦であっても、引き分けなら勝ちという事実は、正義の少女たちにとっ
ては一縷の望みとなるだろう。
 
「間もなく・・・都内に入ります」

 乾いた老執事の呟きを振り千切り、銀の弾丸と化したGT−Rは、闇に仄めくネオンの都市へ
と疾走していった。
 
 
 
「キシャアアアアアッッ―――ッッ!!!」

 奇怪な叫びが闇に閉ざされた東京湾にこだまする。
 怪鳥を思わす甲高い声。おおよそ生物が発したとは思えぬ咆哮に続き、ボトボトと海中に何
かが沈んでいく音が響く。
 品川近郊の東京湾に出現したクラゲのミュータント・ヒドラ。
 巨大な半透明の頭部に無数の触手を生やした怪物の前に立ちはだかるのは、黄金の鎧を
装着したツインテールの少女戦士であった。
 眩い銀色の肢体に描かれたオレンジの幾何学模様。胸部と腰部にはビキニを思わせる金色
のプロテクターが取り付けられている。首に輝く同色のリング。赤髪のツインテールを乗せた銀
色の顔は無表情ではあるが、大きめな瞳が印象的な紛れもない美形であった。右腕の肘から
先と、海中に沈んで見えない左足の膝から先は、特殊合金で作成された事実を示してシルバ
ーの光を放っている。
 サイボーグ少女・霧澤夕子が変身した第四のファントムガール、アリス――。
 装甲の天使と異名される正義の戦士は、下半身を東京湾に沈めた態勢で半透明のミュータ
ントと対峙していた。
 
“そろそろ決着をつけないと”

 表情ひとつ変えない端整な白銀のマスクの裏で、アリスの本当の顔には焦りの色が浮かび
始めていた。
 クラゲの巨大生物と鎧の女神が現れてから、すでに20分が経過しようとしている。
 オレンジの女神の周囲にプカプカと漂う物体。月光すら届かぬ闇夜でよく目を凝らせば、そ
れらが切断されたクラゲの怪物=ヒドラの触手であることがわかる。これまでの闘いのなか
で、どれだけの触手を切り落としてきたか、アリスにはもう見当もつかない。
 この20分という正邪の激突のほとんど、闘いは襲い来る触手とそれを切り落とす装甲天使、
という展開に終始していたのだ。
 
 カツオノエボシ――通称電気クラゲと呼ばれる水棲生物がヒドラの正体であることは、生物
が履修科目に入っていない理系少女・夕子にも姿を一目すればわかった。サイボーグである
自分に「電気」と名のついた敵を送り込むのは、浅知恵の回りそうな変態教師の考えそうなこと
ではある。
 その名の通り烏帽子に似た袋状の頭部から、無数に垂れ下がった触手。その触手に猛毒が
仕込まれているのはあまりにも有名な話だ。アリス登場とともに、本能が光のエナジーを持つ
少女を敵と見做したのか、ヒドラの触手は猛然と装甲天使に襲い掛かった。
 アリスにもわかっている。この触手だけは避けなくてはならないと。
 右腕の電磁ソードを閃かせるや、四方から迫る毒手を次々と払い落としていく。襲うヒドラと
守るアリス、この攻防が繰り返し続けられた。
 
“この触手の長さと多さッ!・・・厄介だわ。しかも知能が低いミュータントだけに、ダメージが判
別しづらい”

 タコとは違いクラゲの触手は無数に存在し、体長と比較した際の長さも長かった。さらに『エ
デン』との融合を経て、最大の武器である触手をこの怪物は強化している。切っても切っても終
わりが見えないだけでなく、攻撃に転じて近付くことさえアリスには容易ではなかった。触手を
切れば先程のように耳をつんざく悲鳴をあげるが・・・一体どれほどのダメージがあるのか、定
かではない。隙を見て右腕に取り付けられたバルカン砲を撃ち込んでみたものの、それすら効
果があったかどうか、アリスには判断できないでいた。
 息絶えたと思っていた動物が、突然激しく動き出した、という経験は誰にでもあるだろう。
 冷静で合理的な判断を得意とするアリス=夕子にとっては、人間のような高度な知能を持つ
相手より、本能に近い動きをする生物の方が遥かに行動を読みにくかった。
 無闇に突っ込めば触手地獄が待つ敵。
 じっと勝機を窺い防戦に専念するしかないアリスと、何本もの触手を切り落とされたヒドラ。外
見では無傷の女神に分がありそうでも、その内実、装甲天使はじわじわと追い詰められてい
た。
 
“このままだとマズイわ。少々リスクがあっても、勝負を賭けるべき”

 『エデン』を寄生させた生物が巨大化できる時間には限界がある。人間なら60分であるが、
単純な生物であるほどその制限時間は長い。クラゲのミュータントは確実にアリスよりも変身
時間が長いはずであった。
 さらにいえば久慈の配下である田所が襲ってきたからには、他の守護天使のメンバーにも危
険が迫っている可能性は高かった。里美から携帯に連絡があったというのが、夕子の不安を
裏付ける。一刻も早く目の前の敵を倒し、上京中の七菜江や桃子と連絡を取りたい気持ちは、
闘いの当初からサイボーグ少女の脳裏にこびりついていた。
 より勝利の確率を高めるには、身を捧げるような闘い方は決して得策ではない。
 だが、確証はなくともところどころで天才少女の思考に引っ掛かった何かが、変態教師の下
卑た笑いの裏で、着々と進んでいる莫大な悪意の存在を囁きかける。とんでもない事態が起こ
ろうとしている、と。目の前の敵に、構っている場合ではない、と。
 ヒドラを倒すためには、万全の策は他にある。しかし、大局を見詰めた場合、無茶をしてでも
一刻も早くこの敵を倒すべき――
 見えない囁きに導かれるように、銀とオレンジの肢体は攻勢に打って出た。
 
 キュイイイイ・・・ンン
 海中で唸るモーター音は、機械化された女神の左足で起こった。
 ドンンンンッッッ!!!
 爆発音を夜の湾岸に響かせ、オレンジの帯を纏った銀の弾丸が、一直線にクラゲの怪物へ
と発射される。
 機械の左足だからこそ可能なロケットダッシュ。その推進力と加速度はファントムガール随一
のアスリート・ナナすらも凌駕する超速を生む。
 海がふたつに割れる。切り裂かれる波飛沫。
 捉えんとするクラゲの本能を遥か振り千切り、数え切れぬ触手の網を突破した銀の弾丸がヒ
ドラの本体へと突き刺さる。
 
 グシャリッッッ!!!
 
 ロケットダッシュの勢いをそのまま撃ち込んだアリスの飛び膝蹴りが、柔らかな電気クラゲの
袋状器官を折り曲がるほどへこませる。
 
「ギシャアアアアアッッッ―――ッッ!!!」

 効いた。思った通り。
 だが空中に浮いたままの装甲天使の肢体を、無数の触手が一斉に絡め取る。
 ダッシュによる渾身の打撃は効果はあった。しかし痛みに震える動物の逆襲を途絶えさせる
ほど、致命傷足りえたわけではなかった。
 触手に潜んだ無数の棘。そしてそこから打ち込まれる猛毒。
 打撃ひとつの引き換えにしては、過酷すぎるヒドラの反撃がアリスに迫る――。
 
「ここまで・・・予想通りだわ」

 冷静な呟きは、美しい白銀のマスクから洩れ出た。
 
 バチバチバチバチッッ!!!
 
 高圧電流が放出される音とともに、火花が巨大クラゲの全身を包む。
 焦げた肉と触れた海水からジュウウと白い煙が仄かに立ち昇る。攻勢に転じていたはずのヒ
ドラの半透明な肉体は、通電した跡を残して黒い焦げを体表に浮かばせている。
 
「電気ウナギや電気ナマズと違って、電気クラゲは本当に電気を発生させるわけじゃない。電
撃への耐性は低いと読んだ私の予想は当たったみたいね」

 ヒドラの媒体である電気クラゲ、カツオノエボシには発電の能力はない。ただその毒に刺され
た人体が、あまりの激痛に電気が走ったと錯覚したのがその名の由来に過ぎぬ。
 触手で捉えた物体に反応し、棘を刺し、毒を打つ一連の流れに対し、胸部に内蔵された発電
回路をアリスが起動させるのは一瞬。勝算を得たうえでの装甲天使の突撃は、目論み通りに
成功した。
 電撃による麻痺で、巨大クラゲの動きは封じられている。
 勝負を決めんとする空中のアリスの右腕に、電磁ソードが黄色の閃光を放つ。
 
「さすがに、動物型ミュータント一匹で仕留められるほど、甘い天使様ではありませんね」

 振り上げようとした右腕が、強烈な拘束によって締め上げられる。
 視線を落とすツインテールの戦士の瞳に映ったのは、海面に下卑た笑いを漂わせたタコの
魔獣。伸びた濃緑の触手が二本、右腕に絡まっているのは確認するまでなかった。
 
「ッッ・・・クトルッッ?!!」

「んふふふ、無防備ですねえ、アリスくん。電撃を放ってしまった、今のあなた。生意気なお嬢さ
んを懲らしめるには、こういう機会に限ります」

 ズボオオオオッッッ!!!
 
 宙に舞い、一瞬の隙を突かれたファントムガール・アリスの股間に、真下からクトル第三の触
手が槍となって突き刺さる。
 
「ぐべえッッッ?!!!・・・ぐええッッッ・・・!!」

「さあヒドラよ、目覚めなさい。あなたを傷つけたこの小娘に、懺悔したくなるほどの仕返しをす
るのです!」

 サイボーグ少女の電流攻撃に痙攣を起こしていた巨大クラゲが、怒りに任せた反撃に打って
出たのは次の瞬間であった。
 アリスの全身に巻きついた無数の触手から、一斉に毒の仕込まれた棘を乙女の柔肉に打ち
込む。
 人間がショック死することも稀ではない猛毒が、囚われの女神の全身から注ぎ込まれる。
 
 ドシュドシュドシュドシュドシュッッ!!!!
 
「うがあああああああああッッッ――――ッッッ!!!! あがアッッ?!! ぎゅうわああああ
ああッッッ―――ッッッ!!!!」

 金切る少女の悲鳴に、夜の東京湾が震えたかのようであった。
 クールな態度とは不釣合いな、やや鼻にかかったアリスの甘い声が、壮絶な苦しみに獣のご
とき絶叫を迸らせる。
 巨大クラゲとタコの魔獣。半透明と濃緑の触手とによって、四肢と胴体とを絡め取られたオレ
ンジ色の天使は、空中で全身を突っ張らせてヒクヒクと痙攣している。暗雲で覆われた天を仰
ぐアリスの視界は、黒一色で塗り潰されほとんど何も見えてはいない。
 
 上腕、手首、太腿、ふくらはぎ、下腹部、背中、臍上、肩口、頸部・・・
 火箸を突きこまれたかのような灼熱とともにアリスを襲った猛毒は、ありとあらゆる箇所から
装甲天使の体内に打ち込まれていた。
 蜂に刺された折のズキンッとくる痛み。その何倍にも相当する激痛が、巨大クラゲより遥かに
小柄なツインテールの戦士の体内、二桁を越える箇所で疼き暴れているのだ。
 青い光を放っていた女神の瞳が、点滅を繰り返す。ドリルで全身を抉られる激痛と焼きゴテ
を押し付けられたような業火に一斉に包まれ、サイボーグ少女の意識は断絶と蘇生の狭間に
あった。
 
「ふぇぐうッッ・・・グウウ・・・あがッ・・・うああァァッ・・・・・・」

「これほどの毒を打たれても死なないとは、さすがに身体の半分が機械でできているだけあり
ます。アーマーが身を守ったというのもありますかね」

 愉悦を隠しきれないクトルの言葉に、アリスはただ呻くしか応えることができない。
 確かにサイボーグであるアリスには、毒の効力は生身の戦士に比べて薄い。だからこそクラ
ゲの猛毒を大量に受けてなお、意識を繋ぎ止められている。
 とはいえ痛覚は人並みに持つために、雪崩となって押し寄せる激痛に意識はほとんど飲み
込まれてしまっていた。さらに毒の影響で麻痺した身体は、思うように動いてはくれない。
 反撃できない装甲天使の窮地を、破壊と淫欲に飢えたタコ魔獣が見逃すはずがなかった。
 
「これまでのお礼、たっぷりさせてもらいましょうかねえ。以前、君に受けた痛み、忘れてなどい
ませんよ。さあヒドラよ、この生意気な少女に地獄というものを見せてやりなさい」

 海中から飛び出した、数十本の触手。降りしきる豪雨が、逆回転の映像で海から空へ昇って
いくかのような。
 腕に、脚に、胴体に。毒の腐敗と高熱に唸されるアリスの肢体に、ビッシリと電気クラゲの触
手が巻きつく。
 幾分太い濃緑の触手が、背後から絡みつくのはほぼ同時であった。東京湾上空に浮かんだ
ツインテールの装甲天使。前方の海に蠢くはクラゲの怪物。背面にはタコの魔獣。圧倒的な邪
の猛威を知らしめる光景が、ネオン照らす夜の海に展開されている。
 
 ギチッ・・・ギギッ・・・ミシギシッ、ギリリッ・・・
 
 混濁する夕子の意識に飛び込んできたのは、両方の腕と脚とを強烈に引っ張られる新たな
苦痛。
 クトルとヒドラ、巨大獣の触手がアリスの肢体を真ん中からふたつに裂けよと言わんばかり
に、容赦なく左右に開く。毒に苛まれ力の入らない聖少女にとって、過酷すぎる責め苦。肩も肘
も脱臼しそうな痛みと、180度見事に開脚した股裂きの苦しみに、クールな少女戦士があられ
もなく頭を振って悶絶する。
 
「ああッッ?! あぐあアアッッ!! くううッ・・・うぐッ・・・はッ、はなせッ・・・放せえェッ・・・」

「おやおや? 能ある鷹は、と昔から言いますがアリスくんも実に罪深い。普段小憎たらしいほ
ど無愛想なくせに、こんなにも可愛らしい声で鳴くんですねえ。ではもっと大きな声で鳴いてもら
いましょうか」

 引き抜かれそうな四肢の関節が、奇妙な音を奏で始める。
 霧澤夕子の端整な美貌を象ったマスクが、無表情のままガクガクと前後左右に振り回る。マ
スクの端から涎と思しき透明な雫が、つっと首筋を伝って糸を引く。
 オレンジと銀の胴体に絡みついた触手、半透明な4本と濃緑2本に猛烈な圧迫が込められた
のはこの時であった。
 
「ごぶッッ!!!」

 くぐもった苦悶が端整なマスクの内側でこもるや、アリスの顎から耳へのラインにかけて、ちょ
うどマスクと素顔の継ぎ目の部分から紅の鮮血が霧となって噴き出る。
 マスクの下、同じ表情をした素顔が、女神自身の吐血で真っ赤に汚れていることは確実であ
った。
 一本の触手に締められるだけでも、その苦しみは相当なものがあるだろう。今のアリスはくび
れた胴を合計6本もの触手に責められているのだ。しかも前からも背後からも引かれること
で、内臓を襲う圧迫は途轍もなく高くなっていた。破損した臓器から溢れた血は、更なる加圧で
たまらず口へと逆流していた。
 それほどの凄惨なる圧搾刑に処して尚、触手たちの暴虐は留まらない。胸のプロテクターご
と銀色の胴体を飽きることなくギリギリと締め付けていく。呼吸すらままならない苦しみに、たま
らず仰け反るクールな天使。マスクの継ぎ目から流れた真紅が、リングの嵌った首に網目状
の模様を描く。
 
「ぐぶうッッ!!! ガフッッ!! ぐあああッッ・・・グウウッッ?!!」

「美しい。美しい響きです! なんと心地よいアリスくんの鳴き声! 肺腑を潰されるのはそれ
ほどに苦しいのですか? 東京湾に季節ハズレの巨大ウグイスが舞い飛んできたようです」

「ぐふッッ・・・こ、このッ・・・毒よりもあんたの下衆ぶりが吐き気するわッ・・・クトルッ・・・」

「弱々しい鳴き声とは対照的な、生意気な態度がまたそそりますねえ。以前から君のひとを見
下した視線を、官能で蕩けさせてみたかったのです。発情ウグイスはどんな声で鳴くのでしょう
か?」

 真一文字に開ききった無防備な股間に、ヌメリ光ったクトルの触手が迫る。
 拘束に使う触手を4本に減らし、残る3本が天使愛撫の担当となる。卑猥極まりない粘液ま
みれの触手が、性に疎い美少女の敏感な箇所を求めてまさぐり這いずる。首筋、腋、太腿の
付け根、お臍、脇腹。腐臭を撒き散らしながらグチュグチュとアリスを翻弄する3本の淫手は、
ウブな少女の弱点を容易く嗅ぎ分けていた。
 
「くふッッ・・・んんッッ、んくッッ!・・・ク、クトル・・・き、貴様・・・」

「ほれ、どうしました? 声に艶がでてきてますよ。17歳の乙女の肢体は実に感度がいいです
ねえ。全身をローション付きで撫でられればひとたまりもないでしょう。所詮、天才少女といえど
雌なのですよ」

「こ、こんなものが・・・私に効くと思ってるの?・・・ひうッ?! んくふッッ!!」

「己の淫乱ぶりがわかっていないようですねえ、アリスくん! 言葉では装っても、素直な身体
は快楽にヒクついていますよ」

 毒とは違う種類の刺激に、アリスの肢体はもぞもぞとくねり始めていた。艶を帯びたその動作
が、装甲天使の全身が女の昂ぶりに染まっている事実を知らせる。大開きにされた股間の中
央から、とろりとした雫が垂れ落ちていく。性に疎いサイボーグ少女の肉体は、クトルの淫戯に
容易く虜にされていた。
 その腰がたまらずひくつき始めた瞬間、股間担当の触手が動く。
 
 ずりゅりゅりゅ、ずりゅ、ずりゅりゅりゅりゅ
 
 生温かな極太触手の、摩擦愛撫。
 くっきりとクレヴァスの窪みを露わにしたアリスの股間を、触手が執拗に擦りあげる。クトルの
ものだけではない粘液が、クチュクチュと淫靡な音色を大開きになった下半身の中央で奏で始
める。
 
「あくッッ?!!・・・ハアッ、ハアッ・・・んッ、んくッッ!!」

「おやおや、我慢しきれませんか? 天才少女は勉強ばかりでこちらの方面はとんと学習不足
のようです。無様なものですねえ。ほーれ。ほおーれ」

「くふッッ?!! んくううッッ――ッッ!! くあッ・・・ハアッ、ハアッ、い、いまのうちに・・・たっ
ぷり愉しんでおくことねッ! 最後に跪くのはあんたなんだから!」

「いやらしい声で喘いでいる淫乱少女の台詞とは、とても思えませんねえ! もっと鳴きなさ
い、発情ウグイスめ。ほら、股間のクリちゃんがコリコリに勃ってきましたよ。ほれほれほれ!
 クリクリクリっと!」

「んきゃううッッ?!! はくううッッ――ッッ!! ひゃ、やめェッッ・・・くあああッ、ああああッッ
――ッッ!!!」

「ほれ鳴け! さあ鳴け、無様なウグイスアリス! ホーホケキョ! ホーホケキョ!」

 性についてはほとんど無知の霧澤夕子を堕とすのは、百戦錬磨の変態教師にとっては赤子
を相手にするような作業であった。
 情念のほとんどを色欲に占められた中年男は、『エデン』の持つ特殊な性質によって、情欲
の魔物とも呼ぶべき存在に変化している。クトルというミュータントはそれ自体がエロスの凝縮
体であり、粘液ひとつにも媚薬の効果が秘められているのだ。
 さらに猛毒によってアリスの生命が危機に瀕していることも、少女の発情を高めた。人間が
持つ生殖本能。子孫を残す本能が、死が迫った状況に陥ることで必然的に発情を呼び起こし
たのだ。戦場で知り合った男女、あるいはともに遭難した男女が、恋に陥りやすいとされるの
は、この生殖本能がゆえ。己の肉体が感じてしまっていることを自覚し、内心動揺するアリスに
は、昂ぶりを抑えるのはあまりに至難の業であった。
 
「やめッッ・・・やめ、ろッ・・・あくううッッ――ッッ!!! んはあああッッ?!!」

「クッキリとよく見えていますよ、アリスくんのヴァギナ。溢れ出た生温かい蜜で、入り口までもう
グチュグチュです! 挿入するには十分のようですねえ!」

 回転する濃緑の触手が、槍と化して装甲天使の股間を貫く。
 
「んんんあああああああああああッッッ――――ッッッ?!!!」

「イヒヒヒヒ! 気持ちいいッ――ッ!! 最高ですねえ、美少女の膣は! あの生意気なアリ
スくんの聖洞が、これほどに柔らかく温かいとは! それそれ、食らいつくしてあげますよ」

「あぐあああッッ!!! くうううッッ――ッッ?!! いひゃああッ、ひゃばああッッ!!」

 ギュリギュリと天使のクレヴァスの内で、残酷な回転音が響く。
 海に飛び散る、愛液の飛沫。かつてない悦楽と吐き気がするほどの恥辱で、美貌のマスクを
つけたツインテールが狂うほどに振り乱れる。
 
「そおら、もう一本!」

 拘束女神の真下から迫る、新たな淫触手。
 ズリュズリュと蠢く挿入済みの濃緑槍のやや後方、小ぶりな臀部の割れ目に突き込まれたタ
コの魔手は、アリスの菊門をこじ開けて細い狭穴を抉り進んだ。
 
「ひぎいィィッッ?!! ぎあああああああッッ・・・ウアアアア・ア゛・ア゛・ア゛ッッ!!!」

 排便用の管を強引に異物が遡っていく苦痛と違和感、不快な圧迫。
 天才と呼ばれる少女の尊厳をズタズタに引き裂くアナル貫通責めに、銀とオレンジの肢体が
哀れなまでに悶え震える。
 少女にとって大切なふたつの聖穴を醜い触手で貪るように犯される苦痛は、極限に達した嫌
悪感と相まって、下腹部を食い破られたごとき衝撃でアリスを叩きのめす。
 子宮にまで達した第一の触手と、直腸を埋め尽くした第二の触手。
 ギュルギュルと更なる回転を続ける悪魔のドリルは、そのまま融合した『エデン』をも破壊し、
腸の内部を逆行し続けていくかのようだった。
 体内をそれだけの暴虐で荒らされながらなお、肉襞に隠された敏感なスポットは官能の刺激
を容赦なくアリスの煩悩に送り込み、肛門からは苦痛の裏に秘められた禁断の刺激が電流と
なって流れてくる。恥辱と苦痛と悦楽の混合麻薬。乙女を襲う残酷な嗜虐に、アリスはただ嬌
声と悲鳴を狂ったようにあげ続ける。
 
「ヒドラよ、首を絞めてやりなさい。アソコの締まりがよくなるようにね」

 無防備なサイボーグ天使の首にクラゲの触手が巻きつく。
 間断なく続いていた胴への締め付けに続き、咽喉元への圧迫が新たに抵抗もろくに出来ぬ
アリスに加えられる。二匹の触手獣に嬲られるツインテールの女神は、甘んじて窒息処刑を受
けるしかなかった。
 
 ゴボッ・・・ゴボゴボゴボ・・・ゴボボ・・・
 
 天を仰ぎ見る端整な美貌。マスクと素顔の継ぎ目から溢れ出てきたものは、今度は吐血では
なく白い泡であった。
 ファントムガール・アリスの顔の周囲からとめどなく白泡がこぼれ出てくる。マスクの内部は口
腔から溢れた泡で充満しているはずであった。咽喉と肺腑とを強烈に締め付けられ、サイボー
グ天使にはほとんど酸素が届けられていない。無表情なマスクの隙間から異常な量でブクブク
と排出される泡が、オレンジ色の女神の惨状を象徴するかのようであった。
 窒息の苦しみに硬直するアリスの肢体を、淫触手がふたつの聖窟内で抉り乱して愉悦に浸
る。
 装甲天使を犯しながら破壊する快感に、淫欲のタコ魔獣はもはや夢見心地であった。
 
「んん?」

 変態教師の成れの果てが異変を察知したのは、この時。
 肉壷の味をたっぷりと舐め取っている最中、ツインテールの獲物から感じられたのは、明ら
かな「力」であった。
 
「ほほう、大したものですねえ・・・毒の効力は続いているはずなんですが」

「ギシャアアアアアアッッッ―――ッッッ!!!」

 己の吐いた血と泡に汚れたマスクのなかで、装甲天使の瞳が強く青く輝いている。
 ギシギシと、奇妙な音色を奏でるのはその右腕。
 だが、今度の音はアリスの肉体が破壊されている悲鳴ではなかった。反撃の咆哮。クラゲと
タコの触手に絡め取られ、一文字に引っ張られていたはずの腕が、力瘤を作るように拘束に
反して折り曲げられている。
 触手の拘束は、サイボーグのパワーによって今まさに振り切られんとしていた。
 触手獣たちの戒めをアリスの右腕のパワーが凌駕しようとしている。電気クラゲの猛毒は今
もアリスの肉体を激痛と灼熱で苛み、麻痺は未だに完全な自由を少女戦士に与えてはいな
い。だが、混濁していた意識は度重なるクトルの嬲りによって火のついた怒りで覚醒が進んだ
のだ。首と胴への圧搾刑も、下腹部への串刺し刑も、アリスへの責め苦は依然休むことなく続
いている。それでも怒りに燃える勝ち気なツインテールの戦士は、不愉快な変態中年に拳を振
るいたい一心で、毒に冒された不自由な肢体を懸命に動かす。
 
「さすがはサイボーグ、凄い力ですねえ。クールと称されていますが、姦通された程度でカッと
なるなんてアリスくんもまだまだ幼いですな」

「ハアッ、ハアッ・・・言うことは、それだけ? ぐッ、ククッ・・・私の身体を愉しむなら・・・今が最
後よ」

「数学や化学は天才的でも、闘いのことはよくわかっていないようですねえ」

 不意にクトルの触手が、一斉に装甲天使の肉体から離れる。
 拘束を解放し、挿入から抜け出して。アリスにとって僥倖としか思えぬ措置に、一瞬少女の脳
裏は、何が起きようとしているのか読み取れなかった。
 
「確かにカツオノエボシ、電気クラゲは本当に電気を発生させるわけではありません。しかし『エ
デン』の力を得てミュータントとなった動物は、光線でも熱線でも放てることを忘れてはいません
か?」

 ゾブゾブゾブゾブゾブッッ!!!
 
 アリスに絡まっていたヒドラの触手が、一斉に新たな棘を銀色の柔肌に打ち込む。
 ビクンッッと仰け反る拘束女神。次の瞬間、ツインテールの戦士に注がれたのは先程のクラ
ゲの猛毒ではなかった。
 『エデン』の力を得た動物型ミュータントはただ巨大化するわけではない。カブトムシのミュー
タント・ラクレスは熱線を発し、クワガタのミュータント・チタヌスは電撃を操った。人間のミュータ
ントが光線を使えるのと同様、動物もまた恐るべき悪魔の技を手に入れるのだ。
 電気クラゲのミュータント・ヒドラが持つ攻撃能力。
 それはやはりと言うべきか、超高圧の電撃であった。
 
「ウギャアアアアアアアアアアッッッ――――ッッッッ!!!!」

 電磁の蛇がサイボーグ天使の全身を食い破り、這いずり回る。
 雷が直撃する轟音。バチバチと銀とオレンジの肢体が火花を散らし、黄金のプロテクターが
夜の闇に発光する。 アリスの体内に装備されたアースの許容を遥かに越えた電撃地獄。機
械でできた肉体が、故障のアラームをかき鳴らし、生身の肉体が黒焦げて悪臭を漂わせる。
 ヒドラの放電は一瞬であった。だが、アリスに致命的ともいえるダメージを与えるには十分で
あった。
 黒く煤汚れたサイボーグ少女の全身からは黒煙が立ち昇り、回路がショートする音と飛び散
る火花が、途絶えることなく続く。瞳からは完全に光が消え去っていた。
 
「どうやら、勝負アリのようですねえ」

 ズルリ、と音をたててクラゲの触手から抜け落ちた黒焦げの天使が、東京湾に巨大な水飛沫
をあげる。
 シュウウウウウ・・・たちこめる白煙。うつ伏せ状態で水面に落下したツインテールの女神は、
お尻をやや突き出した無様な姿勢で、顔面を海中に埋没させている。口の周辺から、ブクブク
とあわ立つ気泡。弱々しい光を垂れ気味の瞳に灯した少女戦士の肢体が、苦痛に咽び泣くよ
うにヒクヒクと痙攣を繰り返す。
 
「本当はコレクションに加えて永遠に愉しみたいところですが、生憎メフェレスくんからは機会が
あれば殺すよう指示されていましてねえ」

 ヒドラの触手が再びしゅるしゅると動かぬアリスに絡みついていく。四肢に、首に、胴体に。
 東京湾の上空に、装甲天使の身体はまたもや触手に拘束されて吊り上げられていた。先程
までと同じ光景。ただ違うのは、全身に火傷を負い、時に火花を飛ばすアリスのダメージがより
深刻なものになっただけだ。
 
「君たちファントムガールのしぶとさはよく存じ上げていますよ。毒の身体で動こうとした、さっき
のようにねえ。アリスくんには確実で絶対な死をプレゼントしましょう」

 ドシュドシュドシュドシュッッ!!!
 猛毒を仕込んだ触手の棘が、無数に乙女の柔肌に打ち込まれる残酷な響き。
 迫る処刑の時を悟ったアリスの肢体がビクンッと硬直する。
 
「知っていますね、アナフィラキシー・ショック。クラゲに刺されて亡くなる方のほとんどがショック
死です。一度毒に刺された人体は、その毒に対する抗体を体内で生成しますが、二度目に刺
された折に抗体が激しく反応することでショックを起こしてしまう。サイボーグとはいえアリスくん
も基本は人間だ。大量の毒を打ち込まれた君に再度同じ毒を大量に注入すれば・・・死は確実
です」

 腕をもぎとられても、ローラーで潰されても、霧澤夕子=ファントムガール・アリスは絶命しな
かった。
 だが人体が避けることのできない生体反応は、いかに頑強な肉体を誇ろうが、不屈の闘志を
持とうが関係なく生命を奪う。生命力の凄まじさについてはミュータントを上回るファントムガー
ル、そのなかでも特に耐久力の高いサイボーグ戦士アリスといえど、この死からは逃れること
ができない。
 己の運命を悟ったのか。
 無表情なマスクと脱力した身体。あとはただ、毒が注入されるだけのファントムガール・アリス
は、なんの抵抗も示すことはなかった。
 
「さようなら、アリスくん」

 クトルの台詞を合図に、巨大クラゲの毒が触手に埋まった無数の棘から一気に発射される。
 アリスの全身に巻きついた半透明な触手から、死を誘う猛毒は銀の女神の体内へと注入さ
れていった。
 
「ふふふ、呆気ないものですねえ。これで約束通り、全てのファントムガールを抹殺した後は、
アリスくんの死体は私のものです! うふふふ・・・アハハハハ!」

 漆黒の東京湾に響き渡る、濃緑魔獣の哄笑。
 重なり聞こえるものは、宙吊りの装甲天使の体内から洩れる、ズキュッズキュッという猛毒を
打ち込む音であった。
 ショック死を誘う電気クラゲの毒が、紛れもなくファントムガール・アリスの肉体に注がれてい
く。全身の数え切れぬ箇所から、表皮を突き破り、血管を通して。孤立無援の首都の地。触手
怪物二匹に挟撃され、猛毒地獄に陥ってしまった美しきサイボーグ天使。天才と称される乙女
の命が、暗黒色の東京湾にて儚く散っていく・・・
 
「ギシャアアアアアアッッ―――ッッ!!!」

 クラゲのミュータントが、鋭い咆哮を迸らせる。
 勝利の雄叫びなのか。次の瞬間、オレンジの女神に巻きついていた無数の触手が、一斉に
締め付けを解放する。受け身も取れぬまま落下するツインテールの少女戦士。生身と機械の
混ざった肉体が海面を叩いた瞬間、破裂のような轟音と巨大な水飛沫が沸き起こる。
 うつ伏せ姿勢のまま海中に沈んでいく、黄金の装甲を纏った銀の女神。
 シュウシュウと、凄まじい勢いで白煙がアリスの全身から立ち昇る。高圧電流を浴びた折とは
比べ物にならない、異常なまでの煙の量。
 
 終わったのか?
 文字通りの毒牙の前に、ファントムガール・アリスは果ててしまったのか?
 
「なにをしているんです?」

 勝利を確信した者にしては不可思議な台詞は、醜いタコ魔獣から発せられた。
 
「誰が解放しろと言いましたか。確実に絶命するまでは油断は禁物です。さあ、早くアリスくんに
トドメを刺してやりなさい」

 クトルの命令に促されるままに、巨大クラゲが無数の触手を、水中に半身を没した天使に飛
ばす。
 だが、サイボーグの肉体から蒸気する、異常な量の白煙に脅えているのか。
 四方から飛来した半透明の触手は、アリスの目前まで来ながら襲いかかろうとはしなかっ
た。明らかに看て取れる、戸惑い。先程まで触手の雨を降り注ぎ続けていたヒドラが、何かを
感じて女神への攻撃を躊躇っている。
 
「なにをモタモタと・・・これだから、下等生物は。ええい、もう結構ッ! 私自らが手を下してやり
ましょう」

 業を煮やしたように、クトル自身の濃緑の触手がピクリとも動かぬ装甲天使へと飛ぶ。
 胴へ、首へ、四肢へ・・・6本もの吸盤付き極太触手が、海面に横たわるアリスの全身を覆い
尽くさんばかりに絡みついた。
 圧搾して磨り潰すか。
 力任せに引き千切って、バラバラにするか。
 少女戦士を抹殺する背徳感に、クトルの脳裏が陶酔したのは一瞬のことであった。
 
「ぎゃひッッ?!!」

 轢かれたカエルのような悲鳴とともに、タコの触手は一斉にアリスの肢体から離れていた。
 
「あッ、熱ち゛ィィッッ〜〜ッッ!! な、なんじゃこりゃあァッッ?!!」

 ジュウゥ・・・蛋白質の焦げる悪臭と仄かな白煙をまとわりつかせた6本の触手が、東京湾の
海上で火傷の痛みに悶え踊る。
 咄嗟の時間で変態教師の脳は理解していた。クラゲのミュータントは装甲天使を己の意志で
解放したのではない。触れられなくなったのだ。熱くて。ファントムガール・アリスの肢体が発す
る、あまりの高熱に。
 
「思ったより、時間がかかったわね」

 やや鼻にかかった甘ったるい声の主を、動揺で定まらぬクトルの視線が捉える。
 そんなわけはない。いや、寧ろそれは必然の光景であったのか。
 陽炎のごとく立ち昇る、白煙。その中央に、猛毒によってショック死したはずの銀とオレンジ
の女神は、破邪の決意を揺らめかせた凛々しき姿で降臨していた。全身を覆う火傷と陵辱の
跡が、つい先程までのアリスの苦悶が現実であったことを教える。だが、苦痛を示すはずの煤
黒い汚れまでが、眩い銀色の肌に凄みとますますの輝きを与えているかのようだ。
 
「もっと早いかと予想してたんだけど。ただ、最悪を計算した範囲内には、きちんと収まってくれ
たみたいね」

「なッ、なんでッッ?!・・・アリスくんッ、君はクラゲの毒で悶死したはずですッ! なぜ生きてい
るのだァッ?!!」

 叫びながらクトルの脳内は、投げかけた疑問の回答にほぼ感付いていた。
 あの異常なまでの発熱。高温。
 灼熱の塊と化したアリスの全身は、体内を巡るクラゲの猛毒も、新たに注入されるトドメの毒
も高熱で滅殺してしまったのだ。
 機械の身体で約50%が構成されたサイボーグ戦士ならではの対処法。だがいつの間に、こ
のような新たな能力をアリスは身につけたのか。来るべき決戦に備えて、クールと称される少
女も更なる改造をその身に施していたのか。
 
「お化けクラゲの動きを見ていれば、背後であんたが操っているのはすぐにわかったわ」

 少女戦士の左手が、己の右腕へと伸びる。完全に機械化されたサイボーグの右腕。電磁ソ
ードの取り付けられた肘部分が、カチャリという音をたてる。
 
「ヒドラを倒す方法はいくつかあっても、素早く決着をつけるにはあんたを引き摺りだすのが一
番。そのために少々リスクを冒しても懐に飛び込んだ。あんたたち触手怪物の攻撃はまず間
違いなく私を拘束にかかるし、ヒドラに限れば毒を打ち込んでくることは確定的。予想される攻
撃に、十分対応は可能だと考えたのよ」

 ジャキン、という甲高い音色を残して、アリスの左手が一気に己の右肘から先を引き抜く。
 綺麗な円形の断面図。砲口と化したサイボーグの肘の内部で、赤を通り越し、オレンジを通
り越し、白色に燃えたぎる炎の球塊が高周波を発して渦巻いている。
 ヒート・キャノン。
 電子を衝突させることで熱を生み出す電子レンジの原理を応用した、アリス必殺の灼熱の砲
弾。
 狂乱の機械人間キリューを一撃にして葬った超絶技が、すでに発射の準備を整え・・・いや、
とうに臨界点に達していたと知れる、過剰なまでの高熱と勢いでアリスの右肘内で暴れ踊って
いる。
 
「ま、まさかッッ!! ずっと以前から・・・身体全体が高熱を発するまでに、右腕の内部でヒー
ト・キャノンを生み続けていたのですかッッ?!!」

「少し時間がかかるのがこの技の欠点ね。全身をオーバーヒートさせるなんて初めてだから、
計算が少し狂ったけど・・・たっぷりと愉しんでくれたお返し、覚悟してもらうわ」

 全ては、天才少女の掌の上だったというのか。
 ミュータントの攻撃を読み切ったうえで、敢えてアリスは窮地に飛び込んでいたのだ。全身を
灼熱と化せばヒドラの毒は無効化できる、触手の戒めは恐れるに足りぬ。ヒート・キャノンの高
熱が全体に回るまでの責め苦と引き換えに、装甲天使は早期決着をその手に掴もうとしてい
たのだ。
 結果からいえば目論み通りの大成功、しかし、その決断のなんと重きことか。
 その策略を選んだ時点から覚悟せねばならない、全身が麻痺するほどの猛毒地獄とその後
の一方的な嗜虐。己が造り出した高熱を我が身に宿す苦痛も、決してサイボーグの一言で緩
和されるほど易しいものではない。肉を切らせて、などというレベルでは達し得ない犠牲精神の
持ち主ならではの戦術。
 幾度も死の危機に瀕し、己を3度死んだ女と自称するアリスならではの闘い。
 
「そのッ・・・ひとを見下した態度が不快なのですよッ、君はッ!!」

 宙を踊っていた濃緑の触手が、一斉にツインテールの女神に殺到する。
 巻きつけぬのならば、刺し貫いてやるとばかりに。
 
「あんたはヒトじゃないでしょ、下衆」

 キュイイイイィィィッ・・・・・・ンンンンン
 
 渦巻く白熱の砲口が、真正面のタコの魔獣に向けられる。黄金のプロテクターに守られたア
リスに、触手槍では致命傷は与えられない。見え透いた結末。無駄な足掻きに、惑わぬ美貌。
端整なマスクが、ネオン照り返す波間に玲瓏と映える。
 
「今ですッッ、ヒドラッッ!!」

 乙女戦士の背後の海中から、噴き上がる巨大な水飛沫。
 全ての触手を広げた怪物クラゲが、暗黒の天を覆う蠢く網と化して、その身ごとオレンジの天
使を圧殺しに掛かる。
 
「わかってんのよ、あんたのやりそうなことは」

 青い瞳は真正面を見据えたまま、銃口を覗かせたアリスの右腕だけが、迫る背後の上空へ
グルンと向けられた。
 ヒート・キャノン、ロックオン―――
 
 ゴオオオオオオオッッッ!!!
 
 真夜中の東京湾が、サイボーグ少女の造り出した小太陽に眩く照らし出される。
 灼熱の砲弾、一閃。
 爆砕音を轟かせ、クラゲのミュータント=ヒドラは霧となって吹き飛んだ。
 ボトボトと海面に落ちていく、半透明の肉片。
 アリスの視界を妨げる血霧と破片の雨が止んだ後、醜い濃緑の魔獣の姿は忽然と東京湾か
ら消え失せていた。
 
「そういうところが下衆だっていうのよ、あんたたちは」

 動物型ミュータントを捨て駒にしての退散は、天才少女にはとうに予想済みであった。
 わかっていながら、どうすることもできなかった。不甲斐ない己への苛立ちが、吐き捨てる台
詞から濃厚に漂う。
 
「手を掛けた私に言われたくないでしょうけど、同情させてもらうわ。利用される悔しさは、私に
も理解できるから」

 研究対象であるサイボーグ少女から、意図せずに怪物にされた巨大クラゲへ。
 手向けの言葉は、静寂を取り戻しつつある暗色の海に、沁み込むように流れていった。
 死闘を制したツインテールの女神は、右腕を元通りに戻すと無自覚のまま我が身をいたわる
ように抱き締めていた。
 
「・・・くッ・・・電気を本当に発生することができるとは、計算違いだったわね」

 覚悟をしていたとはいえ、アリスの身に刻まれたダメージは決して軽いものではない。
 高熱消毒はしたものの猛毒の苦痛に細胞や神経がすり減らされたのは事実だし、電撃や圧
搾による肉体への負荷は積み重なったままだ。膝を付きたくなる想いに、必死で抵抗する理系
少女。早急な勝利のためではあったが、七菜江を彷彿とさせる少々無茶な闘いぶりに、思わ
ず苦笑したくなる。
 そう、休んでいる場合ではない。
 刺客が送られた以上、同じく首都に来ている七菜江にも危機が迫っているのは確実であっ
た。しかも夕子への相手が変態教師のみであったことを思えば、敵の主戦力がアスリート少女
に集中している可能性が高い。
 一刻も早く、向かわねば。
 まずは里美に連絡を取り、状況把握を。しかる後、桃子との連携も考慮して七菜江の元へ。
 
 ぴちゃぴちゃと波が引き寄せる聖戦後の海のなかで、装甲天使が頭脳をフル回転させて次
なる行動を思慮する。
 
 ドゴオオオオオオオオオッッッンンンンッッッ・・・!!!
 
 暗黒の天を裂き、漆黒の稲妻が海面を叩いたのはその時であった。
 
「くッッ!!・・・」

 アリスにはわかっている。その漆黒の稲妻が、ミュータント登場の印であることを。
 まだ隠れていたのか。それとも、つい今しがた、到着したのか。
 確実に言えることは、新たな刺客が今、アリスの目の前に現れたということ。
 
「ファントムガール・アリスッ!! 霧澤夕子ッ、てめえが次なる獲物だァァッッ!! 逃がしゃし
ねえぜェェ、ギャハハハハハ!!」

 太い四肢と頸部。Tレックスを思わせる、茶褐色の重厚な肉体と鋭い牙。
 象牙のような白く尖った両腕の先端と、顔面を縦横無尽に走る深い疵跡が、初めて見るこの
ミュータントの暴威とも呼ぶべき凶暴性をアリスに教えていた。
 
「オレの名はギャンジョー!! ファントムガール二匹目の犠牲者はてめえで決まりだアアッ
ッ!!! ゲハハハハハ!!」

 ギャンジョーと名乗った新たなる敵が、品性の無さを丸出しにした図太い声で笑う。
 刹那と言うべきわずかな時間で、回転の速いアリスの頭脳はいくつかの情報を処理してい
た。
 ひとつ、自分の正体を知っていることから、この疵面の凶獣がメフェレスの手のもの、もしくは
協力者であること。そして、クトルらが仕掛けてきた経緯からしても、その狙いが東京を来訪し
ている夕子や七菜江の抹殺にあること。
 恐らく100%に近い確率で当たっているその見解と、ギャンジョーの吐いた台詞とから、更に
ひとつの結論が導き出される。すでに一人目のファントムガールが、この悪魔に血祭りにあげ
られている、事実。恐らく、まず間違いなく・・・その一人目とは、ファントムガール・ナナ。
 
 遅かった。
 夕子の脳裏に浮かんだ最悪のシナリオは当たってしまっていた。クトルらにアリスの足止め
をさせている間、敵の主力は孤立したナナへと向けられていたのだ。ただでさえ東京と地元と
でふたつに分かれた守護少女たちを、離れ離れになっている間にひとりづつ殲滅しようという
作戦。ざわつく悪寒にリスクを承知で触手怪物たちとの闘いに早期決着をつけたアリスであっ
たが、その身を投げ打った努力は無駄に終わってしまったのだ。
 実際のところ、装甲天使がヒドラとの闘いを始めたころには、ファントムガール・ナナは血塗
れのセーラー服を纏った女子高生の姿で明治神宮の敷地に転がっていた。アリスがどんなに
急いだところで、ナナを窮地から救うことはできなかったのだ。しかし通信手段を奪われたサイ
ボーグ少女に、その事実を知る術などあるはずもない。
 
 メフェレスらがまず初めに自分ではなくナナを襲った理由は・・・アリス自身もよくわかってい
る。
 恐れたのだ、ナナを。
 凄まじい身体能力と、一撃で殲滅可能な超必殺技を持つアスリート天使を警戒した。だから
こそまず第一に全勢力をもって葬った。
 見くびられたものね・・・自嘲的な感情が仄かにクール少女の胸に去来する。だがその何倍
にも相当する巨大な警戒心が、黄金のプロテクターに守られた銀色の肢体に圧し掛かる。
 そう、確かにナナは強い。純粋な戦闘力の高さは目を見張るものがある。ちょっと悔しい気持
ちもあるけれど、アスリート天使の強さがファントムガールのなかでもトップクラスにあるのは認
めざるを得ない。
 ナナとの闘いの後、すかさずアリスの目の前に現れたギャンジョー。
 それはつまり、この疵面獣が青い天使との闘いをほとんど無傷で勝利したことを意味し、尚
且つ2戦目というハンデなどものともせずに、装甲天使を処刑する自信があることを示してい
た。
 
“わかる・・・この男の強さが・・・いや、強さというよりこれは”

 殺意。
 噴き出す闇の臭気。夜の海面が茶褐色の凶獣の周囲でざわめいている。佇む肉厚の身体
から漂ってくるのは、肌が逆剥くような悪意であった。
 
「ナナを・・・あんたが倒したというの?」

 返ってくる答えを覚悟しつつ、クールな女神が静かに訊ねる。
 状況の見えない今、アリスにとって情報を集めるのは重要な作業であった。辛い現実に目を
背ける甘えなど、サイボーグ少女はとうの昔に捨て去っている。
 
「まるで相手にならなかったぜェェ〜〜ッッ!! 小娘一匹オレひとりで十分だが・・・ゲドゥーと
このギャンジョーが手を組んだんだ。一瞬の仕事だったぜッ、グハハハハ!」

 ゲドゥー? もうひとり、コイツと同格の敵がいるのね。
 いまだ拳を交えてはいないが、それでもアリスには疵面獣がかつてない危険な刺客であるこ
とがわかる。桁違いの殺意。暴威を潜ませた頑強な肉体。死の香り漂う両腕の凶槍。瀕死の
憂き目に遭わされた強敵はいくらもいたが、このギャンジョーという敵はステージが違う。生来
の気質ともいうべき魂の在り方が、一般人とは隔絶された次元にあるのだ。敢えて言えば、一
番近いのは「闇豹」マヴェル。あの狂気と破壊欲を、漆黒の蝋で何重にも凝り固めたのが、こ
の疵面獣が放つ負のオーラ。
 
 こんな怪物が、まだ他にもいると言うの?
 修学旅行を機に企てられたであろう、ファントムガール抹殺計画。この策略が、予想通り魔
人メフェレスの手で描かれたとすれば・・・なんという恐ろしい、そして思いきった手段にでてき
たことか。
 こんな本物の悪魔のようなバケモノを二匹も生み出すなんて、メフェレスは世界の終焉を望
むつもりなのか。
 いや・・・夕子にはわかる。屈辱に狂った復讐戦で、心優しき戦士サクラに返り討ちにあった
青銅の魔人。その場面を知るだけに、久慈仁紀の暴走が目指す先を悟る。世界制覇などと、
うそぶいたメフェレスはもういない。世界にも人類にも、元々利己主義に染まったボンボンに興
味はない。目指すものは、守護天使の抹殺。己のプライドを傷つけたファントムガール全員を、
ただ地獄に堕とすことこそがすべて。なりふり構わぬ復讐鬼は、世界ごと破滅させかねぬ凶魔
を創り出しさえして、聖少女殲滅に動き出したのだ。
 
 ナナは・・・第一の標的とされた少女は、まだ生きているのだろうか?
 5人の守護少女に向けられた、鋭い死神の鎌。背後にへばりつく髑髏の笑い声が、冷静を装
うアリスの内面を嵐のように掻き乱す。七菜江。あなた、死んでなんかいないわよね。この身体
の私より、バカみたいに頑丈なあなた。あんたが死んだなんて言われたって、絶対信じたりしな
いんだから――
 
「捕らえたナナを、どうするつもりなの?」

 アリスの質問は、遠回しに青き天使の生死を確認するためのものだった。
 
「はッ、バカかァ〜〜ッ、てめえはァッ?! これから死ぬ小娘相手に、んなこと教える必要ね
えだろうがアッ、ああッ?! 安心しなァ、あの極上ムチムチボディはたっぷり使い込んでやる
ぜ。膣が擦り切れるまでなァ。ギャハハハハ!」

 生え揃った牙を剥き出しにして、下卑た声で凶獣が笑う。
 ナナは、七菜江はまだ、生きているのね。
 極限に達した緊張の最中、かすかな安堵がやわらかにアリスの胸に広がる。
 ファントムガール・ナナが敗れたのが確かならば、その先に待つのは死か、敵の手に堕ちた
か。情報のないアリスは、カマをかけることでギャンジョー自身の口から真実を引き出したの
だ。
 藤木七菜江は生きている。敗れて、敵に捕らわれている。過酷な状況に変わりは無いが、と
もあれ生きてさえいれば救出のチャンスはある。いや、救出してみせる。
 
「ひとつ断っておくがよォ」

 縦横に走るケロイド状の疵跡を引き攣らせ、スカーフェイスは陰惨極まりない表情で破顔し
た。
 
「ファントムガール・アリスよ、てめえを生かしておいてやることはできねえぜ。釣りのエサは一
匹いれば十分だァ・・・刺して、貫いて、女子高生の肉をたっぷり愉しんだら、五体刻んだサイ
ボーグの身体を東京湾にバラ撒いてやるぜェェェ〜〜」

「・・・下衆」

 黄金の鎧に包まれた女神が、拳をあげて戦闘態勢を取る。
 敵の強さを感じつつ闘うのは、もしかしたらバカのすることかもしれない。
 だが、助けるべき友がいて、逃げることは惨めだ。
 殺人に快感を求める邪悪を前に、見過ごすことは弱さだ。
 天才と呼ばれる霧澤夕子が、バカと言われるのは構わない。しかし、正義のヒロインと謳わ
れるファントムガール・アリスが、惨めで弱い存在になるわけにはいかない。
 力が漲るのをアリスは自覚する。ヒドラとの闘いで負った傷とダメージ・・・感じない。イケる。
闘える。疵面の凶獣と真っ向からぶつかり、きっと勝ってみせる。
 
 ドンンンンンッッッ!!!
 
 海底の地面を蹴り一直線に突っかけていったのは、ひと回りは大きなギャンジョーの肉体で
あった。
 
“はッ・・・速いッ!!”

 鈍重そうな見た目からは想像できぬ超速度で、頭から突っ込む凶獣が一気にアリスの懐に
迫る。
 ギャンジョーの頭頂には鋭利な一本角。ナイフの一撃が、虚を突かれた装甲天使の腹部へ
――
 
 ザクンッッ
 
「くああッッ?!!」

 空中に飛び避けようとしたアリスの太腿の肉を、研ぎ澄まされた角はパクリと裂いていた。
 聖少女の鮮血が霧となって舞う。避けそこなった銀色の肢体が、バランスを失って上空を飛
ぶ。凶獣の弾丸タックルに、天高く弾き飛ばされた格好のアリス。無防備な鎧の女神が、地球
に引かれて落下を始める。
 凶刃を待ち構える、ギャンジョーの元へと。
 
「追い詰められたネズミは猫を噛むっていうがよォ」

 必死で身を捩る銀とオレンジの肢体は、無情にも手ぐすね引く疵面獣から逃れることはでき
なかった。
 
「どんなに必死になろうがウサギがライオンに勝つ可能性は、ゼロだァァッッ!!」

 杭を思わせる白く尖った右腕の槍が、頭上に迫る銀色の肢体に突き上げられる。
 乙女の柔肉を抉る重々しい刺突音が、漆黒の東京湾に響き渡った。
 


 
第十一話 7章
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